[ 目 次 ]      月刊・お好み書き 2000年6月号


たった1カ月の“少国民”
「EXPO70」日記から

「太陽の塔軸に世界は回った」

 大阪豊中市の実家は万博の開催地からは車で15分くらいのところ。1970年の博覧会開催中は新潟や東京から親戚が次々と訪れ、わが家は民宿と化した。いっしょに見物に行った親戚と向こうではぐれたり、バスが満員で何台も乗せてもらえず、夜の12時を回ってから帰ってくる家族もいたりと、わが家は大騒ぎの毎日だった。

□わが家は民宿と化し

 近いので開会式の前から何度も会場付近を車で見に行った記憶もある。開会式寸前まで工事をしていて、子供心に「間に合うのかと大変心配した」と当時の日記に書いてあった。そう、開会式の頃、小学校を卒業する年だった私は、「EXPO70」という日記をつけていたのだ。開会式前日からの新聞の切り抜きを貼り、コメントを付け加えるという程度のもので、その上悲しいかな、ホンの1カ月も続いていない。中学へ入るとクラブ一色だった私は万博は1カ月だけのイベントだったのかも知れない。

 そのノートを30年ぶりに読み返してみると、「万博絶対成功してほしい!」「外国の人達に喜ばれる万博にしたい」「ごみを落とさないようにして、良い日本をアピールしたい」みたいな言葉が目立つことに驚いた。子供なりに相当盛り上がっているし、自分の国を意識している。私の中では外国の中の日本を強く意識した経験だったのだろうし、高度成長期の全盛時代と自分の歴史の中の高揚している時が重なっていたのだとも思う。

 開会式をテレビで観た印象はこう書いている。「なんとなく大みそかのような気分だった。とてもうれしくて、楽しいが、正式な式なのでおごそかな気分もするからだ。それに司会は宮田輝だったもんでよけいに大みそかみたい。世界各国の子供が、花の輪を持って踊っているのを見ると、とてもうれしかった。見ている外国の人も楽しそうで私までうきうきしてくる」。たわいのないことしか書いてなくて恥ずかしいが、現在より存在感のあった紅白歌合戦の総合司会がいつも宮田輝だったことを思い出す。ちなみにこの開会式、ピンキーとキラーズも出演したようだ。

 貼った新聞の切り抜きの中の見出しも拾ってみたい。「争いも水に流して…」というのは、企業のパビリオン横に作られた「平和の池」にアメリカのミシシッピ川やアルゼンチンのラプラタ川、戦乱中であったベトナムやラオスを流れるメコン川の水を日本の高校生たちが注いでいる写真が添えられている記事の見出し。ベトナム戦争が実際に終結したのはそれから3年後だ。

私の「EXPO70」日記の1ページ。
「外国の人達に喜ばれる万博に」など、
子どもなりに相当盛り上がっていたようだ

□月の石、イモみたーい

 「間に合った原子の灯」というのは福井県敦賀の原子力発電所が完工し3月14日から、開会式のあった万博会場へ原子の灯が送られたという記事。

 3時間近く並ばないと入れなかったアメリカ館の呼び物月の石に関しての記事では「案外少ない驚き」「なぁーんだ」「イモみたい」「期待裏切る?月の石」なんていうのもある。私は並ぶのが嫌だった親のお蔭でアメリカ館、ソ連館には行かず、フィリピン館、ラオス館、ケベック州館(カナダ)などのすいているパビリオン巡りに終始した。

 「混雑ピークは午前2時半」「団体客は午前中殺到」「意外に閑散な駐車場」といった上手な見学アドバイス風の見出しも多い。

 ところで、「お好み書き」スタッフで白熱した「太陽の塔」の高さ論争。私は万博開催終了後も万博跡(万博公園)は常に生活圏内だったので、折にふれて「太陽の塔」を眺めていたのだが、低くなったとかという印象は持ったことがなかった。いつも見ていたので、「久しぶりにみたら小さく見えた」ということがなかった、と言った方がいいかも知れない。遠くから見た感じは変わってないと思うが、根元の辺りの状況は当時と今では違うので、土台の地面部分が盛られた、ということはあるのかも。

 万博終了後、殆どのパビリオンはとり壊された。現在では、「万博自然公園」という休日、親子連れで賑わう広場の芝生に「ビルマ館跡」などという銀色のプレートが埋め込まれているのだけが名残りといえるわけだが、バドミントン、フリスビー、水遊びに夢中の若い親子連れは誰も気づいている様子さえなかった。

お祭り広場跡に残された銀傘の鉄骨。
塔の背中の「黒い太陽」は、広場で
繰り広げられる儀式の守護神だった

□跡地はデートコース

 巨大な費用がかけられて建設された会場の殆どが面影を無くした中にあって、エキスポランド、日本庭園、太陽の塔などが今に至って温存されている。そして大阪北部の高校生たちにとっては、そこは格好のデートコースであったことをお知らせしたい。特に日本庭園は入場料が安かった。25年ぐらい前で150円位だったと思うので、お金がなく、ただいっしょにいたい高校生カップルにとっては最高の場所だったなあ。景色を見るわけでもなく、ただ二人で歩くだけ。疲れれば、趣のあるベンチがあった。その庭園の中を何週も何週もまわったものだ。お互いのことをしゃべり続けながら、又、ただ黙って歩いた。そして10枚の入場券を集めて芸のない自分たちを笑った。現代の高校生たちはどういうデートコースを選ぶのだろう。ゲーセンや漫画喫茶、しゃれたショッピングモールやディズニーランドがなかった頃の話だ。

 大学ともなれば、エキスポランドで何度合ハイ(今こんな言葉あるのかなあ。他大学の男女が集まってする合同ハイキングのこと)をしたことだろう。

 最後にノートに記録している
当時はやっていた言葉を書き移してみる。
「イヤホンマ、ホンマヤデー」(月亭可朝)
「ドンナンカナー」(笑福亭仁鶴)
「エゲツナー」
「ヨウ、ヤル」
「チャンチャコ」
 いくつか覚えていた、かな。  (田中 敦子・S32年生)


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