死生学――生命観と死生観と倫理との交差
「死生学 thanatology」は、死を前にした人間が自分の生をとらえ返し、残りの生を充実させることを通じて、死を人間らしく受容する可能性を探究する学問として、ここ数十年注目を浴びている分野である。他方、生命科学技術の進歩とともに、生命倫理をめぐる議論が沸き起こっている。伝統的死生観は、このような新しい状況にどのように応答するのだろうか。こうした問題をトピック別に考察してゆきたい。
主に期末レポートによって評価する。補助的に授業終了後のコメントも参照する。
* 任意とする。用紙は自分で用意すること(こちらから配付すると書かなくてはいけないようなプレッシャーを与えてしまうので)。提出期限は授業から5日以内(つまり翌火曜まで)。人間関係研究室か、私にメールで(norick.h@nifty.com)。評価にどの程度反映するかは未定(多くの人が出せば大きなウェイトに、出す人が少なければさほど考慮しない)。なお私のゼミ生で受講する人は必須とします(^^)
期末レポート:授業で扱ったテーマのうち関心のあるものを取り上げ、授業では挙げなかった種類の事例を探して報告し、それに関する意見を述べよ。2000字以内。
扱う可能性のあるテーマ(順番は変わるかも、省略するものも出てくるかも)
・誕生――人工妊娠中絶をめぐる論議、水子供養、クローン技術、どこからが人間?〜GD
・殺人禁止の根拠――なぜ人を殺してはいけないのか?〜GD
・自殺の是非――許されるか否か?〜GD
・親しいものの死――悲哀・悲嘆をめぐる心理学
・死の受容の心理
・臨死体験
・ターミナルケア
・安楽死の是非〜GD
・「脳死体」からの臓器摘出の是非――脳死は死か?〜GD
・死に対する態度の歴史
・葬送の自由
・諸宗教の死生観
(GD=グループ・ディスカッション)
関心のあるテーマに挙手させたところ、関心がうすくて省略する可能性があるのは、臨死体験、死に対する態度の歴史、諸宗教の死生観。
20021010
・誕生――人工妊娠中絶をめぐる論議、水子供養、クローン技術、どこからが人間?〜GD
人工妊娠中絶
母体外で生命を保続することできない時期の胎児を人工的に母体外に排出すること(母体保護法、1996)
〜医学の水準とともに「時期」は変わる。1991年段階では満22週未満(厚生事務次官通知)
認可されている中絶の理由
・身体的・経済的理由により、妊娠・分娩が、母体の健康を著しく害する恐れ
・抵抗・拒絶のできない不本意の姦淫による妊娠
生命の始まりをいつと考えるか
受精時〜キリスト教(カトリック)、大本教
受精卵が子宮内膜に着床し、分裂開始〜生物学的には自律性を持った生命
母体外に出ても生存可能な時期〜厳密には、中絶した場合に殺人罪が適用されうる時期では?
出生時〜フェミニズムおよびそれを認めるリベラル
「生命ではあっても人間でなければ殺してもよい」という立場
「人間になる可能性のある生命は人間にほかならない」という立場
アメリカでは国政を二分する論争へ
・1973最高裁〜妊娠後期三分の一を除けば合法。それ以前の中絶を規制するのはプライバシー侵害
・プロ・ライフ(生命養護)派の反対運動。レーガンとブッシュの両大統領(共和党)も反対。
・1989最高裁〜初期三分の一を過ぎたら規制してもよい。
・プロ・チョイス(女性の選択権を擁護)派の巻き返し。クリントン大統領(民主党)の立場。
日本ではそれほどの論争にはならない。なぜか?
水子供養
1960年代後半から週刊誌などに登場、1980年前後に報道はピーク(専業主婦の数の高まりと一致)
「水子」(すいじ)はもともと流産した胎児への戒名
仏教の立場:中絶そのものは殺生。人工中絶であれ、自然流産であれ、水子も死者として供養する必要。中絶に関しては反省と懺悔の場の提供に。
「祟り」観念の介在
批判〜結果的に中絶容認ではないか。「祟り」で恐怖心を植え付けて供養料金を巻き上げる詐欺ではないか。
コメント
人工妊娠中絶に賛成であるが、今回の授業で躊躇いを覚えた。それは人工中絶容認時期の定義の曖昧さが故であった。どこからを生命なのか。人工中絶に賛成している私は、それを受精時と考えている。つまり中絶=殺人とみなしている。母親だからといって胎児を殺す権利はないのかもしれないが、自分の以後起こりえるだろう生活を想うと、「ごめんなさい」とその命の光を握り潰すのも仕方がないと思うのである。
日本の宗教には、中絶を抑制する教えがあるのか。
→目立ったものとしてはない。間引きや「子おろし」の存在。子どもより家の存続や家の名誉のほうが重視。
中絶を簡単に行うことができる医療技術が発達し、命の重さを軽視。
→昔の方が?
なぜ日本では議論が盛り上がらないのか。高齢者の死の方が重く見られるから。
「人工中絶をめぐる論争はなぜ日本では起きないのか」。日本は恥の文化が根付いているため、そのような極めてプライベートなことを言うことがタブー視されているような気がします。
→それなりに納得する理由。しかし、中絶禁止の教えや倫理がないからという理由を補足するものと言ったところか。
仏教の水子供養について、仏教の立場であるとか、供養することによって中絶への反省を促すという意味であるとかについては全く知りませんでした。どの程度浸透しているのか、反省の気持ちというより中絶しても水子供養すれば・・という気持ちに繋がってしまうのではないか。
→確かにそうかもしれません。「殺生」の禁止よりも、した後の反省に重点があるように思います。
なんとも難しい問題ではあるが、でもなんかどうしてこういう生命の誕生という神秘的なことがここまで問題になってしまうのかということに疑問を感じないでもないと感じた。
→生命が操作の対象となることへの疑問と理解
議論の焦点が「人間の尊厳」ではなく、「新技術」を取り入れるか否かに終始してしまう
→生命が技術的操作の対象となり、もはや前提ではなくなってしまったという事態を的確に表現
高校のときに保険の授業で、まだ小さい胎児の人工中絶のビデオを見ました。まだ人間の形になって間もない退治が、頭をつかむ鋏の様なものを子宮に入れると、必死に逃げている映像でした。その様子は生命としか言いようがありませんでした。
私は卵子と精子が出会い、受精したら、そこから生命は誕生すると考えます。このような考えを持つようになったのは、高校の時に「中絶」のビデオを見たからです。そのビデオで行われていた中絶は、子宮の中にいる胎児を針で刺すというものでした。子宮の中に針が入ると、胎児はその針から逃げるように子宮の中を動き回っていました。このビデオを見て、私は「受精したら、そこで生命は始まる」と思うようになったのです。
→複数見た人がいるということで、姉妹校出身でしょうか。そういうビデオを見ているか見ていないかは大きいですね。私も脳死者から心臓を摘出するシーンをテレビで見て、感覚的にこれはおかしいと思ったのですが、それを見ていなかったらどうだっただろうと思います。
(生命の始まりは受精児であり、中絶は容認されないという立場の上で)。中絶が認められる根拠の一つには、レイプなどによる強制妊娠の問題があったはずです。こうした考えに立った時、"胎児"の生存権よりも、女性の自由権の方が勝ったと言えてしまいます。
→原理原則では解決がつかないことを指摘。
母親は、お腹にいる胎児には生命があると実感し易いと思います。なぜなら、生まれる前から、自分のお腹の中にいて、生活を共にしているからです。しかし、父親となる男性は、生まれるまで、その存在を実感しにくく、胎児の生命について考えにくいのではないでしょうか?
→男性のことについて触れられたのは、なかなか有意義なことでした。私自身アメリカの論争を紹介するに当たって、女性のフェミニストがプロチョイスで、男性の保守的な牧師さんがプロライフというイメージを持っていたので、これは一面的であることに気づかされました。アメリカの事情はともかく、日本で中絶を選択するのは、男性が妊娠・出産をサポートできない場合が多いように感じられるからです(これは印象論でしかありませんが)。
冷静に語っていられるのは自分が第三者の立場に立っているからだ。
→GDも第三者的な議論に終わらないよう気をつけたい。
20021017
最初に、人工妊娠中絶に関するGD
中絶反対派が圧倒的であることが予想されるので、
1)中絶容認派の論拠について考えさせ(5分一人で考える、10人で報告しあいまとめる)
2)それに対する反論としてどのようなものがあるか考える。(1グループ1論拠に割り振って考えさせる。1グループの人数は柔軟に)
GDの結果
1)容認派の論拠
1女性の選択の自由
〜出産・育児の社会的サポートが不十分で、キャリアの障害になるという問題が背景
2子どものため
〜予定外妊娠は育児環境不全をともない、子どもの幸せを保障できず、親としての責任を全うできない。
3法的に容認しないとヤミ中絶が横行
〜母体の危険、中絶コストの釣り上げ、貧しくて中絶できない人は出産によってさらに経済的に不利に
4胎児はまだ生まれていないので、生命ではあっても人間として扱う必要がない
コメントから
<反対派の揺らぎ>
女性が中絶を行う理由には社会的なものもある。妊娠、出産は女性と直結するためか、授業内でも女性の権利についての指摘が多かったと思います。私達がより主体的に生きることを考えると中絶も一つの手段
として捉えられる可能性があります。けれど命を慈しみ、誰かを愛する中で自己実現が達成されたらもっと良いと思います。
→コメントありがとうございました。先週のGDの結果、中絶容認派の気持ちが分かるようになったという人が多く、自分のもともと持っていた意見以外にも触れることで、考えをより深めるという教育的効果が得られたと思っています。今週はまた別の立場になるので、それで最終的にどうまとまるか楽しみです。
<容認派、法的問題と道徳的問題の区別>
人工妊娠中絶をめぐるGDを行ったが、「中絶反対派」が多い事に正直驚いた。私自身は、妊娠中絶の映像を見てもなお、あらゆる状況(望まない妊娠など)を想定して、中絶を禁止するのは非現実的であると考える。
レイプで妊娠した女性に果たして命は尊いものだから、絶対に生みなさいといえるだろうか。仮に生んだとしても、果たしてそれは本人はもちろん、生まれてきた子供、両親、友人たちにとって幸せなことであろうか。私にはとても人工妊娠中絶絶対反対と言うことができない。私は、おそらく大勢の人(特に女性)がこの様に考えているであろうと勝手に思っていたので、反対者が多かった事実に驚いたのである。
→レイプによるものと母体を危険にさらす妊娠の中絶は法的に容認されていて、それ以外のものは容認されておらず、人工妊娠中絶に反対する人の多くも、この二つのケースについては容認するものだと思っています。問題になるのはそれ以外の合意に基づく性交渉で避妊に失敗した場合でしょう。それに対して、良性の話し合いのもと道義的責任を全うしなければならない、というのが道徳的反対に当たります。
<男の責任>
私の知り合いで最近中絶を悩んだ人がいます。やはり、付き合っていた男性が避妊を拒み、逃げれなかったゆえの結果でした。
女性だけでなく、男性ともこの問題についてディスカッションしてみたいです。私達の同世代の男性が、中絶についてどのように考え、思っているのか興味があります。
GDの中で思ったことは人工妊娠中絶は女性の問題とされがちだけれどもそうではなく両性の問題であり、そしてまた社会の問題であり教育の問題でもあるのではないかと感じた。
→男性の関与の問題は、前回コメントとGDの成果の一つだと思う。
<GDについて>
グループディスカッションは、皆がどのような意見を出していいのかよくわからず、あまり内容の濃い話し合い、意見が出なかったように思います。個人的にはディスカッションの時間を凝縮して、講義の時間がもっと増えたら嬉しいです。
→逆に、GDがとても良かったという人もいた。
20021024
NHKデータブック日本人の性行動・日本人の性意識の紹介
若年層より中高年になればなるほど中絶経験率が高くなり、過半数に。すべての世代の平均をとると、日本人女性の43%が中絶経験者。
2)容認派の論拠への反論〜GDの結果から。
1 女性の選択の自由
胎児の生命の方が、選択の自由よりも重い。人を殺す自由がないのと同様、胎児を殺すことはそもそも選択肢に入れるべきではない。先進国における出産育児に対する社会的サポートは、不十分とは言えない。
2 子どものため
子どもの将来を勝手に決めつけることはできない。なぜ生まれたら不幸だと断定できるのか。自分のためではないか。産んで育てる責任はある。
3 法的に容認しないとヤミ中絶が横行(現状では、条件付きで容認。実際には拡大解釈(とくに経済的理由)がなされ、放任に近い)
中絶を軽視することになってしまう。中絶を容認する条件を厳しくチェックすることによって、逆に妊娠への自覚が強まる。
4 胎児はまだ生まれていないので、生命ではあっても人間として扱う必要がない
いずれ人間になる生命は人間である。人間ではないと決める根拠がない。また仮にまだ人間になっていないとしても、生命であるならば殺すべきではない。
法的には条件付きで容認
→無制限に中絶の条件が拡大解釈されれば放任に
→道徳的・宗教的には反対。ただし、これは法的なものではなく、信念の領域。なお、中絶という選択を避けるよう注意を呼びかける教育は、大筋賛同を得ている。
コメントから
いくら「社会的サポートがある」といってもシングルマザーには厳しい状態だと思います
→社会的サポートの評価については、なかなか難しいものがある。飢え死にはしないけど、普通の専業主婦との格差は歴然たるものがある。でもそれが、あるひとりの人間の生きる権利を奪うだけの十分な理由と言えるかというと、難しい問題。いずれにせよ、主観によって左右される。
前回の講義で「中絶容認派」の反対論拠をGDしたが、やはりグループの中で容認派が多く、反対論拠を挙げるのは難しかった。同世代で、同じ環境下にある学生同士のディスカッションにおいて、話し合いの内容によってはほとんど差異は無く、話し合いに限界があると感じた。そして、道徳的・法的に分けて考える必要性があるが、現状では中絶を反対すること自体が、非現実的であるとGDを通じて再認識した。
今後は、先生のレクチャーを通じで幅広い知識や、新しい情報を取り入れた上で、GDに臨みたい。次回も楽しみにしています。
→ 授業の最後に短く言ったことなので、きちんと理解されていないかもしれませんが、単純な反対論はもはや問題とはなっていません。中絶容認派の人でも喜んで中絶をしたいという人はいないと思います。容認派の人も、中絶というものは女性にとってはできる限り避けたいものだと思います。その意味では、中絶は好ましくないものであるという点で議論の余地はないと思います。法的には条件付きで容認されるが、無際限に中絶がおこなわれることには歯止めをかけなければならないというのが私の意見です。避妊を女性の側にもイニシアティヴを持たせる、生んで育てやすい環境を作ること、なおかつ胎児を人間の生命として尊重するような教育を行うことが必要だと思います。
「子供のためにならないといって人工中絶するのは結局は大人のためで、子供のためとは言い訳にすぎない」という意見を聞いた時、今まで目の前を覆っていた幕が取り払われたというか、頭を殴られたような衝撃を受けた。この意見を聞くまで私の頭の中は、母親が経済的・精神的に確立していなかったら生まれてくる子供が不幸になる。子供の為にも中絶をしていいのではないかという考えで一杯だった。それが、今回のグループディスカッションで出された意見によりいい意味で壊すことができた。医療技術の発達した時代に、命を粗末にしてはいけないという教育を受けて育った私たちのとるべき態度は、十分な性教育を受ける・与える、経済面・精神面において子供を育てることが難しいと判断した時はきちんと避妊する、この2つであると思った。
→最後の結論は妥当だと思います。また今度の授業で、簡単にまとめようと思います。ディスカッションは、ためになったという人もいるし、漫然と過ごした人もいるし、結局は、どれだけ柔軟に自分を開くかということなのでしょう。私も勉強になっています。
中高年の中絶経験者の多さに驚いた。しかし、高齢出産だからといって中絶してよいと言い切れない。
→避妊に対する意識がかつては低かったというのもあるかも。皆さんが年をとれば、やはり半数近くが中絶を経験するようになるとはいえないかもしれない。
20021031
・出生前診断
現在のガイドライン:胎児異常の恐れが高い場合に考慮される。優生思想(劣った生命は存続しなくてもよい)、差別の可能性
・胎児組織移植〜死んだ胎児の組織を移植すること。
治療目的の妊娠と中絶が行われる可能性。売買の対象となる可能性。
・人工授精・体外受精
借り精子、借り卵子、借り腹(代理母)、親子関係の定義問題。代理母は不妊に悩むカップルへの福音というとらえ方。他方、心理的抵抗感・反発。代理母が引き渡したくないと訴えた例。
・クローン技術(プリント配布)
生殖細胞からのクローニング:割球の移植→母体へ
→体細胞によるクローニングへ、1997ドリーの発表
クローン動物の90%は死亡。遺伝子異常の発生。クローン食品や遺伝子組み換え食品の問題。
コメント
今回の授業で気になったのは「劣った生命は存続しなくても良い」という優性思想についてです。即差別を連想させる思想故に否定されがちではあるけれども私は、一個の生命としては当然の考え方でもあるそう思うのです。優性思想を持ち出すと現在、懸命に生きている障害者をはなから否定する事になるという意見は必ず聞きますがその考え方こそが「障害者=劣った者」という差別意識を前面に押し出している気がして私はいつも腑に落ちない感が残ります。例えば手足が足りなかったりする方は動物的には「障害のある劣った者」かもしれませんが人間として優れているものを持っている人、例えばレイナ・マリアさんのように人々の心を揺さぶる美しい歌声がある人は果たして障害者でも劣った者と言えるのでしょうか?逆に五体満足であっても自分の能力を生かしきれていない、生かそうとしない人は生命として劣った存在だと言えないでしょうか?
しかし、その後に堀江先生が「役に立たなくても認める。生きているだけでいいよと言えないと大変生き難い世の中になってしまう」というような事をおっしゃっていたのを聞いて成る程、と思いました。人としての美徳がそこにはあるかもしれないと思いました。
→最初の疑問ですが、優生思想の批判者のいっていることは、結局、芝本さんのいいたいことと同じなのではないかと思います。ただ、優生思想を批判するために、優生思想の前提である「障害者=劣ったもの」という前提を単にひっくり返して、「優れた障害者」を反証として示して、結局は優生思想と同じように、優劣にこだわっているかのように見えてしまうのです。でも、本当は障害があろうがなかろうが、生命に優劣なんかつけられない、というのが、優生思想の批判としては筋が通った議論になるのだと思います。
人工授精、体外受精、借り精子・卵子、借り腹というのは、当事者同士が同意すれば、問題はないと思う。しかし、胎児組織移植というのは複雑な、デリケ−トな問題だ。機械的に受精、中絶、売買というシステムが出てくるのは目に見えている。ここまでなれば、人は人という命の重みに対する感覚が麻痺し、暗黙の了解で成り立っていたはずの、脆い道徳は消え去ってしまうだろう。重く、難しい問題であるが故に、議論のみで足踏みをしてしまうのは分かっている。しかし誰かがブレ−キをかけなければ、この世の中はこのまま暴走し続けてしまうだろう。手の施し様がない状態に陥る前に、行動を起こすのは、政府だろうか、医療機関だろうか。それとも無理なのだろうか。
→胎児組織移植の商業化の問題ですが、現行の制度ではこれを完全に取り締まることはできないと思います。人工妊娠中絶そのものが、表面化しない命の抹殺なのですから。医者の立場も治療が先決というものなのでドナーがいれば移植を行い、金銭授受の問題は「私は知らなかった当事者の責任だ」と白を切ればすむことです。また技術的には、臓器移植が可能であればオーケーなので、可能になってから結構な年数が経っており、すでに相当の数の売買が行われていると見てよいと思います。政府でも医療機関でもブレーキがかけられないとすれば、やはり教育が重要なのではないでしょうか。ただし、こういうことがあるよという情報だけでも流してしまうと、後々自分の子どもが臓器提供を必要とするようになったときに、逆に選択肢を与えてしまうことにもなりかねないので苦しいです。カトリック的な命の教育には反発もあるのでしょうが、受精卵の時点で生命として扱うべきという、ある意味もっともクリアな生命の定義をきちんと打ち出すことには意味があると思います。
「クローン」や「遺伝子組み替え」と、聞いただけで拒否反応を示してしまう。やはり、生命倫理に則った科学技術の進展が人間の使命。研究者らの暴走を止められるのは、やはり社会全般の良心に支えられた「世論」である。
→その頼りになるはずの「世論」が今一つ見えてこない、というのが私の印象です。政治、経済、教育など、直接的に生活に影響するような事柄でないとなかなか「世論」が敏感に動いてくれないということなのかもしれません。
技術の進歩により、昔はSFの中での話だったクローン人間が作れるようになったり、出生前診断により生まれる前に赤ちゃんの運命を変えることができてしまうことは、とても恐ろしいことだと思います。生命を人間の手によって操ることによって、人間にとってプラスになることもあるけれど、それに伴う危険や倫理的な問題はさらに大きいと思います。これからさらに技術が進んで、人間の手によって様々なことができるようになると思いますが、果たしてできるからといってそれをしてしまって良いのか、予測できない問題も起こりうるので、よく考えるべきだと思います。
→クローンで分かった教訓は、SFに描かれることはすべて実現する可能性があると思って、重大な問題には前もって対策を考えるべきだということになるでしょうか。できるようになってからでは遅いので。不老不死の問題、それから薬で犯罪者・逸脱者をゼロに抑えられる社会(これはアメリカの刑務所ではかなり現実的ですが)などが候補になるでしょうか。
人工妊娠中絶について容認派、反対派それぞれの立場に立ってのディスカッションを経験し、今回の授業でまとめを行いましたが、授業で触れた、「好んで中絶する人なんていない」ということに深く共感しました。妊娠は好ましくないことと認識しながら、中絶しなくてはならない現実もあるのですね。高齢の女性の人工妊娠中絶からそれを多くの女性が経験していることを知りました。中絶する女性自身のみならず周囲にしてもつらいことだと思うし、人によっては一生罪の意識を抱えて生きていくこともあると思います。私は今まで中絶について反対していました。それは命を殺すことに他ならない、殺人に等しいというような強い立場からの反対でした。でも、中絶したくないのにしなければならない人のことを考えるとこの問題の一面しか見ていなかったなと思います。あるいは自分のエゴだったのかもしれません。今も反対の立場に変わりありませんが、生まれてくる命と、それを迎える人の双方が幸せであることを願う想いでいっぱいです。私たちはとても豊かな社会に生きています。だからよりいっそう一人一人が命の尊さに気づくことができる教育を整えることが必要だと思いました。
→講義を真剣に聞いてくださっているようでうれしく思います。好んで中絶する人なんていないということが、中絶経験者への思いやりのまなざしにもつながるというのは、考えていなかったことなので興味深く思いました。「私たち容認派なんですけど」といっていたグループの人たちは、逆にこの言葉をどう受け止めたのかも気になります。
20021107
プリントの説明の続き
・再生医療への応用
臓器移植に取って代わる可能性
・クローン人間:具体化の動きと規制の動き
ラエリアン(宗教団体)、クローン人間計画
(プリント:http://www.mainichi.co.jp/eye/feature/details/science/kami/200101/03-1.html)
イタリアの医師、アラブの富豪のクローン人間の妊娠に成功したと発表。
クローン人間の問題点
技術的問題:クローン牛の場合、出産成功確率は2〜3%。
流産・人工中絶の可能性高い。9割が原因不明の出産直後の死。
成長後も遺伝子変異の可能性
=代理母・胎児・新生児を使った人体実験
コメント
ほとんどクローン人間反対
日本においてこれらに対する意識の低さにも驚いた。クローン牛、狂牛病も欧米で現に起こっていたにも関わらず、それらに対する対応をしっかり取らず、日本にもこれらの問題が舞い降りた。日本は人間の命ということに対する意識が低いのではないかと思った。
→クローン「人間」については反対する科学者医学者が多いと思うのですが、再生医療に関係するクローン「技術」については推進すべきだという考えが、英米と日本には多く、ヨーロッパではキリスト教的観点から躊躇するというのが現状であることをまず確認します。その上で、日本人は人間の命に対する認識が低いのではないかという指摘はなるほどと思いました。ところで、それはどうしてなんでしょうかね。もし考えがあったら教えてください。
気が付けば、クローン人間の隣人が当たり前に存在し、他と変わりない容姿で社会に溶け込んでいれば何も問題がないのであろうか?ドリーにいくつかの障害があるように、多くのクローン人間を生み出した後に、問題解決や技術改良を行うことは、あまりにリスクが高く、クローンとして生まれてきた人々の人権を奪うことにもつながることを熟慮してほしいと強く思った。
→現実にクローン人間ができた場合をいろいろ想像するとさらに厄介な問題が出てきそうです。現在のところ、禁止はしていますが、罰則のようなものが明確ではなく、また国際的なものではないので、規制されていないところにゆくという抜け道があります。また、クローン人間ができた場合、やはり少しでも長く生かすために我々は努力せざるを得ないでしょう。戸籍の問題、親子関係の問題など。もし戸籍の与えられない人間ができてしまったら、それこそ臓器移植用の部品のように扱われる可能性もあります。
ラエリアンという宗教団体は、この子どもを失った悲しみにくれる人を救う事がクローン誕生にしか出来ないと考えているならば、宗教団体として活動する意義はないと思う。彼らが子どもを失った喪失感から脱却する方法は同じ子どもを手に入れることでは満たされないであろう。心の寂しさをもの(この場合は人間)で埋めることは私は出来ないと考えるからである。
→ラエリアンは子どもを喪失した悲しみをもので埋めようとしているので、宗教とは言えないという指摘は、ラエリアンについての知識がそれほどない状態での判断としてはなかなか鋭いと思いました。この団体は宗教というより、宇宙人を崇拝する疑似科学主義の団体という感じだと思います。
<ES細胞>
問題は材料として受精卵が使われることであるのだが、倫理的な視点を除けば移植医療や医薬品開発などに大いに役立つものであり、この恩恵にあやかる日がもし来るとするならば、私はそれもまた良いかもしれないと思った。
とは言ったものの、倫理学的視点から見てみれば、生命がやどった受精卵を被験の対象にするなどもってのほか、人にあらざる行為だとなるわけで、「あなたの命はもう一つの命を犠牲にすることで救われました」などと言われた日には、かなり寝覚めが悪い。考えを飛躍させれば、臓器移植用のためだけに生きている人間から臓器を切り売りしたものを手術で使い、それにより一命をとりとめたときと同じような気分だろうか・・・。考えが飛躍しすぎているが、受精卵が成長すれば人間になるわけであり、そう考えると悪い気がしてくる。
<クローン人間>
『クローンなんてモンスターだと言っている人だって、みんなクローンをほしいと言うに違いないからね』と、教団「ラエリアン・ムーブメント」を創始したラエル氏は言っているが、そういう問題ではない。むしろクローンがモンスターでないことが問題であり、クローンが人間であることが問題なのだ。
と、ここまで話してきたが、ES細胞に比べ、クローン実験の必要性が私にはいまいちわからない。ただたんに現実にはありえないとされてきたクローン人間を作ることに挑戦してみたいだけなのだろうか。もし役にたつとすれば、資料に書かれていたように、死んでしまった人間を新たにクローンとして蘇らせることであったり、はたまた臓器不足に悩む移植医療の供給源として、臓器提供専用クローンを作成することであったりするのか。移植面からすれば、自分のクローンほど身体にフィットする臓器はないだろうが、倫理学に激しく背いた考えであると思われる。
→表現力豊かなコメント、興味深く読みました。こういう問題は、理屈で考えるのではなく、いろいろなケースを想像しながら生活感覚によって直感することも大事だと思いました。自分のクローンは自分と全く同じものなので、移植用に使ってもいいという発想は、実際、遺伝子の情報が全く同じ一卵性双生児を、我々は異なる人格として扱っているということを見逃しているわけです。クローンはできてしまえば、一個の独立した人格を持った人間として扱うべきなのに、まるで自分たちでつくったのだからものと同じように扱ってもいいと考えるのは不思議なことです。
配付プリント
クローン技術
体外受精でできた初期胚の胚移植のかわりに、八細胞期までの割球には、正常個体発生の全能力(totipo tenciality)があるので、個個の割球を胚移植しても、正常な個体が出生することが動物ならびに人間で証明されている。四個の割球に卵割した時点で一個の割球について遺伝子診断をした後で、残りの割球を胚移植して妊娠させ、正常女児がイギリスで産まれている。一個の受精卵から多数の割球を増やすクローニングをして多くの代理母に胚移植すれば、同一遺伝形質をもった多数の新生児が産まれるはずで、これを生殖細胞からのクローニングという。
体細胞は分化した細胞であるので、体細胞をクローニングしても、同一の遺伝形質をもつ多数のクローン動物をつくることは不可能と考えるのが常識であった。ところが、イギリスのロスリン研究所のウイルムット博士(Ian
Wilmut)らが、授乳中の羊の乳腺細胞から一匹の羊を誕生させて、一九九七年二月二七日の『ネイチャー』という国際誌に発表して、従来の学説を根底から覆した。この技術をヒトに応用すれば、成人男性の体細胞を初期化した後で代理母に胚移植すれば、その男性と同一の遺伝形質をもつ子どもすら多数産まれる理論的可能性があるので世論を震撼させた。ヒトでの応用は禁じられている。
二〇〇〇年三月にイギリスで成体細胞を用いたクローン豚五頭が誕生したのに続き、日本でも同年七月に農水省畜産試験場で体細胞クローン豚が一頭誕生した。クローン技術の確立により優良種豚を体細胞保存することが可能となり、品種改良に大きく貢献することが見込まれる。同時に、豚の臓器が人の臓器と大きさ・機能で類似しているため、遺伝子組み換え技術の適用によって、人への臓器移植用豚の大量増殖の可能性が開かれたとして注目を集めている。
ドリーのその後
5歳半になった世界初のクローン羊「ドリー」は、若い羊にはまれな後ろ脚の関節炎を患った。老化につれて短くなるとされる染色体の「テロメア」が、ドリーは生まれた時から短かく、老化現象が早く起きたのではないかと推測されている。クローンでは、たまたまテロメアがもとの長さに戻る「初期化」がうまくいったものだけが生き残って誕生している可能性があり、「初期化」のプロセスは、まだ完全にはコントロールできていない。
そのため、クローン動物は生存や生殖はできても、遺伝子などに何らかの異常があり、完全には正常とはいえないかもしれない(なお、一九九九年四月、畜産試験場などの研究施設で試験的に生産された受精卵クローン牛一四四頭の肉が出荷についての情報提供も表示もなく九三年から市場に流通していたことが判明、消費者の反発をまねいた)。クローン動物は90%以上が死ぬ。しかし、クローン動物の精子を使い、人工授精で有性生殖に戻すと大半が正常に生まれる。これは刷り込み、すなわち精子と卵子に由来するそれぞれの遺伝子が役割分担しながら働いて胚の発生をすすめることがうまくゆき、正常な初期化がなされたからだと考えられる。「初期化」の仕組みや異常の原因が解明されれば、クローンの効率も飛躍的に高まると言われる。
ちなみに、テキサス大のグループは、テロメラーゼの遺伝子をヒト体細胞に挿入し、培養を続けた。その結果、ふつうの細胞は約七〇回分裂した後死ぬが、テロメラーゼが入った細胞は九〇回以上分裂しても老化せず若い状態が保たれた。クローン技術への応用も考えられるし、またヒトの細胞を若返らせて体内に戻すことができる可能性もある。
再生医療への応用
ES細胞(embryonic stem cell、胚幹細胞または胚性幹細胞という)はあらゆる細胞や個体にまで分化しうる、いわゆる全能性をもつ万能細胞である。マウスでは一九八一年にES細胞株が樹立され、またラットでも九〇年代に入ってES細胞が樹立された。九八年一一月、アメリカ・バイオベンチャー企業のアドバンスド・セル・テクノロジー社とマサチューセッツ工科大学が共同でヒトの皮膚由来の細胞核を用いて、ヒトES細胞を開発することに成功した。ほぼ同じ時期にアメリカのウィスコンシン大学とジョン・ホプキンス大学もそれぞれ別の方法でヒトES細胞を樹立した。これによってヒトES細胞から神経、心筋、皮膚、血液などさまざまなヒト細胞をつくっていろいろな病気の治療に利用する道が開けた。
アメリカとイギリスの政府は個体にまで発育させないことを条件にヒトES細胞の研究を認めている。わが国でも科学技術会議(首相の諮問機関)がヒト胚研究小委員会を設け、検討を行ってきたが、国に審査機関を置いて個個の研究計画が妥当かどうか判断する仕組みをつくることになった。
現在、再生医療技術は、複雑な機能を持つ臓器を構成する細胞の培養に成功するに至っており、さらにその大量培養技術も発表されつつある。しかし、機能が十分に確認されていない段階で、人間に移植する臨床研究を急ぐべきではないという意見もある。移植した細胞が、がん細胞のように増え続けたり、予想外の場所に再生組織ができることも心配されている。
クローン人間の具体化計画
2000年8月 スイスに本拠を置く新興宗教団体「ラエリアン」が米国で進めているクローン人間計画。
ラエリアンは最初のクローン人間として、医療過誤により生後十カ月で死亡した米国人男児を対象にしており、保存されている細胞を使って男児を「再び親の手に戻す」ことを目指すとしている。既に信者五十人がボランティアとして代理母になることを志願、米国の資産家が計画への資金提供を申し出ている。ラエリアンの科学部門責任者は「十月中に始めることができると思う」と述べたという。クローン人間は技術的には既に可能で、問題は代理母の確保だった。ラエリアンがクローン技術の専門家を雇えば、誕生は十分ありうる。
「朝日新聞」2001年6月30日 :「年内にクローン人間を誕生させる」と広言していた新興教団の米国の研究所が「米議会で合法的との結論が出るまで、実施を見送る」と米政府側に伝えていたことが分かった。米食品医薬品局(FDA)が29日、明らかにした。
教団は、カナダに本拠を置く「ラエリアン」。米国の研究所が3月の米下院公聴会で「基礎研究に着手した」と証言していた。FDAは「新しい医療技術として現行法でも規制できる。安全性に疑問がある現段階では実施は認めない」と、調査をしていた。
2002.4.7読売朝刊から「クローン人間計画の推進者であるイタリアのセベリノ・アンティノーリ医師はこのほど、アブダビで開かれたセミナーで、クローン技術で女性が妊娠に成功し、現在妊娠8週間目に入っていると発表した」
20021114
(クローン人間の問題点の続き)
道義的問題:人間が人間を作ること。しかも、同一の遺伝子を持った人間をつくることは許されるか。
反論〜人工授精による妊娠・出産が現実におこなわれている。扱いは、一卵性双生児と同じ。
再反論〜道徳・倫理・法律が前提としている人間の生命に関する諸条件を人間が操作することはできない。もし、そうすれば今までの道徳・倫理・法律が無効になる可能性がある。
今後の予定
・「脳死体」からの臓器摘出の是非――脳死は死か?小GD
・安楽死の是非〜小GD
・ターミナルケア
・死の受容の心理
・葬送の自由
・親しいものの死――悲哀・悲嘆をめぐる心理学
・殺人禁止の根拠――なぜ人を殺してはいけないのか?〜GD
・自殺の是非――許されるか否か?〜GD
・「脳死体」からの臓器摘出の是非
事前にアンケートをとる
従来の死の判定
心拍停止、呼吸停止、瞳孔の散大
心臓死→体の他の器官が動かなくなる=誰もが死んだと認めやすい
1950年代〜人工呼吸器の登場
呼吸停止、しかし心臓は動いている
人工呼吸器がなければ死んでいる状態の発生
1967南アで世界初の心臓移植手術
1968札幌で日本初の心臓移植(和田移植)
事故死した青年の心臓を移植、本当に死んでいたか疑問が残ったが証拠不十分で不起訴
以後、日本では心臓移植手術は行われなくなる
1980年代から「脳死」議論
「脳死」=脳幹を含めた全脳機能が非可逆的に失われた状態。呼吸を含むすべての神経反応性が無くなっている状態。これを人の死と認めれば、生きた心臓の移植が可能に。
「心臓死=死」→生きた心臓移植は殺人行為
「脳死=死」→生きた心臓移植は医療行為
1997「臓器の移植に関する法律」(10月施行)
脳死は死んでいないが死につつある状態。一般の死は三大兆候で判定=心臓死。
患者の臓器提供意志がある場合に限り脳死判定2回
=瞳孔の反応などを調べる、6時間後2回目(2回目は無呼吸テストも可)
家族が脳死判定を拒否しなければ、脳死をもって死とする。
コメント
「 先日11月13日付の新聞の社会面に小さく23例目の脳死判定、移植へという記事をたまたま目にした。私はそのときえっと思った。なぜなら5件目ぐらいまでは知っているもののそれ以後あまり聞く機会がなかったので行なわれていないものかと思っていたからである。脳死に対する知識もあいまいのままドナーカードというものが配布されたり、死というものの教育が充分でないものたちにその記入を薦めていったり、脳死そのものじたいまだまだ良く話し合われなければいけない問題であるのにそれも充分にされないままでいる。」
→マスコミでの報道が静かなのは、患者と家族のプライバシーの尊重ということで、情報開示がなされていないからです(事後報告のみ)。当初は、情報開示が義務となっていたはずです。マスコミが取り上げると世論が反対の方向に傾くということを恐れて、なるべく隠しているのではないか、と私(多くの人)は勘ぐっています。
「 家族が脳死と判断されたとしても臓器移植は承諾したいとは思わない。それがもし他人の命を救うこととなっても、死に行く家族を少しでも長い間見ていたいと思うのが多くの人の思いだと思う。今目の前にいる人を殺してまで、(脳死=人の死でない場合、現在の多くの一般人の感じ方)病気の人を救うことがどれだけ重要なのか私には理解できない。人の臓器で自分が生き長らえたいと思うならば、また、他人の臓器で患者を治そうとするならば、臓器提供者の思い、そしてその家族の思いももっと尊重されてもいいのではないかと思う。臓器提供者に対するケアが十分に出来る社会でないと、脳死、そして脳死による臓器提供はなかなか認められないと感じた。
→今回のアンケートで、脳死ドナーからの臓器移植に反対の人が多くて、内心ほっとしています。ただ、本人が生前に臓器提供の意思を表明している場合は、というと難しいようです。でも、家族が拒否すれば移植はできないとするのが現行の臓器移植法なので、「いまのところ」(改革案が通らなければ)死にゆく家族を少しでも長く見ていたいという家族の気持ちは尊重されているということになります。
私自身は、自分の体の一部を提供することに消極的でない。むしろ生きる意志を失った自分が、これから生きる意思がある人に少しでも役に立てるのであれば、制度を通じて提供したいと
も考える。にもかかわらず私が未だにドナー登録を躊躇する理由は、自分自身の脳死に対する抵抗というより、むしろ家族の抵抗が予想される上、臓器提供に伴う様々な手続き、特に本人の意思と共に家族の承認という二重意思がなければ、脳死判定が出来ない規定があると知ったからだ。
→アンケートの結果は、自分は提供するのはいやだが、家族が提供したいというなら仕方ない、というものでした(挙手の時点で。その後、集計結果は半々になった)。林さんの場合はその正反対なので、なかなか興味深いと思いました。多くの人は、自己決定権を尊重するという考えをストレートに表現したのだと思いますが、いざ自分がそうなったらというところまではよく考えていないかもしれません。でも、そこまで考えはじめるとなかなか難しいですよね。ちなみに、個人的なことを申し上げると私なら、自分も提供しないし、家族に関しても拒否すると思います。理由は、授業を聞いていればそのうち分かるでしょう。それはじつに簡単で、「脳死」状態にあるといわれている人が本当に意識がないのかは、最終的に分からない(本人以外には)、それどころか意識があるのではないかと思われる証拠のほうが、いろいろと出てきていると思われるからです。
“脳死”の問題には以前から興味があり、何冊か文献を読んでいました。私は、以前まで本人の意思があれば脳死を死と認め、その人の臓器提供を提供しても良いと考えていました。しかし、今年の夏、友人の薦めで、『私は臓器を提供しない』という本を読み、考えが変わってきたのです。この本には臓器移植
をした方の苦労や、臓器提供にばかりに関心がむき、本人(脳死した方やその家族,臓器移植をする方)の気持ちが無視されている現状のことが書かれていました。これらすべては、私にとって衝撃的でした。それまで、ドナーカードも持っていましたが、この本を読んでから持たなくなりました。
“脳死”と“臓器移植”は関係があると思います。しかし今、私達は臓器移植について“救い”“希望”といったようなプラス面しかしりません。臓器移植の陰に潜むマイナスの部分もしっかりと見ていくことが必要だと思います。そうすれば、脳死についてもまた違った見方で見れるのではないでしょうか。
→この問題に関して、長く自分なりに考えてきたということがよく分かりました。臓器移植のあとの問題というのはケースバイケースですが、大掛かりなものであればそれなりのリスクがあるということについて、それこそ「生前の」ドナーに対するインフォームド・コンセントがないという点について示唆を受けました。
脳死について つまり死後の生き方についてですが高校時代に少し勉強した事があります。それをきっかけにそれ以来は臓器提供の意思表示カードを常に携帯しています。やはり臓器提供は本人の意志が最重要だと思います。20歳を過ぎたら全員カード所持を義務にしたらいいと思ったりもしたのですがまたそうするとプライバシーの問題などが浮上して議論するはめになってしまいそうですね。私は本人の意志がある場合に限り臓器提供をする事に対しては賛成です。クローン技術にせよ脳死にせよ、私はいつか目の移植をしてほしいです…。脳死になった人の目は移植しても視力を保てるのでしょうか…そこのところは微妙ですね。
→ドナーにもなる意思があるし、移植もしたいというのは、初めてのパターンでした。僕はよくわかりませんが、目全部の移植ってできるのでしょうか。視力回復だけなら移植は必要ないと思いますが…。移植にせよ視力回復手術にせよ、後遺症が心配です。他にコメントをくれた人が指摘していましたが、提供された人のその後はあまりハッピーではないようです。そもそも移植というもの自体が人体にとっては抵抗のあるものですからね。
脳死が死と公に認められなければ脳死者から臓器を摘出する行為は殺人であり、逆に死と認められればそれは公に許された行為に変わる。おかしい。実におかしい。便宜的な問題でこのよう
な言語操作をしてもよいのであろうか。「死」は誰もが体験するものではあるが、体験したことを述べ
ることは不可能であるため、今日でも大変論議される事柄であり、それを定義することは極めて難しい。それゆえ見た目のみで定義してしまおうというのは、社会を形成する人間の苦肉の策であるようには思われる。しかし近年おこった脳死を死として認めるか否かということは、これとは全く意を異にする事柄であり、問題視されることも仕方がないように思う。死の定義が同時に二つも存在することは(しかも一つは選択制)、ようやく保たれていた死における安定を壊す以外の何ものでもないのではないだろうか。
→おかしい。じつにおかしい。は、その通り、じつにおかしい。と返しておきましょう。改革案はもっとおかしいです。さらにその創案者である上智の町野教授の議論はすごいです。人間の生命は連帯のもとに成り立っているのだから、本能的に臓器を提供するよう自己決定しているので、臓器提供の意思表明をしていない人は、拒否していない以上、臓器提供の意思があると見なす、などと言っております。
20021121
1999年2月、国内初の脳死ドナーからの臓器移植
(以後、2002年11月段階で国内では22例)
2000年8月、改正案
脳死を一律人の死とする。拒否できない
本人がドナーカードを持っていない場合、「臓器移植に自己決定した」と見なす
親権者の承諾があれば、意思表示のない十五歳未満の脳死の子どもからも移植できる
「脳死」賛成派
いずれ死ぬ、他の人命を救助できる、死を無駄にせずにすむ、生きた証が残る、愛の善行
反対派
国民の理解不十分、血の通った温かい体を死体と見ることはできない、
梅原猛『「脳死」と臓器移植』(朝日文庫)
欧米の心身二元論とプラグマティズム、人体を部品視。脳機能=存在の資格。アニミズム的生命観を持つ日本人には受け入れがたい。
森岡正博『生命学に何ができるか』(勁草書房)
改正案には反対。
脳死後、心臓が止まらず14年以上生存している例
「ラザロ徴候」=脳死後、自分の力で両腕を動かして祈るような動作(新約のラザロの復活から)
アメリカでも見直し。
ミンデル『昏睡状態の人と対話する』(NHKブックス)
昏睡状態、植物状態、脳死状態の人とのコミュニケーション
ボディタッチとペーシング、かすかな動きを増幅するように、動きを加えたり、抵抗を加える。
ブランクアクセス「そう、その通り」「それを見て/聞いて」「私にも見え/聞こえますよ」「何かを感じることは大切です」
最低20分以上続ける。やがて何らかの反応
ボディサインを確立脳死と臓器移植に関するアンケート
「脳死」という言葉を知っていますか。
はい いいえ
「脳死」とは何かを説明できますか。
はい 何となく いいえ
以上二つとも「いいえ」と答えた方は以下の質問に答えないでください(「何となく」はオーケー)。
「脳死」を人の死と認めることについて賛成ですか。
はい いいえ
あなたは自分の家族が「脳死」状態になったときに臓器を提供することに同意しますか。
本人が生前に同意を表明していた場合
はい いいえ
本人が生前に同意を表明していなかった場合
はい いいえ
あなたは自分自身が「脳死」状態になったときに臓器を提供することに同意しますか。
はい いいえ
その理由を簡単に述べてください。
本人の生前の意思表明がない場合、家族が同意すれば「脳死」状態になったときに臓器を摘出することができる、という考えに賛成しますか。
はい いいえ
脳死と臓器移植に関するアンケート(結果)〜脳死議論の紹介の前に実施
回答数53
「脳死」という言葉を知っていますか。
はい100% いいえ0%
「脳死」とは何かを説明できますか。
はい32% 何となく66% いいえ2
以上二つとも「いいえ」と答えた方は以下の質問に答えないでください(「何となく」はオーケー)。
「脳死」を人の死と認めることについて賛成ですか。
はい34% いいえ62% 無回答4%
あなたは自分の家族が「脳死」状態になったときに臓器を提供することに同意しますか。
本人が生前に同意を表明していた場合
はい75% いいえ25%
本人が生前に同意を表明していなかった場合
はい11% いいえ89%
あなたは自分自身が「脳死」状態になったときに臓器を提供することに同意しますか。
はい49% いいえ49% 分からない2%
その理由を簡単に述べてください。
はいの理由:回復の見込みがないから。どうせ焼くなら。他の人の役に立ちたい。他の人の生命を救いたい。自分の体を部分的にでも生かしておきたい。脳死者を看護するのは家族にとっても大変だから。
いいえの理由:心臓が動いているのに死んでいるとは思えないから。回復例があるから。よく分からないことなので同意できない。家族の気持ちを考えると提供できない。
自分の体をそのままにしておきたい。自分の臓器を渡したくない。跡形もなく消えてしまいたい。自分の死が他者の生より軽く見られたような気がするから。
臓器移植そのものに反対。そこまでしなければ死ぬというのは運命で、仮に移植しても長く生きられない。移植の成功率は完全ではなく、拒絶反応で苦しませるし、また生存率も高くないから。
本人の生前の意思表明がない場合、家族が同意すれば「脳死」状態になったときに臓器を摘出することができる、という考えに賛成しますか。
はい30% いいえ70%
コメント
前回、私は脳死後の臓器移植に肯定的立場であったが、そもそも脳死の判定の定義を医学的、法律的に制定しても、人の死は、その人自身が定めることであるから、安易に実行される問題ではないことが予想された。今回の講義後は特に、脳死の判定があくまで臓器移植のために行われるという前提になされることは、人間の尊厳を無視する行為であるとの認識を強めた。しかし依然として、医療技術が移植を可能にするのであれば、臓器移植を待つ人々がいることを忘れてはならないと思う。これは死の尊厳と共に生きる権利も確立されなければならない難しい問題であるが、生死の定義が個人に委ねられているがゆえに、日本の社会に適応した法の下に、臓器提供・移植側の相互理解がすすむことを望む。そして私はどのような選択をすべきかますます悩んでしまう。
→コメントありがとうございます。リーガルマインドも思わず悩んでしまうといったところでしょうか。生命の始まりや終わりの法的定義は、全国民が一致できる/しているような誕生ないし死の時点の、成文化による追認にとどまるべきだというのが私の考えです。心臓死に至った人を死んだと見なすのに反対の人は(一部のミイラ作りに励む人を除けば)まずいないでしょう。でも、脳死の段階で死と見なす人は各種調査によれば過半数に満たないのです。成功率が依然として低い心臓などの臓器移植のニーズのために、十分なコンセンサスのとれない死の定義が、法制化されるのはどう考えてもおかしいです。
脳死をめぐる諸問題を考えさせられた。
脳死そのものに対する疑問とともに、脳死に関する取り扱い方への疑問をもった。
そして人の生死にかかわる大切な事柄がしっかりと議論されぬまま、
考える機会を与えられることなく
一部の人々の中だけで話が進められること。
そして、多くの人々の脳裏から離れ、
まるべ自分とは違う世界で起こっていることかのように
なっていってしまっている事への怖さを感じた。
前回のコメントの補足にもなりますが、脳死と判定された人が復活する例もある以上、脳死を人の死と断定してはならないと思います。また、延命ならまだしも、可能性のある生を人間の判断によって死とみなしてはいけないと思います。延命行為、医療行為、殺人行為…この線分は非常にあいまいで一概にこうだと言えないものだと思います。しかし、自分が脳死になった場合は潔く死と認めて、臓器を移植したりして少しでも可能性の高い人に生きてほしいので、本人が認めた場合のみ脳死と判定するというのがよいのではないかと思います。
→なかなか潔いですね。安楽死の論点にもかかわってきそうです。私自身は、臓器摘出時にまるで暴れるかのような死後硬直が見られるので麻酔をかけられるという話を聞いた時点で、臓器提供への恐怖が高まってしまいます。もちろん、それは個人的拒否の理由でしかありません。法制化すべきでないというのは、一人でも拒絶する人がいるなら脳死を一律に死の定義とすることはできないという理由からです。かといって、本人が生前に同意している場合は脳死判定のテストをおこない、家族が拒否しなければ「脳死」というのは、我々の社会における死の定義そのものに影響を及ぼすので、当事者だけの問題ではないと思います。
脳死は、本当に難しい問題だと思いました。授業で、何人かの論拠が伺えてよかったです。今まで公な論拠(?)という物に実際触れてみる事がなかったので・・・。特に、ミンデルの昏睡状態の人とのコミュニケーションというものには驚きました。やはり、その人を思う気持ちは伝わる、ということなのでしょうか。人間とは計り知れないものだと感じました。
脳死による臓器移植は、「臓器移植により少しでも長く生きたい!助かりたい!」という人にとっては、とてもすばらしい事で、それに反対する人の気持ちが分からないと思います。一方、脳死と判断された人を家族に持つ人にとっては、まだ生きている身内を臓器移植のために殺す(語弊があるかもしれませんが・・・)のは、反対で、それにより助かる人の気持ちを考える事は難しいのだと思います。どちらも一生懸命自分を思い、身内を思っての事なので、どちらかを切り捨て、一方のみを尊重して結論を出すという事は不可能です。だからこそ、相反する気持ちをもった人同士がきちんと話し合っていくべきなのではないでしょうか。これは、これは公な場で行わればいいということで、病院などを通して実際に臓器移植をする人たち同士でやればいいというものではありません。もっと賛成,反対の意見をもつもの同士が、いろいろな角度からこの問題を見つめる事が大切なのだと思います。
→公的討論が必要だというのはその通りで、問題はどうやってそれを実現するかです。治療したいという医者や、助かりたい助けてあげたいという患者およびその家族にとっては、切実な問題なのに、それ以外の一般の人にとっては「なってみないとよく分からない」問題であるので、そもそも対等な立場での議論が難しい事柄なのかもしれません。そうなると、もっと冷静な立場の知識人や言論人が、ホットな当事者達に問題点を投げ掛けてゆくしかないということになると思います。
今回の授業では、臓器移植改正案についての様々な立場からの見解がとても印象的でした。改正に反対の立場の意見、賛成の立場の意見それぞれに説得力がありました。私は、15歳以下の小児の臓器移植については、改正を考えるべきだと思いました。
私の住んでいる市に心臓の病気を持っていた子供さんがいたのです。その子は移植をしないと生きられない体だったのですが、日本での移植が認められていなかった為アメリカで移植手術を受けなければなりませんでした。当然個人では支払いきれないような費用と、かなりの時間がかかりました。家族の人は移植の日取りが決まるまで大変な不安の中、日々を送っていたのではないかと思います。
私の市では、募金を行い多くの人が手術の手助けをしました。でも「法律で決まっていないことだから協力できない」という意見の人もかなりいたようです。さらに「日本の法律では認められていないのだからあきらめるべきだ」といった意見をいう人もいました。こういった状況を目の当たりにして、この当時、もし法律で小児の臓器移植が規定されていたら助かる可能性のある命をあきらめろなんていえないと思います。多くの人は誰かを助けたいという気持ちを持っていると思います。でも臓器移植については、抵抗を示す人もいる。だから法律による後押しは重要だと思いました。
→15歳未満の子どもの臓器移植を認めるべきだとの考えですが、すでに授業で示されている反論にどう反論するのかがよく分かりませんでした。ドナーとなる子どもの側に立ってみるということ、とくに十分な意思決定が可能になっていない年齢であること(周りから説得されれば押されてしまう)を考えると、どうなるでしょうか。児童の権利を認める国際的な条約(「児童の権利に関する条約」http://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/jido/zenbun.html)に違反する恐れがあります。胎児組織移植と地続きの問題で、どっちの命が重いかという話になってしまいます。私は、このような選択自体が許されるべきではないと思います。こういう話は患者とその家族と医者の主張ばかりが強調されますが、見えないところで何が起こっているか考えないと、自己決定能力のない脳死ドナーからの臓器移植を推進することは合法的殺人を推進することと同じになってしまいます。
20011128
安楽死と尊厳死
安楽死とは
末期患者の苦痛を緩和して安らかな死を迎えさせること
積極的安楽死=致死量の薬剤などで意図的に生命を絶つ
消極的安楽死=延命措置をせずに「自然の死」にまかせる
間接的安楽死=苦痛緩和剤の大量投与により死期を早める
尊厳死とは
苦痛を長引かせるような過剰な延命医療を中止すること
消極的安楽死に近い
DNR = do not resuscitate 蘇生させないでください
持続的植物状態の問題(苦痛の有無、実質的に餓死させること、「安楽」死ですらない)
緩和医療への注目→麻薬使用量の増加→副作用で死に至る場合(間接的安楽死)
歴史的経過
第二次世界大戦中ナチス、精神疾患患者、先天異常者、ユダヤ人などを安楽死の名目で大量に殺害
(現在でも、ドイツでは安楽死はタブー視、弱者切り捨てに当たる)
1961名古屋:脳溢血で倒れた父の「殺してくれ」、息子が牛乳に殺虫剤を入れて殺す→有罪
名古屋高裁の安楽死が罪に問われない6要件
不治の病で末期/甚だしい苦痛/苦痛緩和が目的/患者の意思/医師の手が原則/方法が倫理的
1975アメリカ:カレン裁判=植物人間になった女性の父親が自然死を求めて訴える。最高裁で認められ、装置を外すが、その後10年間は生きていた。
1975「日本安楽死協会」結成→改称「日本尊厳死協会」
リビング・ウィル(生前発効遺言書)を広める
無意味な延命措置の拒否/最大限の緩和医療/植物状態になったら生命維持措置を取りやめる
1981世界医師会「患者の権利に関する宣言」尊厳死の権利を認める
1987世界医師会「安楽死に関する宣言」安楽死は非倫理的。ただし患者の希望で自然死させることは構わない
1989アメリカ:ナンシー事件
植物状態、両親が延命治療に異議。患者の自己決定権法へ。代理人が患者本人の意思を推認することも可能に
1991東海大学病院:内科助手が家族の懇願によって末期癌患者にカリウム投与して死亡させる→有罪
横浜地裁、医師に積極的安楽死が許される4要件
耐えがたい肉体的苦痛/死期の不可避の逼迫/苦痛除去の代替手段がない/患者本人の明確な意思
1992世界医師会「医師による自殺幇助に関する声明」末期疾患にともなう鬱病から自殺念慮。自殺幇助は安楽死と同様に非倫理的。ただし患者には治療を辞退する権利はある。
コメント
今まで安楽死というのは、薬剤の注射によって瞬間的に患者の命を絶つことだと思っていて、延命措置をとらないことも安楽死だということを初めて知りました。私は、本人の意志が確実ならば安楽死・尊厳死は賛成です。このままでいるよりも、死んで楽になった方がよいと思うほどの苦痛状態を継続させるのは酷な事だと思います。
しかし、必ずしも病院でこのような状態が起こるわけではないので、名古屋の事件の様に家族が本人の意思を尊重して命を絶たなければならない場合もあると思います。これが有罪になるということは私も納得できますが、病院に行き医師の手によって命を絶たれるまでの時間苦しませるのも、患者にとって辛いことだと思うので、一概に禁止をするのも疑問が残ります。仮に罪にならないとしたら、本人の意思の確固たる証拠と、適切な方法が原則となると思います。しかし、安楽死を装った殺人事件なども増えそうだし、適切な方法が何なのか、定義が難しいと思います。
→狭い意味での安楽死は、薬剤などを投与することによるもので、消極的安楽死あるいは尊厳死は過剰な延命措置をやめることによる自然死を意味します。ですから今までの理解も間違いではありません。しかし、両者の違いはもっと意識しておいて欲しいと思います。世界医師会が尊厳死は認めるが安楽死は認めないのはどういうことなのか考えてください。「病院に行き医師の手によって命を絶たれるまでの時間苦しませるのも」という表現が気になりました。尊厳死の場合、「医者の手によって命を絶たれる」ということにはならないと思います。私は世界医師会の判断は正しく、尊厳死は認められても安楽死は認められないと思います。家族が本人の意思を尊重して命を絶つということも法的には認めがたいでしょう。
先生のコメント、今日の授業を受けてなんだかとてもショックでした。私の意見がまさかそんなに残酷な事を指していたなんて思わなかったです。私は、何度かの入院経験があり、今まで多くの、重い病気に直面した子供とその家族を見てきた為かもしれないのですが、苦しんでいる子供が一人でも多く元気になればいいなと思ってしまいました。今の状態に反論しようなんて夢にも思わなかったです。見えていないことがたくさんあって本当にいたらないなと感じ、自分がなさけないです。
原点に戻って考えてみると、臓器移植には本人の意思が最も大切だと思うし、一人一人の命が尊いです。法律で移植を認めれば、今の個人の自己決定を重んじた状態を維持しつつ、助かる人が増えるかなと思ったのですがそれはなかなか難しいようです。この問題はこれでみんな納得できるということがないように思います。本当の命の尊さとは何なのでしょうか・・・考えてみると、自分のかけがえのない命を慈しみ、人と関わり思いやりながらその中で精一杯生きることかもしれないと思います。この授業で人の生、死について様々な話題から学んできていますが、身近なことなので本当に色々考えてしまいます。浅い考えも多いかもしれませんが、その都度自分の中で真剣に答えを模索していきたいと思います。
→結果としてショックを与えることになり、何だか申し訳ない気持ちになります。○○さんが苦しんでいる子供たちを見てきて、臓器移植によって助かるのなら、それで助かって欲しいという気持ちは、純粋な思いやりから来ているということはよく分かります。問題なのは、臓器移植をすれば助かるというイメージを振りまく医療関係者にあります。生態腎移植(片方)は比較的リスクが少ないといわれますが、それ以外の臓器移植はドナーにとっては生存を放棄するということをともないますし、レシピエントの側にも拒絶反応による新たな苦痛を強いるものです。それなのに、まるで唯一の特効薬であるかのような幻想を振りまき、今はまだ元気に遊んでいる子どもが早く事故かなんかにあって活きのいい臓器提供者になることを待ち望む、そのようなことに、患者や家族を巻き込んでいるのです。もしかしたら、現場で働いている医療関係者も、このようなことにまで想像力が働いていないのかもしれません。普通なら元気に健康で暮らしている見ず知らずの子どもの不幸を願う人など誰もいません。でも、脳死ドナーを必要とする臓器移植という治療法は、そのような非人道的な状況を知らず知らずに作りだしてしまうのです。○○さんの当初の気持ちに対する配慮が十分にできないまま、自分が正論と思うことをストレートに述べてしまったことに、私も反省している次第です。
私個人の考え(希望)を述べるのならば、積極的安楽死はなるべく避けたいものである。これはもちろん自分に死がせまってきた時のことを想定してのことだが、最後ぐらいは自然に死んでみたい。いまだ経験のないことであるから、実際に死が迫ったときには、楽になりたいがために積極的安楽死を願うかもしれないが。しかし、安楽死という方法について考えていると、どうにも死を軽く扱っているような気がしてならない。では死は重いのかと聞かれても何とも言えないが。死はただ経験できていない未知の、しかし確実にいつかはやってくる事柄であるから重いと感じているだけなのかもしれない。おかしなことだが、きっと何度も経験すれば死など重くも軽くもないものであろう。現代、死は無機質なものに変化されてきているのかもしれない。安楽死について考えていると、このようなことを考えさせられた。
→コメントありがとうございました。現在、自殺者のかなりの割合を中高年が占めていて、その動機の第一位が病苦であることを考えると、安楽死の法制化は安易な「安楽死」を増やすかもしれません。現在、痛みの緩和自体はだいぶ進んでいるようで、安楽死を望むのは単なる肉体的苦痛の問題ではなく、精神的な問題かもしれません。すると、病気から来る抑鬱が引き金という可能性も出てきます。また、闘病から奇跡の生還などの手記には、「その時にはもういっそ死んでしまいたい、殺してくれと思った」といったたぐいの文章は出てくると思います。医者がじゃあ死にましょうかと言う国か言わない国かの違いで、寿命が変わってくるのはおかしいという疑問も湧いてくるでしょう。
20021205
1994オランダ:埋葬法の改定、安楽死・尊厳死が可能に(しかし刑法との矛盾)。末期の不治の病でなくても可能。
1995オーストラリア:終末期患者の権利法で世界で初めて安楽死が合法化
1997廃止
1997オレゴン州尊厳死法:複数の医師の判断、薬剤の処方、患者の内服による自殺
1998アメリカ、ロサンジェルス:看護士が末期患者40〜50人を安楽死
パリ:看護婦が約30人を安楽死
2000オランダ、安楽死を認める刑法改正案可決。
バチカンが批判。「人間の生命は受胎で始まり、自然死で終わる」「高額の医療費と危険を伴う末期患者への延命治療は本人または家族の意思によって中止できる」(教会法)尊厳死はオーケー
オランダもキリスト教民主党が政権にないときの可決。
200204川崎市、女性主治医が家族の目の前で、気管内チューブを抜き取ったうえ、筋弛緩剤を投与し、死亡させる(1998)。「患者本人の明らかな意思表示」なし。家族は患者の死につながるという認識がなかった。筋弛緩剤についても説明なし。
20021204 逮捕
200205ベルギー、医師による安楽死を合法化。内容的にはオランダと同じ。
(狭義の)安楽死と尊厳死の区別についてもう一度整理
安楽死=薬剤投与などで意図的に死なせる。(本人の内服による自殺をどうするか)
尊厳死=過剰な延命措置をやめることによる自然死
世界医師会、バチカン、尊厳死は認めるが安楽死は認めない。
安楽死の問題点
・安楽死が合法化されている国=西洋近代福祉成熟国家。福祉の行き詰まりから来る弱者切り捨てでは?
・自然死ではない。原理的には殺人ないし自殺ないし自殺幇助。カトリックの立場。
・病苦の抑鬱による自殺念慮でないかどうか。1992世界医師会の懸念。ヘンディン『操られる死』(時事通信社)
・中高年の病苦から来る自殺の多さ
→安楽死のニーズの高さ(しかし自殺の余力のある人はまだ末期ではない)
本人内服による安楽死:意識がきちんとあり、家族との別れも済ませて、遺言や葬儀の準備も整えて、自宅でゆったりと。これは早すぎないか。「末期」の定義問題。
コメント
授業ではカトリックが、尊厳死を認め安楽死は認めないとのことでしたが、プロテスタントなどの他宗派の見解が、気になりました。バチカンの「人間の生命は受胎ではじまり、自然死で終わる」という基本理念が、現存のキリスト教文化圏にどれだけの影響力を持ち得るのでしょうか?キリスト教圏における西洋医学は従来、病気を治すことを目的に、患者そのもののケアがおろそかにされてきた点があるように思いますが、それらがキリスト教的生命倫理と共に歩んでこなかった結果がクローン人間誕生につながっているのではないでしょうか。
→プロテスタントは諸派に別れているので統一見解が見えにくいです。アメリカはプロテスタントが多いわけですが、彼らはどちらかといえば、生命の始まりと終わりの定義よりも、この世の生に影響を与えるような道徳的問題に関心を持つ傾向があるかもしれません。生命倫理のもともとの始まりは人体実験はどう許されるかというものだったし、中絶問題も生命の始まりがどうこうというより、性の乱れに焦点があるかもしれません。
安楽死,尊厳死の判断というのは、臓器移植よりも難しいような感じを受けました。患者に意思がある分、はっきりできないという事が、その理由です。そして、うつ病による自殺行為という点は、今まで考えた事がなかったので、新たな角度からこの問題に向き合うきっかけとなりました。そして、安楽死,尊厳死が臓器移植のように社会で受け入れられないのは、その選択を“自殺行為”とみてしまうからではないか、と考えるようになりました。臓器移植による死(少し語弊があるかもしれませんが)は、他人の為の死ともとれます。けれど、安楽死,尊厳死は自分の苦しみから逃れる為の死、自分の為の死ともとれます。これも受け入れられない理由と考えられるのではないでしょうか・・・。
→では、オランダではなぜ受け入れられるのかということを考えても良いでしょう。自己決定主義が強いので、死についても自己決定すべきだということだと思います。そこから日本はなぜできないのかということを考えると、日本では癌の告知すらおこなわれず、治療のイニシアティヴが本人にない場合がいまだ多いからだということになります。つまり、病んで弱っている人に自己決定などさせるのは酷だということです。
安楽死は歴史のある事柄である。その歴史は古代にまでさかのぼり、そのころは医者が毒物を調合して患者を死に至らしめるということが頻繁に行なわれていたらしい。考えてみれば現在のような医学もなく、病気や怪我も多かったであろう。それも自然の流れであったのかもしれない。しかし、その実状を問題あると認識し、求められても患者に有害なものは与えないと宣言したのが古代ギリシャの医者、ヒポクラテスであったそうだ。その考えに医学者が賛同し、この道徳規範が現在でも続いていることは興味深い。しかしながら、安楽死はなくなることはなかったようである。現在では安楽死を合法化する国も出てている。オランダなどは、第二次世界大戦中、ドイツがオランダを占領している間、ドイツ軍はオランダ人の医師に、公務として患者の治療にあたることを命じたらしいが、この『公務』の中にはユダヤ人計画に関与することが含まれており、オランダ中の全ての医師がこの命令を拒否し、命令に従わないならばオランダ人医師百人ほどを収容所送りにするなどとドイツ軍に脅迫されても、オランダの医師たちはがんとして協力を拒否したらしい。しかしこのようなオランダも、今では安楽死が合法化され、安楽死は広く行なわれている。古代から続けられ、現代にいたっては社会的にも認められる安楽死、これがいいのか悪いのかはともく、これからも歴史の中に安楽死がありつづけるであろうことは、想像にかたくない。
→安楽死を歴史の中でとらえ返すもので興味深く読みました。日本についても、考えてみてはどうでしょうか。
消極的安楽死である尊厳死は、もしかしたら一番自然な死の受け入れ方かも知れないです。もう助からないなら延命措置を放棄して自然死にまかせるというのは、潔い感じがします。しかしそれは生きることを放棄するという前提の上に成り立っているように思います。手の施しようがないなら仕方ないのかもしれないですが、なんだか悲しいことだなあと感じました。もう助からないから自然死にまかせると言って死に臨む人には周りの者は何て言ったらいいのか分からないです。結局曖昧な同意しか示せないのかもしれません。でも、私はそういう人に生きて、とかあきらめないで、と言おうと思います。もう助からない人に向かって、もしかしたら酷なことを言うのかもしれないけれどその人が求められている人なのだということを伝えたいです。周りにいる人までもう死ぬしかないと人と思って末期の患者に接するのは寂しいことです。だってその人は今生きているのですから。たとえ尊厳死という死の在り方を選択するとしても最期まで求められての死というのは大切だと思います。
→大事なことを自分の言葉で表現しているという感じがしました。死を自己決定するオランダの個人主義はとても寂しいものかもしれません。日本人は遅れていると考える人もいるようですが、告知すらしない家族は「本人に事実を知らせたり治療の選択をさせたりするのは酷だ」と考え、薄々死期を悟っている本人は「すべてを信頼してまかせるからいいようにしてほしい」と考え、お互いに腹で分かりあうという感じかと思います。こういう非言語的な信頼関係が崩れると、すべてを文書で明らかにして処理する自己決定主義が必要となってくるのでしょう。
20021212
安楽死の問題点の続き
〜前回のコメントから日本とオランダの違いについて留意
・ペインクリニックの進歩による耐えがたい苦痛の減少。屈辱感を避けるというのが一番の動機に。
・患者からの明確で持続的な要請なしに医師により実施される生命終焉行為(Life-terminating Acts Without
Explicit Request of the patient, LAWER)の存在。オランダでは年間1000件とも推測。しかし、警察・検察による厳格な調査がなされていない。
http://www.ed.niigata-u.ac.jp/~shigeo/Dutch_Eutha.html
・日本ではどうか。告知の問題→日本では自己決定主義は浸透していない。遅れていると見るか。病者とその親しい人との間での非言語的な信頼関係
・安楽死が認められる社会は、安楽死してもおかしくないのに、決めかねている人に冷たくならないか。
死の心理
死の恐怖
生のあらゆる可能性の不可逆的喪失
不可逆=帰ってこない
(中途半端なところで授業終了)
コメント
オランダを含む欧米社会では、個人主義や自己決定権が確立されているが、日本の社会、とくに我々若者世代では益々、自己決定力が欠如してきているのではないかと思う。アメリカ的な自由主義が、日本の若者には自己中心主義として受け入れられ、更には他人への無関心を助長する社会に、自己決定権という形だけでこれらの問題の解決を委ねるのは、日本の現状では難しいのではないだろうか。
安楽死の諸要件が設定されたときもそうであったが、最近の川崎の「安楽死」疑惑で女医が逮捕されても、世論が活発化しないのは、生死に関わる問題も、自分以外のことであればすべて他人事と捉えているためであろうか。
→若者が自己決定できなくなっているという話は興味深く思いましたが、歴史的に見て本当にそうかという問題はあります。ただ、何となく分かります(とくに聖心を見ていると?(^^ゞ)。情報が多すぎて、ただそれを取捨選択するだけの受け身の自己しか形成されておらず、「自分の意思」で物事を決定したと言っていても、結局情報の受け売りや、日ごろ付き合っている仲間への同調に過ぎなかったりする。安楽死が話題にならないのも、あまり深く考えずに「みんなと同じように死にたい」ということでしょうか。死後のことは考えず浮世を楽しんでおればよいというのは、日本では仏教が形骸化した江戸時代あたりからです。死後は葬式仏教にまかせておけば、どんな人間でも「仏様」として奉ってくれるというわけです。
先々週の授業で延命措置についてのお話しがありましたが、最低限の栄養素などを送るのは延命措置ではないということでした。でも、人間は食べる事ができなくなったら死ぬんで当然ですよね?それはどんな生き物でも同じだと思います。食べ物を与えられないで衰弱するなら餓死ですが、例えば植物状態の人は食べるということができないのだから、それで死ぬなら自然死だと思います。だから栄養分だけ与えて「とりあえず生きている状態」にするのは延命措置ということにならないでしょうか?
92歳になる祖母が入院しています。たぶんもう退院することはないと思います。でも彼女はボケたりはしていなくて、自分がどういう状況か理解しています。周りはボケた老人ばかりで、病院はいつも悪臭がします。食べることはほとんどできません。もう骨と皮だけになっています。でも点滴のおかげで生きてはいますが、「生きているだけ」です。あの状態で生かしおくことが医療行為だとは思いません。あの点滴をはずす事が殺人であるわけがないんです。はずしても即死ぬことはないし、食事も与えているんだから、餓死ではないと思います。先週のガンの告知については、私は本人に言うべきだと思います。財産のある人は家族に残す手続きをしたいだろうし、行ってみたかった所に行っておく事もできるし、そういう自由を奪ってはいけないのではないかなと思いました。
→植物状態で、生命維持装置を外した結果餓死させるのは自然死だということですが、問題は、それを本人が選ぶことができないという点にあります。あなたのおばあさんについてですが、これは私がとやかく言う立場ではありません。もちろん一般論でいろいろ言うことはできますが……、やめておきましょう。すでに授業で述べられている通りです。癌の告知については、それを知ったうえで本人が主体的に生きられるように告知するべきだという御意見ですが、それが通用しない文化(かつての日本のような、そして今でもある部分)もありうるというのが私の話の趣旨です。だから、これも本人次第です。
私は、告知さえ家族に委ねる日本よりも、自己決定主義のオランダの方がよいと思います。自分の体のことは自分が一番よく知っておきたいし、死も他人任せにはしたくありません。ターミナルケアをきちんと受ければ、死に対する恐怖も軽減すると思います。
→授業で紹介したLAWERの数の多さを考えると、オランダの自己決定主義は建前に終わっていると言わざるを得ないと思います。今までいろいろと紹介した医療と死の問題を考えると、結局医療関係者の言いように事が運んでいるということになると思います。インフォームド・コンセント(説明を受けたうえでの同意)と言っても、専門的な医学的説明をされても、極限状況にある患者には理解できないので、実質的には、「一応説明した」で終わってしまうのが現状です。
死と向かい合う際、それをどうとらえるかは、宗教を持っているかいないかにより変わってくると思います。宗教をもつ人は、死を恐ろしい物ととらえないのではないでしょうか。例えば、キリスト教は死により「神の側にいく事ができる」とし、死に対し、恐れを感じずにいるような気がします。これは、宗教が私達人間に必要な理由の一つだと考えます。
死は生きている限り、いつかは起こる事です。そのような状況になった際、死に背を向けるのではなく、きちんと向き合える大人になりたいと思います。その方が、この世に悔いなく死んでいけるような気がするのです。
→私も宗教的信仰と死の受容は密接な関係があると思います。何の宗教的バックグラウンドもない人が、死が迫るまで深く死のことを考えずにいた場合、死を受け入れることはなかなか難しいでしょう。ただ、宗教的信仰を持っていれば大丈夫とは言えないようです。神はなぜ私をこんなに苦しめるのかという気持ちを抱かずにすむ人はむしろ少数のようです。そして、そのような状況のなかで、最後のぎりぎりの瞬間まで、信仰のあり方はさまざまに変化する可能性があります。もちろん良いようにも悪いようにも。
ペインコントロールが進歩した今、安楽死の必要はないのではないかという話はまったくそのとおりで
あると思ったが、その疑問の結果、屈辱感を避けることが安楽死の一番の動機になったということには
なるほどと感心した。
私は以前入院した経験があるのだが、手術後の麻酔のかかり具合によっては、尿道に管を通す可能性もあるという看護士の話に、ある種の衝撃を覚えたことを今もよく覚えている。そのときはその措置を受けたくないがために、麻酔でもうろうとする意識を叱咤し、いかに自分が独力で動けるかを医師にアピールした結果、措置を受けることは免れたのだが、もしも措置を受けていたなら、私はしばらく無口な人間になっていたであろう。思うに、屈辱感はひどい精神的ダメージを与えるものであり、そのような目にあうぐらいならばその前に安らかに死にたいと思うことは当然といえば当然のような気がする。「こんな目にあうのならいっそ死んでしまいたい」どこかで聞いたことのある言葉であるが、精神的苦痛は死を望ませるにたる要因であるように思われる。だからこそ、苦しみはあれど精神的苦痛は少ないと思われる自然死を私は望むのであるが、「子供でないのだからこのぐらい我慢しろ」というのではなく、患者の自尊心等に配慮する医療が行なわれれば、安楽死を望むのではなく、「生きるところまで生きよう」などと思う患者が増えてくる可能性もないとはいえない・・・と思われた。
→安楽死をへのニーズがどのようなものかがごく自然に理解されるコメントでした。ですが、おっしゃっているのは尊厳死なのか安楽死なのか判断に迷うところもあります。でも、麻薬でもうろうとして垂れ流しの屈辱を感じない状態でも、現時点から見れば耐えがたい屈辱なのでしょうから、これはやっぱり安楽死を望んでいるのでしょう。ただし、その場合、いろいろと述べてきた「問題点」にも留意しなければならないでしょう。
20021219
(「死の心理」の続き)
死の恐怖への否定的反応=否認
肯定的反応=受容
エリクソンの老年期の心理
死への直面「やがて死ぬ」
絶望「もうやり直しがきかない」
嫌悪「私の人生を台無しにしたのはあなただ」
統合「良いことも悪いこともあったが、それなりに意味があった」
E・キューブラー=ロス『死ぬ瞬間』
死を前にした人間(とくに末期癌患者)の心理過程の5段階
1)否認「何かの間違い」
2)怒り「どうして自分が」(いちばん世話してくれる人に怒り→孤立)
3)神との取り引き「もし治ったら人々に奉仕します」など
4)抑うつ「もう生きる気力が無くなった」
5)受容「今までありがとう、さようなら」
+)希望(以上5段階を通じて)「治るのではないか」
柏木哲夫
受容とあきらめの違い
受容:積極性、暖かさ、人間的連続性(つながり)
あきらめ:消極性、冷たさ、人間的非連続性(断絶)
キュアとケア
cure 治す=身体の部分的疾患を除去する
care 気づかう・配慮する・世話する=心と体の全体に気を配り、ニーズを受け止める(すべてをかなえられないとしても)
〜キュアが不可能な末期患者に必要なのはケア
コメント
キューブラ・ロス、人間の死に対する受容の順序はとても納得させられるものだった。私事ですが、亡祖父は長い間闘病生活を送り、そのうち痴ほうがひどくなって亡くなった。その時、あまりに長い闘病生活であったので、周囲の者は彼の死を受け入れる事がとても容易であった。医療の発達によって、長寿社会になった日本において、患者自身そして、その家族も近づきつつある死を見つめる時間が長くなった。きっと医療が未発達の頃の治療は、「痛い痛いの飛んでいけ」の世界であったのだろうから、CUREからCAREへの医療の転換は、本来の医療のかたちに近づいているような気がする。
→一人ひとりの死の体験を事例として(匿名のかたちででも)分かち合うような場があればいいなと最近考えています。もちろん、大人数の講義では無理ですが。
もし自分が末期患者であったら、死の受容までどのような段階を踏むのか想像してみたが、3)神との取引から、5)の受容までの過程を何度でも繰り返すような気がした。結局は死を肯定することがどんなに困難であるかを知るのは、その立場に立たされた人々と、時にその家族でしかないと思う。また、積極・消極的受容に至るまで、自身との葛藤が紆余曲折しても、結果的に満足して死ぬことのできる人々が、果たしてどれだけいるのだろうかと考えた時、やはり心の葛藤や悲痛といった、胸の内をオープンにし、それらを受け止める場の必然性を実感した。
死に対する宗教の大切さが、今回の授業で改めて分かりました。宗教を持っていても、神に対し、「何故、私なんだ!!」「どうして私にこんな辛さを与えたんだ!」などとぶつける人がいる、というキューブラー・ロスの理論があります。けれど私は、宗教を信じ、神の存在を信じているからこそ、神に対して自分の辛さ、死に対する恐怖をぶつける事ができ、精神を安定させられるのではないでしょうか。宗教が、一種の精神安定剤になるような気がします。
キューブラー・ロスの「死の心理の五段階」は今まで知らなかったので、とても勉強になりました。そして、なんとなく納得できました。この五段階は、死以外のことにも当てはまる気がします。辛いことに対しての受容の際、この五段階を踏むと思います。例えば、試験に不合格になった,失恋した,友達とけんかしたetc・・・。だから、私達には死と向かい合う前にも、宗教が必要になってくるのです。他人にぶつける事ができない辛さを無条件に受け入れてもらえる神の存在は大切です。
私は信者ではありませんが、聖心に14年間通うことで、神の存在を知ることが出来、よかったと思っています。なぜなら、神の存在を信じる事で、それが私にとって支えになってくれることがあるからです。
→信者ではないが信じるという微妙な立場は興味深く感じました。私もそれに近いと思います。無信仰の人は周りの人に当たってしまうので、どんどん孤立してしまうということを考えると、信仰の存在は有益だと思います。ただ、神に当たってしまうことで、傷つきを感じる人もいるでしょう。この場合、あまり懲罰的でなく受容的な神表象が必要となります。ただ、さらに考えると、神表象と対人関係のあり方は深いところでつながっているので(宗教心理学という授業ではそういう話をしています)、信仰だけでなく、受容的な介護者の存在がやはり重要となってくるでしょう。さまざまな喪失体験にも、「5段階」説は当てはまるということは、その通りだと思います。死への直面は、自己の喪失への直面であり、また実際にそれまでの自己のあり方をどんどん喪失してゆくことでもあるので、概念上は、喪失体験の中に含められるでしょう。ただ、死への直面が他の喪失体験と異なるのは、それを経験したと言って語る人が誰もいないという点、つまり未知のことへの恐怖がともなうという点があげられるでしょう。
20030109
親しいものの死――悲哀(モーニング)・悲嘆(グリーフ)をめぐる心理学
遺されたものにとっての死
→悲しみ
→悲しみから立ち直ろうとする→悲嘆の回避
=知的には受容しているが情動がともなっていない:消化されない情動が別のかたちで表出
→遅延悲嘆:あとから急に悲しみに襲われる
慢性悲嘆:いつまでたっても抜け出せなくなってしまう
仮面悲嘆:別の症状として現れる(病気、食欲不振、依存症)
喪の仕事、悲嘆の仕事
悲しみをきちんと悲しむこと
1)喪失の現実の受容
2)悲しみの苦痛の経験
3)個人がいない環境への適応
4)情動の引き上げと他の関係への再投入
〜4)が目標だが、それを最初から目指すと、逆にたどり着けなくなる
コメント
先週は、ケアのニーズの高まりについて学んだが、授業内容から話が少しそれるようだが、最近、キュア(病気を治す)ではなくて、代替医療(疾病予防や健康増進などを目的とした民間療法)を利用している人々が増えた気がする。元々東洋医学における、漢方療法や鍼灸などが代替医療の典型として馴染み深いが、インドのアーユルヴィーダーやリフレクソロジー、そしてハーブ療法などは予防医学というより健康志向と癒しを求めている人々に高い支持を受けている。民間医療や健康食品に確固たる証拠がないにも関わらず、多くの人々が手軽にそして、半ばすがるようにこれらを利用するのは、やはり現代西洋医学ではカバーし切れない、何かがあるのだろうか。とはいえ、私自身も体に良いとされる?ハーブティーなどを飲み続けているが、健康食品は一種の精神安定剤の役割を担っているだけに過ぎないのかも知れない。
→代替医療は単に民間療法と位置づけるのでは不十分で、ホーリスティック医学として、現在では体系化の試みがなされていると思います。これは、人間を心と体の全体性から見て、その自己治癒能力を活性化させることを目指すもので、そのような見地から伝統的な代替医療を再評価しようとする医学側からの試みです。ケアの思想の高まりとは明らかに連動しているところがあります。WHOでも伝統的医療の方法や人的ネットワークが利用できるところでは、西洋医学との併用や折衷を、選択肢として考えるべきだという方針が打ち出されています。それをすべて否定して、西洋医学を導入しようとすることは現地の人の抵抗もあるし、コストがかかりすぎるということでしょう。もっと積極的には、文化的に受け入れられている伝統的医療の方が、心理的な面から見て、より大きな治療効果があるということかもしれません。この辺の話については、私のHPの「癒しと宗教」という講義の記録を見てください。
http://homepage1.nifty.com/norick/
西洋医学だって、「一種の精神安定剤」の役割を果たすことはあります。この病気にはどんな治療をしたってしょうがないというときでも、とりあえず手術してみるとか。それによって患者本人と周囲の家族はやるだけのことはやっていると思えるからです。この癌に効く抗がん剤は現在日本では保険が利かない。そこで、この癌には効かないけどやらないよりはましだから別の抗がん剤を投与する、とか。末期患者に対しておこなう「治療」行為が、そのようなものであるなら、キュアではなくケアに重点を置こう、というのがケアが注目される理由です。
問題提起=「悲哀・悲嘆」は共有できるものなのであろうか。持論=共有できない。なぜなら、「悲哀・悲嘆」は個人の価値観によって認識されるものであり、同じものを共有することはできない。同時に同一の事件を体験はするが、感情の共有にはいたらない。これらのことを踏まえた上での「悲哀・悲嘆」にある者は自力で立ち直らなければならない。しかし、類似体験を持つ者同士のカウンセリングや、親身に話を聞く人物、自らを肯定的に受け入れる環境があれば自力に立ち上がるのも苦ではないのではないだろうか。共有できないものでも同じように「感じる」のは人間のエゴであろうか?
→難しいコメントですね。私の考えはイエスとノーの両方です。哲学的には「痛み」は私的なものであるか否かという議論が交わされてきました。他人の痛みをそのまま同じものとして体験することはできないということは一応言えるわけです。しかし、その言語的「表現」はどうか。言語は共通の取り決めですから、その表現形態には、共同体で通用するルールが反映されていなければなりません。さらに、我々は言語なしで思考や感情を構成することができるのかという問題が出てきます。痛みや悲しみに関する言語的表現によって、痛みや悲しみの感情の形態は規定されないだろうか。幼いころから周りの人の笑い方や泣き方、喜び方や悲しみ方を介して、笑い、泣き、喜び、悲しむことを「学習」してきたのではないか。では、同じような環境で育ってきた人は同一の事件に遭遇したら、必ず同じように喜んだり、悲しんだりするのか。たとえば遺族は皆全く同一の「悲しみ」を共有するのか。それは異なる人間である以上、同一であるということは保証できない。そういうわけで、感情は共有できるかと言われれば、イエスとノーの両方、と答えることになります。人間は違うけれど同じ、同じだけれど違う、その両方があって、だからこそ通じ合いたい。悲しいときは、一緒に悲しんでくれる人がいればいいと思う。本当にどうでもよい、何の接点もない人とはそんなふうに思わない。だから、イエス&ノーで、同じようでありたいというのは、エゴというよりも、そこに愛があるからだと「思いたい」、と思います。
20030116
フロイト
親しい人=アンビヴァレントな感情(愛と憎しみ)の対象
死別=自分の憎しみのせいで死んだ、自分が殺した→罪責感、自責→罪責感が抑圧され、慢性的抑うつ
+自分を置いていったことへの憎しみ、同時に再会への熱情→アンビヴァレンツの増大
キューブラー=ロスの事例(『死ぬ瞬間』邦訳268頁)と小此木啓吾の事例のプリントでの紹介
V・カースト(ユング派)
悲嘆の心的プロセスを夢分析から4段階に分析
1)否認(ショック状態、感覚的麻痺)
2)感情的混乱(怒り、悲しみ、恨み、自責・罪責感)
3)死者の探索、発見、別れ→喪失を受け入れる
4)死者との新しい関係=内なる同行者としての死者
例)3の出会いと別れの夢
現世と他界の境界を象徴する場所(駅、空港、道、国境、美しい丘の上)で出会い、別れる
反対の方向に行く→喪失の受容へ
出会いのときに十分な融合(握手、包容、会話、別れの挨拶)がないと、喪失の受容がスムースでない
→グリーフケアへ
夢の代わりに、箱庭、描画、コラージュ作成、語りを通じて、死者を繰り返し表現。そのなかで、死者を探し、出会い、融合し、別れる。
コメント
親しい者の死というのはなぜ世間という枠の中で起こる“ある人の死”よりも悲しく、その悲しさが後を引くのでしょうか。人は皆死を迎えるし、人の死である限りそこに生じる
態度の差はなぜだろうと感じます。しかしそれはその親しい者の演じてきた役割の喪失が “ある人の死”よりも格段に大きいからでしょう。血のつながりだけで悲しさが増すのではない
と感じます。例えばおばあさんにあたる人が亡くなったとして、一緒に毎日の暮らしを共にしてきたか別居していたかでは悲しみにも差があるのではないかと思えてしまいます。やはり生前の、その親しい者のとのかかわりが大きいと思います。毎日生活を共にしてきた人がある日突然いなくなって、その故人のいない環境に適応しなければいけません。もう二度とその人と話すことも、そしてその人に触れることも出来ないのだという感情はとても苦痛でしょう。身近にいつもいる存在であればあるほどその親しい者の死への悲しみが増すのはそういうことなのだと思います。また、その故人の良い所ばかりが思い出され、悲しみは一層深くなるものです。時間がある程度解決する、というよりは時間しか解決できないかもしれないと思うことがあります。
授業の事例で親しい者の死に伴うアンビバレンツな感情について学んだ時、本当に個人的に、それが普通なのかもしれないと感じました。故人は理想化されやすい存在ではないかと思います。ですから、もし生前に憎しみを感じていた相手であってもその人が持つほんの少しのやさしさであれ良いところが遺された者の心を大きく占めるようになったりすれば、そうした感情が心の中に同居して来るのは必然なのかもしれないと思いました。
輪廻転生を信じることが出来て一度生まれの物語を捨てれば、死の受容は変わってくるのでしょうか?? →コメントを読んでいて気づかされたのは、授業では故人への恨みや罪悪感ばかり強調して、理想化のことを十分話さなかったということです。小此木先生の『対象喪失』にはそこら辺が分類されて、それぞれについて事例が載っている箇所があるので参照してみてください。
「一度生まれの物語」とは松本滋先生の用語ですね。私個人はどこかで輪廻転生を信じているところがあり、「死んだら終わり」という死生観をもったらどうなるのかということが、感覚的には分かりません。もし、本当に死んだら終わりと考えていたら、生きていることの意味づけは非常に難しくなるという松本先生の説(というかユングの説)には、私も感覚的に同意です。しかし、勉強をしているうちに分かってきたのは、死後生を前提とする死生観は、宗教史上必ずしも普遍的ではないということです。古代イスラエルでは、人間は神の息吹(霊)によって生かされており、死ぬということはその息吹が別のところに行ってしまうということを意味します。日本においても、人は自然から生まれて自然に帰るという死生観があるという説もあります。手塚治虫の『火の鳥』などもこれに近いかもしれません。それから無神論のマルクス主義でさえ、人は歴史によって作られ、歴史を作る、たとえ個人が死んでもその功績は歴史の中で生かされてゆくという死生観をもつ可能性があります。つまり、一度生まれの物語には、刹那的な「死んだら終わり」以外の、きちんとした意味づけのあるヴァージョンも存在するということです。しかし現代日本で「死んだら終わり」と考える人は、刹那ヴァージョンの方が多いかもしれません。とはいえ、日本人は結構あいまいなので、信仰を持っていなくても、親しい人が亡くなったら「冥福」を祈ってしまうという人が大部分かも知れませんが。
悲嘆は様々な意味において個人の問題にあると思います。人間のエゴがなければ他人を理解することはできないのでしょう。「他人を理解している」と思うのは傲慢なエゴの思い込みのように思います。しかし、その気持ちを理解したうえでそのように思うのは、また違う意味合いを含むのだとおもいました。悲嘆の心理には「愛と憎しみの背反」原理があるように思います。その気持ちの裏腹さを受け入れるごとに、人格的成長がなされていくのでしょうか・・・
→ 前回に続き「エゴ」という言葉にこだわっているようですが、ちょっと普通の言葉遣いと違うかなという気がしてきました。日本語でカタカナでエゴというと、強い意味での利己主義と関係するのですが、ここでは、利他的と思えることにも実はエゴがあるという言葉遣いになっているので、もっと根本的な、個性ある自我を持つ人間が不可避的に持ってしまうものとしてのエゴ(自我)を指しているような気がします。いずれにせよ、上のような考え方は、あたかもエゴ、あるいは他人と自分との違いや距離が、決してなくならないということを強調しているわけですが、そもそもエゴというのは関係の中でそのつどかろうじて成り立っているものであると考える立場もあるということは覚えておいてください。アンビヴァレンツを受け入れることが成熟ということかという質問ですが、ウィニコットという対象関係論の精神分析家はそういうまとめ方をしています。
半年間の「死生学」の講義をありがとうございました。受講前は、「生と死」という重みのあるテーマから、とても年配の先生が講義されるのだと勝手に想像していましたが、若い方だったのでびっくりしました。(私と同様の勘違いをした方は他にもいらっしゃいました。)人間関係の専攻ではないので、死生学や宗教心理には無縁でしたが、最新のトピックを交えての講義は、新たな知識付与に留まらず、自身が死生観や生命倫理に興味があることを再認識しました。また、「死の受容」の講義では、今までは「もし自分が死に直面したら・・」と考えると、感情的になりがちでしたが、少しだけ現実的にそして、頭の中で整理して捉えることが出来た気がします。
→「死の受容」についてですが、もし自分が、と考えると感情的になるというところに興味をひかれました。正直言って受講生がどの程度切実に考えてくれているかがよくつかめなかったからです。多分、いろいろな人がいると思うのですが……。ピンと来ない人にお勧めのワークとしては「遺言書を書いてみる」というのがありますが、これはさすがに授業でやるのをためらいました。私の後輩に自殺した人がいますが、就職も決まっていた彼が、死ぬちょっと前に私の恩師に学問をやってみたいという気持ちがあると相談をしていたそうです。私の恩師は、その時、就職を棒に振ってまでやっても決して保証があるわけではないため、ある程度の覚悟が必要であることを少し厳しく話したということを、気に留めていました。その時、教師というものは、あらゆる種類の学生がいるということを想定していなければならず、それでも、学生が悪く受け取って道を誤ることはあり、そしてそれに対して道義的に責任を感じざるを得ない立場にあるということを知りました。このことは、私自身が教える立場に立って、より強く実感するようになりました。死生学という授業は実は非常にデリケートなところを含んでいます。いろいろなコメントを読んで、個人的に返事を書いているのですが、一見授業をなぞっただけで大したコメントではない(失礼ながら)と思えても、このコメントが出てくる裏にはどういう経験があるのだろうということを想像してみると、おろそかにはできないことが分かってきます。自分のような若造が、デリケートな大学生を相手に死生学を講じるのは、本来は無謀なのですが、最近の医療倫理のトピックなど、少し距離がとれる(本当はそうともいっていられないのですが)事柄のほうに半分くらい重点を置くことで、実存的になりすぎるのを避けました。また何十年か後には、その時にふさわしい授業をしていることでしょう。