江戸暦─弥生の行事 其の壱
雛祭は時代が古いほど質素だったらしく、古くは紙雛で飯や汁は蛤の貝に盛って供えました。
寛保の頃から七、八寸くらいの次郎左衛門雛と言うものが使われるようになり、次第に大きくなっていきました。
「雛などは女子の持遊びゆへ、いかにもちいさくぢんぜうにかわゆらしくすべき事なるに、只大き成を勝にして、其上雛人形の諸道具悉く本手にして、過分の金銀出るをいとわず。
むかしより雛の膳は白木に丹禄青(たんろくしょう)を以絵をかき、碗は蛤貝也。
へつつい、鍋、釜は皆土にて拵へ、丹、ごふんにて絵を書用ゆ。
今も間々是有。
然るに近年、本膳、二ノ膳、蝶足、かけばん、高蒔絵の三方、竈も銅のどふこ、鍋釜も金にて本手に拵へ、箪笥、長持は金めつき気彫(きぼり)の八そうかなもの、又は銀の茶の湯道具、其外詞にも筆にも及ぬ事ども、皆是奢りより始まる。
斯の如く小児の時より奢りを見習ひ、成人すると其上に輪をかけて奢る。
是親のたわけが奢りをおしゆる也。
小児の咎にはあらず。」
『雑交苦口記』より抜粋。
どこかで聞いたような話しでもありますね。(笑)
享保六年(1721)には、八寸以上の雛、人形は作ってはならぬという申し渡しが出ました。
雛遊びは三歳から十三歳くらいまで、つまり月のものを見ないうちにするものだそうです。
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