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目 次 ]      月刊・お好み書き 2000年8月号


黒田清氏(69)が逝去!

大阪ジャーナリズムの一時代を築く
本紙・お好み書きの誕生にも縁が

 思わず「アッ」と声を上げる出来事だった。ジャーナリストの黒田清氏が23日未明、すい臓がんのため大阪府摂津市内の病院で死亡した、という事実をiモードのニュース速報で知ったときのことである。
 私はその日、妻と連れ立って近所の喫茶店にコーヒーを飲みに出かけていた。新聞や週刊誌に目を通しながらコーヒーを飲むのが私の日課だが、ときおり暇潰しにiモード対応の携帯電話でニュース速報を読むのも、近ごろのクセになっている。
 この日も速報を目で追っていると、黒田氏逝去の報道が飛び込み、彼の死を喫茶店で知ったわけである。「アッ」と大きな声で叫ぶ私を周囲は訝しげに見ていたが、コーヒーも飲みかけのまま、喫茶店を慌ただしく後にした。
 それにしても突然だった。黒田氏がガンで倒れ、闘病中なのは知っていたが、まさかこんなに早く死が訪れるとは思わなかった。

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 黒田氏は京都大学を卒業後、読売新聞大阪本社に入社した。社会部記者一筋に歩んできたが、社会部長だった当時、大阪府警の警官汚職など数々のスクープを連発。彼の取材チームは「黒田軍団」と呼ばれ、全国にその名を広めるとともに、特ダネでは圧倒的な差をつけられた他紙を震え上がらせている。
 また社会部記者が中心となり、戦争・差別反対の立場から大阪市内の百貨店で「戦争展」を毎年開催。だが、国家権力との共存を指向する読売新聞東京本社とは思想的背景が異なることから、同社トップ(ナベツネです!)の反感を買い、編集局次長を最後に同社の退職を余儀なくされたことは、あまりに有名だ。
 退職後、草の根ジャーナリズムを標榜する「黒田ジャーナル」を主催し、ミニコミ「窓友新聞」の発行や講演、批評活動を精力的に展開している。
 97年、すい臓がんを発病し摘出手術を行うものの、今年1月、肝臓などへの転移が判明。80数キロあった体重も40数キロまで減ってしまったという。今年7月2日、一時退院し自宅療養していたが、同月20日ごろ容態が急変。家族に見守られ23日、静かに息を引き取った。

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 私が黒田氏を知ったのは大学時代である。理科系の大学に在籍しながら、なぜか文章を書く商売に憧れていた当時の私だが、"黒田軍団"の噂は耳にしていた。「東京の読売新聞は右寄りだが、大阪の読売はちゃう。東京と違って反戦や差別反対をちゃんと言う。黒田とかいう、変わった社会部長がおるためらしいな」と友人から聞かされたのが、私が黒田氏の名前を知った最初である。
 二度目に彼の名前に触れたのは、確か社会人になってからだった。雑誌「文藝春秋」で彼の手記が掲載され、それを偶然目にしたときであった。そこには読売を辞めた経緯や、新しく「黒田ジャーナル」を設立した話が書かれていた。 感動し、彼に会ってみたい欲求にかられたことを覚えている。その数日後、私は黒田氏の事務所を訪ね、同氏と直接話す機会も得た。事務所のスタッフとも仲良くなった。この「お好み書き」の誕生も、そんな経緯から生まれたものである。黒田ジャーナルを通じて知り合った若い人間(当時です!)が寄り合い、毛色の変わった新聞を創ろうということになり、本紙が誕生したのである。黒田氏が本紙「お好み書き」を読んでくれていたかは定かではない。が、読んでもらっても恥ずかしくないものを作ろうと、励みになったのは事実である。

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  黒田氏逝去を知ったその日、私は本紙スタッフの笑福亭伯鶴ともども同氏の家へと向かった。最後のお別れを述べるためである。夫人は私たちを黒田氏が眠る居間へと案内してくれた。金色に彩られた布団に横たわる黒田氏だが、その身体が一回りも小さくなっているのが布団の上からも確実に見て取れた。しかし、その死顔は実に安らかであった。大きな仕事をやり終えたあとの充実感に浸り、穏やかに眠っているようにも見えた。家族に彼の最後の言葉を尋ねてみた。
 「黒田は最後に『ああ、みんな来てくれてんなぁ。ありがとう』と言って静かに眠りました」と語っていました。また亡くなる数日前のことですが、うわごとで『福倖酒(ふっこうしゅ)が飲みたい』とも言っていましたよ」
 福倖酒とは、阪神大震災で多大な被害を受けた神戸・長田が震災からの復興を願い、製造した地酒である。震災取材を精力的に続けた黒田氏だが、長田の将来を特に気にかけていたという。彼の人柄を示すエピソードだが、その遺言通り「福倖酒」は同氏の霊前に供えられた。
 黒田軍団時代の部下で、ジャーナリストの大谷昭宏氏(55)は、「論理を優先する東京のジャーナリズムと違い、黒田さんは肌感覚を大事にする希有なジャーナリストでした。彼の戦争反対という立場も、自身の悲惨な戦争体験に基づいた原体験からのものです。つまり、嫌なものは嫌だという、単純な気持ちなんです。大阪弁の使い方も絶妙で、その文章も肩肘を張らず、相手を楽しませるものでしたね。オモろいおっちゃんが死んじゃった、って感じですが、およそ、○○委員長とか○○委員という肩書が似合わない人でしたね」と語っている。

 心からご冥福をお祈りします。

(本紙編集長・庄村有治)



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