[ 目 次 ]      月刊・お好み書き 2002年8月号


ある障害をもったゲイの死


 5月下旬、ある障害をもったゲイ、Hさんが亡くなった。以前、本紙がHさんを取材した際の「ナメた態度」について、紙上でご批判いただいた方だ。大阪ゲイコミュニティ(OGC)の平野広朗さんの一文(OGCにゅうす6月30日号)で知ったが、平野さんがHさんから聞いた話を明かして綴った「ぼくなりの『落とし前』」には、Hさんの死に至るまでの葛藤、障害者解放運動の自己矛盾やゲイ差別の現実などが如実に描かれていた。平野さんが後に加筆修正したものを本紙用にさらに編集させてもらい、ここに紹介する。

(編集部)

 

■「それのナニが問題か?」が問題だ■
〈Hくんの死を弔う〉 平野 広朗

 5月の末日、知り合いが亡くなったという。その2日後に知った。死の状況とか何時ごろ息を引き取ったかといった詳しいことはわからない。聞いて回る努力もしていない。だが、彼の死の数時間前、31日午前一時半か二時ごろに、おそらくは彼の最後になったであろう電話を、ぼくは受けた。


仲間の追悼文集に顔写真を無断掲載されたHさんは抗議するが、その過程でさらに傷つくことになる。Hさんの苦悩をよそに、文集の完成が誇らしげに報じられた(京都新聞5月29日付)


 「もう…死にたい…」「え?電話でそんなこと言われてもどうしようもないやん」「薬も効かへんし…」「いったい、どないしたん?」「……(プツン)」――いつになく、短い電話だった。この電話と彼の死とが、どこでどうつながっているのか、つながっていないのか、それはわからない。わからないながらも、もう少し長く話を続ける努力はできたのではなかったかという想いは残る。まさか、こんなことになろうとは思ってもみなかった。前日の29日(から30日にかけて)には、いつものように二時間ばかりの長電話がかかってきていたのだから。
 彼の名をここでは「Hくん」としておく。障害をもったゲイとして名告り(なのり)を挙げて活動していたのだから名を伏せる必要はないのかもしれないが、理由(わけ)があってイニシャルにする。
 彼はよく憤っていた。「まあ、そんなに怒らなくても」と感じるときもあったが、たいていの場合、ぼくは彼の怒りは正当な怒りだとして、彼を励ますような受け答えをしてきた。怒りは正当な怒りでも、怒り方(怒りのぶつけ方)を間違うと相手も頑なになってしまって抗議が逆効果になると思われたときには、スリ抜け方をアドヴァイスしたりもした。

たくさんの憤り・怒り

 そもそも彼がぼくのところに最初に電話してきたときも、「○○○(有名なゲイ・リブ団体)に、自分は言語障害をもっていて電話での相談は無理なので、FAXでの相談に乗って欲しいと連絡したら、冷たくあしらわれた」といった憤りを、おずおずとぶちまけることから始まった。ここ(OGC)でも冷たくあしらわれるかもしれないという心細さからか、遠慮がちな語り口であったような記憶がおぼろげに残っているが、その憤りは正しい、○○○の対応はけしからんとぼくが告げると、それ以来ちょくちょく連絡してくるようになった。十年以上昔のことである。
 これまでに、随分たくさんの彼の憤り・怒りに付き合ってきた。ぼくが見落としているような問題・事件を見つけ出してきて注進してくれたことも、幾度となくあった。「あんたも△△△と同じ、運動依存症だよ」とからかったのはつい最近のことだが、まあ、大変なエネルギーだこと、と半ばあきれつつ、感心していた。
 そんなこんなで彼の精神状態が不安定になっていったのか、精神状態が不安定だから次々といろんなことに引っかかっていったのか、それはわからない。最近は主治医ともめたりホームヘルパーともめたりして、本人も「いつもなら、これくらいのことでもめたりしないのだろうけど…」などと苦笑していた。電話の向こうで号泣することもあった(この「号泣」にはそれなりの理由があったものの、感情の起伏が激しくなっていたことは事実だろう)。
 ここ数ヶ月にわたって彼が憤っていたことは二点あった。いずれも障害者解放運動(の仲間)に対するものだ。彼の死に際して気落ちしたり責任(の一端)を感じたりするほどヤワな神経をぼくは持ち合わせてはいないが、彼が最後までこだわり続けたこの二点について(特に二点目)、彼から聞いた話をここで明らかにして、ぼくなりの「落とし前」をつけておこうと思う。
 一つ目は西宮に事務所をもつ障害者運動の団体が呼びかけて、全国各地持ち回りで開催している障害者**フォーラム(**には「市民」が入るのだったか?)の秋田大会に対する抗議についてだ。おととしの鳥取大会では、Hくんはある分科会にパネリストとして招かれて(「障害者の恋愛・性・結婚」とかいうテーマだったかと思う。ぼくは「テーマが間違っている」と主張してきなはれ、などとアドヴァイスした)、異性愛のことばかりでなく同性愛などのセクシュアル・マイノリティのことにも注意を払ってテーマ設定をすべきだという話をしてきたのだが、去年の秋田大会では「ねるとんパーティー」が企画されて、鳥取大会での問題提起がまったく活かされていないと怒り心頭、長いこと怒り続けていた。現地実行委員会・西宮の団体との遣り取りの逐一を聞かされたぼくは、「そうは言っても、いつもいつも同性愛のことにも気配りをしておけ、というのも酷だし、『ねるとん』くらいの息抜きもしたいんじゃないのかなあ」などと思いつつも、「確かにHくんの言うことは正論ではある。人が集まれば男と女はくっつくものという思い込みが、『出
会いのない障害者』『結婚できない障害者』を追い込む元凶なのだから」と考え直して、彼にいろいろ入れ知恵をした。

ボクのこと忘れないで

 西宮の団体というのは、Hくんが活動を始めたころ、相談者を装って「障害をもったゲイなんですけど、相談に乗ってくれますか?」と電話をかけて、「そういう相談には乗れないし、将来もそんなことに取り組むつもりはありません」という回答を引きずり出した団体である。障害者の性の問題に理解ある団体として有名なところにしてこのていたらくだということで、ゲイ・フロント関西が大阪大学学園祭に参加したときに告発していたところだ。あれから十年ほどが経って、Hくんの抗議に反応するまでには成長したようだし、彼の言い分を認めもしたようだが、「現地に任せている。秋田の方には伝えた」止まりで先に進まない。秋田からの反応はまったく見当外れで糠に釘、同性愛の障害者なんて眼中にないという反応だったという。ぼくは、そういう論外の相手にエネルギーを注いでも疲れるだけだからマスコミに取材させなはれ、そしたら、こういう人権団体は(メンツがあるから)ビビるはずだ、とアドヴァイスした。
 ぼくからすれば、「いつもボクのこと(同性愛のこと)を忘れないで」と訴え続けたHくんの主張に、常に100%共感できたわけではない。ヘテロだけで勝手にやらせといたら?と思うようなときもあったし、「忘れるな」だけでは問題の本質は衝けないし、障害者を巡る問題と同性愛者を巡る問題とに底通するものを提示出来ないでいるHくんにもどかしさを感ずることもあったからだ。だが、「健常者のように結婚できることが障害者の幸せ」と思い込まされていることが障害者を追い込んでいるのだという根本問題を批判せずして「ねるとん」ゴッコにいそしむ秋田大会は、やはり、批判されても仕方あるまい。
 死の直前まで彼が憤っていた問題の二つ目は、Hくんにとっては一件目よりずっと辛くて困難な問題であったろうと思われる。それは闘いの相手が彼の日常にも関わる身近な人たちであったからだ。長年共に運動を闘ってきた(年上の)仲間の死を悼んで追悼文集を出すことになって彼も一文を寄せたのだが、本人の承諾もなしに、亡くなった人と彼ともう一人とが写っている写真が載せられていたというのだ。寄稿文の中でHくんは、自分がゲイであること、「H」というペンネームを使ってゲイ・リブの活動をしていることを明らかにしている、その文中に挿入するようにして顔写真が使われたという。
 そこで彼は、写真の無断使用(肖像権の侵害)とプライヴァシーの侵害を訴えて編集委員会に抗議したのだが、その過程でさらに傷付くことになった。ひとことで言ってしまえば、「それのどこが問題なのか?」と言わんばかりのあしらいを受けたのだ。Hくんが本名でなしにペンネームを使って運動しているということは、(親の付けた名でなく、自分の名は自分で命名するという主義の人を除けば)「カムアウト」しているとは言え、メンが割れては困る部分を抱えているということを意味する。彼が雑誌等の取材を受けても顔写真は撮らせなかったのも、「身近な人」にゲイであることを知られたくなかったからだ。「身近な人」というのも曖昧な表現で、ぼくにも彼がどこで線を引いていたのか判然としないところはあるが、少なくとも自分の家族・親戚・隣近所には知られたくなかったようだ(最近、母親にはカムアウトしたが。母親にカムアウトするまでの心の葛藤を語りながら、彼は声を上げて泣いた)。

身近な人たちとの闘い

 そんな彼にとって、断りもなしに顔写真が掲載されたことはドン底に突き落とされたようなショックだったろう。しかも、一緒に運動をしてきて彼の事情をよく承知しているはずの「仲間」からの仕打ちだ。編集委員の一人は、彼の元職場のリーダーでもあり自立共同ホームで一緒に住んでいる隣人でもある。「抗議」と、日常の共同生活の場での「お付き合い」との折り合いをどうつけたらいいのか。Hくんの「抗議」の行き先は揺れに揺れ続けた。話し合い、民事調停、裁判、慰藉料、文集の回収、再編集…ことを荒立てたくないという思いと、先方の誠意のなさに対する怒り…
 話し合いの場に立ち会って仲介をし、彼の言い分を代弁・補強してやるべきだったのだろうかと、今でも迷いが残る。脳性麻痺による言語障害があるHくんは、口頭の言い争いでは分が悪い。ものわかりの悪いおっさん相手に彼が孤軍奮闘するにも限界がある。だからと言って、ぼくがしゃしゃり出ていって彼の言わんとするところをスラスラと代弁してしまっていいものだろうか…とりあえずは、弁護士に相談するときには付き添ってきてくれという彼から出された要望にだけは従うことにしていたのだが、実現する前に彼は逝ってしまった。そう言えば、ここ何年か、彼には会ってない。
 先方から返されたという暴言の数々を聞いて、ぼくは自分の耳を疑った。これが長年障害者解放運動(という人権運動)を担ってきた者の言うことか。「長年運動をしてきたという奢りがあるね」と、ぼくは即座に断じた。曰く――

  • これくらいのことで「人権侵害」なんて言葉を使うな。言葉が軽くなってしまう。
  • 一々写真の許可を取れと言うなら、テレビの街頭インタヴューなどの背景を通り過ぎてゆく人にも許可をもらわなければいけないことになる。
  • 「ゲイ差別」と言うが、どんな差別を受けているのか説明してくれ。元々結婚してない(から「結婚差別」とは無縁な)んだし、ゲイだからといって仕事を辞めさせられるわけでもないのだろう。(我々のように)一目で障害をもっているとわかるわけではなく、隠すことが出来るのだから(まだ、ましじゃないか)。
  • わたしだって顔を晒して活動している。君はどうしてもっと堂々と胸を張ることが出来ないのか。
  • せっかくみんなで協力して完成までこぎつけて喜んでいるのに、水を差すのか。

 ――どうだろう。呆れるばかりの発言の数々ではないか(共同ホームの隣人Yさんと、もう一人の編集委員Wさんの二人のものを併記した)。人権のなんたるか、差別のなんたるかが、さっぱりわかっていない。こういうおっさんが「人権運動」を担ったつもりで大きな顔をしていられる社会だから、人権侵害・差別はなくならないのだ。呑気にカムアウトなんかしたらえらい目に遭うのだ。
 本人の了解なしに顔写真を載せることが人権侵害・肖像権の侵害であることなど、イロハのイだ。街頭インタヴューの背景に偶然映ってしまったケースと今回のケースとをゴチャ混ぜにして自分たちの落ち度を糊塗しようとするなんて、ノラリクラリと言い逃れしようとする政治家・官僚並みの厚顔無恥であろう。今回のケースでは、誰の写真をどこに(どの文章のページに)使うかわかっている、いわば確信犯だ。被写体の名前も身元もわかっているのだから、一々確認を取るのが当たり前というものだ。Hくんの文章内容が内容なだけに、なおさらのことである。
 「君ももっと堂々としたらいいじゃないか」については、正直言ってぼくもそう思わないでもないところはある。確かに活発に活動を展開していくときには、顔を晒している強みがものを言うことがある。マスコミ対策で一々迷ったり考え込んだりする必要がなくなって、最後まで突っ張ることが出来る(ペンネームについては、そういうやり方もあるかも知れない、それを「自分の名」として押し通すなら、「本名」と同等になるだろうとは思う。「平田豊」さんがそうしたように)、とは思う。だが、そのことと今回のこととは次元の違う話である。将来のことはともかくとして、今現在Hくんは「H」というペンネームを使って不特定多数には顔を晒さないというスタンスで活動をしている。その現状に立って文集は編集されるべきであって、本人の意思を無視してしまった加害者の側が、被害者に対して説教を垂れるなど、とうてい許されることではない。破廉恥である。
 Yさんは確かに、会ってみれば一目で障害をもっている人だと知れる(ぼくは一度会ったことがある)。だが、「隠すことが出来る↑↓隠すことが出来ない」を比較して差別の軽重を量ることに、いったい、どれほどの意味があるというのだろう。第一、「障害者」と一口に言っても表面に顕れた障害をもった人もいれば、表立ってはうかがい知れない障害をもった人もいる。Hくんの脳性麻痺の度合いは一目でわかるが、その他に、彼は耳の障害ももっていたし膝にも障害があって、どちらも手術を受けている(完治したわけではない)。不眠や鬱の障害ももっていた。日によって「男↑↓女」の性自認にブレが出るという「障害」ももっていた。これらは、本人が口に出して言わなければ他人にはわからないし、手術前の不安な気持ちや不眠などの精神的な障害について何度も電話で訴えられたぼくにだって、実感としてはわからないところがある。
 だから、あんたは隠せるんだからいいだろう、という言い草はとんでもなく人をバカにしている。こんなことだから、これまでの障害者解放運動は精神障害者の問題を置き去りにしてきたと批判されるのだ。「ゲイだから」と言って社員をクビにするような間抜けな会社はないが、言わなくてもクビにする、もしくは辞めざるを得ないように追い込んでいく会社はある。ゲイだとバレたとたんにペアを組んでくれる同僚がいなくなったという相談電話をもらったこともある。目には見えないところ、口には出さないところで横行する差別を見抜けないような者が、差別の軽重を云々するなど、笑止千万な話ではないか。
 Hくんは確かに結婚していなかった。縁談話ももちかけられなかった。だが、それは彼がゲイである(ことがバレていた)からではなく、彼が障害をもっていたからだ(彼の親は彼の目の前で、お姉さんに「お前は障害者を産むな」と言ったという)。そんな彼に向かって、ゲイは結婚しないんだから「結婚差別」で苦しむことはないだろうと言わんばかりの受け答えをするなど、なんともふざけた話だが、「結婚(制度)」をキーワードにすることで同性愛者差別と障害者差別の共通基盤が見えてくることに、YさんWさんたちが気づいてないらしいことが情けない。いったい、何年運動をしているのか。

結婚(制度)の呪縛

 多くの同性愛者は、したくもない結婚をさせられる(最終的に「ウン」と頷いた責任は当人にあるとしても)。世間体、親のため、出世のため・・・理由はさまざまだろうが、「男と女はくっつくもの」「結婚してこそ一人前」という結婚(制度)が強固だった時代には、ほとんどの同性愛者が結婚を余儀なくされ、それでも結婚しない者は世間から爪はじかれた。(重度)障害者はほとんどの場合、本人が結婚したいと思っても許されなかった。そうして、自己受容・自己肯定するエネルギーをさらに奪われてきた。一人の人間として見なされないことを思い知らされてきた。
 表面に表れた現象は一見逆に見えるが、根底にあるのは、「男と女はくっつくもの」「結婚してこそ一人前」という結婚(制度)の呪縛である。一方(同性愛者)は望まないものを押し付けられ、他方(障害者)は望んでも排除される。「ヒト」であるための条件が「結婚」であるような社会は、こうして逆のベクトルで人びとの幸福を奪ってゆく。もちろん、問題なのは同性愛者や障害者の側ではなく、「結婚社会」のほうである。 そうであるのに「結婚差別されました」などと訴えていけば、そのじつ「結婚社会」に加担することになってしまうのだ。「わたしもヒト並みに結婚したい」などと言っている人がいる限り、「結婚差別」は再生産される。「結婚差別」を受けたという人が必ず挙げるのが、親や家族・親戚の反対というやつだが、本気で結婚する気なら意志を貫いたらいいだけのことだ。「周囲の反対」が理由で結婚できないと嘆くということは、要するに結婚は周囲のためにするものだということを証明する。望まない結婚を押し付けられてきた同性愛者が世間体や親のためというのを言い訳にしていたことと、「結婚差別」の嘆きの声とはこうしてピッタリ照合する。
 「結婚差別」との正しい闘い方は、「結婚なんかしないこと」である。カップルで生きていったり子どもを産んだりすることはひとそれぞれ自由だが、「結婚」とはまったく別の次元の話だ。「結婚幻想」に縛られている間は、自立した人生は歩めない。
 Hくんも執筆した『知的障害者の恋愛と性に光を』(かもがわ出版)という珍妙な本の中に、四国の障害者施設の入所者たちが次々とめでたく結婚して出所していくさまを、あたかもこの施設の輝かしい成果であるかのように紹介した文章が載っているが、知り合いの職員に聞いてみると、職員も所長も「結婚して欲しい」なんて勧めていない、みんなこの本には怒っていると言っていた(「抗議しないのか」と重ねて尋ねたら、バカバカしいからしない、もっと大事なことがある、と)。編著者たちの勘違いが如実に表れたエピソードであろう。このことも含めて、Hくんは代表編集者に意見していたが、見当外れな返答が返ってきたばかりだったという。今回の追悼文集の編集者たちも、「結婚」を巡って障害者が苦しめられているのはなぜなのかという、「結婚社会」の根本問題がわかってないのだろう。
 「仲間で作ったんだから、いらんこと言ってお祝い気分に水を差すな」という脅し文句は、多分Hくんを最も苦しめたものだったろうと思われる。「ことを荒立てたくない」と繰り返しながらも、しかし、このまま黙ってはいられないと憤り、どのような打開策があるだうろかとさまざまに思い乱れていた。最後の長電話(29〜30日にかけて)は、5月1日に抗議文を出したのに何の回答も寄越さないまま、文集の完成を誇らしげに宣言した記事が「京都新聞」(5月29日朝刊)に載った、と言って抗議文と記事とをFAXしてきた直後のものだった。彼は、「ボクをなめている」とひどく落胆しつつ、激しく憤慨していた。そうして、何度も深い溜息をついた。

落胆、呆れるほど溜息

 正月過ぎに最初の相談を受けたとき、仲間内の文集だから裁判には馴染まないといって門前払いをくわされるかも知れない、と答えたぼくも、ここまで大っぴらにしてきたのなら裁判するしか方法はないだろうという方向でアドヴァイスをしたのだが、ほんとうは彼だって、そこまでのことはしたくなかったのだ。編集委員会が誠意さえ見せてくれていたのなら、彼が何度も深い溜息をつく必要もなかった。彼から相談を受けて「同性愛のことはよくわからない。勉強すべきなのだろうがその時間もない。ほかに弁護士を紹介して欲しいとのことだが、思いつく者がいない」という役立たずの返事しかしなかった弁護士については、「あんた、ホームページを持ってるんだから、そこにブラックリストを作って実名を公表してやりなはれ。いまどきこんなこと言っとる弁護士はあかんで。いまはネットで全国に情報が流される時代だってこと、思い知らせてやらなぁ」とアドヴァイスしたら愉快そうに笑っていた彼も、編集委員会のことになると、呆れるほどの溜息をつくばかりだった。きっと、人権を侵害された憤りと、「仲間」との板ばさみに苦しんでいたのだろう。一人の仲間のプライヴァシーを踏みつけて恥じないような「人権運動」など、ないほうがましだ。
 彼らは、いったいどんな顔をして葬儀に参列したのだろうか。葬式なんて出ないことにしているぼくには、知る由もない。

(7月7日、加筆修正)



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