宗教文化論2
――宗教の多次元的解釈
宗教を政治・法・経済・言語・文学・教育・芸術・医学・心理学・科学技術・応用倫理という各ジャンルとの関連のなかで考察する。宗教が人間的事象のあらゆる領域をカバーしていたのが、次第に個別化し、特殊ジャンルに囲い込まれてきた経緯をたどる。そして、現代において、要請されている広義の「宗教性」が何であるかについて考える。
・宗教と政治――一体性から分離へ、聖と俗、世俗化あるいは世俗主義、宗教復興、相互対立と相互模倣の歴史
・宗教と法――習俗・慣習、自然法と実定法、主観的道徳、個別倫理の探究、共同性/公共性
・宗教と経済――贈与・交換と価値の生成、市場経済の成立、経済と道徳、消費とアイデンティティ
・宗教と言語活動――声の文化と文字の文化、神話と教典、近代文学の形成、物語と人生、経験の交換の現在
・宗教と教育――宗教と教育の分離、イニシエーション論による相対化、現代社会におけるイニシエーション
・宗教と芸術とスポーツ――美とは何か、共通感覚と趣味判断、遊びと儀礼、消費社会における遊び
・宗教と暴力――供犠、儀礼的戦闘、近代戦における尊厳の消滅、供犠と殉教とテロリズム、武道、苦行
・宗教と医学・心理学――癒しの歴史、宗教的治療の諸相、世俗的医学の成立、治療と癒し、精神医学と心理療法
・宗教と科学――宗教・呪術・科学の三類型論、呪術と技術、科学とコスモロジー、応用倫理問題への応答
・結論――宗教史の再構成の試み、ベラーの宗教進化論の再検討
20011010
宗教と政治
原始宗教における祭祀王
シャーマニズム=託宣。中国における亀甲・獣骨による占卜。卑弥呼。
王の権力の低さの例として「王殺し」
農耕の発見、富の集積、権力の発生→古代宗教
祭司(聖職者)と王権の相対的分離、王権の宗教的正当化→部族宗教、民族宗教
民族を越えた世界宗教の発展→「歴史宗教」とも(文字による伝播・伝承)
世俗権力からの独立。しかし「国教」という体裁。宗教自体も権力に。聖と俗の緊張
キリスト教の場合
イスラムの場合
仏教の場合
西洋における「世俗化」の進展(世俗化:本来は教皇領が世俗君主の領土になること)
宗教改革→教会権力の弱体化、信仰の個人化=初期近代宗教
宗教の公的領域からの撤退。
フランス型の政教分離:フランス革命後、カトリック勢力の排除を目指す。
アメリカ型の政教分離:信教の自由を保証するためのもの。宗教勢力は排除しない。宗教の多元性
世俗主義イデオロギーの成立
公教育の浸透、宗教教育より優位に。「国民」の成立。
国民としてのアイデンティティのほうが宗教的アイデンティティよりも包括的に
権力は宗教による正当化を必要としなくなる。国民→代議士→法の制定=宗教なしの法の支配
宗教も法の支配下に。宗教は管理・統制されるべき対象に。
実体的「宗教」概念の成立。教義と施設と信者が明確なものが宗教。
信仰の内面化と相まって、宗教は「教え」中心に。
近代国民国家体制の模倣にともなう世俗主義の輸出
日本の場合、国家神道は宗教ではなく、宗教を超えているとされ、「宗教」はその管理下に。
宗教とは内面の問題で公の場で布教することは好ましくないという発想→現代日本人まで。
このとき「宗教」という言葉が religion の訳語として使われるように。
宗教復興
アメリカにおける1980年代からのキリスト教保守派の巻き返し。道徳的退廃に対する反動
イスラム諸国における「原理主義」運動。
西洋列強→傀儡政権→石油のみに頼った産業構造と貧富の差
イスラム共同体の確立
相互利用と相互対立と相互模倣の歴史
キリスト教と古代ローマ帝国の対立
→国教化・相互に正当化→聖職者のヒエラルヒーの成立=世俗権力の模倣
→国民国家の成立=教育を通じての内面からの支配=宗教代替的機能
→宗教復興=宗教が近代国家の官僚的体制を模倣する傾向、民衆の支持を組織化して政治的圧力に
原理主義における教育の重視、識字率の向上による聖典の影響力の増大、メディアの利用
20011018
宗教と法
習俗・慣習→掟=慣習法(法と道徳の連続性)
法の伝承→神聖不可侵性(タブーなど)
祭政一致→立法者、裁判官、法律家などはいない。
神盟裁判(たとえば盟神探湯くがたち)=呪術的な裁判、神の意思をうけて罪科や訴訟を決定する意から行われた裁判。正直は神の加護を受けるとの信念から出たもの。しかし、訴訟による争いを抑制する機能も
法=神意(神の法は道徳を超越するという考えに)〜法はその生成からして超越的なもの
訴訟を通じて法が発見される。集団内で解決できない問題は神意としての法に回答を求める。
ユダヤ的律法=神がモーセという預言者を通じて人間に与えたもの→社会的規範に
キリスト教の登場:神の法→内的道徳=社会的道徳を超えるもの(ユダヤ的律法の批判)
トマス・アクィナス:永遠法→自然法(永遠法が自然本性に刻印されてできたもの)→各集団の人定法へ
人定法=市民法(ローマ法)+教会法
中世ヨーロッパにおける集団主義(神明裁判なども)と法の地域的分裂
→ローマ法(合理的、個人主義的、先例による技術的洗練)の再評価
市民革命後のヨーロッパ大陸各国での立法に影響
ゲルマン法→イギリスの判例法/絶対主義的王政→権力による支配ではなく法の支配
陪審制・自身保護法など。慣習法との連続性
近代自然法思想〜神の摂理に変わって人間の自然本性や本来的な理性を基盤に
ホッブズ:自由きままな自然権への歯止め→絶対王制の必要性
ロック:各人の所有権を保護する理性の法〜社会契約説という近代的神話への接続
自然法思想への歴史主義的批判→歴史が法を作る=大陸法の立場
ハイエク:自生的秩序としての法=人間が作ったが個人を超えている(自然法と歴史主義の総合)
近代における主観的道徳と普遍的な法
民主主義的な国家の定める実定法、法による支配。個人→立法→個人の規制(個人と法の循環)
宗教は排除されてゆく。法は宗教を統制するもの、信教の自由を保障するもの、両面的
インドにおけるダルマ:慣例→行為規範・祭式規定→徳・善
仏教における法:存在、教え。存在の法則にのっとった生き方。
中国:法家の「法」(性悪説に基づいた罰則規定)と儒家の「理」(人間が従うべき自然の理法)
→東アジアでは宗教的な意味合いの法と世俗的法の分業
イスラム法(シャリーア)←コーランの解釈から成立。共同体の法は神の法に一致すべき。
東洋:分離。西洋:一致→分離。イスラム:一致。つまり現代世界ではイスラムだけが一致路線。
国家を超えてゆく法〜国際法、人権宣言。人権宣言には自然法的発想も。
生命倫理、環境倫理の要請。一国主義や当事者主義では解決されない問題。
共同体内の道徳を超えるものとしての倫理の要請。
道徳を超える発想を提示してきた宗教はどうからむか。しかし、共同体に引きこもる宗教ではダメ。
20011024
宗教と経済
定常経済〜過少生産構造
必要な分だけ生産。環境への負荷が少ない。散発的・断片的。少ない労働時間で豊かな生活。
経済行為としての宗教的儀礼
タブーによる貴重な材の保護、祝祭のときに奉献、享受。ex. 正月と餅・酒。トーテミズム。アイヌと熊
ともに何かをすることによって生まれた財をともに分かち合うことで連帯を強める。財=集団の象徴に。
贈与・互酬の社会
等価交換との違い=一方的贈与、長期的に見れば互酬。貧富の差の拡大の回避。気前のよさが徳。けちは悪。マオリ族のハウ=贈り物についている力。お返しの際のプラスα。ハウは流してゆくことで活性化。ハウをため込むと、ハウによってたたられて、病気や死に。人を生かす力の象徴=経済的宗教的概念
求心的権力による再分配:権力=非互酬的、一方的交換。以下にして、財の集中を防ぐかが宗教の課題に。
布施・喜捨・寄進・寄付
→権力の再定義。独占を奉献に。カトリックにおける教会への寄進の奨励。プロテスタントを経て、経済活動が個人化、宗教は経済に関わってはいけないという観念。
仏教:布施。在家者の重要な修行。返報を期待しない布施は、空への道
イスラム:喜捨。過度な貯蓄は肯定されない。喜捨は、神への帰依の行為。
「本当に信仰して善行に励み、礼拝の務めを守り、定めの喜捨をなす者は、主の報奨を与えられ、恐れもなく憂いもない。」(第2章277節)「これは英知の啓典の微節(印)であり,善行に勤しむ者への導きであり、また慈悲である。礼拝の務めを守り、定めの喜捨をなし、また、来世を堅く信じる者たちへの(導きであり慈悲)である。これらの者は主の御導きの許にあり、かれらこそは成功する者である。」(第31章2〜5節)
経済倫理
アリストテレス:分配的正義、徳。
トマス・アクィナス:経済は人格の実現と社会の共通善の実現のための手段
アダム・スミス:利己的活動の肯定、しかし「神の見えざる手」としての市場メカニズム。また公平な第三者による共感という倫理的基準。自由主義経済へ。
プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神
予定説、神の栄光の担い手であることが救いの確証。個人の経済行為の肯定。しかし、利己性を否定。消費ではなく蓄財→資本の本源的蓄積。私有財産の宗教的意味づけ。
象徴としての貨幣〜信頼によって成り立つもの、非実体性。象徴としての財との連続性
市場経済と交換、市場的パーソナリティ〜労働力という概念。人間の商品化。さらに人格の商品化。
消費社会の登場〜顕示的消費、消費を通じてのアイデンティティ構成、表現的個人主義
社会構造 対称性 中心性 市場性
経済総合パターン 互酬 再分配 交換
交換中心の市場経済のグローバル化、地球の限界、定常経済の再評価
貧困と宗教〜定常経済の侵食によって作り出された貧困、定常経済への回帰を目指すメシアニズム
資本主義・マルクス主義・イスラム主義、不当に収奪したものからの財の奪回。宗教と教育
「共同的実践:ともに何かをすること」(=仕事=生)を学ぶということ
事例:ユカタンの産婆の徒弟制
現代の産婦人科医の教育プロセスとの比較
三段階の図式
1共同的実践内での伝承<2イニシエーション儀礼(伝承の秘儀化)<3現代教育を通じての社会的地位の獲得
イニシエーション(加入儀礼、通過儀礼)
ある社会的地位から別の社会的地位への移行を助ける儀礼
例:聖職者の叙任、僧侶の得度(俗から聖へ)、七五三(幼児から労働可能な子どもへ)、成人式(子どもから大人へ)、結婚式(子どもから親へ)、葬式(生者から死者へ)、その他、入学式、入社式
秘儀的なイニシエーション
日常生活からの隔離→試練を経る期間→日常生活への回帰
アイデンティティの実質的変容から社会的地位の形式的変容へ
社会秩序の分化・複雑化への対応。地位の移行は、秩序の流動化につながる。移行を安定させるための儀礼。地位の確認、社会的統合へ
人生における段階から段階への移行、人格変容、生き方の決定的変更を迫る
試練を含む死と再生の儀礼によって、新しい人間になったことを演出
宗教的イニシエーション=俗人としての死、聖職者としての再生、救済・解脱としての意味づけ
cf. 修行・苦行
イニシエーションから教育とモラトリアムへ
教育:長期間にわたる体系的修練に→「子ども」という段階の設定。白紙の状態から「良い人間」へ
半人前・インターンの時期→本格的な職業への従事を免除される青年期の設定
教育を受けたことの認定に、イニシエーションの残滓。イニシエーションの形式主義は引き継がれる
モラトリアムの拡張
社会の複雑化、仕事に要する技能の高度化、職業選択・職業準備期間の長期化。
モラトリアム状態の理想化=自由、新しさへの関心→まじめ人間、「まじめな宗教」(伝統宗教)は敬遠される。思想・信条・ライフスタイルのつまみ食い
イニシエーション消失=人格変容の文化的装置の消失
人格変容の三つの様式→
1制度的人格変容(学校、キャリア)
2自発的劇的回心(自然な回心、家の信仰の引き継ぎではない)
3病理とセラピーを通じての人格変容
20011115
宗教と言語活動
声の文化と文字の文化
W・J・オング『声の文化 文字の文化』(藤原書店)
マクルーハン『グーテンベルクの銀河系』(みすず書房)
宗教史との絡み
言葉の聖性・呪術性
「マナ」の事例
「呪文/語の反復・読経/祈り」〜操作/体験の喚起/告白と懇願〜外面性/内面性/対話性
神話の語りの儀礼性
一時性、反復、意味内容より形式、記憶の容易さ、変わりやすさ、即興性、聴衆の重要性、
文字の聖性・呪術性=伝承可能性、超時間性
cf. 甲骨占い、漢字の起源、神聖文字
教典の形成、正典化
時代の経過→古典語と口語の差異、聖職者=知識人と民衆の分化、直解主義と非神話化
言葉の世俗化
宗教改革と活版印刷、ルターのドイツ語訳聖書、数百の方言から少数の近代語の成立、国民アイデンティティの成立
新聞と小説の誕生と文字の文化の浸透
すべてを見渡せる読者、本や新聞の中に客観化された世界、個人主義の基盤。
他者とのその都度の一時的コミュニケーションのなかで即興で演じられる未分化なアイデンティティ
→日記・手紙・伝記との相互作用のなかで連続性と一貫性が追求される内面的アイデンティティ
→複雑で断片化した対人関係のなかで演じられる仮面としてのアイデンティティ
文字メディアの衰退
小説の衰退、文学の衰退、マンガも後退気味、テレビの視聴率の低い若者、パーソナル・メディアの発達
近代:モデル化された虚構の物語を大衆が同時に受容し、それによって画一的な個人が内面から生成する、社会的場面との分裂、抑圧的自己。
脱近代:選択された排他的対人関係における経験の交換、プライヴァシーの閉鎖と開示、解離的自己、他者を巻き込まないと自己の感情が統制されない。
セラピー言語の登場
祈りの水平化、苦悩の告白と懇願としての祈り、祈りの対象の喪失、聴取される独白、自己の再構成
cf. 新宗教教団における体験談発表、集団カウンセリング、積極的な言葉による自己暗示
宗教的祈りとセラピーの比較
旧約聖書外典「マナセの祈り」と、フロイトの「ルーシー・Rの症例」
内面の苦悩→言語による外面化→救済/解放
20011129
宗教と芸術
芸術の起源としての舞踊
動物のダンス
ハチのダンス、「鶴の舞い」(求愛ダンス)、求愛ダンスは昆虫や鳥類に広く見られる。
ダンスのパターン:輪舞、楕円舞踊、旋回舞踊。ステップを互いに合わせる。リズム。
本能的、コミュニケーションの手段(鳴く・ほえる以外の)
人間と動物の違い
1高度な情報を伝達する言語
→意味内容と表現形態の相対的分化(文字が出てくると決定的に分化)
ダンスは意味内容から自由に、表現形態それ自体の感覚的快楽=「美」
2本能より学習が優位に
人間以外の他の動物の動きの模倣→動物の超人間的力を自分の身体に宿らせる
身体による学習
「芸術」の発生=身体化された技を通じての美の表現。
その場合、技が表現する直接的な意味内容ではなく、その形式それ自体が喚起する間接的な感覚的快楽が美である。したがって、美とは何かということは、言い表すことができない。
しかし、芸術は広義の言語と深く関係する。技は伝達され学習され模倣され、集団の中で伝染してゆく。美の感じられ方そのものにも一つの型がある。美を感じるものはそれを模倣し、みずからも美を体現しようとする。美そのものは狭義の言語の余剰であるが、芸術はすぐれて社会的な広義の言語活動である。
→音楽(詩のあるもの、ないもの)
諸芸術の派生:ダンス→ドラマ/プレイ(劇=遊び)→神話語り→文学(詩・物語・教典・小説)
→装飾品・服飾・彫刻・絵画
→神殿建築
→現代における総合芸術としての映画
美と聖なるものの共通性
「他なるもの」「道のもの」を前にして起こる畏怖と魅惑の感情
表現における分裂
→「美=聖」を引き起こした他者の直接的表現=神学的概念化=神・霊観念の洗練へ
→「美=聖」の感情を別の何かに託して間接的に表現
この分裂の傾向は、文字の登場によって促進される。言語の一義的意味とその夾雑物との二分法
「宗教芸術」において、芸術は宗教に従属
近代における純粋芸術の理念=芸術の自立への志向
ヘーゲル:宗教から図像的思考を排除して、哲学による絶対知へ
ベンヤミン:複製芸術の登場、芸術作品からアウラが消えた。聖性の喪失。
民衆芸術が大衆芸術として拡大生産。芸術産業の市場の成立。ポップ・アートにおける芸術の画一化
ヨーロッパにおけるレイヴの社会現象化。芸術におけるトランス志向の顕在化
非日常性の演出、孤独な群衆の共通感覚の現出、高等芸術の衰退
心理療法におけるボディ・ワークの隆盛〜意味内容ではなく、表現形態としての身体の操作による変容
20020117
宗教と戦争
注意:「戦争の道徳的断罪」(戦争はあってはならない悪いもの)をとりあえず括弧に入れてみる(否定ではなく)。そのうえで、戦争の機能や宗教性にも目を配る。
動物における攻撃性〜他の動物を食べること+同類間の対立(ときには共食い)
しかし多くの場合、共食いや、致命的打撃は、本能的にセーヴされる
「攻撃/抑制」いずれも本能→人間においては文化的な型に
=「より効率的な戦闘技術・集団動員/戦闘を抑制するか平和的なものに変形」
→国家の成立=「外部への攻撃/内部における抑制」→「戦争」がもっとも妥当(殺人と外的殺傷の区別)
歴史の進展、社会の規模の拡大とともにエスカレート
戦争は、技術革新と経済の活性化と国家形成の触媒に。国家は戦争のための機関とすら言える
原始的戦争の機能
〜集団間の力の不均衡・不平等→戦争
・資源だけでなく人間も殺傷・略奪。人口の少ない集団が人口の多い集団から女性を略奪
・地域における人口過多→対立感情の増大
→戦争による人口削減、あるいは土地略奪による人口密度の低減
・集団内犯罪の抑止
・一時的な勢力均衡
原始的戦争:狩猟の延長線上にある。敵は殲滅すべき。少数の戦闘集団が豊かな社会を略奪・平等主義。
古代の帝国戦争:強大な国家が弱小国家を併合。強いものはどんどん強くなる。不平等
封建時代の貴族的戦争:遊戯化、儀式化。「卑怯」な武器や戦法の相互規制、犠牲者が極端に少ない
近代以後の帝国戦争:平民の徴兵。総動員。非戦闘員の犠牲拡大。
戦争の宗教性と反宗教性、あるいは宗教の暴力性と平和性
・供犠=集団内の対立感情をある対象にむける。
悪いことが起きる→犯人を仕立てる→全員で排除・抹殺→集団の連帯が高まる。
神に捧げる人身御供として宗教的意味づけ→動物、財への置き換え=供犠に
供犠の発想が集団間に拡大→戦争(cf. 自爆テロ=殉教であり、供犠であり、攻撃でもある)
・神話=戦争と建国の表象。戦争は集団の再編成の契機。ある集団が死に、別の集団が誕生する
戦争がある国家の存続する時代の切れ目を作る。戦争から創造神話と終末論が生まれる
・祭り=創造と破壊の模倣→本当の戦争がないときに、戦争を模倣的に反復することで、集団を刷新
戦争の主体は英雄→のちに神格化。英雄は戦争においてこそ、その卓越性を誇示しうる。おごった英雄は神に滅ぼされる
・武芸試合、スポーツ、オリンピック(ポリス間の休戦)〜戦争の代替物、勝敗の中に神意が現れる
・戦争自体の儀式化・遊戯化
・古代の帝国戦争の激化。奴隷の増大。戦争への宗教的反対。民族を越える世界宗教の条件に。
しかし、善悪二元論の強い宗教は、宗教間戦争の余地がある。善悪を超越しようとする仏教はのぞく。
宗教が戦争を生むのか、戦争のなかに宗教性があるのか。
第二次世界大戦中のアメリカ兵士の大部分が、祈りによって恐怖を緩和していたという調査
戦争という極限状況で、宗教が熱望される。
「経済的、政治的背景を持った、民族間の対立感情は、もともと平和的な宗教とは関係ない」ということは、どこまで言えるか。