| あの暑い夏からもう二年になる。さる七月二三日は、私の恩師である黒田清さんの命日。その三回忌を前に、ようやく一冊の本を上梓することができ、心の底からホッとしている。
黒田さんの遺志を引き継ぎ、事務所の後輩である栗原佳子記者とともに取り組んできた「関電争議」のドキュメント――『関西電力の誤算』(上下巻各一六〇〇円+税)が、旬報社から出版されたのだ。
「関電争議」とは、共産党員、あるいはその支持者という理由で、勤め先の関西電力から人権を侵害された社員、退職者一〇一人が会社を相手取って闘ってきた、いくつかの裁判などの総称である。
関西電力といえば、従業員二万五〇〇〇人、資本金も四八九三億円という関西のトップ企業で、近畿圏を電力供給エリアにして年間に二兆五八〇〇億円あまりを売り上げる、世界でも五本の指に入る大電力会社なのである。
その関西電力が一九六〇年代に本格的に始まる「生産性向上運動」と軌を一にして進めてきた反共的な労務管理は、「左派」の活動家たちを自発的に辞めるところまでに追い詰めていく“第二のレッド・パージ”だった。
彼らは「マル特社員」という符牒で呼ばれ、転向強要に応じない者は不当配転させられた。新たな職場では、一日中、机の前に座らされたまま、ろくな仕事も与えられなかった。上司の監視の目が光り、サークル活動からも仲間外れ、食堂ではどんなに混雑していても、隣の席は空いたまま。なかには、警察と連絡を取り合って監視や尾行される者もいた。
関西電力が、憲法および法律に従って他の従業員と公平に取り扱うことなどを約束、解決金として一二億円を支払って和解したのは九九年の暮れのこと。最初の裁判の提訴から三〇年もの歳月が経っていた。
この「関電争議」を一冊の本にすることは、黒田さんがどうしてもやり遂げておきたい仕事だった。膵臓ガンが肝臓に転移し、阪大病院に再入院することになった二〇〇〇年四月二七日にも、「関電については精力的に取材をしてくれて感謝しています。はやくこれをもとにした作業にかかりたいと思います」――というメールをもらっていた。
しかし、その後、黒田さんの容態は悪化するばかりだった。私は病室を見舞うたびに、元気を取り戻してもらいたいと、「関電を仕上げましょう」と言葉をかけ続けた。黒田さんが「新しい仕事に気力を燃やして闘病すれば、いい細胞が増え、悪い細胞をやっつけてくれる」と信じていたからだ。
退院して自宅療養することになった黒田さんを訪ねた際、「お前が取材班のキャップとして、何とか本に仕上げてくれ」と言った、淋しげな表情が忘れられない。
その一〇日後、黒田さんは息を引き取る。
黒田さんの葬儀の後、生前に遣り残していたもう一つの仕事――『権力犯罪』(旬報社)の執筆のほかに、新たな仕事も入り、どうしても、私たち取材班の作業は遅れるばかり。ようやく、「上」「下」巻とも脱稿し終えたのは、黒田さんが亡くなってから二年たった、この七月だった。
タイトルこそ、『関西電力の誤算』だが、私たちは関西電力という会社を、また、その会社組織の中にあって心ならずも原告たちを“職場八分”した社員たちを責める気持ちはまったくない。それは、黒田さんの思いでもあった。
出来上がった本を手に一献傾けていると、黒田さんの言葉が思い出されてくる。
「戦前、戦中は、忠誠心の対象は天皇制やった。戦後は、それが企業に変わった。そやけど、会社に人の心、人の生き方まで縛る権利なんてない。社員やからいうて、身も心も会社に忠誠を誓う義務なんてあらへんねん」――。
(大谷昭宏事務所記者) |