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目 次 ]      月刊・お好み書き 2000年9月号


 追悼・新聞記者 黒田 清 


 「常識」の達人・黒田さん 

ミュージシャン・予備校講師 趙  博(ちょう ばく)

  黒田清は、庶民の言葉を持ったジャーナリストだった。つまり「常識」を武器にできた希有な言論人だったと、私は思う。昔々、大阪にはあんなオッチャンが、町内や路地に一人や二人おったもんや。子どもが危ないことをしてると叱り、夫婦げんかには仲裁に入る。冠婚葬祭や祭礼は手際よくこなし、火事や空襲の時には真っ先に奔走する。けど、警察や役人は大嫌いで、ボヤキと世辞がいつも口をついて出る。反体制やないけど反骨で、保守的やないけど昔気質、そしてなによりも、曲がったことは大嫌い――そんな「古き良き、気のエエ頑固親爺」の見本のような人だった。

 考えてみると、日本の戦前と戦後は「断絶」している。近隣諸国に侵略した日本が敗戦でアジアを意図的に忘却した、という意味で「断絶」である。故に、一昨日までの鬼畜が羨望の的となり、昨日までの四海同胞は「後進」の一言で切り捨てられたのが「戦後」の始まりだった。戦後民主主義の危うさは、実は此処にこそ存したのである(小林君、お勉強はこうやってするのだよ)。昨今でこそ「アジア弁当」「アジアキッチン」「アジアの純情」などなど、訳のわからん、何の脈絡もない「アジア」が日本国内で氾濫しているが、黒田さんの世代まで、「東亜」は確実に生活の中にあったはずだ。そんな日本人のまともな感性を、黒田さんは戦後的価値観の中で持ち続けられた人ではなかったか? インテリ・左翼・「贖罪組」のそれではないアジア認識・皮膚感覚としての東アジア・向こう三軒両隣の亜細亜――戦後日本人が口を閉ざして語らなかった「大東亜」は、黒田清の中でその庶民版として残存し、発展したのではないか(西尾クン、君にはこの弁証法が無いのだよ、判ったネ)?

 10年ほど前に河合塾で講演をしていただいた時、黒田さんは「60年安保で日本のマスコミは完全にダメになった。東京の一等地に社屋を貰って記者クラブができて…」とズバリ本質を語り、ジャーナリストを目指す若者に「幻想は持つな。自分の目と耳と足で稼げ!」と檄を飛ばしてくれた。ブン屋という言葉の復権を考えたい、とも語られた。
 さて、ブン屋などどいう言葉は今や死語になり、〈マスコミ関係に就職する〉ことを己のサクセスとしか捉えられないアホが増えた。コイツ等は、皮膚感覚としてのアジアを持てない(持たない)し、「庶民」などという言葉も、受験でしか知らない超・低学力ドモである。言い換えれば、森や石原を物ともしない、恐ろしいゾンビだ。先日、我が友人の『朝日』の記者(34歳)に「あのぉ先輩、三国人って、何処とドコとDOKOの国の人ですか?」と、東大出の新入り記者が真顔で尋ねたそうな…そんな、アホ・ゾンビどもが多数派になった今、第二の黒田清が現れることは、まず・絶対に・絶望かつ確信的に・天地神明にかけて・全く、ありえないのである。我々「古き良き、気のエエ頑固親爺」派は、このアホどもが暴走しないように、我々の責任で以てしっかりと四六時中監視しなければいけない。つまり、黒田さんの爪の垢は、彼方此方で煎じ続けられなければならないのだ。

 今世紀の戦争と革命、そして科学・医学・宗教・教育・政治は、本当に正しかったのか? 国家は本当に社会と人間を幸せにするのか?? 黒田さん、あと10年は生きて、そんな話をして欲しかった……。後は我々が、何とか引き継ぎます。
 合掌。

(注・この寄稿は、趙さんの8月22日付個人通信『趣味的おじゃま』42で発信されたものです)






  温かいまなざし  

井上 満子

 「あっ、黒田清さんが亡くならはった」
 新聞をひろげて私は思わず声をあげた。先にその記事に目を通していた夫は、
 「知り合いやったんか?」と言った。
 「伯鶴さんたちの親分みたいな人よ」

 直接、お目にかかることはなかった。いや、そういえばいつか伯鶴さんの独演会に出演されたのを舞台で拝見したことがある。たしかその会のあと、伯鶴さんたちは新婚旅行に出発されたらしいが、彼の結婚のことを黒田さんは仲人として客席に報告されたのを思い出す。
 その日、紋付袴姿でゲストとして高座に上がり、しっかり舞台を盛り上げておられた黒田さんの笑顔が眼裏に浮かぶ。あの時の伯鶴さんを見守るような好々爺の温かいまなざし。あれが黒田さんのお人柄そのものだったのだと思う。
 私は、対面朗読を通して黒田さんのことを身近に感じるようになっていた。
 最初のころ、読売新聞の連載「戦争」をよく読んだ。ボランティアなりたての新米さんは、ただ間違いなく読めるかどうかそんなことばかりが気になって、中身のことはよく覚えていない。けれどあの連載を必死に読んだことだけは今も忘れることはない。そのうち彼は、時間の終わりに近くなるとゴソゴソ鞄の中から新聞の切り抜きを三枚五枚と取り出して読んでほしいと言った。
 『黒田清のニュース・ライダー』。スポーツ新聞に連載されている社会時評だった。
 ピシャリという音が聞こえてきそうな小気味のいい切り口。言いにくいことにも遠慮がない。だんだんと馴れ合いの風潮が蔓延しそうな世の中で、この人こそ正義の味方なのだと思った。
 伯鶴さんは切り抜きを無造作に束ねて持ってくる。私は掲載の順番が入り乱れていたのに気がつかず、ひとつの話が何回かに分けて書かれたものの順を誤って読んだことがあった。話が後先になって真剣に聞き入る彼には怒られてしまったが――。
 それからは黒田さんの署名のある読み物には自然に目がいくようになり、いつのまにか私も黒田さんを慕う仲間の端くれにならせてもらったような錯覚さえ持つようになっていた。

 「お好み書き」発刊のいきさつなど私は知る由もないけれど、一読者としていつもスタッフのみなさんの若々しい情熱とその中に秘められている弱者にたいする優しさはどこからきたのだろうと思っていたが、黒田さんのご逝去によって知った数々のエピソードは私の疑問をすっかり拭い去ってくれた。スタッフのみなさんは黒田先生を慕い集まった人たちであれば当然のことだったのだと思った。
 伯鶴さんが言った。
 「黒田のオッサンと呼ぶのがふさわしい人。『先生』なんて言われるの一番イヤがったやろなあ」
 それでも私はやはり『黒田先生』と申し上げずにはいられないのです。
 どうぞ安らかにお眠り下さい。そして変わりなく温かいまなざしでみんなを叱咤激励下さいますように。

合掌
(対面朗読ボランティア)





 オッサン、
 一緒に何度も酒を呑んでくれてありがとう 

脳性麻痺の障害を持つ自由人 山脇 信成

 7月23日、日曜日だった。私は朝からテレビのスイッチを入れていつものようにテレビの音だけを聞きながらインターネットの中で自分が管理人を務める掲示板に躍起になって文章を書き込んでいた。
 サンデーモーニングの司会者の関口宏さんの聞き慣れた声が俺の胸を抉った。「悲報です。ジャーナリストの黒田清さんが今朝…」。と、慌ててテレビの画面に目を移すと精力的に阪神大震災の被害を取材している太ってたころの黒田のオッサンの姿が鮮明に映し出されている。その映像を見ている俺の体から、アッ、という間に力が抜けて行くのと淋しさが増して行くことだけがはっきりとわかった。

 数十分を経過した後だっただろうか、もっと、黒田のオッサンの情報が欲しい。と、俺はインターネットの中の居場所を自分の掲示板から「マスコミ」・「ニュース論議」といった掲示板に居場所を移動した。すると、もう「黒田清死去」というスレッドができていて、何人かの人が自らのオッサンへの思いを書き込んでいた。俺はその数十人の人たちが書き込んだ思い思いのレスを一息で読んだ。そこには俺のよく知るオッサンと俺の知らないオッサンがいた。
 「最後のブンヤ」「異端児なジャーナリスト」「弱者を愛し続けた窓」とオッサンへの絶賛の声が続く。それとやっぱり「アカ野郎が逝ってくれて安泰」というようなオッサンを非難する声があった。俺は今までオッサンを読売新聞から追い出したのはあのナベツネさんだと思っていた。しかし、それは違った。ナベツネさんよりもっと大きな権力がオッサンを読売新聞社会部長から追い出した。そして、庶民の味方の社会部は終わった。

 お好み書きの編集部から「読売時代の『窓』に載ったのは山脇しかおらんから黒田さんへの想いを書いてくれ!」との話だったが、俺は実は読売時代のオッサンは知らない。というか、直接会ったことがないのだ。
 たくさんの地の塩を頂いておきながら実に薄情な俺だが読売の窓は、俺を励ます祭りをやってくれた時に取材に来てくれた大谷さんが中心でやっているものだ、と思っていたのだ。
 じゃ、なぜ、窓を知ったか、これを書くと長くなるからここではふれないでおこう。
 急に窓が終わって泉になった。書いている内容はほとんど同じようなものだが泉からは書き手の気持ちが伝わって来ない。
 その物足りなさを数ヶ月間感じ続けているころに、ある郵便物が我が家のポストに入った。
 そうだ、それが窓友会の発足のご案内と黒田ジャーナル設立のお知らせだった。泉では物足りなかった私は迷うことなく窓友会の会員になった。そして昭和62年の残暑の厳しい日にはじめて兎我野町を訪れた。
 太ったダサそうなオッサンがいちばん大きい机で何やら仕事をしていた。すぐに俺の存在に気付いてくれてこっちを向いて笑ってくれた。一目見て、わぁ、人懐っこい良い人だ、と思ったのと同時に、うぁ、変な顔とも思ってしまった。笑。
 それから、俺が車の免許を取りに行く時も岡山まで応援に駆け付けてくれた。俺もちょうど隣りの広島で窓友会の集いが行われる前日に卒業検定に合格をし、そのまま広島県の上下町という山の奥で行われた窓友会の集いでみなさんの前で合格発表ができたことがオッサンへの少しだけの恩返しだと思っている。

 掲示板の話に戻るが、一息にレスを読み終えた後、俺も、オッサンへの気持ちをレスした。
 「一緒に何度も酒を呑んでくれて、ありがとう」と。そして、7月23日はず〜っとそこの掲示板で見知らぬ者同士が、オッサンのことを熱く語り続けていた。 

 ありがとう。オッサン。



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