十.火計 

  
  「穎川(えいせん)ってのは、まだかよ。」 
  「あと、五十里程です。」 
  劉備の問いに簡雍が答える。 
  冀州の危機を救った劉備軍は、幽州の鄒靖達と別れ、まず、広宗(こうそう)に向かった。広宗には劉備の恩師、廬
 植(ろしょく)が一軍を率いて黄巾賊と戦っていからだ。 
  が、懐かしの再会もそこそこに廬植の口から、穎川の地に援軍に向かって欲しいと頼まれ事となる。 
  劉備としては、恩師の前でいい所を見せようと張り切っていたのだが、まるきり当てが外れてしまう。かといって、
 無碍(むげ)に断ることも出来ずとなれば、自然と機嫌も悪くなるのであった。 
  簡雍への口調がぶっきらぼうであったのはそれが原因である。 
  「長兄、簡雍にあたっても仕方ありますまい。」 
  「は?そんなんじゃねえよ。」 
  劉備は関羽にそう嘯(うそぶ)くが直ぐに訂正する。「悪い、簡雍。おいらさ、気が立っちまってたみてぇだ。」 
  「いえ、私で良ければ、どうぞ憂さ晴らしをして下さい。」 
  「ははっ、こりゃ参ったな。」 
  劉備は照れながら頭を掻いた。そんな劉備に関羽は、美徳を感じる。上に立つ人間が部下に対して簡単に間違いを
 認めるものではない。しかも、感情的なことであれば尚更である。 
  「何だよ。雲長、ジロジロと人の顔を見て。」 
  「いや、改めて惚れ直したと言うことです。」 
  「よく分かんねぇけど。そうかい。」 
  「おい、長兄達。楽しい談笑の時間は終わりだぜ。」 
  「あん?」 
  張飛が指さす前方に砂煙が見える。「何だ。一体。」 
  「黄巾賊のようですが・・・」 
  「・・追われている?」 
  確かに黄巾賊と思しき軍隊が官軍に追われているようだ。黄巾賊達は隊列などあったものではなく、算を乱してた
 だ逃げ回っている。一方、官軍は整然とした陣形を保ったまま追い打ちを掛けていた。 
  「ほう、んじゃ、おいら達は・・・」 
  「前から叩きますか?」 
  急くように簡雍は言うが、劉備は官軍の動きを見るに即答を避けた。 
  「・・・いんや、側面を衝こう。」 
  「そうですな。あの官軍、本気で追っているようには見えない。」 
  「どういう事だ、関兄。」 
  「どこかに誘っておるのだろう。」 
  「おいら、兵法ってのはよく分かんねぇけど、ありゃ、狩りの獲物を追い立ててるって感じだからな。・・よし、
 行くぜ。」 
  劉備達は官軍の動きに合わせて、黄巾賊の側面を衝いた。黄巾賊は、思いもよらぬ所から新手が現れたので、混乱
 の度は更に増す事になる。 
  が、劉備軍は官軍に倣って、深入りはしない。 
  そして、そのまま、数十里程、黄巾賊を追い立てた所で官軍から劉備軍に使者が来た。その使者が言うには、黄巾
 賊はここまで追っ払えばよいと言うことであった。 
  その使者が去った後、早速、官軍の進行が止まったので劉備軍も進軍を止める。 
  「しっかし、どこに追っ払ったんだ。あいつらを。」 
  「本隊に合流させたのさ。」 
  劉備の後方、予期せぬ方向から声が聞こえた。「あん?」 
  振り返ると、そこには深紅の鎧に身を包んだ男が馬上にいた。その猛禽(もうきん)のような眼差しに合い、劉備は
 一瞬、言葉を詰まらせた。 
  「あ、あんたは?」 
  「ふっ、予州沛国の曹操孟徳。そういう君は?」 
  「おっ、悪りぃ。おいらは幽州たく郡の劉備玄徳だ。」 
  二人の視線が絡み合う。まるで、お互いに何かを感じ取るように相手を見つめる。 
  後の世に天下を争う二人の最初の出会いは、穎川近郊の何の変哲もない平原であったが、それぞれに言葉に言い難
 い印象を与えた。 
  「あんたが官軍の指揮者かい?」 
  「ああ、そういう君は義勇兵のように見受けるが、何処(いずこ)に参る所か?」 
  「おいらは、北中郎将・廬植将軍の依頼で穎川の官軍陣地に向かう途中さ。」 
  「おお、では、皇甫嵩将軍の元に行かれるのか。実は我らも皇甫嵩将軍の元で黄巾賊と戦っている。」 
  「へー、じゃあ、その陣地まで案内して貰えねぇかい。」 
  話の流れとして、ごく自然に劉備は曹操に頼んだのだが、曹操は申し訳ないと一言で断った。 
  「我らは、これから先程の黄巾賊どもを監視しなければならない。我が陣地はここから南西に三十里といった所だ
 ろう。申し訳ないが貴軍のみで向かってくれ。」 
  曹操は、そう言うと自分の後ろにいた四人の屈強な部下達とともに、劉備達に背を向けて行った。 
  曹操が去ったところで、控えていた関羽が進み出る。 
  「なかなかの人物と見ましたが。」 
  「ああ、おいら達が義勇兵と見ると官職じゃなく、生まれで名前を名乗ってきやがった。高官の職に就いてる並の
 人間には出来ねぇことだ。」 
  関羽も劉備の言葉に頷きながら、曹操孟徳の後ろ姿を見送った。 
  一方、曹操の後ろで控えていた夏侯惇(かこうとん)も劉備と別れたところで、曹操に擦り寄ってきた。が、こちら
 の印象はあまりよくないようだ。 
  「孟徳、何であんな奴らの所にわざわざ出向いていったんだ。俺達に与えられた指令を考えれば、直ぐに黄巾を追
 った方が良いではないか。」 
  「ふっ、黄巾討伐は全て任されている。要は結果が残ればいいだけのこと。そんな事より、我が軍の意図を素早く
 読みとり、的確に行動した軍隊の長を見てみたかったのさ。」 
  澄まして言う曹操に夏侯惇は、 
  「結果ね。いつでもどうにかなるって事か。」と、無理に納得した。 
  「で、どうだった?」 
  「うむ。図り難い人物だな。途方もなく大きな人物であるようにも見えるが、そうではないようにも見える。・・
 ・難しいな。」 
  「ふん。それは大したことないって事だろう。」 
  「いや、相手が何者か分からないときほど怖いものはない。」 
  「そういうものか。俺は後ろに控えていた赤顔と虎髭の方が気になったがね。」 
  曹操は夏侯惇の言にクスリと含み笑いを見せた。 
  「それは単に武を競い合う相手のことだろう。私は覇を競い合う相手のことを言っている。・・・さあ、もう頭を
 切り換えよう。」 
  曹操は先程の黄巾賊の残党を地平線の先ではあるが、視界に捕らえた時点で話を切り上げた。そして、今夜行われ
 る作戦に向けて知略を練り上げるための準備をするのであった。 
  
*   *   *   *   *   *   *   *   *   *   *   *
       皇甫嵩陣営に劉備軍が到着したのは、曹操と別れて半刻程経ってからである。劉備達は出迎えた皇甫嵩に慇懃  (いんぎん)なもてなしを受けた。   これは恐らく廬植より含みを受けての事だと感じたが、劉備は素直に甘んじる事にした。   そして、今夜決行される夜襲の一翼、重要な任につけられるのであった。   『師はおいらをどういう風に紹介したんだ。』と、多少の疑問は拭(ぬぐ)えないが、作戦の一部を任された以上、  全力を尽くすのみである。   劉備軍は所定の位置で待機し、皇甫嵩からの合図を待った。   敵は黄巾賊の渠帥の一人、波才率いる精鋭部隊である。まともに戦うのを避けるため、このような夜襲を考えつい  たのだろう。   しかし、波才は噂に聞く戦上手、果たして単なる夜襲が上手くいくのか。   残念ながら兵法に疎い劉備は、作戦の成否については想像できなかった。ただ、天性の勘では危険だという警鐘を  鳴らしている事は分かった。   時が経つ度にそれは増幅される。   「雲長、益徳。何か上手く行き過ぎじゃねぇか?」   「うむ。私もそれは感じ取っておりますが・・・」   「俺が思うに全ては廬植将軍の計らいじゃねぇのか。」   「初めは、おいらもそう思っていたんだが・・・どうも・・」   劉備が思案に暮れている中、皇甫嵩からの合図の銅鑼が鳴った。辺りから一斉に鬨の声が聞こえてくる。   「・・今は考えてる場合じゃねぇか。よし、おいら達も行くぜ。」   官軍が次々に黄巾賊の中に突入して行く。そして、劉備達も続けとばかりに黄巾本隊の横腹に激突した。   「よし、このまま端まで突っ走るぜ。」   劉備軍は切り裂くように黄巾賊の中で騎馬を進める。劉備の両脇には関羽と張飛が各々の得物を振り回し、次々に  黄巾賊の首を刎ねていく。   まさに向かうところ敵なしといった感じである。   劉備軍は飛び込んだ反対側の端に出ると、切り返して再び黄巾賊の中に飛び込んで行く。   そんな中、劉備の鼻を焦げ臭い匂いがついた。   「何だ?」   振り返ると真っ赤な炎の壁が徐々に近付いて来るのが見えた。その炎は闇夜の空を真っ赤に塗り替えるほどの大き  さである。   「我らが黄巾賊と鍔迫(つばぜ)り合いをしているというのに、何故?」   「どうやら、おいら達は皇甫嵩にはめられたようだぜ。」   ここに至り、劉備は皇甫嵩の意図が読めた。劉備達に黄巾賊を足止めさせてるうちに全てを焼き払おうというのだ  ろう。   昼間、曹操が黄巾賊を本隊に合流させるように仕向けていたのは、ここら辺一帯の黄巾賊を一網打尽にし、一気に  決着をつけるためである。   「な、俺達の他にも自分の部下までいるってのにか。」   「さあな、囮(おとり)は多い方が相手も引っかかりやすいって事だろうよ。」   さて、皇甫嵩の思惑は分かったとして、その思惑通り進めて死ぬほど劉備もお人好しではない。   劉備軍は何とかこの地からの離脱を試みる。が、思ったより火の回りが早い。   「ちっ。」   劉備は思わず、舌打ちをする。脱出を試みようとするのだが、黄巾賊達も混乱しており、なかなか上手くいかない  のである。   そして、そうこうしている内に最悪の事態が訪れるのである。   何と運悪く、波才率いる本軍に遭遇してしまったのだ。   「仲間に見捨てられた迷い鳥よ。味方に焼かれるより、我らに討たれた方が良いであろう。さあ、首を出せ。」   「できれば、どっちも遠慮したいんだが。」   波才の呼び掛けに劉備は惚(とぼ)けた返答を返す。が、事態はそれ程、悠長に構えていられる状態ではない。   「雲長、益徳。この状況だ。あいつを討てば、全てにけりが付く。おいら達三人の内、誰でもいい、あいつの所ま  で先に行った奴が首を取る。そして、大声で討ったと叫ぶんだ。・・行くぜ。」   劉備の号令で本軍に突撃する。負けじと黄巾賊も撃って出た。   渠帥・波才の前には幾十もの人壁が出来る。関羽、張飛の膂力(りょりょく)を持ってもなかなか前に進むことは出  来なかった。   その内、焦りからかいつもの力が発揮できず、劉備軍はじりじりと押され始める。   流石の劉備ももう駄目かと諦めかけた時、不測の事態が起きた。一条の光が線となって、波才に突き刺さったので  ある。   一瞬、何が起きたのか分からなかったが、目の前の光景は間違いようのない現実である。   波才が馬上から崩れ落ちているのだ。   劉備が目を凝らしてよく見てみると、波才の首筋には一本の矢が突き刺さっている。   「あの矢、まさか・・・」   「長兄。勝ち鬨を!」   関羽の言葉でハッとした劉備は、直ぐさま大音声を響かす。   「てめぇらの大将の首は取った。まだ、やろうってのか!」   元々、黄巾賊達も焼け死ぬのは本望ではない。波才という絶対的統率者がいたからこそ、乱れる事なかったが、そ  の指導者がいなくなると一気に陣形は崩れだした。   「よし、今だ。脱出するぞ。」   抵抗する黄巾賊はもういない。無人の野を駆け抜けるように劉備軍は死地を脱した。まさに九死に一生を得たとい  う感じがする。   安全な地まで来ると劉備率いる義勇兵は、全てその場にへたり込んでしまった。   見てみれば無限の体力を誇ると思われた関羽や張飛も同様なのである。今回の戦いの凄まじさが改めて身にしみた。   劉備自身も大地に身を預けて天を仰ぐ。闇夜の中で、光り輝く星を見付け何事か心に誓った。   その時、ふと、人の気配を感じる。   「あんた、人が悪りぃな。この作戦のこと知ってたんだろ。」   その人物は今日の昼間に出会った曹操孟徳であった。劉備はよっこらしょと上半身を起こすと曹操の顔を睨み付け  る。   「作戦は知っていたが、君が参加することは知らなかった。それに何があったのか知らぬが、火計を行う時機が予  定より早かったのも確かだ。」   「ほう、じゃあ、あんたの言葉を信じれば、味方が撤退した後に火を付けるはずだったってか。」   「そうだ。まあ、信じる信じないは君の勝手だが。」   ぶつかった曹操の視線には、迷いのようなものは感じ取れない。無言のまま、対峙していたが、ふと、劉備の方か  ら力を抜く。   「分かった。信じよう。それにおいら達は生きてるしね。亡くなった連中には悪いが、今はそれを喜ぶしかない。」   「そうしてくれ。・・それと一つ君に用事があったのだが。」   「だろうね。」   皇甫嵩に聞いたところ、この曹操という人物、都でも有名な俊英と聞く。そんな人物が一介の義勇兵頭目ごときに  作戦の言い訳をしに来るとは思えない。   「用事というか伝えて置きたいことなんだが。」   「何だい?」   「君は廬植将軍と縁があるようだが、今、廬植将軍の身に不穏な空気が流れている。」   「どういう事だ?」   「いや、私も噂でしか耳にしていないのだが、近々都に更迭(こうてつ)されるそうだ。」   「何だって!」   劉備軍は直ぐざま広宗の地に再び向かった。廬植将軍の失脚について、詳しい事は曹操にも分からないとの事であ  った。   単なる噂かも知れないと言う曹操の言葉も、わざわざ劉備に告げに来るという事実を考えれば慰めにはならない。   劉備の心の中で暗雲が立ち込めるのが分かった。   まだ、師には恩返しもしていない。自分の勇姿も見せていない。劉備は疲れた体に鞭を撃って、馬を走らせるので  あった。




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