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 追悼・新聞記者 黒田 清 

 ガンで亡くなったジャーナリスト、黒田清氏の葬儀(社葬)が、大阪市北区の太融寺で7月31日、しめやかに行われた。当日は35度の猛暑にもかかわらず、1300人以上が参列。焼香を待つ長い列では、汗に混じり涙を拭う人たちも多く見受けられた。また、ジャーナリストの筑紫哲也氏や阪神タイガースの元監督吉田義男氏、漫才のハイヒールモモコや中田ボタンら多くの著名人に加え、マスコミ各社の幹部も数多く参列するなど、故・黒田氏の幅広い交友関係の一端が伺える葬儀でもあった。本紙「お好み書き」からも編集長に加え、笑福亭伯鶴が参列。また、名前は省略させていただくが、本紙読者の方も何人か参列されていたようだ。今回、黒田ジャーナル記者でお好み書き創刊の「仕掛け人」でもある矢野宏さんを始め、何人かの方から黒田氏を偲ぶ文章を寄せていただいた。出会いや思い出は様々だが、黒田氏を慕う気持ちは同じようである。スタッフの追悼文とともに紹介し、哀悼の意を表したい。(編集部)

遺影
葬儀場には、各界から1300人以上が参列。
阪神大震災の取材を通し、被災地の将来を気にかけていた黒田さんの遺影の前には、
復興を願って神戸・長田で作られた地酒「福倖酒」も供えられた
7月31日、大阪市北区太融寺で


  黒田さんは 見守ってくれてるんや  
−窓。ともに泣き、怒り、笑いもする記事に心 引かれ−
 わが師、黒田清さんの合同葬が7月31日に大阪市北区の太融寺で行われてから1か月、もう秋の声を聞くというのに、その死を未だに現実のこととして認識できない。7月23日午前2時25分にすい臓ガンで亡くなって以来、通夜、密葬、骨揚げ、合同葬、さらには「窓友新聞」の追悼号作りと、ひたすら突っ走ってきたものだから、心が肉体に追いついていないのだろうか。今でもひょっこり事務所に現れて、「ご苦労さん。おいしい酒呑ましたろ」という声をかけてくれるのでは、と思えてならないのだ。(黒田ジャーナル記者・矢野  宏)
  「今、黒田が緊急入院しました。今日か、明日がヤマだと言われています。……」
 携帯電話に録音された黒田さんの長女、重子さんからのメッセージを聞いたのは、7月22日の午前零時半過ぎだった。着信は10分ほど前。取り乱すでもなく、淡々とした声がかえって事の重大さを突きつけているように感じた。が、それでも黒田さんが危篤なのだという実感は今一つ沸いてこなかった。
 ただ大阪 方面へ戻る電車はもうない。取り急ぎ、黒田さんが救急車で運ばれたという大阪・摂津市のS病院までタクシーを飛ばすことにした。1つの疑問を抱えながら……。
 深夜のS病院は不気味なほどに静まり返っていた。2階のICU(集中治療室)の前で待っていると、この日の当直医だろう、長髪の青年医師が出て来た。黒田さんの容体を尋ねようとしたが、そそくさと1階へ下りて行く、その表情に「ついてないなあ」という困惑の色が浮かんでいるように思えて、そのまま言葉を飲み込んだ。
 ほどなく、ICUからいったん出て来た重子さんに容体を尋ねると、昏睡状態が続いているという。深いため息と沈黙のあと、ずっと抱えている疑問をぶつけた。なんで、阪大病院に運ばなかったのか――ということである。
 黒田さんが97年8月末に黄疸がでていると緊急入院したのも、その原因が膵臓ガンだとわかり12時間にも及ぶ大手術をしたのも阪大病院なら、今年の4月末、ガンが再発した肝臓に直接、抗がん剤を投与する施術を行ったのも、その後、原因不明の下血に苦しめられ、2か月あまりもの闘病生活を強いられたもの阪大だったからだ。不信感も根強いが、阪大なら何とかしてくれるのでは、という期待感もあった。
 だが、返ってきた答えは厳しい現実を突きつけるものだった。
 「阪大は、人工呼吸器をつけるので……」
 無意味な延命治療は本人を苦しめるだけだから、高度な治療ができなくても、家族の思いを理解してくれる、自宅に近い病院にしようと、医師で次男の雅人さんと電話で相談して決めたというのだ。
 やっぱり、アカンのか……。
 そう思うと、人間は不思議なもので、心の中の思い出を一つ一つ紐解いていく。4年前に父親をガンで亡くした時もそうだった。

また一緒にやろな

 黒田さんと最後に会ったのは7月13日だった。これからの事務所のことについて指示するというので、大阪・吹田の自宅へ事務所のスタッフみんなで行った。黒田さんは2日に退院したあと、自宅で静養していた。順調に快復に向かっているものと思っていたが、阪大病院で会った時より一段と痩せ細っていた。かつて80キロ近かった体重は40キロそこそこにまで減り、居間の障子戸を自力で開けることもできないほど、衰弱していた。声も弱々しく、あの人懐っこい笑顔もどこか痛々しい。それでも、窓友新聞をはじめ仕事のことになると、その目は鋭さを取り戻し、いくつか的確な指示を受けた。
 さらに、帰り際にはこうも言っていた。
 「食欲がなくて、病院から帰って来ても、病院の最後より悪くなっているみたいやねん。でも、下血は止まったから、これからなんとか、体力をつけるようにするから、また一緒にやろな」
 それが、私たちへの最後の言葉になろうとは思いもよらぬことだった。

故黒田氏と筆者 97年ごろ、すい臓ガンで倒れる前の黒田さんと。
新地へよく連れていってもらった。
よく呑み、よく歌った(左が筆者)

 私が黒田さんと初めて会ったのは87年3月4日である。四国は松山から単身、大阪へ乗り込み、その年の2月に発足したばかりの黒田ジャーナルの門をたたいた。その前年の暮れ、それまで勤めていた地方紙「日刊新愛媛」が事実上の廃刊となった。わずか4年半で幕を閉じねばならなかった記者の仕事を、黒田さんのもとで、もう一度やってみたいと思ったからだ。
 私たち、当時の若い新聞記者にとって黒田さんは雲の上の人だった。「鬼の社会部長」として知られ、民主主義を考える「われわれは一体なにをしておるのか」、愛国心をテーマにした「日本に生まれてよかったか」などの大型連載で思い切った社会面を作る一方、賭博ゲーム機にからむ警官汚職事件をスクープ、三菱銀行人質事件や茂樹ちゃん誘拐事件などでも特ダネを連発するなど、事件にはめっぽう強かった。
 また、武器輸出事件のように調査報道によるキャンペーンで国会を動かしたり、先の三菱銀行事件で自分たちの記者活動を書いた『ドキュメント新聞記者』や『誘拐報道』、『捜索報道』、『武器輸出』、さらには84年度の日本ノンフィクション賞を受賞した『警官汚職』などを出版、新しいノンフィクションの分野を開拓するなど、黒田さん率いる読売新聞社会部は、いつしか「黒田軍団」と呼ばれるようになっていた。
 そんな中でも特に印象的だったのは、社会面の片隅に連載していたコラム「窓」である。
 28歳の女性が結婚を前提に付き合っていた恋人から被差別部落の出身であることを突きつけられ、破局。自殺未遂を図ったという手紙をはじめ、民族差別で苦しむ人たちなどの心の叫びを一つ一つくみ取り、ともに泣き、怒り、時には一緒に笑いもする記事に心 引かれた。
 その黒田さんが読売を退社してから、誰でも入れるお好み焼きのような「窓友会」をつくり、「窓」の延長とも言うべきミニコミ紙「窓友新聞」を毎月一回出すという。ただ一方的な情報を伝えるのではなく、読む人の情に訴えるような記事を書きたい。しかも、顔が見える読者相手に記事のキャッチボールができるかもしれない。
 送った履歴書を追いかけるように、私は海を渡ったのだ。
 初めて会った黒田さんは怖い目をしていた。後に、「あの頃の黒田さんの目は今よりも角度が3度ぐらい上がっていたでえ」と、よく冗談半分、本気半分で語ったものだ。気の弱い私はビビリながらも、心は熱く燃えていた。
 「給料はいりませんから、働かせて下さい」
 「じゃあ、どうやって食っていくんや」と尋ねる黒田さんに、こうまで言ってのけたのである。
 「月曜日から土曜日まで働かせていただいて、日曜日にアルバイトをして稼ぎます」
 長い沈黙が続いたあと、黒田さんの目が少しだけ笑ったのを、13年あまりたった今でも覚えている。
 その黒田さんがICUの中で生死の境にいる。そう思うと、電灯に浮かび上がった「集中治療室」という文字がかすんで来た。
 黒田さんが個室に移されたのは、その日の午後3時ごろだった。

やっぱり、アカンのか……

 ベッドに横たわった黒田さんの胸は肋骨が浮き上がり、苦しそうな息をするたびにそれらが上下した。土色の顔は頬骨が出て、膝を立てた足もわずかな筋肉が骨にくっついているだけ。絵画で観たことのあるキリストのようだった。
 「黒田さん、わかりますか」と、握った左手は既に冷たく、見つめてくれた視線はすぐに宙をさ迷った。
  午後5時、主治医から経過が報告された。
 「栄養状態が悪く、タンパク質も通常の3分の2しかありません。腎不全のため、尿が体内に溜まっています。肝不全も起こしています」
 どんなに夜遅く呑んで帰ってもご飯を食べないと気がすまなかった大食漢の黒田さんが、膵臓ガンで手術室に向かう時にも「おいしいもん一杯食べたしなあ」と妙な納得のさせ方をして手術台に上がった黒田さんが栄養失調とは……。
 主治医はこうも言い切った。
 「いつ心臓が止まっても不思議ではありません」
 それでも、黒田さんは「ここで死んでたまるかいな、まだやらなアカンことがあるねん」とでもいうように、時折ベッドから起きあがろうとした。
 「ジャーナリストは戦争へ進もうとする兆候を見つけだし、それを叩きつぶさなあかんねん」と語っていた黒田さんだけに、昨年、戦争への道を開く悪法が次々に国会を通過し、今年に入って「神の国」発言が飛び出すなど、この国の行く末がさぞかし気がかりだったのだろう。
 余談ながら、黒田さんが亡くなり、各紙に「反戦・反差別・反権力」という形容詞が並んだ。だが、黒田さんは大上段に構え、それらを声高に訴えてきたのではない。あくまでも、ジャーナリスト活動の原点は、「一つ一つの家庭にある幸せを大事にしようやないか」という思いだった。だからこそ、その幸せを壊す戦争や差別を憎み、闘おうとしたのである。
 事件や事故が一般紙の記者の現場なら、私たち黒田ジャーナルの記者にとっての現場は、窓友会の人たちだった。障害児を抱えた人、夫に先立たれた人、リストラされた人、結婚差別を受けた被差別部落の人など、市井の人たちが日々送っている生活の中にもこそ、私たちが訴えていかなければならない大事なものがあった。
 そんな黒田さんの教えに気づくのが遅くて、ついに私は卒業証書をもらえなかった。

戦争展で 最後となった99年夏の通天閣「戦争展」で

 いつ亡くなっても不思議ではないと言われた黒田さんだが、それから9時間あまりも病と闘い、23日午前2時25分に息を引き取る。
 阪大に入院中、医師から帰れないかもしれないと告げられた時、「一日だけ置いてくれ」と言った自宅へ向け、午前4時過ぎにS病院を出た。葬儀業者が用意したワゴン車に乗せられた黒田さんの隣に私が付き添った。時折襲ってくる睡魔を払いのけながら、これからの通夜、密葬、合同葬などを考え、頭をもたげてくる不安に心をつかまれていた矢先、ふと懐かしい声を耳にした。
 「これから大変やろうけど、頼むでえ。これが終わったら、また美味しい酒飲ましてやるからな」
 窓友新聞や震災などの連載の原稿書きが深夜にまで及ぶと、黒田さんは必ず事務所に電話をしてくれ、「美味しい酒を呑ませてやるから」と励ましてくれたものだった。
 「やっぱり、黒田さんは見守ってくれてるんや」
 車窓の外に広がる濃密な暗闇の中に徐々にだが、朝の白っぽい日差しが広がり始めていた。



矢野 宏(やの ひろし)  黒田ジャーナル記者。1959年生まれ。愛媛県出身。
 地元紙「日刊新愛媛」の記者を経て、87年、黒田清、大谷昭宏が設立した「黒田ジャーナル」入社。以来、月刊ミニコミ紙「窓友(そうゆう)新聞」のデスクとして活躍。黒田の愛弟子の一人として反戦・反差別を2本柱に記者活動を展開、雑誌や新聞などへの執筆、人権講演もこなす。著書に、朝鮮学校の高校生たちがインターハイへ初出場するまでを追ったルポ『在日挑戦』(木馬書館)、阪神大震災の被災者が何を考え、どう生きたかを取材したドキュメント『震災と人間』(黒田ジャーナル共著、三五館)、黒田との最後の共著となった人権社会を目指す『みんなの命 輝くために』(解放出版社)などがある。



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