五.天の力 
  

  「・・み・・ずを・・。」  
  関羽の率いる青龍団の根城に一人の男が頼りなげな足取りで現れた。その男の衣服は、僅かに身に付いているだけ
 で、殆ど原形を残していない。 
  関羽の子分達は、この男の願いである水を与えようとするが、男の目の前まで運ばれた時に事切れてしまった。 
  関羽の耳には、その後、報告事項として知らされた。 
  関羽は死者の霊を弔うために、埋葬するように命じると他にこの男の身元を確認させた。近頃は、大きな戦乱もな
 い。この男のようにボロボロになって広野を徘徊するという事に不審を覚えたからだ。 
  ただの取り越し苦労であればよい。当然、関羽とてこの世の全てを見通す目を持っているわけではないのだから。
  が、調査を行うと意外な事実が知らされる。 
  この男の身元は、冀州は鉅鹿(きょろく)郡の山中で私塾を開いている張角(ちょうかく)という者の門弟であった。
 この張角という男は名目上、私塾を開いていることになっているが、その実は得体の知れない呪術を門弟達に教えて
 いるのであった。 
  その事を知った関羽は一抹の不安を覚える。その呪術者の門弟とやらがどうして、こんな所を彷徨(うろ)いている
 のかということである。 
  関羽は早速、鉅鹿郡に向かい事の次第を確かめることにした。 
  張角の私塾の位置は、山奥の更に奥といった感じで途中からは馬を下り、道無き道を二、三人の従者とともに歩く。
  膂力(りょりょく)には自信のある関羽も張角の草庵の前にたどり着いたときは、流石にへばっていた。関羽でさえ、
 そうなのだ。振り返ると供の者は全員、その場にへたり込んでいる。 
  関羽は苦笑いをすると供の者をその場に残して、張角の門を叩く。 
  が、中からの返事はなかった。 
  もう一度、今度は大声で呼びかけるが、それでも返事はなかった。仕方なく、関羽は許しなく草庵の中に入ること
 にした。 
  草庵の中は、外見から予想するより遙かに広い。まるで虚構の空間が広がっているようだ。 
  関羽は薄暗い部屋の中を見回すが人の気配は感じられない。部屋の奥まで歩いてみるが、やはり、誰一人いなかっ
 た。 
  ここにたどり着くまでの苦労を考えると虚脱感を感じなくもないが、何時までもここにいるわけにも行かない。 
  関羽は肩を落として出口へと向かおうと来た道を戻る。 
  しかし、ここで不思議なことが起きた。いつまで歩いても出口の光が見えないのだ。 
  それ程、複雑な部屋の構造ではない。迷うということは無いはずだ。落ち着き払って、記憶の中で通った部屋をた
 どる。『間違いない。』
  自分の記憶と今、戻って来た道筋が一致した。では、どうして、出口は現れないのか。 
  関羽の疑問は、膨らんでいく。その時、張角が呪術者であったことを思い出した。 
  「妖術のたぐいか!出てこい、張角!」 
  関羽の声が響く。その声は、妙な反響で部屋中にこだました。 
  「ほっほっほっほっ。」 
  関羽の後ろで一条の光が射すのと同時に笑い声が聞こえた。すかさず、振り返るとそこに白髪の老人が立っている。 
  「ご老人、あなたが張角殿ですか?」 
  年長者に敬意を払って、関羽は丁寧な言葉を使ったが、その口調は荒いものであった。 
  「ほっほっほっ。そうだと答えれば、この老人の首を手に持つ青龍偃月刀で、即刻刎ねるおつもりか。」 
  「いえ、あなたの道理が理にかなえば、そうのようなことは致しません。」 
  老人の問いに関羽は頭(かぶり)を振った。が、老人は相も変わらず、ただ、笑っている。 
  「理とは、己の理か?」 
  突然、老人は笑うのをやめ、関羽に質問した。 
  関羽は迷うことなく答える。 
  「天下万民の理。」 
  その即答に、老人はまた笑い出す。 
  「ご老人、私の質問には答えていただけないのですか?」      
  「ほっほっほっ、私だけ問いかけるのは、虫が良すぎるか。まあ、良い。儂は張角ではないよ。」 
  「では、どうしてこちらに?あなたは何者ですか?」 
  「これ、これ。そんなに一度に欲張るでない。それにその質問には儂の問いに答えてからじゃ。」 
  老人はそう言い、逸(はや)る関羽を押さえた。 
  「お主は、今、天下万民の理と言うたが、それは如何なるものか。」 
  「ただ今、天下は大いに乱れ、佞臣が宮中に蔓延(はびこ)り、奸賊が村落を襲う。このような世で皆が望むのは、
 平和の二文字。」 
   「それには、新しき王が必要じゃぞ。お主が漢朝に取って代わるか?」 
  「いえ、国に忠義を忘れては己の義を全(まっと)うすることは出来ません。」 
  「では、どうするのじゃ。」 
  関羽は、老人からの禅問答に答えを窮した。 
  「ほっほっほっ。頭が固いのう。世の中を広く見渡すことも大事じゃが、時として、身の回りを注意深く見てみる
 ものじゃ。」 
  「身の回りですか?」 
  「そうじゃ。」 
  『身の回り。平和。漢朝。万民。人。』
  様々な要素、言葉、環境が関羽の脳裏を駆けめぐる。 
  そして、一人の人物に行き着いた。それは、たく郡楼桑村の劉備玄徳だ。彼は遠く漢朝の血を引く人物。彼の元で
 万民のための力を尽くせば・・・ 
  「ようやく、答えを見付けたようじゃの。」 
  「はい。私の思い当たる人物であれば、漢朝に背くことにはならぬと思います。」 
  「ほっほっほっほっ。そうじゃ。その人物は底がなく途方もなく大きな器に人を取り入れ、また多くの人間を引き
  寄せる力を生まれながらにして持っておる。神から与えられる天地人の内、人の力を有しているのじゃ。」 
  「おおお。」 
  老人の言葉は、数ヶ月前、運命的な出会いを果たした後、ずっと関羽の胸中で体現できずにいた言葉であった。 
  まさしく、あの劉備という男には神懸かり的な力を感じる。
  「ほっほっほっ。何も驚くことはないぞ。関羽、お主にもその力が授かっておる。天の力がな。」 
  「天とは?」 
  「関羽よ、手に持つ青龍偃月刀を天に掲げい。」 
  老人の声は小さなものだったが、逆らえない威圧感を関羽は感じる。関羽は、半信半疑ながら老人の言葉に従った。 
  「こうですか。」 
  そう言い、関羽が高々と青龍偃月刀を掲げ上げた時、落雷のようなものが関羽の頭上を襲った。 
  「うおおおお。こ、これは。」 
  無数の青い閃光が走ったかと思うとそれが青龍偃月刀に集まった。そして、その光、全てが青龍偃月刀の中に入り
 込む。 
  関羽が手にする青龍偃月刀は、青白い光を帯び、装飾の青竜の目にも光がともる。 
  「お主の青龍偃月刀にまさしく青竜の力を吹き込んだ。以前より、重量が十二斤ほど増しておる。」 
  「なるほど。」 
  確かに青龍偃月刀から腕に伝わる重さは、以前よりも重くなっている。しかし、不思議と以前よりも軽い力で振り
 回すことが出来る。そんな錯覚を覚えた。 
  「ほっほっほっ。青竜、竜族の中で最も強く、最も誇り高きもの。まさにお主のことよ。竜は昇竜、即ち、お主は
 天の力を得た。そして、生涯の主君、劉備玄徳と共に天下万民の理を手に入れよ。」 
  「はっ。」 
  関羽は片膝を突き、この老人に対して礼をする。その姿に老人は優しい笑顔を見せる。が、一瞬にして険しい表情
 に変わった。 
  「関羽よ。儂はお主から礼を受けるような人物ではないのじゃよ。」 
  「何をおっしゃいます。ご老人は、この関羽に進むべき道を標されたでありませんか。」 
  老人の表情は、今度は哀しみを帯びたものに変わる。そして、少し逡巡した後、再び口を開いた。 
  「それは、お主の天命ゆえじゃ。儂の名は南華老仙、お主が探しておった張角の師じゃ。」 
  驚いて関羽は、南華老仙に顔を向けた。そこには、悔悟(かいご)の情にふける一人の老人の姿があった。    
  「真っ直ぐな目をしておる。張角も以前は、そうであったが・・・。彼奴(あやつ)に太平要術を教えたのは間違い
 であった。」 
  南華老仙の目は関羽を映していたが、関羽を通して遠い昔を見ているようでもあった。 
  「張角もお主と同じ、万民を思って太平道を極めた。が、彼奴は、その力の方向を見誤った。太平道は王佐に使い、
 自らのためには使ってはならぬ。」 
  「先程の問いと・・・・」 
  「そうじゃ。お主は国への忠義を第一とし、自ら王となることを拒んだ。それが彼奴には分からなかったのじゃ。
 関羽よ、この老人の頼みを聞いてはくれまいか。張角の野望を止めてくれい。」 
  「野望?」 
  「うむ。今、彼奴は農民達の上に立ち、黄巾党というあらぬ道へと導こうとしておる。虐げられてきた農民じゃ。
 爆発すれば、その力は絶大なものじゃろう。しかし、それにより、又、罪のない人々が・・・・」 
  南華老仙の目にはうっすらと涙が浮かんでいる。関羽は立ち上がり、南華老仙の手を握りしめた。 
  「私は、ご老人から受けた恩に報いることができるなら、国へ忠なすことができるなら、自分自身の義のため、そ
 の張角の野望を阻止しましょう。」 
  関羽の双眸(そうぼう)からも止めどなく涙がこぼれる。関羽は握りしめた手を額に当て、深々とお辞儀をした。 
  「すまぬ。すまぬな。」 
  感謝にくれる南華老仙の姿が段々、透き通るように薄い色彩となっていく。   
  「ご老人?」 
  「これで未練は何もないわ。関羽、張角の件、くれぐれも・・・・」 
  南華老仙の姿が消え、最後の言葉まではっきりとは聞こえなかったが、関羽の胸の中にははっきりとした信念とし
 て残った。 
  関羽は南華老仙がいた空間に向かい一礼するとその場を立ち去った。草庵の中は静寂となる。その中、どこからと
 もなく声が聞こえた。 
  『ああ、神になり損ねた男と神となる男。ただ一つの違いは義侠心なり。』 
  そして、再び静寂の世界が訪れた。  


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