六.地の力 
  

  へい州の片田舎、村一番の大木の影に隠れ、昼寝に興じる巨漢がいた。その男の脇には、一丈八尺ほどの鋼矛が置
 かれている。男の名は張飛益徳といい、数ヶ月前、隣の州の田舎町で大立ち回りを演じた男である。 
  張飛がもたれかかっている大木は、村の入り口の道路に面しており、先程から数人の村人が行き来をしていた。 
  秋風と呼ぶには、まだ、早いが涼風が張飛の頬を撫でる。 
  張飛は、今だ夢見心地であったが目を覚ますと目の前に一人の飄然(ひょうぜん)とした老人が立っていた。 
   「何だ、爺さん。」 
   「ほっほっほっ。お主がたく郡の暴れん坊かい?」 
   「へっ、それ以上近付くと暴れ出すかましれねぇぜ。」 
   「ほっほっほっ。」 
  張飛はムクッと上半身だけ起こして、瞼(まぶた)をこする。大木の前の道では、大きな荷台を牛にひかせる小童が
 大声で掛け声を出していた。 
  よく見ると荷車の車輪が轍(わだち)にはっまており、そこから脱出するために牛を叱咤(しった)している声であっ
 た。 
  「張飛よ。お主は今以上に強くなりたいか?」 
  「はぁ。決まってるじゃねぇか。そのために武者修行中だ。」 
  「ほっほっほっ。何なら、儂が強くしてやろうか。」 
  「何だ。爺さん、昼間っから飲んでるのか。いい身分だ。」 
  張飛は、そう言うと鋼矛を持って立ち上がった。背中越しに老人に手を上げて、別れを告げると、目の前でまだ四
 苦八苦している小童に声をかけた。 
  「おい、小僧。メシを食わせてくれるなら助けてやるぞ。」 
  声をかけられた小童は、その利発そうな顔を張飛に向けると、
  「頼むよ。でも、家は貧乏だから一杯だけだぞ。」と答えた。 
  「はっはっはっ。しっかりしてるな。よし、メシ一杯で雇って貰おう。」 
  張飛は、そう言うと荷車の後ろに回り、轍(わだち)にはまっている車輪ごと持ち上げた。 
  「すげぇ。」 
  張飛の力に小童も驚き、感嘆の声を上げた。張飛は自慢げにその状態で五間ほど歩き、尚も小童を驚かせる。
  「見たか。この俺様の力を!」 
  「見た。見た。」 
  小童は驚くのと喜ぶのとで、張飛の周りを飛び跳ねる。小童の素直な反応に張飛も何だか嬉しくなってきた。
  「よし、それじゃ。お前の家まで押してってやる。」 
  「ありがとう。でも、メシは一杯だけだぞ。」
  「分かった。分かった。」 
  小童のちゃっかりぶりに張飛は苦笑いをしながら、頭を軽く撫でてやった。 
  その時、ふと先程の老人のことが気になり振り返るが、そこにはもうその姿はない。 
  「そういや、あの爺さん。何で俺のこと知ってんだ。」 
  「ねぇ、早く行こうよ。」 
  大木をジッと見て動かない張飛に小童は腕を引っ張って催促した。 
  「ま、俺も有名になったってことか。」 
  「何だよ。それ。」 
  「はっはっはっ。こっちのことだ。よし、行くぞ。」
  そう叫ぶと勢いよく荷車を押しだす。前にいた牛は驚いたようであったが、張飛は構わず押し続けた。 
  荷台の上では、その勢いと速さに小童がはしゃいでいた。 
  そのまま、この小童の家まで押し続けたのだから、張飛の膂力(りょりょく)は大したものであったが、喜ぶ小童と
 は対照的に前にいた牛にとっては迷惑な話であっただろう。 
  家に着くと張飛はその外観を見たが、貧乏と言ってた割にはそれほど、見窄(みすぼ)らしくはなく張飛の実家より
 も遙かに大きな造りに驚いた。 
  張飛はこの小童は、農民の子かと思っていたが、実は没落した旧家の出のようで今は、祖父母に養われている身で
 あるそうだ。 
  張飛を家の中へ案内してくれたのはその人の良さそうな老夫婦である。 
  「これは、家の叔至(しゅくし)が世話になりまして。」   
  「はあ。・・・いえ。」 
  慇懃(いんぎん)な礼を受けて張飛は戸惑う。又、あの小童の名前が陳到(ちんとう)、字を叔至というのを初めて知
 って、そう言えばお互い名前すら名乗っていなかったことに恥じ入った。 
  「いえ、世話というほどではなく。俺、いや、私は張飛益徳といい武者修行中の身の上でして・・・、えー、お孫
 殿とは・・・。」 
 「はっはっはっ。そんな肩肘張った挨拶はやめましょう。もうすぐ夕飯の支度も済みます。狭い家ですがくつろぎ下
 さい。」 
  好爺然(こうやぜん)とした祖父に背中を叩かれ張飛は、更に恐縮してしまった。 
  老夫婦はそう告げると家の奥の方へと去って行く。張飛は一人取り残され、何だが手持ちぶさたになった。 
  その時、何やら気合いを込めた声が耳に届く。その声を追っていくと家の中庭に出た。 
  そこには、先程の小童が槍に似せた棒を持ち、気合いと供に突きの訓練をしているようであった。 
  張飛は近くの適当な物に腰を下ろし、その様子を眺める。 
  「脇が甘いぞ。」 
  陳到はチラッと張飛を見ると頷いて、訓練を再開した。張飛の指摘を意識しているようだ。 
  「そうだ。それと槍は突くだけじゃなく、手元に引き戻す速さも大事だぞ。」
  「はい。」 
  今度は張飛の方を見ずに声だけを返す。 
  「ほう。」 
  張飛はこの小童の呑み込みの速さに驚いた。張飛が見ている間だけで、メキメキ上達しているのが分かる。 
  張飛の方もついつい夢中になり、その特訓は夕食の席に着くまで続けられた。 
  その夜の夕食は、たいそう立派なご馳走でメシ一杯の約束がとんだぼた餅となった。 
  「では、張飛殿は諸国を旅しながら武芸を磨いているというわけですか。」 
  「まあ、そんなところです。」 
  夕食が一段落して、陳到の祖父と盃をかさねていると卓を囲む会話は、張飛の身の上話となった。 
  それを陳到が目を輝かせて聞いている。 
  「ねぇ、どれくらい強いの?」 
  「さあな。ただ負けたことは一度もねぇ。」 
  「凄い。」 
  「ほっほっほっ。それはご立派ですな。」 
  陳到にせかされながら、張飛の武勇伝は夜更けまで続いた。流石に夜が明けそうになる頃には、陳到も眠くなり、
 食卓の上で俯(うつぶ)せになって寝てしまった。 
  そこに祖母がやって来て、厚毛織りの布を被せる。 
  「すみません。こんな遅くまで付き合わせてしまって。」 
  「いや、俺も楽しい時間が過ごせました。寝所はどこですか。運びますよ。」
  張飛は祖母に案内されるまま、陳到を運び寝床につかせた。 
  そして、張飛自身も用意された寝所で小鳥の囀(さえず)りを聞きながら眠りにつく。 
  遅い就寝が災いしてか、張飛が起きたのはぼちぼち日が傾き始めた頃であった。 
  「すいませんね。こんな時間まで寝ちまって。俺、そろそろおいとましょうと思うのですが。」 
  「まあ、まだ宜しいじゃありませんか。」 
  陳到の祖母は本当に名残惜しそうに言うが、張飛なりにこれ以上甘えるわけにはいかないと判断し、丁重にこの家
 から去ることを告げる。 
  「陳到はどこにいます?別れの挨拶をしたいのですが。」 
  「中庭にいなければ、裏の馬小屋かも。でも。本当に叔至が寂しがりますわ。」
  張飛は祖母の言葉通り、中庭を探しても陳到がいないので家の裏にあるという馬小屋に向かった。 
  そこには四、五頭の馬が飼われており、中でも一頭大きな馬の前に陳到はいた。 
  「立派な馬だな。」 
  「うん。黒王っていうんだ。」 
  その名前の通り、黒鹿毛に立派な体躯で王と呼ぶには相応しい馬であった。 
  「どうしたの?」 
  陳到は黒王の世話をしていた手を止め、張飛に顔を向けた。 
  「ん、いや。」 
  張飛は陳到の真っ直ぐな視線を受けて、どう切り出そうと困惑した。そんな張飛を知ってか知らずか、陳到は視線
 を戻し黒王の世話を再開した。 
  「ねぇ、いつから強くなったの?」 
  「さぁ、気付いた時には村で一番だったな。」 
  「ふーん。」 
  それから、暫く張飛は陳到の後ろ姿をジッと眺めていたが何気なく、
  「お前はどうして強くなりたいんだ?」と、聞いた。 
  が、陳到からの返事はない。 
  「どうした。」 
  「敵討ち。」 
  張飛がもう一度声をかけると、陳到は前を強く見てそう言った。 
  言われてみれば思い当たる節がある。昨日の槍の練習で一突き一突きには鬼気迫る物があった。又、あの上達ぶり
 も強い目的のなせる業であろう。 
  「どれ、良かったら詳しく話してみねぇか。」 
  張飛はどっかと地べたに腰を下ろし陳到を見据えた。陳到は唇を軽くかんだ後、意を決して張飛の前に立つ。 
  「僕の兄ちゃんは村一番の槍の使い手だった・・・・」 
  「兄の仇討ちか。」 
  「ここから見えるだろ。あの山。」 
  陳到の指さす方向に確かに山が見える。それ程険しくなく標高もなさそうな山だが、何か怪しげな雰囲気を呈して
 いる。 
  「あそこに今から三年前盗賊達が住むようになった。その盗賊達は、村にやって来て、毎月、自分たちに金品を収
 めたらこの村を襲わないと言って来た。その金額が無理な額じゃなかったんで、村長をはじめ村人全員で話し合い、
 盗賊に毎月約束の金額を納めることで意見は一致した。ただ、兄ちゃんを除いて・・・」 
  「・・・・そう言うのは一度払うとつけあがるんだぜ。」 
  「うん、そう。盗賊達は僕らが従順なことを良いことに、段々納める金額を上げていったんだ。」 
  「で、お前の兄貴がか。」 
  「僕は止めたんだ。一人じゃ無茶だって。そして、他の村の連中にお願いもした。お兄ちゃん一人に行かせないで
 って。でも、駄目だった。」
  「そうか。」 
  「結局、お兄ちゃんは二度と帰ってくることはなかった・・・・」 
  陳到の頬には涙で二条の筋ができている。張飛は、それを拭ってやると微笑んだ。 
  「・・・お前には一宿一飯の借りがある。俺がその盗賊とやら討ってきてやる。」 
  「これは僕の問題だ。それに一人じゃ、絶対無理だよ。」
  「へっ、俺は誰にも負けねぇよ。それによ、お前には武の輝く才能がある。それを私怨で曇らせるのは勿体ねぇ。」
  張飛は、そう言うと立ち上がり、腰についた埃を払った。 
  「そうだ。あの山までちーとばかし距離がある。馬を一頭借りるぜ。」 
  「どうしても行くの?」 
  「ああ。でもな、これは俺自身のためでもあるんだぜ。強い奴と戦うってのは、いい修行になる。」 
  「分かった。でも一つだけ聞いて欲しいんだ。その盗賊の頭領には気を付けて。方天画戟っていう槍と戟がくっつ
 いた武器を操るんだけど、兄ちゃんはそいつに一合も合わすことなく殺されたんだ。」 
  「ふーん。じゃあ、そいつを倒せば事は済むってことだな。」 
  張飛は馬小屋の前に行って、良さそうな馬を探している。あまりにも張飛が事も無げに言うので、陳到は飛び跳ね
 るように文句をつける。 
  「そんな。凄い使い手なんだよ。あの青龍団の関羽にも負けないって本人は言ってるんだ。」 
  「関羽となら、俺だって闘ったことあるぜ。」 
  「うそ。」 
  「本当だ。悪いけど黒王を借りるぜ。」
  「うん。で、結果は?」 
  「あん?負けなかったよ。」 
  『但し、勝てもしなかったがな。』
  張飛は心の中でそう呟き、黒王に飛び乗った。そして、盗賊の住む根城へと向かった。 
  黒王はその体躯通り、素晴らしい脚力で瞬く間に大地を駆けて行き、盗賊達の根城に着くのに半時とかからなかっ
 た。 
  盗賊達は渓谷(けいこく)を背景とした古城を住処としているようである。 
  張飛はその古城の前に立つと大声で盗賊達に罵詈雑言(ばりぞうごん)を浴びせた。 
  程なく、中から二、三人の男どもが現れて、問答なく斬りかかってくるが軽くあしらうように退けると頭領らしき
 風貌の男が馬に乗って現れた。 
  「てめぇが頭か?」 
  「そうだ。」 
  そう返事をした男は、身の丈九尺の大男で張飛と比較してもその体格に遜色はない。手には陳到が言っていた槍と
 戟を併せたような武器、方天画戟を持っている。 
  「下の村の連中に頼まれたか、それとも、ただ名を上げたい馬鹿か。ふん、さっさとかかってこいよ。」 
  この盗賊の頭は、余裕を見せ張飛を指で誘う。この挑発に張飛は烈火のごとく怒り、自慢の一丈八尺の鋼矛を奮わ
 せ、間合いを詰める。 
  同時にこの盗賊の頭も張飛の動きに合わせるように間合いを詰めてきた。 
  激しい気と気のぶつかり合いは、閃光を帯びたような錯覚を周りの人間に与えた。いや、周りの人間だけではなく、
 張飛自身もそんな感覚に襲われる。 
  矛と戟を重ね合ったと思った瞬間、空白の世界が張飛を包んだのだ。 
  初め張飛は自分の目の前に空が広がっているのに驚き、暫くして、自分が地面に倒れているのに気付いた。そして、
 体が痺れたように動かないことで、自分の負けを悟った。 
  『世の中、広ぇな。この俺が二合と合わすことができねぇとは・・・』 
  張飛は薄れゆく意識の中で、負けた悔しさよりもこの中華大陸の広大さ、世に人物が多いことに嬉しくなった。 
  『へっ、終わってみれば俺の人生も悪かねぇか。』 
  『ほっほっほっ。もう諦めたのかえ。張飛よ。』 
  『何?』 
  張飛が何とか目を凝らすとそこには先日、村の大木の前で出会った老人が目映(まばゆ)いばかりの光を背に立って
 いた。 
  『張飛よ。お主は後の世で最強の二文字を得る器じゃ。』 
  『何、言ってやがる。俺は、もうすぐ死ぬんだぜ。』 
  『ほっほっほっ。まだ死なんよ。天命がお主を待っておる。』 
  『天命。』   
  張飛の胸にその二文字が響いた。武者修行と称してはいるが、その実はただの荒くれ者としていることは変わらな
 い時期があった。確かに数ヶ月前、劉備という人物に出会って、自分の力の使い道というものを考え、少しは変わっ
 たのだが・・・ 
  『お主の心には、ある人物が住んでおる。もう分かっておるはずじゃ。その名は劉備玄徳。天に愛され、生まれな
 がら人の力を持つ男じゃ。』 
  『劉備玄徳。天に愛されてる?人の力?』
  『そうじゃ、そして、お主の中には地の力が眠っておる。』 
  『俺が地の力?』 
  『そうじゃ。その鋼矛の刃先を大地に立てよ。』 
  『こうか。』 
  張飛はいつの間にか、大地にしっかりと二の足で立っていた。そして、この老人の言うように一丈八尺の鋼矛を大
 地に深々と突き刺した。 
  すると大地が震え、鋼矛を突き刺した箇所から遙か前方まで亀裂が走った。 
  そして、張飛に漲るような力が加わる。 
  『こ、これは。』 
  『お主は、今、大地を司る大蛇(おろち)の化身、女か(にょか)の力を得た。』 
  『”女か”あの気性の激しい、暴れ出したら手のつけられねぇ天女のことかい。』 
  『ほっほっほっ。そうじゃの。ちぃとばかし耳が痛いか、張飛よ。ほっほっほ、まあ、よい。張飛、それでは大地
 に突き刺してある鋼矛を抜いてみよ。』 
  『ふん。』 
  深々と突き刺さる鋼矛を大地から引き抜いて見てみると、張飛自慢の鋼矛の刃先が蛇のように左右に曲がり、刃の
 根元には女かをあしらった装飾が付けられていた。 
  『張飛よ。お主は、これから現(うつつ)の世界に戻る。そして、生涯の主君、劉備玄徳の元で最強の武を手に入れ
 よ。それが、太平の世を築く道にもなる。』 
  『最強か。悪くない響きだな。』 
  『張飛よ。一言断っておくが、その丈八蛇矛(じょうはちだぼう)を持ってしても今のお前では、目の前の男を打ち
 倒すのは難しいぞ。心してかかるのじゃぞ。』 
  『ああ、ありがとな。爺さん。そうだ。爺さんの名は何て言うんだい?』
  老人の体の色彩は徐々に薄くなってきており、張飛がそう問いかけた時には僅かに気配を感じる程度になっていた。 
  『李意其(りいき)。』 
  その言葉を最後に老人の姿は完全に消えた。そして、張飛が現世(うつつよ)の世界に戻る。 
  丁度そこは、盗賊の頭の戟と張飛の蛇矛が重なり合った場面で、相手の目が真正面に見える。流石の張飛もこの状
 況に戸惑うが、相手はそんな間も与えてくれないようだ。 
  「やるじゃねぇか。俺の方天画戟を受け止めるとは。名は?」
  「燕人、張飛益徳。」 
  両者は互いの武器を引き、一定の距離を持って離れた。呼吸を整え、次の一撃の機会を狙っている。 
  「俺の名は、呂布奉先。」 
  張飛は黒王の手綱を扱き、呂布と名乗る盗賊の頭も悍馬を操り、両者の間は一気に詰まる。両者の武器が互いに致
 命打を与えようと唸りを上げるが、どれも決定打にはならない。 
  互いに打ち合った回数はゆうに五十合を越えるが、決着のめどは着きそうもなかった。唸る武器にほとばしる汗。
  まさに力量等しい両雄の戦いは、古(いにしえ)の英雄同士の決闘を思わせる感があった。 
  ところが両者の撃ち合い、百合を数えた辺りから異変が起きた。張飛の斬撃に呂布が後退し始めたのだ。 
  これは、別に呂布が張飛に打ち負けているというわけではなく、呂布の乗っている馬に疲れが見えたのが原因であ
 った。一方、張飛が跨る黒王は疲れなど微塵も見せようとしない。 
  呂布は、たまらず舌打ちをするが、力の拮抗が破れた今、呂布の武力を持ってしても流れを変えることはできなか
 った。 
  じりじりと後退し、渓谷の脇まで追いやられたとき、呂布はたまらず、乗っていた馬を捨て、馬上から飛び降りる。 
  その時、後ろの谷を気にするあまり、呂布に僅かな隙が生まれた。そこを張飛が見逃すわけもなく、唸る蛇矛が呂
 布の脇腹を捉えた。 
  呂布の体が空中でくの字に曲がる。
  「うっ。」 
  呻き声とともに、呂布の姿が消えた。呂布はそのまま、千尋の渓谷へと落ちていったのだ。落ちる瞬間、張飛は呂
 布と目があったが、その目には激しい憎悪と自分は負けていないと言う強い意志が感じられ、ゾッとした。 
  張飛の乗る馬が黒王ではなく、あのまま闘い続けていれば、結果は逆になっていた可能性が高いことを痛感したか
 らだ。 
  が、結果は自分が勝ったのだ。張飛は、一息吐くと振り返り、目の前の光景を信じられないといった山賊どもを睨
 み付けた。 
  「やい、次に死にてぇ奴は前に出ろ。」 
  張飛の一喝で、先程まで焦点が会ってないような目をしていた山賊どもが、張飛を注目する。それは、あたかも夢
 から覚めたような感覚であったのだろう。 
  しかし、突き付けられた現実はさらなる悪夢であった。 
  自分達が神とも崇めるような強さを持った、頭の呂布が得体の知れないこの男に倒されたからだ。 
  山賊どもの心は、復讐よりも恐怖、恐慌で支配され、意味不明の言葉を叫びながら散り散りになって逃げ出した。 
  あっという間に、山賊の根城はもぬけの殻となり、それを見届けた張飛は山賊の居城に火を放ち、その後、姿を消
 す。 
  後日、村の入り口の大木につながれている黒王を陳到は見付けたが、そこには張飛の姿はなかった。 
  ただ、一通の手紙があり、それには武に励めという言葉が残されているのみであった。 
  村の少年、陳到は手紙を握りしめて駆けだした。そして、村から出ると誰もいない地平線に向かって、「ありがと
 う。」と、大きく叫んだ。 
  果たして、その声が張飛の届いたかは定かではないが、間違いなく思いは届いただろう。陳到は大木まで戻ると黒
 王の顔を抱きしめ、張飛のように純粋に強さを求め、又、自分自身強くなろうと誓った。 




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