聖心2000後期 宗教心理学特講
J・W・ジョーンズの『聖なるものの精神分析』を参照しながら、対象関係論の視点に立った宗教心理学の諸学説について学ぶ。ジョーンズは、古典的宗教心理学の理論装置が独我論的なものであることを批判し、神表象を対象関係のモデルとして理解する。ジョーンズの主張の検討を通じて、宗教心理学の学説史についてもおさらいする予定である。
講義の進め方 配布プリントにそって授業を行う。毎回授業の終わりにコメントを書いてもらう。授業中はよく集中し、気がついたことがあったらプリントの余白にメモを書き留めておき、それを材料にしてコメントを作るとよい。コメントには、感想、疑問、意見を書くことになるが、必ず自分の考えを盛り込むこと(質問は自分の問題意識がわかるようにすること)。プリントの丸写しや要約、質問だけのものは不可(欠席扱い)。ただし、次の授業のはじめに書き直しを指示するので、その時間中に提出すれば可とする。また、できれば単なる思いつきや漠然とした感想を書かず、根拠を明示した論理的なコメントを書くこと。 3分の2の出席が単位取得条件であることに注意。 最初の3回の授業に一回も出席しなかったものは自動的に未受験扱い。 特別な理由があって欠席した者(たとえば就職活動)は、次回の講義終了までに、講義内容を確認し、コメントを提出すること。 学期末に、授業内容について枚数自由のレポートを提出。テーマは授業に直接関連すること。授業に関係しそうな本を図書館で探して引き写しただけのレポートは不可になるので注意すること。 テキスト、参考文献は、必ず買わなければならないというものではない。プリントと私の説明で足りるようにするつもりである。ただし、より深く勉強したい人は入手して熟読することをお勧めする。 私のホームページ上に講義プリントの内容がアップロードされているので、欠席した場合はそれを読んでおくこと。また、ホームページ上にある「レポートの書き方」をよく読んでおくこと。 http://homepage1.nifty.com/norick/
授業計画(あくまで計画……)
1 フロイトの精神分析的宗教心理学 2 フロイト以後の理論――対象関係論 3 フロイト以後の理論――自己心理学 4 転移概念の再解釈と宗教 5 症例研究――自己イメージと神 6 症例研究――共感と治療 7 聖なるものの心理学を目指して (ここまでがジョーンズの本に沿った紹介。以下はオプション。進度によって) 8 他の研究者の紹介――プライサーなど 9 ジョーンズの諸説の検討――エリクソンの再評価 10 ユングと独我論――ヒルマンの多神教的転回
以下は、以前私が書いた書評。
J・W・ジョーンズ著、渡辺学訳『聖なるものの精神分析』(玉川大学出版部、1997年)
精神分析的な心理療法において核となるのは、転移の分析である。転移とはつまり感情の転移であり、幼児期における親に対する感情などが分析者に移し替えられることである。このことは、分析者に対して転移されている感情を分析すれば、そのもとの感情(それは症状の原因でもある)がどのようなものであったかがわかるということを意味する。フロイトによれば、そのように無意識的に抑圧され歪曲されていた感情が意識的レベルに上がれば、それはもはや症状や転移として表出される必要はなくなるので、結果的に治癒が起こるということである。ここでは、分析者は、患者によって感情を投影されるスクリーンとして機能すると同時に、それが幻影に過ぎないことを種明かしするための仕掛けともなっている。 しかしながら、対象関係論やコフートの自己心理学など精神分析の新しい流れでは、転移は解消されるべき過去の感情の反復というよりは、対象関係のたえざる再創造の一環であって、解消することができるようなものなどではない。この考えの根底にあるのは、人間の自己は関係性のなかではじめて成り立つものであり、そこから脱却することを目指すよりも、自己とその対象との相互関係をより豊かなものにしようとするべきだ、という発想である。このような観点からすれば、分析者の役割は、転移を雲散霧消せしめるというよりは、転移を通じて、患者がより適切な対象関係を創造できるよう共感的に介入すること、患者みずからが対象関係を変容させてゆくプロセスを援助するということにあるのでなければならない。 本書はこのような精神分析の新しい流れを踏まえて、聖なるものの体験、すなわち神的対象との関わりをも、対象関係のたえざる創造・変容のプロセスとしてみてゆく。たとえば具体的事例を紹介するなかで、治療における転移の変容や、神との関係の変容、自己のあり方の変容が、それぞれ並行して起こってゆくさまが描かれている。 興味深かったのは、いわゆる無神論者であっても、神については一定のイメージを持っていて、そのうえで「そのような神は信じない」という態度決定をしていること、あるいは神観念でなくてもある種の世界観がその人の対象関係のあり方を示しているということなどである。結局、広義の宗教的対象は、信仰の有無にかかわらず、その人の自己が発生する基盤となるような関係性の超越的参照点を形成しているようである。それが個人の内的力動に還元されるものなのか、あるいは逆に個人の内的力動そのものが文化的に継承されてきた宗教的対象によって規定されているのかは、本書では問われていない。むしろ、両者は相互に規定しあい、同時的に変容してゆくものであることが示唆されているようだ。 近年、宗教心理学の研究は鈍ってきているとはいえ、海外(とくにアメリカ)では重要な業績が少なからずでてきている。しかし、それらは日本に十分に紹介されているとは言えない。本訳書の刊行を皮切りに、そうした最近の重要文献(たとえば本書でも取り上げられているリッズトやマイスナーなど)が訳出されてゆくことを望む。
Q 次のうちどれか一つを選んで丸で囲み、その似顔絵を描いて下さい。写実的でも、抽象的でも、マンガ調でも構いません。上手に書かなくてもいいですが、あまり簡単すぎないように、気持ちを込めて。 大体5分を目安とします。
神様 仏様 守護霊 天使 ご先祖様 大宇宙
Q 上に書いた絵を見て、思いつく性格・特徴を出来るだけ多く列挙して下さい。あるいはその絵を見て連想する事柄でも構いません。
* なお、この作業は「どのような絵を描いたらどのような性格かが分かる」というような心理テストをおこなうためのものではありません。あくまで皆さんの側で、「神表象」という概念について自己反省するための素材としてお考え下さい。
第2回(20001010)
前回の講義に対するコメント 前回は講義概要と、レポートの書き方・授業の受け方などが中心であったせいか、あまり紹介すべきコメントはありません。本当は最後に紹介した『聖なるものの精神分析』の書評に関して何かいただければよかったのですが、今一つまだよく分からないというところでしょうか(相変わらず先生の文章は難しいというコメントがありました)。 実は他大学でもこの講義を前期にやったのですが、人数が多いせいか、質疑応答が非常に充実しています。http://homepage1.nifty.com/norick/rissho2000s.htmlで参照してみて下さい。予習にもなりますので(でも全く同じではないので注意)。 レポートの書き方に関して、実験心理学畑の人が、実験レポートとは違う書式だと感じたようです。多分、実験レポートのほうが特殊だと思います(他の人文系の学問全体から見ても)。実験系の人でも、長い論文では先行研究のサーヴェイが必要になるので、役に立たないことはないでしょう。
講義 前回の神表象のワークについての説明 Q 次のうちどれか一つを選んで丸で囲み、その似顔絵を描いて下さい。写実的でも、抽象的でも、マンガ調でも構いません。上手に書かなくてもいいですが、あまり簡単すぎないように、気持ちを込めて。 大体5分を目安とします。
〜選択肢は、いわゆる宗教的崇拝対象として考えられるもの。「その他の崇拝対象」を設けてもよかったが、何でもありになると困るので一応枠を設けた。意図としては、同じ「神」という語からイメージするものは、人によって異なるものになりうる、ということの確認。それだけ。裏の意図はない。前回欠席した人も試しにやってみて欲しい。
Q 上に書いた絵を見て、思いつく性格・特徴を出来るだけ多く列挙して下さい。あるいはその絵を見て連想する事柄でも構いません。 〜さらに、「神」なら「神」という語に関するイメージを、言語的に分節化してゆく作業。イメージは文化的に流通するものでもあり、ある程度の共通性はあるが、それにどのような性格を付与するかは、もう少し多様なはず。もちろんよく教育された信仰者の間では一様になる可能性は高くなる。しかし、その場合でも、その人のこれまでの経験や生きる姿勢などと相関して、ある程度個性的なものになるであろう。このように「個人の生や文化的伝統と結びつきながら、崇拝や献身の対象として表象されるイメージや性格特徴の総体」を「神表象」と呼んでおく。
今週回収した回答を、来週、選択肢ごとにまとめて整理します。どの程度、神的対象の表象にばらつきがあるか(ないか)に注目しながら。
フロイトの宗教論 ジョーンズの紹介するフロイトは、非常に一面的で貧弱なものだが、フロイトを嫌う人たちのフロイト理解の典型である(私のフロイト理解は部分的にそれとは異なる)。ここではひとまず、ジョーンズのフロイト理解をそのまま紹介しておこう。 ジョーンズによれば、フロイトは啓蒙主義者であり無神論者である(注1)。フロイトは、『トーテムとタブー』(人文書院刊『フロイト著作集』3)では、宗教を強迫神経症と診断している(注2)。宗教の起源はエディプス・コンプレクスにある。つまり、息子が父親を殺して、母を愛するという図式である(注3)。フロイトは、原始群族では強大な父親が女性達を独占していたが、息子達が立ち上がって、父親を倒したという仮説を立てた(原父殺害仮説)。ところが、息子たちはその後、父親を殺したことを後悔し、罪責感に悩まされ、父親を祭り上げ、和解を遂げた。これが宗教的儀礼の根源となった(注4)。 さらに、フロイトは『ある幻想の未来』(日本教文社刊『フロイド選集』8)において、自然を前にした人間の無力さを、父を前にした幼児の無力さと対比している。そして、父に頼ることで幼児が無力さを克服したのと同じように、神に頼ることで人間は無力さを克服したのだとする。このような「父なる神」という宗教的表象を、フロイトはそこに願望充足の動機が混ざっているという意味で「幻想」と呼ぶ(注5)。しかし、人間の科学が発達すれば、こうした幻想は必要なくなるし、また克服されねばならない。 フロイトは宗教に対してアンビヴァレントな態度をとっている。フロイトによれば、人間の成熟の目標とは、道徳的責任と真理要求のことである。宗教はある程度まで、それに役立ってきたが、現在、宗教は影響力を失ってきており、より現実的な解決を与えようとする科学に取って代わられなければならない。 このような議論の背景にあるのは、フロイトのリビドー論である。心は機械のようなものでリビドーというエネルギーを必要とする(注6)。リビドーは空想のなかで浪費されるべきではなく、現実の中で働かなければならない。フロイトにとっては、リビドーの合理的な自己制御こそが重要であった。宗教もまたリビドーの制御に役立ってきたが、それは合理的な自己制御ではなく、不合理な抑圧を強いるものであり、神への強すぎる罪責感、破壊感情のうっ積という神経症的症状につながっている。すがりたいという願望が充足される見返りに、SM的な権威主義のわなにはまってしまう。人間は小児的な願望を断念して、道徳性という責任を引き受けなければならない(注7)。
注1)このような理解の典型としては、ピーター・ゲイ『神なきユダヤ人』(みすず書房)を参照せよ。間違いではないが、私は一面的だと考える。なぜなら、フロイトの宗教批判は、あるべき宗教性を暗黙のうちに前提しているからだ。 注2)宗教的儀礼における行為の細分化された反復を、強迫神経症と比較。強迫神経症は自分でも非合理と思われるような行為や観念を繰り返さざるをえないという症状をともなう神経症のこと。フロイトは、宗教とは普遍的な強迫神経症であり、強迫神経症は個人的な宗教だと述べた。 注3)文字通りに解してはならない。あくまで親への感情のアンビヴァレンツが家族内で複雑に構造化されるのを説明するためのモデル。「私は父を尊敬していますが……」などと言わないこと。 注4)補足するなら、フロイトはこのような仮説を一種の「学問的神話」と呼び、そのような出来事が実際に起こったとはしていない。彼の議論のツボは、さまざまな宗教において繰り返されている構造を取り出すということにある。 注5)ここでは「幻想」は「妄想」や「過誤」と区別されている。「妄想」は現実との対応がほとんどないが、「幻想」はそれほどでもない。宗教者の神表象にはそれなりの理由付けがされており、また宗教者は現実適応が不可能な状態にあるのでもない。「過誤」は科学的探求においても起こりうる非真理のことを指す。いずれにせよフロイトは、宗教的神表象が願望充足の動機によって構成されているということを指摘するだけで、それが間違っているとか、現実との対応がないと断言しているわけではない。なぜなら「神がいない」と断言することも、科学的根拠のない信念であるからだ。 注6)リビドーは、実体概念ではなく説明概念。物理学のアナロジー。フロイトは心を機械のようなものとしてとらえていて、そこをある種のエネルギーが流れているように考えるといろいろなことの説明がうまくゆくと考えていた、ということがポイント。 注7)ジョーンズはあまり強調しないが、実はフロイトは、科学万能を人間のナルシシズムの新たな形態として批判している。つまり、フロイトは宗教批判だけでなく科学批判をもしていたことになる。科学は、自らの限界をつねに認識していて新たな真理に開かれていなければならない、というのがフロイトの科学観である。したがって、フロイトは科学についても宗教についても、肯定的評価と否定的評価を持っていたことになる。さらに、E・フロムは、フロイトの宗教論を、権威主義的宗教の批判と、人間主義的宗教の擁護としてとらえている。フロム『精神分析と宗教』(東京創元社)を参照せよ。 *)なお、フロイトに関する入門書としては、小此木啓吾『フロイト』(講談社学術文庫)を参照せよ。
第3回(今日はちょっと変則的な授業進行) <今週の神表象のワーク> 驚くべき結果が出ました。何と3人をのぞいて全員が天使の絵を描きました。天使の絵といえば、かなり文化的に流通しているので、当然似たような絵になってきます。多分、神表象の多様性を知るためには、「神様」に絞ったほうがよいかもしれません。ジョーンズやリッズトーは、患者に神の絵を描かせるのですが、キリスト教文化ではキリストの絵が描かれることはあっても、神の絵はそれほど描かれることはありません(ないわけではない)。だからこそ、個人による多様性が入り込む余地もあるということでしょう。そこで、しつこいようですが、再度、今度は「神」の絵・イメージを描いてもらいます。 さて、天使の絵に関して一応の考察をしておきましょう。 まずなぜ、天使の絵が多いのか。他大学でも多かったのだが、ここまで圧倒的ではなかった。なぜ聖心では、9割の人が天使の絵を描くのか。分かりやすい仮説としては、カトリック系の大学だからというのがあるでしょう。では、他大学でも多かったのはなぜか、これも天使の絵がもっとも文化的に流通しているからという分かりやすい理由が挙げられるでしょう。しかし、そもそもなぜ文化的に天使のイメージがもっともよく流通しているのか。ちょっと前から欧米でも天使ブームというのがあります。また、守護天使への信仰が高まっているというデータもあるようです。個人の悩みや個人の人生に細かく配慮してくれるような神的表象が求められている、それは宗教の私事化と対応している、というのが宗教社会学的な解釈になると思います。宗教の私事化とは、たとえば、教会には出席しないが、個人の問題として信仰を重視する、あるいは教団には所属しないが、精神的なものに興味があるなど、個人の内面の問題として宗教を考える傾向です。ただ、プロテスタント的な、神と個人的に直結したいという願望との違いも考えなければなりません。これに関しては、リースマンの類型を使って内部指向と他者志向の違いとして押さえられるでしょう(社会学関係の事典を見て下さい)。 次に皆さんの絵に戻ってゆきましょう。「友達の絵と見比べてみましたが、非常に似ていました」というコメントがありましたが、詳しく見てゆくと、違いがないわけでもありません。いくつかその対立項をまとめてみます。
・「大人/子ども」(大人っぽいのは2名のみ)=「崇高・正義/ほのぼの」、なお「子ども」とした人も「ときに厳しい」「非情」「コワイ」というのがありました。 ・子どもの場合、「中性的/女性的・少女的」、「女の子」とはっきり限定した人は2名だが、絵柄は明らかに少女的なものが多かった。 ・もっとも多い共通する性格特徴は、純粋・無垢、優しい、美しい。 ・「目を閉じている(目がない)/目を閉じていない(しかしほとんどが点)」、ほぼ半々。目を開けているタイプは人間の幼児の印象が強い。目を閉じているタイプは、眠っている赤ん坊を思わせるものと、天上の存在らしさを醸し出しているものに分かれる。逆に目がはっきり開いていれば人間臭さが出ていただろう(ほとんどいない)。つまり、「幼児→乳児→生まれる前」という系列が存在しているということか。だとすると、天使を想像することと、過去にさかのぼることに、何か関係があるのでは。
以上を総合すると、「天使」に、理想的自己、本来的自己、そこまで強くなくても「別の自己」のイメージが投影されているのではないか、というのが私の印象。いずれにせよ超越的対象ではない。困ったときにすぐ神に頼るのではなく、本来の素直な自分を取り戻すほうが、しっくりとくる、ということでしょうか。この仮説を頼りに、それぞれの人があげた性格特徴を考察することができるかもしれません。 ちょっと変わったものをあげると、「どこから生まれたのか謎」、「いたずら好き、かしこくない、ドジ」、「きゃしゃ」、「無意志」、「包容力」、「自発性を尊重」、「コワイ」、「崇高」。これらはどこかで、「純粋」「優しい」という共通イメージにつながりつつも、個人的差異を表しているかもしれません。たとえば、「いたずら好き、かしこくない、ドジ」と書いた人は、ちょっとおっちょこちょいだけど憎めない自分イメージをどこかに持っていて、またそれを見ている別の自分もいて、見守っているという感じでしょうか。「きゃしゃ」と答えた人は、壊れやすさ、かけがえのなさを持った自分というものを、心のどこかに持っているのでしょうか。「コワイ」「崇高」と答えた人は、超越性が高いので、もしかしたら高い理想を持っている人なのかもしれません。以上は、あくまで単なる解釈です。自分自身で考えてみて、何か思うことがあったらコメントに書いて下さい。 改めて、神表象のワーク(次頁の用紙に)。
質疑応答 フロイトの話は授業でよく聞くが、相変わらず極端すぎる。でも鋭いことを言っている。という意見が目立ちました。それからフロイトの宗教批判に関しては、おそらくクリスチャンの方と思われる方が反発し、「オウムのような宗教なら当てはまるかもしれないが、キリスト教には当てはまらない」と口をそろえてコメントしていました。他方、ミッション系の学校にずっといて窮屈さを感じていたので納得した、などと言う方もいました。多分、長いキリスト教の歴史、あるいは広いキリスト教世界の中では、フロイトの批判が当てはまるところと当てはまらないところが、両方ともあるのかもしれません。 エディプス・コンプレックスの話が、男性の立場から書かれたものであるということに対する違和感は、やはり残っているようです。口頭で説明したことを繰り返します。1)父親に対する愛と憎しみ、母親に対する愛と憎しみという、両方の親へのアンビヴァレンツがある、2)アンビヴァレンツに耐えられない(自分にとって良い面も悪い面もある一人の人格として親を見られない)ので、好き嫌いをはっきりさせたい、3)どちらかを好きになってどちらかを嫌いになる、4)三角関係の成立(フロイトを離れて一般化すれば、男の子にも女の子にも当てはまること)、5)フロイトの典型的なエディプス・コンプレックスの場合、母親への敵意と父親への愛情が抑圧され、母親への愛情と父親への敵意が顕在化、6)父親への攻撃性、父親の力に対する恐れ(去勢不安)、父親への愛情(もっぱらその恐ろしい力への憧れとなる)、7)父親への敵意に対する罪悪感を打ち消すために父親賛美へ。なお、6)と7)のところはフロイトを離れれば、父親の代わりに母親を入れてもよい。 以下は具体的な質疑応答 「強迫神経症の「分かっちゃいるけどやめられない」と、宗教的儀礼の神聖な行事に参加しているという感覚は違うのではないか」 →その違いにはフロイトも同意するでしょう。“強迫神経症は宗教の個人版だ”というのは、強迫神経症が宗教と違って周囲から浮いてしまうということと関わってきます。“宗教は強迫神経症の普遍的形態だ”というのは、宗教が神経症と違って、集団の共通の価値観として認められているということと関わっています。(なお、まだ授業でやっていないところに関するコメント02109、具体性がなく極端に短いコメント01163は、今回から改めて下さい。)
講義 前回やり残した5頁の最後の段落。以下は続き。 ジョーンズは、以上のようなフロイトの宗教論を転移概念と結びつける。フロイトによれば、転移とは、患者が過去の重要な人物に対して抱いていた感情を、分析者に向けることである。フロイトの転移モデルの特徴は、反復の観念と本能重視にある。それは、愛と憎しみという二つの本能の葛藤によって構成された過去の感情や態度を、現在において、別の人物(分析者)を対象として歪曲された形で反復することである。正統的なフロイト派の見解によれば、転移は神経症的症状の一環として発生するものなので、それを解消することが治癒につながる。たとえば、分析者に自分を愛してくれる親の像を投影することで、分析者と良好な関係を築くことができ、分析を続けているあいだは治ったように見える、というのでは真の治癒とは言えないのである。 ジョーンズの紹介を超えて、私なりに補足する。転移は、過去の重要人物に対する無意識的感情の直接的手がかりとして、精神分析では非常に重視される。過去の出来事についてあれこれ解釈しても患者は納得しない。それに対して転移は、分析の場面でまさに今ここで起こっていることなので、「動かぬ証拠」として提示することができる。そして、無意識的感情が明らかになれば、それは症状として表出される必要がなくなるので、症状も消えるというのがフロイトの大前提である。したがって、転移と症状の解消が同時に目指される。フロイトはドーラの症例において、転移を発見したが、ドーラの症例の最中にはそれが分からずに治療に失敗。しかし、この失敗をばねに、転移を逆手にとる治療法を作った(資料参照)。
神表象のワーク2
Q 「神」という言葉から思い浮かぶイメージや絵を描いて下さい。人物でなくても構いません。写実的でも、抽象的でも、マンガ調でも構いません。 なお、「ヒゲを生やしたおじいさん」という日本的な神様のイメージは、この際、白紙にして下さい。そのうえで、改めて「神」という言葉から何をイメージするか(結果的にヒゲを生やしたおじいさんになっても構いませんが)。 上手に書かなくてもいいですが、あまり簡単すぎないように、気持ちを込めて。 大体5分を目安とします。
Q 上に書いた絵を見て、思いつく性格・特徴を出来るだけ多く列挙して下さい。あるいはその絵を見て連想する事柄でも構いません。すでに絵に描かれてあるような外見的特徴は繰り返す必要ありません。
第4回(20001025) <今週の神表象のワーク> 前回は、いくつかの神表象の候補のなかから天使を選んだ人が多かったので、それについて考察してみました。文化的に流通している典型的な絵柄を書いた人が多かったので、「神表象の多様性の確認」という目的を放棄し、比較文化史的な背景をふまえたうえで、なぜ天使なのかを説明し、それでも残る個性的な部分を取り出して、個別に解釈の可能性を示唆してみました。それに対して「天使の絵は文化的に共有されているので個人的違いなど現れない」というコメントが二点ほどありました。的を外しているのは言うまでもありません。その共通性そのものについて説明したうえで、具体的に個人的違いを指摘したのですから。それから「神表象=自己像の投影」と誤解している人がいるようです。子どもっぽく書かれた「天使」の絵に関してはその可能性があるということを指摘しましたが、神表象がすべてそうだというわけではありません。それでは解釈が一元化されてしまいます。たとえば今日これから見てゆきますが、「神」の場合、それとはだいぶ異なった解釈が必要になるでしょう。 いずれにせよ、このワークの本来の目的は、神表象の個人的多様性を確認し、個人個人が自分自身に引きつけて、以後の授業に当たれるような素材を作ってもらうということが趣旨なので、再度、「神」という比較的、文化的な共通の絵柄が確定されていない語から連想するものにテーマを絞って、絵を描いていただき、その性格特徴を列挙していただくようお願いしました。
神表象のワーク2の結果 まずは典型的なものから
「長髪の成人男性の無表情な人物像:正義・理想・見守る・崇高・荘厳など」〜半数近い。“無口だが優しくてときに頑固な父親”を思わせる。キリスト教の有神論的な人格神のイメージに由来するとも読めるが、日本人の父親像とも重なるかも?
残りの半分はばらばら(ナンシー関の「記憶スケッチ」http://www.bonken.co.jp/kioku.htmlを想起させられる。かなりマイナーなネタ)
「雲の上から笑顔で人間を見守っている後ろ姿」〜人間からは見えない神を後ろから見ている私。隠された愛。 「光に包まれてはっきりと見えない人物像:人生をあやつる、手のイメージ」 「地球を抱きかかえている二つの手:包容力」 「地球と火星の絵があって、地球の前にいて両手を地球の方に差し出している人影らしき輪郭:気まぐれに物事を動かすこわい存在、感情がない、自然の味方」〜以上、「手」のイメージ。文学作品にも登場する。神の左手と右手。ものを動かす大きな力。第一原因。cf. お釈迦様の手のひら。 「雲の合間から伸びる太陽の光線:神は人物ではなく、目に見えない大きなもの」 「太陽と山と鶴or白鳥の舞う絵:大自然=人間の力では及ばない力=神」〜個人的にはもっとも笑えた。この絵を描いた人は美しく飛翔しているor飛翔していたい? 「薄暗くてどんよりとした雲の絵:形にできない、曖昧、人にちょっかいを出して混乱させる、「運」のようなもの、誰にもかえられない」〜以上、大自然系。人間にとってのコントロール不可能性。場合によっては、逆に自分の人生を自分でどうにかしたいという願望が秘められているかも。鶴or白鳥は、それに対する一つの解決を示しているかもしれない。 「白紙:実体がない、何にでも変わりうる」〜西洋一神教の純粋形態とも、仏教的世界観とも通じる。固定的であってはならない。確かなものを求める人間とのコントラスト。しかし、そこに救いがあると考えられてきた。 「すごく太い木の幹:神の姿は目には見えず、その象徴としての太い木、壮大」〜宗教史的にはよくあるイメージ。ご神木。生命の源、根っこ。生命樹。 「中国の済公(おそらく道教関係の人?):寛容・優しさ・無私」〜おそらく留学生の方の描いたもの。生き神?
以上、“父親像―準人物―手のイメージ―太陽―光―雲―非実体―その他”の順に並べたわけですが、表象の仕方の多様性に注目して欲しいと思います。同じ「神」という語でも、そこからイメージすることは人によって異なる。典型的と思われる父親像のイメージであっても、細かく見ると結構ばらばら。このような個人による差異は、その人の世界観や対象関係のあり方、そしてその背景にある人生経験や生活史と関係しているのではないか、というのがジョーンズの仮説。 なお、もともと「この絵ならこんな性格」という心理テストを目指したものではないので、ここではこれ以上の分析はしません。各人が自分の描いたもの、書いたものを暖めておいて(返却希望の方は取りに来て下さい)、それが自分の世界観や対象関係のあり方、人生経験や生活史と関係しているか、関係していないかを、自分なりに自己分析して、ジョーンズの主張を自分なりに考えてゆくための手がかりとしてお役立て下さい。
質疑応答 目立ったものがない。神表象関係についてのコメントが多かったせい。なおフロイトは強引だというコメント、とくにエディプス・コンプレックスに関する強引さに関するコメントは、前回の質疑応答をもう一度よく読むこと。フロイト的な枠にとらわれずに、肉親間のアンビヴァレンツの問題として一般化しておいたはず。これならもう少し強引にならずに、さまざまな事象に当てはめられるのでは、というのが私の考え。
講義 5頁の最終段落を注も込みでもう一度説明(分かりにくいところなのに急いで説明したので)。 7頁の前回の「講義」部分
資料・フロイトが転移概念を提唱するきっかけになった『ドーラの症例』についての要約(弘文堂刊『新版精神医学事典』から) 父親への愛、病気がちだった母、父親の愛の独占、K夫人への同一化(子どもへの世話やき)、母に代わる理想的女性像、父とK夫人の不倫、両者への愛を失い憎しみへ、しかし愛情も続いている(愛と憎しみのアンビヴァレンツ)、K氏の接近、意識的には拒絶するが、自らすすんでK氏と湖畔を二人きりで散歩することを繰り返している、最終的に求愛を受けたときにそれを拒絶し、そのことを周囲の者に訴えるが相手にしてもらえない、以後症状が激化。 父へのアンビヴァレンツ、Kへのアンビヴァレンツ、「大人の男」という性的存在(父とK)へのドーラの態度=自分への愛情を確認したいという気持ちと彼らの性的不道徳を告発したいという復讐心。神経症的症状を性的欲動の観点から理解しようとするフロイトへ、「父=Kに対する感情」が転移。フロイトの解釈に反発しつつもあるていど受け入れ、フロイトにすればかなり成功しつつあるという感触がつかめてきたところで、治療を中断。フロイトはあとから、ドーラに乗せられてあまりにも性急な解釈をしてしまったと反省。つまり「性的な大人の男」という役割を図らずも演じてしまったということ。ここから転移/逆転移の概念を提唱。患者は、重要な人物に対する感情を分析者に転移、分析者はいつの間にかその重要な人物と似たような役割・立場を担わされてしまい、それに沿う言動をしてしまう=逆転移。 なお、寝椅子での治療というシチュエーションは、転移を誘発する装置としても機能する。患者が寝椅子に横たわり、分析者は患者の頭の近くの患者から見えない所に座り、患者の自由連想中は簡単な質問以外に極力発言しないようにする。この状況は、患者にとって、重要な人物のイメージを投影しやすい状況である。つまり、感情の転移をしやすい状況となっている。そこでは、分析者は患者の投影を映し出すスクリーンの役割を果たす。これによって、夢よりも直接的に、今ここで起こっている患者の無意識的な思考の働きを指摘することができるようになった。転移をその場で「動かぬ証拠」として指摘することで、無意識的なものが意識化されやすくなる、そうすれば症状が解消される。転移も解消される。それが治療の終結とされる。
第5回(20001101) 質疑応答 これから説明することに関する質問が多かったので(とくに転移に関して)、今後の授業に注目して下さい。
「無意識的なものを意識化・言語化して治療を進めるということですが、非科学的だと思います」 →フロイトの方法論に関する問題ですが、まず、精神分析においては、解釈が真理であるかどうかは、ひとえに患者が良くなるかどうかにかかっているということを確認しておきましょう(このような真理観を、哲学の畑では真理の実用説 pragmatic theory of truth といいます)。ですから、患者が受け付けず、良くもならなければ、その解釈はだめだということになります。これからドーラの症例という「失敗した」症例をやりますが、だからといって精神分析そのものがだめだという性急な判断をしないように。 「治癒が起こればOK」というのは確かに非科学的かもしれませんが、人間の心理はある操作をすれば必ず所定の結果が生まれるというものではありません。経験的データが統計的に有意かどうかは議論できても、その結果にもとづいて、ある操作を施せば必ず期待した反応がひきだせるというのは、ごくごく単純な事柄に関してだけです。心理療法に関しては、ある治療をすれば誰にでも同じ結果がでるという考えは楽観的すぎるし、そんなことを信じるのは倫理的に危険ですらあると、考えられているのではないでしょうか。 実は科学の方法論に関しては、法則定立的で説明中心の経験科学と、個別記述的で了解中心の解釈科学があるという考えがあり、心理療法はこの後者に属すると考えられています。まあ、科学主義の人たちはこのような議論があるということすら知らないのですが。この辺の話を分かりやすくかみ砕いたものとしては、中村雄二郎『臨床の知とは何か』(岩波新書)がお勧めです(最初のほうだけでも)。古典的な科学の前提とその限界が自覚され、20世紀にはいってから、文化人類学や精神分析などの「臨床の知」が要請されるようになった経緯が書かれています。 なお、「操作的心理療法観」を是正するために、もう少し詳しく説明します。精神分析の基本は患者自身の自己分析です。ですから「こうすれば必ず治る」という操作的なものではなく、自分が今までとらわれていたものが何だったかに患者自身が気づくことが目標であり、そうするとその「とらわれ」から解放されやすくなる、ということなのです。医者はただそれを横からサポートするに過ぎません。ですからフロイトの分析は、必ず患者自身にあるていどの反省能力があって、自発的に参加する意志のあることが条件となっていたのです。結局、最後は自分が変わらなければ何も変わらないのです。
「フロイトの理論は何でも性欲に結びつけて強引だ」 →フロイトの解釈の強引さということですが、フロイト自身はつねにそれを断定的に押し付けたわけではありませんでした。これは症例研究を実際に読むと良く分かります。精神分析は基本的に、分析者の方はあまりしゃべらないようにします。そして、ときどき被分析者の話を深めるために、解釈を投げ掛け、その反応を見ます。分析者は、その解釈を正しいものとして断定的にぶつけるというよりは、それを聞いた患者がどんなことを話しだすかということのほうに関心を向けます。ところが、症例研究を要約したものなどを見ると、この所々出された解釈が凝縮されたかたちで要約されており、フロイトはこんなことを立て続けにしゃべったのかという印象を与えることになります。また、フロイトの解釈が性的なものに偏りすぎるという指摘は当時からありましたが、それは当時の患者さんの特殊性もあるようです(厳格すぎる性道徳と世紀末的退廃の矛盾)。 今後、転移の話に関して、「転移は必ず起きるのか」、「転移を通じて無意識的なものを意識化すると本当に症状は解消されるのか」という質問が出てくると予想されますが、そのような操作的なものでないということをあらかじめ知っておいて下さい。
(警告:03216、3行くらいで講義でやったことを要約し、「〜のは、面白いと思います」。今後は不可です)
講義
前回配付プリントのドーラの症例とその説明
ジョーンズによれば、フロイトの宗教論も転移概念と関係があるとされる。神への転移は、分析者への転移と同様、いずれ解消されなければならないとするからである。それに対して、ジョーンズは、転移は単なる症状ではなく、対象関係の絶えざる再創造であると考える。精神分析の新しい流れは、寝椅子を使って人工的に転移を発生させるという手法をもはやとっておらず、分析者への自然な転移をそれとして認めつつ、それを修正する方向に誘導しようとする。神への転移もまた、必ずしも解消しなければならないというものではなく、より良い人生を送るための軸としてとらえ返そうと言うのであろう。
資料・『狼男の症例』についての要約(弘文堂刊『新版精神医学事典』から) 〜転移概念と宗教論との結びつきに注意
ここではドーラの症例とは異なり、エディプス・コンプレクスが出てくる。図式化すると、エディプス・コンプレクス→去勢不安→エディプス・コンプレクスの反転(父への同性愛的感情)。理想的発達においては、父親の同一化(取り入れ)と超自我の構成がうまくゆけば、道徳的自律が達成されエディプス・コンプレクスは解消するが、うまくゆかずに自我がコンプレクスを抑圧するにとどまれば病原的となる。重要なのは、父に対する同性愛的な愛情要求が、八歳の時に突然始まった信仰によって鎮められることである(たまたま彼の誕生日がクリスマスであったため、父を神と同一視することもできた)。宗教というかたちをとれば、現実の父親への愛情の場合のように罪悪感を感じることなく、永遠の父なる神に愛の証を立てることができた。この宗教への傾倒期(フロイトによれば強迫神経症)を通過して10年は平穏であった(つまり宗教的信仰が神経症的傾向を緩和していたことに)。しかし、18歳で淋病に感染したのちに発病し、心理療法を受ける。フロイトは病歴の全体像には触れずに(この点に関してはプリント参照)、その「幼児神経症」(不安ヒステリー・動物恐怖症と強迫神経症)に焦点を当てて記述している。 また面白いのは、フロイトへの父転移(父親への感情をフロイトへ転移)があり、フロイトもそれに巻き込まれ、不遇の狼男に異例の無料治療を行っていることである(=逆転移=転移に応じてしまうこと)。現実の父親が神に置き換えられ、神が精神分析家フロイトに置き換えられる。「父→神→分析家」という転移の連鎖。この症例は、宗教が幼児の父親への愛情の反復であるというフロイトの説を裏付けるだけでなく、精神分析が宗教代替的機能を果たすものである(宗教そのものではないとしても)ということを示唆している。
第6回(20001108) 質疑応答 「今まで転移という概念がよく分からなかったが、今日の授業でよく分かった。転移は分析場面においてだけでなく日常生活でも起こるものということは同感」というのが、典型的なコメント。もうちょっとひねったものとしては、神への転移について言及したものがいくつか。「分析家の顔が見える→見えない→神のように実体のないもの、という順に、より転移が起こりやすくなる」「対象喪失→愛を求める→転移という図式があり、神への転移は終わることのない究極的なもの」。ほぼ、これからやることの見通しになっていると思います。関連するコメントとして、「狼男の症例で神からフロイトへの転移というのが分からない、神は最終的なものでは」というのがありましたが、それは今日やりましょう。 (個別に:02461、前回、前々回と、転移=治療という誤解がなされているようです。もう一度プリントを読み直して下さい。警告02374、授業で板書したある部分を取りあげ、同語反復、意味不明なコメント、次回からは不可)
講義 狼男の症例の説明
フロイト以後の理論――対象関係論 以上、ジョーンズの記述を補足しながら、フロイトの宗教論と転移概念を紹介し、その両者の関連性を指摘してきた。それに対して、ジョーンズが依拠するのは、対象関係論と自己心理学でという二つのポスト・フロイディアンの立場である。 対象関係論は、イギリスのメラニー・クライン以後、フェアベーンやウィニコットらによって形成された立場で、フロイトの「欲動(本能)/対象」図式から、「対象/自我」関係図式への移行をはかった。 フロイトはまず欲動があってその満足のために向かう目標として外的対象があり、そのはざまで現実的文脈に適応するよう欲動を調整するのが自我であるとした。 それに対して、対象関係論は、対象との関係のなかで自我が生成すると考える。自我があってその対象があるとは考えず、対象との関係があって自我があると考えるのである。まず最初に関係があって、その関係を通じて、自我が自我として、対象が対象として生成する。 その際、自我の側に外的対象に見合った内的対象が構成され(取り入れによる同一化introjective identification)、さらにその内的対象を含む自我に対する態度が外的対象に転移される(投影的同一化projective identification)という循環のなかで、対象関係が形成されてゆく。cf. 資料。 このような観点から、症状の治癒は無意識的なものの意識化だけでは不十分で、悪い対象関係を良い対象関係に置き換える必要がある、とされる。ここで分析家への転移は治療の手がかりというだけでなく、治療の手段ともなるだろう(自己心理学の立場へ)。 また、外的対象と内的対象を橋渡しする移行対象(ウィニコット)が、人間の文化的所産であるという文化論が展開される。後で見るように、神も移行対象として理解される。
以上が対象関係論の基本的概略。もっと詳しく知りたい人のために
資料・「クライン」「投影性同一視」「抑鬱態勢」「躁的防衛」、『新版精神医学事典』(弘文堂) 「良い母親/悪い母親」(部分的対象)、「良い自分/悪い自分」(取り入れによる同一化)、「願望充足的対象/処罰・迫害的対象」(投影的同一化) 攻撃性に対する報復=妄想分裂態勢、 「良い/悪い」の統一された同一の対象としての母親(全体的対象)→攻撃性への罪悪感=抑鬱態勢、 (失敗したとき、妄想分裂態勢への退行か、躁的防衛へ) 成熟へ:アンビヴァレンツへの耐性、対象喪失の抑鬱不安の克服、内的対象の修復、超自我の形成、全能でないありのままの自己の受け入れ、他者への愛情の基盤
第7回(20001115) 質疑応答 狼男の症例に関するコメントは少なく、最後に少しやった対象関係論に関するものが多かったです(後半のほうが印象に残っているから?)。とても多かったのは、対象関係における取り入れの方向と投影の方向の循環というところで、おしゃべりをしていると相手のしゃべり方がうつってくる、という身近な例が引き合いに出されているコメントです。これは私もよく同一化とか、同一性形成の説明をするときに言及する例です。どちらかというと、取り入れに関係してくるでしょう。
「フロイトと対象関係論との違いが良くわからない。結局は同じことを言っているのではないか」 「フロイトは関係を見落とし、対象関係論は欲動を見落としているように思われる」 「なぜフロイトのような考え方がすたれてきたのか」 →ジョーンズの論調には、確かに、対象関係論の方がフロイトより新しくて優れているというニュアンスがあります。それに対して上記のような疑問が出てくるのは当然だと思います。どうも心理学者には新しい立場のほうが優れていると考える傾向があるようです。私の考えでは、フロイトと対象関係論の違いは、欲動を強調するか、対象関係を強調するかという、強調点の違いでしかありません。実際、そう整理している対象関係論者もいます。しかし、メラニー・クラインまでは欲動概念を用いていますが、その後は誰も使わないようになってきている、ということは確かです。これはどうしてか。一つの理由としては、前回も口頭で述べましたが、患者にとっても理解の容易な理論を構築するべきだという趨勢は無視できません。生物学的に飛躍があると考えられるフロイトの本能(欲動)概念にはなるべくタッチせずに患者の心理を理解できる道が探究され、それが対象関係論になったのでしょう。次に紹介する自己心理学のコフートであれば、フロイトの思弁的理論よりも患者の「体験に近い」理論の方が、分析が進むと言うでしょう。
講義 資料・メラニークライン関係の用語解説を詳しく説明 前回プリントの残り
移行対象に関する補足 移行対象=客観的効果をもつ主観的構成、そのような主観的構成を通じて客観的現実の中で生活してゆける。 構成された錯覚は、より広い現実に向かう過程で脱錯覚(「幻滅」とも訳される)。「錯覚―脱錯覚」の繰り返し。フロイトの言う幻想としての神的表象も、ウィニコット流に言えば移行対象になる(フロイトの著作では「幻想」と訳されるillusionは、ウィニコットの文脈では「錯覚」と訳されることが多い)。 では、神もやがて脱錯覚されるのか。フロイトなら、そうなるべきというところ。しかし、ウィニコットの理論では、移行対象は、やがて捨てられるが、それは新たな対象のなかで形を変えて生き続ける。極端な話、幼いころしがみついていた汚い毛布は、宇宙物理学者にとっては大いなる宇宙の理論的モデルのなかで生き続けているかもしれない。 われわれ人間は、宇宙のリアリティに直接触れることはできないので、宗教的表象や科学的モデルを間に挟むしかない。この意味では、宗教も科学も機能的に等価である。 神という対象は移行対象ではなく最終的対象だと強弁したい人もいると思うが、神の表象は、幼いころと成人したときとでは、やはり内容や形態も異なるはず。その場合、神の表象(神そのものではなく)に関して、「錯覚―脱錯覚」の繰り返しが見られるということになる。
cf. 絵本「こんとあき」(林明子作、福音館書店刊) 移行対象としてのぬいぐるみ。養育者としての機能(基本的信頼の醸成、外界への希望、冒険へのいざない)。やがて古くなり、捨てられるところ。しかし、物語の中では「死と再生」のドラマが演じられ、その永遠の価値が読者に想起される。
第8回(20001122) 質疑応答 相変わらず似たようなコメントが多いのですが、今週の典型的なコメントは、「赤ちゃんがそんな複雑なことを考えているなんて驚いた。部分対象を全体対象に総合するという課題は、もっと大きくなってからも起こるような気がした」というものです(なおコメントも平常点として重視しているので、単なる印象・感想で終わらないように)。もっと踏み入ったものとしては、
「対象関係のなかで自我が成立するということだが、メラニー・クラインの話だけでは自我がどう成立するかがよく分からなかった」 →母親が全体対象として認知されるにつれて、自我も全体的なものとして総合されます。それまでは、「良い母親―良い自分」ユニットと「悪い母親―悪い自分」ユニットに別れているわけで、自他未分化の状態であると同時に、不快なものを快適なものから分裂させるという防衛機制によって、自我は分裂しているわけです。母親が全体対象として認知されるようになるということと、自我の分裂が総合されるということは、したがって連動しています。その場合の課題は、母親が自分にとって良くもあれば悪くもあるというアンビヴァレンツに耐えるということで、そこでの防衛機制は分裂ではなく抑圧が中心になります(自我のなかのある部分が抑圧・否認される)。たとえば母親への敵意が抑圧され、母親が理想化されるという具合です。そこでは理想化された母親への罪悪感が重要になるでしょう。
「超自我の形成はどのように行われるのでしょうか。父親は存在しなくてもいいのですか」 →クラインによれば、父親ははじめ母親の身体の一部として認知されているということです。そのため、プレ・エディプス期(エディプス・コンプレクス以前の時期)においては、あえて父親と母親の別を気にせず、母親との対象関係について考察しているようです。フロイトのエディプス・コンプレクスの図式を入れて考えるなら、悪くて強い父親が構成されて、去勢不安が生じて、その結果父親を超自我として取り入れるということになります。しかし、父親は威嚇的側面ばかりをもっているわけではありません。フロイトも理想化された「良い父親」への愛情という契機を強調しています。したがって、原則的には、クラインの「良い/悪い」のアンビヴァレンツにたえる抑鬱態勢という図式を父親にも適用すればよいでしょう。一般的に(研究者の間でもしばしば)、超自我は罰するものとして自我を規制するという見方がされますが、フロイトにおいても、父親のようになりたいという理想化機能が重視されています。したがって、「良い親」と「悪い親」が総合されて、「正当な理由から罰を加える模範としての親」が内的対象として構成されて、超自我になると考えればよいでしょう。
前々回および前回プリントからウィニコットの移行対象論 コフートの自己心理学(ページを改めてプリントアウト、多分今日中に終わらないと思うので) コフートの自己心理学 コフートはアメリカの精神分析家で、精神内装置の一つとしての自我とその防衛機制に焦点を当てる従来の自我心理学に対して、全体的自己のまとまり(凝集性)に焦点を当てる自己心理学を提唱した。そのキー概念は、自己対象 self-object, selfobject である。自己対象とは、自分とは切っても切り離すことのできない自分自身の延長として主観的に感じられるような対象のことを指す。つまり、自分でもあり対象でもあると感じられるような存在のことである。人間は、このような自己対象を通じて、自己の凝集性まとまり、活力、調和を維持するとされる。対象関係論における内的対象の場合、外的対象が内面化されると考えられるが、それに対し、コフートの場合、自己対象のもつ機能が自己の機能に変容するという発達の道筋がたどられる。自己対象は、やがて人物像の形を失ってその機能のみが自己の機能として残り、自己対象との関係のパターンが自己の心的構造に変容してゆく。これをコフートは変容性の内面化と呼ぶ。治療は、抑圧された無意識的なものを解釈を通じて意識化することで起こるというよりも、何らかのかたちで阻害されている変容性内面化を引き起こすことによって起こると説明される。というのも、フロイトの見た患者は、自分で自分を律し、許せないものを抑圧する「罪責人間」が多かったのに対し、現代アメリカ人は、まとまりのある自分を追及しようとして、それに失敗する「悲劇人間」が多いからである。 自己対象のもつ機能(やがては自己の機能になる)とは、鏡映機能と理想化機能である。そして、その機能に応じて鏡映的自己対象と、理想化された親イマーゴ(イマーゴ=対象の内的表象の元型)という二種類の自己対象が区別される。鏡映的自己対象とは、主体の状況を映し出してくれる人であり、たとえば幼児が喜んでいるときに一緒に喜んでくれる人のことである。このような人が自分を受け入れてくれ、安心感を与えてくれるような環境のなかで、全能感をもった誇大自己が形成される。しかし、現実との葛藤のなかで、誇大自己が保てなくなると、自己対象に誇大感が投影され、理想化される。つまり、自分の延長と感じられる自己対象を理想化することで、代理的に誇大感が保たれる。こうしてできるのが、理想化された親イマーゴという自己対象である。 このふたつの自己対象は幼児期に共感的環境を形成する。ここでは自己と対象が不分明である。ただ不分明な「自己―対象」関係がある(自己と対象どちらが先ということもなく)。そのなかから次第に、中核的自己が育ってくる。自己対象の鏡映機能と理想化機能は、野心追及と理想追及という自己の機能に変容してゆく。そして、自己は、「野心―理想」の両極のあいだで才能と技能を発揮し、自己実現してゆく。このような自己のあり方をさして、「両極的自己」の図式が描かれる。こうして、自己対象の変容性内面化を経て、凝集性まとまりのある自己が形成されてゆく。 逆に言うと、自己対象の共感的環境が得られないと、自己は凝集性を欠き、もろくなり、空虚さを感じるようになる。そしてそれを埋め合わせてくれるような対象を求め、転移が生じる。鏡映機能と理想化機能に応じて、鏡映転移と理想化転移というふたつの形態が区別される。鏡映転移とは、承認と受容の欲求から、相手を「受け入れてくれる人」だと思いこむものである。理想化転移は、より理想的現実(理想を体現した人)と結びつきたいという欲求から、相手を「素晴らしい人」だと思いこむものである。さらに、第三の転移の様式として、双子転移が類型化される。それは、他者を自分自身のように経験したいという欲求から、相手を「自分と似た人」だと思い込むようなものである。 治癒の場面で、分析者は患者にあたかも親的存在であるかのように共感によってアプローチする。それによって以上のような転移が生じるわけだが、そこで、適切な自己対象を見極め、またそれによって育まれるという体験を通して、適切で健全な依存能力を再獲得することが、治癒につながる。患者の転移は新たな発達のステップとして利用される。分析家に依存することが踏み台になって、患者はもっと早く親(的存在)との関係において成し遂げるべきであった発達を成し遂げることができるようになる。これは、「自立/依存」の二分法への異議申し立てである。これまで、現代心理学は、依存から自立への移行を発達と考えてきたが、完全な自立など不可能である。自己と自己対象の関係は、大人になってからも引き続いてゆくのであり、発達とはむしろこの関係の質の変化を指す。依存なくして自立なし。自立している人ほど、適切に依存している。つまり、自己対象に依存しつつも、野心と理想の両極のあいだで、自分自身の才能と技能を発揮してゆくのである。フロイトが自立した人間同士の対象愛を成熟と考えるのに対し、コフートは依存しつつ自分を伸ばしてゆくという「健全なナルシシズム」路線を打ち出したと言える。
第9回(20001128) 質疑応答(03216書き直し、前に来て下さい。それから全体的に、寝ている人のコメントはやっぱりよくないようです。コメントによる平常点は重視して下さい) 今日は、ほとんどあらゆる質問に答えるぞ。
Q「移行対象はぬいぐるみや毛布など、物に限られるのでしょうか」 →限られません。人でもいいし、神でもいいのです。現実的意味を持つ主観的構成なら何でもいいのです。ということは、基本的にあらゆるものが移行対象なのです。これは次の質問への答えにもなります。
Q「何をもって移行対象とするのでしょうか。移行対象にならないものはあるのでしょうか」 →自分にとって意味のあるものはすべて、基本的には移行対象です。ごく一般化すれば、1)過去のある対象の経験にもとづいて主観的に構成されたイメージが現在の別の対象に投影されている(=移行対象)、2)それがあるからこそ現在の新たな経験が経験として組み立てられる(それがなければ、経験は意味をなさない)。ごく簡単に言うと意味の学習と応用。経験―移行対象―経験。 しかし、そのなかでも重要な意味をもつ対象が、とりたてて問題となるわけです。ウィニコットの場合、乳児にとっての母親が何よりも重要な対象と考えられています。乳児にとっての環境・対象は母親(的存在)のみです。それが発達とともに広がってゆきます。より広い環境に適応することは、母親との経験を複雑に分節し、別の経験に橋渡ししてゆくような移行対象の助けを借りて行われるということです。こう考えると、人間にとっての世界のあらゆる有意味な対象は、母親から枝分かれしているということになるでしょう(生身の母親は、世界の一部として再定義されてゆく)。触手が枝分かれしながら伸びてゆき、現実をまさぐり、現実に適応するように形を変えながら(錯覚―脱錯覚)、世界そのものをなぞってゆく、そんなイメージでしょうか。
Q「移行対象のようなものをもった経験は私にはないのですが……」 →上の説明からすれば、そんな人はいないということになるのですが、これは実感としてないということですね。たとえば、おもちゃで遊んだことはありませんか。何か大切なものは持っていませんか。これまで自分の人生のなかで出会ってきた大切な人とはどんな人でしょうか。そういった事柄が、すべて移行対象になりえます。
Q「ぬいぐるみのような移行対象と神表象のような移行対象にはどういう違いがあるのでしょうか」 →物理的実体を持つか持たないかということですね(厳密には「物理的実体」も意味付与なしには成り立たないが)。神は我々の住む物理的世界を何らかのかたちで超越するものとして表象されるので、脱錯覚が、別の対象との置き換えという形をとらずに、表象の仕方の変容という形をとります。神は無限に柔軟な移行対象です。そこで、成人した人間にとっての神は、たとえ現実の親との経験が基本にあったとしても、現実の親よりも安定した対象として、その人を支えることがありうるのです(これは本講義の重要なテーマです)。それが神の魅力であると同時に、また危険な面でもあるのですが。
Q「『こんとあき』の作者は、移行対象などといったことを考えていたのでしょうか」 Q「宗教心理学では何かと文学作品を分析していますが、作者が意図的に宗教心理学に沿うように書いているわけではないですよね」 →宗教心理学に限らず、精神分析以後の心理学者は、よく芸術作品を心理学的に分析することがあります。その場合、別に作者が心理学の知識に基づいて書いていることを前提にしているわけではありません(もしそうだとしたら、フロイト以前の芸術作品は分析不可能になります)。作者と読者が共有しているような人間経験のなかでも、心理学的に説明できる側面というのが問題になっているのです。『こんとあき』の作者である林明子さんも、ぬいぐるみを移行対象として実際に経験しているだろうし(別に「移行対象」なんて言葉は知らなくても)、読者にもそういう経験があるでしょう。そのような経験を背後に読み取り、作者が書き、読者が興味深く読むことの意味を、別の文脈から明らかにし、それを通じて心理学的知識の深化を図ろうというのが、心理学的分析の目的です。
Q「こんが移行対象であるというのは分かるのですが、「錯覚―脱錯覚」の話とはどうからんでくるのでしょうか」 →脱錯覚されて、重要な対象でなくなり、捨てられるはずのぬいぐるみが、物語のなかでは捨てられない。いったん死んで、生まれ変わる。そこが現実と違うファンタジーの世界。移行対象は現実世界では捨てられ、置き換えられるが、その心理的機能は、別の対象のなかで生き残り、永遠の価値を持つ。誰もが、無数の移行対象を捨ててきたはず。それを想起することは、今日に至るまでの自分の人生を支えてきたさまざまなものの大切さを噛みしめることにつながる。大人は、そんな気持ちで、自らの子ども時代からの経験を宝物にしながら、自分の子どもの養育的環境の一部として働けたらいい。子どもが読んでも大人が読んでもそれなりに意味がある絵本は、やはりすぐれた作品だと思います。(もちろん、読者は「移行対象」なんて言葉を知らなくても、自分の移行対象にまつわる経験を、たとえ意識せずとも読むことを通じて喚起させられているだろうという解釈です。)
講義 前回配付テクスト(16頁)。 なお、比較的分かりやすい(それでも結構分かりにくい)参考文献として 和田秀樹『<自己愛>の構造――「他者」を失った若者たち』(講談社選書メチエ)
第10回(20001206) 質疑応答 「(ウィニコットの場合)移行対象の内容が、つらい経験に満ちていたらどうなるのでしょうか」 「(コフートの場合)自己対象が、鏡映的機能と理想化機能を果たすということですが、親が子どもの意思を無視したり、理想化できないほどひどい親だったらどうなるのですか」(同様の意見多数) →発達上の障害となります。プレ・エディプス期が問題となるので、自我の形成そのものに問題が生じると考えられ、いわゆる人格障害の原因として考えられます(コフートは次第にこれが現代アメリカ人の多くの抱える問題であるとして一般化してゆきます)。コフートの治療論によれば、分析家に対して起こる自己対象転移を操作することで、この発達上の欠損を補うことが治療であるということになります。詳しくは、あとでやる症例を参照して下さい。鏡映機能がうまくゆかないと「サイレント・ベイビー」のような状態になったりします。理想化機能はもうちょっと複雑で、どんなにひどい親でも、それが養育者であり、子どもより圧倒的な力を持っている場合、親が悪いとは思えず、自分が一方的に悪い子なのだと思い込むようになります。このようなケースでは、分析者は理想化転移を引き起こそうとするよりも、受容的な鏡映機能に徹します。強い親が欲しいのに、親に失望するようなことがあったという場合は、理想化転移が有効になるかもしれません。
講義 16頁の後半
対象関係論・自己心理学以後の心理学的宗教論 マイスナー『精神分析と宗教体験』(未邦訳) フロイトの無神論は、宗教に対するフロイト自身の未解決のアンビヴァレンツによるものである。著作では迷信をやたらと攻撃するが、日常生活では迷信におびえていた。ユダヤ教を批判しながら、モーセを理想としていた。 自我心理学は、フロイトのように自我を欲動と現実の葛藤の産物とするだけでなく、その積極的側面である現実適応能力をも評価する。宗教に関わる自我も、幼児的願望と現実の葛藤の産物とするだけでなく、複雑で苦悩に満ちた現実に適応するその能力をも評価するべきだ。人は宗教に関わることで、現実のなかでの自己のイメージを作り上げる。[言い換えると、環境の複雑性を縮減しながら、安定した自己定義・自己理解をするためには、何らかの超越的視点が必要ということ。しかし現代社会は、宗教によらずに複雑性を縮減する仕掛けを用意している。] 信仰、神表象、象徴、祈りは、ウィニコットの言う「移行現象」として扱うことができる。移行現象の原初的形態は、乳児が、毛布やぬいぐるみへの愛着によって、母親から分離する痛みを和らげようとすることに求められる。一般化すれば、内的世界と外的世界の双方と適合するような対象、「移行対象」を媒介として、古い関係性から新たな関係性に入ることである。移行対象とは、言い換えれば、客観的効果をもつ主観的構成物のことである。この移行対象への錯覚と脱錯覚を繰り返しながら、幼児は次第に現実検討能力を増してゆくことになる。[だが、大人になっても未知の領域を前にすると、人間はこのような移行対象を手がかりとせざるを得ない。抽象度の高い科学的理論や、宗教的信仰対象なども、移行対象として理解することができる。このような概念を宗教現象に適用することは、幼児心理への還元とは言えない。なぜなら、これは大人においても起こる、未知なものとの経験の様式であるからだ。また、このような見方から、宗教的真理主張は日常的現実の引き写しである必要はない、という結論が引きだされるだろう。むしろ、それを方便として現実の生が充実されれば、それで良いということになる。]
リッズト『生ける神の誕生』(未邦訳) 家族と生育歴と宗教生活に関する情報を集めたうえで、その患者に家族と神の絵を描かせるという方法。そこから幼児における神表象の成立に関する仮説を立てる。 子どもは、世界との相互関係、経験を内面化するために、さまざまな対象の表象を用いる。さらに、それらはより高単位の表象のなかに結合されてゆく(抱かれた感覚、母親の声、親を理想化したい欲求などから、複雑な内容をもつ母親の内的表象へ)。他方、子どもはある時期に、世界の起源に対して疑問を持ち、「なぜ」という疑問に答えるために神的表象を用いることがある。場合によっては、それを通じて事物が存在するという感覚を養っているかのようである[日本人にとって卑近な例:子どもはお化けの話が好き。けがをすると罰が当たった、痛いの痛いの飛んでけ。やたら怖がりで、怖いテレビに興味があるが、見るとそのあと眠れなくなる]。このような神表象は、内的対象の表象の総合という前述の過程の頂点にある。また、内的対象の世界の整理と総合が進むと、自己の統合の感覚も安定してくる。したがって、神表象と自己感覚は相互依存的に発達する。このように幼児期に形成された神的な表象は、信仰をもたない人にも何らかの影響を及ぼしている。このような心理学的観点からすると、完全な無神論は不可能である。無神論者は、自らが否定すべきと考えている神について、すでに一定の理解を用意しているからである。そして、彼らは暗黙のうちに神に代わる対象関係の参照点を持っているからである。そうでなければ彼らの内的対象の世界は断片化したままである。 また、「神」は非経験的な対象であり、無限に柔軟なので、個人の生を通じて再創造されてゆく。したがって、ぬいぐるみや毛布などの移行対象とは違って、最終的に捨てることができない(別の「神」に姿を変えるだけ)。なお、ジョーンズは、ウィニコットの移行対象は、意味を失っても忘れられることがなく、形を変えて心のなかに生き続けるものであることに、注意を促している。移行経験の能力そのものが問題なのであり、人生における移行経験の能力が不可欠だからこそ、その最高次の表象も容易に捨てられないのだと考えたほうがよいとする。見方を変えると、神表象が再創造されてゆくということは、人生の各発達段階において、関係性の変容の度に、信仰の危機が訪れるということをも意味しているのである。
第11回(20001213) 質疑応答
「コフートの依存しながら自立という発達の筋道は、フロイトよりも、実際の人間の生き方をよくとらえていると思う。人は、依存しながら生きていくものだと思う」 →という人がいるかと思えば、 「私は「甘え」という言葉にはいい印象を受けないのですが、健全な依存(=甘え)とは、どういうものですか」 →という人もいる。この人が、「甘え」や「依存」に感じる不快感の出所は、次の人が説明。 「人は誰でも何かに依存せざるをえない。現代は、自立志向は高いが、自分勝手なだけの人が多い。そういう人は、不適切な依存をしていることになるだろう」 →そこで、不適切な依存の要素を簡単にまとめると、1)依存に無自覚、依存を否認、2)依存している対象を大切にしない、迷惑をかける。これを逆転させると、自分を成り立たせているものを正しく認識し(正当に評価し)、それを尊重するような依存の仕方が、適切な異存の内容になるといえるでしょう。エリクソンの図式でいうと、若年成人期の「親密性」にあたるかもしれません。
「リッズトのところで、無神論者であっても神表象を持っているという話がありましたが、絵を描くくらいは誰でもできると思います。私は信仰をもっていないのですが、自分の発達段階においても、神的表象が影響を及ぼしているのか疑問です」 →類似のコメントがいくつかありました。それに対して、 「子どもはいろいろなことについてなぜと疑問に思うのだが、それに対して親たちは確かに、神という言葉は使わなくても、何らかの象徴的な概念を使って答えていると思う。私自身、神の存在はあまり信じていないが、「神的表象」をこのように広く考えると、それに近いものが自分の中にもあるのかもしれない」 →多分、日米の宗教的環境の違いも考慮しなければならないと思います。アメリカでは、いまでも、公人が無神論者であることを表明することは信頼失墜につながるそうです。日本の研究者には、「自然」という言葉から連想するものを聞いてゆくということをやっている人がいて、そこからはっきりとした信仰対象でなくても、何か包み込むような存在についての概念がもたれていないかということを調査している人がいます(未発表)。 ところで「絵を描くこと」についてですが、この授業でも最初のほうでやりました。それに対する疑問がくすぶっているということですね。宗教的表象とは基本的に集合的なものであるが、それは個人によって違うところがあるかもしれない、というのが、宗教心理学の重要な発見の一つだと思います。ただ、表象の集合性を別に否定はしておらず、それについては文化的なものとして論じられます。しかし、個人の症例に即して見てゆくと、どうしてこのような絵を描いたのかという原因が、生活史的な要因から明らかになることもあるわけです。その場合、問題になるのは、集合的に共有されたイメージや絵柄といったこと以外の細部になります(この講義でも、文化的問題と個人的差異の両方に分けて考察しました)。 絵本についてのコメントでも、「解釈」への不信感のようなものが表明されていたと思います。それに対して、再度お答えしましょう。象徴解釈の要点とは、次のようなものです。細部に宿っている無意識的な意味を拾い出し、それを提示することで自明と思っていたことが違ったように見えてくる、その妥当性はそれが当事者にとってしっくりくるものとして受け入れられ、現実的な変化や効果(治癒)が生じるかどうかにかかっている(もちろん、このような解釈は、一義的で絶対的な答えとしては考えられていない)。こういう方法は、一義的な答えを科学的に探究するという姿勢とは、かなり異質ですが、ある一定の戦略的意味を持っていると思います。逆に、「実証的」とされる研究のなかには、データ化の段階での解釈者のバイアスを見落としてしまうようなものもあるのではないでしょうか(これも表面的なもののみを単純化し、抽象することで十分である、もしくはそうすることが必要である場合は一定の有効性を持つ)。
講義 症例研究――自己イメージと神 〜ジョーンズ自身の症例から神表象と自己イメージの関連を探る(治療後に、神表象と自己イメージについて尋ねる。信仰の話と、治療そのものは別)。
Part1 虐待と懲罰的神表象 1)シルヴィア 27歳、秘書。5歳の時に、東ヨーロッパからアメリカに家族で移住。東欧人達のペンテコステ派のゲットー[孤立集団地区]で生活。両親は亡くなるまで英語を話さない。周囲から孤立。人々は、他人に対して疑り深い。また集団内にもいくつかの人間関係の壁。 児童期の性的虐待と近親相姦。誰にも言い出せない。母親に話したところ、「汚い」と言われ、石鹸で口を洗われる。秘密、自分は他人と違う、引きこもり、孤立。コミュニティの人々も引きこもるシルヴィアを避けるように。ゲットーを脱出して家出、高校の友人と同棲。友人の紹介で働きだす。 コミュニティからの孤立、疑惑、発見されるのではないかという恐怖、家族の無関心、罪悪感や怒りなど、これらの情動が、治療の場で理解され、受容される。治療の場は、それができる安全な場所に。 「自分には間違ったところがある」「自分は人と違っており、理解されない」、他者に受容されることの拒絶、孤立へ(主訴)。 治療を終える際にジョーンズに言った言葉「あなたは何時間ものあいだ、私と戦ってくれました。あなたが私を受け入れようとするのに対し、私が防衛する、それと戦ってくれました。結局、あなたがそうしてくれたのは、私のことを配慮ケアしてくれるからだということが分かりました。この戦いを通じて、自分が人から受け入れられるということを拒絶するやり方が、どういうものかが分かりました。それが分かったということ、これが、治療のなかでもっとも大きな変化でした。今、私は人の配慮や賛辞を受け入れることができます。虐待に直面することを、あなたはせかしたりせず、またそんな私を責めることなく、寛容でいてくれました。“私を理解して欲しい、怒らないで寛容でいて欲しい”と、人に要求することは、別に間違ったことじゃないんですよね。というか、間違いじゃないんだって思いました。誰かが私と一緒に頑張ってくれる、私のことをケアしてくれるという経験、これが治療のなかで一番助けになったことです。人から理解されることを通じて、自分自身を理解することができました。私の身に起こったことを、私自身が理解し、受け入れることができるようになったのも、あなたがそれを理解し、受け入れてくれたからです」(cf. 鏡映機能) 信仰の変化(治療後に質問)。「私は以前は分別くさい宗教が好きでした。でも、それが有害だということが分かりました。今は、以前なら決して見ようとしなかった神の愛について触れた聖書の箇所を見るようになりました。私にとって、神はもはや審判者ではなく、慈悲深い存在となりました。神の愛は私の誤りよりも大きいということが分かるようになったのです」。 治療における忍耐と受容と寛容、神の忍耐と受容と寛容、自分自身に対する忍耐と受容と寛容。 ジョーンズ「自分の誤りや罪悪感を受け入れるのに、神の愛は役に立っていなかったのですか」 シルヴィア「神が愛ある方で、いつも私のことを守っていてくださってるということは、頭では分かっていたのですが、それを実際に感じたり経験したりすることはありませんでした。逆に、自分自身を受け入れられるようになってはじめて、実は神や他者が自分のことを配慮してくれていたんだということを受け入れることができるようになったんです」
2)バーバラ 35歳、福音派プロテスタントの背景。嗜癖のある女性のためのソーシャルワーカー。思春期に兄との近親相姦・性的虐待。父親から捨てられ、母親に育てられる。三人兄弟の末っ子。長男は放課後働きに。次男が彼女の面倒を見、彼女に八つ当たりを繰り返す。 20代半ばに大学院で出会った男性と結婚。夫との関係は良好だったが、バーバラは、母親になることに不安を感じ、子どもを作ろうとしない。夫は子どもを欲しがっていた。またバーバラの仕事はハードで、出産・育児に懸念。子どもを作る作らないが、結婚の危機にまで。抑鬱と自殺念慮。ジョーンズのもとに来談。3年間、面接。そのあいだに転職、妊娠、抑鬱解消。 バーバラ自身の書いた宗教生活に関する手記(治療が一段落したところで、神表象について質問したところ、詳細なレポートとして持ってきたもの)。 幼児期の神表象=万人の記録をつけている審判者としての神(あごひげの老人)。兄との関係で罪悪感。無価値感。性的虐待が始まったころ、地元の教会員に、しかし罪悪感を強められ、救いにならない。許しは道徳的完成に付随して起こると教えられるが、それは近親相姦中の彼女には無理なことだった。 若年成人期の神表象=20代のころ、大学院を出て結婚し仕事を見つけたころ、友としての神、仲間としてのイエスというイメージ。夫や患者や同僚や治療者との連帯感、自分自身に対しても良い感情。しかし、慢性的な抑鬱状態は緩和されなかった。 現在の神表象=言葉では表せない。そこで、美しい自由造形の彫刻をもってくる。その頃、バーバラは彫刻教室に通っており、また太極拳やエアロビクスもやっていた。脈動するような色彩。抽象形式の花や葉のように見える。成長と生命。エネルギーや力。「神のうちに、われわれは生き、動き、われわれとして存在する」という新約聖書の一節を、彼女は引用。神はいつも、そこにいる。普遍的だが、親密なほど個人的で、永続的な生命のエネルギー。 ジョーンズに対する言葉「あなたが私を受け入れてくれたのが良かった。私があなたのことを一生懸命締め出そうとしていたときさえ、あなたはそこにいてくれた。それが私にとって、大きな慰めでした」。 いつもそこにいてくれる存在。成長への意志。治療者と神。
シルヴィアとバーバラの症例における変容のプロセス 「虐待→罪悪感」のメカニズム ・自分が依存している人間を悪と見なすことは苦痛なので、自分が悪いと考える。 ・虐待が起きたのは、自分が唆したからだ。 ・自分は悪い人間なので、つらい目にあうのも当然。 ・他者から理解され、受け入れられたり、自らが幸せになることは、以上の図式を揺るがすことになり、虐待の再定義を促すことにつながるので、抵抗。 ユダヤ・キリスト教における懲罰的神観念の形成プロセスと類似。民族迫害の歴史から、迫害されるのは自分たちが罪を犯したからだと結論(神義論)。実際には、キリスト教のなかには、それを越える愛と許しの言語が用意されている(イエスやパウロの律法主義批判)。しかし、これらの言葉も幼児期・思春期においては、怒りと拒否の感情という文脈の中で理解され、内面化されてしまう。自己の形成や歪曲に決定的影響を与えるのは、認知的内容ではなく感情的性格ということ。そこで、彼女達の場合、宗教を通して、 ・許しを希望しては、それが果たされないものであることを思い知る というメカニズムが付け加わる。 ジョーンズの受容的態度を望むと同時に抵抗。「あなたにそんなつもりはないでしょ」「仕事だからそういう態度をとっているだけだわ」「本当の私を知れば、きっと私のことを憎むはず」 愛や受容という言葉自体は、家庭環境や宗教的環境のなかでこれまでも聞いてきたが、つねに冷酷な響きがあった。シルヴィアとバーバラにとっては、自律性への努力を励ます自己対象よりも、真に共感的な自己対象の働きをするような神が必要だった。シルヴィアの「神の愛が直接役立ったのではなく、自分が自分自身を受け入れるようになってはじめて神の愛に気がついた」という発言の理由(神の愛は言葉だけで生きていなかった)。教義のレベルと、それがコミュニケートされる対象関係の文脈のレベルの違いに注意。治療者が共感的自己対象の役割を果たし、それが内面化されて、自己受容と自己理解が可能に。そうしてはじめて、愛や許しの教義が再発見される。 「私が以前好んだ聖書の物語は、ソドムとゴモラに対する神の罰でした。それから洪水の話などは、子どものころに何度も読み聞かされていました。しかし、私は先日、神が世界を破壊したことを後悔したと書いてあるのに気がつきました(罪を犯して滅んだ人のために苦しみ、悲しむ神)。また、イザヤ書を読んでいて、神の手のひらには私の名前も書かれているんだ、ということが分かりました。私はそれを読んで泣きました。どうしてこのことを誰も教えてくれなかったんだろう。神がご自分の破壊性を後悔しているのに、なぜ私の家族や牧師には、それができなかったんでしょうか」 宗教の立場では、因果応報は徹底されなければならない。さもなくば悪が許されてしまうから。しかし、それはまた、悲しいことでもある。そのため、自らが犯した悪を罪として認めた者には、神の恩寵によって、許しが与えられる(悪は許されないが罪人は許される)。これが、キリスト教の許しの教義。しかし、家族も牧師も、罰が下るという部分だけを強調した。そのことが、「虐待を受けたのは自分が悪いからだ」と信じ込むような心理的メカニズムを強化した。「虐待→罪悪感」のメカニズムを断ち切るためには、実際に、治療者に受容されたと感じる体験が必要だった。これも転移の利用の一例。「自分は受容されない、他人には分からない」と言って、他者を拒絶して孤立するというパターンを、治療場面にも持ち込むが、それは受容の要求でもある。実際に受容されることで、パターンは崩れてしまう。
ジョーンズの症例は、治療者や神への転移が、幼児期の対象関係の単なる反復ではないことを示している。たとえば「受容の発見」という転移は、過去において現実にはなかったもの、果たされなかった希望が転移されたのであり、それは反復というより再創造と呼ぶべきものである。そうして、転移を通じて対象関係が変わることによって自己感覚が変わる。自己対象の機能が、自分自身に対する態度に変容する。このとき、神の今まで見いだされていなかった別の側面が発見される。たとえ、現実の親は変わらなくても、無限に柔軟な神は、自己の参照基準として、発達とともに再創造される。絶対化されなければ……。
レポートについてのガイドライン
題目=講義全体の趣旨に直接関連するテーマを自分で設定し、原稿用紙4枚程度でまとめる(ワープロのプリントアウトで1頁程度)。枚数が少ないので、調べたことの引用よりも、自分なりに考えたことの主張に重きを置くように。
提出日は未定。 評価は、出席とコメント平常点とレポート点数を、3:3:4の割合でブレンド。 レポートについての感想が欲しい人は、メール・アドレスを書いておいてください。
レポートの教育的効果を高めるために、こちらから何らかのかたちでフィードバックする機会を設けたいと思っていたのですが、なかなか難しいようです。そこで、最低限のガイドラインとして、書かないで欲しいタイプのレポートの特徴を列挙しておきます(以下のガイドラインをあからさまに無視した場合、レポート点数0もありうるので注意)。 ・講義の要約が1/3を超えるもの。 ・何かを書き写したもの。 ・自分の意見がないもの。 ・根拠の乏しい主張、論理的飛躍の多いもの。 ・授業全体の内容と直接的に関係しないもの。 関係の薄いものはだめ。「関係しそうな本を図書館で見つけたので、まとめてみました」というレポートは、やめて欲しい。なお、枝葉末節についての意見もやめて欲しい。必ず、講義全体で扱ったことに注意を払い、それについての意見・感想を書くこと。
レポート付録(自由提出。試験期間中は忙しいという人は、冬休み明けでも、試験期間後でも、メールなどで提出して下されば幸いです。norick.h@nifty.com) あなたがこの大学で受けた講義のなかで面白かったもの、心に残っているものについて教えて下さい(「面白い講義の条件」のようなもの)。それからできれば、大学の講義で何を望むのか、希望している進路と大学での勉強をどう関連づけているのか、教えていただけると幸いです。今後の参考にさせていただきます。
第12回(20010110)〜レポート締め切りは1月24日、提出は人間関係研究室まで 質疑応答 「神との関係は人間関係に左右される、ということなのでしょうか」 →半分はそうといえます。しかし、フロイトの宗教論のように、神表象はすがりたいという幼児的願望に還元されるという立場に、ジョーンズが反対していることを念頭に置いて下さい。ジョーンズが言いたいのは、「人間関係→神との関係」の一方向的影響ではなくではなく、「人間との関係―対象関係―神との関係」が平行して変容するということです。したがって、「神との関係→人間関係」の逆の動きも、念頭に置かれているでしょう。
「他者に受容される経験を通じて、神による受容を理解できるということですが、誰にも受け入れられないからという理由で宗教に走ってしまう人もいるのではないでしょうか」 →シルヴィアもその口でしたね。ところが、絶対的で懲罰的な神表象に苦しめられることになったのです。そして、教会で教えられた神からは、決して「受け入れられた」という感覚を持つことがなかったのです。もちろん、他のところでは受け入れられなかったのに、ある宗教では受け入れられたという感覚を持つ信仰者もなかにはいるでしょう。苦難があまりにも大きいと、現世的なものでは解決できず、超越的なものに依拠するというパターンは、宗教の世界では確かに有力です。しかし、そのような信仰のあり方は聖職者になってしまえば問題ないのですが、普通の信仰者の場合、現実世界とどう折り合いをつけるかが次なる問題になってきます。宗教的対象関係と世俗的対象関係が隔絶しているような、このような信仰のあり方を、ジョーンズは症例を通して、暗に批判していると見ることもできるでしょう。
「ジョーンズのような人に会い、色々話を聞いてもらえば、「人の愛情」のようなものに気づくのは当然だ。それを「神の愛」とすることに抵抗を覚える」 →かなり誤解しているようです。まず、シルヴィアにしてもバーバラにしても、そしてジョーンズにしても、「人の愛」を「神の愛」としているでしょうか。一応は、別物と考えているのではないでしょうか。ところが、そこに奇妙な連動が起こっているのに気づく。それはどうしてなのか、ということが問題になっているわけです。そして、このことは、彼女達が宗教的背景を持っているということを前提にしているわけです。信仰を持たない人に、「あなたが感じている人間同士の優しさは、実は神の愛なのです」などというのなら、確かに飛躍があると感じられるでしょう。しかし、ここでの話は、それとはまったく次元も文脈も異なることです。多分あなたのコメントは、信仰者に「あなたが感じている神の愛は、実は人間の愛の変形したものに過ぎない」と迫るような内容になっていることに注意して下さい。これも一つの「信仰」(反宗教という名の信仰)でしょう。宗教学系の授業を担当している教官が伝えたいのは、“宗教をより包括的に多面的に理解するために、宗教を全否定も全肯定もせずに、徹底的に考え抜く”という態度だと思います。安易な反発と安易な賞賛は紙一重だからです。
「治療者が神のような存在として機能しているように思える。しかし、治療者にそこまで依存してしまうと、治療者から離れられなくなるのではないか」 →フロイト以来のオーソドックスな分析家たちが、転移を重視しつつも慎重に扱ってきた理由は、そこにあります。私も質問者と同じ危惧を持ちます。カウンセラーへの過度な依存は、クライアントにとっても良くないことでしょう。もちろん、このようなカウンセリング状況にうまく「適応」しているようなクライアントなら、カウンセラーとの距離をうまく取り、治療者に深入りすることもないでしょう。ただ、この場合に私が抱く危惧は、日常生活における他者との関係も、依存しつつ利用するという浅いものになりはしないか、ということです。アメリカのセラピー文化とパーティ文化は同根なのかもしれません。
講義〜症例研究の続き 3)ハロルド 41歳、会社員、生涯プロテスタント。15年、横柄な女性と結婚、妻は男を作り離婚。しかし、二人の息子の養育費を含めた生活保護費を払うことを要求される。 ハロルドの両親。不仲。父親はアルコール依存症、仕事人間。母親は父親に対して、道徳的優越感。ハロルドに口やかましい。妹は母親と女同士で連帯、男は信頼できないという雰囲気。母親の男性観を変えるべく、ハロルドは優等生に。学費を稼いで大学卒業、大銀行に就職、結婚、孫を作る。しかし、その努力も離婚で水の泡。 人生に対する基本的な姿勢は、まじめで良心的であったが、きわめて受け身的。出世のチャンスを見逃し続ける。家では、妻にすべて管理される。 離婚に至るまでの長い過程を通して、ジョーンズのもとに来談。つねに、セラピストの指示を求める。指示が得られないと怒る。しかし、相手に指示されると憤慨して、受け身で攻撃的になるというパターンが分かっていたので、ジョーンズは指示を出さなかった。 ついに、ハロルドは「アドヴァイスをくれない」と怒りだす。そこで、彼が怒ったといってジョーンズが批判すれば、いつものパターンに。しかし、ジョーンズはそれをしないで、ハロルドの怒りを受容。それによって、彼は自分自身が演じてきた受動性のパターンを理解できるように。以後、ハロルドの生き方は受動的でなくなり、仕事上でも自己主張、転職、また一方的な離婚調停にも合意しなくなった。 ジョーンズは神イメージに変化がなかったか聞いてみる。「私はもう、神が自分のために何かをしてくれと祈ったりしません。以前は、私が何をすべきか教えて欲しいと祈っていました。しかし、今は聞くだけでなく何かをしなければならないということが分かっています」。 ハロルドの以前の神概念=自分の得点表をつけていて、わずかな誤りも見逃さない存在。神との関係は恐怖と不安と怒りに満ちていた。彼自身も「自分が悪い、間違っている」と言い聞かせている(過酷な超自我の存在)。また、母親や妻との関係は、神との関係と似ていて、受動的で、つねに罪悪感を感じさせられるようなもの。 現在の信仰生活。物事の善悪の判断を他人に仰がなくてすむよう、宗教について積極的に学ぼうとする。教会で、職業倫理に関する研究会を組織するように。 <考察> 従順で防衛的な自己と、スコア記録係としての「神、母、妻」のセット。自己主張をすると、遺棄不安(見捨てられるのではないかという不安)に。ジョーンズが指示を出さずに自己主張をすすめると、遺棄激怒(命令してくれない、俺を見捨てるのか、という怒り)。「ハロルド、君は息子達のことをどうしたいのかな」「君は職場の状況をどう変えたいのかな」とつねに尋ねる。そして、アドヴァイスをいっさいしない。ハロルドは怒る。さらに、怒りの奨励、怒りの意味を指摘し続ける。現実の母親、妻は変わらないが、彼の神は、要求・支配する存在ではなく、自発性を尊重し、励ます存在に。 アドヴァイスの要求、アドヴァイスしてくれないことへの怒りは、「母―神―妻」への感情・態度が、ジョーンズに転移されたことを示す。怒りという転移を逆にすすめることで、対象関係が変容する。これは、転移の利用を意味する。治療者が鏡となって、怒っている姿を映し返す。それによって、怒りの意味を理解させる。つねに、他人に振り回されていると感じていたが、実は自分がそれを要求していたのだ。自己理解のずらし。 怒りすらも受容し、ハロルドの自己主張を助長する治療者が、自己対象となって、ハロルド自身の自己構造が再創造される。つまり、自らの受動性のパターンを洞察し、健全な自己主張ができるような自己に。
4)マーティン 39歳、大きな大学の英語の助教授。素晴らしい博士論文。しかしスランプに。何も書けない。友人が公衆の面前で話をすることへの恐怖を、ジョーンズの数回の催眠で、克服したと聞いて、来談。しかし、催眠を数回するも効果なし。情熱ある学生たちの前では生き生きとしていたが、そこから離れると気力が無くなる。執筆中の本に登場する作家にジョーンズが言及しても、無反応。 父親は医者、母親は教師・高校の校長。子どもにはあまり関心がなく、良い成績をとれというプレッシャーもなかったが、名門大学に進学。マーティンは、当初ジャーナリストや作家になりたかったが、両親は学問に傾倒していたので、彼も学問の道に。 大学院で、詩人であったジェニファーに出会い、結婚。互いに支え合う。 一人になると起こる、空虚感に飲み込まれる恐怖。冷淡だが競争的雰囲気に包まれた家庭環境を連想。幼いころから、怒りの感情をコントロールしてきた。現在ではそれが他者への知的批判に置き換えられている。辛辣で的を射た批判は、学者としての出世につながる。また、出世は両親の目を引きつけることになる。しかし、業績づくりと、ポストの獲得が終わったいま、その必要がなくなる。今や、他人を批判するだけでなく、自分自身の言葉を創造する必要があったが、そのための資源が自分にはない。 治療の過程で、怒りの感情が噴出してきた(コントロールされた知的な批判・皮肉を超えて)。そこで、1日1時間、怒りの言葉をタイプライターで打ち込むようアドヴァイス。それが1ヶ月続く。やがて、自分が見逃していた重要なテーマが見つかり、本の執筆が完成。 マーティンは宗教的でない人。そこで、人生観について尋ねてみる。学生のとき、宗教は馬鹿にすべきもの、非難すべきもの。マーティンによれば、世界はニュートン物理学を反映したようなもの(アインシュタイン以前の、絶対時間と絶対空間に規定された、スタティックな宇宙。主体と切り離された客体としての宇宙)。「われわれの生きる現実がいかに無意味か、にもかかわらず生きる理由を見つけなければならない。そのような恐怖にかられながら、しかし、それをごまかし、やり過ごす。そういう無数のやり方を記録することこそが、現代小説のテーマなんです」。世俗化した社会における人生の意味の終わりなき探究。彼の人生も、真理の終わりなき探求、徒労に終わるような探求。 ジョーンズに対して、距離をとり、感情を抑制。ジョーンズの共感と理解を馬鹿にし、怒り、皮肉る。ジョーンズはその怒りを奨励する。そのうち、ジョーンズのほうこそ感情を抑制しているではないかと、マーティンは非難。その時、「ジョーンズは真理から彼を遠ざけている」「小説は真理から彼を遠ざけている」「両親は彼を遠ざけている」のあいだの平行性が気づかれる。そして、それらすべてへの怒りに気づく。学問的追及を怒りのはけ口にしたり、そこに無い物ねだりをすることの不必要さに気づく。 「世界観が変わりました。世界は、別に何かを隠しているわけでもないし、私が真理を発見できるかどうか試しているわけでもありません。そこには創造やエクスタシーもある。異なった作家が現実の異なった側面をとらえ、異なった批評家たちがそこからそれ以上の意味をくみ取り、創造してゆく。私はそこで、仕事をすることに満足を覚えます。別に「答え」(究極の真理)を見つける必要などないのです。何もないところから何かが生まれてくるこの宇宙は、神秘です。そこで創造することは、私たちを人間的にしてくれます」。冷たい親子関係と戦闘的無神論と、執筆のスランプ。人生の神秘と複雑で豊かな世界観と、執筆を通しての無限の創造への参入。 <考察> 他者に対する彼の辛辣な発言を、ジョーンズは「怒り」として解釈。しかし、マーティンは「客観的な評価だ」と反論。そこで、信頼関係が育つまで待つ。すると、ジョーンズへの批判。「心理学は人文科学でもなければ自然科学でもない中途半端な学問」「机の上が片づいていない」「前回話した内容なんて覚えていないんでしょう」。ジョーンズは、何とか防衛的にならずに答える。マーティンの言うことに同意し、批判してくれたことに感謝。「批判→防衛→再批判」というパターンをずらす。 学問的批判は、実は怒り。怒りは、実は人間味あふれた関わりへの欲求から発している。人間味あふれた関わりを望んでいるのに、遠ざけられているという怒り。(しかし、ここで「人間味あふれる関わり」をジョーンズが演じて見せても、マーティンは乗ってこないだろう。この点が先の事例と違う点) 治療の転機は、「ジョーンズのほうこそ、感情を抑制して、自分を遠ざけているのではないか」という怒り。親に対する関わり欲求が、ジョーンズに転移された。同時に、彼自身の世界との関わり方をジョーンズに投影している。したがって、ジョーンズへの怒りは、自分自身への怒りでもある。世界と関わらない態度、自分の優越性をアピールしあい、批判を応酬しあう態度、それは、彼の両親の態度でもあり、彼自身の態度でもあった(自己対象の変容性の内面化)。そのことに気づくことで、それが相対化される。そして、実は自分が心底望んでいる、「世界や他者との人間的関わり」の可能性を追求するほうに転じる。治療者への転移は、最初は幼児期の対象関係の反復だが、それがこれまでになかった全く別のものに生まれ変わる。転移は、対象関係の反復であるだけなく、絶えざる再創造の一環という主張を裏付ける。
以上、4つの症例の経過と治療のダイナミズムを見てきたが、ここまででジョーンズのもっている宗教観の雰囲気が伝わってくる。もちろん、それはクライアントとの相互作用の結果なのだが、これが従来の宗教理解とどう違うのか、フロイトの宗教論とどこが違うのかを、次回は考えてゆきたい。第13回(20010117) 質疑応答 「患者は神の愛や信仰をキーにして症状が回復しているが、それはジョーンズが信仰を操作しているからである。治療は洗脳と紙一重なのでしょうか。治療によって宗教観を変えることは倫理的に正しいことなのでしょうか」 症例研究の冒頭で断ったにも限らず、「ジョーンズは治療に宗教を使っている」と誤解している人が2名いる。ジョーンズはあとから神イメージについて聞いただけで、それをセラピーの素材にはしていない、ということをもう一度確認するように(あるいは授業によく集中するように)。患者の個々の悩みと解決に宗教が直接的に関わっているというのではなく、あとから聞いたら、信仰上の心境の変化も連動して起こっていたということ。そこから間接的に宗教が関係していたことを示しているだけ。まして、ジョーンズは「宗教を使って」(?)治療しているのでもない。
「ジョーンズは「怒り」の感情に限定して対象関係を変えているが、感情には他の側面もあるのでは」 →たまたま前回の2例が類似しているだけ。前々回の症例を忘れたのか?
「宗教を全否定も全肯定もせずに……とあったが、心理学を学び、“どちらかの立場を示すために対立する立場を否定して倒す”というものの考え方を習っている私には、そのような立場は非常に難しいと思った。意見を強く持ったりすることはないのですか?」 →「全」のところに注意。たとえば神の存在は、科学的に証明することも反証することもできない、もしそれをやってしまうと非科学的になってしまう。同様に、検証可能性・反証可能性のない命題を信奉する宗教は、全否定することも全肯定することも、科学の立場では不可能。なお、上記の人の科学観は、方法論的にはあまりにも大ざっぱ。これなら教義論争だって政治運動だって井戸端会議だって当てはまる。科学的判断は常に暫定的で修正可能なものであり、絶対的なものではない。科学者は自分の出した結論に確信をもってもよいが、それが絶対的だと思ってはいけない。
講義 聖なるものの心理学 これまでの症例で、聖なるものに対する感覚と対象関係のあり方が連動していることがわかった。従来の宗教心理学の立場は、心理学的還元主義である。つまり、聖なるものの感覚・経験は心的力動によって決定されると考える。しかし、ジョーンズは、両者は相互作用するものと考える。そもそも初期の対象関係自体が、聖なるものの感覚・経験と近い構造を持っている。そして、成人してからの聖なるものの経験は、初期の対象関係の再創造(反復ではなく)である。
まず方法論的問題について。ジョーンズの立場も一種の心理学的還元主義ではないか。神的存在と人間とは異なる秩序に属するのであり、「人―神」の関係が「人―人」の関係と類比されるとなると、神的存在は人間的次元に引き落とされてしまう(還元されてしまう)のではないか。 これに対して、ジョーンズは、神的存在の実在・非実在の証明は心理学の仕事ではないとする。あくまで人間の側での聖なるものの経験が出発点である。「神的存在」と信じられているものが経験されるときに人間の側で起きているのは、聖なるものの感覚であり、聖なるものそれ自体ではない。問題となるのは、神的存在そのものと心的力動との関係ではなく、聖なるものの感覚と心的力動の関係なのである。そして、両者は相互作用するものであるがゆえに、その変容は連動して起こるのであり、また内容的には類似のものとなるのである。このような、聖なるものの経験と心的力動の類比は、神的存在の実在・非実在の証明には関わらないという方法上の限定ゆえに可能になった発見であって、心理学的還元主義ではない。
ところで、オットーによれば、「聖なるもの」の感覚とは、理解や把握することができないような絶対的他者に対する反応としての「戦慄すべき神秘」の感覚である。暗やみで正体のわからない物音を聞いたときに恐怖の感覚が起きるという場合、経験されているのはその物音の正体ではない。また、物音がどうして起こるのかがわかれば、恐怖は解消されるので、物音それ自体が恐怖なのではない。恐怖は、ある状況で物音に触発されて、私の側に起こる経験の特徴に過ぎない。この恐怖は、物音の正体や物音が起きた理由が分かれば解消されてしまう。聖なるものの経験も、その対象が神的存在として概念化され、その作用が合理的に説明されて、教義として固定化されると、その戦慄すべき神秘という特徴は失われてしまう。神的存在の聖なるものが再び感得されるためには、教義の殻がいったん融解しなければならない。 ところで、乳児における母親もまた、最初から母親として同定されているのではなく、母親との関係のプロセスが経験されているだけである。そのような経験とそこでの応答=情動が、自己の母体となってゆく。ジョーンズは、このような、自己がそこで創造され、再創造され、変容するような、絶対的他者との関係を、ボラスに倣って「変容的対象関係」とする。 したがって、初期の対象関係の経験とそこで生起する情動は、聖なるものの経験やそれによって喚起される聖なるものの感覚と、同形の構造を持っていると言える。これは逆に言うと、幼少期において生じる対象関係を通じての自己の創造・再創造・変容が、成人してからも起こるとすれば、それは、聖なるものとの出会いにおいてである、ということになる。もっと正確に言うと、聖なるものとの出会いとは、発達の初期段階における基礎的経験への回帰である。それは、治癒における劇的転換が、生まれ変わりの様相を呈していたことからも分かるだろう(ここで言う「聖なるもの」が必ずしも狭義の「宗教」に限定されないということに注意)。
対象の経験は必ず情動を喚起し、その記憶は必ず情動を伴っている。外傷的出来事を含むかもしれない初期の対象関係は、それとして想起されなくても、その時の情動は、やがて他の何かのきっかけでも喚起される(転移)。そして、そのたびに対象関係の経験における情動の主体としての自己も喚起される。 他方、われわれは通常、対象を知覚しているのであり、感じているのではない。このような自己は、対象を「それ」として知覚し、道具的に利用する自己であり、対象を「汝」として受け止め、感じる自己ではない。それは動かざる基準点としての自己である。だが、「我―それ」関係の適用が行き詰まると、「我―汝」関係が探求され、そのような汝との関係において、情動の主体としての自己が喚起され、再創造される。 新たな対象関係が模索されるべきとき、自己が変容する必要があるとき、初期の変容的対象関係への回帰が起こる。しかし、それは現在の新たな対象関係の布置のもとで起こる(転移)。そして、古い対象関係――それはもはや変容的というよりは固定的で、「我―汝」の関係ではなく、偶像崇拝的関係になっている――は新しい変容的対象関係のもとで、更新される可能性がある。これが、聖なるものとの出会いにおいて、そして治療の場面において起こっていることである。 ただ、両者が違うのは、聖なるものとの関係は「永遠の汝」との関係であり、このような変容的対象関係の探求は、人生を通じて終わることがないということである。
ジョーンズの宗教論の考察 前回までの症例の記述と、今回の「聖なるものの心理学」から分かる、ジョーンズが好ましいと考える宗教性のあり方とはどのようなものだろうか。まず、変容的対象関係(我と汝の関係)と、偶像崇拝的対象関係(我とそれの関係)の区別がある。このことから、ジョーンズは偶像崇拝批判を展開していることが分かる。それは、崇拝対象を絶対化することで、自己のあり方を固定的にしてしまうことを意味する。崇拝対象が融通無碍であるという立場から、一定不変ではない自己のあり方、今とは違った自分への生まれ変わりも可能になる。 さらに、症例からほのかに見えるのは、権威主義的宗教の批判である。具体的には、懲罰的神表象よりも受容的神表象のほうが好ましいと考えている。懲罰的神表象が病原的であると考えられていることは、最初の3つの症例から明らかである。ここであらためて考えて欲しいのは、フロイトの宗教論も、実は権威主義的宗教批判だったということである。ジョーンズは、フロイトの宗教論を部分的に継承しているといえる。
cf. フロムの宗教論 しかし、フロイトを補うためにジョーンズが持ち出してきた受容的な神は、どこか「都合のいい神」という印象もある。別の仕方で、権威主義的宗教批判を遂げたうえで、好ましい宗教性のあり方を提示しているものとしては、フロムの『精神分析と宗教』があげられる。フロムによると、「権威主義的宗教」は、人間が良くなることをどこかで妨げているとされる。人間はどこまでも「悪い」のであり、だから服従しなければならないとするのがその特徴である。それに対し、「人間主義的宗教」は、人間を育み、「良く」するような合理的権威を奉じるものである。なお、この場合の「宗教」は「教団」ではなく、個々人の心理的態度を指すものである。症例のなかのハロルドの態度は、人間主義的宗教に近いと言えるだろう。権威にアドヴァイスを求める受け身の生き方をやめ、善悪の判断が自分なりにできるよう(もちろん教えに沿ったかたちで)、宗教をもっと勉強しようという態度から、そのことがわかる。
cf. エリクソンのライフサイクル論 ジョーンズは自分の立場が新しい精神分析の流れにのっとっていると考え、古典的な精神分析や自我心理学は古いと考えているようだが、私はそう思わない。エリクソンは自我心理学に属していると見なされがちだが、その理論の内容はむしろ対象関係論に近いように思われる。対人関係の範囲が変わるとそれまでのあり方では適応できず葛藤が生じるが、その危機を乗り越えることで成長することができるという考えは、対象関係の中での自己形成・自己変容という考え方と整合的である。それを初期の対象関係に限定せずに、人生の各段階に渡って考察するエリクソン理論は、対象関係論よりも包括的である。細かい点での比較は割愛するが、興味のある人は対象関係論や自己心理学と突き合わせて考えてみてもよいだろう。
レポート付録で書いてもらった講義アンケートへの答え (ある学生への答えから) かなり細かく書いていただき、たいへん参考になりました。深読みをすると、私の講義の欠点を指摘していると受け取ることもできますね。「時間的に眠くなるのに内容が難しい。それなのに感想を求められるのでハード。消化しきれていない。レジュメを朗読するのはやめて欲しい。社会に出てから役に立つのか」。まあ、ここまで考えてはいらっしゃらなかったかもしれませんが。しかし、私自身も改善しようと思っていた点を見事に指摘されたと思います。
「難しい」という点ですが、これは皆さんのコメントを読んで、すぐに「しまった」と思いましたが、やめるわけにもゆかないので、レベルを落とさずにやりました。でも、来年度からはもっとやさしいものにしたいと思います。ただし、「特講」と名のつくものは多少は専門的で難しくても構わないと考えています。
「眠くなる」という点ですが、これも少人数なのでやたらと寝ている人が目立ち、注意すべきかどうしようか、散々迷ったことです。寝ている人は、多かれ少なかれ罪悪感を感じているようなので、今回はあえて注意しませんでした。来年度の教訓としては、3限には「講義」をやらない。30分に一度寝た子を起こす時間を設ける。実際、来年度は3限の講義を意図的に避けています。
「レジュメを配付すること」についてですが、以前はレジュメを配らずに板書としゃべり中心でやっていました。しかし、あまりにもレポートで誤字や聞き間違いが多いので、情報を正確に伝えるためにはレジュメが必要と判断しています。聖心ではありませんが「アイデンティティ」すらまともに書かれない。もちろん板書ではきちんと書いています。一番面白かったのは、「デンデンティティ」です。人名はもうめちゃくちゃです。
しかし、レジュメ(というか私にとってはテキストのつもり)を文章でやるのは改めようと思っています。文章のかたちではなく、箇条書きにしようと思っています。これで必要最小限の正確に覚えて欲しい情報を文字化することが可能でしょう。どうも、文章だと、文章読解のためのエネルギーが必要になってくるようです。ただ、これくらいの文章は、頑張って読んで欲しいという気持ちもありますが。高校の国語のときに出てくる文章より難しいのは、大学なので当然です。
「感想を書くのが難しい」という点ですが、来年からは、あらかじめ感想に書いて欲しい論点をこちらで提供しようと考えています。その際、常識で答えられるものでなく、内容の理解を前提とするものになるよう気をつけようと思っています。
「社会に出てから役に立つ」授業を望む、これは、他の学生もあげていました。しかし、「役に立つ」とはどういうことでしょうね。これはかなり難しいです。心理学系の学問をすぐに社会で役に立たせることは実際には難しいでしょう。社会経験の浅い人がそれをやると底の浅いものになりがちです。多分、こけると思います。というか、こけている人が多いです。私は、大学で習う人文社会系の学問は、「20年殺し」だと思っています。ある程度、人生経験を積んでから、「そういえば」という感じでしょうか。重要なのは、「種を植えること」、「問題意識」を育てることだと思っています。
それでは、また機会があったらお会いしましょう。
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