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目 次 ]      月刊・お好み書き 2000年9月号


 追悼・新聞記者 黒田 清 


色々と教えてもろた。
 言い付け、ちゃんと 守ってまっせ 

笑福亭伯鶴

 黒田はん、もう1ヶ月が過ぎましたなあ。7月23日の朝、風呂から出てきたら、付けっぱなしのテレビのNHKのニュースが「黒田清さんが…」言うてまんねん。「あれっ?!」思てたら「謹んで御冥福をお祈りいたします」言うやないですか。びっくりしましたで。けどもう大分お悪いちゅうことを聞いてたから「ああ、ついに!」と思いましたなあ。
 けどねえ、なんぼなんでも、ちょっと早過ぎるんと違いますか。なんぼ大阪人はせっかちやいうても、何もそない慌ててそっちへ行かんでもええのに。
 初めてお会いしたんは、僕の行き付けの十三のちゃんこ鍋屋でしたなあ。読売新聞を辞めて黒田ジャーナルを作らはってすぐのときで、出演してはった朝日放送のニュース番組のあと、アナウンサーの中原さんと一緒に来はったんでしたなあ。僕は読売新聞の「窓」と「戦争」を読んでたから、心安かった中原さんに「是非紹介して!」言うて頼んだんがきっかけですわ。初対面やのに、あのときもぎょうさん飲みましたなあ。
 あれから13年、月並みな言い方やけど、色んなことを教えてもらいました。もし黒田はんに出会うてなかったら、きっと今の僕とは違う価値観を持った人間になってしもてたやろと思いますわ。もっともっと差別的な人間になってたやろし、「いざとなったらやってまえ!」言うて、戦争を肯定してたかも解りまへん。そこまでにはならんですんだんは、黒田はん、あんさんにお会いできたからですわ。

伯鶴・結婚式
伯鶴(中央)と智香さんの結婚式で乾杯する仲人、黒田清さん(左)=89年10月

 黒田はんには、えらい無理を聞いてもろたことがおましたなあ。僕の結婚式のときですがな。独演会のゲストにも出てもらいたいし、仲人もしてもらいたい。けど、黒田はんは無茶苦茶忙しい。ほなどないすんねん。両方を1日でやってしもたらええねん、ちゅうので、昼間は独演会のゲストに出てもろて、夜は仲人をしてもろて。リハーサルが朝の10時頃に始まって、独演会が終わったあと、結婚式までまだ時間があるから言うて、差し入れにもろた酒を楽屋で飲んで、2時間15分で終わるはずの披露宴が3時間以上かかってしもて、ほんまにえらい目に遭わせましたなあ。明くる日の日刊スポーツのニュース・ライダーに「大変な疲労宴やった」と書かれてしまいましたがな。
 色々と教えてもろた中で、「これだけは」と心に堅とうに誓うて、未だに守ってることが、一つおまんねん。7、8年前に僕が「35歳を超えたら、酒が残るようになりましてねえ。それにもあんまり飲まれへんようになりましたわ」言うたら「何を情けないこと言うてんねん。そこで量を落としたらあかんねん。無理に飲むんや。僕もそんな時期があったけど、そのときに諦めんとそれまでとおんなじ量を飲んだか ら、今でも、ビールと酒と焼酎とウイスキーをチャンポンしてもなんともあれへんねん。とにかく、飲まなあかんねん」言うてくれはりましたなあ。あの言い付け、ちゃんと守って、修業やと思て毎晩飲んでまっせ!けど、そない言うて教えてくれはった本人がガンで亡くならはったとなると、ちょっと心細うなってきてまんねん。

 こないだ、嫁はんの智香が黒田はんの夢を見たそうですわ。前々から智香に食べさせたる言うてはって、結局実現せなんだ「鱧のにぎり鮨」を食べさせてもろてる夢やそうですわ。僕との約束の「てっちり」。あれ、どないなってまんねん。まあ、僕もいずれそっちへ行くことやから、そのときの楽しみにおいときまっさ。そのかわり、利子が付いてまっせ。ひれ酒も飲ましてや。それまでにちゃんとええ店を探しといとくなはれな。
 黒田はんが亡くならはったあと、あっちこっちの番組で特集をやってて「黒田はんて凄い人やったんや」思いましたけど、僕らにはその「凄さ」を感じさせへん、僕らが子供の頃、町内に一人や二人はいてた「気のええおっちゃん」そのものでしたなあ。夏の夜には怪談話をしてくれて、悪さをしたらどつきよるおっちゃん。時々「黒田先生」言われてはったけど、僕にとっては「黒田のおっちゃん」「黒田はん」ですわ。そんな人やから、ああいうジャーナリズム活動ができたんでしょうなあ。
 実は、まだ黒田はんが亡くならはったという実感がわきまへんねん。FAXを送ったら、いつも通りにすぐに返事が返って来るような気がしてねえ。もしそっちからFAXが送れるようやったら送っとくなはれ。「あの世ちゅうのはこんなとこや!」言うて書いてもろたら、この「お好み書き」に載せさせてもらいますわ。そら、世間ではえらいことになりまっせ。とりあえずちょっと淋しなるけど「あの世」へ特派しときまっさ。
 ほな、また。ご機嫌よう。




「本多さんにボクかいなぁ。
 キミ、ヘンな趣味やねんなぁ」
出会い契機に記者としての柱形成

お好み書き編集長 庄村 有治

 最後に本紙編集長として、私は笑福亭伯鶴とともに黒田氏を見送ったことを報告しておきたい。とくに伯鶴は自身の結婚式の際、黒田氏に媒酌人を務めてもらった間柄である。遺影の前で夫婦円満・家内安全の報告をしたに違いない(?)。

 私といえば、黒田氏と初めて会った日のことを思い出していた。詳しい日時までは覚えていない。その日までに彼の事務所を何度も訪れていた私は、若いスタッフとは顔見知りになっていた。が、親方である黒田氏に会った経験はなし。
 ある日、事務所へふらりと遊びにいくと、黒田氏が机の前で執筆している姿が眼に入った。すでに新聞記者の端くれになっていた私にとって、同氏はとにかく憧れの方である。勇気を出して挨拶することにした。あの大きな眼で私をジロリと見た黒田氏は、ソファーに座ることを勧めてくれた。
 「キミ、いくつやねん?」「なんで新聞記者になったん?」と聞いて下さるが、緊張のあまりなんと答えたかは覚えていない。
 ただ、「私の好きな新聞記者は東西に二人います。東は本多勝一氏。西は黒田さんです!」とヨイショしたのはハッキリと記憶にある。もっとも「えっ、本多さんにボクかいなぁ。キミ、ヘンな趣味やねんなぁ」と大笑いされてしまったが。

 この出会いを契機に、その後も黒田氏と何度か話をさせていただいた。怒られたこともあったし、若い新聞記者時代の苦労話も聞かせていただいた。また同氏との出会いや彼の本を読むなかで、「お好み書き」の記者として、週刊誌記者としての太い柱が形成されていったように思えてならない。
 私はそんなことをフッと考えながら、葬儀の列の中にあった。

窓友新聞・追悼号
「窓友新聞」は黒田清さんの追悼号(8月20日)をもって休刊となった。
窓友会は今後も存続するという



▼黒田さんの追悼特集を編集しながら、皆さんの黒田さんへの熱い思いに触れて痛く感動してしまった。私は直接、黒田さんの教えを受けたことはないが、この人たちを通してつながっていたんだ、と思うとすごく光栄であり、そんな人たちと集えることを誇りに思う。葬儀前日、黒田さんが心血を注いできた通天閣の戦争展を見た。中学生が熱心にメモを取る。黒田さんなら「ぼく、分かるか?」と声をかけただろうか、それとも目を細めて見守っただろうか。一人ひとりの幸せを大切にすることが黒田さんの原点だ。子どもたち一人ひとりの短いメモを、大きく、大切に育てていけるような記者活動ができれば、と思わずにいられない。(門田 耕作)


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