[ 目 次 ]      月刊・お好み書き 2001年2月号



今どきの学校 39

鈴木先生過労死裁判2月5日判決へ
多くの人に思い出を残した先生だった


● 読者からのメール ●

 1月のある日、編集長のもとに、次のようなメールが届いた。(以下『』内はメール内の文)『はじめまして。川内(かわち)と申します。何気なく私の母校〈新金岡小学校〉を検索して【今どきの学校35】を拝見し、唖然としました。15年以上前、私が小学生時代。鈴木先生が、受け持つ学級と同じ学年で、体育主任。学年集会などで、とても、印象に残っていた先生でした。まさか、過労が原因で、亡くなっていたとは・・・。私は、卒業と共に、移転してしまい。鈴木先生の死は知りませんでした。その後の裁判は、どうなったのでしょうか?』
 昨年の初めごろ載せていた私の元同僚だった鈴木均先生過労死裁判の記事は、「今後に向けて」という項目で終わっている。そして昨年1年間で、結審にまで至った。その経過を書くことに迷っていた私だが、気にかけておられる方に報告もしなければと、再び記事にすることにした。
 川内さんの在籍していた十五年前は、私も新金岡小学校に養護学級担任として勤務し、鈴木先生はその中の一人、Hさんを通常学級で担任していた。その頃の話を川内さんは『そうです。Hさんと同じ学年です。3年生の時は、同じクラスでしたよ。(^o^)/。当時、私は「Hちゃん係」を担当していたので、よくひまわり学級に出入りしていました。Hさんは、卒業時の担任の先生は、6ー4鈴木先生でしたね。私は、隣の6ー3関灘先生でした。「鈴木先生は、怖いイメージがあるけど。実は、いい先生やで」当時、鈴木学級の友人は、言っていました。体育集会やプールの水泳授業、指揮はいつも、鈴木先生で、非常に熱心でした。』
 それから4年後、児童数が減り、先生の数も少なくなる。しかし仕事の量は同じ、誰かがしなければならない。それをほとんどといっていいほど引き受けていたのが鈴木先生だった。


● 6時間にも及ぶ証人尋問 ●

 昨年9月、亡くなった当時の先生の仕事ぶりを知る4人への証人尋問が行われた。
 まず、当時警備員を勤めていた津村さんは、鈴木先生が亡くなってすぐ、証拠になると思われる警備日誌を今までずっと保管しておられ、証拠として提出された。また、退勤後も、近くの公園で指導しているところを度々見かけたりしたなど、その熱心さを証言した。
 次に養護学級の担任だった小笠原先生の証言。鈴木先生はこの時も養護学級生Fさんの通常学級担任をしていた。また、身体面や家庭面で配慮を要する児童も多数おり、その一人一人に暖かい指導をしておられたことなどを証言した。不登校傾向の児童を向かえに行くことも度々あったという。
 昼休みをはさみ、鈴木先生に一番近しい同僚だった山本先生が証言する。山本先生は、鈴木先生が亡くなってすぐに過労死であることを証明する資料を集め、準備書面を作ることに一番尽力した先生である。体育主任と保健主事を兼務したという過重性、人間関係の負担、日程の過密化による負担、発症前の責任ある多忙な行事による負担など、裁判官ににあらためて鈴木先生の死が過労であるとうなずかせるような内容だった。
 最後に原告である和子夫人の証言。家庭での夫の様子、持ち帰り残業により家でも遅くまで仕事をしていたこと、そして亡くなったときの様子など。4人の証言に要した時間は、相手側の尋問もあわせて、6時間以上にも及ぶものだった。


● 的を得ぬ相手側の 反対尋問 ●

基金(地方公務員災害補償基金)は、それぞれの証言に対し、反対尋問を行ったが、公務が過重であったことは明らかであり、的を得たものにはなっていなかった。「帰宅途中に倒れたというが、殴られたのではないか」「学校の帰りに林間学校の写真を取りに行ったというのは方便だ」など、傍聴者を呆れ返らせるものもあった。そしてあくまでも「既往症から発症した脳梗塞」であるとし、「それを証明する意見書を医者に書いてもらうためもう少し待ってくれ」と裁判長に頼む始末。裁判長も「それはれまでに提出されていなければならないものだった。これ以上待てない」と相手側弁護士を注意する。明らかにこちらに優位だと誰もが確信した。


● 十二月六日結審 ●

 それから2ヵ月あまりの間で、原告、元同僚、弁護団が数回集まり、B5判七十九ページにも及ぶ最終準備書面を作成した。
 また、基金も最終書面を提出してきたが、そこにも「不登校傾向の児童を迎えに行っているのはストレスを解消させる気分転換をもたらし…」「(配慮児童について)配慮がいるかどうかは主観の問題」などと書かれてあった。
 これを元にし、裁判長は判決を下すことになるのである。


● 裁判所へ要請行動 ●

 二学期の終業式を終えた十二月二五日と二六日に、私たちは裁判所への要請と、裁判所前でのビラ撒きを行った。私たちが闘っている現状を所内のたくさんの人に理解してもらうためだ。何人もの人が手渡したチラシを熱心に見てくださっていた。また同日行なわれた東大阪の保育士さんの頸肩腕症候群の公務上認定を求める裁判で、鈴木裁判と同じ松本裁判長は『公務によるもの』と認定し、勝利を勝ち取っている。そしてその判決以後の相手方に対する控訴断念の取り組みにより、相手が控訴をしないことを決め、勝利確定となった。


● 二月五日判決へ ●

 長かった公務災害認定まであとわずかになった。もちろん、まだ勝つと決まったわけではないが、私たちは勝利を信じてここまで闘ってきたのだ。しかし、勝利判決が出てもそれで終わりではない。判決後2週間以内に相手が控訴しないようにたくさんの人、団体から断念の要請をしてもらわなければならない。今、事務局はその準備に追われている。すでに今までたくさんの方々、団体から署名をいただいているので、再度お願いをするべく準備しているのだ。
 私はメールをくれた川内さんの経営する店をを訪ねたが、忙しそうだったので鈴木先生の追悼アルバムをおいて帰ってくると、翌日またメールが届く。『校内に響き渡る、鈴木先生の声…。十五年以上たった今も覚えています。冬の金剛登山の時です。運動神経の鈍かった私は、登山道で転倒。ズルズルと滑りました。「どんくさいやっちゃな〜〜。がんばれ、川内!」私の体を受け止めてくれたのは鈴木先生でした。』
 誰にでも厳しく優しく指導してくださった鈴木先生の死を決して無駄にはしたくない気持ちで判決の日を待っている私である。(新野貴子)



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