[ 目 次 ]      月刊・お好み書き 2001年9月号


ほろよいジャーナル(4)

 
私たちが何をしたの、事故ではなく事件です

矢野 宏


 こういう痛ましい事故が起ったあとで、決まって被害者に投げつけられる声がある。「そんな危険なところへ行った方も悪い。自業自得や」といった無責任な非難だ。
 そのたいていの場合が一面的なマスコミ報道を鵜呑みにしたもので、思わず、「で、お宅はいったい何様?」と半畳の一つも入れたくなるのだ。
 さる七月二十一日、十一人の犠牲者を含む死傷者二百三十三人を出した兵庫県明石市の歩道橋圧死事故でも、その例外ではなかった。
 先日、たまに舞い込んでくる人権講演で徳島に渡ったときのこと。その前日の「囲む会」で、まだ三十路前の若い小学校教諭が「あんなところへ連れて行った親も親やと思いませんか」と、したり顔で語ったのである。
 常日頃から「裁判官と新聞記者と教師がしっかりしていたらこの国は滅びることはない」という独断の持ち主である私は、その瞬間、軽いめまいを覚えた。
 おいおい、教師ともあろうお方がそんな一方的な決めつけはアカンでえ、自分の常識におさまり切らない人を切り捨てることになる、ひいては差別につながると口には出さなかったけど、細い目で懸命に訴えていたのである。
 というのも、この事件から四日後、神戸市垂水区の下村誠治さん(四三)から、当時二歳だった次男の智仁ちゃんを亡くした深い悲しみ、悔しさをうかがっていた。
 そのとき、下村さんはこう切り出した。
 「まだ智仁が死んだという事実が受け入れられないんです。子どもを失った親として、自分を責めています。なんで助けられなかったのか、なんで花火に連れて行ったのか、と。でも、私たちが何をしたのですか」
 花火をみせてやりたい――と、下村さんが一家五人で会場に着いたのは午後七時半頃。すでに歩道橋は渋滞していた。引き返そうかとも思ったが、人波が動いていたからと、妻が四歳の長男の手を引いて生後八ヵ月の三男を抱き抱え、下村さんが智仁ちゃんを抱っこしてなかへと進んだ。
 「一歩ずつ」が、やがて「半歩ずつ」になり、出口近くまでたどり着いて完全に動かなくなった。胸が圧迫されて苦しい。下村さんは、「智、ここで待っとれ」と、智仁ちゃんを通路横の手すりの隙間に立たせた。
 花火大会が終った八時半過ぎ、一回目の将棋倒しが起きた。「スローモーションのように押されて海側へ倒れた」下村さんだが、何とか起き上がり、智仁ちゃんが無事なのを確認して倒れている人を救助した。
 「助けているときに、二回目の波がドバっと来たのです。一気に飛ばされる感じでした。女性が手すりを支える鉄柱の間に首を挟まれて血の気がありませんでした。同じように倒れている七、八人を引き抜いていったら、ぐったりと倒れている智仁が見えたのです」
 圧死だった。それでも下村さんは懸命に人工呼吸をつづけた。だが、すでに瞳孔が開き、最後は「それ以上続けたら、肋骨が折れてしまう」と看護婦さんに止められた。
 歩道橋のなかで動けなくなったとき、下村さんは近くの人の携帯電話で「このままでは危ないから、何とかしてほしい」と何度も一一〇番している。たが、とうとう誰一人として助けは来なかったのである。
「警察に見殺しにされた」。智仁ちゃんの遺影とともに、怒
りと悲しみの会見を行う下村誠治さん

 見物客たちはあちこちで透明な樹脂でできた歩道橋の壁をたたき、助けをもとめた。だが、報道橋の下にいた数人の警察官は何もこたえてはくれなかった(あとで、下からは曇って見えなかったと、警察から聞かされた)。
 「なんで花火大会に行って死ななアカンの。事故の原因は、歩道橋にあんなにたくさんの人を入れたこと。三十分も前から助けを求めていたのに警察が無視したこと。見殺しにされた。これは事故ではなく、事件ですよ」
 そう言って、下村さんはボロボロと涙を流したのである。
 とかく、私たちは物事を一つの方向からだけ見て、すべてがわかったような気になってしまいがちだ。
 例えば、水の入ったコップに赤鉛筆を入れ、横から見ると曲がって見える。それは一つの事実に過ぎない。だからといって、赤鉛筆は曲がっているか、というとそうではない。
コップの水からその赤鉛筆を抜き出してみる。その作業が、私たち記者にとっての「取材」であり、先生方にとっての「教育」ではないか。人権問題についてもまた然りである――。そんなことを講演ではお話しした。
 取材のあと、下村さんは、「お子さん、おるの?」と声をかけて来た。ええ、と頷いた私に、こう語りかけてくれたのである。
 「おるんやったら、守ってやってな。俺、守られへんかったけど……」
 それでもあなたは、「親も親やで」と非難しますか。




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