[ 目 次 ] 月刊・お好み書き 2000年6月号
特別寄稿 太陽の塔について考えること
岡本太郎美術館学芸員 大杉 浩司
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今年は、万博30周年、折からの岡本太郎ブームと重なって、各メディアは岡本太郎を取り上げ、雑誌の特集でも評論家やアーティストが、その芸術論や作品を再評価しはじめた。その中でも「太陽の塔」は、必ずと言っていいほど話題となっている。確かに岡本太郎の名前を日本中の人が知ることになったのは、万博の「太陽の塔」だった。
■バックボーンは語られず
しかし、「太陽の塔」は岡本太郎の代表作と言いながらも、制作の背景や内部に展示が施されていたこと、ましてやそのバックボーンにある思想や理念について語られているものは皆無に等しい。
記録によればあの当時万国博を訪れたのは6422万人、当時日本の人口が1億1千万。実に2人に1人の割合で万国博を訪れていることになる。
この内、テーマ館入場者は917万人なので、万国博に来た人の中でも7人に1人しか、テーマ館の展示は見ていないのである。ましてやテーマ館に入った人でさえ、30年という時間の経過を考えれば、当時の記憶はかなり薄くなっているのも当然だろう。
もう一つ、当時の高度成長経済の狂気的な波にのみこまれ、万国博そのものさえも一過性のお祭り騒ぎとして終わってしまったことで、万博批判のやり玉に挙がったことはあっても、この塔についても正面から向き合って議論しようとする姿勢はなかったのだ。
しかし、こうした社会の中でも、この塔を無条件に受け入れ、心のどこかで信頼し、励まされながら大人になっていった人たちは大勢いる。目にフィルターを持たない子供や一般の人たちこそ、「太陽の塔」を理解した人であり、美術評論家やジャーナリズムの論評に翻弄されることなく、全人間的な視点でものを見ることこそ、これから21世紀の我々に求められる態度だと思う。
先日ある大学の先生との対談で、「一般大衆は美術館に何を求めているのか」という話が出た。すかさず僕は「一般大衆は美術館なんかに何も求めていませんよ」と切り返した。日本人
はどうも権威に弱いところがあって、外国や専門家が評価したものにすぐ順応し、あたかも
それが正当な評価であるように納得してしまうところがある。
意外と見術館も同様で、外国で高い評価を得たものや、古くから権威付けられたものだとコレクションして、何々展覧会と名を打って公開するのだけれど、まだ誰も評価していないもの、権威付けられていないものには臆病に様子をうかがって、大勢がどう判断するかを待っている。
■30年前の遺物
しかし一般大衆は、そんな余裕など無い。かれらは、もっとシビアに即断し、それか流行となり、イデオロギーとして文化が形作られている。つまり美術館の評価など、一般大衆からすれば10年は時代遅れなのだ。
「太陽の塔」がよい例で、今回 大阪を 皮切りに、「岡本太郎と万国博、太陽の塔か らのメ ッセ ージ」などと大げさに展覧会を催すことになったが、この塔はすでに30年前の遺物であり、一般の大衆は評価し尽くしてしまったものである。しかしあえてここで展覧会を開催することは前にも述べたようにこれまで「太陽の塔」について正面からその意義や意味を問うことが無かったからである。
では一体、「太陽の塔」とは何なのか、岡本太郎はどうしてあんなベラボーなものを、事もあろうに国家イベントである万国博覧会に、作ってしまったのだろう。
それを検証するにはこの限られた字数ではとうてい全てを語ることはできない。しかし敢えて一言で言い切ってしまうなってしまうなら、この塔は「太陽の塔」であると同時に「太郎の塔」でもあるところに尽きるだろう。
この意味を理解するには、まず岡本太郎の70年までの活動を知って貰う必要があるのだけれど、少し長くなるのでここではかなりはしょってお話する。
岡本太郎は青年期をパリで過ごした。しかし当時、日本からフランスに画家として渡欧することは、藤田嗣治らのようにパリの風景や金髪のパリジェンヌを描いて箔を付け、帰国してフランス帰りの大画家として君臨するのが常の時代。その中で一人、岡本太郎はパリにいてフランス語も喋らず、フランスの文化も知らないでパリ帰りを強調する日本人に対し、嘘臭いいかがわしさを感じたと言う。太郎はまず、フランスの子どもの通う寄宿舎に入りフランス語を勉強する傍ら、パリ・ソルボンヌに通い始める。そしてある時、ピカソの抽象画に出会い、抽象表現に目覚め、いくつかの作品を発表するが、それが当時パリのアブストラクション・クレアシオン(抽象・創造)の会に認められ、最年少の会員となる。この会ではアルプやカンディンスキーらと抽象芸術の運動を行うが、次第に芸術運動の為の芸術に次第に疑問を持ちはじめ、もっと人間の生々しい生命感を表現するための方法を模索する。パリ時代の代表作「傷ましき腕」は抽象表現に御法度の具体的な腕やリボンを描き、これがアブストラクション・クレアシオンとの決別になる。
また、このころバタイユやカイヨワら、フランスの思想家達との交流を持ちながら太郎は独自のアイデンティティを確立していく。
もう一つの出会いとして、パリ万博の跡地にできたミューゼ・ド・ロム(人類博物館)を見学したときの衝撃は、ソルボンヌへ復学し、マルセル・モースのもとで民族学を学ぶきっかけになった。
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1970年当時の太陽の塔。
大屋根を突き抜けて青空にそびえる
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■徹底した反近代主義思想
これまでが太郎のパリ時代の出来事なのだが、敢えて付け加えるなら、太郎が学んだ思想や哲学は欧米の近代主義的な思想ではなく、むしろそれらを徹底的に否定する、反近代主義思想である。
そうこうする内に、ドイツ軍のフランス侵略が始まり、岡本太郎はパリに別れを告げて帰国、その1年後には中国の戦線へかり出され、5年間の軍隊生活を余儀なくされる。そして昭和21年佐世保に復員した岡本太郎を迎えたものは、一面焼け野原のわが家だった。
1年ほどして再起を図り、東京上野毛にアトリエを構えた太郎は、アバンギャルド芸術の旗手としてこれまでの日本の芸術を根底から変える新しい芸術運動を起こす。同時に岡本はパリで学んだ民族学をもとに日本国中をフィールドワークして日本文化の再発見は、沖縄文化論、縄文土器論などこれまで日本人が誰も評価しなかった日本の忘れられた文化や造形を再評価し、日本の文化の歴史を塗り替えることとなる。
こうして岡本の活動は体制の権威や価値観に対し革新的な芸術運動を展開していくが、旧態依然とした美術界は岡本の期待するようには変わっていかなかった。
そんなころ、日本で初めて欧米の近代主義思想から生まれた万国博を開催する話が持ち上がる。当然太郎は万博そのものに対し反対の意見を持っていたが、事もあろうに自分に白羽の矢が立ってしまった。「世界を相手にする国家の大イベント。そのテーマ館をプロデュースする人間など岡本太郎以外にはいないだろう。」というのが当時の学者や文化人の岡本太郎擁立の理由だったが、岡本太郎はそれを断り続ける。
しかしある時期から彼の脳裏にある思惑がよぎった。「外部から新しい芸術の為の運動や活動をおこしても体制が変わらないのなら、いっそ内部から崩していこう。万国博が先進主義諸国の産業や国力を誇示する見本市なら、徹底的にそれと対立するような無目的で全人間的なものを打ち出すより他にない。万博は世界の祭りであり、祭りは古代より、無償無目的で、人間の存在を確かめるためのものなのだ。その祭りにふさわしい最も人間的なものこそ、万国博のテーマ館として意義がある。」
もう一つ、岡本太郎は当時日本にはまだなかった、パリのミューゼ・ド・ロム(人類博物館)を日本にも、この機会を利用して作りたいとも考えていた。(その結果が現在の民族学博物館となる)
■丹下健三を突き抜け
まもなく岡本太郎はテーマ館プロデュースを引き受け、丹下健三のモダンな構造の大屋根を突き抜け、全く対立的な「太陽の塔」を作った。当然評論家やジャーナリストは批判の的とするが、彼にとっては周囲の批判など分かり切ったことで、それより何より、進歩主義に沸き上がる万国博に、自分の哲学と思想の全てを賭けて、万国博に挑んだ。
今、若い人達の間で「太陽の塔」はかっこいいとか、大阪風に言うと「わらかしよんな」などと、様々な捉え方をしているようだが、かれらは「太陽の塔」に何を見いだしているのだろうか。
少なくとも自分にとってこの塔は、どんな状況下にあっても、敢えてノーといえることを貫いた岡本太郎自身の塔と見ている。
30年たった今でも尚、千里の丘陵に一人で、大空に向かって堂々としているこの存在が、たった一人で闘うことの悲しさ、強さ、孤独をしりながら、それでも堂々と生きていく人間を守護する神像のような気がしてならない。この塔は絶対に裏切らない自分の味方なのだ。
こんな塔が大阪にあることについて、大阪の人はもちろんのこと、日本中の人が、これを誇らしく思えたなら、もう日本に国旗も国歌もいらなくなるかもしれない。日本には「太陽の塔」があるのだ。
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