宗教心理学特講2
――心理学的現代社会論における自立と共生
宗教心理学に関わるような心理学者たちが残している社会評論的な文献を見てゆく。とりわけ、現代社会における社会的性格論として、フロムと小此木啓吾の仕事を中心に見てゆく。それを通して、前提とされている理想的な社会的関係を導き出し、それが世俗化の進んだ社会において、宗教の代わりになることができるかどうかについて考える。
・全体主義の精算
フロムの『自由からの逃走』、フランクル、ミッチャーリッヒ、アレントの議論。
・ナルシシズム社会をめぐって
ラッシュの批判とコフートの擁護、自己実現の位置づけ
・現代日本社会を読む
小此木啓吾の社会評論、戦後社会、モラトリアム人間、自己愛人間、シゾイド人間、社交的な自閉、「困った人」
・「甘え」から「やさしさ」へ
土居健郎と大平健の議論の射程
・セラピー社会の批判
ベラー、マッキンタイア、森真一の議論
・洗脳・マインドコントロール論
リフトンの仕事、全体主義の影
・結論
自立と依存の二分法を超えて、社会性のデザイン、ケア、ヴォランティア、ネットワーク、霊性の未来
20011009
フロム『自由からの逃走』
フロムの紹介(私の書いたコラムから)
「全体主義」「ナチズム」についての基本的知識
〜いくつかの資料
「〜からの自由」と「〜への自由」
消極的自由の達成だけでは、目的を見失い、全体から離れた個人としての孤独や無力にさいなまれる。
自由が重荷に。帰属できる「権威」を求め、それに「自発的服従」〜ワイマール共和国からナチス政権へ
その他の要因:第一次世界大戦でのドイツの敗北。自信喪失。経済的苦境。下層中産階級の権威になびきやすいサド=マゾ的性格。
全体から離れた「個人」の生きる道。
1)あくまで個人として、自然や社会とかかわる。生産的な仕事、愛
2)全体性を演出するものへの帰属による「個」の不安の解消。
20011016
宗教改革のおさらい
資料参照
ルターの権威主義
権威への反抗(教会、神聖ローマ皇帝)、権威への憧れ(神、封建諸侯)、弱いものが既存の秩序に挑戦するとそれをくじく(農民暴動は不支持)
ウェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』
ドイツにおける下層中産階級の権威主義
中世的秩序からの自由→十分に享受できたのは、上層、資本家、ブルジョアジー
中産階級=中世的秩序から自由、しかし上層階級とはちがう、権威への憧れ、上昇志向
→一部成功、多くは負け組、蓄財に励む
下層階級=労働者=資本家からの搾取、生産手段を持たない
→既存の秩序の革命による転覆を目指す=「からの自由」を熱望
20011023
独立/成長の抑圧→無力感、不安感→さまざまな逃避のメカニズム
1 権威主義的性格
・権威を讚え権威に服従=マゾヒズム
・権威になろうとし、他者を服従させる=サディズム
・弱り始めた権威への反逆、反権威主義は権威主義の裏返し、別の権威を打ち立てようとすること
〜MはSに依存、SもMに依存、共棲関係で無力感を解消、
痛めつける相手/痛めつけてくれる相手を見つけることで
ドイツの下層中産階級の権威主義(ルター以来の)強者を愛し弱者を嫌悪
第一次世界大戦の敗戦、君主の喪失、インフレによる蓄財の喪失、家庭における父親の権威の失墜
父親や古い権威を馬鹿にする若い世代、新たな権威の模索→ヒトラーの登場
2 破壊性
共棲を目指さずに、対象を除去、それによって自己を強化
〜諸外国への敵意、ユダヤ人の虐殺
機械的画一性
他の人と同じように動くことで不安を解消、「個人主義」しかし社会からの暗示的影響=無自覚な服従
個人であることの孤独の恐怖からの解放
〜ナチへの反対はドイツからの離反
以上の特徴はヒトラー個人にもっともよく当てはまる
20011031
現代社会における自由の問題
「個性」という幻影/画一性
教育の問題〜知識の注入
cf. イリッチ『脱学校の社会』
心理学的適応主義の問題〜「正常」という基準
相対主義の問題、真理探究の忌避
〜真理を知ることで人間は自由になる
生活の断片化→自我の喪失→適応主義
近代人の考える「自由」
外的束縛から自由になって、好きなように欲求し、考え、行動する
しかし孤独から、匿名の権威に服従。情報の暗示性
結局、自由からの逃走に
積極的な自由「〜への自由」
統合されたパーソナリティの自発的行為
『悪について』偽物の自分を見破り、本来的な自己を実現してゆくこと。自由気ままにやっていくと結局その人のもっている無意識的な傾向性の悪循環が強化される。それを自覚することで、おのずから自分の成すべきことを見いだしてゆく。真理を知ることによる自由の実現
『生きるということ』もつ様式からある様式へ。
外界から取り入れた所有物への依存/みずから生産すること
cf. リースマン『孤独な群衆』
アレント『全体主義の起源』
20011106
前回のやり残し:積極的自由のところから
小此木啓吾「モラトリアム人間の時代」
モラトリアムとは何か
高度な技術習得の期間、アイデンティティ獲得までの準備期間、さまよったのちに職業選択・配偶者決定
フロムの「社会的性格」論の応用
モラトリアム人間の性格像
当事者意識の欠如、お客様的存在、マスコミの論調、当事者=責任者を追求するお客様的存在、非当事者的ポーズ、本当の自分の棚上げ、帰属感を持とうとしない、若者文化を持ち上げる、管理社会に染まらない
古典的モラトリアムの心理
1半人前意識と自立への渇望、2真剣かつ深刻な自己探究、3局外者意識と自己の歴史的位置づけ、4禁欲主義と欲求不満→昇華、人格成熟
青年期の延長、若者文化の出現→モラトリアムは、社会から浮いたものではなく、社会的現実に
産業社会化の進展、「新しいもの」の発見・想像・習得が、つねに要求されるように
消費社会化の進展、消費専従者としての若者の発言力の増大、「新しいもの」を教えてくれる存在
→新しいモラトリアム人間
1半人前意識から全能感へ、2禁欲から解放へ、3修業感覚から遊び感覚へ、4同一化・文化の継承の放棄とマスコミ的論評者としての位置づけ、5現在の自分は仮のもの、重要な決定は未来に、6親密な関わりを避ける
反モラトリアム人間の若者批判
組織帰属型、権威主義、適応・同調型の人間
しかし、現代管理社会に帰属しているかぎり、1指示待ち状態、2変化への柔軟さ、3責任の分散、4組織による保護を求める→意識的にはモラトリアムを否定していても、実質的にモラトリアム人間になっている。
潜在的にモラトリアム人間だが、認めたくないので、モラトリアムを体現している若者を批判。
批判したのちに徐々に受け入れてゆく→物分かりのいい指導者、友だち親子
管理社会で道具化され傷ついた組織人間は、無帰属型の妻や子どもたちの待つ家庭に安らぎを求め、心理的に同調。それができないと人間疎外に。
モラトリアム人間の更なる分類
同調型、古典型、消費型、無気力型、ヒッピー型。
近代的理想としてのモラトリアム
人権尊重、自由、個としての自我の育成、
宗教的禁欲とのつながり(前期の特講2の受講者向け)
宗教者のやること→青年期に設定、近代的自律へ
20011128
土居健郎『甘えの構造』(弘文堂、1971年)
導入例(1〜5頁)
本心では「して欲しい」と思いつつ儀礼的遠慮
感謝の意味の「すみません」
客のニーズがなければ放ったらかしのアメリカ人と、「思いやり」「先回り」の日本人
日米の違い、「甘え」という言葉で表現
「甘え」と“dependence”(依存)との違い。欧米には「甘え」に当たる言葉がない。
欧米における「自立」中心の価値観。フロイトの精神分析における成熟の目標としての自立
依存は自立を否定するもの
乳幼児の母親に対する愛、受け身的な愛、「してもらいたい」という形で表現される相手への愛着
=甘えの本来的な姿、口唇愛、味覚のメタファー
分離の不安と葛藤を打ち消すために甘える〜個人主義は孤立。cf. フロム『自由からの逃走』
甘えることで相手の顔を立てる→タテ型社会
目上の者も目下の者に甘える〜老人と天皇、神輿を担ぐ権力構造。cf. 河合隼雄の中空構造論
甘えの理想化、イデオロギー化に。禅における主客身分の境地。惟神(かむながら)の道
身内では甘え・甘えさせるが、よそ者にはしない→集団主義、集団の一体感
集団の中でのわがまま→日本人の「自由」概念に。中国でも日本でも古く「自由」には良い意味がない。
西洋の「自由」概念の輸入、理想化、しかし中身は「甘え」
西洋の「自由」概念=人間を超える存在から恩寵として与えられるもの
甘えの普遍性:西洋個人主義の行き詰まり、自立と人間疎外、巨大な現代文明、自分が作ったという意識は現代人にはない、自分にはどうにもならないところで流れてゆく。享受するが主体的にはなれない。
フロム『自由からの逃走』との比較、フロムが批判していること、日本では対人関係の規範に
小此木啓吾「モラトリアム人間の時代」との比較、同時期に書かれたもの、内容的にも近い。ただし、土居は甘えを日本古来からのものとしてとらえている。しかし、日本の戦前の全体主義との関連も考える必要あり。
フロム、小此木らの議論とうまく総合させる可能性?
20011211
大平健『やさしさの精神病理』(岩波新書、1995年)
70年代「やさしさ」という言葉がクロース・アップされる
〜それまでは、優美さ、女性らしいこまやかな神経
「男もやさしくなければ」
80年代:どんな男性が理想的か?→「やさしい人。」
90年代:「やさしさ」の意味が変化した。ホットな「やさしさ」からクールな“やさしさ”へ
ホットなやさしさ=共同体から離れた個人の傷つきを互いにいたわる
クールなやさしさ=傷つかないように距離をとり、そっとしておいてあげる
「甘え」が自覚された契機は欧米文化との出会い。すでに日本的な以心伝心のコミュニケーションが崩れつつあった時代。
家族共同体と地域共同体からの離脱が志向されるなかで、大げさな身振りの「やさしさ」が求められる。
「こうすれば相手はこう思うだろう」という思いやりの共通了解も崩れる。「自分がいいと思っても相手はそうとらないだろう」。道徳的行為が成立する文脈そのものが成り立っていない。残るは、距離をとったうえで自分なりの“やさしさ”を追求。しかし、単なる自分の都合の正当化になっていたり、自己満足になっている可能性もある。
いくつかの事例
pp. 4-7, pp. 52-7, pp. 179, pp. 188-192
(ぜひ本で読んでみてください)
大平健に対する異論〜むしろクールなやさしさのほうが日本古来のやさしさではないか。
cf. 次ページ、竹内整一『日本人はやさしいのか』の書評
竹内整一『日本人はやさしいのか――日本精神史入門』(筑摩書房、1997年)
大平健『やさしさの精神病理』(岩波書店)が出て以来、「やさしさ」は現代の若者を形容する言葉として認知されてきている。若者だけでない、村山元首相は「やさしい政治」を目指していたし、企業はこぞって「環境にやさしい」商品を売り出している。しかし、大平をはじめとする何人かの論者らによれば、近年の「やさしさ」は、旧来の傷をなめあうような「ホットなやさしさ」とは異なり、傷つくことを回避する、ときには他人が傷つくのに気づかないふりをしてあげるような「クールなやさしさ」である。
それに対して、著者は『万葉集』以来の「やさし」の用例を通覧し、現代のクールなやさしさにも通じるような独特の距離感と演技性を含んだ「思い―遣り」としての「やさしさ」が、日本の精神史の基底にあったことを描き出す。主な意味をあげると、「対象を前にしたやせ細るような小ささ」―「恥ずかしさ・つつましさ・けなげさ」―「恥と優美の混合」―「素直さ・安易・無造作の派生」―「物静かさ・尚古趣味」―「心の美しさ(美的用語でありかつ倫理用語)」―「その場にふさわしい機知に富んだ対応・気働き・心遣い」―「自己犠牲をも含んだ思いの深さ」―「情け深さ・思いやり」―「他人への心遣いから嘘でも良く言い続けるようなやさしさ」などなど。
こうした「やさし」という言葉をめぐる倫理的伝統は、「誠」「清明心」「正直」などのホットな倫理の伝統に隠れて、これまであまり注目されてこなかった。ホットな倫理とは、心情の純粋性において全力で他者や共同体に関わろうとする自他の一体感と距離の排除を目指した「べったり」とした「甘え」の倫理である。「やさしさ」は、それとは異なり、自他の距離感を前提としながら、その場に応じた適切な振る舞い――ときには嘘をも含む――によって他者と関わろうとするクールな倫理なのである。
著者は、さらにこうした「やさしさ」の倫理に対するさまざまな哲学的考察を紹介し、そこにある種の宗教性を見て取る。それは、あらゆる生命と通いあい共振しあうような共生の感覚と、そのなかでのエゴイズム、情けなさ、恥ずかしさ、弱さ、傷への鋭敏な感覚、つまりある種の無常観、そしてそこから発する透徹した「いとおしさ」の感覚である。それは、閉じた共同体を形成するホットな倫理とは異なり、人間の普遍的様相へのまなざしという超越的契機を含んだものである。
著者が扱っている領域は、『万葉集』から「尾崎豊」へと多岐にわたっている。そのなかで、「やさしさ」に込められている意味はさまざまであり、ときにはまったく正反対と思われるものもある。そこから統一的定義を引きだす著者の手腕はなかなかのものだが、やや強引ではないかという印象も残る。とくに「ホットなやさしさ」と大平健によって称された旧世代のやさしさは、「誠」や「甘え」系統の倫理そのものではないか。また、そうしたホットなやさしさの観点から現代のクールなやさしさを危惧する論調をもっと真剣に受け止めるべきではないか。もっと大きな見方をすれば、「やさしさ」はホットにもクールにもなりうるもので、距離感と一体感とのあいだを往還する感情なのではないか。実際、哲学的考察のところで出てくる「共生」「無常観」「いとおしさ」といった各契機は、本来的一体性、その疎外、関わりの回復としてまとめられるのではないか。
だが、クールなやさしさの負の側面への批判が目立つ昨今の状況のなかで、クールなやさしさの積極的側面を発掘しようとする著者の作業は、新しい「やさしさ」世代にとっては、真正面からの批判よりも大きな教育的効果を持つものかもしれない。若者の「やさしさ」を逆手にとって、それをより普遍的で宗教性を持った思想へ導こうとする戦略が見え隠れする、と言ったら読み込み過ぎであろうか。
(堀江宗正)
「やさしい」の辞書的定義=1)上品だ、優美だ、2)素直だ、おとなしい、3)親切だ、情け深い
現代ヒット曲(93年版の歌本から)の用例の7割は3)の意味。
そのうち大部分が肯定的用例=傷ついている人を抱きかかえて癒す。
否定適用例も=見くだすやさしさ、見かけのやさしさ、甘ったれたやさしさ、ごまかすやさしさ
〜「やさしさ」へのアンビヴァレンツ
引用資料・ヒット曲の用例、太宰治、谷川俊太郎
半分趣味の世界ですが……
君が思い出になる前に もう一度笑ってみせて
優しいふりだっていいから 子供の目で僕を困らせて
(君が思い出になる前に スピッツ)
→「やさしさ」の演技性・距離性、はかなさ。
うそのようなやさしさがやがて思い出になると、きっとリアルになってゆく
はぐれ猿でも調子がいいなら 変わらず明日も笑えそうです
ふり向けば 優しさに飢えた 優しげな時代で
夢のはじまり まだ少し甘い味です
割れものは手に持って 運べばいいでしょう
古い星の光 僕たちを照らします
世界中 何も無かった それ以外は
(スピカ スピッツ)
→的確な時代把握。やさしさへのアンビヴァレンツも表現されている。やさしさよりも根源的で身体的なな「甘さ」。傷つかないように距離をとってやさしげに振る舞うよりも、傷つきやすいものなら素手で触れ合うべき――それによって自分も傷つくかもしれないけれど。シチュエーション:孤独だが明日も笑えるだろうと思って眠りにつく、意識が薄れそうなときに「甘い」思い出がよみがえり、さらに生まれる前の無の状態にまでたどり着く。あらゆる存在を見つめる、竹内言うところの「超越的なやさしさ」へ。
なまぬるい 優しさを求め
変わり続ける街の中で
終わりない 欲望埋めるより
懐かしい歌にも似た
甘い言葉 耳に溶かして
僕のすべてを汚して欲しい
正しいものはこれじゃなくても
忘れたくない 鮮やかで短い幻
(ホタル、スピッツ)
→ホタルの光、はかなくて消えてしまう。その場しのぎの妥協の産物である「やさしさ」よりも、懐かしい「甘い」記憶を忘れずに抱きしめてゆく。こっちの方が、「正しく」なくてもリアル。
cf. 朝日新聞の「抱きしめる」。歌詞の「抱きしめる」という言葉の対象が、かつては人が多かったのに、現在では「思い出」がトップに。