(3)


 百 濟
 

 扶余に行っても、現地の韓国人は日本人がかっての同盟国としての百済に抱くような感慨を、日本に対して全く
 持っていないようなのだ。
 もっとも普通の日本人もそんなものは持っていないのかもしれない。
 
 扶余という地名はいまも満州にその名が残されているように、この百済の支配者たちは北方から半島を南下して
 きた種族であったことは確からしい。
  
 
 一方、被支配者たる百済の地にいた民衆はどうなのだろう。先に北方から南下してこの地に居ついたものもいた
 だろうが、南方から黒潮に乗って沖縄や九州に辿り着いた人々のうち一部が次ぎに目の前にある半島に渡って
 いったことも考えられる。
 
 済州島に海女がいることなどは明らかに、満州のそれではなく揚子江流域から渡ってきた風習が持ちこまれた
 ものである。
 南方から半島に渡った人も多くいたというひとつの証拠でもある。
 
 どうも日本では半島から列島に渡って来た我々の先祖のことはよく語られるのだが、列島から向こうに渡っていっ
 た先祖のことは忘れてしまっているようだ。

 母屋の「おも」とオモニ(母親)にの「オモ」など、日韓の「やまとことば」の部分で共通語がいくつもある理由のひと
 つはこうした多くのヒトの交流があったからなのだろう。



                       ★     ★     ★



 ところで、先日、教育テレビで「街道を行く」の耽羅(済州島の古名)編を見ていたら、海女が自分たちのことを海
 女(へにょ)と呼んでいた。これは漢語であるからして、どうも「あま」に相当する土着の言葉がなくなっているらしい。

 呉善花氏によると山や川といった基本的なことばにおいても日本語でいう「やま」や「かわ」に対応する韓国語の
 『やまとことば』にあたるものがなく、漢語を韓国語読みして使っているという。( 『日本の瀬戸際』、呉善花、日本
 教文社)
 
 (29Dec99)


  
 定林寺跡 83年
 

                    

                 丈六石仏                                  

         とぼけたような表情の面白い石仏。済州島にも表情は違うがおもしろい石仏があったように記憶
         している。              
         
         信じ難いことに94年に訪れたときには、この石仏を覆うように新しく作られた建物の中に鎮座していた。                
         せっかくの石仏がだいなしである。韓国人のモノの考え方が分からなくなった。             
                                             
         その形状などからしてこの石仏は明らかに元々屋外にあったものである。
         1000年以上もの風化に顔の表情もぼやけてしまっているが、もしこれ以上の損傷を避けたいと
         の考えから覆いをつけたとすると、これもまた日本人には理解できないことである。

         元は屋内にあった鎌倉の大仏だって、今から覆いの中に入れようなどと日本人は考えないのだが。

 
      

             

                 百濟塔

         五層の仏塔なのだが、一番下層に百濟を滅ぼした、唐の派遣軍の司令官だった蘇定方が刻んだ
         戦勝碑文が残されている。この定林寺跡では上の石仏とこの塔だけが破壊を免れた。
         ひょっとすると残されたのは唐の戦勝記念碑に代えられたこの『唐平百済塔』だけで、石仏は後世
         の作なのかもしれない。
         
         これと同じ仏塔が滋賀県の石塔寺にある。どうも百済からきた移民や難民が作ったものらしい。
         このあたり、司馬遼太郎の「街道をゆく」にも書いてあったと思うのだが、確認しようと本を探したが、
         本棚に該当の本が見つからない。