三.鬼部尉 
  

  「日没だ。門を閉めよ。」 
  洛陽の北門に凛(りん)とした声が響く。部下の応という声と共に北門は古びた音を立てながら閉められた。 
  完全に門が閉まると副官が、「完了しました。」と、畏怖と尊敬の眼差しを上官に向けた。 
  その先には洛陽北部尉、曹操孟徳(そうそうもうとく)がいる。 
  驚くほど、冷ややかな目をし、猛禽(もうきん)のような気高さと猛々しさを併せ持つ都でも名高い俊英だ。 
  曹家と言えば宦官の家系で、曹操の祖父は四帝に仕えた大宦官、曹騰(そうとう)である。その曹騰が養子を取り、
 そして生まれたのがこの曹操孟徳という男だった。 
  北部尉と言えば北門の警備隊長程度の職務で、家柄から考えればもっと高い役職に就けないことはなかったが、曹
 操自身が敢えて選んだのだ。 
  幼なじみの袁紹本初(えんしょうほんしょ)などは曹操の物好きに呆れたものだった。 
  しかし、そんな袁紹に曹操はこう言った。 
  「本初、君は早くも県令かい。流石に名門の御曹司らしいな。だがこの乱世に都を離れるのは得策ではない。ま、
 考え方は人それぞれさ。」 
  そして、袁紹は赴任先で苛烈極まる曹操の精勤ぶりを耳にするのであった。 
  曹操が北部尉として任務に就くとまず、北門の夜間の通行を一切禁止。又、城中の乗馬、帯刀も認めなかった。こ
 れが徹底され、この禁を破る者があれば身分を問わず如何なる人間にも躊躇(ちゅうちょ)なく懲罰が与えられた。 
  そして、何時(いつ)しか北門付近を通る人間も疎(まば)らになり、日没後は水を打ったような静けさとなった。し
 かし、その分、治安は数倍良くなったのである。 
  「副官、それでは私は官舎に戻る。何かあったら連絡するように。」 
  「はっ。」 
  曹操は日没後、付近を巡回した後、副官にそう告げると近くの官舎の中に入って行った。 
 北門の禁令が徹底される分、曹操の手を煩(わずら)わせることもなくなり、最近は日没後一通り巡回すると官舎に
 籠(こ)もり、書を認(したた)める日々が続いた。 
  曹操が官舎の中に入ると張り詰めてあった緊張感が解ける。が、彼らは職務を怠慢(たいまん)することはなかった。 
  何時、鬼部尉が現れるとも限らないからだ。 
  「門を開けい!」 
  静寂の中、突然、大声が響いたので北門の官吏は驚いた。いや、正確には今だにこんな人物がいたのかということ
 に驚いたのかもしれない。 
  「門を開けんか!」 
  官吏の一人が楼閣に登り、様子を探ると天子が乗る車の蓋(かさ)が見えた。そのことを副官に告げると慌てて門を
 開かせる。 
  門を開けるとそこに現れたのは宮中に仕える大官の蹇朔(けんさく)であった。 
  蹇朔は門が開かれると満悦顔でよしと呟くとそのまま洛陽内に入ろうとする。これを見て副官は蹇朔の乗る車の前
 に立ちはだかった。 
  「蹇朔殿、お待ち下さい。北門の夜間の通行は禁止されております。」 
  「何、貴様、儂を誰だと思っている。」 
  「いや、如何なる人物でも処罰を受けます。どうぞお戻り下さい。」 
  「儂はこれから天子様にお会いするのだぞ。それを邪魔だてするのか。」 
  流石の曹操の部下達も天子の名を出されると多少、戸惑ってしまう。しかし、このまま通すわけにもいかず、結局、
 車の前から退くことは出来ないのだった。 
  その間に蹇朔の逆上は止(とど)まること知らず、供の者に北門禁令の立て札を叩き壊させた。 
  「最近、曹操とかいう男が北部尉として息巻いておるようだが、増長するでないぞ。よい、この者達なぞ轢(ひ)い
 てしまえ。」 
  命令された御者は一瞬迷ったが、蹇朔に睨まれると直ぐさま手綱を扱(しご)いた。 
  その時である。 
  「待てぇい。」 
  大音声が響いた。 
  やって来たのは、北部尉曹操であった。 
  「増長しているのは貴様の方だ。」 
  「何だと。」 
  「この北門を通るために、天子の名を騙(かた)るなど不届き千万。誰がこのような時間に天子様に謁見するという
 言葉を信用するか。」 
  そして、曹操は怒り顕(あらわ)わに副官を呼んだ。 
  「早くこの者を捕捉せよ。」 
  「しかし・・。」 
  この男にしては珍しく曹操の命令に渋っている。それもその筈で、蹇朔(けんさく)自身も確かに高官だがその甥の
 蹇碩(けんせき)は、何と今を時めく十常侍の一人であったからだ。 
  「副官!」 
  しかし、曹操が強くもう一度言うと意を決する。      
  「無礼者!」 
  一方、蹇朔も黙って捕捉されるつもりもなく、供の者に命じ曹操を襲わせた。が、供の者全て、曹操に一蹴される。 
  曹操は博識の高さは既に洛陽中に知られていたが、武芸にも秀でていたのである。  
  「離せ。貴様ら後悔しても遅いぞ。」 
  車から引きずり降ろされた蹇朔はそれでも、曹操の部下達を相手に息巻いている。 
  「部尉殿、この者の処罰いかが致します。」 
  「うむ。棒打ちだ。」 
  「では何打でしょうか。」 
  副官の質問に曹操は蹇朔の犯した罪を数えた。 
  当の蹇朔は打擲(ちょうちゃく)台の上に乗せられると先までの勢いはなくなり、すっかり青ざめた表情をしている。 
  「儂が悪かった。なあ、甥の蹇碩に言って、お主を昇級させてやる。褒美も与える。頼む助けてくれ。」 
  「刑に服することいさぎ悪く、また、賄賂の罪さえ重ねようという醜い態度、五十打の打擲を与えることとする。」 
  「はっ。」 
  部下は曹操の採決に素早く処罰の準備を始める。 
  「待ってくれ。なあ、五十打も打たれては死んでしまう。なあ、悪いようにはせんから、見逃してくれ。」 
  「喋るな、蹇朔。罪が更に増えるぞ。」 
  「うっ。」 
  曹操の一言で蹇朔は言葉を失った。だからといって素直に刑罰に服するつもりなどは当然なく、打擲台の上から逃
 れようと必死になっている。 
  が、曹操の部下達にしっかり押さえ付けられ、なす術もなかった。 
  「蹇朔よ。悪いがお前には、見せしめになってもらう。二度とこのような馬鹿が出ないようにな。始めろ。」 
  「頼む、助けてくれ。」 
  「蹇朔殿、しっかりと背中に気を集中なされ。そうすれば五十打とて、そう簡単に人が死ぬものではござらん。」 
  副官は、蹇朔に受罰の手ほどきを教える。 
  もはや、刑場の中の人間は蹇朔の話に聞く耳を持たず、曹操の命令に忠実に動く普段通りの姿となっていた。 
  「北門罪状により、これより五十打擲下す。」 
  「ひとーつ。」 
  「うあー。」 
  執行人が数を数え、棒を振りかぶると蹇朔は一際甲高い悲鳴を上げ、くわえ棒を口から放してしまう。 
  「蹇朔殿、くわえ棒を・・・・。蹇朔殿?」 
  執行人は、再度、蹇朔に受罰の手ほどきをしょうとしたが、その時、異変が起きていることに気付いた。 
  「部尉殿、死んでしまいました。」 
  「何と!情けない。一打擲も受けることなく死んでしまうとは。よし、それでは各自持ち場に戻れ。」 
  曹操は、そう全員に告げ、自分は又、官舎に悠然(ゆうぜん)と戻って行った。 
  翌日から、洛陽中はこの話で持ち切りとなり、十常侍の蹇碩は面目丸潰れとなった。 
  蹇碩は何とか曹操に復讐をと考えていたが、北門の一件は明らかに叔父に非がある。手の出しようがなかった。 
  数日、曹操への憎怨の思いで悶々としたが、ある一計を案じほくそ笑んだ。それは、曹操を宮中に上げ、そこで難
 癖をつけ内密裏に処断するというものだった。 
  早速、曹操は議郎に任じられる。 
  蹇碩は曹操の命は我が手中にあると内心の沸き立つ思いを押さえられず、登城した曹操の様子を伺(うかが)った。      
  しかし、宮中のどこを探しても曹操の姿は見当たらない。 
  身の危険を感じどこぞに逐電(ちくてん)したのかと思い、必ず見付け出し、任官拒否の罪で抹殺してやろうと舌な
 めずりをする蹇碩であった。 
  折しもそこに慌てて天子が常駐する温徳殿に向かう十常侍の筆頭、張譲(ちょうじょう)に出会った。 
  蹇碩は十常侍の先輩格である張譲に挨拶がてら、何事があったのか訊ねた。 
  「張譲殿、いかが為されました。」 
  「おお、蹇碩か。曹操とかいう若造が天子様に上奏申し上げているそうだ。しかも、その中味が我らを弾劾するも
 のと聞く。」 
  「えっ。」 
  「何故、北部尉程度が温徳殿に登城できるか疑問だが、何とかその上奏を揉み消さねばならん。」 
  張譲はそう言うと足早に去っていった。 
  一方、蹇碩の顔は蒼白となっていた。曹操を独断で議郎に任じたのは何を隠そう、この蹇碩であったからだ。 
  そのことが原因で自分達の首を絞めることとなろうとは・・・・ 
  蹇碩も張譲に倣って温徳殿に入殿したのは、曹操の上奏文が読み上げられている最中であった。蹇碩より先に着い
 た張譲が苦々しげに見ている。 
  「・・・・以上が現在、この洛陽の外で実際に起きている現状であります。又、遺憾ながら、このような状況を生
 み出したのは、宮中に住まう悪官汚吏に原因があり。それらの悪業、凶行を詳細にこちらに記しておりますれば、よ
 ろしく後吟味賜りますことお願い申し上げます。」 
  曹操は、恭(うやうや)しげに上奏文を差し出した。それを張譲が手に取る。 
  曹操と張譲の睨み合いが続いたが、曹操がふっと気を抜くと、
  「それでは陛下、本日は天顔を御拝見出来まして、この曹操、本懐の極みでございます。では、これにて失礼致し
 ます。」と、天子の前を辞した。 
  曹操はそのまま立ち去ろうとするが、その前に蹇碩が立ちはだかった。怒髪天(どはつ)を衝くとはこのことか。も
 の凄い形相で曹操を睨み付けている。 
  が、曹操は気にもとめる様子がない。 
  「これは蹇碩殿、北部尉の私を議郎に抜擢していただき誠に有り難うございます。」 
  曹操はわざと大声でそう言うと、冷ややかに笑いながら一礼し去って行った。 
  残された蹇碩は張譲の顔を直視できず、俯(うつむ)いたまま悔しさに歯ぎしりをするのであった。 
  それから、数日後、曹操は頓丘(とんきゅう)の県令に任じられる。 
  曹操は張譲、蹇碩による厄介払いと直ぐ気付いたが、二つ返事で任官を承知した。ただ、その時、苦笑いを一つし、
  「これでは、本初に笑われるな。」と、言うのだった。 
  それから、暫(しばら)くして洛陽に頓丘の悪徳官吏、尽(ことごと)く首を刎ねられたという報が届き、張譲と蹇碩は
 背筋の凍る思いをするのであった。 
  「張譲、蹇碩、いずれ貴様らにも相応(ふさわ)しい最後を与えてやる。」 
  遠く洛陽の空を見つめる曹操の目には衰退していく漢朝がありありと見えたが、寄生する癌を除くことに僅(わず)か
 な望みをつなげる青年、曹操がいた。 
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