[ 目 次 ] 月刊・お好み書き 2000年6月号
私的“神戸便り”
震災モニュメント交流ウオークでの出会い
劇団青い森代表 細見 圭
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阪神大震災の被災地に立つ慰霊碑やモニュメントなどを訪ねて歩く「 震 災モニュメント交 流 ウオーク」(震災モニュメントマップ作成委員会主催)が4月16日にあった。「震災を語り継ごう」と昨年から始まり、8回目となったこの日は、阪急武庫之荘駅(兵庫県尼崎市)周辺約4キロの道のりの5カ所のモニュメントを約100人が巡った。お好み書き読者で、神戸市東灘区でやはり被災した「劇団青い森」の代表細見圭さんも初めて参加した。学校などを回り、震災をテーマにした「見えないネコ、声を出せない僕」の公演を続ける細見さんは、同作品を「呼吸している作品、完成途上の作品だと思っています」と言う。「出発点はあの1月17日だけど、震災の体験後、街も変わるし、語るときの私の心も変わる。震災を体験した人たちとずっと生きていたいし、伝えていきたい。体験者のことばを直に聞ける機会を何年たっても持ち続けたいんです」と、ウオーク参加の動機を話してくれた。このたび、そのウオークで知り合った、震災で肉親を亡くしたある遺族との交流を寄稿していただいた。(門)
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「1.17希望の灯り」
点灯事業実行委員会
「震災モニュメントマップ」から
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神戸の市民映画劇場5月例会で、「エル elles(彼女達)」というポルトガル・フランス・ルクセンブルク・ベルギー・スイス合作映画を見た。40代半ば過ぎの友人同士女性5人が主人公、つまり私と同世代だ。舞台はリスボン、言葉も肌や髪の色も違うけど、見ているうちに私も彼女達の友人の一人になり、彼女達の抱える悩みや不安を自分のそれと重ね一緒に笑ったり泣いたりしていた。それぞれがあくの強さを放ちながらも切ないくらい真剣に、家族・仕事・恋愛等と向き合っている。彼女達は離婚や死別、同性愛者などで夫はいない。
女優のブランカは舞台の上で若い俳優を誘惑、ラブシーンの現場を高校生の娘に目撃される。娘は奔放な母親に反発して麻薬中毒に。その二人が和解するまでの闘いは壮絶だ。傷ついても尚母娘が求めあう心情は私の子育て時代と繋がる。もちろん私は娘達に濡れ場に踏み込まれるほどドジではない、誤解のないように! 娘も仕事も同じように大切でかけがえのないものなのに、不器用な母親達はあまりにストレートに自分の感情をぶつけ合う。父親がいればもう少し緊張関係は緩和されたかもしれないのに…。ブランカの娘は麻薬を打って母の絵を描きまくる。デフォルメされたブランカの顔は苦しいほど母を求めるシンボルだ。私の長女は5年生のとき、抜毛症になり自分の髪の毛を抜いた。仕事はほどほどにして毎日だっこするように娘に接してやれ、と医者に言われた。母親を慕う気持ちはマイナー状態で噴出し、それを収めるにはもっと深い愛情が必要なのだ。
大学教授のエヴァ。夫の死後幼い息子を育てながら健気に生きているが、教え子でしかも友人の息子に愛を告白される。彼は25歳も年下だ。若い恋人が出来たとたん、堂々と年をとることは難しくなる。彼と同年代のガールフレンドを見るとみじめになるし、友人や亡くなった夫を裏切ったような気持ちにもなる。年上であろうと、年下であろうと、幾つ離れていても良い男にときめく心はとめられない。
「息子は恋をしているらしいの。相手は私と同じくらいの年齢よ。息子が幸せならばそれでいい」…そう言う彼女は生死に関わる病に侵され、死の恐怖に怯えていた。料理研究家のバルバラ。別れた夫への未練もあり、平穏な生活が送れない。昨年私は婦 人科で手術を受け、2週間入院した。検査結果がでるまでやはり不安だった。大袈裟だ、と笑われたけど手術前には“もしものときは”用の文章も書いた。困ったことは入院や手術の時の保証人。夫がいないという“不便さ”を痛感した。バルバラは娘の結婚や妊娠で不安を乗り越えようとする。
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ここで一人の女性を紹介したい。前置きがとっても長くなってしまったが、私が書きたいのは映画の女性達ではなく、現実の私の友人Mさんのこと。1952年5月生まれ。私と誕生日が3日違う。知り合ってまだ1カ月もたたないのに、私たちは48歳の誕生日を一緒にお祝いした。彼女の家に泊り、彼女の手料理を肴にワインを飲み、語り明かした。
Mさんと出会ったのは4月16日、震災モニュメント交流ウオーク。冬に戻ってしまったかのような寒い一日だったが、8回目となるその日のウオークには100名近くが参加。尼崎の武庫之荘から4キロ程の道のりをモニュメントの由来などを聞きながらゆっくりゆっくり5カ所を巡った。昼休憩の時に毎日新聞の記者から、Mさんの夫を紹介された。彼は兵庫区でクリーニング店を営んでいる。当時16歳だった長男を亡くされたと聞き、同年代の子どもを持つ親として正直言葉につまった。震災で子どもを亡くされた方と直接話をするのは初めてのことで、激震地東灘区魚崎で被災したにもかかわらず、この5年間マスコミを通してでしか逆縁の悲しみを知ることはなかった。
冷えた身体を暖めるため解散後に入った喫茶店で、さらに交流を深めようと20名ほどが一緒にお茶を飲んだ。そのとき私の前に座っていたのがMさん夫婦で、わずかな時間を共有しただけなのにその場の親密度は高かった。人なつっこい温かなMさんの笑顔に甘え、私は少し踏み込んで震災当時の状況を聞いた。時々夫に確認するように息子さんのことを話すMさんの語り口は柔らかな悲しみに満ち、不謹慎だが私には心地よいものだった。
私も震災では少なからず心に傷は受け、いまだにその傷口は開いてしまう。しかし彼女の言葉は私の傷を包み込むように作用した。なぜだろう? 更に彼女の5年間の具体的な生活を知りたくて、その場で再会を約束した。その日が前述の二人の誕生会になったのだ。
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北雁替公園で交流会。
ウオークの感想を話す筆者
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私一人で待ってたんよ
「あの子まだあったかかったんよ。けどうちらだけでは鉄骨持ちあげられへんから、助けが来るまで家の前で待っててん。主人は近所の人らとまだ生きてる人助けださなあかんて、行ってしまった。私一人で車の中で待ってたんよ。家にホームステイしていたSもあの子と一緒に…。遺体安置所では荷札付けられるの。係の人が、こうしないと誰かわからなくなるから、すみませんねって。いややったけど仕方ないもんね。
そっくりやからわかったの
あの子、英語が好きでね、高校も英語科行ってて、私ら話されへんけど。困ったんよ、オーストラリアのSの親御さんにどうやって話したらいいのか。大使館に電話して遺体引き取って貰って、お別れする時少し髪の毛切らしてもらった。主人は夜になるとお酒ばっかり飲んで、すぐ寝てしまうから私が電話して“he died, he died”ってそれしか言えなかった。日本に来られた時、ホテルのロビーで彼のお母さんと抱き合って泣いてしまった。Sにそっくりやからわかったの。
心の中で言うんよ
1年間は毎日泣いていた。昼間はごはんこしらえとか店の事とか色々あるでしょ。夜になると泣けて泣けて、娘も嫌がってしまって。時間が癒してくれるって、ほんまやなあって思えるようになった。あの子のこと思い出さない日もあるから。けど忘れる訳ないのよ。いつか必ず会えるって、信じてる。その時にお母さんはこんなことやって生きてたって色々話したいから、ウオークにも参加してん。あの子に恥じるような人生はいややもん。今でもね、あの子の誕生日にはおめでとうって心の中で言うんよ。今年で22歳」
この5年間に彼女は実母とお姑さんも見送った。孫を失いなぜ自分が生き残ったのかと自分を責め続けた母上は、鬱病になり98年のお盆68歳で自殺された。一緒に暮らしていた彼女の父上と妹さんの衝撃は計り知れない。99年の6月にはパーキンソン病を患っていたお姑さんが72歳で亡くなった。痴呆症も出てきて、介護にも苦労したようだ。いわゆる嫁・姑の確執もあった生活だったが、死の直前に流した姑の涙で本当の親子になれたと思ったと言う。夫も膵臓を悪くして入院していた時期もあった。試練とか過酷とかそんな言葉では形容できない5年間であったろうに、こんなにも肩の力を抜いて修羅場を話せる人を私は知らない。困難を乗り越えてきた、という印象を与えないのがすばらしい。彼女の気負わない資質が震災で磨かれたのだろうか。
うちに出したらいいんよ
しかし私は辛い話ばかり聞いていたわけではなく、彼女の仕事場も見せて貰った。クリーニング店の中などそうそう見学できるものではないので、興味津々でとんちんかんな質問を繰り返した。誇らしげに機械の使い方まで説明してくれる彼女は、プロのクリーニング士の顔つきになっていた。3年前に猛勉強の末資格を取ったそうだ。感心している私にすかさず「次の衣替えのときにはうちに出したらいいんよ。一枚一枚丁寧に洗うんやから。芦屋の注文もとるんやから東灘なんか近い近い!」。営業もばっちりだ。
神戸は、震災で大切な命や生活を奪われた。95年1月17日以前の神戸に戻ることは不可能だ。しかし思いもよらない出会いの機会を得ることもできた。これからもMさんとは親交を深め、映画の女性達に負けない人生を送りたい。あーあ、やっぱり私は肩の力が抜けないなあ。
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市立尼崎高校内のモニュメント前で、
ウオーク参加者全員で記念撮影
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