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  南 京 関 係


 内政干渉

 大阪にある「ピースおおさか」という平和博物館で23日に 「20世紀最大の嘘 ”南京大虐殺” の徹底検証」 とい
 うずいぶん大げさな名の集会がもたれるという。 が、この集会に会場を貸したということで、「中国政府が外交ル
 ートを通じ、許可の取り消しを府や市に対し働きかけるよう日本政府に要望した」 との中国駐大阪総領事館の藤
 安軍・副総領事の発言記事が18日の朝日に載っている。


 いかにも中国政府らしい対応の仕方である。共産党の見解から外れる言論の自由のない中国では、中国政府の
 見解に反する集会など認めるわけにはいかないことは分かるが、場所は中国ではなく大阪である。どうしてこうな
 るのかと疑問に思われるが、日本では過去に彼らの言いがかりに唯々諾々と従ってきたという実績があって、内
 政干渉ともいえるこういう事態になる。
 (19Jan00)


 


 決着済み

 ドイツ政府はナチスのおこなったホロコーストについて、その事実を否定する見解がメデイアなどの公式の場で
 発表されることを禁じている。
 
 中国ではナチスの犯罪と日本軍のそれとを同列化して眺めたいらしい。
 しかし、確定されているドイツのそれと違って、南京で日本軍が30万人という市民を虐殺したという中国の主張
 は疑問視されているのである。もし、何もなかったとすれば犯してもいない罪で無実のひとが裁かれることになる。

 また、戦後の中国では南京事件の首謀者として処刑された谷寿夫中将をはじめとして、多くの日本人が当時の
 国民党政府から南京事件の戦犯として裁かれていて、中国の立場からすれば既に決着している事柄なのである。

 敗戦のどさくさ時に一方的な裁判で日本人が処刑され、ほんとにそんな事件などあったのと言いたいのは日本
 の方である。にも関わらず「検証」すらさせてくれない。

 日本人は先の戦争はアメリカに敗れたと思ってはいても、終戦までその占領地を維持してきた大陸では戦争に
 敗れたとは全く考えていない。しかし中国人は自分たちは対日戦勝国民だと考えているのであり、実際それは
 事実でもある。彼らが日本に対して強くでる理由のひとつである。


 中国との関係は日中友好のお題目だけではなんともならないということに、日本人も少しずつ分かってきたようだ。
 日本政府の立場も中国との良好な外交関係関係の維持を頭においてなかなか微妙である。
 (27Jann00)


 30万人

 中国は南京での犠牲者は30万人という数字でいこうと決めたらしいが、つい最近までは20万や40万とういう数字
 も向こうではでていたのである。それも上海から南京へいたる途中での数字が入っていたこともあり、南京だけ
 の数字だと言っていたこともあった。色んなひと(組織)がいろんなことを言っていた頃はそれで当たり前で、日本
 でも同じである。

 江沢民政権になり国内引き締めの具に、共産党は脇役でしかなかった抗日戦争が前面に押し出されると、南京
 事件も市内で30万と言う数字になってくる。それでも戦闘での国府軍の死者や捕虜になってから殺されたという
 数字が最近までは含められていたのだが、何時の間にか数字だけは固定して全員が非戦闘員の死者ということ
 になってしまっている。

 
 日本ではいわゆる虐殺派の学者でさえ、南京戦に参加した部隊とその動きを追いかけているのだが、中国では
 日本での研究成果を眺めて、日本軍の部隊と現場に犠牲者数を振り分け総数の30万に合わせるべく数字を埋
 めこんでいるように思える。

 そして日本でも中国べったり派でない、普通の虐殺派は数字が中国政府のそれとは違いがあることで、向こうか
 らは敬遠されつつあるらしい。
 要はこの30万という数字は、日中戦争での日本軍の非人道的行為のシンボルとなってしまったということである。


       ☆

 83年に南京に行ったことがあるのだが、戦前の地図を片手に、雨花台、中華門、下関などの大きな戦闘が行わ
 れた現場や旧官庁地区などを巡ったことだった。その時に気が付いたのが南京城内というのは京都の旧市内
 (中心部)ぐらいの大きさしかないことである。

 こんなところで1000人もの死体が転がっていたら、もう街中死体だらけだなあと感じたことだった。
 にもかかわらず当時、兵士と共に首都陥落のニュースを追って城内に入っていった新聞記者や従軍の文士など
 は市民の死体など見ていないらしく、そんな話がかれらの書き残したニュースや文章では全く触れられていない
 のである。

 カメラマンも南京城内の写真をゴマンと撮っているが、一般市民の死体がゴロゴロ転がっている場面など1枚も
 ない。

 戦時中のことだから軍の検閲があったのだろうと考えても、戦後になって、今度は米軍の検閲が始められたが、
 日本軍の否定的な行為の暴露に付いてはむしろ奨励していたにも関わらずそんなものはでてきていない。

 
       ☆

 どんな悪人だってやってもいない罪を着せられて裁かれるのは嫌なものである。
 中国側だってちゃんと検証してみて、そんな虐殺がなかったことが判れば、死んだと思っていた30万人が生きて
 いたことになり嬉しい新事実のはずなのである。
 
 もっとも当時の城内人口は20万という数字があるのだけれど・・・。(*)


 異論があるのだから検証すれば済むことなのだが、それを求める市民の集会を押しつぶそうとするのは、検証
 されたら中国が困るからなのだろう。自信がないから大声で喚きたてているという構図か。
 竹島と韓国の関係に似ている。
 (15Feb00)

 (*) 1937年12月18日付け南京難民区国際委員会発日本大使館宛て公信での記述
   『- 実録・南京大虐殺 - 外国人の見た日本軍の暴行』 テインパリー原著、訳者不詳 評伝社刊より。
   なお、南京陥落は12月13日。


 南京の検証

 3月号の「正論」でひところ大きな論争の的だった、上海を出て南京に到る途次での「百人切り競争」の当事者
 として戦犯として処刑された、向井少尉の次女という女性が父親の無実を訴えている。

 こうした既に明らかに冤罪であることが証明されていることまでも、中国では未だ南京事件の一面として記念館
 に展示されているという。

 中国では『南京』は既に日中戦争時の日本軍の暴虐のシンボルになってしまっていることから、あの時南京で
 あったことを検証することや、 "真実"を求めること などは重要ではないようだ。

 彼らには「南京」を否定することは、大陸での日本軍の暴虐行為を否定することになってしまうのである。


       ☆

 ところが日本では「南京大虐殺」がでっちあげと叫ぶ人も、中国で日本軍がずいぶんひどいことをしていた事に
 ついては認めているケースが多いのである。
 ただ、南京ではそんなことはなかったし、ありえないことだと言っているのである。

 また日本には南京でも一部で日本兵による略奪や市民に対する乱暴や殺人もあったという見方をする人もいる。
 1000人単位の一般市民の犠牲者がでているのではとの見解を持つ人もいれば、戦闘での兵士の死者を含め
 て数万という数字を出す人もいる。

 また敗残の中国兵に関しても、英軍がビルマで、米軍が南方の島嶼でやったように捕虜は取らないことにした
 部隊もあったようなのである。
 こうした点も含めて検証しようとするのが今回の騒動の元となった「徹底検証集会」なのだろう。


 もっとも中国側に真実を知ろうとする気がない時に、『検証』を騒いでも意味はないのかもしれない。
 かと言ってやってもいない非戦闘員の殺人(それも30万人!)を黙って押しつけられるわけにはいかない。
 (17Feb00)


清軍のジェノサイド

 満州人(清)もその入関後、南進時に南京の隣りにある揚州で数十万の市民と兵士を殺戮したとされている
 が、当事者の満州人や同盟国だったモンゴル人はそれで良しとしていたのだろうか。

 敗戦で終わった日本軍と違って、彼らは大陸での勝者でありその後二百数十年も中国を植民地化していたの
 だから事実を確認し反論する充分な時間をもっていたのだが・・。
 支配者として中国で安定政権を築いていた彼らにとっては、そんな数字はどうでも良かったのか。

 
 中国側も秀吉の北京入城が失敗に終わった直ぐ後に満州(建州女真)人に北京を落とされ、その後300年近
 く異民族に支配されていたにも関わらず、その通路にあたった半島の住民が未だ秀吉と日本人に対する"恨"
 を持っているのと違い、中国人(漢族)は満州人には優しいようだ。
 揚州での『大屠殺』を騒いでいる様子も見えない。

 もっとも、満州人が支配していた新彊やチベット、同じく満州人の仲間だったモンゴル人の土地(内蒙古)やその
 本国(満州)も取り上げてしまっているから、すでに補償は終わったと見なしているのだろうか。
 

 いずれにせよ、満州人が揚州での数字をきちんと検証しておいてくれなかったせいで、こんなところでとんでも
 ない数字を数合わせに使われてしまった。

 次ぎに中国に入る外国の軍隊も、再たどこかの街で数十万単位のジェノサイドの罪を被せられることになるの
 だろう。余計な心配か。
 (17Feb00)

   


ピースおおさか

近くの図書館に本を返しに行って、新聞を読んでいたらこんなコラムがあった。
筆者の東中野氏は今では日本に於ける南京問題に関する第一人者であるという。

自分がが南京問題に関心を持ったのはもう十数年以上も前のことなので、彼のことは何も知らない。中国関係の
本や新聞のコラムなどを読んでいて彼の名前がよく出てくるので気になっていた。

『南京』について何冊か本を書いているということなので読んでみたい。
(19Feb00)


「揚州十日記」 (東洋文庫)  

   清軍の総攻撃は1645年4月25日。筆者(王秀楚)がこの日から十日間に揚州で起こった清軍の暴虐のありさ
   まを自分の家族の状況を含め、身近で見聞きした当時の街の有様を書いている。
   
   解説によると、この書が世に出て来たのは清末の滅満興漢運動がおこってからと言う。ここでは犠牲者80万
   人以上という数字がでているが、こうしたプロパガンダに使われるときには後の時代の加筆や改竄もありが
   あちである。

   こういう事件があったという意味で読まれるのならともかく、個々の数字が問題となると当人の記述の信憑性
   も問題となる。

   「百人切り」の時に問題とされた、日本刀で果たして人が何人切れるのかという疑問と同じく、10日間で果たし
   て80万もの人間を同じ人間が青龍刀で殺すことができるのかどうか。武器の性能とともに殺す方の人間の能
   力(体力?)の可能性の問題でもある。

   揚州の市民の数はどれほどだったのか、明側の兵士の数も問題となる。
   攻めた清軍は10万だというが。全員が満州人というわけでもあるまいが、その構成はどうだったのか。

   「南京」でもそうだったが、明の敗残兵の放火、略奪も多かったことも書かれていたりして納得できる部分も
   ある。
   (20Feb00) 



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  ☆  産経新聞 2003.03.02