

昭和七年五月 大磯
JR東海道線、平塚から下り方面に向かう。右手遠くに丹沢・大山の
昭和七年五月、二十四歳の男が東京から下り、もう一人二十二歳の女性は静岡県から
山並みが見える。
そして花水川を越えると、高麗山をはじめ大磯丘陵が続き、まもなく大磯駅に着く。
駅前は、時代とともにきれいな建物に変化はしているが、駅舎は近隣の市町ほど変化は
していない。
明治開通時の初代駅舎は、のどかな雰囲気の大磯停車場、二代目駅舎はセピア色の大正
浪漫の趣きそのものの大磯ステンション。
しかし、新築まもない二代目駅舎は、大正十二年九月の関東大震災で倒壊してしまい、
三代目駅舎はほぼその原形を残して現在に至っている。
駅舎前は三菱財閥岩崎家別邸で、岩崎久弥の長女澤田美喜さんが、戦後その細腕でエ
リザベスサンダースホームを開園している。
上りに乗り、その三代目駅舎の改札口から出てきている。
男は慶応義塾の学生、**五郎、女は静岡県の豪農の令嬢、**八重子という。
二人は当時岩崎家所有の駅舎の裏山で服毒心中をし、無縁塚に仮埋葬した夜、八重子の
遺体が掘り起こされ、墓地から消えた。
そして大捜査の結果、海岸の船小屋から一糸まとわぬ八重子の悲しい姿が発見された。
心中理由は八重子の親が、二人の結婚を反対した事による。また、仮埋葬の八重子の遺
体盗掘犯人は六十代の男性とされている。この事件は、新聞社が「天国に結ぶ恋」の見出しで連日報道し、映画・歌になり、戦前
の若者をはじめとした多くの国民の紅涙をしぼった。
そして事件後、心中現場の雑木林の山の名は坂田山と呼ばれるようになり、地元大磯で
は『坂田山心中』として語り継がれている。この事件の数年前、世界恐慌がはじまり、日本は昭和初期からの恐慌の渦中にあった。
倒産・失業・労働争議はもちろんのこと、欠食児童が増加し、冷害不作の農村は無残な状
況で、特に東北・北海道地方は壊滅的な時代だった。
昭和五年、ライオン宰相とよばれた浜口雄幸首相へのテロ事件、翌六年陸軍急進派のクー
デター未遂事件、そして九月、関東軍の陰謀による南満州鉄道線路爆破の柳条湖事件をス
タートに満州事変が始まった。
そしてこの年、昭和七年もテロは続き、元日銀総裁の井上蔵相、実業家・団琢磨が血盟団
に射殺されている。
また、男装の麗人川島芳子がとりざたされる上海事変が勃発し、中国東北部では、清朝
最後の皇帝愛新覚羅溥儀を担ぎ上げ、五族協和・王道楽土のむなしい美名のもと、実権は
日本軍にある満州国を建国している。
欧州では四月にドイツ大統領選でヒンデンブルクに敗れはしたが、ヒットラーも大量に
票を獲得し力をつけてきた。
そして国内では前年、満州に出征する夫のためと「何卒後の事を何一つ御心配ございま
すな」と新妻が自らの命を絶ったことを、新聞各社も国民の多くも軍人の妻の鑑と称え、
その陰では息子の満州出征を阻止するため、父親が命を絶つ事件が起きている。
そのような時代であっても「エロ・グロ・ナンセンス」の言葉は生きており、大衆演劇、
特に二十代のエノケンの人気は高く、浅草も関東大震災で大きな被害をうけたが、再建
後の六区は娯楽のメッカにふさわしい賑わいの日々だった。
田中絹代の甘い声のトーキーも人気を博し、竹久夢二は十年ぶりに都内で個展を開いた
後洋行している、そんな不安定な時代に大磯で坂田山心中があった。天気の良い日は房総を望み、伊豆と三浦の両半島に囲まれた相模灘を見下ろす山畑と
雑木林の坂田山、そこで松露狩りに来た近くの若者が、若い男女の変わり果てた姿を発
見した。
傍にはヘリオトロープの鉢植えが置かれ、服毒後の空き瓶、所持品には五郎が家族宛
てにしたためた「五月五日夜更け」と文末に記した遺書や三越の風呂敷に夏目漱石門下の
鈴木三重吉編集の「赤い鳥」、羽仁もと子の「みどり児の心」、北原白秋の詩集などが残
されていた。二人が知り合ってからのこの数年の交際中は、時の経つのも忘れた楽しい日々もきっと
多くあっただろう。恋心というものはいつの時代も同じではないだろうか。五郎も八重子
も現在の若者と同じように、二人にとってそれなりに幸せな充実した時間を共有していた
はずだ。
二人の発見は五月九日午前十時頃で、検視結果服毒後二十四時間は経過していたとの記
事もあるが、そうすると前日は日曜日だが、その午前中に黄泉に旅立ったことになる。だ
がこれは間違えだと思う。二人はその日八日の朝お互い自宅を出ている。別の資料では死
亡推定時刻は発見前夜、八日の午後十一時三十分頃とあり、私はこの時刻が警察の公式記
録となっているものと思っている。また二人は今回だけでなく、今までも大磯を訪れていたとの話もある。そして某旅館を
利用して会っていたとの話もあるが、その旅館の名は大磯にない。国府津にその名の旅館
があるが、二人が利用するような旅館ではなかったはずだ。
もし私が推測する大磯の旅館を利用し、またそれまでにも大磯を訪れていたとするならば、
最期の地に選んだ陽光の坂田山は、二人にとって初めての場所ではなく、幸せな二人だけの
心やすらぐ大切な想い出の空間だったのではないだろうか。この二人だけでなく、戦後の高度成長期昭和四十年代くらいまでの坂田山は、さほど高く
五郎・八重子最期の写真
ないのに地元の私にとっても素晴らしい眺望の場であった。
事件当時、大磯にただ一人駐在していた毎日新聞の前身である東京日日新聞の記者は、
後年「大磯に住む私でさえ、こんないい所があったのかとびっくりするほどの場所だった」
と語っている。
そして「二人とも非常に行儀よく慎ましやかに眠るがごとく死んでいた。実に美しい心中死
体だと思った。」との印象も語っている。
だが、実際はこの服毒心中は「行儀よく慎ましやかに……美しい…」そんな
情景だったのだろうか。この記者の語りは、事件から三十五年後の昭和四十二年のテレビ出演した時だ。
けしてケチをつけるわけではないが、想い出は時間の経過とともに美しくなっ
てしまう。まして年老いてから若い時に取材した事件の思い出は、過ぎ去った
自分の青春と重ねあわせ、無意識のうちに美しい情景に変化してしまったかも
しれない。
(毎日フォトバンク)
実際、発見時の藤色の錦紗和服の八重子は、大和撫子最期の身だしなみ、裾が乱れぬように
赤い紐で両膝を縛っている。だが、写真が趣味の五郎が用意したと思われる昇汞水(しょうこ
うすい)という猛毒の塩化第二水銀の水溶液を飲んだ二人の辺りは、苦しさに耐えかねるよう
に若草がむしりとられて、八重子の左手はその草を握りしめたままになっていた。そして口元
には赤茶色の液の流れた跡があった。それはけして「行儀よく慎ましやかに眠るがごとく……
実に美しい心中……」の現場ではなかったはずだ。二人はその日、水面輝く相模灘を眺め、何を語らっていたのだろうか。
五郎はこの朝、当時の東京市芝区白金の自宅をいつものように『教会へ行ってくる』と言い
残し出かけている。
彼は元男爵の甥で父は**銀行に勤務していた。
八重子は当時静岡県**郡の県下でも名高い素封家の上・中・下の三軒に分かれる上の出に
なる。昭和二年、静岡から上京した八重子は、巣鴨町の姉の嫁ぎ先に同居し、頌栄高等女学校二年の
編入試験に合格。
だが、女学校までの通学に時間がかかるので、白金の香蘭女学校内の光風寮に寄宿した。その校
内に三光キリスト教会があり、ここにやはり日曜ごとに来ていた五郎と知りあい、二人の心に愛
が芽生えていった。
そして昭和五年、八重子に女学校卒業の季節が来て、静岡に帰らなければならなくなった。現在での遠距離恋愛は、もっと遠い距離も珍しいことではないが、この時代この二人にとっては、
東京と静岡という距離がどれほどのものに思ったことだろう。その後、文通は途絶えることなく続いたが、八重子からの封書にはいつも姓名のみが書かれて
いたため、五郎の父は彼女の身元については知らなかった。事件直後『倅を信じていましたので何も知らなかった。女の方とは以前から交際していたが、
私は父としてこれに干渉しませんでした。しかし心中するにいたるなどとは少しも思いませんで
した』と、親としての悲しく辛い胸中を語っている。三光キリスト教会に通っていた八重子は、洗礼を受けるほどのクリスチャンではなかったよう
だが、そこの牧師が八重子を見初め、結婚の申込みをしている。
八重子の両親はこの牧師を気に入り、それが五郎との交際を反対した理由の大きな要因になって
いる。また、二人が心中という悲しい結末に至る別の要因もあった。この時代、前述したように満州
事変・上海事変と呼ぶきな臭いファシズムの波が大きくうねっていた。そのファシズムの大いな
る信奉者であるM教授に、五郎は慶応学内で呼ばれている。それは四月のことだった。この教授、
三光教会の牧師が八重子側に結婚の申込みをしたのを承知の上での五郎への叱責だったようだ。
軍事訓練を怠ったことを厳しく非難し、そして暗に八重子へのある青年の結婚話が良い方向に
向かないことを、軟派学生五郎の責任である…そんな内容だったようだ。五郎はこの年三月の学年末試験を受けていない。
三月時点では八重子の親の反対、別の縁談話などで二人の今後について深刻に悩んでいた時期で
あろう。そして五郎が気の弱い性格だとするならば、軍国主義の風が強くなっていくなか、四月
の狂信的思想のM教授からの厳しい叱責が、人生の未来の扉を開ける気力をなくしてしまった。
…そのような構図ではなかったか。人生に、また過ぎ去った時間に『もし』という二文字は意味のないことかもしれないが、もし
五郎が人生の重い扉を開ける精神力の持ち主であったならば、あるいはもっと生き方に器用な人
間であったならば…との思いは残ってしまう。あまりにも五郎の育ちの良さが裏目に出てしまった。
そして八重子は素封家の重圧に耐えられなかった。
(当文は同人誌 日和六号に掲載したものです。一部伏字にさせていただきました。)
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