【台北15日=共同】十五日の台湾のテレビ報道によると、日中戦争中の一九三六年十二月、抗日のために共産党との内戦停止を求め、中国・西安で故蒋介石氏(当時国民政府主席)を幽閉した「西安事件」の主役、張学良氏=当時の国民党軍指導者=が、ハワイ・ホノルルの病院で十四日午後八時五十分(日本時間十五日午後三時五十分)、肺炎のため死去した。六月一日に百歳の誕生日を迎えたばかりだった。
張氏は事件後、蒋氏から自宅軟禁などで半世紀余り自由を奪われた。事件は抗日に向けた「国共合作」のみならず、新中国誕生につながる歴史的転機となっただけに、中国側は同氏を「愛国者」と称賛した。
しかし、台湾では昨年三月の総統選で国民党が初めて下野。中台関係の変化の中で、張氏も政治的な役割を終え、息子と娘、三人の孫など近親者だけにみとられた最期となった。
| 西安事件 |
中国・西安で1936年12月、国民党軍の指導者、張学良氏らが抗日のために共産党との内戦を中止するよう求め、国民党政権の故蒋介石氏を監禁した事件。
共産党の故周恩来氏(後の中国首相)は、挙国一致の抗日政策に転換するとの蒋氏の了解の下、蒋氏を釈放するよう調停。この結果、翌37年7月、盧溝橋事件で日中戦争が拡大した後、国民党は内戦を停止し、抗日民族統一戦線(第2次国共合作)を成立させた。
張氏は事件後、蒋氏によって禁固刑や自宅軟禁に処され、50年以上にわたり自由を奪われた。 |
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内戦時代、中国の東北地方を支配した奉天軍閥、張作霖将軍の長男。二八年六月、父が日本の関東軍の謀略で爆殺された後、東北三省(遼寧、吉林、黒竜江各省)の実権を掌握した。
張氏は東北地方を植民地化しようとする日本の圧力を受ける中、南京の国民政府に忠誠を誓い、同政府の支配下に入った。三一年の満州事変では積極的な抵抗をせず「不抵抗将軍」とも呼ばれたが、共産党平定を優先する蒋氏の方針に反対、抗日を訴えて「西安事件」を起こし、第二次国共合作に道を開いた。
事件後、禁固十年の刑を受け、国民党とともに四六年末に台湾に移ったが、軟禁生活は李登輝政権下で自由を回復する八九年まで続いた。九四年以降、夫人の趙一荻(ちょう・いってき)さん=昨年六月死去=とハワイで老後を過ごしていた。九月末から肺炎で入院していた。
台湾との統一を急ぐ中国は、張氏に再三「里帰り」を促し、張氏も「機会があれば訪問したい」と述べていたが、果たせなかった。中国の最高指導者だった故(トウ)小平氏の長男、樸方氏が昨年九月末、ホノルルに同氏を訪ねた。
(トウ=登におおざと)