西安事件の張学良さん死去 蒋介石に抗日迫る


中国現代史の転換点となった1936年の西安事件で、国民党軍を率いる蒋介石に抗日を迫った張学良さんが
14日夜(現地時間)、移住先のハワイ・ホノルルで老衰のため死去した。100歳だった。

 中華民国時代の軍事指導者。東北地方の軍閥、張作霖の長男。28年、日本軍による鉄道爆破事件で父を殺
された。その後、東北の軍権を握り、蒋介石の国民党に従った。だが、蒋介石が共産党軍討伐に力を入れ、抗
日戦争に消極的だったため、36年に西安で蒋介石を監禁、内戦停止と一致抗日を迫った。37年の国共両党の
第2次国共合作につながった。

 事件後に軍事裁判にかけられ、86年まで軟禁状態が続いた。その後の名誉回復で90年に台北で誕生祝賀会
が開かれた。(18:52)


 
台湾の張俊雄・行政院長(首相)の訪問を受けた張学良氏(右)=9月10日、ハワイ・ホノルルの自宅で、台湾・行政院新聞局提供


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  sankei 2001.10.15

西安事件の張学良氏死去

 【台北15日=共同】十五日の台湾のテレビ報道によると、日中戦争中の一九三六年十二月、抗日のために共産党との内戦停止を求め、中国・西安で故蒋介石氏(当時国民政府主席)を幽閉した「西安事件」の主役、張学良氏=当時の国民党軍指導者=が、ハワイ・ホノルルの病院で十四日午後八時五十分(日本時間十五日午後三時五十分)、肺炎のため死去した。六月一日に百歳の誕生日を迎えたばかりだった。

 張氏は事件後、蒋氏から自宅軟禁などで半世紀余り自由を奪われた。事件は抗日に向けた「国共合作」のみならず、新中国誕生につながる歴史的転機となっただけに、中国側は同氏を「愛国者」と称賛した。

 しかし、台湾では昨年三月の総統選で国民党が初めて下野。中台関係の変化の中で、張氏も政治的な役割を終え、息子と娘、三人の孫など近親者だけにみとられた最期となった。

西安事件
 中国・西安で1936年12月、国民党軍の指導者、張学良氏らが抗日のために共産党との内戦を中止するよう求め、国民党政権の故蒋介石氏を監禁した事件。
 共産党の故周恩来氏(後の中国首相)は、挙国一致の抗日政策に転換するとの蒋氏の了解の下、蒋氏を釈放するよう調停。この結果、翌37年7月、盧溝橋事件で日中戦争が拡大した後、国民党は内戦を停止し、抗日民族統一戦線(第2次国共合作)を成立させた。
 張氏は事件後、蒋氏によって禁固刑や自宅軟禁に処され、50年以上にわたり自由を奪われた。

 内戦時代、中国の東北地方を支配した奉天軍閥、張作霖将軍の長男。二八年六月、父が日本の関東軍の謀略で爆殺された後、東北三省(遼寧、吉林、黒竜江各省)の実権を掌握した。

 張氏は東北地方を植民地化しようとする日本の圧力を受ける中、南京の国民政府に忠誠を誓い、同政府の支配下に入った。三一年の満州事変では積極的な抵抗をせず「不抵抗将軍」とも呼ばれたが、共産党平定を優先する蒋氏の方針に反対、抗日を訴えて「西安事件」を起こし、第二次国共合作に道を開いた。

 事件後、禁固十年の刑を受け、国民党とともに四六年末に台湾に移ったが、軟禁生活は李登輝政権下で自由を回復する八九年まで続いた。九四年以降、夫人の趙一荻(ちょう・いってき)さん=昨年六月死去=とハワイで老後を過ごしていた。九月末から肺炎で入院していた。

 台湾との統一を急ぐ中国は、張氏に再三「里帰り」を促し、張氏も「機会があれば訪問したい」と述べていたが、果たせなかった。中国の最高指導者だった故(トウ)小平氏の長男、樸方氏が昨年九月末、ホノルルに同氏を訪ねた。


(トウ=登におおざと)