野原ノート(雑感&教育

 ここのページは私のカウンセリングや研修から感じたことや意見などを書き入れています。読んだ下さった方々からのご意見があればうれしく思います。「ゆんたく掲示板」へ投稿ください。
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・・・<雑感>・・・・


・・・<教育>・・・

・嫌な人との付き合い方 ・私のカウンセリングのスタンス
・「人から見た私」&自分で思う私」 「人を育てる」を考える(1)
「研修終了」の挨拶から

(1)私のカウンセリングのスタンス  

 近年、カウンセリングという言葉が一般的に使われるようになり、その言葉の意味も多様なものを含むようになってきました。アカデミック的な立場では「カウンセリングはロジャースの理論による心理療法の一つ」と理解されていますが、巷では相談事もカウンセリングと呼んだり、時には学校での指導やガイドもカウンセリングと言ったりしているようです。更に、10数年前から癒しという言葉が盛んに使われるようになると「癒しのカウンセラー」という言葉も使われるようになってきました。そこで、私のカウンセリングのスタンスを述べたいと思います。

 一つには非指示的関係と支持的関係についてですが、カウンセリング(またはセラピー)においてカウンセラー(セラピスト)の指導が積極的であるか否かよって通常指示的療法(Directive therapy)と非指示的療法(Non-Directive therapy)とに分けられます。指示的方法では、相手の考え方や感じ方を治療者が正しいと思った方向に積極的に導いていくカウンセラー中心の関係です。これに反して、非指示的方法はクライエントが自分自身に気づき、現状を受け止め新しい方法を自ら発見し、自ら決断していくプロセスを助けるクライエント中心の関係です。精神分析療法にも指示的と非指示的との両面がありますが、治療という立場を取るとどうしても指示的な場面が必要になってくるもと考えられます。どのようなカウンセリングやセラピーも同様に非支持的と支持的な両面をもっているものと思いますが、この両面はセラピーの特徴というより、それを使う側のスタンスつまりカウンセラー(またはセラピスト)に寄るところが大きいのではないでしょうか。来談者中心カウンセリングをスタンスと言いながら支持的なカウンセリングをしている人は多いものです。私の場合は基本的に非支持的立場いいたいと考えていまが、時として支持的になる場合もあり、そのときはクライエントの存在を脅かさないことに最大の注意を傾けたいと思っています。

 もう一つ私が気をつけたいことは、ユング派が使っている「コンステレーション(布置)」です。カウンセラーがいくらクライエント中心のカウンセリングをしたとしてもカウンセリング場面は、すでにカウンセラーがクライエントの世界に踏み込んでいるものであり、カウンセラーの存在そのものが影響を与えています。来談者中心のカウンセリングとどこか矛盾する部分を含んでいるのですが、それを承知しながらクライエントの存在に私の波風を立てないようなカウンセリングをしたいと願っています。もしかしたら、Client-centered therapyからPerson-centered therapyに変遷して行った過程ではロジャースも悩んでいたのかも知れません。(勝手な想像です)うまく表現できないのですが、また続きます。




(2)研修終了の挨拶について  
 
 研修講師の立場からみた研修終了後の管理者や代表者の終了挨拶について感じたことがありますので書いてみたいと思います。
 研修終了挨拶は通常の会合の挨拶とかなり異なる性格を持っています。研修終了の場は研修参加者がそれぞれに何かを学び、何かに気づき、何かに突き動かされている最中にあるということなのです。ですから、研修終了挨拶は参加者を更に促進しようとしたり、しらけさせてしまったりする(やる気が失せてしまう)重大な影響を与えます。
研修終了挨拶として先ずとても大切なことは研修参加者とその場を共有できるかどうかです。場の共有とは「今」ここで感じていることや今ここで考えたことを話したり、確認したりすることです。ですから、最初から挨拶の原稿を準備して(今ここで感じたことや考えたことではないということ)話すと随分違和感のある挨拶になります。もちろん通常の会合ではほとんど問題ありません。更に、研修終了挨拶において管理者や経営者が日頃いいたいことを話し始めることです。それは違和感というより抵抗感すら感じてしまうことがあります。しかし、日頃いいたいことも場を共有した話し方として伝えることもあります。例えば「日頃私が会社で皆さんに言っていたことですが、今日、私自身も〜はあらためて重要なことだと痛感しています。お互いに厳しいかも知れませんが〜のことについて今後もしっかりやっていこうと決意しています。社員みなさんもヨロシクご協力ください」この発言事例は場を共有しているわけですから、厳しいかも知れませんが研修参加者には伝わっていきます。反面、場を共有していない発言とは「講師も言われたように、今後わが社も〜については厳しく対処して必要があります。わが社の方針にもありますように(または日頃私が皆さんに伝えていますように)・・・・・以上、皆さんには厳しく望んでいただきたいと思います」このような発言は会合やミーティングの場ではなんの申し分もなくりっぱな挨拶ですが、研修の場を共有しているのではなく、挨拶する方が「自分の世界」で発言されているのです。
 研修終了挨拶は参加した方々の気持ちを汲んだり、励ましたり、一緒の気持ちになったり(みんなでやろうという気持ち)することが現場の実践につながっていきますので、その場面として活用していただきたいと願っています。





(3)嫌な人との付き合い方  
私達は日常の生活や職場で「気の合わない人」「肌の合わない人」「嫌いな人」などが一人や二人いるのものです。人間関係で悩むことの中の一つに、そのような人にどうして付き合ったらいいかということがあります。私はそういう時、出来る限り付き合わないようにした方がいいと思っています。おせっかいな人や心理学を勉強している人または自己成長のセミナー、ワークショップなどで「それはあなたの問題だから逃げないで向き合った方がいい」とか「起こった問題はあなたの中にあるのだから避けないで直視した方がいい」更に「あなたの為に起こるべきして起こったのです」なんて言う人がいますが、私はやはり嫌いな人とは関係しない方が一番いい方法だと思います。私の先生は「彼は若いときに苦労は買ってでもしろというが、苦労は買ってまでしない方がいい。苦労して自分の人生をダメにした方が多いのだから」と行ってくれます。私もそう思います。
 確かに嫌な人との関係の中には自分の問題も含まれています。そして、嫌いな人は自分自身の問題だとも思います。しかし、無理に直面することはお勧めしません。問題に直面するには時期があります。その時期を決めるには分自身の感性を信じることです。今は関わらない方がいいと思う場合はそれが最善策だと思います。自分自身の判断や勘を大事にすることです。時期が熟するまでは無理しないことです。そして「今、私は関わりを持たない」と自分で認識するだけで十分です。自分が関わろうとしていないことに気づいているだけで、十分だと思っています。
ホントに無理に関わらなくていいのかという不安、疑問をお持ちの方は下をお読みください。でも、「嫌な人とは付き合わなくていい」ということはとても大事なことだと分かってください。
 <私達が人と関わるときに2つの関わり方があります>
    一、人間的関係
      自分の好きや嫌い、自分の感情や気持ちを優先させる対人関係です。
    一、役割的関係
      社会的立場、役割責任の関係、または利害を優先させる対人関係です。
この2つの対人関係は常に同時にあるものと考えられどちらがいい関係、ホントの関係かということでなく2つの関係性の中に私達の関わりがあるということなのです。ですから、職場や周囲に嫌いな人がいる場合、業務上や立場での連絡や報告などをしっかりすることは大切なことであり、嫌いだからといって情報を流さないなんてことはわがままです。そして、仕事が終われば付き合う必要はありません。気分を悪くしたり、嫌な気持ちになったりする必要はまったくありません。大人としてある能力を使い「わがまま」を通すことです。つまり「すみません、せっかくですが用があり失礼します」と。そして、気の合う人と一緒でいいと思います。
この考え方はマルティン・ブーバーという哲学者によります。彼は問題やいろいろな事象を正面から関わることを「我と汝」、問題を直面せず関係をさけることを「我とそれ」と呼びました。そして、このような2つの関係はどちらが重要かということはないと言っています。そうではなく、自分がどちらの関係にいるかということを知っていることが大切だといっているのです。
 しかし、私たちは育てられる過程の中で、どちらの関係が重要かということを教え込まれているものです。ある人は何事も正面から関わることが大事と育てられ「我と汝」の関係が主になるようです。その方々は無駄なおしゃべりやお愛想が苦手のようです。ホンネで付き合い、自分の考えや人の考えをしっかり話すことが好きなようです。周囲からはまじめで付き合いにくいと思われているかもしれません。反面「我とそれ」の人はくだらない,意味のない話しが好きで、どこでも自由でいられるようです。そして、軽い人とか自分のことしか考えない人と思われているかも知れません。このように私達はどちらかに偏っているものだと思います。もちろんバランスが重要ではなく、その偏りは個性なのでそれでいいのだと思います。しかし、自分の関わり方がどちら寄りかを知り、必要に応じてスイッチできればいいのです。
 私たちの対人関係には「場」があります。「人間関係の場」(一人の人として関係をする)また「仕事の場」(職場、役割などで関係する)です。業務上では業務が正面にあります。相手のことを分かりながらも業務命令を伝えることはつらいかも知れません。私はこのような場面で仕事だからとクールに割り切ることでなく、相手に心を痛めながら業務命令をしっかり言い渡すことが大切だと思っています。冒頭に書いていることと逆の立場なのですが、まったく同じことを言いたいのです。もし、あなたが職場において嫌な人と仕事や立場の関係をしっかりしながら、業務や立場から離れた場面で相手の立場などを考慮して(自分が嫌な気分にならずに)丁寧に断ることができるようになったらすばらしいと思います。そして、自分がリーダー(またはそのような立場)になったとき、毅然としながらも暖かい人になれるものと思います。私も一歩でも近づければと思っています。
以上で「嫌いな人とどうしたらいいか?」のヒントになれば幸いだと思います。疑問質問、また確認などありましたらホームページの「ゆんたく掲示板」をお使いください。そのときは「ゆんたく掲示板」返事を掲載します。ご自分の意見質問を公開してほしくない方はメールに連絡をください。そのときはホームページに公開せずメールで返事をさせていただきます。
マルティン・ブーバー(Martin Buber)
1900年代初期の哲学者、近代の西欧の思想に大きな影響を与えている。フロイト、ユングの精神分析にまた近代の組織論(マクレガーのX理論、Y理論)などと。

(書籍の紹介)

「孤独と愛」(我と汝の問題)  ブーバー1923年著  創文社





(4)「人を育てる」を考える・・・(第一巻)  
 「人を育てる」ということについて、あらゆる状況に共通してできる教育の方法があると考えない方がいいようです(あると便利なのですが)基本的な考え方を踏まえて指導する側が一人一人に合うやり方を工夫しなければならないものでしょう。その為にいくつかの視点から考えて見たいと思います(第一巻)
 人を育てるという立場にある場合「人を変えることができるか」を検討し、自分の考えを明確にする必要があリます。以下は一般的概念ですが、人を育てるという立場にある人にとって重要なことであり、ご自分の考えと比較検討することをお勧めします。
人の性格は遺伝的要素と後天的経験が主とされていますが、現代はそれ以外の要素(ユング派の元形や集合無意識、トランスパーソナル心理学のスピリッツなど)も含めて形づくられていると考えられています。その人らしさを個性と言うならば、日常の中での行動や考え方など一貫性があるものとして認識しているものを指します。
性格とか個性というものをタイプと呼ぶと、それは外からみた行動パターンのことで、行動の傾向を左右する内在的な要因は推測や仮説(学説など)です。
人は自分の行動や態度を自ら変えたいと思えば、自らまたは援助を受けて変えることができます。ここでいう援助とは、相手が内外の状況に気づき欲求を明確にする情報提供や環境づくりまたきっかけに協力することを言います。(人的援助は信頼関係に依る)
人の価値観が変われば行動も変わる可能性があります。しかし、人の価値観はある意味でその人の人生そのものでもあり、人の尊厳とも言えるものです。どのような価値観の違いがあっても基本的には操作すべきではありません。(相互の価値観を理解し合うことは大きな意味があります)
価値観に大きな影響をもつものは環境(成育歴、今の人間関係、組織風土など)だと考えられます。「人は人の後姿に学ぶ」というのは人間関係のことで、信頼関係の重要さを物語っています。「関係する人は自分の鏡である」ということも考えたいものです。
「人は自然に育つ」ということは、所属する組織、社会、学校などの風土(文化)が健全な場合のことです。そして健全な特質の一つには自発性がそこにあります。
命令と指示また指導(ガイド)、システムだけで人は育たちません。
非難と叱責は人の向上や成長に導く力としては小さいと考えた方がよい。
褒めることや叱咤激励は信頼関係の上で役に立つもので、信頼関係のない中では効果があまり期待できません。(信頼関係については別に書くつもりです)
「人を育てる」立場の人は教え方や伝え方(教授法)も大事ですが、自分の成長のために何をしているか。日常の心がけとしてどんなことをやっているかが重要です。(成長している人のみが、相手の成長に援助者として関わることができる)
 ここで強調したいのは、「人は人と共に育つ」ということです。人の成長を通して自分の成長の実感を味わうことはほんとの意味で人の成長を援助できていることだと思います。また、それを通じて人と人の出会いや関係の意味を大切にしたいものです。

「人から見た私」&「自分で思う私」(平成15年2月12日)
 私たちは人が自分をどのように見ているのかということに、結構興味があるものです。時に興味ないと言う方もいますが、興味がないことをむきになったり、極端に無視したりして様子から随分興味があるのだと思います。ホントに興味の無い方はそんな話をすると人から見た自分に新しい発見をして「へー」と興味を示してくれるようです。
 自分はどんな人かという問いに応えることは大変に難しいものです。なぜなら場所や関係性によっていろいろな自分が表現されるからです。そのい一つ一つから(統合? 集約? 根源?何て呼べばいいのか分かりませんが)私はこんな人とラベリングするのは変な感じがします。「今はこんな人」「さっきはこんな人」と呼べることはあるのでしょうが、私の正体はこれだといえる事はやはり難しいことだと思います。
 ある本で読んだことがあります。「人はラッキョウみたいなものだ」つまりラッキョウの皮を一枚一枚剥いてその中にラッキョウの正体(核)なるものを見つけようとしても発見できないそうです。「皮一枚一枚が重なってそのラッキョウだからだ」となるほどと思います。
 さて、自分が思っている自分は今までの体験(生育歴)を通じて、その関わりの中で自分を確認しているでしょうね。もちろん誤認もあると思います。しかし、誤認も今の自分のラッキョウの皮のように、自分の一部であるようです。今の私は、新しい自分の部分を認識したり再確認したりすることにより、違う自分を経験しているのでしょうね。ところで、自分でどんな自分として認識しているかに興味のある方はHP表紙の「性格診断(エゴグラム)」を活用してみてください。それからの診断結果をHP表紙のcommentsに掲載しています。
(エゴグラムは人をどのように見ているかに興味あるかたは「交流分析」のコンテンツをごらん下さい)
 ところで人から見た私をどのように理解したらいいのでしょうか。私は子どもが3名いますが、それぞれお父さんである私の表現は異なるようです。(もちろん共通している部分もありますが)長男(大学4年生)は厳しい怖いお父さん(o)、ですから彼は私に敬語を使って話してくれます。次男(高校3年生)は変なで面白いお父さんという認識を持っているようです。普通のお父さんらしくないよく言います(*_*)。そして、長女(高校3年生)は私のことをゴミとか、トドと呼んでくれます((-_-;) 数年前、長女が私に乱暴な言い方をしたことがあります。そのとき長男は「お父さんになんて口のききかたをする」と長女を叱っていたことがあります。そのそばで次男は「我れ関せず」で自分のことに夢中でした。どうも、子どもたちは彼らの見方で私を見ているのでなく、私の接し方で私を認識しているようなのです。私は長男にしっかりして欲しいので、厳しく接し、ときにはお前はお兄ちゃんなんだからと注意して来ました。他方、次男は面白い個性をもっているので私も彼に興味があり、よくいたずらしながら関わってきたようです。そして、長女は女の子なので、甘やかし彼女の言いなりになっているだらしない父親として接してきたようです。
 どうも「人から見た私」の正体は相手に対して接し方のようなのです。私たちは意識または無意識に相手または場面によって自分のかかわり方を変えているようです。そして、人の言動を観察しているとそれが普通のようなのです。男同士で居る場合の言動、そのときに女性が入いてきたときの言動や態度の変化、そして上司がきた時のその人、みんな異なる自分を表現しているようなのです。(面白い(*_*))観察している私もそうなのでしょうがね。従って、「人から見た私」は客観的な私や人が見た私でなく、相手に対しての接し方、またその場での自分の振る舞いではないでしょうか。そして、自分のつくった「その人像」に対して好き嫌いの感情または良い悪いの評価を自分でしているのでしょう。そのことをベースにその人への接し方を選んでいるのだと思います。
 そのように考えると、「人からみた私」は非常に相対的な自分なのでしょうね。そして、「人から見た私」は自分の一部であり、それは否定できない自分の一部だということになるのでしょう。ただ自分の接し方をどのような反応で見せてくれるかは相手によって異なっるものだと思います。
 すると面白いことが考えられます。発信者である自分がその人とどのように関わっているか、その人についてどう思っているかなどをはっきり認識していると、相手からの反応で、相手を知ることが可能になりそうなのです。(もちろん完璧ではありませんが)まるで、レーダーのようです。レーダーは発射するレーダー波の周波数や強さまた角度などを明確にしていると、レーダー波のエコーから相手の速度、大きさ、材質などが分かるのと似ています。また、物理学の視点から見ると人のあり方は相対性理論のようなものと見れ、物理学はえらいと感激します。私は大学で物理学を専攻(???)したので、ついそのような反応になってしまいます。
そして、「自分が思っている私」も生育暦や周囲の「かかわられ方」によって自己認識が違ってくるので、それも相対的なのでしょうね。でも私ということを理解し周囲を理解していくことに大変重要な視点を与えてくれそうなのです。
 もし、よかったら読んでの感想、質問、ご自分の意見などを送っていただくと嬉しく思います。その意見についての私の意見も返事したいと思います。感想、質問、ご意見は掲示板へお願いします。また上のような考え方についての情報や理論なども提供していただけるとなお嬉しく思います。ただ個人的な意見で公開したくない方はメールでも結構です。その場合はメールで私の意見を書かせてもらいますが、公開はいたしません。どちらにしても、よろしく(~o~) 沖縄の言葉で「ゆたしく、うにげーさびら」(よろしくお願いします)