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大秦景教流行中国碑 (その1)

むかし、高校の世界史の教科書に唐の都、長安の世界性を表す歴史のひとつの証言者として、この碑の写真が
掲げてあった。秦はローマ、大秦でグレート・ローマ(大羅馬)。景教はキリスト教の一派のネストリウス派のことで、
東ローマ帝国で栄えたが後に異端とされてしまう。

この石碑は何故か初めてその写真を見た時から気になる存在だった。しかし、その後いつまでもこだわりつづける
ことになるとは思いもしていなかった。


ところで、問題はこの碑文の「中国」である。この語にはず〜っと頭を悩ませていた。かって大陸にできた王朝は秦、
漢、隋、唐、・・・・・・と呼ばれてはいても、「中国」などという国はなかったからである。どうして唐の時代に建てられた
石碑に「中国」なんだろうと。


中国政府(詳かいことをいえば終戦当時の
華民)が中国などという国が存在しなかった過去の時代を含めて、
大陸の呼称を「支那」から「中国」に変更統一せよと敗戦国日本にせまり、政府にむりやり受け入れさせたことが
あった。

もっとも、石原都知事(彼は最近少し軟化しているようだ)をはじめ、中国大陸を支那と呼ぶヒトはいまも多い。
が、今では、大勢としては日本では過去に遡り、大陸は中国と呼ぶようになっている。

日支事変は日中戦争に、「支那そば」は「中華そば」に変わった。もっとも今では日本中が東京風の「ラーメン」と呼
ぶようになっている。さて、具として中に入っている「支那竹」、あれは今なんと呼ばれているのだろう。(*)


        ☆      ☆      ☆


実は、最近この「中国」に関する疑問が氷解した。「地球日本史 第3巻」(西尾幹二責任編集、産経新聞社)に中
国史家の岡田英弘氏がこう書いている。

 『ところで漢文の古典では「中国」は中国という意味ではなかった。「国」という漢字は「くに」ではなく、
 「城壁をめぐらした都市」が本来の意味で、「中国」は中央の都市、すなわち「首都」の意味だった。
 いまで言う中国にあたるのは「天下」で、のちに「天下」の一部の、華北の都市化した地帯を「中国」
 と呼ぶようになった。「中国」が中国の意味になったのは、清国人留学生が日本語の「支那」を「中国」
 と訳してからのことだ。』

なるほど。
あの石碑は唐の時代に長安(or中原)で景教が盛んだったという記念碑だったのである。

当時、長安には景教の教堂が四つもあり、波斯寺(ペルシア寺)と呼ばれていたという。これはこの宗教がペルシ
アを経由して長安に伝来したという理由からだと。(『回教からみた中国』、張承志、中公新書)


   ☆

ちなみに、岡田氏いうには、「支那」は新井白石が江戸時代に日本に潜入して逮捕されたイタリア人シドッテイを尋
問したときに、イタリア語の「チーノ」を「支那」と訳したしたのが最初であると。
とするとあの「西洋紀聞」に出てくるのだろう。
支那とは英語のChina、仏語のChineに対応する日本語なのである。


また、日本語の「支那」の翻訳として、「中国」という単語が使われ出したということは、『つまり、漢とか唐とかいう王
朝の時代を越えた、中国という観念自体も日本語起源だということになる.』 という。
(21Dec99)


 PS:(*)メンマ


大秦景教流行中国碑(その2) 

ところで、この石碑である。はじめてこの碑を見たのは、パリの地下鉄のイエナ駅の前にあるギメ博物館において
であった。別名「東洋美術館」と呼ばれるように、ここはインド以東の美術品ばかりが集められている比較的規模
の大きい博物館で、今は別館までできている。


階段を降りてきたときに踊場に置いてあった大きな石碑、2M以上の高さがあったろうか。重量感もあり、なにか由
緒ありげである。あちこちに疵がついていたりもする。漢字と他に何語(ペルシア語?--->シリア語だった<補足>
かで文字が刻まれている。

眼を上に向けると、「大秦景教・・・・」と書かれてある。
「えっ、こんなところに」 とびっくりした。教科書で見た、その現物である。どうして、これがパリにあるのだろうかと不
思議にも思った。

この博物館にはカンボジアのアンコールワットから持ってきた石仏やガンダーラーのそれもある。すべて本物である。
もちろん日本のきっと価値があるのだろう、仏像や正宗などの銘の入った日本刀も展示されている。
当然、この石碑も本物だと思っていた。


ところが、初めて中国に入った時(1983)に西安の陜西省立博物館を訪れ、そこで碑林と呼ばれる、石碑が集め
られ林立している中にこの石碑を見つけたのである。
またまた、、「えっ、なんでや〜」という驚きであった。

やはり、こちらが本物でパリのそれがレプリカなんだろうなと思いつつ、なんとも解せない気持ちでいた。
この碑は確か明朝末期だったかに農民に発見され掘り出されていたということではなかったろうか。それが、時代
を経てこの博物館に収められたのだろう。そして、複製品が作られていた。



    ☆

その後、いつだったか、ギメ博物館の解説書を読んでいてそれがレプリカであることを確認したのだが、その頃に
は、真贋などはどうでも良くなっていた。
あとから考えると、それが踊場に置いてあるということが既に本物ではないことを示していたのである。

ギメにはパリに着くと数回に一度は訪れていると思う。東洋美術を見に行くというより、半分以上はこの石碑に会い
に行くのである。あまりに何度も見に行っているので、一度しか見ていない本物より愛着ができてしまっている。
もう一度本物に会いに行かねば。このまま偽物の方がいいやというのでは、やはり、まずいだろう。


ギメでは建物の改装などで場所や階も時々変っているのだが、複製品ということでこの碑はいつも建物の隅っこに
ひっそりと置かれている。だが、この碑の前に立つとなぜか国際都市だった盛時の唐の長安の街の空気が微かに
伝わってくるような気がしてきて、パリでも自分のお気に入りの場所なのである。

遠く西方からやってきた一神教の宣教師と漢人の信者たち、彼らの集う教会。シルクロードを旅してやってきたペル
シャやソグドの商人、また彼らの信仰する拝火教(*)の寺院もあったにちがいない。長安の紅灯の巷では碧眼のペル
シャ娘や中央アジアからきた女性たち(胡姫)が数多くいたことは李白の漢詩(唐詩)などでも知られている。


ところが、まさにその故地である西安で、石碑がずらりと立ち並ぶ中のこの碑を前にしたとき、それが本物であったの
にも関わらず、こうした感慨を抱くことはなかった。

こうしたもろもろに思いを馳せるには、じかに現場に居るだけにまだ貧しく、生きることが厳しかった当時の中国では、
周りのこうした現実があまりにも生々しく自分に迫ってきたからなのだろうか。

もうひとつの理由は、碑林にはあまりにも石碑が多すぎて、この碑の有り難味がそれほど感じられなかったこともある
のだろう。

もっとも、何故パリで、異郷のしかも千年以上も昔の長安を偲ぶというか、思いを馳せる必要があるのかという疑問
をだされても回答をもたない。
(21Dec99)


    ☆


(*) 拝火教の神はアフラ・マズダ(Afura Mazda)。東芝の電球は以前マツダ(Mazda)・ランプと呼ばれていたが火の神
   からイメージしたものか。予言者ゾロアスターがBC6世紀に創始。
  ショーペンハウエルの「ツアラストラはかく語りき」のタイトルのツアラストラとはこのゾロアスターのこと。
  S.キューブリックの名作、「2001年宇宙の旅」の出だしに使われている音楽は、R.Strausの交響詩「ツアラストラは
  かく語りき」の冒頭部分であることは有名。
  インドのボンベイ(ムンバイ)にはイランがイスラム化する前に移住してきたペルシャ系住民が多くいて、彼らは未だ
  にゾロアスター教徒である。
   



                       

                碑 林                          西安事変留下的弾痕
             何故か肝心の石碑の写真がない!       蒋介石が抗日に踏み出すきっかけに
                                          なった事件。張学良はたしか一、二年前に
                                          台北で釈放されたのではなかったか。もう
                                          90歳を越しているのでは。
                                          何応欽が亡くなったニュースは聞いたが・・・。                                              



          ◆   ◆   ◆
 

   P.S.: 大秦景教流行中国碑 (写真)

   P.S.2:  マニラのチャイナ・タウンのホテルで華字紙を開いていたら、張学良の100歳を祝すという
         囲み広告が出ていた。(世界日報 四月十七日付)
         ハワイのなんとか学会の名もあったところから察するに、彼は台湾での軟禁を解かれてのち、
         ハワイで余生を送っているらしい。
         (06/05/00)

   P.S.2-1: 本日、6月3日、張学良100歳の誕生日。
         となると、上記の新聞広告は一体何だったのか。
         もっとも、彼がハワイにいること、100歳になった事実は確認されている。が、2か月も早く出
         た誕生日を祝する広告の意味は・・・。
         (03/06/00)
  
   PS2-3  張学良死亡のニュース。 (15/10/01)  




  八達嶺 83 
                            
                                


           

               解放軍兵士の休暇


 『中国』の呼称

『大秦景教流行中国碑 (その1)で”支那”の語源は新井白石に始まるということを書いたが、京都から逢坂山を
越える1号線を車で走っていて、ふと、「じゃ、白石が出る前には”支那”はなんと言われていたのだろう」と疑問が
湧いてきた。

岡田英弘氏は 『つまり、漢とか唐とかいう王朝の時代を越えた、中国という観念自体も日本語起源だということ
になる.』 というが、白石以前にはこうした観念を表す ”支那” という言葉もなかったであるから、日本にもこうした
観念がなかったことになるのかどうか。

これだけ大陸との関係が深い日本に 『CHINA』 に相当する言葉がなかったはずがないと思っていると、峠にさし
かかるときにふっと「唐天竺」(からてんじく)という言葉が浮かんできた。
唐(から)とういのが「支那」以前に日本で大陸を表す単語だったのではないか。
江戸時代に長崎に居住を許されていた清国人も、何故か唐人(とうじん)さんだった。

日本人にとって『唐』とはその滅亡後1000年経っても、その存在が尊敬の念をもって語られていたようである。


明治になり、日清戦争に敗れてから多くの清国人留学生が欧米の先進文明を学びに日本にやって来るが、敗戦
国民にとっては彼ら自身を意味する日本語での呼びかけはあまり響きの良い言葉ではなかったようだ。清国人
(ちんくおれん=ちゃんころ)。中華民国時代になっても、変らなかったと聞く。中国人(つおんくおれん=ちゃんころ)。
日本人にとっては同じことなのだ。
『支那』と同じく敗戦後の日本から追放された言葉である。


   ☆

岡田先生には異論をだすようで恐れ多いのだが、大陸でも「中国」という概念が日本から入る以前にも、きっと

その時代、時代に生きた人々も時代を超えた『CHINA』の観念を持っていたに違いないと思うのだが・・・。
彼らは自分たちの住む土地を、地理的かつ歴史的呼称としてどのように呼んでいたのだろう。

それとも、中華の地は唯一絶対の存在であったことからこうした言葉は必要なかったのだろうか。『天下』ですませ
ていたのだろうか。イギリスがよく ”THE〜” と呼ぶことで、国名を付けずにすませている組織などが幾つもあるよう
に。

切手なども日本のそれは ”NIPPON” と打たれているのだが、英国では郵便制度の創始国のそれには国名表示な
ど必要ないとして、なにも書かれていないという。
(26Dec99)


PS: 大陸は日本では唐土(もろこし)ともいわれていた。
   また、唐と書いて「から」と読むのもヘンな話だが、「から」はもともとは加羅(任那)からきたものらしい。