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Pen・Pen D 雑学の森/うんちく編  

25 Penはどれくらい売れたのか?

Penシリーズ全体では約1700万台が製造出荷され、そのうちPen EEシリーズが約1200万台を占めた。ちなみにPenが発売された時に日本で使われていたカメラの総台数が750万台であったのでいかに売れたかが解る。別の数字で見てみると月産台数が1000台でベストセラーと言われた当時にPenは外注により月産5000台でスタートしたがそれでも追いつかなかったと言われている。設計者である米谷さんは170万台は売れるだろうと重役会議で話したそうでその時には上司はみんな呆れて言葉もでなかったという。しかしこれは大きな誤算であったわけである。なにせ実際にはその10倍の販売台数となったからである。こうしてPenはオリンパスの大黒柱として約四半世紀にわたり製造されたのだ。

26 Penが発売されたときの世間の反応は?

1959年5月にマスコミに発表されたPenはその10月に発売となり、異常な反響を呼んだ。そこで「写真工業」はその特集を組み17ページものスペースをさいた。またカメラ専門誌だけでなく、「文芸春秋」などでもこの小さなカメラが取り上げられる程の勢いであったそうです。

27 何故Penはそんなに売れたのか?

爆発的に売れた訳を考えてみるとまずなんといってもその価格の安さと性能の良さを上げることができる。また当時まだ値段の高かったカラーフィルムを倍の枚数に使えることも上げられる。そして他メーカーが、ハーフサイズで一人独走していたオリンパスを撃墜する為に対抗モデルを出した時には、既にハーフはオリンパスPenという確固たるブランドイメージが出来上がっていたのではないだろうか?また当時の、カメラは男性の道具というイメージを払拭した製品ラインアップおよび販売戦略もあげられる。シャッターを切るだけで誰にでもきれいな写真がとれる世界初のプログラムEEカメラであるPen EEシリーズは日本だけでなく世界においても画期的なカメラでありそのカタログも女性層を意識したものであった。その一方でPen Dシリーズのような高性能モデルも用意されており、まさに針も通さぬ製品ラインアップである(Pen発売からたったの3年間でPen,PenS,PenEE,PenEES,PenD以上5機種がラインアップされたことは驚異であり、オリンパスの並々ならぬ熱意と努力がうかがえる)。当時、庶民の間ではカメラ=Penと言われるほどだったというからすさまじい物を感じてしまう。多数の特許を取得したこともその理由として上げられるかも知れない。また「ペンすなっぷめい作展」をはじめ、ユーモラスなアニメと親しみやすいメロディ−のテレビCMなど、オリンパスの宣伝活動もかなりの効果があったそうだ。その他に、社外に「われこそはオリンパスをしてペンを作らしめた先達なり」と自負するシンパが多かったと言われている。

Penの産みの親である桜井さんは、昭和30年代にフィルムの性能が飛躍的に向上したこと、露出計などの装備によりしだいに大型化した35mmカメラを再度見直し小型化に力を注いだこと、レンズの性能に特に留意したこと、などを成功の原因としています。

28 Penブームが生まれた背景とは何か?

桜井さんはPenの爆発的なヒットの背景には、当時の日本の大衆写真界の土壌がある、としています。35mmカメラが一般大衆化してきた当時は、撮影したショットを全て同時プリントする今日とは異なり、ネガを見ながら写真屋の店員とああでもない、こうでもない、などと話しながら気に入ったショットを選んで引き伸ばす、という習慣が定着していました。35mmカメラの速写性とコマ数の増加がそれを一般化したと考えられます。ハ−フカメラはフィルムの単価がフルサイズの半分となり倍の枚数が撮影できる為に、素人でも同じ場面を角度を変えたり、露出を変えたり、また人物のポーズや表情を変えたりしながら多くのショットを撮影する。そしてその中から気に入ったショットをプリントする。このスタイルに、ハーフカメラであるPenは正に適合していた、というわけです。(ズイコ−夜話より)

29 Penと文芸春秋の関係とは何か?

文芸春秋は昭和35年1月号で数人の作家、評論家、画家によるペンについての感想を掲載した。その中で評論家の大宅壮一は「私がカメラの万年筆化を唱えたのは30年以上も前である。今度発売されたオリンパスを使ってみて、これこそ多年私が求めていた理想的なペンカメラだと思った。」と書いている。また同年10月号の文春に「2つのどん底」というカメラレポートが掲載された。これは東京の山谷と大阪の釜が崎の生活情景を撮ったものだが、山谷の写真の大部分は春内順一氏がペンSブラックで隠し撮りしたものであった。また昭和35年5月より文春の写真部の協力で「ペンすなっぷめい作展」が開催された。このように文春はペンを様々な形で庶民に伝え、ペンブームをあおるキッカケを作ったと言えるそうです。(ズイコー夜話より)

30 Penのコマーシャルは存在したのか?

年輩の方は記憶にあるかと思いますが、当時Penの名はテレビでも歌われていました。佃 公彦氏のユーモア溢れるアニメーションと、いずみたく氏作曲、野坂昭如氏作詞の歌が街に流れていました。街角では子供達がペン、ペン、ペンと口ずさみながら石ころを蹴って遊んでいたそうです。歌手は天地総子さんでした。

31 Penと「暮らしの手帳」の関係とは何か?

Penはカメラ雑誌に取り上げられるばかりでなく、一般大衆向けの「暮らしの手帳」にとり上げられるほどの異様なまでの社会現象にまで発展していった。消費者にとって意味のないものを決して認めない同誌において、Penは写真を写すにあたって必要にして十分な性能とコストを実現した最高の大衆向けカメラであり、特にEEシリーズはそのフールプルーフ性能において他の追従を許さない画期的カメラとして賞賛を得たそうです。以下にその「暮らしの手帳」の内容について尼子倫久さんからいただいたメールを紹介いたします。

自分が中学生の頃(25年ほど前)に「暮らしの手帳」でPenEE3が紹介されていたのを憶えています。有名な商品比較テストの項ではなく単発のレポートで「どのカメラを買ったらいいのか」というようなタイトルだったと思います。それでも見開き2頁か4頁ぐらいにキッチリとレポートされていました。

 ・経済的(ボディが安価)

 ・信頼性(シンプルな構造で電池も要らないほど)

 ・沢山撮れる(ハーフサイズ)

 ・コンパクト

 ・写りの良さ

  (安価なカメラだが、ちゃんとガラスの組レンズを使ってることをレ ポート)

 ・失敗しない

 (フォーカスも要らないし、シャッターを押すだけ。暗いとか、巻上げ忘れていたら シャッターは切れない)

「....カメラというのはこんなもので良いのに、何で高価で重くて、 複雑な一眼レフを買うことがあるのだろう」なんて事まで書いていました。世の中には無数のカメラが存在するのに、これがベストだと選ばれるカメラが有るということにも驚きました。それも厳しい商品テストで、消費者の圧倒的な信頼を築いている雑誌がそう書いていたのです。

32 Penのシェアはどのくらいだったのか?

Penシリーズは1700万台売れた。当時の日本の人口が約1億人であるので、単純に計算すると6人に一人はPenを所有していた事になる。また一般家庭を4人〜5人家族とすると(4.5人としちゃいます)2222万世帯となり2軒に一台はPenを所有していた計算になります(ほんとかなー?)。おおよそ当時製造されたハーフカメラの約90%のシェアを有しているそうです。

33 EEシリーズの意義とは何か?

 

Penは発売と同時に好調なセールスを記録した。安い価格設定と確かな基本性能は、それまでカメラなど手にしたことの無い世間一般の庶民に、広く写真撮影の楽しみをもたらしていった。しかし米谷さんの目指したものは、もっと大きな世界であった。写真撮影の知識が全く無い層をも、その楽しい写真の世界に導きたいと考えていたそうだ。そういう観点でPenを見た場合、明らかな不足点があった。それは、露出計を装備していないという事実であった。撮影環境に応じて露出を変えるという行為は、素人にとって大きな壁であり、少なくとも被写体の明るさを定量的に表す露出計の搭載は、必須であった。

米谷さんは、露出計を搭載するのならば、一揆に自動露出に、それもプログラムEEにするべきと考えた。シャッター速度優先、または絞り優先EEでは結局露出の知識が必要であり、それでは意味が無いと考えたのだ。何も考えず、ただシャッターを切るだけで、誰にでもきれいな写真がとれる、その様な夢のボタンカメラ(米谷さんは自動露出のカメラをこう表現する)が真の庶民の為のカメラの絵姿であった。露出計からの情報をもとに、いかにしてシャッターと絞りを制御するか、しかも価格は元祖Penと同様に低い価格設定という高いハードルが存在した。オリンパスは過去にオリンパスオートという自動露出カメラを開発していたが、このときの露出計と絞りの連動メカのアイデアを考えついたのは、何を隠そう入社1年目の米谷さんであった。米谷さんはこの時の経験から、さらにシンプルでかつプログラムオートというカメラ界初の露出制御に挑戦し、それを実現したのだ。

Pen EEはお手軽な、バカチョンカメラというイメージが強いが、そのバカチョンにこめた米谷さんの情熱は、元祖Penに勝るとも劣らないものであり、バカチョンと呼ばれることは米谷さんにとってみれば、当初の目標を完壁に達成したという証と言えるわけである。ただし厳密に言うとEEは完ぺきなプログラムシャッターではなかった。なぜならばEEに搭載されているシャッターは1/60秒の単速であったからだ。シャッターの開発が間に合わず、やむなしの市場投入であった。1/60単速の場合、露出制御範囲が狭くシャッターロックが比較的作動しやすいという難点もあったが、先進的な決断とも言えた。EEシリーズが市場投入されるや爆発的売り上げとなり、巷にはEEを片手にした当時流行はじめたミニスカート姿の女性がよく目についたそうだ。総販売台数1200万台以上のEEシリーズは約四半世紀に渡り、まさにオリンパスの大黒柱として君臨した。(EEはのちに、1/30秒と1/250秒の2速式シャッターに改修された)

34 何故Penには多数のシリーズが存在するのか?

 

米谷さんは、限られたコストで初代Penの設計を進めるにあたり、カメラとして必要不可欠な部分と妥協しても差し支えない部分の線引きを明確にしていた。つまり写りを左右するパーツに関しては徹底的なこだわりをもち、その他は目をつぶるしか無い状況だった。結果的にはレンズに総べてを注ぎ込み、シャッターは既存の物で代用、その他のメカニズムは米谷さんの奇跡的な発想でコストを抑えてペンを具現化したのだ。あれもこれも詰め込むことは不可能な条件での設計だったわけで、その為に新たな機能を付加したカメラを別シリーズでラインナップすることは、ペン設計段階で米谷さんの頭の中に描かれていたそうである。高速なシャッターと高速レンズを有する本格派カメラ、誰でも簡単に写真を楽しめる自動露出カメラ、究極の一眼レフ。これらを別シリーズとすることで、明確にそのカメラの用途、ユーザー層を分離し強い個性を打ち出すことが可能となり、その後のオリンパスカメラの独特な価値感にも通ずるものとなった。XAシリーズやOMシリーズにもこの考え方は受け継がれた。オリジナルペンの系列、Dの系列、EEの系列、Fの系列、、これらは互いに侵されることなく独自の領域を有している。これこそが、米谷さんが目指したPenの世界なのだ。


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