宗教心理学特講1(2001)
堀江宗正

テーマ=心理学的現代社会論における禁欲と全体主義

シラバスから
 宗教心理学に関わるような心理学者たちが残している社会評論的な文献を見てゆく。とりわけ、ヴィクトリア朝の道徳と精神分析、心理学と全体主義の関係に注目する。そこから、前提とされている理想的な社会的関係を導き出し、それが世俗化の進んだ社会において、宗教の代わりになることができるかどうかについて考える。

授業計画
1 フロイトの近代社会論
「「文化的」性道徳と現代人の神経過敏」〜近代社会と性道徳と神経症
「ドストエフスキーと父殺し」
「ある幻想の未来」〜ドストエフスキー論から宗教論へ、欲望の解放から断念へ
 考察・宗教史と禁欲主義と心理療法

2 ユングと全体主義
 内向/外向、ペルソナ、個性化、集合的なものと社会
 ナチス関与問題、「ヴォータン」神話の分析
 ロマン主義と全体主義の関係
 ユングの全体主義批判、ノイマンのスケープゴート論
 考察・善悪二元論からの脱却、道徳から倫理へ

結論
 禁欲から<欲望のケア>へ、他者性の倫理、<宗教>に代わる倫理か、その問題点は?

評価の仕方
・出席3割、平常点3割、学期末レポート4割の配分で評価。
・出席:7割以上の出席は必須。大幅な遅刻者には注意、出席カードを配らないことも。居眠りのひどい人からは取りあげる。
・平常点:毎回の授業の終わりに、出席カードの裏に自由提出でコメントを書いてもらう。配付プリント末尾の「論点」を参照する。授業をよく理解したうえで自分の意見を論理的飛躍なしに述べているもの(別に私の意見に反対でも)だけを評価する。授業内容の単なる要約や、漠然とした感想(〜というのはなるほどと思った、〜というのはどうかと思った、〜はよく分からなかった)、授業を聴いていなくても常識範囲内で書けるようなコメントは、評価しないので、自信のない人は最初から書かなくてもよい。ただ書いただけでは点数にならないということに注意してほしい。このコメント平常点は、授業参加度・理解度をごまかしなしに測定するもので、成績の出来不出来を左右する。
・学期末レポート:授業内容全体に直接関係するようなテーマを各自自由に設定して、1500字程度でまとめる。テーマ設定は難しいし、これがレポートの出来を左右するので、前もって教官にテーマの是非をきくのもよい(「こんなテーマでもいいでしょうか」など具体的に自分で考えてきてほしい)。部分的にしか関係しないテーマ、間接的にしか関係しないテーマのレポートは、不可になる。また、授業内容の要約、短すぎるもの、意味不明のものなども不可。プレ講義アンケート

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1 あなたがこの大学で受けた講義のなかで面白かったもの、心に残っているものについて教えてください(「面白い講義の条件」のようなもの)。

2 大学の講義で何を望むのか、希望している進路と大学での勉強をどう関連づけているのか、教えてください。

3 宗教学・比較文化の分野で興味のあること、勉強してみたいことをいくつか書いてください。

20010417
1 フロイトの近代社会論
「「文化的」性道徳と現代人の神経過敏」〜近代社会と性道徳と神経症
〜1908発表、人文書院『フロイト著作集10』所収。

エーレンフェルス『性道徳』の二類型
「自然的性道徳=健康な種族繁栄へ」「文化的性道徳=文化的創造のためのもの」
フロイト〜現代社会における神経症の増大は文化的性道徳の厳格さに原因がある。
複雑な社会生活(ストレス)に原因を求める諸説の紹介〜これよりも自説の方が妥当であることを論証
人間の性欲動=固定的発情期がない。コントロールの必要性。他の目標への振り替え=昇華or固着
「欲動の抑圧→文化」という図式。宗教によって禁欲として神聖化。
欲動発達史の3段階=1)すべて自由、2)性倒錯の禁止、3)一夫一婦制への限定(現代)
 しかし、コントロールには限界。ある程度の欲求満足が必要。

現代の文化的性道徳の特徴
結婚前の禁欲〜教養階級の男性は、[高学歴化のため]職業に付くのが遅い
結婚後も多産の制限[経済的理由から。避妊具が未発達なので禁欲に]、夫婦間の愛情が冷める
女性は子どもを性的対象の代用品とし、男性は外へ。
子どもの成長とともに女性は結婚生活への失望に直面。結婚前に厳格な性道徳を強いられてきた女性は、姦通よりも神経症を選ぶ。

女性の性的抑圧、性的問題に関する思考停止、女性の知的能力の抑圧とも関連。
[フロイトの患者が知的な女性であったこととつじつまがあう。思考停止できなかったので神経症に]
参考資料・初期フロイトの症例、エリザベート・フォン・R嬢の症例
禁欲の長期化と自慰の必然性。女性の不感症。(外にでる男性は)性病感染を恐れ正常な性行為を忌避し、倒錯行為へ。性交の遊戯化
子どもへの過度の愛情、性愛欲求のはけ口、しかし子どもが性に目覚めることは押さえつける。子どもも慢性的神経過敏に。

現代の文化は快楽主義と完全に縁を切ったわけではないので、厳格な文化的性道徳は矛盾を引き起こし、最終的には生活感情の不安、生享受能力の機能障害、人生を賭けた目的遂行の消失、出産の忌避へ。
文化的性道徳の改革の必要性を訴える。

cf. 快楽原則(欲求の直接的満足を目指す)と現実原則(現実適応を優先させ、欲求の間接的満足の道を探ろうとする)。欲求満足の引き延ばし、現実適応や高度な文化の形成にとって必要。
用語解説として
「昇華」「固着」「禁欲」の事典項目

論点
・フロイトの説は、現代社会に当てはまるかどうか。当てはまらないとしたらどこが当てはまらないか。どのように修正したらよいか。
ヒント 性道徳の変容、避妊具、快楽主義、人生設計、目的達成の長期化、究極的目標の喪失

参考文献
・マルクーゼ『エロス的文明』(紀伊國屋書店)〜性欲動の解放と政治的解放を一体的なものとして主張し、新左翼の理論的支柱となった。
・宮台真司の一連の著作〜現代版フロイト? 輝きを求めず、まったりと生きる。

20010424
コメントはなかなか難しかったようだ。そこで前回の論点を解説。
「文化の発展には欲動の抑制がともなう」=フロイトの中心テーゼ、前回の論文では性欲動が中心、より後期になると破壊欲動が中心に。
性的解放が進んだ現代にも当てはまる点
 破壊欲動の問題(キレる現象)
 現代人の自己実現:欲動の長期にわたる抑制と努力が必要、にもかかわらず人生の最終目標なし
 「輝きを求めるよう促されているのに、慢性的に欲求不満」(by宮台)
 補償手段としてさまざまな短期的快楽充足=代理満足
 物質的消費でも満たされなくなってきており、今後ますます人間関係が欲望されるように

セラピーは欲動にどう対処するか
 抑圧せずに、否認せずに、直視する。
 しかし、それだけでいいのか。「分かっちゃいるけどやめられない」はどうするのか。
 無意識的なものに抑圧せずに、合理的な理由から意識的に断念すべき、抑圧ではなく断念

「ドストエフスキーと父殺し」(1928年)
ドストエフスキー=道徳的マゾヒスト
 =道徳的に処罰されたい→罪を犯す→後悔(それが快感)→また罪へ
ドストエフスキーに対する通常の道徳的評価=過失や苦悩を通過したうえで、人間の罪深さを自覚
フロイト「道徳性ある人間とは、誘惑というものに屈服することのない人間を指す」
ドストエフスキーは断念ができなかった。
 実際に罪を犯す=サディスト的満足(賭博癖、未成年少女の強姦、親しい者への短気や不寛容さ)
 →自分をののしる=マゾヒスト的満足(周囲に対してやさしい側面も)
 それを犯罪者的な登場人物を借りて告白することで文学的に成功

強烈な情動性、サド・マゾヒズム的な倒錯的欲動体質、芸術家としての天分という三つの要素、この三つを同時に成り立たしめているのは重症のヒステリー癇癪という神経症の存在

ドストエフスキーの癇癪発作
幼児期においては穏やかなかたち、18才の時の父親の殺害事件のあと顕著に
癇癪という仮死状態の発作=死んだ父親との同一化+父親が死んでしまえばよいと思った自分への罰

自我は死んだ父親としてマゾヒズム的な満足を享受
超自我は罰する父親としてサディズム的な満足を享受
サディズムとマゾヒズムの併存は、ドストエフスキーの両性具有的な素質によって説明

政治犯として無実の罪に問われたとき、不当な刑罰をも、慈悲深い父なるツァーの手から謹んで受けた

宗教の領域においては信仰と無神論とのあいだを彷徨
キリストの理想のなかに、一つの活路と罪からの解放とを見ようとする。
自分の苦しみ=キリストの苦しみとして理想化

私の見方=精神分析の自己批判としてのドストエフスキー論では? cf. 夏目漱石「文芸と道徳」
 欲動の分析・自覚だけでは不十分
 父なる神からの断罪を甘受=欲動の昇華?いやマゾヒズム的転換
 父なる神なき世界における精神分析の役割は? 新しい道徳的ビジョンは?

20010508
Q&A
・抑圧と断念の違いがよく分からなかった。願望の抑制という意味では同じことなので、断念のつもりでいてもどこかで抑圧が起こっているということはないのか→抑圧=願望を無意識的なものにすることで抑制、しかし代理表出としての症状をともなう。断念=願望を意識しており、またそれを表現することが可能ではあるが、行動には移さないでいること。重要なのは、行動に移すか移さないかということ。この点では抑圧とはっきり区別できる。願望を意識化すれば、症状から解放されると考えたのが、従来のフロイトだった。ところが、ドストエフスキーは罪を自覚していながら、それを犯さずにはいられなかった。つまり断念ができなかった。その背景には、処罰欲求という道徳的マゾヒズムがあった。この処罰欲求は、無意識的に抑圧されたメタレベルの願望と言えるかもしれない。

「ある幻想の未来」〜ドストエフスキー論から宗教論へ、欲望の解放から断念へ

ドストエフスキーとキリスト教の親和性
罪の自覚〜原罪、人間からは払拭しがたい罪(cf. 「原罪」の事典項目)
キリストは人類の罪を代わりに背負うことであがなった
罪を自覚して、それによって起こる苦しみを苦しみ抜くことは、キリストと一体化すること
=罪から逃れられないことの正当化

フロイトの見方
「恐ろしい父なる神/罰を受ける子ども」→「超自我/自我」として内面化(cf. 「超自我」の事典項目)
 キリスト教は、儀礼や懺悔によって罪の自覚化をうながしその苦悩を軽減してきたけれども、そうすることでかえって道徳的マゾヒズムを助長し、罪へと向かう欲動を実際に断念して真の道徳性を確立するよう信者を導くのに失敗してきた

cf. キリスト教神学者ならどう答えるか。パウロ「律法がなければ私は罪を犯すことがなかったでしょう」=厳格な道徳的規範が、人間のなかに葛藤を引き起こし、逆にそれを破りたいという欲望を形成することを、キリスト教は実は見抜いていた。原罪とは、人間の自由・自立によって起こる不調和。知恵の実、善悪の判断。ただ神の命令に従うだけでなく、自分の判断で善悪を考えなければならなくなる。具体的な罪は、あくまで人間によって規定される。キリスト教の目標は、人間を不自由にして神に隷従させること(楽園への回帰)ではなく、神のような知恵を持ってしまった自由で自立した人間が、にもかかわらず神と離反せずに、愛ゆえに神と和解すること。そのための仲介者がキリスト。キーワードは愛。次回のエロス論へ。

フロイトの宗教論
原始人:自然の脅威の前に無力
→自然力を神々の仕業とする、呪術的儀式によってなだめすかす
→そのなかから自分たちを愛し守ってくれる神を信仰=単に恐ろしいだけでなく守ってくれる存在
〜幼児にとっての親イメージを投影することによってできた神表象
科学の発達→自然の脅威は科学技術によって解決
→神には道徳的調整者としての役割だけが残る
しかも、上記の道徳的マゾヒズムの問題
他方、大衆の間には、自分たちの欲望を押さえつける文化に対して、慢性的な不満がある。
世俗化は、自分たちを縛りつける存在がいなくなったこととして解釈されうる。
「神が罰するからという理由で殺人を犯さないものは、神がいないとなればたやすく人を殺すだろう」
破壊欲動を合理的な理由から意識的に断念することの必要性
Q&A
 すべて質問。以下のもの以外は、個別に答える。
Q「人を殺してはいけない」の合理的理由はあるのか。万人共通か。それがないと、破壊欲動の断念はできないのか→フロイトがあげている理由=人間社会・文化が成り立たなくなってしまうから。しかし、多くの人間が人を殺していないのは、合理的理由からだろうか。そこで、フロイトは、以下のように思考の転換をはかる。

戦略1:欲望←断念か抑圧、「あいつをやっつけたいが我慢する」
戦略2:利己的欲望<利他的欲望、「傷つけあうより仲良くしたほうが幸せ」

「文化のなかの不安」〜死の欲動の問題、エロスへの希望、欲望から希望へ

「ある幻想の未来」のなかの気になる箇所
 「人を殺したいが、神に罰されるのが怖いと思っている人は、神などいないと分かれば簡単に人を殺す」
 「真の信仰者は、私の批判などではびくともしない。なぜなら神と愛によって結ばれているからだ」

人間の欲望/神の命令
→私の望みが、神のみむねにもかないますように

子ども:好きなことをしたい/親:ダメ!
→親が良くないと思うことは自分も良くないと思う。親の同一化=超自我の形成。親のようになりたい。

親は最終的には自分を愛している。理不尽に思える「ダメ!」という言葉も、実は自分のため。その意味を知るということ。そして、納得。親との同一化=超自我形成に

キリスト教の場合、「神のようになりたい」という表現はないが、「キリストのようになりたい」という理想はある。
「神―人」距離がありすぎる。欲望に関する対立のほうが目立つ。原始的。権威主義的関係
「キリスト―人」キリストは神であり人でもある。キリストならより人間的。神の人への愛=キリスト。人を愛することによって、人はキリストと同一化、神に近づく。キリスト教以降。愛ある権威への希求。
「人―人」愛の根拠を神やキリストに求めなくても自然に愛する。神やキリストは意識されないが、愛の実践はある。現代以降。権威などにこだわらずに、他者のためにありたいと思う。

「〜したほうが良い」「〜するべきだ」という道徳ではなく、
「〜したい」という欲望を「他者のためにありたい」という根本的欲動(エロス)と調和させる。
エロス=性愛にとどまらない、調和の取れた姿で一体化したい。自律と共生の両立。欲望の相克を乗り越える原理に。

欲望=近視眼的、一時的・一方的・個人的な快楽の直接的充足を目指す
希望=より遠くを見る、長期的・相互的・集団レベルの幸福を、広い社会的文脈のなかで実現しようとする。

欲望を押さえつけるのではなく、希望へと修正することのほうが、文化の形成には望ましい。

20010522
Q&A
や「エロスとは性欲のことかと思っていた」→それで構わない。フロイトにおいては性欲は非常に広い意味で、他者への欲求一般。汎性欲説として非難される。が、他者と関係をもっていたいという欲求の普遍性を意味するもの。
は「欲望を希望へ修正するということは、結局「断念」と同じ作用なのでは?」→たしかに作用は同じ。しかし、プロセスはまったく違う。欲望をそのまま充足しようとすると、他者に破壊的作用をもたらす。他者と不調和な関係に陥ると、結果的に欲望の充足すら危うくなる。自己の欲望の充足を他者との社会的関係の文脈のなかで実現するという選択肢がもっとも現実的になる。
た「利己的欲望が本来は快楽ではなく幸福を希求する性質のものだと考えればよいのでしょうか。そう考えると利己的欲望というものは利他的欲望という高次の段階へと移行するという意味になるのでしょうか」→その通り。人間は相互依存的関係のなかにあるので、利他的であることが、利己的欲求をもっともよく満たす。
は「みんなが「傷つけあうより仲良くしたほうが幸せ」と思うことはまったく素晴らしいが、「絵に描いた餅」的な理想論だ。「幸せ」の基準があやふやになりそうだ」→理想論だが楽観論ではない。エロスはそれを実現しようとすると、どこかで必ず意図せざる結果としての自己破壊的帰結を生み出してしまう。このような徴候を分析し、エロスの障害を取り去ってゆくことで、やっと理想的な姿を希望することが許される。こうすれば必ずよい結果を生み出すというような答えはない。明確な理想は提示しない。明確な理想や幸福の基準があって、それを目指そうとなると必ず押し付けになる。したがって、幸せの基準はその場その場で負の結果を考慮しながら暫定的に探究される。明確な規範があって、それを順守する義務があると考えるのが道徳で、状況のなかでより良い生き方を探究するのが倫理。
し「分析できないことが世の中にはあると思う。それが今後重要だと思った」→分析不可能なこととは具体的に?
の「欲望を修正できない人は、どうしてもいるのではないか。その場合、やはり社会的規範によって抑圧するしかなく、そうすれば結局不適応的行動に走る人も出てくる。したがって、フロイトのように宗教を抜きにして考えるのには限界があるのではないか」→フロイトの場合、エロスに頼ることがダメなら合理的根拠による断念(倫理ではなく道徳)が最後に立ちはだかる(断念は無意識への抑圧ではなく行動の規制<は)。しかし、合理的断念も無理という人には、宗教的な脅しが有効ではないかというのが質問の趣旨。ちょうど幼児に頭ごなしにダメといわなければならない場合があるように。それはおそらくその通り。では、宗教的信仰や道徳性が衰退しつつある現代で、具体的にどのように宗教的禁欲が考えられるのか。あなたはどう考えるのか。

考察・宗教史と禁欲主義と心理療法
大きな流れ=欲望の否定から欲望のケアへ

歴史宗教(キリスト教や仏教など)における禁欲
 現世で生きることの苦しみ、悪。その原因は人間の欲望にある。欲望を消し去ることで、人間はきれいになれる。神によって、苦難・悪から救済されるための条件は、人間的欲望から離脱すること。神の創造した世界なのに悪があるのは、人間が欲望にまみれているから。そこから離れれば、救済が近づく。そこで、禁欲。現世内ではできないので、出家して修行。

プロテスタント以後。
 誰もが信仰によって救済される。出家しない人も、世俗内禁欲(ウェーバー)。一般人は現世の生活を離れるわけにはゆかない。しかし、快楽を追求するわけにもゆかない。消費なき蓄財によって神の栄光を経済的成功というかたちで実現する。そのような栄光の実現の担い手であることが、間接的に救済の確証に。大きな目標を実現するために、自分の欲望をコントロールする。自分を律する=自律。近代的主体の誕生。さらに、物欲のみならず、性欲、破壊性をもコントロールしなければならない。どんどん規範が高度化。ヴィクトリア朝の厳格な道徳に。世俗的生活をすることと欲望コントロールの主体であることを両立しなければならないストレス。→抑圧によって欲望をもっていること自体を忘れる。症状や自己矛盾的・自己破壊的行動に。

フロイト
1)合理的断念
2)欲望の肯定。エロスの本来性の確認
 初期は、道徳的規範を批判し、2)に。ドストエフスキー論を経て1)の強調。しかし、最終的には2)。とはいえ、2)はフロイト思想全体ではあまり目立っていない。また、具体的な実践の姿も見えない。フロイト以後は、患者の欲望の転移を医者があえて引き受けるように。cf. 小此木啓吾『エロス的人間論――フロイトを超えるもの』(講談社現代新書)

フロイト以後
 さまざまな欲望の解放。その自己破壊的帰結。代表的なのが嗜癖(アルコール依存症、摂食障害、セックス依存症)。したいことはしなければならない(強迫的な欲望充足)。やめたくてもやめられない(やりたいのにできない、の反対)。治療にもっとも効果的なのはセルフ・ヘルプ・グループ。欲望をコントロールしようとするのではなく、相互に告白しあう。言いっぱなし、聞きっぱなしの原則。誰も互いの発言を批評しない。他人から命令されることなく、しかし、自分と似た他者の物語から示唆される。欲望のどうしようもなさをそれとして認め、それを抱えて生きてゆくことに慣れる。欲望を否定せず、かといってその反動で欲望の強迫的充足にも向かわず、欲望に配慮しながら欲望と共生する。=欲望のケア
 しかし、宗教的禁欲の欲望の否定から、欲望のケアへという戦略自体はフロイトのなかに含まれていた。

20010605
Q&A
「ほどほどに生きることができないからみんな苦しんでいるのではないだろうか」→こうすればうまくゆく、という決定的答えを求めている? 欲望に関しては、そのような方針を立てること自体がコントロールの発想につながる。
「結局人間は欲望をコントロールできないのか、しないほうがよいのか」→完全にはできないが、生きてゆくうえでせざるをえない。禁欲主義でもなく快楽主義でもない、といっているので、どっちかと言われても……。結局、中道=仏教の苦楽中道、アリストテレスの中道、孔子の中庸。その場その場で、日常的行為を通して、普遍的なもの(固定的な真理ではない)に通じうるような決定を下してゆくこと。「普通」とは違う。われわれ現代人は、「普通」であることにこだわるあまり、いつのまにか普通でなくなってしまう。中道を求めるための方法は、極端なものが何かを知るということ。精神分析的に言うと、欲望の自己破壊性、意図せざる悪循環に気づいてゆくということ。
「意識化すれば解決されるのでしょうか」→あとは行動するだけ。それがまた分析の材料になってゆく。難解も言うが、こうすればうまくゆくという決定的答えはない。
「欲望とは一体どこまでのことを言うのか。禁欲する人たちは、それによって何を目指していたのか」[それも欲望ではないか、という意味に解して]→キリスト教では「希望」とされる。肉による欲望と霊による希望。仏教では、「煩悩即菩提」と呼ばれる(この考えは単純な禁欲主義ではない)。
「私たちは、欲望の誘惑にあふれる世間で暮らしていながら、うまくコントロールして暮らしている。症状に現れる人とそうでない人の差はどこから出てくるのか。欲望のコントロール以外に原因はないのか」→セラピストたちは、トラウマ説を唱える。生理学的心理学者だと、気質の問題になるかもしれない。あなたはどう考えるか。
「禁欲との真の意味は、欲望を感じ、それについて考えることで、神の純粋さを知ることができるというところにあると思っていた。人間が不完全であるということは、完全になる可能性を含んでいるということ、だから完全を目指すということ、そこに神の人間への愛が存在するのでは。なぜ神は人間に悪というものを与えたのか、もっと知りたいと思った」→人間の欲望や不完全性を、否定しない、ということなら、精神分析的な考えととても近くなる。その場合、神のとらえ方も実体的な完全存在というよりは、人間を通して間接的に知られる「より完全な存在」ということになる。最後の問題については、私はこの授業のなかでは、「自由」の問題ととらえている。「自由」であることは悪の発生する条件であるが、より高次な善を実現するための条件である。

2 ユングと全体主義
1)内向/外向、ペルソナ、個性化、集合的なものと社会

内向/外向
 フロイトの扱った神経症患者、ヒステリー、他者の評価を気にし、それを基準にして、自己の態度を決定。外向型。フロイトの治療も、外的現実への適応を目指す。自我の確立が問題となる人生前半においては、フロイトの考え方は有効。
 それに対して、アードラーの学説は、個人の心の内部にある権力への意志を強調する。内向性の神経症は神経衰弱、絶え間ない内面の闘いによる疲労。これについて、外的原因を特定することは難しい。

ペルソナ
 もともとは仮面の意味。心の内面が、外界への適応のために組織化されて出来上がったもの。社会に見せる仮面となる。職業や地位に応じたペルソナ、それを通じてた偉人関係が円滑に。ペルソナに同一化すると、人は柔軟性を失い、内界への適応に失敗する。かといって、内面のアニマ・アニムス(ペルソナに対立するもの)に同一化してしまうと、外界への適応に失敗。

個体化・個性化=自己実現
 生物学的個体化に対する心理的個体化の概念化。自分が自分らしくなってゆく。社会に同化している自我からの離脱。かといって内面の葛藤にとどまるのでもない。内的自己の分裂を統合することではじめて実現。自我―無意識。統合。

集合的無意識
 自我意識―個人的無意識―集合的意識―集合的無意識
 ユングの集合的無意識とは、無意識が隣の人ともつながっているという意味ではない。生物学的構造が人類において共通しているのと同様に、人類共通の精神的構造を仮定し、それを元型と名付ける。そして、それが個人の無意識的イメージにも共通のモチーフとして現れる。夢と神話の共通性。したがって、無意識的イメージを解釈するためには、人類の集合的無意識の遺産である、神話を参考にすればよい=拡充法。

社会的なものへの反発と、集合的なものへの近親感
 両者はどう区別されるか。

20010619

用語に関する質疑応答
前回の集合的無意識以下の説明

社会的生活への適応だけに終始すると、自我は柔軟性を失い、心のなかで分裂(意識/無意識)が著しくなる。統合の必要性。
社会的なもの(集合的意識)からの分離・個体化。
無意識を解明するために、集合的無意識の所産である神話を参照する。

イメージ:世間から身を引き離して、人類の歴史的遺産に埋没する

ロマン主義との類似性
 外的生活からの断絶、内面への耽溺、歴史的世界との出会い、自己形成=教養。<他>への憧憬
 「教養」の辞書的定義
『大辞林』〔{英}culture;ドイツBildung〕単なる知識ではなく、人間がその素質を精神的・全人的に開化・発展させるために学び養われる学問や芸術など。
『広辞苑』(culture イギリス・フランス; Bildung ドイツ) 単なる学殖・多識とは異なり、一定の文化理想を体得し、それによって個人が身につけた創造的な理解力や知識。その内容は時代や民族の文化理念の変遷に応じて異なる。
 教養小説(Bildungsroman ドイツ) 主人公の人格の形成・発展を中心として書いた小説。ドイツ文学の主流の一つ。ゲーテの「ウィルヘルム=マイスター」、ケラーの「緑のハインリヒ」など。
この出会われるべき歴史的世界のなかには、東洋を含む「世界の発見」も

ロマン主義の政治的帰結としての全体主義
 現状の社会とそれに適応する自我〜否定
 過去の遺産を吸収して成長してゆく自己〜肯定

 ドイツでは、ドイツ統一後、民族の固有性を主張するナショナリズムと結びつく。たとえば、ワンダーフォーゲル運動など、もともと国土の自然や環境を愛する運動が、愛国主義となり、ナチズムにからめ捕られる。
 日本でも、西洋化=近代化で見落とされた、東洋の宗教的伝統を発見し、近代を超克しようという考えが、京都学派などから出されるが、これも戦時中はうまく利用される。仏教的無我は、滅私奉公と同一視される。
 「無我」の教説:あらゆるものには我がない。なのに我があると錯覚=無明。小さな我を乗り越えること、無明を見抜くこと、知恵を得る。
 無意識への洞察を通じて、一面的な自我を克服してゆくユング心理学との類似。
 本来は、民族的固有性すら否定するはず。なのに、我を否定することが、民族への献身と同一視されてしまう。

ユングのナチ協力嫌疑
ユングはスイス在住。スイス、ナチとは中立の立場。しかし、反対するわけではない。あいまいな立場。
ナチが仕立て上げた精神医学機関の長のポストに付いている。すぐにやめている。この機関では精神病患者を使った人体実験的なものも。
ヒトラーを見て「元型が歩いている」。二通りの解釈。賛美。あるいは狂える神ヴォータン元型の体現。
来週は、ユングのナチズム論を検討。

20010626

「ヴォータン」(1936)
ヴォータン=ゲルマン神話の神。主神ヴォータンをはじめとするアース神族が滅亡するが、そのわずかに生き残った子孫が、新たな世界に再生する。熱狂と陶酔の神。詩と魔術の神。放浪の神。民族大移動。キリスト教によって悪魔とされる。
 ギリシア神話では、アポロンの秩序を打ち砕く、ディオニュソスに近い。また追放されたクロノスにも近い。ギリシア神話においては、ヴォータン元型は、他の神の力を借りた人間によっていったん打ち砕かれている。しかし、ゲルマン神話におけるヴォータンと人間は同一のまま、葬られ、復活する。
 荒らぶる神のまま温存され、他の神に倒されない。cf. あらぶる神〜素戔嗚尊(すさのおのみこと)

ナチズムにおけるヴォータン元型の顕在化。
群衆になると個人の理性は働かなくなる。

「破局のあとで」(1945)
ナチズムに対する共同責任、共同罪責
われわれのなかにあるナチズムに気づかされる。ヨーロッパの連帯責任。
一個の殺人であっても、心的現実においては、万人の身に降りかかった事件であり、また万人が犯した罪にほかならない。
都市化、工業化、一面的な発達を強いられた根なしの大衆。国家に吸収される。
(個人主義的な傾向の補償としての集合的人間への退行、1933の講演)
ドイツの劣等感。みずからの影の他国への投影。他の国が劣等に見え、滅ぼさなければならないように思われる。反ユダヤ主義。キリスト教徒は、ヴォータンを「さまよえるユダヤ人」として形象していた。ドイツ的信仰を奉じるキリスト教徒、ヒトラーを救世主とする神学者も。彼らが崇拝しているの神ではなく、実はヴォータン。それがかつて自分を滅ぼしたキリスト教の仮面をかぶって、みずからにおわされた汚名である「劣等なユダヤ人」を、滅ぼそうとしている。
キリスト教世界全体に関わる問題として、善と正義のパラドクス。「神の似姿」としての人間。一方で、人間を傲慢にし、もう一方でそれと正反対の要素である悪(影)を内面においてかき立てる。神のような人間はみずからのうちにある極悪非道な人間像に耐えられず、それを他者に投影し、それを責めようとする。
ドイツだけでなく、ヨーロッパ人全体、キリスト教徒全体が、自分たちのなかにある影を認めなければならない。そのような罪の自覚があるところにこそ、恩寵もいや増すのである。われわれは悪をになってしかも生き続けるためには、どういう心構えが必要なのかを探究しなければならない。

20010710
Q&A
「影の自覚を国家規模でやるのにはどうすればよいのか」→言論による批判以外に手だてがない。
「ユダヤ人虐殺や戦争など悪いことをやらなければ全体主義もよいのではないか」→現代社会がそう。しかし、つねに危険はあると考えている。ナチスほどではなくても、国家規模で判断を誤る場合など。

ユングの全体主義批判
 根なしの個人が共同性を回復しようとすると、特殊共同体に同一化し、全体主義に
 しかし、この批判はユング心理学自体にも当てはまりうる。
 社会的現実から遊離し、想像の世界で人類の精神的共同体と一体化。
 全体主義が批判されるのは、それが社会的現実になってしまったから。夢の世界にとどまっていればよかった?

ユングの一神教批判
 外的対象の「悪」=意識されざる自己の構成要素、自我の「影」(意識的自我と正反対の内容を持っており、自分自身の性質とは認めがたいため、対象に投影される)
 自我は自分が悪だと思っていたものが実は自分の一部であるという苦痛な現実を受け入れなければならない→個性化
 「悪を排除する善なる神」という従来の神表象は、個性化プロセスが実現しようとする心の全体性としての<自己>を、十分に象徴しきれていない
→悪をも包摂するような神の象徴を要請する。『ヨブへの答え』
みずから悪を抱え苦しむ神=神義論(善なる神が創造した世界になぜ悪があるのか)の解決
 この世界は善と悪が相克しながら発展してゆく。

ユングの悪のとらえ方=善悪に関する相対主義?という疑問
ユングの弟子ノイマン『深層心理学と新しい倫理』(人文書院)
 実は、悪を退けようとする善の、隠された悪を告発しようとする倫理的態度
西洋の従来の倫理=スケープゴート心理。善であろうとするため、悪を排除。それが、悪を仕立て上げ、排除すれば、あたかもそれだけでみずからが善になったと錯覚。
ナチスの反ユダヤ主義につながる。
ユング心理学の新しい倫理=「悪」とされてきたものの受容(投影の引き上げ)による真の自己肯定
 =個性化
しかし、ユング自身は、弟子ノイマンの倫理化の方向性に抵抗感を示した。新しい「善」の構築になってしまうから?

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フロイトとユングの宗教論・現代社会論
 宗教:欲望の否定と悪の排除→善に到達
 しかし、欲望も悪も、意識からは排除されるが、無意識にたまってゆく。意識と無意識の分裂
 宗教的共同体から遊離した個人は、心のなかの分裂を抱えて神経症的になる。
 現代社会の自律した個人という理想。市民道徳の厳格化。自己コントロールの要請。意識と無意識の分裂は激化。全体主義体制への自発的服従によって、『自由からの逃走』(フロム)をはかる(後期に)。
 心理療法は、意識と無意識の融和・総合を目指す。しかし、そこからどのような社会的関係が望まれるかについては、明確な答えを出していない。
 フロイトのエロスの理想、欲望のケア、他者との共生は示唆されるにとどまる。ユングにおいては、最終的に個人主義と全体主義のパラドクスが洞察されず、人類の遺産に耽溺する個人的宗教性の立場にとどまる。