★「フロイトの歴史構想bb宗教史・文化史・道徳性の問題」(修士論文、1994年12月提出)。

本修士論文の目的は、フロイトの歴史構想を、宗教論・文化論的著作から包括的に理解することである。
第1章では、『トーテムとタブー』をとりあげる。そこでは、一方で呪術、宗教、科学の三段階からなる世界観の変遷の歴史が構想され、他方で原父殺害が宗教的儀礼において構造的に反復されるような歴史が構想される。これら進歩主義的歴史構想と起源反復的歴史構想の総合は、最後の著作『人間モーセと一神教』ではじめてなされるだろう。
第2章では、後期欲動論が導入される以前の著作をとりあげる。素朴な進歩主義的歴史観は、第一次世界大戦を契機に挫折し、そこに道徳主義的意味が込められるようになる。歴史は、利己的欲動の漸進的断念の過程とされ、それにともなう幻滅や対象喪失の痛みを処理する「喪の作業」が歴史の課題として規定される。
第3章および第4章では、後期文化論において歴史の動因として重要な役割を果たす後期欲動概念の詳細な定式化をおこなう。
さらに第5章では、まず超自我概念の提唱、道徳的マゾヒズムの問題を見る。フロイトは、以上の理論的道具を駆使して、『ある幻想の未来』で道徳主義的・文化内在的宗教批判を展開し、威嚇し罰する神の表象によってではなく、合理的根拠から攻撃欲動を意識的に断念するようすすめ、道徳性の確立を訴える。
第5章ではこの批判を詳しく紹介したのちに、この宗教批判が、世俗化に対処する喪の作業という観点から見て成功しているかどうかを検討する(第一の批判的考察)。フロイトの宗教批判は、道徳的調整という観点から見た宗教の機能不全という現実を認知させるという点において成功したが、その代替案を示すという点においては、愛ある宗教的対象との結びつきによる道徳性確立よりも、合理的根拠に基づく道徳性確立の方を強調したために、かえって宗教の転覆を謀るものとして宗教者に相対することになってしまった。結局、ここでは幻想破壊的な理論家としてのフロイトが前面に押し出される。
第6章では『文化のなかの不快』をとりあげる。それは、人間の発展につきまとう葛藤の露呈とその克服のプロセスとして歴史をとらえ、最終的には人類の文化の発展が「他者破壊/自己破壊」の二者択一的葛藤にとらえられている様を描き出し、エロスへの絶望的期待を表明して終わる。この文化発展の本来の方向性を示すエロスへの期待は、「何故の戦争か」でもっとも顕著に現れる。それは、悲劇的理論家としてのフロイトが提示した戦争の不可避性に対する、道徳家としてのフロイトの断固たる反対である。
以上のような分裂を確認したうえで、第二の批判的考察を開始する。まず、治療プロセスの範型から文化論的・歴史的著作の成果を再検討する。その結果、そこには、歴史的構成の次元の不備が明らかになる。全体的な進歩の方向性だけでなく個々の進歩の契機を評価しながら、葛藤をはらんだ進歩の過程をより全体的に構成・構想し、それによって、現在置かれている状況、現在求められている進歩が何であるかを理解させるよううながすことが課題となる。
第7章では、『人間モーセと一神教』を紹介し、うえに示した課題が、実現されているかどうかを検討する(第三の批判的考察)。それは、フロイトの歴史構想が起源の反復でしかないとするリクールの批判に答えるかたちでなされる。リクールは、進歩に向かう傾向性を理論化しないフロイトが、その理論的分析の対象である宗教史のなかに進歩の契機を見つけられないことを見抜き、進歩に向かう傾向性の理論的主題化という、理論家に道徳家を組み込む道を示す。それに対してここでは、歴史家としてのフロイトが、起源反復的な宗教史のなかに進歩の契機を見つけることによって、理論家的側面と道徳家的側面を総合するのを見る。フロイトは、精神性の進歩、父性的人格の表象を通じての自覚の深化、倫理性の確立という三つの基準から宗教史のなかの進歩の契機を評価しようとしていた。ここでは、分析を通して進歩を画そうとしているフロイトと宗教的伝統との連続性が前提されている。このことはフロイトの「歴史的真実」に関する言明によって明らかである。歴史的真実とは、起源的過去の表象を通じてより明確な自己了解とより適切な意志決定とを真実性の確信とともに得ようとする、歴史記述の努力の痕跡である。フロイトは、過去の宗教的伝統から離反しつつも、そのなかに歴史的真実を認めて、みずから歴史記述に向かい、かえって歴史記述の伝統に帰属することになった。そうすることによって、世俗化を生きる近代人に共通の宗教的伝統との結合の喪失を癒す喪の作業の一つのあり方を示したのである。


★「喪の仕事としての歴史記述bbミシェル・ド・セルトーのフロイト理解を中心として」、小此木啓吾責任編集『フロイトと精神分析の現在』(青土社『イマーゴ』1996年2月臨時増刊)、233-261頁。

 フランスの神秘主義研究家であり精神分析家でもあるミシェル・ド・セルトーによるフロイト『人間モーセと一神教』の読解を取り上げながら、歴史記述がフロイトの言う「喪の仕事」として特徴づけられることを明らかにした論文。精神分析の実践とは喪の仕事、すなわち過去における喪失や失われたものを認知することによる治癒の実践である。同じようなことが歴史家の仕事にも言える。これを、フロイト自身のモーセに関する歴史的分析において明らかにする。それを通じて、精神分析家の歴史記述は、単なる心理学理論の応用ではなく内的必然性があること、フロイトにとってユダヤ的伝統の始まりにおける喪失を記述することは、フロイト自身の喪の仕事であると同時に、ユダヤ共同体に欠如している(とフロイトの考える)喪の仕事の要請でもあったことを明らかにする。

In this essay, I attempt to characterize Freud's Moses and Monotheism as a work of mourning ,with Michel de Certeau, a historian of mysticism and a theorist of historiography who was also familiar with psychoanalytic thought of Freud and Lacan.
Mourning work is a task of recognizing the lost and the loss, recognizing the killed and the murder, recognizing the past/dead. Therefore it expresses the very essence of the psychoanalyst's work and at the same time of the historian's work. In his historical writing, Freud was trying to carry out a mourning work in two sense: he called for mourning work for the great man Moses by the Jewish tradition itself; thereby he was engaged with his own task of mourning for his loss of and separation from the tradition.
Another aim of this essay was to contribute to the general theory of tradition and historiography with the help of such concepts as "departure and debt" (de Certeau) or "gift" (Derrida). The dead is the one who gives his/her life. But the gift must be absent in order that the gift could be a gift, not an exchange, because it will be no longer a gift if the giver demands the recognition from the person who was given the gift. The recognition of it means a symbolic equivalent as a reward to it and makes the one way giving a reciprocal exchange. Thus the one who was given is the one who was bereft with the debt which cannot be repaid. The one can become a subject by losing the giver in this way, and forgetting the gift, that is, a life and love of the dead giver. But then, the subject must assumes a debt of impossible repayment, a duty of recognizing the lost, namely a duty of mourning work. So the mourning work is an impossible work, Derrida would insist, but I understand that it means also a historically opened and interminable one. This unpracticable repayment cannot help being a surplus, that is, another giving of life, another one-way giving which never wants any reward but a seal of death. All these things makes up the tradition. An historian engages himself/herself with such a mourning work and gets involved with the movement of the tradition itself.


★「宗教史は反復かbbリクールのフロイト批判と『人間モーセと一神教』における<進歩>の契機」、『東京大学宗教学年報』XIII、1995年(1996年発行)、87-105頁。

 本稿では、フロイトの提示する宗教史が起源の反復でしかないとするリクールの批判に答えながら、『人間モーセと一神教』におけるフロイトの歴史構想を紹介する。リクールはフロイトの潜在的目的論の議論において、進歩に向かう傾向性の理論的主題化という、「理論家としてのフロイト」に「道徳家としてのフロイト」を組み込むような道を示しているが、それに対して筆者は、「歴史家としてのフロイト」が、理論的分析によれば起源の反復でしかないと思われるような宗教史のなかに進歩の契機を見つけることによって、その理論家的側面と道徳家的側面とを総合するということを期待し、それがある程度達成されていたことを確認する。フロイトは、精神性の進歩、父性的人格の表象の反復的想起を通じての自覚の深化、倫理性の確立という三つの基準に基づいて、宗教史のなかの進歩の契機を評価しようとしていたのである。
 他方、本稿では次のような仮説を立てている。つまり、精神性の進歩に向かう傾向性を備えている人間が、父性的人格と出会い、その表象を媒介として倫理性を確立してゆくという道筋を、フロイトが前提していたのではないか、ということである。結局、この仮説は『人間モーセと一神教』においては、その議論の不徹底ゆえに十分に確証されない。 しかし、フロイト思想の全体を踏まえれば、それはかなりの妥当性を有するだろう。
 以上の探求によって、フロイトの描く宗教史は起源の反復でしかないとする従来の一面的な理解は、大きく修正されねばならない。このことがフロイトの思想史上の位置づけにどのような変更を迫るかという問題は、今後の研究課題である。


★「精神分析における物語行為」、青土社『現代思想』1997年7月号、293-315頁。

 本論考は、精神分析的治療のプロセスを、物語理論の用語を使って再記述しようとする試みである。まず筆者は、リクールの物語理論を参照しながら、精神分析とは生を語り直すことで生を変えようとするプロセスであるとする。しかし、それは解釈学的な物語理論が前提するような意味を開示するテクストとしての物語ではなく、自己欺瞞的な性質を有するものである。また、リクールに加えてマッキンタイアの議論をも参照しながら、物語的自己同一性の倫理的含意についても探求する。最後に、精神分析的治療における転移を、社会生活における相互転移的状況の代理表象として分析し、結論として、精神分析とは、被分析者の自己欺瞞的で自己破壊的な相互転移的状況を、分析家との転移を通じて、脱構築し、再構築しようとする営みであるとする。

This essay is an attempt to redescribe the process of psychoanalytic therapy in terms of narrative theory.
First, I characterize psychoanalysis as a process of reformation of life through narrating it, by making reference to Ricoeur's general theory of life and narrative. The rest of the article is some elaborations of this thesis step by step. I point out the self-deceptive nature of the narrative treated by psychoanalysis against the tendency of hermeneutical theory to regard the text as a manifestation of meaning. Then I investigate the ethical implication of making narrative identity, with McIntyre's perspective of enactment of narrative as the social interaction, in addition to Ricoeur's discussion of narrative, especially fictive and autonomous one, as an ethical thought experiment. Finally, I analyze the transference in psychoanalytic therapy as an abstraction and a representative substitution of the interaction of transference on the social stage, and conclude that the psychoanalytic therapy is a deconstruction and reconstruction of the self-deceptive and self-destructive interaction of transference in the analysand's everyday life by means of transference in the therapeutic interaction with analyst.
At the end of the essay, I suggest that the theoretical narrative of psychoanalysis is the narrative of love, in which one confronts his or her self-destructive desire of love and, by narrating it, transforms it to the hope of love, Eros that Freud called with Plato and Paul, as a limit-idea.

★「「物語と宗教」研究序説――リクール「物語神学を目指して」を読む」、『東京大学宗教学年報』XV(1997年)、61-78頁。

本論考では、リクールの「物語神学を目指して」の精読を通じて、宗教にとっての物語の意義を理論的に考えることが目指される。物語神学の理論家たちがマクロな神学的概念よりもミクロな物語の復権を唱えるのに対し、リクールは物語と概念の連続性と循環性を強調する。さらに本論考は、物語と概念の連続体としての宗教的システムが全体として何を目指しているのかを考える。すなわち、物語にはらまれる<同>の追求が、共同体の物語的自己同一性の探求となり、個々の成員の物語的自己同一性を拘束し、自明化され自然化された<世界>を構築するということである。しかし、高度に抽象化され、普遍化された「物語―概念」は、生活の文脈との距離を増し、解釈の余地を広げる。共同体の物語は、拘束的であるのみならず、解釈をめぐる政治的葛藤に開かれたものでもあるのである。

In this essay, I shall attempt a close reading of P. Ricoeur's "Toward a Narrative Theology," and thereby reflect theoretically on the significance of narrative for religion.
Though Ricoeur is well known as a proponent of the hermeneutical theory of narrative, he has not fully developed the theory of narrative and religion. Rather, on many occasions, he refers to "narrative" as a literary genre or a form of discourse in the bible. But this terminology discords with his usage of "narrative" in general as a medium or mediator through which temporal experience becomes humanized.
"Toward a Narrative Theology" makes clear his stance in relation to so-called narrative theology. From this we can deduce his view on the general relationship between narrative and religion. Ricoeur emphasizes continuity and circulativeness of narrative and concept, in opposition to the narrative theologians who claim priority of the former to the latter.
However, the aim of this essay is not just a confirmation of Ricoeur's standpoint, but a consideration of the goal of a religious system as a whole continuum of narrative and concept. Through this consideration, I shall sketch hypothetically a way to establish religious community by means of religious narratives and theological concepts. In this discussion special attention is paid to narrative's search for the Same and its political nature. This sketch is the first step toward a theoretical reflection on the relationship between narrative and religion.


★「集合的記憶の精神分析」、『情況』第2期第10巻第6号、特集:精神分析と社会学理論の可能性(1999年6月号)、91-101頁。

精神分析は個人心理に関わる治療的実践だという考えに対して、本論考は、アルヴァクスの集合的記憶の議論を踏み台としながら、社会理論としての精神分析の可能性を問う。そのための足がかりとして、精神分析の方法のかなめである記憶・想起の問題系のとらえ返しをはかる。つまり、記憶・想起を、患者の内面で起こる個人的な事象としてとらえるのではなく、患者の埋め込まれている社会的関係のなかで起こる出来事だと考えるのである。それによって、“想起されない記憶の歪曲された表現であるところの症状は、十全たる想起によって存在理由を失い、解消されてゆく”という精神分析の基本的理念の場所は、「患者と分析者」の二者関係には限定されなくなり、想起は承認の問題へ、記憶は自己同一性の問題へ置き換えられ、精神分析的実践は証しする身体のポリティクスとしてとらえ返される。


★「心理学的儀礼論とモダニティ――儀礼・神経症・遊び」、『宗教研究』第73巻第1輯(第320号)(1999年6月)、75-99頁。

 宗教心理学の重要な研究者と目されるフロイトとユングとエリクソンの儀礼論を取り上げ、それを通じて、彼らが近代化の脈絡のなかで心理療法をどのように位置づけていたかを見る。彼らは、共通して、@宗教的・呪術的な儀礼と神経症をパラレルなものとしてとらえ、A伝統的集合的な儀礼が力を失うなかで、神経症が目立ってきていることを指摘し、Bそれを治療するものとして、儀礼における変容過程を「遊び」の方向に改変した心理療法を提示している。神経症において、個人は儀礼的行為の意図せざる強迫的反復という悪循環に陥る。それを断ち切るために、心理療法家は、限定された状況のなかで、症状の自由な再現、吟味、再構築をとおして、それを包括的に理解可能なものとする。その背景にあるのは、自己理解を肩代わりする伝統が崩壊し、自己の筋立てが個人に任せられているという趨勢である。こうした布置連関全体が織りなしているのは、自己が再帰的プロジェクトとなった近代の「徹底操作」である。

This article reviews the ritual theories of Freud, Jung and Erikson, the prominent psychologists of religion, and thereby investigates how they understood their psychotherapy with relation to ritual and in the context of modernity.
They in common (1) compare religious and magical ritual with neurosis, (2) point to the fact that the neurosis has appeared as the traditional collective ritual loses its power and (3) present their psychotherapy as a "play," which includes and revises the transformation process in ritual.
In neurosis the individuals fall into a vicious circle, that is, unintended repetition of ritual action. In order to break it, the therapists try to make it more comprehensible and intelligible by the way of free representation, scrutiny, and reconstruction in limited situation. In the background lies the general trend in which one assumes the task of plotting oneユs self from the beginning, since the tradition can no longer provide the resources of self-understanding. This constellation as a whole constitutes the "working-through" of the reflexive project of the self in modernity.


★「リクール物語理論の射程――神話・イデオロギー・物語」、『フランス哲学思想研究』第4号(1999年)、84-100頁。

本稿は、リクールの物語理論を、社会理論および政治理論の観点から考察し、それを通して、その解釈学的実践を現代思想のコンテクストのなかで理解することを目指す。具体的には、前近代的共同体の物語への回帰なのか、近代社会を支える理念としての大きな物語の是認なのか、それとも脱近代の小さな物語の容認なのか、という問いを立てて、彼の物語理論の規範的含意を探ろうとする。
具体的にはまず、前近代の諸共同体の物語である「神話」に関する議論と、近代における二つの大きな物語である「イデオロギーとユートピア」に関するリクールの議論を、さまざまな著作から再構成する。それによると、神話は、歴史の恐怖に直面してはじめて神話として生成し、歴史的意識による批判を受けたうえで、歴史を超越し、再支配するような形而上学や宗教を生み出した。近代においては、これらに代わって道具的理性と操作的言語が、歴史の徹底的支配を目指す。それによって、未来の期待の地平は肥大化する一方、過去の経験の空間は狭隘化する。このような事態をリクールは、イデオロギーとユートピアの分裂としての世俗化として描き、こうした分裂を媒介し、懐疑を経たうえで信仰の言葉の意味を回復することを、解釈学的実践の課題とする。しかし、それはすでに生きられた伝統の称揚ではなく、生きられることのなかった約束の実現への希望である。リクールの政治論的著作によれば、彼の物語理論の政治的含意とは、一つの声の支配する共同体の自己同一性の復権ではなく、多数の声のなかで巻き込まれつつ物語を交換するような公共性の次元の確保であることが分かる。
以上のようなリクールの立場は、プレモダンへの回帰でもなければ、モダンそのものの肯定でもなく、通俗的に理解された個人主義的なポストモダンの提唱でもない。あえて特徴づけるならば、それは、第二の信であり、啓蒙の啓蒙であり、多声のなかの物語の擁護であると言えよう。

Cet essai cherche interpr師er la th士atique de la narrativit chez Ricマur en termes de th姉rie sociale et poplitique. Il cherche 使alement situer sa pratique herm始eutique dans le contexte de la pens仔 contemporaine. En premier lieu, jユexamine la discussion de Ricマur concernant le メmytheモ, que lユon peut caract屍iser comme le type de r残it propre aux communaut市 premodernes, et sa discussion concernant メlユid姉logie et lユutopieモ, deux grands modes narratifs de la p屍iode moderne. Cette relecture conduit la reconstruction dユun sch士e historique de la forme narrative. Ensuite, je souligne que son attitude est en faveur de courts r残its poliphoniques, qui `servent exposer le メquiモ de la condition de pluralit. Apr峻 tous ces arguements, je mets en relief sa position de mani俊e indirecte ou n使ative, cユest--dire, ni dans un retour au pr士oderne, ni dans une affirmation du moderne en tant que tel, ni dans ce qui est populairement appel le postmoderne. On pourrait caract屍iser cette position comme celle dユune seconde na夫et, comme une pens仔 des lumi俊es au second degr, et comme la base dユune narrativit polyphonique.


★「心理学的自己実現論の系譜と宗教――救済・自己実現・癒し」、『東京大学宗教学年報』XVII(1999年)、57-72頁。

本稿は、宗教心理学の代表的研究者と思われるW・ジェイムズ、S・フロイト、C・G・ユング、E・フロム、A・H・マズロー、E・H・エリクソンたちの諸説を概観し、その共通の論点として自己実現論があったことを示し、それと宗教との関係性を探るものである。彼ら心理学者たちは、宗教を研究対象として分析するなかで――あるいは宗教の本来的なあり方の提示を通して、あるいは宗教の現実のあり方の批判を通して――人間の心理的成熟のプロセスを描き出した。立場の相違、各々の独自性にも関わらず、彼らの描いた心理的成熟のプロセスは、ほぼ共通した内容を持ち、「自己実現」プロセスとして一括できるようなものであった。それは、一面的な自我を脱して、本来的自己を実現してゆくプロセス、あるいはより真正なる自己に漸近してゆくプロセスであり、自己への究極的な関わりを特徴とするものである。自己実現を規範とするような心理学的思想運動は、ベラーの宗教進化論におけるもっとも新しい段階である「現代宗教」の一例と考えることができるだろう。このようにベラーの枠組を参照するのは、現代の先進諸国における心理学的思想運動が、宗教を対象化し、宗教との差別化を図りつつも、宗教に代わる霊性をになおうとしているということを明らかにするためである。本稿では、最後に、自己実現論のなかから全体性の回復というモチーフを取り出し、それがごく最近の局面においては「癒し」という言葉で言い表されていることを指摘したい。


★「宗教における暴力と平和――類型論的考察」、『現代宗教2001』(東京堂出版、2001年3月)、178-189頁。

宗教は暴力的か、それとも平和的か。否、宗教は暴力的でもあれば平和的でもある。それでは、宗教における暴力性と平和性はどのような関係にあるのか。本稿では、1)宗教の本来的平和性、2)独自性主張そのものの排他性、という二つの異なる理解の類型をあげ、それぞれが、1’)教理的解決(諸宗教の形而上学的位置づけ)、2’)倫理的解決(排他性を自覚しつつ倫理性を徹底)、という異なる解決法に接続することを示す。そして、この枠組のなかに、ラーナーの「匿名のキリスト教徒」論、ヒックの宗教多元主義、デコスタらの新包括主義、キュングらのグローバル・エシックス、テイラーの承認のポリティクスなどの代表的な諸説を位置づける。とりわけ、テイラーの提案を、「棲み分け排他主義という現実的選択を基調としつつ、他者の包括主義を承認するようなものとして包括主義を洗練させることを提案するものであり、かつ宗教の普遍的構造を同定しない非本質主義的な形式的多元主義」として評価する。


★「現代思想と宗教心理」、島薗進・西平直編『宗教心理の探究』(東京大学出版会、2001年4月)、291-310頁。

本稿は、現代思想と宗教心理の関わりを多面的に考察することを目的とするものである。まず、デリダ、レヴィナス、アドルノ、フーコーといった論者の諸説を概観し、現代思想の宗教思想にとってのインパクトを、「他者論的転回」という動きにまとめる。それは、宗教における、神の概念的把握、および神と人間の類比的同一化が、他者性の廃棄につながり、近代における個人主義と全体主義の結合を準備した、という批判を投げ掛けるものである。それは、形而上学以後の宗教における宗教心理の主題化を他者性の廃棄として批判するポテンシャルを持つであろう。
そこで、後半では、宗教心理学の学説史を素材として、他者論的転回以後の宗教心理理論の可能性を問う作業に着手する。マズロー、ジェイムズ、ユング、ヒルマンらの宗教心理学における自己実現論を見てゆき、そこに「独我論的自己実現論から多元主義的自己実現論へ」という動きを見ながらも、それが真の他者性の直視につながらない恐れがあることを指摘し、「心の存在論から心の倫理学へ」という転換が必要であることを明らかにする。そして、このような動きの萌芽を、フロイト、フロム、エリクソンらの精神分析的宗教心理学のなかに見いだしてゆく。さらに最近の対象関係論、コフートの自己心理学の成果を取り入れたジョーンズの宗教心理学にも言及し、「真正の自己から仮象の多産性へ」「関係性のプラグマティックな使用」という論点を付け加えた。最後に、フェリーの議論を参照しながら、<自己>の霊性と<他者>の霊性という思想状況の構図を描き、それらを往還するような宗教心理理論の方向性を示唆した。


★「癒しブームを超えて」、『国際宗教研究所ニュースレター』No. 32(2001年10月)、15-19頁。

 本稿は、日本における「癒し」に関連する出版物の2000年以降の動向を分析し、医療・心理・精神世界グループ、宗教・文化グループ、社会学関係のグループに分け、とくに、第三の癒しを客観的・批判的にとらえる研究を紹介し、ポスト「癒し」とでも呼べる動きが現れつつあることを指摘する。そして、「癒し」批判的な陣営と、臨床哲学や臨床社会学といった対象に巻き込まれながら思索するスタイルとが、人文社会系の学問の中で拮抗するという構図を示唆している。

★「霊性からスピリチュアリティへ」、『国際宗教研究所ニュースレター』No. 38(2003年4月)、14-22頁。

本稿は、日本における「スピリチュアリティ」を主題とする出版物の動向を分析し、英語圏での spirituality の用法の変化(宗教と必ずしも関わらない)に対応して、日本では「霊性」という言葉に変わって「スピリチュアリティ」という言葉が用いられるようになりつつあることを指摘する。さらにウィルバーのような「自我を超えてゆく」スピリチュアリティから、魂の深みへの自覚へ(エルキンス)、成長の志向よりも存在そのものの価値へ(窪寺)、欲望の否定的超越ではなく欲望への配慮へ(フィッシャー)、超越的なものとのつながりにとどまらない日常生活における見えないつながりへの気づき(樫尾)、といった新しい意味づけが生まれつつあることを指摘している。