江戸暦─水無月の行事 其の五



【山王祭】


 元和元年(1615)六月十五日に初めて行われました。
 山王権現は、南は芝口、西は麹町、東は霊巌島、小網町、堺町、北は神田までと実に広い地域が氏子に当たっており、江戸市中の主立ったところが含まれています。
 それだけに江戸では神田祭と並ぶ社祭だった訳です。
 山王権現は現在の日枝神社で、太田道灌が江戸城内に勧進したものと言われていて、徳川家の産土神として崇められていました。

※山王権現は通称で、正式には『日吉山王神社』と言うが、明治になって『日枝神社』と改名されました。

 小砂利を敷き詰めた往来の道路の両側に『ませ竹』(竹や木で作った低い粗い垣)を作り、高張提灯を多く立てます。
 家の軒には提灯を連ねて造花を挿し、幕を掛け、軒下に青い丸竹の欄干を作ります。 囃子台を組み、神楽や手踊りを催しました。
 また、酒樽、菓子、蒸篭、魚の盤台、桶を屋根よりも高く積み上げ、その上に茶船、荷足船、天満船をのせて造花で飾り、さらに数百の提灯を灯します。

【年番町】 山王祭には年番と言う物があり、その年に番に当たる町が費用を出して山車を出しました。
 また、年番に当たる町人は盛夏にも関わらず、袷の美服を五枚重ね(!)で着る事になっていました。
 ちなみに、年番ではないところの人も警固に出る者は袷を重ね着したようです。
 ただし、夏服のままの者もいる事はいたようです。
 袴、着流し等様々な出で立ちで参加しましたが、皆、新調の服で、古着で出る事はありませんでした。(例外として、麹町は古着でも出ました)
 年番以外に『山車年番』と言う物があり、山車の修繕や新規の作り直しを担当しました。 こちらは五年毎の担当になります。
 年番町にも山車年番にも当たらない町は、軒提灯と山車小屋を用意しました。

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 山車は夜明け前から曳き出します。
 牛二匹で曳くものと三匹で曳くものとがあります。
 山車の警固は、先ず「金棒引き」次に「拍子木」「男装した芸者の金棒引き(手古舞いと言う)」「割竹引き」「町内の若い者」「地主家主」「祭礼の印半纏を揃えた鳶の衆」と続きます。 多いときには百人近く、少ないときでも二十人ほどはいました。
 この後ろに「山車」「茶の湯の用意」「腰掛けの床几」が続きます。
 山王御門から日比谷御門の御堀端〜桜田門〜霞ヶ関などを通り、竹橋御門内御上覧場から常盤橋へと回ります。

 この辺りまで来る頃には昼になり、全てが出終わるには夜まで掛かりました。
 年番に当たる町内は別に踊り舞台を出して、様々な趣向を凝らした練り物・引き物を披露しました。
 特に麹町から出た『朝鮮人来朝の練り物』として大きな象の作り物(布張りで作り、四肢に一人ずつ人が入って歩く)が練り歩く様は非常な高名を誇りました。
 また、娘子供の手踊り屋台が出ました(『付祭』と言う)が、大金が掛かったため金持ちでないとこれの踊り子にはなれなかったそうです。


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