
安田善次郎翁 暗殺事件
晩年の安田夫妻
大磯寿楽庵にて
大磯町神明町、商工会前のJRのトンネルをぬけ、右手に進むと三沢川に出合う。
そこに架かる小さな橋の名を王城橋という。
意識しないと渡ったことさえ気がつかないほどの橋だ。
その橋の近くには、加山又造画伯のアトリエや数年前に亡くなった
劇作家・演出家でありシェークスピア作品の翻訳・研究家の福田恒存の自宅がある。
そして毎年、湘南の陽光さわやかな春の休日には、ひと時の心やすらぐ場として
庭園を一般開放している安田財閥創始者の安田善次郎別邸がある。現在は関連会社
の所有になっているが、王城山ふもとにあるその敷地は、東海道の喧騒とは無縁の
静かな場で、安田は寿楽庵と呼んでいた。以前は浅野セメントをはじめ、おおくの
事業をしていた浅野財閥の総一郎の所有だったが、大正初期に安田が譲りうけた。
宿場町大磯では古くから大火事が数多くあった。明治の大火の後、大磯東町にあった松林館
という旅館が長生館と名を新たにして、王城山のふもと安田別邸の隣地に移ってきた。
そして時は大正十年九月二十八日、午前九時二十分、一筋の閃光と衝撃が大磯の町を覆った。
長生館に二日前より東京市神田区小川町の弁護士風間力衛と名乗る男が投宿していた。
当然偽名である。その男、羽織袴の正装で二十七日の朝に安田邸を訪れ、八十二歳の安田に
面会を求めたが断られ、翌朝再度面会を求めた。弁護士風間力衛の名刺を渡された十六歳の
書生茂利雄に安田は、明日二十九日に安田財閥の中心的な会社である東京の保善社で面会す
る旨を伝えたが、男は明日も同じように会ってはもらえないだろうと、岡警視総監と渋沢栄
一子爵の紹介で来たのだからと執拗に面会を強要をした。紹介状はもちろんない。しかたな
しに安田は承諾し、書生に玄関から五部屋ほど入った十二畳の部屋に案内をさせた。
安田は南側の藤の椅子で新聞を読んでいたが、もうひとつの藤椅子に男を招いた。
その時、男は緊張のためか青白い顔でこめかみが震えていたという。
そして十八歳のお手伝いの鶴子が、お茶とカステラを運び三十分ほどたった頃、突然形容のし
ようがない悲鳴を聞きつけ部屋にかけつけると、縁側から庭に転げ落ち左頸部から鮮血がほとば
しり、安田の白髪が赤く染まっていた。
また別の記録によれば縁側で息絶えたともあるが、鶴子に『栄吉、栄吉』と使用人の名をやっと
の思いでかすれる声をしぼり出していた。栄吉はその時、広い庭園の片隅で職人たちと雑談をして
いたので、当然その異変を知らない。
『騒ぐと貴様もこのとおりだぞ』と刃渡り八寸ほどの白鞘の短刀を持った恐ろしい形相の男に脅か
された鶴子は、急いで家人に知らせた。
男はその間、床柱を背に一説によれば安田を刺した短刀ではなく、用意していた西洋カミソリで
立ったまま咽喉部を掻き切り自決した。いつもは静かな寿楽庵の十二畳の部屋は、血の海と化して
しまった。
読売新聞見出し
大正10年9月29日
この時代、第一次大戦後の経済は物価高を招き、成金続出の陰で勤労民衆をはじめ一
般庶民は苦しい生活を強いられてきた。この安田善次郎暗殺事件の三年前、政府が津市
の商人に米買占めへの戒告や米穀取引所に米価高騰のため取引停止命令を発する中で、
現在の富山市で米価高騰に耐えかねて、漁業関係者の妻たち数百人の資産家や米屋への
抗議が高まった。この『米騒動・女一揆』と呼ばれる一連の行動はまたたく間に全国に
飛び火をし、神奈川県内では横浜・横須賀・小田原などは不穏な空気に包まれ、神奈川
県は県令を発し市内での道路・公園において十人以上の集会を禁止し騒動防止に努めた。
だが大きな社会運動化へと進んでいった民衆の不満は、寺内内閣を倒す結果となった
が、大正八年八月の米価はその年一月の一・五倍から二倍になり、九年には普通選挙の
実施・治安警察法の廃止を求め、東京では数万人のデモが起き、上野公園では第一回メ
ーデーが開催されている。それに対して民衆運動や社会主義運動への弾圧は日に日に強
まっていき、この年も生活難などから民衆・労働運動は階級意識の高まりと共に大きく
なっていった。
そのような時代に大磯で安田善次郎暗殺事件があった。
安田善次郎を殺害した男は三十二歳の国士・朝日平吾という。現場には活版刷の労働ホテル
設立趣意書があった。また男の折鞄には何通かの遺書もあり、要求が受け入れられない時には
覚悟を決めての安田邸訪問だったことがうかがえる。
息絶えた当事者二人から真相を聞くことはできないが、藤椅子の近くには拾円札がニ、三枚
散らかっていたことや労働ホテル設立趣意書があったことなどから、応分の寄付を要求したも
のではないかといわれている。
犯人朝日は今朝まで投宿していた長生館の女将宛てに『宿賃も支払わずにこんな事になった
が、非常に相済まない』との、また佐賀県の父親には『・・・非常な罪を犯す不幸を許して・・・』
との手紙を折鞄の中に入れていた。長生館の女将によれば、昨夜は銚子三本を飲み、詩を吟じ
ていたという。
犯人の本籍は長崎県佐世保市で、福岡県の学校を卒業後上京し、一時大学にも籍を置いたが、
政治活動に参加したり、満州で馬賊とよばれた人々と生活を共にし、帰国後は神州義団を組織
し、柔道初段の国士を自ら任じていた。
だが実態は財界の大御所実業家、そして社会事業に大きな功績を残した渋沢栄一の事務所に
寄付金の要求に行き、断られると切腹をしかけ当時の金で百円をとっている。安田邸訪問時に
名乗った弁護士風間力衛という名も、たびたび金を要求するために訪ねていた弁護士の名だっ
た。国士を気取っていた朝日には多少とも代議士に知り合いがいたが、某代議士は彼のことを
『物に激しやすい性質で、小心者であった』と語っている。
また朝日は前年の三月の株の大変動で失敗し、安田が一手に買占めをして二千万円を儲けた
という巷間話を逆恨みしていたとも言われている。
そのような朝日平吾に殺害された安田善次郎とはどのような人だったのか。
彼は江戸後期天保九年(一八三八年)十月、越中富山に生まれた。その前年、大阪では大塩
平八郎の乱が起きている。そして弘化・嘉永・安政・万延・文久・元治・慶応・明治と続くが、
井伊直弼が大老になった年、安田は二十歳で江戸へ出て問屋へ奉公した。この時、二分と八百
文しか持っていなかったという。二分は一両の四分の一の価値だった。明治維新まで十年ほど
の時代、貨幣価値変動の激しい時代。
その六年後、奉公中の貯蓄二十五両を元手に、江戸日本橋人形町に海産物商を兼ねた両替商
を開いた。安田財閥の基になる安田屋・・・のちの安田商店・・・の誕生だ。その間、時代は桜田門
外の変・生麦事件・皇女和宮の将軍家茂との婚姻・新撰組結成など激動の幕末へと突入していく。
そして明治になり、彼の大きな事業だけでも第三国立銀行・安田銀行などを開業し、日本全
国で百五十以上乱立された国立銀行のなかで生き抜いて成功をおさめ、安田財閥としての地位
を築いていくことになる。
しかし、実業家安田善次郎には、いつも悪評がついてまわった。
実業家としてすでに立志伝中の人となっていた四十一歳の時、東京本所の御三卿旧田安邸の
広大な敷地を購入した時には、風刺や批判をこめた戯れ歌の落首に『なにごともひっくり返る
世の中や田安の邸を安田めが買う』とあった。田安と安田にひっかけて『安田め』と悪意をも
った言い方で流布された。
先ほども登場している渋沢栄一は暗殺事件後『彼のあれほどの力と資財を国家に用いていた
なら・・・』と、また大倉財閥創始者喜八郎は『慈善事業への出資はなく、金を握ったら離さない
男だ』とも述べている。一般の評判も『金持ちなのに、彼はケチだ』・・・そのような評価だった。
安田夫妻はこの暗殺事件の年、夏から大磯別邸寿楽庵で静養中だったが、夫人のふさ子は数
日前、安田が上京している留守中に食べた海老フライがあたり腹をこわしていた。
これも・・・亭主の留守中に贅沢をしたからだ・・・などの悪評もあったという。安田自身は美食を
しない人だった。
また事件を伝える号外が東京で出た時、『大馬鹿者が殺された。面白い号外』と東京本所の
安田本邸前で叫ぶ号外売りもいたという。そして犯人朝日平吾の葬儀には全国の労働組合や支
援者が・・・安田に負けない葬儀をしよう・・・と駆け付けたという。
この事件の舞台となった大磯安田邸寿楽庵の三沢川沿い隣に、大磯名誉町民だった高橋誠一
郎先生のお宅がある。もう亡くなってしまったが、長年慶応義塾大学で教鞭をとり、第一次吉
田茂内閣の文部大臣を務めた方だ。
その著書によれば、『下々に対しては常に傲慢不遜の態度を以って臨んでおった越中富山の
役人輩が、ひとり「用達商人に対しては鄭重極まる款待を以って是れに当たると云ふ状景を通
じ、封建末期の矛盾を痛感し」、安政四年、年二十にして江戸へ上がってから・・・翁が成功の
生涯は、固より不撓不屈、常に勤倹を実行して開拓し得たところ・・・』と述べている。
安田は江戸・明治・大正を生きた。幕末・明治維新を身をもって経験し迎えた明治初期は、
幕藩経済と様相を一変して資本主義が勃興し、数々の銀行が乱立された時期だった。前述した
ように国立銀行だけでも百五十以上になり、当然その後、武家の商法の言葉通り破綻する銀行
や会社は数多くあり、日清・日露・第一次世界大戦の好景気、その反動の不況などで銀行の支
払停止、取り付け騒ぎなど大きなうねりを安田は乗りきって生きた。
だがその間、安田は自分の経営する会社だけに専念することは許されなかった。現在でも放
漫経営での破綻がニュースで流れる金融界だが、当時関西実業界の帝王とよばれた松本重太郎
頭取の放漫経営が原因で、第百三十銀行が破綻寸前であった。
時は明治三十七年日露戦争の最中、戦時下の国運にもかかわる金融恐慌を恐れた政府は、そ
の処理を安田に託した。しかし安田は第百三十銀行の問題の深さに断り続けたが、明治天皇か
らの聖旨の御下命まであり、受けざるを得なかった。
そしてその処理に日銀から特別融資を受けたが、国会では『国家危機存亡時、安田は私腹を
肥やすため融資を受けている』などの批判が出た。しかしこの時、安田は聖旨御下命の難問に、
国からの融資金だけでは済まないことを充分承知をしていた。彼は安田銀行自身からも同額ほ
どを支出して、この難題をかろうじて切り抜け解決している。
蓄財ある実業家はこの時代、当然他にもいた。だが他の実業家もこの難問を断った。安田も
元老井上馨、時の総理桂太郎などから再三要請され、断りつづけた。そして引き受けた。また
この他にも安田は数多くの銀行を救済したが、そこに実業家としての計算も働いていたことを
私は否定はしないが、それら銀行を救済し国家に貢献した彼の功績は大きい。実業家としての
計算があったとしても、それは決して悪ではない。計算があってもあたりまえで、それがなけ
れば成功はしない。だが、それだけで難問に立ち向かったとは思えない。私はそこに、江戸・
明治を生きた安田善次郎という人物の侠気を思う。そして彼が真正面から立ち向かった問題は、
理論を超えた経済という魔物の現実があることを知り抜いていた安田善次郎という男でなけれ
ば解決できなかったのではないか。
金持ちなのに質素倹約の精神で生き、実業家としての功績が大きければ、それに対しての羨
望や妬みの人間社会。そして安田に対してのマスコミの一面からだけの軽薄な報道の相乗効果
が安田善次郎の虚像を創ってしまった。
安田はお金というものの価値を、その怖さを、その大切さを人一倍わかっていたからこそ世
間の評判にも超然として、自己の信念で経済合理主義を貫き通しえたのではないだろうか。
後年、安田はこのように語っている。
『自分の利益を外にして散財してまでも今日まで参りましたが、一つとしてお前のために助か
ったと言って大層喜ばれたものはない、比較的恨みを受けるような場合になっている。しかし
やましい所がないから、一向に痛ようを感じませぬ』
一点の曇りなく祖国に報いた自負心は大きかった。また、多くの銀行救済の荒波に敢然と挑
戦して生きた安田は、『一にも人物、二にも人物、その首脳となる人物如何。満腔の熱心さと
誠実を捧げ、その事業と共にたおれる覚悟でかかる人であれば十分』と語っている。
現在の経営不祥事で頭を下げる経営者に聞かせたい言葉ではないか。
しかし『小鳥ども笑はば笑へわれはまた世の憂きことを聞かぬみみずく』とその口惜しさの
思いを歌に託している。また『安田財閥史』には『一半の感謝と一半の悪罵の交錯であった』
と安田の気持ちを思い控えめに記してある。
いつの世も、信念がなく能力がなくても権力・権威に媚び、マスコミの風に、世間の波にうま
くのり、その方面だけの思考で生きる人物は多く、過大評価されやすい。
安田善次郎は権力に媚びず、マスコミや世評の悪さにも耐え、そしてそれら巷間の評判を真
実と思い込んだ人間に暗殺された。
だが少し角度をかえてみたならば、彼が実業家やマスコミなどの評判が悪かったのは、人付
き合いの不器用な孤高の人だったのかもしれない。
この暗殺事件の三十七日後、また大事件が起こった。安田善次郎暗殺事件はマスコミや世間
が、犯人朝日平吾を英雄にしてしまった部分がある。
その年十一月四日、時計はもうすぐ午後七時半。東京大塚駅鉄道員中岡某は、東京駅改札口
近くの柱のそばにいた。そして一人の男が改札口を通過し終わったところを刺殺した。 男の
名は原敬・・・時の総理大臣である。米騒動で倒閣した寺内内閣の後首相の座につき、平民宰相あ
るいは西にレーニン・東に原敬と呼ばれた人物だ。彼の国政での功罪と評価は省くが、犯人中
岡は安田暗殺報道に刺激され、政財界への憤りを過激に高めていってしまった結果ともいわれ
ている。
安田翁暗殺事件がなければ、原敬首相暗殺事件はこの時なかったかもしれない。
それから三十九年の歳月が過ぎた昭和三十五年、安保反対の運動が激化していた六月、全学
連が国会に突入し二十二歳の女性が死亡した。そして十月、東京日比谷公会堂で自民・社会・
民社の三党首立会演説会がおこなわれていた。そして演説にたった社会党委員長浅沼稲次郎は
十七歳の右翼少年に壇上で暗殺された。
その浅沼委員長暗殺の九年後、昭和四十四年冬には東京大学の安田講堂を安田砦と称し立て
こもっていた全共闘と機動隊の二日間の攻防があり、その後よど号ハイジャックや連合赤軍事
件へと続いていった。
その舞台となった日比谷公会堂そして安田講堂・・・昭和の激動をみてきたその二つの建物は、
安田の寄付によって建てられたものである。
日比谷公会堂は安田善次郎最期の年大正十年に、かの大物名物東京市長・後藤新平の『東京
市改良計画』に安田は全面協力をし、当時の政府予算の半分以上の額を寄付している。そのひ
とつに日比谷公会堂を含む市政調査会館が建てられ、今日にいたっている。また東京大学安田
講堂は、安田善次郎自らが・・・匿名を条件に・・・寄付を約束したが、暗殺後完成の建物に安田の
名を冠した。
もう一つ、JR鶴見線の『安善駅』は彼の功績を称え、その名からつけられている。
資本家安田善次郎も右翼体質のたかりやに暗殺され、そしてその安田善次郎の寄付による日
比谷公会堂で、当時資本家と相対する立場の社会党委員長浅沼稲次郎が、やはり右翼国粋主義
者によって暗殺された。
歴史とはこういうものなのだろうか・・・。
私が子供の頃、沢ガニをとったり、風呂敷を頭巾に枯れ木を刀に遊びまわっていた大磯王城
橋近くの旧安田邸で、このような事件があったことを知ったのは学生時代だった。
そして自由な時間を利用して調べたが、若かった私には安田善次郎という人物が守銭奴のよう
に思え、そのまま時は過ぎたが、年を重ねると共にどうも当時の世間の評価と違い、興味ある
人物と思うようになった。
確かに親交のあった実業界や政界の人々からの評価も芳しくない部分もあった。マスコミの
記事も良くない。しかし私には、安田善次郎という人物は、それら権力・世評に媚びず、懸命
にやせ我慢をして意地を信念を通そうとした・・・粋がって言えば『反骨精神』、下世話にいえば
『ヘソまがりの頑固者』として親しみを感じ、魅力ある人物として映るようになった。
彼自身望むところではなかったろうが、国の経済混乱回避のためならば、自ら手を汚し難問
を解決し、その結果は儲けのためとの悪評に弁明しなかった男。
そして実業家としての人生とは別に、大磯での彼は寿楽庵裏の王城山を千畳敷とよんでいた
湘南平にちなみ、小千畳敷と名づけ公園として町民に開放した男。
晩年の写真をみると確かに頑固な爺さんに見える。だが実業家として、経済という勝負の世
界では厳しく、無駄な金は使わない頑固者の人物が、大磯では好々爺になっていたようにも思
えてくる。
その旧安田邸は事件当時と変わってはいるが、平成の現在も大正・昭和の歴史から取り残さ
れたように、そしてあの日、何ごともなかったかのように、王城山の四季それぞれの彩りを背
に映し、二十一世紀を静かに迎えている。
(同人誌 日和九号に掲載)
禁無断転載