[ 目 次 ] 月刊・お好み書き 2000年6月号
あの大阪万博から30年
太陽の塔はほんとうに「小さくなった」のか?!など
記念特集号
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先月号の編集後記で、「太陽の塔」を久しぶりに間近に見た印象を「こんなに小さかったっけ?」、「小さくなった姿には驚きました」と書いたら、読者の方から「太陽の塔は実際、小さくなっているんですよ」とのお便りをいただき編集部は騒然!「ほんまかいな」「小さくしたって、どうやって?」「地下室の部分を埋めたのかしら?」「だるま落としみたいに? まさかー」と疑問は深まるばかり。折から大阪では、1970年大阪・吹田で開かれた日本万国博覧会から30年を機に全国を巡回中の「岡本太郎とEXPO展 太陽の塔からのメッセージ」(万博公園・国際美術館で、5月28日終了)や、「万博開封」展(大阪市立博物館、同日終了)が開かれ、新聞やテレビでも万博をノスタルジックに取り上げることが多かった。スタッフ全員が「万博世代」=昭和30年代生まれのお好み編集部としては、この「盛り上がり」を看過できず特集を組むことに。まずは、太陽の塔の「小さくなった」論争から入り、スタッフ銘々の思いで万博に迫りました。取材の過程で岡本太郎美術館の「太陽の塔」専門家、大杉浩司さんに出会い、文章を寄せていただきました。当時としては画期的な、点字の公式ガイドブックがあった!なんて新事実も紹介します。30年ぶり、カメラに納まった「太陽の塔」の内部とは? 懐かしいお宝グッズの話も。お好み版、万博展、一挙、爆発だ〜!(編集部)
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万博から30年、2000年現在の太陽の塔
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本当に「小さくなったのかどうか」――真偽を確かめるために、大阪・千里にある「日本万国博覧会記念協会」(以下万博記念協会)に電話で問い合わせてみると、あっさり「そんなことはありません。外の塗り替えはしましたが…。高さは65メートルで今もかわってませんし…」との返事。
●65m、変わってません
それでも、読者の方のご意見もまんざら嘘ではなさそうだったので、新聞データベースを検索してみたが、万博記念協会の人が言ったように、一九九四年に太陽の塔を塗り替えたという話は出てきたが、「小さくした」という記述は全く見あたらなかった。また、ヤフーのホームページでも検索してみたが、修復工事の足場を組んでいる写真が掲載されているページがあっただけだった。
そこで、読者の方に、「小さくなった発言」の再確認をしてみると、直接太陽の塔を間近に見て感じた発言ではない、という前置きの後、彼の言う「小さくする工事」の時に、テレビか新聞の記事かで「以前のような偉容がなくなった」と言われ、
当時の読者の心うちで「あー、太陽の塔も小さくなったのだなあ」と思ったのだとのこと。でも、そんな感傷に浸るような大工事はあったはずだと言い張られる。
●埋まってる感じする
「大阪万博倶楽部」というホームページにたどりつき、そこに読者の方が直々に「太陽の塔が小さくなった事実、ご存じありませんか?」と呼びかけられたところ次のようなレスポンスがあった。
「太陽の塔の高さなんですけど、当時は入り口がそのまま入れたのが、埋まっているかんじがするんですね。だから、現在の地表から見れば低くなってるんではないかと思います。入り口が下の方にあるので」
「幻の大工事」はなくとも、真実はこのあたりにあるのかもしれない!
●むしろ大きく見えるはず
さらに「神奈川県川崎市にある『岡本太郎美術館』に、『太陽の塔』マニアの学芸員さんがいる」という情報を得た。
この学芸員さん、大杉浩司さん(39・川崎市在住)は、かなり「太陽の塔」に入れ込んでいらっしゃる。太陽の塔にひかれるのは「好きだから」。そして、太陽の塔は「今現在自分が存在している心のよりどころ」とも。今でも、まだ「検証する必要性」を感じていて、当時の工事関係者や、岡本太郎氏の下で働いたプロデューサーに話を聞いてまわっているのだそうだ。
聞けば、やはりあっさりと「小さくなったということはありません」と即答された。強いて言えば、との前置きで「『大屋根』(銀傘)があり一体化していたので、大きく見えたのではないか」ということだった。学芸員さん曰く「万博期間中は地下室の展示室があったが、万博終了後壊されて地盤が下がった。つまり、万博当時は、足元は下に隠れていたことになるが、終了後は下から全部見えるようになったので、かえって『大きく見える』のではないか?」。
●公式見解も「ノー」
それでも一縷の望みを託して最後の頼みの綱、文字通り「太陽の塔のお膝元」である万博記念協会を直接訪ねた。万博当時から協会で働いていた総務部企画課の課長補佐兼広報調整係長の水谷訓子(のりこ)さんは、間髪入れず「変わってない。高さは約65メートル。修復工事はしたが、それ以外の工事は一切していない」。「コンクリートで造られた塔の高さを変えられると思いますか?」と逆に質問される始末。
全くその通りである。決定的な”結論”が下された。
それでも、いろいろと当時の話を聞かせて貰う。殆どのパビリオンが取り壊されたのに、なぜ太陽の塔が「残った」のかと聞くと、万博終了後発足した『万国博覧会施設処理委員会』のお偉方の話し合いで、「太陽の塔は、日本万国博覧会の記念建造物として存置する」という方針が決定されたのだという。太陽の塔は、選ばれて残ったのだ。
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30年を経たの塔内部。現在も「生命の樹」はそびえている。
写真下に見えるのがブロントザウルス。中央の枝にはゴリラがいる
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●そびえ立つ「生命の樹」
話を聞いた後、一般には非公開の太陽の塔の内部に取材ということで入れてもらえることになった。そこで、水谷さんが手にしたのが、「懐中電灯」。私の不思議そうな顔を察して水谷さんが「答えは後でわかりますよ」。「中の展示物は『 撤去できなかった』もの以外は全て撤去してありますので何もありませんヨ」と 念 を 押された。ガランとした空間なのか、と思いながら内部に入る。
まず、「秘密の入り口」を二つ通り、塔の中へ。塔の中は外の暑さとは好対照にヒンヤリと涼しい。まず、これが第一印象。その入り口にヘルメットが置いてあったので、さっきの懐中電灯と言い一体これからどんな「探検」が待っているのかわくわくしながら歩き出す。
水谷さんの言葉通り鉄で造られた「生命の樹」以外目立ったモノは全くない。全くないが、まさしく「生命の樹」は30年前と同じ様にそびえたっていた。
今は動かない「エスカレーター」(これもさすがに撤去できなかったらしい)の階段を上へ上へと進んで行くと、「生命の樹」の枝にあたる部分に「恐竜」やら「三葉虫」の模型、樹の上の方には「原始人」の模型を見つける。
当時の私には奇々怪々のただ妙に不気味な存在だったそれらのものが、年齢を重ねた今の私にとっては、まるで万博の再現の様で興味深かった。
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腕の部分を今は動かないエスカレーターで上る。
この先から銀傘の空中展示場に渡れた
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●赤青黄、いまだ鮮やか
何と言っても、私にとって感動的で嬉しかったのは「生命の樹」の塗装の色が殆ど往時を偲ばせる鮮やかな赤・青・黄、そのままの色で残されていたことだ。「生命の樹」の幹となる部分は塗装も剥げていて、錆び付いている所もあるというのに、枝にあたる部分のそれは「つい先日塗り替えたばかりのような」艶めかしい色合い。ポンと万博当時に戻ったような錯覚を覚えた。
岡本太郎美術館の大杉さんに、何故あのように色がそのまま残っているのかを質問したら、太陽の塔の内部はコンクリートで覆われている。つまり、外光が遮断されているので、退色しにくいのだそうだ。
そして最後、問題の「懐中電灯」の登場! 当時は塔の腕の部分から、「大屋根」と呼ばれていたお祭り広場の銀傘の空中展示場に渡れたが、その入り口付近まで、懐中電灯の灯りを頼りにエスカレーターを上っていった。懐中電灯の射す先は薄暗く、細くすぼまっていて、腕の先っぽであることが実感された。
●時々で違って見えたかも
で、太陽の塔は小さくなったのかって?
”結論”なんてもういい。太陽の塔は30年前の視線ですっくと、威風堂々、同じ姿でたたずんでいる。
今の私は、そう、声を大にして言える。 岡本太郎美術館の大杉さんは、「太陽の塔は見ているだけで『元気が出る』『勇気を与える』そんな像だと思う。太陽の塔は、人間が『生きる』ということを言い続けてきた証の像で、日本がもっと世界に誇って良いことだと思う」と言っていた。
太陽の塔のことを記事にするに当たり「岡本太郎とEXPO70展〜太陽の塔からのメッセージ」も二回見たし、何度も万博跡地の記念公園を訪れ、太陽の塔に接し、塔そのものを何回も見た。そして、実際に太陽の塔の中に入ることも出来た。
それで、実感したことは太陽の塔は見る「とき」、見る「場所(角度)」によっていろいろとその印象を変えてくれる、ということだ。印象と言うよりも心証と言う方が適切なような気がする。
万博当時も何度も会場を訪れたので、もしかしたら、いや、きっと毎回太陽の塔の見え方は違っていたと思う。そして、当時と比べて物理的に身長が伸びたとか視線が上がったとか言うのはあったとしても、今浮かぶ当時の心象との違いが太陽の塔の見え方に違いをもたらしているような気がするのである。(磯貝 圭子・S37年生)
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