立正大2000後期                       宗教心理学(2)

現代思想と宗教心理
堀江宗正

要旨(シラバスから)
 現代思想のインパクトは、昨今ではアカデミズムの主流にも強く影響を与えつつある。本講義では、宗教心理学にとって現代思想がどのような意味を持つのかを探りたい。まず、現代思想のアクチュアリティを「他者論」的転回に求め、それが形而上学以後の宗教に対する全面的批判であったことを明らかにする。それは、とりもなおさず、神との関わりのなかで発見された自己を、それ自体として追求する心理学的自己実現思想全般への批判ともなるであろう。しかし、自己実現論は、実は「自己の一神教」ではなく、他者論を包括する多元論的方向性をも有している。そこからむしろ他者論的転回を補正する可能性が見いだされる。最後にこの多元論的自己実現論が、脱宗教の倫理・霊性として、ニューエイジのオルタナティヴとなることを展望する。

ポイント=現代思想と宗教心理学の哲学的比較、近代思想史の流れのなかで理解し、宗教心理学の新しい方向性を探る。

ポイント解説
 現代思想という哲学のジャンルがあるらしい。そして、それは宗教から現代の西欧型の文明までを、根本的に揺り動かすような問題提起をしているらしい。簡単に言うと、それは「独善的になるな」ということである。なんだそれなら宗教(仏教も含む)が言ってきたことじゃないか、と思うかもしれない。でも、宗教は独善的ではなかっただろうか。自分と同じ考えや出自を持つ人とは団結するけれど(互いに独善的にならずに)、それ以外の人(他者)は排除するというものではなかったか。しかも、場合によっては暴力的に。
 同一のシステムと結びついている人とは意志の疎通が容易だけれど、話しが通じない人は遠ざけられる。この図式は、現代の情報化社会や、規格化された個人主義のライフスタイルにも共通しているといえる。現代人の多くは、「宗教など思想統制であり、自分は自由に自分の生き方を決めたい」と思っているかもしれない。でも、結局みんな似たり寄ったりで、同じように考え、同じような生活を送っているのではないだろうか。
 「個人が普遍的システムと直結して自律する、自分自身の心を律する」という図式そのものが、どうも微妙な問題をはらんでいるらしい。このことが何となく分かったら、それをこれから数ヶ月間、ちょっと難しい学説史(哲学と宗教心理学)にも触れながら、一緒に考えてゆこう。

1 講義イントロ、「現代思想」とは何か
2 他者性の廃棄――デリダとレヴィナス
3 全体主義批判――アドルノ+ホルクハイマーとフーコー
4 「他者論的転回」の概念規定
5 心理学と宗教の心理的側面
6 自己実現論としての心理学1――マズローとジェイムズ
7 自己実現論としての心理学2――ユングとヒルマン
8 心の存在論から心の倫理学へ――独我論と他者
9 法よりも他者を優先する――フロイト、フロム、エリクソン
10 対象関係論の宗教心理学――ジョーンズ
11 哲学への照射――他者論と多元論
12 自己の霊性と他者の霊性――フェリー

イントロまでの論点
・宗教の利他的教説と独善性。他宗教への寛容の教えと絶対性の主張。
・現代人は自由か、不自由か。意識的には自由だが、均質化が進んでいる。
・自由であることの重荷から全体主義的集団への帰依のメカニズム(cf. フロムのナチズム分析『自由からの逃走』東京創元社)
・異質性の排除。スケープゴート(犠牲のヤギ)の心理。誰かを悪として排除すれば自分たちは善になり、また一致団結できる。いじめの心理。
・孤立した個人とメディアなどの普遍的システムの直結。cf. 引きこもり。

参考文献(授業を通して使えるもの)
・『岩波 哲学・思想事典』(岩波書店)〜大学図書館、通学区間の公立図書館など、あるかどうかチェック、用語・人名などでつまずいたらすぐチェック
・講談社の『現代思想の冒険者たち』シリーズ〜とくに、レヴィナス、デリダ、アドルノ、フーコー。その他、個別の思想家の参考文献は、出てきたときに紹介
・堀江宗正「心理学的自己実現論の系譜と宗教」、『東京大学宗教学年報』XVII(1999)、57-72頁
〜私の書いた論文。インターネットが使える人は、オンラインで閲覧可能。
 http://homepage1.nifty.com/norick/jikojitsugenron.html

授業の進行〜以下の形式は臨機応変。
 私の「現代思想と宗教心理」という論文(島薗・西平篇『宗教心理の探究(仮題)』東京大学出版会、近刊)をテキストとする。オンラインで閲覧可能。http://homepage1.nifty.com/norick/gendaishiso.html

・今週のテキスト〜上記テキストからの抜粋
・ポイント解説〜ポイントをなるべく平易に解説
・用語解説〜難解なジャーゴン(特殊用語)を習得したい人のために
・論点〜コメントのネタになるようなもの、日常生活との接点、仏教との比較可能性など
・参考文献
・質疑応答(次回の授業の冒頭)

評価の仕方(前期と全く異なるので注意、シラバスとも異なる)
・学期末レポート(用紙1枚のみ、表紙の裏でも可、授業についての感想)。これで60点か70点の評点をつける。ただし、授業と関係ないレポート、プリントの要約・丸写し、短すぎるもの、意味不明のものなどは不可(もちろんリベンジなし)。
・毎回の授業の終わりに自由提出で、質問やコメントを書いてもらう。これは出欠ではない。出さなくてもよい。
・出されたコメントのなかで、授業をよく理解したうえで自分の意見を論理的飛躍なしに述べているもの(別に私の意見に反対でも)だけをボーナス・ポイントとして評価し、それを参考にして80点以上の評点をつけるかどうかを決定する。
・コメントを書いてもらうために出席カードは配るが、出欠はとらないということを確認して欲しい。出席カード裏のコメントは、あくまで質問を受け付けるためと出来のいいコメントを拾うためだけのもの(記名は忘れないこと)。
・したがって、授業を集中して聴く人だけが出席すること。私語をするものは即刻退出してもらう。

注意
・仏教はやらない、宗教心理学の現代の状況(西欧中心)、仏教心理学の難しさ(専門分化、文献学中心)
・具体的な宗教現象の分析はやらない、学説史中心、理論研究
・以上のことをよく理解したうえで履修すること。「仏教を教えろ」「難しい理論は教えるな」という要求には、残念ながら応えられないので、それにこだわる人は履修しないで欲しい。

第2回(20000929)
質疑応答
 コメントを返してきたのは70名。うち「授業を理解したうえである程度自分の頭で考えている」コメントとしてひろったのは25名。20名ちょっとはいるという予想はずばり的中。この人たちはボーナス・ポイントをゲット。あと10回近くあるので、チャンスは誰にでもある。そうでないコメントはポイントが加算されないだけで、別にマイナスになるわけではないので、評価するほうもストレスがたまらない。前期なら目くじらを立てて答えていた「勘違い非難型」(揚げ足取り)のコメントも、授業を誤解しているという点で切り捨てられる。冷静に数えてみると、1つ2つしかないのだが。初回の授業はやや抽象的なところもあったが、全体的に自分の問題として考えられ、いいコメントが多く、読みごたえがあった。

「現代思想は独善的になるなといって宗教を批判するということだが、そのような宗教排除の姿勢そのものも独善的ではないか」
「宗教は真理を主張するものなので、独善的になるのは当然。独善的であるのは悪いことなのか、独善的でなくなることは可能なのか」
「宗教は独善的ではない(少なくとも仏教は)。他者を排除するのが問題だというが、それは排除する人自身の問題であって、宗教に問題があるわけではない」
→現代思想は、自分は独善的でないとでも思っているのか、ということですが、そうではありません。人間である以上、自分中心になること、独善的になることは避けられない、と考えます。しかし、そのうえで、どこまで他者性を尊重できるかということが課題となります。
 宗教に関してもそうで、自分の宗教は他宗教と異なる独自性を持っていて、自分たちが真理であり、その真理はこうだと主張するのは、真理探究に熱心であれば当然のことです。それは必然的に、「真理」を奉じない他者の排除につながりますが、にもかかわらず、暴力的排除に至らない、あるいはもっと積極的に他者の声に耳を傾けるということが、どこまで出来るか。これが宗教者の課題となります。宗教のなかでは、それは寛容を説く教説となるでしょう。
(ちなみに仏教の経典には「寛容」という言葉自体はない。「真理」もいくつか用例はあるが少数。どちらも西欧後の訳語として多用されるようになってから、仏教界でも用いられるようになった。また西洋でも、寛容思想が本格的に展開されるのは、宗教改革後の宗教戦争を経てから。つまり寛容概念は近代の産物ということ。しかし、概念化されなくても、寛容の実践例は多い。イエス「汝の敵を愛せ」。ムガール帝国の皇帝アクバルの宥和政策。仏教の「忍辱」は寛容と直接つながらないが、対立を避けるという意味で間接的につながる。)
 なお「独善的」という言葉を導入したのは説明のためであって、実は厳密な用語ではありません。正確には、他者性の直視、他者性の尊重、自我の暴力性の自覚というのが、現代思想の主張ということになると思います(しかし、単純に人に親切にせよというのとも違うが)。

「人間が集団で生きる以上、自分の属する集団に依存することは避けられない。そのうえで、個人の自由度を拡大することに成功したのが現代社会なのではないか」(自由に見えても依存しているということを批判するのではなく、依存せずにいられないが可能なかぎり自由であろうとする点を肯定)
→それで終わってしまうと、目に見えない不自由が隠ぺいされるのでは。
「個人の自律とシステムへの依存がセットになっていて、均質な個人が増産され、他者性や異質性が排除されるという。しかし、他者を尊重しようとすれば、そこには結局、他の人間との結びつきが生まれるわけで、新たなシステムの構築につながるのではないか」
「日本特有のムラ社会の問題と、現代社会特有の個人の孤立の不安と、依存したいという欲求が複雑にからみあっている」
→ここでさらに「共同性・全体的システムから公共性へ」というスローガンをあげておきましょう。これも現代思想を理解するうえで重要な論点です。つまり、自分と同じ考え方や生き方をする人となら仲良く出来るという共同性(国家規模では全体性)から、自分と違う考え方や生き方をする人とも付き合えるという公共性へ、という転換です。今週のテキスト1〜現代思想とは何か(ここはさっと流す)
 まず、現代思想というジャンルについて一言述べておこう。ここで言う現代思想とは、一九六〇年代前後からフランスを中心に開花した諸思想のことで、その代表的思想家としてはデリダ、ドゥルーズ、フーコー、ラカンなどがあげられる。日本では八〇年代にニュー・アカデミズムの名のもと、難解で訳の分からないいい加減な物言いの流行としてとらえられていた感もあるが、その後九〇年代を通して地道な研究が進み、今や現代思想はアカデミズムの中心に腰を落ち着けつつある。その思想的スタンスから、ポストモダニズムと呼ばれることも多い。つまり、近代を批判しつつ、かといって伝統に戻るのでもなく、近代を用意してきた西洋の形而上学*的伝統そのものを根本的に見直すというモティヴェーションに駆り立てられた一群の学的思索を指すものとして理解されている。
 現代思想が問い直そうとしているこの西洋の形而上学的伝統には、当然のことながら宗教がからんでくる。一般に、とくに日本では、現代思想と宗教との関連は薄いと思われている。たしかに、宗教への直接的言及は目立たない。しかし、彼らの西洋形而上学批判は、軸の時代*以後の宗教に宛てられたものとして理解することが可能である。
ポイント=前近代(宗教的伝統を含む)と近代(宗教的伝統を乗り越えたと称する)を同根のものとして、その根底に流れるものを暴露してゆこうとする「ポストモダニズム」(ポストは「脱」、モダンは「近代」、つまり脱近代主義)が、現代思想の特徴。
ポイント解説は省略(下線部分は十分に分かりやすいと思うし、先週、口頭では説明した)。

用語解説「形而上学」=存在の根本原理を論じる第一哲学(アリストテレス)。原意は「後―自然学」(自然学のあとに書かれた本)。一般に、現象の背後にあるものの真の本質、存在の根本原理、絶対存在などを、純粋思惟や直観によって探究しようとする学問。
「軸の時代」=紀元前800年から紀元前200年間での間に、中国・インド・西洋において平行して、人間の限界の認識とそれを超越するもの(無制約的なもの)の観念が生じた。この精神史上の転換期を指して「軸の時代」という。ヤスパースの用語。ヤスパースは、仏教、ゾロアスター教、ユダヤの預言者(キリスト教の先取り)、儒家や道家の教え、ギリシア哲学・悲劇を念頭に置いている。

今週のテキスト2〜他者性の廃棄――デリダ
 たとえばJ・デリダは、神とも同一視されるロゴス*(言葉、声、理性)を真実在とするロゴス中心主義を批判する。それは、ロゴスという本質とその外部からなる二分法を前提し、本質との一致、本質の現前を真理とする。このような前提から、階層秩序的な二項対立をはらむ言説が次々と産出される。すなわち「パロール/エクリチュール」*「内部/外部」「自己/他者」「同一性/差異」「本質/仮象」*「善/悪」「精神/身体」「人間/動物」などの優劣を強調する二分法であり、「西洋/東洋」「男/女」などといった自己中心的な差別的言説である。そうして世界は階層化される。頂点に神が座し、それとの同一化、すなわち内部化の度合いが、階層内での位置を決定する。それはつねに他者の支配的同一化を狙っている。このような形而上学*的言説を、デリダは脱構築しようとする。すなわち、二項対立のうち支配的な前者が実は後者に依存していること(もちろん優劣の単なる逆転ではない)を指摘しながら、境界線が決定不可能であることを暴露するのである(Derrida 1967a)。
ポイント=現実の向こうに潜んでいる本質・真理を見抜くのは、哲学や宗教の仕事である。しかし、「真理を見抜いた人は偉い」と祭り上げてゆくと、宗教の排他性・階層性の問題も出てくる。そもそも、本質とか真理を、現実とかけ離れたものとして固定化することは可能か。優劣を含んだ二項対立は不変のものとしては成立しがたく、移り変わりやすいものであることを、デリダは指摘した。

用語解説「ロゴス」=ギリシア語で、本来は人々の話す「ことば」の意。そこから、1)言語・意味・思想・概念・理論(言葉を通して表された理性的活動)、2)理性・理由・説明、論理、さらに3)宇宙万物の変化流転する間に存在する調和・秩序の根本原理としての理法(実体化される傾向がある)、またキリスト教では、4)「神の言」、それが形をとって現れた「子なる神」(三位一体の第二位=キリスト)。
「パロール/エクリチュール」=フランス語で「話された言葉/書かれたもの」。
「本質/仮象」=現象しているものは、その背後にある本質(あるものをあるものとして成立させる固有の性質)が、仮の姿を問って現れているとする、ギリシア以来の二分法。

解説というより注釈
 現実の背後にある本質的なものを見抜くこと、我々が自明のものと思っていることの迷妄を看破することは、哲学や宗教の重要な仕事であるに違いない。「軸の時代」(前述)とは、都市国家、中央集権国家が登場し、戦乱や病苦にさいなまれた時代でもあった。このような時代には、人間の限界が痛切に自覚され、この世の苦しみからの解放/解脱が希求された。苦しみの原因を説明し、それから脱した状態を指し示し、そこに至るまでの手段を提供するものとして、さまざまな思想が説かれる。やがて、それが文字文化の発展とともに教説・教典(教典=経典を含む一般概念)として固定化され、教義として体系化される。こうして残ったのが今日でいう「宗教」の走りということになる。
 問題はここからである。これらの思想によれば、現実世界の背後にあって、現実世界を秩序づける原理となっているような「本質」は、現実世界に優越している。そのような「本質」は現実世界や個々人のうちにも宿っているのだが(現実世界は本質の現れ)、それを発見し、自分のものとし、またそれを教える人は、偉大な人物として尊敬される(cf. 仏教学の人は法の意味について想起せよ)。教会や僧団が組織化され、この偉大な真理を伝える専門家が登場してくる。教えを文字化し、読み書きの出来る知識人としての聖職者が、世俗から分離してくる。彼らが、文盲の平信者に教えを伝えるという役割を担うようになる。話を聞かないで勝手なことをやっている人はけしからん、ということになる。ここに、「真理の教え―聖職者―平信者―異教徒・異民族」というヒエラルヒーが出来る。「本質」に同一化(一体化)していればいるほど偉い。まだの人は、早く同一化しなさい=他者の支配的同一化の志向。
 ここから宗教の階層性・排他性の問題が指摘されるわけだが、そもそも「本質」なるものを立てて、現実をその現れとするような思考形態(ロゴス中心主義)そのものに問題がないかと、デリダは問う。背後にある本質を見抜くという、哲学や宗教の出発点そのものを反省するわけだ。具体的には、さまざまな二項対立や優劣関係の矛盾を暴き出すという方法をとる(脱構築)。くだけた言い方をすれば、簡単に悟っちゃわないで、ということ。それでは、哲学の営みそのものを、デリダは否定しようとしているのか。そうではない。デリダは哲学的言説の「構築・崩壊」、本質化と非本質化の連関を活性化し続けようと考えているのであり、彼の脱構築は、そのような歴史的ダイナミズムを固定化せずに、流れるがままにしておくものとして機能するのである。
 参考:(岩波仏教辞典から)真如 しんにょ [s:tathata-]サンスクリット原語の直接の意味は,<あるがままなこと>.事物を支える真理(dharma,法)を表現したもの.真理(法)は,釈尊が事物をあるがままに観察(如実知見)して発見したものゆえ,その真理をこのように規定づけた.ひいては,事物の真相(実相)をさすようにもなる.(中略)大乗起信論では,永遠不動の真理(不変真如)と生滅の現実にしたがって生成する真理(随縁真如)の2種を立て,永遠相と現実相の関係づけに努めた.

論点
・端的に言って、「真理」は不変のものか、移り変わるものか。
・「真理」は人間によって見いだされたものか、人間とは無関係に実在するのか。
・「真理」を発見する人は尊敬に値するか。「真理」から遠い人は軽蔑すべきか。
・「真理」を固定化したり、「真理」を発見する人を絶対化することの不毛さを指摘したのがデリダだとすると、彼は「宗教」とは反対の立場ということになるか。
・ナーガールジュナとの比較。穴埋め(^_^;)→諸法は○、無自○、依○起○、分○の批判。
・ユダヤ・キリスト教、イスラムにおける偶像崇拝批判と関連づけられるかどうか。
・宗教のなかの絶対主義と反絶対主義の問題に、また行き着く?「宗教」自体も空性?

参考文献
デリダ『根源の彼方に――グラマトロジーについて』(現代思潮社)。ものすごく難解。訳語も問題。
高橋哲哉『デリダ――脱構築(現代思想の冒険者たち』(講談社)。ものすごく明解。cf. 私の書評。
森本和夫『デリダから道元へ』筑摩書房(ちくま学芸文庫)。賛成するかどうかはともかく。

書評・高橋哲哉『デリダ――脱構築(現代思想の冒険者たち28)』(講談社、1998年)
 好調な売れ行きをマークした「現代思想の冒険者たち」の1冊である。このシリーズには当たり外れもあるが、本書は「当たり」の部類に属すると言えるだろう。文体は読みやすいし、取り上げられている素材はバランスがとれている。また、巻末の「主要著作ダイジェスト」は充実しており、「キーワード解説」は本文との重複をいとわず恐れず丁寧に書かれており、「読書案内」には未邦訳の重要な二次文献もあげられている。いわゆる「現代思想」の受容が地に足のついたものとなった今日において、本シリーズの著者たちは、難解な現代思想を分かりやすく紹介し、堅実な研究の蓄積があることを示すよう要求されていると言える。この要求に、本書は十分に応えているだろう。
 (中略)第1章は、デリダの伝記的記述にあてられている。デリダはまだ生きている人だから、生涯の完全な伝記とはならない。ここでの力点は、のちの著作の紹介の伏線となるような事柄に読者の注意を引くことであるようだ。アルジェリア生まれのユダヤ系フランス人という出自。脱構築の思想家としてのデビュー。80年代以降の「政治化」。それらを通して、早くも著者のデリダ理解の筋道が示される。つまり、デリダは70年代には文学的哲学者として誤解されていたものの、脱構築の射程にははじめから法や正義の問題が含まれており、それが80年代から前面で展開されるようになったのだという理解である。この理解が、続く第2章からの著作の紹介においても貫かれている。
 第2章「形而上学とは何か」では、「プラトンのパルマケイアー」の集中的な読解を通じて、デリダの形而上学批判が詳細に論じられる。プラトンのエクリチュール批判の批判的読解を通じて、エクリチュールなきパロールの自足を理想とするロゴス中心主義の形而上学が、まさにプラトンのテクストのなかで脱構築されてゆく。この章では、エクリチュール、差延、脱構築など、『グラマトロジーについて』で有名になったデリダの諸概念が明瞭に解説されている。
 第3章「言語・暴力・反復」では、デリダの言語論やレヴィナス論を参照しながら、「言語の暴力性を意識しつつ暴力に抵抗する」というモチーフが導出される。脱構築は、暴力のエコノミーの乗り越えがたさを徹底的に暴きつつ、しかし「無責任なニヒリズム」などに向かうのではなく、まったき他者への応答、他者の肯定へと向かう責任の思想である。このことはすでに60年代において示されていた。
 第4章「法・暴力・正義」では、「法の力」に象徴されるような80年代以降のデリダの「政治化」の動向を探る。とはいえ、著者の理解によれば、脱構築はごく初期から法の問題を取り上げていた。法と言語はどちらも、特異性や他者性を隠蔽し、それ自身を普遍的なもの、同一なるものとして構築する。したがって、ロゴス中心主義の形而上学のみならず、法もまた脱構築の場所となる。ここでは前章に引き続いて、脱構築の意味内容がより深められてゆく。他者肯定の思想である脱構築は、特異性と普遍性という両立不可能な要求に引き裂かれながら、どちらをも放棄せず、決定不可能なものの試練のなかで決定し続けるという正義の理念とともにある。著者はレヴィナスの正義論との異同については一言するにとどめているが、ここでデリダは、レヴィナスの倫理と正義の二分を踏まえながら、倫理のなかの正義、正義のなかの倫理を示唆し、レヴィナスを内側から乗り越えようとしているようにも思われる。
 第5章「メシア的なものと責任の思考」では、『死を与える』や『マルクスの亡霊たち』など最近の仕事に定位しながら、到来する他者を同定することなしに他者の到来を希望する、メシアニズムなきメシア的なものの希望という思想が紹介される。<信>の問題系にも触れられるが、これは現在デリダ自身によって展開されている途上にあり、本章ではその全体像は不鮮明なままに終わっている感がある。
 この最後の問題を除けば、本書の主張するところは極めて明快である。つまり、形而上学、言語、法の暴力性を暴き出す脱構築は、無責任なニヒリズムではなく、他者の肯定へと向かう責任と正義の思考である、と。これは、日本におけるこれまでのデリダの紹介書では十分に強調されてこなかった点であり、ここに本書の特長もある。難解な文学的哲学者から、一本筋のとおった政治的思想家へというイメージの転換が図られている。
 デリダの紹介の仕方の是非についてうんぬんする力量は評者にはない。だが、あえて難点を申し上げるなら、著者とデリダとの距離が感じられないという点があげられる。『記憶のエチカ』に見られるような著者の他の仕事を念頭に置くと、本書はあまりにも抑制的である。実際、デリダと著者とのあいだには、批判の作法に関して無視できぬ差異があるように思われる。具体的な点を列挙することはしないが、それは一口で言えば「内在的批判」か「外在的批判」かという差異である。本書を通読して改めて痛感されるのは、デリダの脱構築が、いっけん語義矛盾とも思えるような内在的批判をまさにそうでしかありえないようなやり方で実践しているということである。
 実は、この外在的批判か内在的批判かという論点は、ニヒリズムか否かという論点に劣らず重要であるように思われる。いや、内在的批判の流儀からすれば、デリダはある意味ではニヒリズムでもあり、同時にニヒリズムではないと言うこともできるだろう。
 入門書という体裁ゆえの限界もあろうが、“おのれとデリダの距離を無化したまま、デリダを「使って」敵をバッサリ斬っている”という誤解を生まないためにも、デリダとの距離がいま少し明確になればよかったと思うのである。
『フランス哲学思想研究』第4号(1999)所収。

第3回(20001006)
質疑応答
 「今日の授業は難しかった」というコメントが多いなか、全体的にコメントの質はとても上がっているように感じます。今回のコメント提出者はぴったり50人、うちボーナスポイントをゲットしたのは29人。今回から、ポイント数を「階層化」し、「いいコメント」(名簿では◎)と「考えているコメント」(名簿では○)に分けました。今回は◎が12で○が17でした。

 後期は講義自体は難しいので、とにかく分かりやすくしなければと意気込んだのですが、前回はデリダだけあってやはり難解になってしまいました。しかし、これでもデリダの講義にしてはかなり分かりやすい方だとは思います。
 前回のポイントは、現実の向こうに本質を見抜くという態度に、宗教の階層性と排他性の根っこがあるということでした。しかし、このようなデリダの批判は、仏教ではナーガールジュナの思想とほとんど一致するものであり、ユダヤ・キリスト教のなかの偶像崇拝批判(神を形にしてはいけない、神はただ「ありつづけるもの」)とも軌を一にするものであることを指摘しました。ということは、宗教のなかに、ロゴス(本質、理法)を実体化するベクトルと非実体化するベクトルがある、ということです。それゆえ、宗教自体も絶対化と非絶対化の運動のなかにあるのではないか、というのが私の問題提起です。これが第一回目に出した宗教のなかの寛容と非寛容の同居ともつながるのです。
 にもかかわらず、全体的に、真理を不変のものとして打ち立てるのが宗教であり、真理の流動性を論じるのは宗教に反対する立場だという理解が目に付きました。たとえば、
「宗教の脱構築は宗教の立場そのものを危うくするのではないか」
 しかし、前述の通り、脱構築的な考え方は、宗教の歴史のなかにも先例があることを確認して下さい。

「差別化や階層化によって、人間はアイデンティティを身に付けるもの」
「自分が優劣の「優」の側にいたいと思うのは当然のこと」
「脱構築は境界線が決定不可能であることを暴くとあるがが、ということは、境界線そのものを否定しているわけではなく、つまり二項対立をデリダは完全には否定していないということでしょうか」
→以上、すべて「その通り」。二項対立的な思考法、「敵と味方」的な思考法から人間は最終的には逃れがたいが、その非実体性を自覚することが大切ということでしょう。なおデリダは「差別になるからそういう考え方は良くないよ」と糾弾しているのではなく、「二項対立は成り立っていないよ」と指摘するのにとどまっている点に注意。「糾弾」になっちゃうと、また「敵と味方」の思考法の繰り返しなので。

「「真理」と善悪は区別して考えるべき」
「真理を打ち立てることそのものは最終目的ではなく、よく「生きる」ことが目的」
「現実世界と本質を二分して、本質を覚知するという態度よりも、真理を現実世界のなかで生かしてゆくことが宗教者にとって必要ではないか」
→観照(テオリア)より実践(プラクシス)、cf. アレント『人間の条件』ちくま学芸文庫:プラトン以前のギリシア人の立場。また「小乗」に対する大乗仏教の立場。倫理学こそが第一哲学とするレヴィナスの立場にも通じる。

「悟ったと自覚するに至る人の心の動きとはどういうものか」→興味深い論点です。cf. 宗教心理学のなかの回心論。
「「真理」にたどり着くまで、多くのことを学び、考えたという点が、尊敬に値すること」→逆に言うと、何も考えずに「真理」に飛びつく人への批判に。
→以上、「真理」が人間の生と切り離されて独り歩きすることの問題点を鋭くついていると思います。具体的人生のなかで気づかれた真理が教えられ、また別の具体的人生のなかで生かされることが望ましいということになるでしょう。

今週のテキスト
 E・レヴィナスはこの事態[デリダの形而上学批判]を別の角度から検討する。人間が神を概念*によって同一化*し、そしてその同一化された神を振りかざして、他者*を同一化する。そのような宗教のあり方を、レヴィナスは神の他者性*を強調することによって批判する。神という語が意味をなすものであるならば、それは人間にとって他なるものでしかなく、決して同一化されることがないはずである。絶対的他者なる神との関係性は、人間のエゴイズムを徹底的に無化し、他者に応答するかぎりで成り立つ主体性を構成する。そして、このような主体性は、他なる人間と倫理的関係に入ることを可能にする(L思inas 1975, L思inas 1975-6)。レヴィナスとデリダのあいだには微妙ながら決定的な差異もあるのだが、他者の支配的同一化を批判するという点、とりわけ宗教においてその一つの典型が見られるという認識に関しては共通するだろう(また、宗教のなかに、他者性を廃棄する主体性だけでなく、他者に応答し、他者を証言する主体性があることを認める点においても両者は一致する。cf. Derrida 1996)。以下、このような動向をさらに追ってゆく。

用語解説
 概念:事物の一般的性質・本質。またその表現形式。ドイツ語Begriffは「把握すること」、英語・フランス語のconceptは「一つにつかまれたもの」。つまり何かを、こちらで用意した入れ物に押し込めて、自分のものにするという意味合いを込めて、レヴィナスは「概念」という言葉を用いている。人間によって理解された神は、どこまで行っても神そのものではないということ。
 同一化:詳しい説明は省略。AをBと同一のものとすること。ここでは「神を自分の用意した概念と同一のものとすること」「他者を自分と同一のものとすること」という文脈で使われている。「自分のものにする」と「一体化する」という言葉のどちらかに置き換えて理解しておけばよい。
 他者・他者性:単に「他人」という意味ではない。自我の主観的構成に収まらないもののこと。他なるもの。ここでは概念に収まらないもの。あとのテキストで詳述。時間的次元における他性は、差異性、ある種の流動性とも相通じるだろう(デリダとの接続)。

ポイント
 神の概念的同一化と他者の支配的同一化は連動している。しかし、神の他者性という一神教の前提を徹底させれば、神を前にしたエゴイズムの不可能性が自覚されざるをえない。そして、そのような自覚は他者との倫理的関係に導くものである。レヴィナスは、一神教の前提を徹底させることで、「神―自己―他者」のヒエラルヒーを内側から崩壊させ、ただ他者への倫理的応答の実践が要請されているのだということを確認した。

ポイント解説
 誰でも自分の思い通りにならないものはある。「他者」とはまさしくそのようなものだ。でも、人は、「他者」が思い通りになって欲しいと思う。でもそれは完全にはできない。「他者」を理解するということですら、完全に、正確にはできない。どこまで行っても、理解不能な「他者性」が残る。
 もう一つ簡単だけど重要なこと。それは、「私」は「他者」がいなくては成り立たないということ。「他者」がいるから「私」がいる。「他者」も「環境」もないところで、「私」が成り立つだろうか。他者の働きかけに応ずるものとして、私は成り立っている。
 結論。思い通りにならない他者、理解しつくせない他者、そのような他者を他者として受け止め、応答することしか、私にはできない。
 西洋の一神教の「神」は、人間を超越したものとされる。そうであるなら、神はこのような「他者」の最たるものである。その前提を徹底させるなら、神は人間によって理解もできないし、ましてやそのような神を道具のように振りかざして、自己正当化の手段にするなど本末転倒である。さらに自分流に理解された「神」に、他者を従わせようとすることは、二重の誤りとなる。他者=神を前にしてエゴイズムの不可能性を自覚する。このような自覚から、人間同士の間にも、暴力的他者支配を離れて平和を打ち立てることが、宗教者の課題として実感されるようになるだろう。

論点
・毎日の生活のなかで、他人を自分の思い通りに使おうとしているような場面を探してみる。
・また、他人が自分の思う通りにならない、相手がこうだったらいいのにと思い悩むようなことが、これまでの人生のなかであったかどうか、振り返ってみる。
・その場合、他者を他者として受け止めるしかないというレヴィナスの教えは、よきアドバイスになるかどうか考えてみる。
・デリダとレヴィナスの共通点と違いは何か。ヒント:二項対立に対する態度。
・レヴィナスはユダヤ教徒である。では、レヴィナスの言っていることは、ユダヤ教の焼き直しか。
・デリダと仏教の比較可能性は先週論じた。では、レヴィナスと仏教の間に接点はあるか。

参考文献
・レヴィナス『神・死・時間』(法政大学出版局)〜レヴィナスの講義、明晰だが密度が濃くて難解。私の講義とどちらが分かりやすいか(^_^;)。
・熊野純彦『レヴィナス入門』(ちくま新書)〜新書なので安い。数ある難解な「入門書」のなかでは、もっとも読みやすい。
・サロモン・マルカ『レヴィナスを読む』(国文社)〜私の書評を参照。

サロモン・マルカ『レヴィナスを読む』国文社、1996年
エマニュエル・レヴィナス『超越と知解可能性―哲学と宗教の対話』彩流社、1996年
 レヴィナスという思想家はいくつもの顔をもっている。分野的には現象学、ユダヤ教哲学、倫理学などに分類されるだろうが、そのような枠を越えて、この哲学者は現代思想一般にかなり強い影響をおよぼしている。その思想の特徴は、ユダヤ教に依拠することによって西洋の哲学・科学・文明を考えるための別の視点を提供してくれる、という点にある。注意しなければならないのは、それが、キリスト教に対するユダヤ教からの単なる異議申し立てではないということである。むしろ、ユダヤ教の特殊な用語を突き詰めることによって普遍的な思想へと至る、しかもその本質的な部分を犠牲にせず、そしてそうすることによって、かえって偏狭な「〜主義」全般への強力な批判となろうとするのである。
 レヴィナスは哲学的な存在論よりも倫理学を優先させる。つまり、自己への配慮よりも他者への配慮を優先させる。哲学的認識は、認識という行為によって他者を自己のうちに内在化させ、他者の他者性を切り落とすが、倫理は他者との出会いそのものである。『超越と知解可能性』で展開されているのは、他者を取り込もうとする伝統的な哲学的認識、形而上学への批判である。それとは別の可能性、宗教というあり方が、人間における無限の観念、超越の観念を足掛かりにして模索される。『レヴィナスを読む』も参照しながらレヴィナスの宗教観をまとめるならば、次のようになるだろう。
 主題化不可能・認識不可能の神が観念に到来する、すなわち「神」という言葉が意味をもつのは、他の人間を一人にしておいてはならないという呼びかけを、私が受け、他の人間に向かうときである。他者との倫理的関係を通じて、無限なる神が開示される。他の人間の顔と向き合っているときに、私はその顔のうちに「汝、殺す勿れ」という戒律を読む。神はこうして、その律法によって、隣人への愛というかたちで、具体的なものとなるのである。だが、神は、このようなかたちで「認識」のなかにみずからを示しつつも、絶対的に他なるもの、超越的なものとしてとどまる。宗教とはこうした他なるものとの結び付き、無限なるものが観念を訪れる<めぐりあわせ>である。
 ここにあるのは、たしかに哲学的認識への批判ではある。だが、それを「宗教」の称揚ととってはならない。宗教が他なるものを一者に統一し、全体性を構成し、出会われるべき他者を迫害するとき、倫理は「宗教」をむしろ審問するものとなるであろう。レヴィナスが哲学批判と表裏一体をなすかたちで展開している政治批判が、そのとき「宗教」にも向けられることになる。
 レヴィナスは、横ならびの共同性(万人の闘いと権力の委譲に至る「個人主義/全体主義」のセット)よりも、顔と顔を向き合わせる対面の関係性を優先させる。つまり、政治よりも倫理を優先させる。私と他者は、対等な者どうしの相互性の関係ではなく、非対称性の関係にある。なぜなら、他者を自分より高く置くのでなければ倫理は始まらないからである。共同性・歴史・国家が出現するのは、私にとっても他者にとっても他者であるような「第三者」の登場をまってである。このとき、対面的関係が、倫理的全能を断念することによって国家に場所を譲る。政治は対面的関係の縮減である。倫理は国家にとって中心的ではなくなる。だがそれによって、倫理は、かえって国家を審問する法廷となる。
 かくして、レヴィナスは西洋の有力な哲学的伝統、政治思想に対して、とりわけその内在性と全体性という点に関して批判を加えるが、しかしながら、このことはあくまでも哲学という立場に身を置くことによってなされる。したがって、レヴィナスは宗教のスポークスマンではない。私見によれば、その批判は、歴史における「宗教」にも適用されるべきものである。先に紹介した『原理主義とは何か』の著者たちも、レヴィナスからは大きな影響を受けている。このことは次のレヴィナスの言葉を吟味することによって明らかだろう。「真の問題は暴力を忌避することではなく、むしろ、悪に対する無抵抗に堕することなしに、なお闘争そのものから発生する暴力の制度化を回避しうるような闘争について問いを深めることにある」。  ここに紹介する二書は、いずれもレヴィナス思想への入門書たりえるし、かつ彼の宗教思想をよく表してもいる。『レヴィナスを読む』の特徴は、ユダヤ人である著者の問題意識が明確に出ていることと、訳文が素晴らしいこと(後半は誤植が多いが)である。『超越と知解可能性』は、構成が面白い。レヴィナスの短い論文一本と、それをめぐる討論、そして文字数にして書籍の半分を超える豊富な訳注と訳者解説からなる。納められている論文は、短いとは言え、難解さで有名なレヴィナスのテクストのなかでもとりわけ密度が濃いものと思われる。訳者からは哲学的テクストの読み方の一例を教えられる。おそらく、はじめてレヴィナス思想に触れられる方にとっては、『レヴィナスを読む』のほうがとっつきやすいだろう。
『国際宗教研究所ニュースレター』15号(1997年)より

省略される予定のテキスト
 アドルノとホルクハイマーは、自然支配の理性が、他者の道具的支配に転じてゆく様を批判する。まず、自然の力に驚かされて発した「マナ」という声が、神的力を喚起する呪力をもった言葉として使用されるという事例を、言語の使用の始まりを画する出来事としてあげる。神話において、人間は、言語を介して召喚された神を通して、自分自身を理解するようになる。ここにおいて、創造する神と秩序づける人間精神の同一化が図られ、自然はその客体とされる。啓蒙は、さらに主客の分離を断行し、人間と自然ないし神との親和的・類比的な関係性を断ち切り、理性の支配対象を外的自然と内的自然に定める。それは人間の自律を画する出来事であるかのように見えるが、実は、人間による人間の支配の連関、全体主義へと帰結するものである。かくして啓蒙は野蛮に帰する(Horkheimer & Adorno 1944)。アドルノは、自然との非支配的で非敵対的な関係性を模索する。決して同一化されない非同一性とのかかわり方として、最終的な肯定を目指さずに矛盾の論理である弁証法をそれとして徹底させてゆく「否定弁証法」を提示する(Adorno 1966)。そして、未知のものを既知のものに同一化せずにあくまで未知のものとして経験する様態として「ミメーシス」に目を向ける(Adorno 1970)。

ポイント
呪術的段階:神=ロゴスを介しての自然支配、
宗教的段階:神=ロゴスを介しての人間の自己理解。
近代:神からの自立=人間の自律→人間同士の道具的支配に→個人主義と全体主義のセット

できたら読んでおいて下さい。

第4回(20001020)
質疑応答
 レヴィナスは難解で知られているので、どこまで理解してもらえるか心配でしたが、みなさん比較的よく理解しているので驚きました(BP0=9, BP1=34, BP2=9)。
 デリダもレヴィナスも、他者の支配的同一化に異議を唱えているわけだけれど違いもある。それはどこか、という論点に関わるコメントがいくつかありました。

「私と他者は完全に切れているのか。切れているとしたらどうやって関係が成り立つのか」
「他者を他者として受け止めるしかないとしたら、私が成り立たなくなってしまうのではないか」
「他者を完全に理解することは不可能かもしれないけれど、不完全な他者理解にもとづいて他者と接するしかないのでは」
「他者を他者として受け止める。これは理解のあきらめではないか。他者の痛みを自分の痛みとして感じられるようになりたい」
→ほぼデリダのレヴィナス批判を代弁してくれています。レヴィナスはこの批判に答えるようにして後期の思想を展開するのですが、ここでは複雑なので省略します。私と他者は同一ではないけれど全く異質でもない、というのがデリダの考えです。要するに中道ですね。レヴィナスの他者論は極端だし、かといって私と他者に共通する普遍的理性(ロゴス)なるものを取り出すのも、またロゴス中心主義という一つの極端となって、他者を排除/包括する方向に働く、と。したがって、以下の意見は、デリダに言わせればロゴス中心主義になるわけです。

「私と他者に共通する、言い換えれば人間全体に共通する何かを具現しているのが神ではないか」
「私と他者に何か共通するものがあるからこそ、社会が成り立っているのでは」
「仏と私たちは一体とされるが、神と私たちは他者である。なぜなら、私たちは神に作られ、神に支配されてるから。仏は私たちのなかに存在するものとして一体である」
→仏と私たちが同一かどうかということに関しては仏教でも論争が絶えないところです。本覚思想の見直しなどは最近の仏教学の一大テーマになっているようです。

講義
10頁のテキスト(アドルノとホルクハイマー)に関する補足
 「神のロゴス―人間の理性」の同一性→宗教的世界のヒエラルヒー
 近代:神の消失。人間の理性→人間内部の本性/自然に働きかける。自分で自分を律する=自律
 諸個人を自由な主体として構成することで、個別に支配する近代的国家システム→全体主義へ
 個人主義と全体主義のセット

今週のテキスト
 右のような全体主義*批判は現代思想の重要なモティーフである。全体主義は、他者を同一化しようとする西洋形而上学の帰結であり、そして近代における世俗化*は形而上学的な宗教的思惟の衰退どころかむしろその国家規模での徹底であると考えられる。おそらくフーコーの仕事は、ソクラテス以後から近代国家に至るまで、他者への配慮の欠落が、どのような段階を追って進行したかをたどったものとして読み直すことができるだろう。
 M・フーコーは、中期権力論において、主体化が従属につながるような近代的主体のあり方を指摘し、晩年においてはその背景にある「自己のテクノロジー」の歴史をたどっている。それによると古代ギリシアにおいては、自己への配慮とは自己の政治的実践への配慮であり、それはとりもなおさず、世俗内における他者への配慮につながるものであった。だがすでにソクラテス・プラトンにいたって、このような自己への配慮は、哲学的「真理」の探究と軌を一にする。以後、他者よりも真理を尊ぶ態度が次第にはぐくまれる。帝政ローマ期においては、政治的活動から離れた場面での自己への配慮が問題とされる。さらに、キリスト教においては、世俗外において、自己への配慮ではなく自己の認識がすすめられる。自己への配慮という利己主義は罪であり、自己を放棄して、隠された欲望の真理を認識して告白することが、魂の救済につながる。近代の道徳は世俗内の他者への配慮を説くが、そこでも自己への配慮は非道徳的なエゴイズムとして否定され、自己認識のほうが重視される。自己認識を重視するのは、道徳的自律を重んじるからである。そこでは具体的な他者への配慮よりも、むしろ他者への配慮を説く道徳的規則にどれだけのっとっているかという自己の真正さの検討がおこなわれる。
 こうして、自己への配慮を通じての他者への配慮は、自己の認識あるいは監視による近代的主体の構成にすり替えられ、対他関係は自己形成の肥やしとなる。宗教改革と世俗化を経てなお、自己開示の技術と自己認識の態度は受け継がれる。キリスト教の告白の技術は欲望を消し込んでゆきながら、一人ひとりを神と結びつけてゆくが、羊を一頭たりとも迷わせまいとするこの牧人型権力*は、近代においては、人々を自律した主体として個別化し、一人ひとりを完全に世話することで全体化しようとする国家権力のモデルとなっている(主にcf. Foucault 1988)。

ポイント
西洋において、「他者への配慮」が欠落してゆく過程。
 ソクラテス以前の古代ギリシア:他者への配慮のための自己への配慮
 ソクラテス・プラトン:真理探究としての自己への配慮
 帝政ローマ期:世俗外での自己への配慮
 キリスト教:世俗外での自己の認識=自己の欲望を暴露し放棄=魂の救済
 近代の道徳:他者への配慮を説く道徳に照らし合わせた自己の認識
 近代国家:自己を認識し、自己を規律する主体の構成、システムの用意したレールに沿って、個人は成長し、自立した社会人となり、生き死にする。

用語解説
 全体主義:辞書の説明によれば、「個人は全体を構成する部分であるとし、個人の一切の活動は、全体の成長・発展のために行われなければならないという思想または体制。そこでは、国家・民族が優先し、個人の自由・権利が無視される」(三省堂『大辞林』)。具体的には、ドイツのナチズム、イタリアのファシズム、旧ソ連のスターリン主義を指すことが多い。上記の辞書的説明では、個人の自律と対立するものとしてとらえられているが、政治学では、個人の自律や近代民主主義が全体主義を用意したということが常識となっている。全体主義が、前近代的な専制・独裁と異なるのは、制裁の脅威による外的支配ではなく、内面の支配であるという点である。すなわち、徹底した情報統制をしき、公式の世界観・イデオロギーを宣伝することで、大衆の自発的服従をひきだそうとするのである。それを用意したのが、個人の自律という啓蒙主義以来の思想と、学校・軍隊・官僚組織など、国民を思想的にも現実的にも総動員する装置であった。
 世俗化:財産や教育・科学・芸術などが、教会の支配・監督から国家や一般市民へ解放される、西洋近代における文化的・社会的変動の過程。通常、宗教の社会統合的機能の衰退を指すものとして用いられている。世俗化が進んでいるという認識にはさまざまな疑問が投げ掛けられている。実際に起こっているのは宗教の私事化であり、宗教の影響力の衰退ではないとする批判、最近の原理主義など宗教復興の流れと矛盾するという批判などである。ここでは、近代の世俗主義は、宗教と相反するものであるように見えながら、実は、宗教の形而上学的思惟を形式上踏襲しているという主張がなされている。
 牧人型権力:牧人とは羊飼いのこと。英語で言うと、羊飼いは pastor だが、これは司祭や牧師を指す言葉でもある。少数の牧人が多くの羊を指導することを司牧というが、これは教会における信者の指導を指す言葉として用いられている。キリスト教における宗教的指導者のモデルは、牧人、羊飼いに求められるということである。キリストは100匹の羊のうち1匹が迷っても探しに行くという言葉に代表されるように、一人一人の内面までも掌握し、導くことが宗教的指導者の役割とされる。その結果、内面の管理としての告白、糾明の手段が発達した。このシステムが近代国家の統治技術のなかに取り入れられる。国家が、一人一人の住民の状態を把握し、管理し、健康・福祉・安全を守るようになる。いわば、現世での救済保証システムが成立したのである。そして、その運営に当たる官僚層が増大し、警察機構が成立する。

ポイント解説
 これまで他者の他者性を尊重せよという現代思想の議論を見てきた。諸君のなかには、要するにエゴイズムをやめて、人に親切にすればいいのね、と考えている人もいるかもしれない。それはちょっと違う。どこが違うのか。前半に関しては、“エゴイズムを捨てきれないというのが、そもそもの出発点で、だからこそ、エゴのなかで処理しきれない他者が問題になるのだ”と訂正しておきたい。これは、前回まで言ってきたことである(デリダおよび前期レヴィナス)。フーコーの言っているのは、後半に関する注文である。エゴイズムからの脱却を目指すといっても、だからといって他者に配慮しなさいという道徳的言説では不十分だ、というのである。なぜか。今度は、「自分は人に親切にしているかどうか」ということにばかりに関心が向いてしまうからである。つまり、「自分は正しいかどうか」への執着が始まるのである。そこでは、目の前にいる困っている他者のために親切な行為をするのではなく、自分が正しいことをしたいために親切な行為をするという、本末転倒が起こってしまう。他者よりも法(このばあい道徳法則)にのっとった個人の自律(自分で自分を律する)が優先されるのである。
 近代における個人の自律は、権威による他律からの脱却を目指す。ところが、近代国家においては、現実問題として、いかなるシステムからも自由に自律が達成されるなどということはない。学校に行ってある程度の学歴を得たり、新聞を読んで一般教養を身に付けたり、会社に勤めてある程度の職歴を得たりしながら、「自分独自の考え」や、「自分独自の技能」にもとづいて、自律した個人になったと錯覚しているだけなのである。自律の資源が学校や官僚組織や情報手段にあるために、これらが一元的世界観やイデオロギーに流れてゆけば、全体主義が帰結するというのが20世紀の苦い教訓である。自分は自分自身の自由な判断にもとづいてユダヤ人を虐殺する、という具合である(他者の排除による団結)。大衆が、一人ひとりは自律した判断と行為をしていると思いながらも、いつの間にか一つの方向に流れてゆく。これは現代社会においても起こりうることである。

論点
・仏教関係者は、「自分は正しいかどうか」への執着(ポイント解説の第一段落)について考えてみよ。Aそれは宗教者ならあって当然である。Bいや、このような執着からは離れるべきである。Cではどのようにして。
・最近、援助交際や臓器移植は自己決定かどうかという知識人たちのきまじめな論争があった。A当事者の自由意志にもとづくもので、第三者に迷惑をかけないことなら何をやってもよいという立場と、B自己決定そのものが成り立っておらず、構造的暴力の循環のなかに組み込まれているとする立場(たとえば臓器や少女性の商品化)とがある。あなたはどう思うか。

参考文献
・今村仁司・栗原仁『フーコー』清水書院
・C・ホロックス『フーコー イラスト版』現代書館
・中山元『フーコー入門』ちくま新書
・桜井哲夫『フーコー――知と権力(現代思想の冒険者たち26)』講談社
〜以上、フーコーの入門書(新しい順、どれもそんなに悪くない)
・フーコー『自己のテクノロジー』(岩波書店)
・磯部卓三『道徳意識と規範の逆説』(アカデミア出版会)〜他者よりも法が優先されるという事態を具体的に考察している。
・リースマン『孤独な群衆』(みすず書房)〜現代社会における「匿名の権威」を問題化した社会学の古典。


第5回(20001027)
質疑応答(BP0=10, BP1=42, BP2=7)
「他人に親切にするときに、自分が正しいかどうかを気にするということは、何も悪いことではない。それが独りよがりでなく、他者にとっても良い結果をもたらすのなら問題はない。動機が正しさへの執着であっても、だんだんと独りよがりな部分を修正してゆけば、真の他者への配慮に練り上げられる」(似たような多数の意見を再構成)
「他者のために親切にしようという気持ちがひとりでに起こるだろうか。やはり、それが正しいことなのだと教えられ、親切にすることが習慣化してはじめて、親切にしようという気持ちが自発的にも起こるということではないか」
「仏教的には、執着があるかぎり布施にはならない。ではどうするか。いきなり執着を取れと言っても無理なので、親切が自然になるまで、親切という行為を続ける」
→以上の意見に、基本的には賛成。道徳的他律から道徳的規範の内面化を通じて道徳的自律へ、という社会化理論の要約にもなっている。もともと私もフーコーも「正しいかどうか」への執着がはらむ落とし穴に注意しろといっているだけであって、自分の正しさへの感受性そのものを否定しろといっているわけではない(それは無理)。しかし、上の意見は、道徳的行為の評価への執着が、その目的であるはずの道徳的行為そのものを変質させうるという視点の批判にはなっていない。
 上の意見で、「他者にとっても良い結果をもたらすのなら問題はない」という言葉が出てきたので、具体的問題の例を挙げてみよう。「良い母親になろうと育児熱心な女性が、良い母親にならねばならないというプレッシャーを過度に感じていて、なのに子どもが思い通りにならないため、暴力を振るってしまう。すると自分はなんて悪い母親だと思って自分を責める。ますますプレッシャーを感じる。ところが、自分がこんなに悩んでいるのにこの子は……と、またキレてしまう。悪循環。いつのまにか虐待が止まらない。目の前にいる子どもの痛みよりも、自分が正しい育児をしているかどうかということしか考えられない」
「ボランティアに熱心に参加するが、家庭をなおざりにしている人。疎遠な他者に親切にできるのに、自分の家族を思いやることができない。目の前にいる他者よりも、自分の道徳的行為を必要としていて感謝してくれる他者を大事にする。実はボランティア仲間ともうまく協力関係が結べていなかったりする」(その他、前回の参考文献でもあげておいた磯部卓三『道徳意識と規範の逆説』(アカデミア出版会)を参照)。
 ただ、こういう独りよがりな道徳は修正してゆけばよいというのが、第一の意見。だが、そのためには正しさへの執着がはらむ落とし穴に、やはり批判的なまなざしを向けてゆく必要があるだろう。修正のための批判ということ。それを代弁してくれているのが次の意見。
「個人の自律が結局は不完全なものであり、自律していると思っても、結局は流されている。ということは、自律が徹底されていないということが問題なのでしょうか。ということは、本当の意味での自律を突き詰めることが大事ということでしょうか」(とてもよい理解)
 これに関連するのが次の意見。
「エゴイズムは捨てきれないのだから、徹底的にエゴにこだわることで、他人のエゴへの配慮も可能になるかもしれない」(エゴの相互調整によるエゴイストの共存という考え)
「自律すると他者への配慮が欠落するとは思わない。一人ひとりの個人が自律することによって、相互の人格を尊重しあうのでは」
→結局、自律が対他的ではなく対法的になってしまうという落とし穴に気をつけながら、いい意味でのエゴイズム、流されることのない真の自律、偽善にならない他者への配慮を目指すということ。

「他人に親切にするのは自分のためだということ。自分が親切にしてあげたいからするのだということを自覚することが大切。このようなエゴイズムを認めないで、あるいは打ち消して、他者のためにということばかり考えているとますます偽善になる」
→いっけん他者への配慮を説く現代思想への批判とも取れるが、ここでは、フーコーとともに近代の世俗道徳の欺瞞性を批判するコメントととるべき?エゴを認めたうえで、他者への配慮が偽善にならないようにするという主張なら、現代思想の主張と一致する。

 具体的な「落とし穴」に戻るが、大平健『やさしさの精神病理』(岩波新書)という本は、現代人の間に自分勝手なやさしさが蔓延していると指摘する。「たとえば老人を老人扱いするのはかわいそうだし、かといって席を譲らないことに気分を害する人もいるので、寝たふりをする<やさしさ>」。これは次の意見とも関連する。
「現代社会では、道徳的に自分を律するという自律がどうこうという問題を超えて、自分勝手な「道徳」が蔓延していると思う。道徳は自律などといって個人に任せるようなものではない。社会のルールなのだから他律的であるべきだ」
→ただ、それが他者の評価に敏感であるという形をとる場合、やはり評価を気にしすぎるあまり当の道徳的行為がいつのまにか道徳的でなくなるという落とし穴にはまってしまうだろう。この場合、他律的道徳のイニシアティヴを握る他者とは、評価者(他人の目)でなく、受益者/受苦者(目の前の他者)でなくてはならない。

補足
 なお臓器移植の例について説明不足だったため、「当事者同士の合意があればOK」という意見が多かった。先週問題提起したのは、たとえ当事者同士で合意が成り立っていても、それが本当に自己決定になっているか、ということ。つまり、臓器提供の自己決定といっても、「医者の業績稼ぎのために、死に関する文化的理解が無視され、人の死が脳死として法律上定義し直され、ドナーとなることが善行だと宣伝されたうえでの自己決定」にすぎないという批判。そして、それが構造的暴力の循環に組み込まれているとは、以下のようなことを念頭に置く。「結果的に移植手術を受けられる金持ちに臓器が回ってくる」「貧しい人の臓器がヤミ売買される」「臓器移植に頼らない治療法の開発にエネルギーが回らず、移植手術が主流になるとすれば、その分不必要な移植手術が行われていることになる」。 なお講義の本題とは外れるが、個人的にはこの問題を考えるのに重要なのは、「脳死」と認定された人が本当に脳死状態(つまり意識がない)かどうかは、最終的に決定できないということである。このことがあまりにも知らされていない。「脳死」患者から臓器を摘出するときには体が「勝手に」暴れるので麻酔をかけているということを知っておいてからドナー登録したほうが良い。体が暴れるのは、痛いからではなく単なる硬直に過ぎないと説明されているのだが、本当に痛くないかどうかは本人以外には分かりようがない。もし痛いとすればこれは殺人である。そもそも意識があるかどうか、脳が機能しているかどうかで死を決めて、心臓停止前に生命活動を停止させるということ自体がおかしいと思うのだが。それを法律を改正してまで「殺人」にしないよう努力しているということ。ドナーの身体の生命活動と臓器を受け入れる人の健康とを秤にかけること自体が非人間的な選択。このような選択をそもそも回避するような医療の道を探すことが先決。

講義
 これまで見てきた現代思想の議論を、他者論的転回としてまとめる。まとめが中心なので、テキストの読解が中心。

今週のテキスト1
 以上、ごく簡単に紹介した現代思想家たちの宗教批判の要点は、次のようにまとめられるだろう。(一)神の概念的把握、および(二)神と人間の類比的同一化が、(三)他者性の廃棄につながり、(四)近代における個人主義と全体主義の結合を準備した、と。現代思想のこのような動向を、ここでは「他者論的転回」と呼んでおく。それは、普遍的なものへの自己同一化を目指す西洋形而上学の帰結が個人主義と全体主義であることを踏まえて、他者の他者性を同一化することなく、それでいて相互不干渉や相対主義にもとどまらず、他者と倫理的にかかわる仕方を模索しようとするものである(したがって、よく誤解されることだが、現代思想家たちの多くは相対主義的でもなければ個人主義的でもない)。

ポイント=普遍的なものと直結することで、自己を完成させる。これは宗教においても、個人の自律の理想においても共通するパターン。それによって、真の意味での他者への配慮が欠落してしまうことを現代思想は批判した。

今週のテキスト2
 この「他者」という用語は、単に自分以外の人間を指すものではない。他者とは、独我論的な主観の構成に収まらないもののことである。また、それは横並びの共同性をともに構成する同志でもない。並び立つ諸主観の合成からなる全体性のなかには、他者は見いだされず、ただ集団的同一性があるのみである。このように言うと、現代思想家たちの言う「他者」は、極めて具体性に乏しく、非現実的であるように思える。他者の哲学をもっとも力強く説いたレヴィナスなら、その通り、他者は存在しない、存在するというのとは別の仕方で私に働きかける、もしくは存在でも非存在でもなく存在の彼方そのものである、とするだろう(L思inas 1977)。それは、自己と他者が互換的であるような現実のコミュニケーションの場面を度外視して、自己が自己であるかぎりにおいて、他者が他者であるかぎりにおいて、この他者について何が言えるかということを突き進めた、瞬間の思考である。デリダやアドルノは、レヴィナスほど極端ではなく、他者や非同一性を同一化しようとする暴力を自己がいやおうなしにはらんでしまうということの避けがたさを認める。にもかかわらず、いやだからこそ、この暴力をぎりぎりにまで落とし込むために、法の脱構築(デリダ)、概念の自己反省(アドルノ)というそれ自体完全には不可能な実践を敢行しようとするのである。レヴィナスの立場を「他者論」の極端な形態とするならば、デリダやアドルノの立場はむしろ「多元論」に近いかもしれない。しかし、他者の同一化に対するぎりぎりまでの抵抗という点では、彼らも「他者論的転回」を経た思想家とすることができるだろう。

ポイント=自分と同じような考えの人、同じような人種、同じような宗教を信仰している人となら仲良くできるというのでは、他者性を尊重しているということにはならない。そうでない人とも付き合っていけるということが大事。したがって、ここで言う他者とは、単に自分以外の他人のことではない。
(後半は難しいので説明しない。一応読解を試みて、質問したい人は個別に質問すること)

論点
・上のまとめを確認し、今までの講義を振り返ってみる。自分なりの現代思想のイメージができたかどうか考えてみる。それはどのようなイメージだろうか。
・テキスト中に括弧で、現代思想はよく相対主義や個人主義として誤解されがちだと指摘しておいた。たとえば、「普遍的な真理などない。共通の真理などない。そのような「真理」幻想から自由になって、画一化されない個性を大切にしよう。人間は一人ひとり異なる価値観をもっているのだから」という考えである。このような相対主義的個人主義について、あなたは自分の生活感覚と照らし合わせたときどう思うか。
・上のような相対主義的個人主義と現代思想との違いは何であろうか。
・現代思想の良い点と悪い点の両方を考えてみよう。

第6回(20001110)

質疑応答(BP0=17, BP1=14, BP2=8, ちょっと難しかったか)

 相対主義的個人主義と現代思想の違いが中心

「他者がいるとは認めるが、他者と向き合おうとしないで自閉してゆくのが相対主義的個人主義。現代思想は、他者を他者として尊重しつつ、自分に引き込もうとせずに、しかし関わろうとする立場」
→比較的テキストに忠実に展開

「他者との関わりを考えずに、つまり倫理や道徳を考えずに、自分がひとりだけで成り立っているかのように振る舞うのが相対主義的個人主義。現代思想は、そこで思考停止せずに、自分を成り立たせている他者と関わろうとする」
→個人主義のイメージ「自分と世界とそれをつなぐシステムがある」、現代思想の他者論のイメージ「自分と他者と生身の関係がある」

「普遍的な真理を否定するところは、相対主義も現代思想も一致している。しかし、これでは真の意味での他者を理解することはできない。共通の真理があるからこそ、人と人は意思の疎通ができ、関係を持つことも可能になる。現代思想は、普遍的な真理を否定しておいて、他者と関わろうとするということだが、それは可能だろうか」
→相対主義的個人主義とは、これまでいってきた「個人主義と全体主義のセット」の現代版。自律の資源が一元化されているという点は、全体主義においても今日の管理社会においても同じ。個人主義は、共通の真理を否定するといっておきながら、一元的なシステムに無自覚に依存し、追認することで、それを推し進めてしまう。「人によって価値観は違うのだから、自由にやろう」というライフスタイルを、現代人の共通の価値観として、意図せずして肯定してしまうのである(相対主義の絶対化)。「個性尊重」というスローガンは、根底における没個性を隠蔽するイデオロギーとして機能している(たとえば教育の現場において)。それすらも批判してゆくのが現代思想。しかし、それではどうするのか。「普遍的な真理が一つあってそれを共有する諸個人がいる」という普遍主義のヴィジョンでもなく、「多様な真理があって、相互に不可侵」という相対主義のヴィジョンでもなく、「多様な真理が互いに他の真理とぶつかりつつ、照らしあい、変容してゆく」という真理の多元的運動のヴィジョン。重要なのは、他者と関わるなかで、真理が展開してゆくという点。

「板書と説明によれば、多元論では、集団的同一性へと汲み尽くせないような各人の唯一独自性が尊重されるということだが、それと相対主義が強調する「個性」とはどう違うのか」
→相対主義的個人主義の「個性」は、結局は規格化されている(「個性的なファッション」という語義矛盾)。各人の唯一独自性は、他者性と同様、流通する記号に還元されないものの理念として措定される。

「主観的構成からこぼれてしまうものが他者、ということは、自分では容易に把握できないものということでしょうか。だとすると、「私」という存在も、どこかに自分では把握できない何かが残るので、他者になってしまうのでしょうか」(類似の指摘、いくつか)
→その通り。もう少し先のユングのところで、そういう議論が出てくる。

講義

 今週は、現代思想と宗教心理学の議論のブリッジの部分。今まで見てきた現代思想の考え方をふまえて、これから宗教心理学を検討しようとするところ。その際、どのような点に注目するのか。この問題意識を確認することを目標として、長めのテキストを消化。

今週のテキスト1
二 現代思想と心理学・心理療法
 他者論的転回を経た現代の哲学者からすれば、心理学はその基本的前提において批判されるはずである。「心理学」という名辞は、文字通りに解すれば、精神と身体の二分法を前提として、より支配的な位置に立つ精神についての、ロゴスによる概念的把握を目指すものであろう。しかも、この場合の精神とは、形而上学的実体としての魂の、さらにその形相にあたるような諸機能のことを指す[注:ここではアリストテレスの議論を念頭に置いている。関心のある人は各自調べておくように]。心理学はその定義において、一つのロゴス中心主義を体現する。また、そこでは主観において構成されたかぎりでの他者しか問題になりえず(問題とするならば倫理学となる)、その点で心理学とはその対象の限定においてすでに一種の独我論である。さらに、心理学の実践的部門である臨床心理学・心理療法は、自己開示と自己認識の技術、すなわち自己のテクノロジーを引き継いでおり、対人関係が問題になるとしても、それは他者への配慮そのものに向かうのではなく、自己同一性の再構成をもって結びとする。つまり、心身二元論、独我論的認識論、他者への配慮の欠落という点で、「心理学」は、現代思想家たちから論難される資格を有するのである。
 もしかしたら、現代思想の宗教批判が心理学にも妥当するという言い方は不正確かも知れない。むしろ、現代思想が批判していたのは、形而上学以後の宗教における心理的側面の強調、すなわち宗教心理の主題化だった、と言うべきかもしれない。すなわち、心理的内省を通じて超越的次元と接続しようとする努力が、他者への配慮の欠落に帰結しているという点への批判である。この批判点が、超越的な次元への関心を失った世俗心理学にもあるていど妥当するというのは当然のことかもしれない。
 だが、それはどのていど当てはまるのか。心理学・心理療法の思想家の多くは、自覚的であれ無自覚的であれ、自らを宗教と区別するよう努めてきた。そして、そのアイデンティティ形成期には、宗教を心理学的に対象化するような学問的成果を「宗教心理学」の成果として多数提示してきた。果たして、「宗教心理の主題化」に対する現代思想側からの批判は、このような「宗教の心理学的対象化」たる宗教心理学にとっても当てはまるのか。

ポイント
 これまで見てきた現代思想と心理学の関係はどうか。どうも、敵対関係にあるようだ。というのも、個人が普遍的なものと直結し、他者性を見失うという図式は、宗教だけでなく、心理学においても見られるからだ。でも、宗教と心理学には違いもあるのでは。

今週のテキスト2
宗教心理学における自己実現論と他者
 まず宗教と心理学の立場上の差異を確認しておこう。心理学が宗教を対象化するとき、宗教は神的事象ではなく、あくまでも人間的現象としてとらえかえされる。したがって、神による救済、あるいは苦難からの解放/解脱は、人間の心理的成熟のプロセスとしてとらえられる。そして論者によっては、このプロセスは自己実現プロセスとして定式化される。ここで念頭に置いているのは、W・ジェイムズ、C・G・ユング、A・H・マズローなどである。彼らは、一面的自我を越えた<より以上のもの>(世界・他者・無意識)に触れることで、潜在的可能性としての自己を実現してゆくというプロセスを、人間の心理的成熟のプロセスとしてとらえ、それがもっとも劇的に現れるのが宗教体験であると考えている。このプロセスは、とりわけマズローによって「自己実現」のプロセスと呼ばれた(Maslow 1964, Maslow 1968)。表層の自我を越えた内奥の<自己>に究極的にかかわってゆく様を記述するのみならず、それを規範的に是とする態度は、この自己実現論が<自己>の宗教であることを物語る。
 ここでの宗教と心理学の関係は微妙なものである。神を主語とする救済が人間を主語とする自己実現に取って代わられたことは、たしかに大きな断絶である。また、彼らは宗教的現象を超自然的現象として教義化する宗教を批判し、自然に生起する宗教体験にこそ宗教の本質があると見る。しかしながら、このような議論は、他者論的転回を経た思想家たちの批判する近代的自律の図式にそったものであろう。神と手を切ったといっても、より高次なる<自己>の実現に関心が移っただけならば、他者への配慮は自己実現の肥やしとなっているだけかもしれない。
 それでは、自己実現にとって他者はどのような意味を持つのであろうか。ここでわれわれは右の三人の心理学者からさまざまな回答を引きだすことができる。

ポイント
 宗教的な救済/解脱を心理学者たちは、自己実現のプロセスとしてとらえる。そこでは、他者への配慮はどうなっているのだろうか。

論点(ポイント解説含む)
・今までこれが自分だと思っていたものが、限界にぶち当たって壊れる、そして新たな自分に生まれ変わってゆく。これは自己への終わりなき関与である。無限の自己探究である。それを心理学者たちは「自己実現」と呼ぶ。
・では、宗教的な救済/解脱を「自己実現」として記述することは妥当だろうか。
・他方、世間一般には「自己実現」という言葉で、「自分の才能を開花させること」、「自分の能力を発揮すること」、「自分のやりたいことを実現させること」、(端的には)「出世すること」という意味で使われることが多い。
・このような「自己実現」概念は、マズローにも起因するかもしれない。「潜在的可能性としての<自己>を実現しようとするのが、人間独自の特徴である。それは機械や動物にはない特徴である。人間は決められたパターンを繰り返すのではなく、それまでのあり方から脱しようとする傾向をもつのである。つまり、自我を脱し、<自己>を実現しようとするのが、人間の人間たるゆえんである」。このような考え方と上の世間一般における「自己実現」という言葉の用法の違いはどこにあるのか。
・「今の自分はなんか違う。本当の自分を探したい」と思うようなことが、あなたにはあるだろうか。「本当の自分」探しが、90年前後から、雑誌の特集にのるようになったと言われる。ある種「求道」的とも言える「本当の自分」探しへの関心が高まっている。このような傾向の背後にある社会的状況とは何だろう。なぜ90年前後からなのか(よくある説明ではバブル経済と結びつけられる)。自分の実感と結びつけて考えてみよう。
・余裕のある人は、以上の論点を、さらに質疑応答で出てきた「相対主義的個人主義」の問題と関わらせてみること。

参考文献
・堀江宗正「心理学的自己実現論の系譜と宗教」、『東京大学宗教学年報』XVII(1999)、57-72頁
〜私の書いた論文。これからの授業の予習にもなる。インターネットが使える人は、オンラインで閲覧可能。http://homepage1.nifty.com/norick/jikojitsugenron.html

・香山リカ『<じぶん>を愛するということ――私探しと自己愛』(講談社/講談社現代新書、1999年)。
〜以下は私の書いた書評。

 80年代に青春を送った著者によれば、当時の若者は、変わり身が早く、目新しいものならなんでも飛びつく「明るい同一性拡散シンドローム」とでも言うべき状況にあり、「私探し」などは問われることがなかった。ところが、80年代後半から、「私探し」という言葉がメディアで盛んに使われるようになる。しかも、そこでは、「私」というものが、まるでどこかに転がっているかのように、探されることになる。精神分析や精神病理への基本的知識への関心が無くなり、かわって「私探し」のヒントになるような特殊な病態、疾患、テーマに関心が集まる。ある特殊なこころの病理に目をつけ、「私のなかにもこれがある!」と「発見」するのである。
 多重人格ブームの背後には、自分のなかにも素晴らしい人格があるのではという期待が隠されていた。ストーカー・ブームは、不可解な行動への恐怖と好奇心や憧れのミックスである。アダルト・チルドレンという言葉は、社会的には適応しているが「生きにくさ」を感じている人に、幼児期のトラウマからアイデンティティの成り立ちを説明してくれるものであった。
 また、「癒し」という言葉が肯定的なものとして多用されるようになった。この場合、癒しとは、具体的な病苦や障害を取り除いてもらうだけでなく、より高次の全体性を持った「本当の自分」になることでもある。そこには、自分以外の誰かによって自分を変えてもらいたいという願望があるのではないか。さらに、癒しのためなら多少のマインド・コントロールも受けてみるという態度すら見られる。こうした態度で「癒し」に接するものは、商業化されたセラピーやカルト教団を、消費者として自発的に選択し、それでいて結局は、ロボットのような画一化された「私」を手に入れることになる。
 精神分析家である著者の分析によれば、「私探し」につながる以上のような現象は、「もう一人の私」願望、「ステキな私」願望とでも言えるような未熟な自己愛によるものである。つまり、私探しにはまっている人というのは、幼児期に誰もが持つ誇大自己を、うまく捨てたり修正することができず、しかも素晴らしい私を目指して努力するのでもなく、どこかにあるものとしての「素晴らしい私」を探しているのだ。そして、それが見つからなくても、せめて特別な存在ではいたいと、マスコミの提供する「新しい病」に飛びついているのである。
 このような傾向に対して著者が下す処方せんとは、まず“今私が探しているのは「本当の私」じゃなくて「誇大自己」なんじゃないかな”ということに気づくことである。さらに“ここにいる私は「本当の私」ではない”という自己否定の感情を見つめ直し、“すべてをご破算にして、全く違う私になりたい”というくらいの強い自己否定は、どんな人にも必要ないとする。「自己否定」と「誇大自己」は必ずセットになって現れる。それに対して、自分は少しずつ変えるものであって、すっかり捨てて新しく手に入れるものではないと、著者は強調する。
 現代社会を生き抜くつらさとマスコミからのおびただしい情報ゆえに、「等身大の自己」はなかなか作られない。このような状況では、「少しだけ自分の考え方を変えるより、会社を辞めてチベットに旅立つほうが簡単だ」という極端な判断すら生まれる。しかし、そのようなことを繰り返していると、ますます等身大の自己イメージが見えにくくなる。
 著者の言う80年代と90年代の断絶については、「本当だろうか」という感想を持つ。癒しや自己改造への志向は80年代にも現れていた。それが90年代に入って、一般メディアでも取り上げられるようになり、サブカルチャーにあったときとは異なる態度で受容されるようになったということであろう。だからこそ、著者は、「何も残せなかった80年代のつけ」という後ろめたさを感じているのである。いずれにせよ、自己というものに対する操作的態度、努力するより外的手段で一挙に自分を変えようとする受動的態度が顕著であることは間違いない。それに対して、「等身大の自己」は、どれも一つ一つがきっと独創的で、エキサイティングで、これ以上ないほど美しいものであり、それをみんなで祝福できるようになりたい、という著者のメッセージは胸に響く。この本自体が、一つの癒しの場となっている。
 昨年は、この他にも現代社会を自己論の観点から斬る心理学者たちの労作が目立った。たとえば、影山任佐『「空虚な自己」の時代』(日本放送出版協会/NHKブックス)、和田秀樹『<自己愛>の構造――「他者」を失った若者たち』(講談社/講談社選書メチエ)。(堀江宗正)
『国際宗教研究所ニュースレター』No. 25 (2000)より

第7回(20001117)
質疑応答(BP0=13, BP1=6, BP2=4。前回はちょっと後半が急ぎすぎたと反省)
「本当の自分という言い方が気になる。本当の自分なんてものはない。自分はすでにそこにあるもの」
→似たような意見をいくつかいただきました。確かに、分かるような気はします。現代社会に生きる私たちは、いつも「こうしなければ、ああしなければ」とあくせくしていて、自分をもっと良く見せようとして、いろんなものに飛びつく。でも、それは自己否定的な感情である。そんなふうに自分を駆り立てるのは、深い自己肯定が足りないからだ。背伸びしたり、欲張ったりせずに、あるがままの自分でいい、と。実はこのような言説も、自己実現論のなかにはセットとして組み込まれていることが多いと思います。「本当の自分」という言葉のかわりに「あるがままの自分」という言葉が出てきますが、「あるがままの自分」を強調するのは、普段「あるがままでない自分」にとらわれているからです。ということは、この「あるがままの自分」も「本当の自分」の一変種ということになります。

「救済を自己実現とするのは問題ないと思うが、解脱は違うと思う。解脱とは執着をなくすことであるが、自己実現は自己への執着をはらんでいると思う」
→口頭でもちらっと言ったことですが、自己実現論は表層の自我が否定され、そこに全体性としての自己が現れるという考えをしており、それは自我への捕らわれから解放された状態だと考えます。この自我と自己の言葉の使い分けを見落とすと、自己実現論は自我への執着だということになってしまいます。仏教的な言葉に置き換えると、自己の境地とは無我の境地だということになり、そのような自己が潜在的可能性としてあるというのは、仏の性質、悟りの芽が心の奥底に宿っているいうことに相当するでしょう。

 ここで改めて、大衆的自己実現論と、心理学的自己実現論を区別しておきましょう。心理学的自己実現論では、「これが自分だ」と思っているものが、実は幻想だと気づくことをとおして、本来的な自己が出現する。しかし付け加えると、そのような気づきの後の自分は、完ぺきな「本当の自分」ではありえず、やはり「これが自分だ」として主観的に確信されるような自分でしかない。自己は完全には現実化されず、あくまでも自我の壁が破れて流動化するときに、かいま見られるに過ぎない。いっぽう大衆的自己実現論においては、「本当の自分」がまるでどこかに転がっているように探し求められ、それを手に入れれば、自分はもっと良くなるという幻想にとらわれており、それが「癒し」ブームに見られるように結局は消費行動のレベルで終わってしまう。これは、心理学者のいう自己実現ではなく、自我充足に過ぎない。つまり、自己実現は終わりのない無限のプロセスであるのに、それが大衆的レベルでは、何か目標達成のようにとらえられているということです。

「自己実現によって自分が変わったとしても、別のかたちで限界は存在するだろう。それでは解脱とは言えない。ただ、限界を認識してゆき、自分が変わってゆくという方向性そのものは解脱と同じである」
→とても鋭いと思います。一般に解脱とは、煩悩から解き放たれて、迷いのない自由な心境になることで、涅槃と同一視されます。インドの思想では、とりわけ輪廻からの解脱を意味していました。このような理解によれば、解脱とは最終的なものであり、自己実現のような無限のプロセスとは性質が違うということになるでしょう。実は、キリスト教における「救済」も終末論的なものにせよ、キリストによる罪の贖いにせよ、1回限りの劇的なものと考えられます。人間世界における苦や罪などの悪一般を強調する世界宗教は、それからの普遍的解放を目指すので、そこでの救済・解脱は人間的な迷いの状況の全否定となります。それを「自己実現」として記述するのは誤っていると言われれば、それはまったくその通りだと思います。しかし、そこに、心理学者たちの創造的解釈を見て取ることは可能でしょう。近代以降は、現世以外の次元での救済・解脱は目指されなくなり、世俗に生きながら人格的向上を目指すという考え方が主流になるわけですが、自己実現論はこのような考え方にマッチすると思われます。なお大乗仏教では、解脱も空であり実体はなく、それを悟り、衆生救済とともに実践するところに解脱があると考えられるそうです。となると、衆生の救済というところを省けば、だいぶ近いことになります。衆生の救済というところは、自己実現論において見落とされがちな他者への配慮ということになるでしょうか(支配的同一化にならないかぎりにおいて)。考えようによっては他者の自己実現を助ける臨床家と重なるかも。

講義
今週のテキスト1

 それでは、自己実現にとって他者はどのような意味を持つのであろうか。ここでわれわれは右の三人の心理学者からさまざまな回答を引きだすことができる。
 まず、マズローにとって、自己実現とは自己に耽溺することなどではなく、その正反対に、他者の他者性の現実性を認知することと連動して起こるものであった。われわれの通常の自我構成は、欠乏動機に基づいている。つねに、自らに欠けているものを外界から補おうとしている。そのため、他者をあるがままに認知することができず、自分の利害関心によって歪曲された一面的な他者像を構成している。その場合、他者とは自我の自己保存欲求の糧でしかない。だが、自己保存に終始するあり方は、人間の本来的あり方ではない。人間心理が動物心理や機械論的モデルを参照することだけで理解できないゆえんは、つねにそれまでの自我のあり方から抜け出そうとする傾向、すなわち成長動機にある。欠乏動機なき成長動機は、他者を自己保存の糧とするのではなく、自我に同一化されることなき他者の他者性に触発され、自我の限界を知り、と同時に自己保存の循環から解放され、それまでの自我とは他なる<自己>になろうとする(Maslow 1970)。このような<自己>はその定義上、決して同定されず、固定的な実体を持たない。彼のピーク・エクスペリエンス*論(宗教の中核をなす体験とされる)では、他者の他者性の認知とともに、自他の神秘的合一とも言える状況[自他の一体感、融合の感情]が記述されているが、その場合も他者性が同一化されることはなく、自己も他者もそれぞれユニークであるという点において相似しているということが感得されるのである。そこから、自己保存に終始する諸個人が並び立つ社会ではなく、それぞれのユニークさを相互承認し、他者の自己実現が自らの自己実現と連動してゆくような響働態シナジーのヴィジョンが描かれる(Maslow 1968)。それは、ジェイムズの多元論的な考え方を受け継ぐものであろう。
 ジェイムズは、宗教的回心と救済において起こっている事態を、低次の自己が崩壊したとき、<より以上のもの>とのかかわりにおいて、それと連続する高次の自己が活性化されることとして記述する(James 1901-2)。これはマズローの自己実現プロセスの記述と極めて似たものである。さらにそれは、単に自分の力で物事をコントロールしようとすることではなく、より高い宇宙の働きに参入するかたちで能動的に行為することを意味する。これは、神・世界との協働という発想である。神も人間も、それぞれ別々のものが現に独立して存在し、融合はしないが、ともに活動し、線的な連続性をなし[同じではない、一体ではないが、隣り合ってつながっている]、「多元的宇宙」を形作る(James 1909)。このような思想は、伝統的一神教とも汎神論とも異なる、ジェイムズ一流の多元論・多元主義である。それは、人間同士の関係にも適用される。すなわち、各人それぞれの独自性や違いを尊重しながら、それぞれの生活の経験に根差したやり方で、ともに理想を実現してゆくというあり方である。

用語解説
ピーク・エクスペリエンス:邦訳では「至高体験」「至高経験」などと訳されているが、明らかに誤訳なので私はカタカナ表記。マズローは複数の被験者に、今までの人生のなかで起こったもっとも重要な体験、高揚するような体験を質問し、その時、他者や世界などの現実や自己の感覚がどのように変化したかを質問した。彼はその特徴を合成して、理念的モデルを作った。それは、上に述べた自己実現の特徴の圧縮された瞬間である。マズローは、このような体験は、誰でも一度や二度は人生のなかで体験していると考える。その瞬間は、普段の自分がちっぽけなものに思え、普段こだわっていることがどうでもよく思えたりする。自分が生かされてあるということが如実に感じられる。マズローは、宗教の中核にはこのような体験があり、それを伝達するのが宗教の役割であるとした。ところが、それを伝えるうちに、体験をとおして開示されたことが絶対化され、超自然化され、普通の信者に起こらないように抑圧される。マズローはこのように論じて、高度に制度化された宗教を批判し、日常生活においても起こりうる自然な宗教性を回復する必要性を説く。

ポイント
 自己実現概念の提唱者であるマズローは、他者のことなど考えていないように誤解されがちだが、実は、他者を自分からみた利用価値にとらわらずにあるがままにとらえることが、自我の欲求充足の循環から離れるために重要だと考えていた。これはむしろ、現代思想の他者論・多元論と連動するものである。マズローに影響を与えたと考えられるジェイムズも、自我の限界、他者との協働、多元論という思想をもっていた。

ポイント解説
 マズローの言う自己実現とは具体的にどのようなものか。彼によれば自己実現している人とは、物事を固定的に見ないので、次々に新たな発見ができるような人ということである。簡単に言うと、毎日を漫然と過ごすのではなく、「はっと気づかされる」ような瞬間を大事にしているような人である。そのような人は他者から常に学ぼうとしている。他者の新たな側面を見いだそうとしている。つまり、自己実現している人の他者への配慮とは、独りよがりなおせっかいを他人に施すことではなく、まずは他者に関心を持ち、その人の潜在的可能性をあるがままに認めることなのである。
 マズローによれば、自己実現している人(自己実現した人ではない)は少数であるが、自己実現の特徴を圧縮したような瞬間であるピーク・エクスペリエンスは誰にでも起こっているとする。マズローがよく出す例は、赤ん坊を出産した母親の我が子との出会いである。慌ただしい出産(および後産)の苦しみが和らぎ、この世に生まれ出た赤ん坊の寝顔をしげしげと見る。あるいは、起きだして小さな声で泣き、乳房を懸命に吸う姿に接する。その時、生まれ出る赤ん坊に対して抱いていた期待や不安が、何だかちっぽけなものであったように感じ、一瞬、その赤ん坊が世界そのものであるような感じがし、やがて言い様のない感動が込み上げ、自分は今、大いなる生命の循環のまっただなかで生かされており、掛け替えのない使命を全うしつつあるのだという感慨を抱く。以後、この母親は、見返りを求めない与えきりの愛を尽くすであろう。これこそ、自我の欠乏動機に回収されない他者への配慮そのものである。もちろん、母親だって人間であり、完ぺきではない。子どものためと思いながら、いつのまにか自分の自尊心のために育児・教育をしているかもしれないし、あるいは自分が果たせなかったことを子どもにかわりに実現してもらいたいなんてこともあるかもしれない。しかし、長い子育てのなかでは、上のような純粋な瞬間、私心が吹き飛んでしまっているような瞬間が一度や二度は訪れることがあり、そして彼女の人生はそれによって支えられているのである。マズローによれば、このような世界観は、宗教と表面上は関係なくても、宗教の核心を突いているものとされるのである。

今週のテキスト2
 マズローにせよジェイムズにせよ、彼らの自己実現論は独我論ではない。あくまで自我の限界において<自己>が実現されるプロセスが描かれるのである。もちろん、他者性の認知と自我の限界の痛切な自覚と自己放棄が、自己の真正さの証としてとらえられるなら、やがて自己実現そのものが規範化され、他者への配慮は自己実現への関心に回収されてしまうであろう。実際、マズローの自己実現論に影響を受けた種々の自助マニュアル参考は、マズローが「記述」した自己実現している人間の特徴をあげ、それを具体的な「規範」として自分自身のあり方を反省させ、自己実現へと導こうとするのである。

ポイント解説
 上の母親の例を引き継いでゆこう。お母さん同士の間で、「やっぱりそういう瞬間て、一度や二度はあるわよね」「うんうん、あるある」なんて会話が交わされる。それを聞いていたある母親は、自分がそんな気持ちを抱いていないことを気づき、ショックを受ける。「どうしてなんだろう。私は愛が足りないんだろうか。でも育児って、そんなこと考える余裕、はっきり言ってないよね」。愛することそのもの(育児そのもの)に関わっている状態から、その愛が「本物かどうか」にこだわる評価者の視点に移行している。cf. 第5回の質疑応答で出した「正しい育児にこだわりつつ虐待が止まらなくなる母親の心理」

参考
「マズローの自己実現論に影響を受けた種々の自助マニュアル」の例
ウェイン・W・ダイアー『もっと大きく、自分の人生!』(三笠書房、知的生き方文庫)の訳者解説
 マズローがあげている自己実現の進んだ優れた人間の特徴をまねして生きようというのが文章の趣旨。その特徴は次のように要約されている(かなりの意訳も含まれている)。「自分をごまかさずに現実を認識」「愚痴っぽくない」「自分のことをあれこれ気にしなくなる」「孤独の時間を大切にする」「流行に左右されない」「感動豊かになる」「何かにうっとりする体験、ジーンとくるような体験が増える」「人類の一員として考え、振る舞う」「他人のプライバシーを尊重する」「権威主義的でない、気さくで親切な性格」「他人との比較にやきもきせず、創造力が高まる」「世俗的価値観に煩わされなくなる」(訳者=渡部昇一)

論点
・マズローの自己実現概念を、改めて通俗的自己実現概念と比較してみて、どこが違うかを考えてみる(前回のコメントでは今一つ)。
・あなた自身の人生のなかで、上のピーク・エクスペリエンスに相当するようなことはあるだろうか。反省してみる。
・いわゆる宗教とは関係ないが、宗教的価値と関わるようなものとしては、上に挙げた例のほかにどのようなものが考えられるだろうか。たとえば生老病死に即して考えてみる。
・他者を他者として受け止めることが自己実現と連動しているという考えと、自己実現するためには他者を他者として受け止めようという考えの微妙な違いについて意識してみる。とくに、上の「参考」であげた、マズローの言う「自己実現している人間」をまねて、「自己実現」しようという考え方についてどう思うか。

参考文献
・マスロー『人間性の心理学――モチベーションとパーソナリティ』(産能大学出版部)〜自己実現している人間の特徴の列挙
・マスロー『創造的人間――宗教・価値・至高経験』(誠信書房)〜宗教論
・マスロー『完全なる人間――魂のめざすもの』(誠信書房)〜基本書、ただし訳がめちゃくちゃ。
(なお邦訳ではマズローではなく「マスロー」と表記されることが多いが、間違いらしい)
・ジェイムズ『宗教的経験の諸相』(日本教文社)〜手記資料による宗教体験論。宗教心理学の古典
・ジェイムズ『多元的宇宙(ウィリアム・ジェイムズ著作集6)』(日本教文社)〜図書館でしか手に入らない
・スティーヴン・C・ロウ編著『ウィリアム・ジェイムズ入門――賢く生きる哲学』(日本教文社)〜以下は私の書いた書評

 ウィリアム・ジェイムズは、宗教心理学の古典とも言える『宗教的経験の諸相』の著者であり、プラグマティズムの代表的思想家でもある。しかしながら、現在入手しやすい入門書は、実はあまりない。
 本書は、第1部をジェイムズの生い立ちと思想の紹介にあて、そして、読者がジェイムズという思想家と「会話」できるようにという配慮から、第2部をジェイムズの著作の抜粋で構成している。それは一見多様なトピックの引用にも思えるが、それでいて、コンパクトながらジェイムズの思想の全体像をかいま見させてくれる。以下、評者にとって印象的だったことを要約し、読者の益に供したい。
 ジェイムズによれば、宗教は極めて重要な選択である。宗教は、より永遠なるもの、より上位なるものを最善とし、さらにこのことを信じれば、われわれの状況は改善されるだろうと主張する。懐疑主義は宗教を信仰することで欺かれることを恐怖する態度だが、それに対してジェイムズは、もし宗教が虚偽ならばそのような態度で過ちを避けられるが、宗教が真ならば、上に述べたような利益を逃すことになるとする。そして、あることが虚偽だという証拠もなしにそれを頭ごなしに否定するのは、不合理な判断だとして懐疑主義を退ける。こうして、ジェイムズは信じる意志を擁護する。それは、宇宙のより大きな領域で神とともに活動し、われわれを生き生きとさせることにつながるであろう。
 われわれは、自我の力で物事をコントロールしようと努力している。だが、宗教的回心に見られるように、小さい自我が破綻し、その絶望を経由して、ありのままの現実を受け入れ、より大きな宇宙の領域と一体となることは、救いにつながる。さらにそれは、より高い宇宙の働きに参入するかたちで能動的に行為すること、世界を変えることにもつながる。これは、神との協働という発想である。神も人間も、それぞれ別々のものが現に独立して存在し、融合はしないが、ともに活動し、線的な連続性をなし、「多元的宇宙」を形作る。これは伝統的一神教とも汎神論とも異なる、ジェイムズ一流の多元論である。
 このような多元論的思考は、人間同士の関係にも適用される。各人それぞれの独自性や違いを尊重しながら、それぞれの生活の経験に根差したやり方で、ともに理想を実現してゆく、というあり方である。
 そこでは、互いに学び成長できるような、人と人との出会いとしての「会話」が重要視される。会話を通じて、われわれは生命力を得、真実をより深く理解することができる。それは、ひとつの普遍的な論理を絶対視するものではないが、相対主義でもなく、会話をとおして真理を探究するプラグマティズムである。われわれを良く導き、生活と調和し、経験と結びついているようなものを真理とする共同の真理探求たるプラグマティズムは、民主的な哲学的思考態度である。それは世界や自然と親密な関係を結ぶ思想であり、現代を生きるわれわれにもっとも必要な考え方ではないだろうか。
 哲学者でもあり神学者でもある著者ロウのジェイムズの読み方やテクストの再構成の仕方は、ジェイムズを宗教思想家のほうに引きつけている。ただし、残念なことに『宗教的経験の諸相』からの抜粋はない。さまざまな宗教的回心のエピソードが盛り込まれていれば、本書はより豊かなものとなったであろう。
 いずれにせよ、このコンパクトで平明なジェイムズの入門書の邦訳を喜びたい。訳文が読みやすいことも本書の特長である。
『国際宗教研究所ニュースレター』No. 22 (1999)より

第8回(20001124)
質疑応答(BP0=16, BP1=17, BP2=8)
「自己実現が、他者性の認知とともに起こるというのは面白い。結局、自己実現といっても、他者から影響を受けることでしかないということである。他者から影響を受けようとする際にも、取捨選択の余地があるという反論もあろうが、その取捨選択の基準も、結局は他者から影響を受けて出来上がったものなのである」
→書いた人は、自己実現という考え方の空虚さを指摘しようとしたのかもしれませんが、かえって自己実現の本質である「空性」を言い当てているように思われます。他から何かを摂取して自分を作ろうとしても、それは結局借り物である。であるならば、他によって成り立つ自己を徹底的に自覚する。それが逆説的に、真の自己実現になる、ということになりますよね。次のようなたとえが頭に浮かびました。風を集めて自分のものにしようとすると、風はそこで死んでしまう。風を流してゆくことで、それは力になってゆく。
 次は、大衆的自己実現論と心理学的自己実現論の違いについて(なお、両者の違いを意識せずに、自己実現は表面的だと批判しているものが、若干見られましたが、講義の筋をもう一度確認して下さい)。

「自己実現が、人間の無意識の領域を含む心の全体性の実現なら、意識的に自己実現しようとすることは、意識的自我の作為でしかない」→つまりどういうことか。その答えは次のコメントに。
「自己実現している人をまねて自己実現しようとするその根本の動機には、優れているとされている人と同じように賞賛を浴びたいという欲求がある。同じになったと思ってもそれは自己満足に終わってしまう」
→これはマズローのいう承認の欲求に当たります。承認の欲求は、なお欠乏動機の範疇に属するものです。つまり他人から賞賛を手に入れて、自分の欲求を満足させようとすることですから。しかし、承認の欲求にとらわれているのか、それとも自己実現プロセスのなかにあるかの判別は、実際には極めて微妙です。自己実現していることの特徴として、自己保存的傾向を抜け出しているということがあげられています。これを、自己変容的傾向と呼んでおきましょう。しかし、自己変容しているからといって自己実現していると言えるのか。自己実現していると言えるためには、自己実現の定義である、潜在的可能性の実現の所をチェックしなければなりません。しかし、その人の言動が、その人の潜在的可能性の実現であると言えるかどうかは、結局、文化的な判断であり、他者が評価するものである。そのため、自己実現しようとすることには、承認の欲求が入り込む余地ができてしまうのです。自分の潜在的可能性、それは潜在的なので、意識的目標としてあらかじめ把握されることはないが、それが実現されるためには、ただ無為であるわけではなく、その分野に関わる技能を磨いておくとか、創造への問題意識が前提としてなければなりません。その過程では、文化的に継承されている価値観が学習されているはずです。多分、承認の欲求は、それに極端にとらわれて、劣等感と優越感の間で揺れ動くようなこと(あるいは両者を分裂したままもつなどということ)がなければ、つまり程々にあれば、自己実現を可能にするような仕事レベルの維持にとって不可欠な他者からのフィードバックを欲する、健全な欲求であるでしょう。しかし、自己実現が、承認の欲求の満足で終わってしまうならば、それは成功者のまね事で終わることを意味します。

「自己実現している人をまねようとすることには内容がともなわない。これは宗教でも言える。悟った人の特徴をまねしようとしても、それで悟ったことにはならない。では、どうしたらよいのか」
→どうしたらよいのか。答えは次のコメントにあります。
「自己実現論は、大乗仏教と共通する部分が多い。規範化、マニュアル化される危険も似ている。ただ、まねすることがすべていけないかというと、そうでもない。方向性を学ぶことには意義があるだろう。ただ、それはあくまでも参考にするということであって、自分の生き方は自分自身で見つけるしかない」
→素晴らしいコメントですね。中道の精神が発揮されています。テキストとして取りあげている私の論文の筋は、以後こうなります。「自己実現の規範化の危険」を指摘しつつも、だからといって「マニュアル化されない真の自己実現」を探そうとすれば、それも自己の真正性へのこだわりになってしまう。そこで出てくるキーワードは、「仮象の多産性」に賭けてみるということです。

講義
今週のテキスト1

 では、ユングの自己実現論と他者の関係はどうであろうか。心的現象や心的現実としての経験が素材として重視されるユング心理学においては、他者そのものが扱われることはない*。その点、彼の理論は徹底的に独我論的構制をとっている。しかし、そこでの「自我」と<自己>は通常の用語法を大きく逸脱する。ユングにとって主体が同一化するところの自我は、実はコンプレックスの一つでしかない*。それは、最初から他者を同一化するほど大きくはないのである。自我は心の中心になろうとするが、そうすることでかえって自我の外部の暗やみにおびやかされてしまう。心の世界は、自我によって支配されることがなく、自我と対立するような無意識的内容によって満たされている。そして、これらの無意識的内容は、どれ一つ純粋に個人の生活史に由来するものはなく、人間精神の共通の構造として仮説的に設定される元型に由来する*。<自己>とは、これらの意識と無意識を含んだ心の全体性とされるが、そのような自己は個人のものではなく、集合的次元に根差している(以上の紹介は、たとえばcf. Jung 1928)。したがって、ユング理論は独我論を突き進めることで、独我論の不可能性に到達し、自己そのものが他者によって構造化されていることを突き止めたということができるだろう。

用語解説(というよりは注釈)
 心的現実の立場:ユングは、臨床にあたって患者の妄想が物理的現実か否かを問わずに、心的現実であることを認めようとする。それを心理学的理論に還元せず、まずは体験された通りの現実が心の世界において起こっていることを認めるというスタンスをとる。宗教的信念に関しても、それが真か偽かを問わずに、信者の心の世界においては現実そのものであると認める立場をとる。
 コンプレックス:もともとは感情や観念の複合体という意味。ユングが提唱し、フロイトも受け入れ、エディプス・コンプレックスなどという概念につながってゆく。ユングは、さらにこのコンプレックスが自我にとってコントロール不可能な現実性を帯びているという知見から、コンプレックスの自立性、無意識の自立性を唱える。フロイトのように、無意識的なものを意識的なものが抑圧されたものとは考えず、無意識は意識から独立してあるということである。このような見方をさらに徹底させ、自我すらコンプレックスの一つであるということで、他の無意識的諸力と同等のものとしてとらえる。このような説は、多重人格における人格の交代などの現象をよく説明するであろう。
 元型:コンプレックスの自立性とは、前述のとおり、かつて意識的であった生活史上の内容が無意識的なものに抑圧されたのではないという主張を含む。つまり、コンプレックスは個人的意識や抑圧されたものとしての個人的無意識に由来するのではない、ということである。この着想を突き進めて、ユングは、コンプレックスは集合的無意識に由来するという説を唱える。この説を経験的に裏付けたのは、患者の幻想が患者のまったく知らないはずの世界の神話的素材と酷似しているという発見である。ユングは、人類の生物学的構造に共通の部分があるように、精神的構造においても共通の部分があるだろうと仮定し、この共通の精神的構造を元型と呼ぶ。そして、それまでコンプレックスと呼んでいたイメージ体を元型に由来するものととらえ、元型イメージがどのような形をとるかについて論じてゆく。それが有名なアニマ・アニムス、老賢者などについての議論である。

ポイント
 ユング理論の基本的骨格を一段落で説明してしまっている文章(^_^;)。自我とは、通常「私」として意識されているところのものと押さえておく。しかし、ユングにとっては、心=自我ではない。心のなかには、意識の範疇に収まらない無意識的な諸力が渦巻いている。自我にとって包括不可能、コントロール不可能なものを「他者」というなら、心のなかに無意識という他者があるということである。ユングにとってこの「心のなかの他者」とは単なる比喩ではない。彼は、無意識が集合的次元に由来しているという思想をもっているので、実際に、心は他者に由来するという考えにつながる。心のなかに現れる他者しか扱わないというのは、独我論的な認識論の立場であるが、そのような心というものがすでに他者によって形成されたものであるとすると、独我論は一挙に崩れてしまう。

今週のテキスト2
 では、その[ユングの]自己実現論において、<他>なるものはどのように位置づけられているのだろうか。ユングの言う自己実現(個性化)とは、自我がそれとは他なる無意識的内容に直面し、脱中心化され、意識と無意識の出会いによって心の全体性(自己)が活性化されるというプロセスである。それは、しばしば中心化しようとする自我によってブロックされることがある。自我が一面的になればなるほど、自我はそれとは他なるイメージの湧出にほんろうされてゆく。そこで自我によるこのようなブロックを解いてゆき自己実現プロセスを促すのが、心理療法の目的である。ユングが、自己実現をこのように考えていたのであれば、それは必ずしも他者の我有化を目指す思想とは言えない。むしろ他者性の迎接に重点があると考えられる。

ポイント
 ユングの自己実現(個性化)プロセスは、よく弁証法的プロセスと対比される。自我(正)が無意識(反)と対立し、出会うことによって、それを包む全体としての<自己>(合)が活性化されるという構造をとっているからである。自我が頑固になればなるほど、対立は激しくなる。極端な場合、人格の分裂に至る。それを解きほぐすのが心理療法の目的である。ということは、自我が自我にとっての他者と直面することが、自己実現にとって重要であるということになる。

今週のテキスト3
 だが、ユングの考える自己実現=個性化が、自己の統合を絶えず「規範」として目指すものであり、その途上で現れる多様な無意識的イメージは究極の<自己>の実現のための肥やしでしかないとすれば、他なるものとの出会いは二義的なものに過ぎなくなる。自己の統合は、努力して目指すべきものなのか、必然的なものなのか。もしそうだとすれば、それはヒルマンの批判する「自己の一神教」に近づくだろう。ヒルマンは、ユング理論における<自己>を頂上に置くヒエラルヒー的構成を、キリスト教的一神教のバイアスのかかったものとして批判し、ユング心理学を多神教的な方向に修正してゆこうとする。ヒルマンの批判意識は、すでに見てきた現代思想家たちのロゴス中心主義批判と軌を一にするものである。ヒルマンは、自己実現を規範として自己の統合を目指すことに反対し、むしろ魂の非同一性、多元性を無理に総合せずにそれとして認めることによって、心身二元論に回収されない「魂」という場を作ってゆくことを目指す。このような意味での「魂」は一つの個人・個体の心理をはるかに越え、人類の神話に登場する神々と結びついている。ヒルマンの魂の心理学は、近代以後の心理学の個人主義的なイデオロギーからの離脱を志向しており、現代思想家たちの心理学批判を免れるものとなっている(Hillman 1975)。

ポイント(解説)
 ここでも自己実現の規範化が問題となる。ユングの言う<自己>は、意識と無意識を含む心の全体性という意味であり、いかなる実体的目標でもない。そうだとしても、「自己実現=心の成長・発達」というニュアンスがあるなら、「成長するためには自己実現しなくちゃ、そのためには無意識を探究しなくちゃ」という傾向が助長されるだろう。その場合、無意識との出会いは意識的努力になり、結局は無意識の他者性が失われかねない。昨今静かなブームを呼びつつある「明晰夢の技術」は、結局夢の神秘性や、夢への驚きをなくし、夢をコントロールし、快楽の場にすることにつながるかもしれない。手順は以下の通り。夢の記録、反芻の習慣をつける、夢の続きを見ることを強く念じ、眠りにつく、夢の中で夢であることを意識して主体的に振る舞う、夢をセラピーの場面に作り替える。チャールズ・マックフィー『みたい夢をみる方法――明晰夢の技術』講談社。そうしたことがすべて、<自己>の総合を目指すことになるなら、無意識的イメージの独自性は失われてしまうだろう。ヒルマンは、<自己>を絶対化する「自己の一神教」を批判し、心のなかの他者である無意識的イメージとの出会いを味わえと説くのである。

論点
・マズローの自己実現とユングの自己実現を比較せよ。
・とくに「他者」の意味の違いに気をつけて。
・次に、実現される<自己>の意味の違いに気をつけて。
・ユングの言う自己実現は、目標として目指されるものか。それとも人間の心はそうやって展開してゆくのだという事実の単なる記述か。
・去年、別の文脈でユング思想を紹介したとき、「自我もコンプレクスの一つだというのが今一つよく分かりません。そのように考えてしまうと自分というものが何だか分からなくなるので、不安になりませんか」という質問を頂いた。そのような「不安」をあなたは感じるか。あなたならどう答えるか。
・心のなかのものは、どれ一つとして個人的なものはないというのが、ユングとヒルマンに共通する思想である。それをたどってゆくと、すべて人類の文化的遺産とつながっている。心のなかに世界があると言い換えることもできる。このような考え方を、一念三千論と比較することは可能だろうか。
・ユングの宗教論によると、宗教とは、自我意識を圧倒するような無意識的諸力に誠実に直面することだとされる。そして、そこで起こる心の全体性の活性化のイメージを象徴として残したものが、教義や儀礼にあたるとされる。このような宗教的象徴は、無意識的諸力と間接的に出会い、安全なかたちで自己実現を促すものだと評価される。ユングは、マンダラをこのような象徴の一つとし、自らもマンダラを書くと同時に、患者にも書くようすすめた。この点をどう思うか。

参考文献
入門書
ユング心理学入門 河合隼雄 著 1967 \1,262 培風館〜古典的入門書
ユング 林道義 著 1980 \700 清水書院 〜コンパクト
ユング スティーヴンズ,A.著 1995 \1,456 講談社
ユング ハイド,M.著 マクギネス,M. 絵 1994 \1,262 心交社 〜マンガは各種ある
図説 ユング 林道義 著 1998 \1,800 河出書房新社〜以上二つはヴィジュアル系
ユング心理学辞典 1994 \2,600 創元社〜用語解説
ユング心理学への招待 ホプケ,R.H.著 1992 \2,136 青土社〜文献案内

宗教関連
ユングとキリスト教 湯浅泰雄 著 1996 \971 講談社
ユング心理学と仏教 河合隼雄 著 1995 \1,800 岩波書店
ユング心理学と宗教 渡辺学 著 1994 \2,233 第三文明社
仏教 No.48(1999.10)特集=仏教とユング心理学、法蔵館

一次文献
ヒルマン『魂の心理学』(青土社)。
ユング『自我と無意識』(第三文明社、レグルス文庫)

宗教心理学(二)
レポート実施要項

論題
 授業配付プリント全体の主張をふまえて、それについての感想を、A4用紙(原稿用紙ではなく)1枚にまとめて提出せよ(表紙の裏でもかまわない)。

 なお、以下のようなレポートは自動的に不可とする。
・授業全体の内容と直接的に関係しないもの。関係の薄いものはだめ。「関係しそうな本を図書館で見つけたので、まとめてみました」というレポートは、まず不可になる。必ず、プリントを熟読し、そこで私が主張していることに直接応答すること。なお、枝葉末節についての意見も不可。必ず、プリント全体で何を主張しているのかに、注意を払い、それについての意見・感想を書くこと。
・自分の意見がないもの。
・要約が1/3を超えるもの。
・何かを書き写したもの。
・レポート用紙の紙面2/3未満のもの。
・根拠の乏しい主張、論理的飛躍の多いもの。

提出日
1月12日(金)14:30-15:30

 試験会場を設定して、そこで回収する。試験会場の場所については、大学事務からの発表を参照すること。

評価の仕方
 このレポートだけで、60点から70点の評価を付ける。残りは平常点。毎回の自由提出のコメントで、ある程度授業内容を理解して、自分の意見を書いているものはBP(ボーナスポイント)を1、注目すべき意見を書いているものはBPを2、そうでないものはBPを0として評点を付けているが、これを平常点とする。BP数×2を平常点として計算。毎回BP2をとって、レポート70点の人は、100点以上になってしまうが、そんな人はいないので心配は不要。でも常連さん(10人くらいいる)は、90点以上をマークできるだろう。

第9回(20001201)
質疑応答(BP0=12, BP1=17, BP2=6)
 ごく基礎的な「無意識」概念についてのよくある質問
「無意識と出会うことなどできるのか。その場合、無意識は意識されることになり、無意識ではなくなってしまう。無意識を意識することは不可能である」
→試しに、「無意識」という言葉を、「気づかれていないこと」と置き換えてみましょう。「気づかれていないこと」を気づくことは不可能だという主張になりますね。確かに、「気づかれていないこと」が気づかれたときには、もはや「気づかれていないこと」ではないというのは正しいのですが、このことから「気づかれていないこと」を気づくことは原理的に不可能だという命題は、必ずしも導かれない。無意識は意識化されたときは、もはや無意識ではありません。それは意識されたのですから。しかし、それがかつては無意識であったと反省することはできるでしょう。無意識と意識の境界は固定的ではなく、流動的であるということを押さえておきましょう。

マズローとユング
「ユングの場合、<他>なるものに脅かされるという感じが強い」
「マズローもユングも、“新しいことに触れてはっとする”ことによって自己が成長・変容してゆくプロセスを「自己実現」と読んでいる。しかし、マズローは外界との関わりで自己実現が起こるとし、ユングはあくまで自己の内部で起こるとしている。私はそのどちらも欠けてはならないと思う。両方のかたちの自己実現が連動しているのが、真の自己実現ではないか」
「マズロー型の自己実現のように外部の他者に驚かされて、その驚きをとおして、ユングの言うような心の内部の気づかれなかった他者(無意識)にも直面し、その結果、自分が一回り大きくなるということが理想的なのではないか」
→うまいこと両者の関係が描けたのではないでしょうか。

「ユングの自己実現とは、意識と無意識の総合、つまり自己の総合ということである。しかし、自己の総合が意識的目標になってしまうと、それは自我の実現、自我による総合になってしまうだろう。その場合、意識が無意識を包括することが目標となる。しかし、そんなことは不可能な気がする。無意識は意識を成り立たせている土台なのだから。<他>としての無意識との出会いは、意識の狙い通りのものであってはならず、あくまで自然なものでなければならない。許容範囲以上に無意識が流れ込むことは精神的不安定をもたらす」(だいぶ私の方で修正・補足しました。でもこの人の言いたいことは損ねていません)
→同意

 一念三千論との比較可能性については、プレゼン不足のせいか、今一つ反応がありませんでした。ただひとり、「違う」と書いてくれた人がいましたた。
「ユングのいう「心のなかに世界がある」というのは、この世の文化が「心」から作られてゆくものだという程度のことであろう。これは一念三千とは違う」。
→ユング理解に関してはまったく逆で、心のなかをのぞいてゆくとそこには世界のすべてが含まれているということです。世界が心で作られているということではありません(独我論的前提において、このような考えも含まれるかもしれませんが)。私個人的には、両者は相当に近いと思っています。取りあげられませんでしたが、マンダラに関する基本的な考え方も重要な論点でしょう(詳細は異なると思うが)。

「自己と他者は根底でつながっているとユングはいいますが、それでも、他者と共有できない何かがあるのではないでしょうか」
→ルーツにおいては、自己は他者によって成立しているが、成立してしまい個性を持った自我は、あくまで他者と区別されるものである、と押さえておいて下さい。あくまで、「根底において」つながっているということです。とはいえ、「ユングのいう他者は、いわゆる他者とは違う」という点に根差した疑問であり、このような疑問は出てきて当然でしょう。この論点は、今日これからやります。


講義
今週のテキスト1

 しかし、ユングにしろヒルマンにしろ、自我の限界を指摘し、自己の同一性を解体し、個人心理を越えた心の場1) に現出する“自我とは他なるもの”と直面することを是とするわけだが、これが主観的に構成されることのない絶対的外部性を有するような他者との倫理的関係になっているかどうかは、大いに疑問がある。むしろ、それはグローバルな独我論ではないか。小さな自我を越えた大我(自己・魂)を想定するものの、そこに現れる「他者」とは、人類の神話的遺産から借用された想像的形象2) に過ぎないのではないか。心の内部の自律したイメージの制御不可能性を、心の外部の他者の制御不可能性と取り違えているのではないか。言語によって媒介されていながら、最終的には理解不可能であるし制御不可能でもあるような他者の心の現実性こそが、心と心の多元性を可能にし、そのような多元性と内部性という人間の条件が、言語的活動と伝承を媒介としながら、心の内部にも多元性を打ち立てるのではなかろうか。

注釈:1)確認しておくが、心のなかには何一つ集合的なものに由来しないものはないというのが、ユングとヒルマンの立場。2)形象:姿形、像、イメージ。

ポイント
 ユングもヒルマンも、「心の内の他者」との直面を説いたが、それは「心の外の他者」との直面ではない。心的現実の現象論に限定するという立場ゆえ仕方ないが、「心の内の他者」は「心の外の他者」なしに成り立つのか。(個人の生活史上の他者に由来するのではなく、人類の集合的次元に由来するというのがユングの考え)

今週のテキスト2(省略。学説史的背景がわからないと理解不可能なので)
 だが、ユングやヒルマンらが独我論の果てにたどり着いた「自己の他者性」「内なる他者」が突きつける哲学的難問を軽視してはなるまい。それは現代の深層心理学ないし力動的心理学が共有している知見であり、この立場からすれば自己と他者の素朴な二分法こそ超克されねばならないとされるであろう。もちろん、哲学的他者論で言われる自己と他者は、人格的同一性の差異に還元されるようなものではない。そこで問題とされるのは物のカテゴリーや人格的同一性を越えたメタカテゴリーとしての<同>と<他>であり、レヴィナスによれば主体性とは<同>のなかの<他>(自己に回帰して同一性を構成することがないような自己性)としてとらえ返されるのであり(L思inas 1977)、またリクールにおいて、同一性と区別される自己性とは「他者のような自己自身」とされるのである(Ricマur 1990)。「傷ついたコギト」を認知したあとでの自己論という点に注目すれば、現代思想は「自己の他者性」や「内なる他者」を発見したフロイト以後の哲学と言ってもよいのである(Ricマur 1965)。

ポイント
 現代思想の他者論は自他の二分法に依拠しているのではないかという心理学側からの再批判に対する再々批判。

今週のテキスト3
心の存在論から心の倫理学へ
[節の見出し]
 これまでの成果を確認しておこう。マズロー、ジェイムズ、ユングらの宗教心理学は、宗教的救済を心理学的自己実現に置き換えて記述するものであった。そこでは、狭い自我がそれとは他なるものに直面することで、他なるものに生まれ変わるプロセスが記述される。重要なのは、それが他者の他者性の直視を契機とするということである。しかしながら、自己実現が規範化されると、他者への配慮は自己実現の手段に過ぎなくなってしまうという危険もある。また場合によっては、心のなかの他者しか見えなくなってしまうという陥穽もあった。
 宗教心理学が、他者論的転回を経た現代思想の厳しい審問に耐えうるようなものになるとしたら、それは次のような条件をクリアしなければならない。すなわち、(一)自我の脱中心化と自我とは他なるものの迎接という視点をこれまで通り維持すること、(二)自己実現を規範とすることによって他者をそのための手段として遇する傾向に抵抗すること、(三)主観的構成に回収されない外部性を有する他者との倫理的関係を保つこと、(四)かつ形而上学以後の宗教における「ロゴス中心主義=自己の一神教」への批判的視点を有しているもの、ということになるだろう。レヴィナス(1961)の「存在論より倫理学を優先させる」というスローガンを借りるなら、「心の存在論から心の倫理学へ」という転換、心一般のあり方の解明から、ユニークな心と心の倫理的関係を媒介する実践へという転換が図られねばならない。そのような方向性を持つものこそが、他者論的転回以後の宗教心理理論にふさわしいことになるであろう。

ポイント+解説
 人間の心の成長のプロセスを一般理論として記述すれば、それは規範的なものとして受け止められ、目標として追及されるようになるのは当然であろう(人間の心はかくのごとく成長する→かくのごとく成長するべきだ→かくのごとく成長させよう)。そこでは他者が自分の成長のための脇役になるというだけではない。自分もまた心理学的マニュアル通りの人間になるということでもある。この問題は、心理学が産業・経済・メディア・政治――とりわけ教育を介して――の分野で「応用」されるときに、出てくる問題である。科学技術の応用の倫理は最近ようやく問題となってきたことだが、心理学の応用の問題について、多くの心理学者は無自覚である。人間の心の成熟のあり方は人によって違う。自分の成長のために他人があるという見方は、自己実現の本来的な考え方とも矛盾する。したがって、「心一般のあり方を理論化する」という心理学の基本的前提そのものが乗り越えられなければならない。すると、その代案としては、「ユニークな心と心の倫理的関係を媒介する実践」が掲げられる。心一般ではなく、それぞれにユニークな心と心。心の内的構造ではなく、心と心の外的関係と内的構造の連関。それを理論化し、規範化するのではなく、個別の状況に即して媒介する実践。これをここでは、「心の存在論から心の倫理学へ」の転換としてまとめている。

論点
・ユングのいう「心の内の他者」(単に心のなかに取り入れられた他者という意味ではなく、自我によって制御不可能な無意識的なものとしての他者)とレヴィナスのいう「心の外の他者」(主観に取り入れられない他者)。この両者の関係はどのようなものだろうか。どちらがより根源的か(「ニワトリと卵」かもしれないが)。いずれの「他者」も、経験されるときには心の場に「取り入れられる」ことになる(その時「他者」ではなくなる)。
・心理学的知識のマニュアル化、育児への応用、学校教育への応用についてどう思うか。必要性はどこから来るのか。仮に必要だとして、その応用に問題はないか。もし問題があるとしたら、それは何か。それを回避するためにはどうしたらよいか。心理学専攻の学生は、心理学者はどのようなスタンスをとるべきだと思うか。
・すでに自己実現論と無我説が密接に連関していることは了解していただいていると思う。ここでの議論は、仏教ではどのように考えられているか。無我は規範的目標か。それとも事実の記述か。規範的目標だとすると、無我を意識的に目指す自我をどう説明するか。事実の記述だとすると、別に何もしなくても無我だからよい、ということになるのか。ここでの自己実現論の問題点と絡めながら、考えてみよう。
・「心の倫理学=ユニークな心と心の倫理的関係を媒介する実践」は、具体的にどのようなものになりそうか。

第10回(20001208)
質疑応答(BP0=18, BP1=21, BP2=3)
 ふたつ目の論点の「心理学的知識のマニュアル化」について書いたコメントが多かったが、別に講義の内容とは関係なく、常識的ラインで答えているものが目立った(BP0)。「論点」はあくまで講義に関するコメントの材料として考えて欲しい。心理学的マニュアルによる画一化を指摘するコメント(すでにプリントに書いてあることの繰り返し)の多いなか、変わったものをあげておく。

「でも、心理学が無意味だということではないですよね」
「育児に関して頼る人のいない核家族の専業主婦の場合、育児マニュアルに頼らざるをえない」
「応用の場面で弊害が出る。ならば、その弊害についてもパターン化して、自覚してゆけばよい」
「心の倫理学の具体的内容がよく分からない。カウンセリングということか。心理学的知識の応用場面での倫理ということなら、話は簡単なのだが(心理操作や洗脳に用いない、など。でも、これは当たり前)」
→多分、心理学を専門的に研究している人が反論としていいそうなこと。基礎科学としての心理学そのものは、心一般に関する理論的解明として存在意義がある。それを応用して、他人の心を知るとか、教育場面での生徒の心理の把握に用いる際に問題があるなら、そのつど対処すればよい、と。しかし、前回おこなった問題提起とは、1)心一般の理論的解明という方向性そのものに無理があるのでは、2)それを応用することには危険がともなうのでは、ということ。上記のコメントだと、1)については手付かずになる。近代社会における主体とは、結局、統計化された主体(=観察対象、操作対象)であるということを、嬉々として受け入れるなら別によいのだが。環境の刺激を受容して、処理し、反応するメカニズムとして「心」をとらえるならば、インプットとアウトプットから、間に挟まっているメカニズムの一般的法則を探るという考え方も成り立つ。しかし、どうしてもそこから外れるものがある。それは、標準からの逸脱として単に偶有的なものとして見なされるべきではなく、個別の場、状況、つまり<他>なるものとの関係性における必然である。環境の刺激に反応する主体ではなく、相互の不透明さに応答させられることで関係を創発してゆく諸主体を、その場に即して個別具体に記述するものは、自らもその場に巻き込まれざるをえない。自我の一元的物語の組み替え、語り直しを通じて、その人だけのユニークな自己実現を支えるというのは、ここで取りあげている心理学者たちの臨床的実践に結びつくが、彼らもまた過剰な理論化の誘惑にさらされている。また、臨床家への過度の依存は「専門家支配」の問題にたどり着く。これも心理学的マニュアルの流布に劣らぬ問題。専門性を開いてゆく仕掛けを持つものとしては、1)個人のユニークな問題で、2)政治的インパクトを有するものを、3)フィールドワークし、問題解決に介入してゆくというやり方が考えられるだろう。
 なお、心理学批判の好著として、森真一『自己コントロールの檻――感情マネジメント社会の現実』(講談社、2000年)を参照せよ(私の書評を後の方に掲載)。

ユング批判について
「ユングの考えていた心の内の他者とは、人類の精神の共通の構造という生得的なものに根差している。それがなければ、心の外の他者も問題にならない」
→しかし、心の外の他者があって初めて、元型は、元型イメージを獲得できるのでは。
「赤ちゃんも意思表示があるということは、意識があるということであり、したがって無意識的なものも存在するということである。だから、生まれた直後から「心のうちの他者」はある」
→赤ちゃんに無意識があるかという問題はかなり微妙。自他未分化な状態の中で、欠乏が生じ、欠乏を充足するために外界に働きかける主体が成立する。しかし、その場合の外界・他者とは、母親的環境であり、半ば自己と一体のもの。それを意識の母体という意味での無意識とは呼べるかもしれないが、内なる他者という意味での無意識とは呼べないのでは。いずれにせよ、私の文章の中に、ユング流の母体としての無意識に関する言及が必要であることを気づかされる。

講義
今週のテキスト1

 このような方向性は、フロイト以後の精神分析的な宗教心理学の流れにも見いだされるように思われる。フロイトの宗教批判は有名であるが、その眼目は、神についての認知的命題への信仰が衰退するなかで、道徳の根拠を神の罰の恐怖のみに置くことは危険であるという点にある(Freud 1927)。それに代わって、人間共同体の存続という合理的根拠にもとづく破壊性の断念、他者のためにありたいというエロスの発動に、宗教以後の倫理の命運が託されたのであった(Freud 1930)。ここでは「神の法」の権力的効果を暴き、他者、他なる人間のために生きることが要請されている。
 フロイト思想のこのような側面は、権威主義的宗教を批判し、人間主義的宗教の可能性を展開したフロムにも見いだされる(Fromm 1950)。また、自律と共同性が同時に実現されるような相互性のなかで人間が生き生きとする状態を各発達段階に見いだし、それを人間の本来的な力強さ、「徳」として記述し、そのうえに壮大な心理学的倫理学、「心の倫理学」を提示したエリクソンもまた、硬直した道徳性を批判し、宗教における権威主義との葛藤を問題化している(理論的図式としてはたとえばcf. Erikson 1982)。彼らは、ユングやマズローのように大文字の<自己>を立てることなく、したがって自己実現のために他者を手段として遇するという陥穽にもはまらず、他者よりも法への従順さを尊ぶような宗教性に異議を申し立て、他者との対 立コンフリクトのなかで生じる心の葛 藤コンフリクトへの批判的洞察をふまえて、他者との倫理的関係を築こうとする「心の倫理学」を打ち立てたということができるであろう。

ポイント
 フロイト以降の流れ、「法」よりも「他者」を重んじる。宗教の権威主義的側面の批判。目の前の他者のためでなく、神の罰が恐ろしいからという理由で道徳的な人は、真に道徳的とは言えない。あるべき「法」にのっとって自己完成しようとることが、図らずも、自分と神様しか見えなくなって、他者が見落とされる。これまで現代思想が言ってきたようなことは、フロイトも言ってきたということ。

参照・フロム(テキスト論文の付録として書かれたコラムの文章)
   エリクソンのライフサイクルの図式

今週のテキスト2
 ただ、彼らが心理療法家として、洞察を経て達成される成熟を、規範としていたことは疑いえない。フロイトの場合、それがユングやマズローのように自己実現として定式化されることがなかったとしても、自己欺瞞の度合いを軽減することが目標とされていたかぎりで、「真正の自己」への漸近が目指されていたと考えることはできる。また、ライフサイクル論において、心理社会的発達の筋道を子細にわたって記述したエリクソンは、マズローと同様、人間の普遍的な発達の筋道を同定することでそれを規範化してしまうという危険性を引き受けざるを得なかった。たとえ、議論の力点が他者との倫理的関係の充実の様態を記述することにあったとしても、それはいったん定式化されてしまえば規範として機能するのであり、それによって他者との関係の充実よりも自己の発達に関心が向けられるようになる可能性はある(筆者は、エリクソンの言う発達が、徹頭徹尾、相互的なものであることを決して無視しようとは思わないが)。

ポイント
 これまで見てきたマズローやユングの自己実現論とは違うけれど、フロイトもやはり、自己の成長を目指しているとは言えないか。そのとき、他者はどうなっているかが、やっぱり気になる。「法」よりも「他者」というけれど、やはり心理学の枠内では、心の発達の一般的枠組みが用意されてゆく。

論点(論旨はこれまでと一貫しているので、一点だけ)
・フロイト、フロム、エリクソンについて、彼らの姿勢は、他者論的転回を遂げた現代思想家たちから見れば、どのように評価され、また批判されるだろうか。また、彼らの宗教批判は妥当かどうか。


森真一『自己コントロールの檻――感情マネジメント社会の現実』(講談社、2000年)
 書店に行くと、ビジネスコーナーや心理学コーナーに、自己啓発や対人関係をテーマとした書籍が売り出されている。これら心理学的知識によって武装された自助マニュアルは、現代人のストレスや心的不安をケアするものとして、世俗化の進んだ社会において宗教的な救いに代わる心のよりどころとなっている。
 しかし、こうした心理学万能の考え方に落とし穴はないのか。本書は、心理学的知識(とりわけ素人うけするようなもの)が、ある社会的状況を反映するものであり、またそれを作り出しているとする。それは、「人格崇拝」と「合理化=マクドナルド化」という規範が支配的な社会的状況である。
 人格崇拝とは、決して自他の人格を傷つけてはならないという規範である。デュルケムによると、近代社会では神に代わって個々の人格が聖なるもの、つまり畏敬と愛着の対象となり、それを崇拝することが善とされ義務になったという。また合理化とは、ウェーバーの唱えた概念であり、予定にしたがって物事を効率良く進行させようとする傾向である。それが、今日では官僚的組織のみならず、日常の消費行動の分野でも顕著であり、マクドナルド化と呼ぶべきものとなっている。このように日常的な社会関係全般を支配する規範となっている合理化と人格崇拝の要請に答えているのが心理学的知識である。
 自助マニュアルは、心理学的知識を用いて感情を管理すると同時に、分析された感情をもとに意志決定し行動することをすすめる。現代社会では、相手の人格を尊重するためにも、そして社会的状況の合理化にそった行動をとるためにも、このような「感情マネジメント」が不可欠となっているのである。
 それでは、心理学的知識が受け入れられることによってどのような社会的状況が作り出されるのか。心理的安定を回復し自己実現と良好な対人関係を得られるなどということはない、と著者は断じる。ただ、人格崇拝と合理化が高度化した社会的状況に適応するよう水路づけられるだけだというのである。こうして、社会的状況に起因する問題を個人の性格や心理に還元するような心理主義の立場が優勢になると、社会的状況を変更しようとするよりも、それに適応しようとする傾向が強まる。それは一見スムーズだが、実は息苦しい状況ではないか、というのが著者の不満である。
 それだけではない。ますます高度化する人格崇拝と合理化の規範は、かえってそれと相反するような現象すら生み出すことになる。自尊心の高まりと傷つきやすさは、「キレる」現象や児童虐待を生み出している。感情マネジメントによる高度な合理化は、かえって「アダルトチルドレン」現象や「摂食障害」を引き起こしているのだとする。
 こうしたソフトな「鉄の檻」が作り出されている背後には、「雇用の流動化」状況(派遣社員、在宅勤務、単身赴任、転職、出向などの活発化)があるという。監視・指示されなくても自分の感情をコントロールし、目標達成のための自己動機づけができるような従業員・派遣社員が多ければ、監督者を配置するコストが削減できる。心理学は、「個性尊重・自己実現」への合意を人々から取り付けることで、「能力主義」を推し進め「雇用流動化」を支えている。それは、サッチャーやレーガンの新保守主義の自由主義政策に適応するものであり、こうした状況が現在グローバリゼーションの波とともに日本社会においても優勢になっているのだと、著者は論じる。
 本書には救いがない。「心理学の社会学」という新しい学問的領域における先駆的でまとまった仕事であり、第一級の学問的業績であることは間違いないのだが、では我々はどうすればよいのかという問いに全く答えようとしない。人格崇拝と合理化の規範を捨てればよいのか。他者の人格を無視し、社会生活の円滑さをぶち壊すこと以外に、このソフトな鉄の檻を破ることはできないのか。しかし、それは非現実的な選択だ。結局、人格崇拝のエゴイスティックな側面を補正し、合理化の非合理的な帰結を回避するしか道はないのではないか。だがこれもまた、個々人の行為の変容に訴える解決策ではある。そもそも、何でも心の問題に帰する心理主義を批判するという著者のスタンスは、何でも社会のせいにして、個々人の、問題解決への能動的取り組みの芽を摘み取るものではないか。
 反カルト主義的雰囲気の強い今日において、本書に表明された言説は有利であり、今後このような心理学批判が多く出てくるだろう。しかし、心理学を学んできた評者にとって、本書の心理学批判は各論において、非常に一面的かつ一方的に思われたことも記しておきたい。こうした「魔女狩り」的言説こそが、ラディカルぶりながらも隠れ社会改良主義として、合理主義の檻をより強固なものにするのではないか。
『国際宗教研究所ニュースレター』No. 26 (2000)より

フロム
 1900年ドイツで生まれ、大学で法律と社会学と心理学、そして精神分析を学んだあと、フランクフルト学派の第一世代として活躍。1933年ナチスの手を逃れてアメリカに亡命。その思想の特徴は、フロイトとマルクスの統合にあり、精神分析に社会学的視点を導入して、いわゆる「新フロイト派」の代表的存在と目される。ナチズムに見られるような権威主義を批判すると同時に(『自由からの逃走』東京創元社)、ヒューマニズムの立場から独自の宗教論を展開した(『精神分析と宗教』東京創元社)。ユダヤ教の背景を持っていたが、キリスト教や禅仏教にも注目した。メキシコに移住したあと、1980年スイスで死去。なお著作の多くは邦訳されている。
 フロムの宗教心理学への貢献でもっともよく知られているのは、権威主義的宗教と人間主義的宗教の対比であろう(『精神分析と宗教』前掲)。
 権威主義的宗教とは、人間を超えた力に服従しようとするような宗教的態度である。そこでは、人間の服従が求められ、不服従は罪とされる。人間が権威から独立して、自分自身の力を発現することも望まれない。このような宗教概念は、もっとも一般的に流布しているものである。フロムはオックスフォード英語辞典の宗教の定義が、フロムの言う権威主義的宗教と内容的に一致することを指摘している。
 それに対して、人間主義的宗教は、人間自身の理性と愛の力を発展させることを目標とする。権威主義的宗教では、権威に服従しないことが罪であるが、人間主義的宗教では、人間の理性と愛の力の発現を妨げている自分自身の要素が罪であり、そしてそのような罪を発見することで心理的成長を遂げることこそが目指される。このような見方に立てば、宗教には、権威によって人間の生を抑圧的に統制する要素だけでなく、人間が権威に盲従せずに自分の力で問題を解決してゆくのを助ける要素もあるということになる。
 なお、よく誤解されることだが、フロムの「権威主義/人間主義」の図式は、権威の有無による区別ではない。「フロムは権威主義的宗教を批判するが、権威のない宗教などないのではないか」という反論は、したがって的外れである。問題は権威の有無ではなく、宗教的権威が人間の成長を促すか妨げるかにある。人間主義的宗教においても宗教的権威は奉じられるのだが、そこでは権威がそれを信奉する人間の成長に現実に寄与しているとされるのである。
 また、フロムは、「〜教」は権威主義的だが、「〜教」は人間主義的だという言い方もしない。フロムの宗教類型論は、人間の心理的態度に注目して立てられたものであり、同一の宗教の信者であっても異なった態度をとるということはありうるのである。たとえば、フロムは、人間主義的宗教の実例として、初期仏教、禅仏教、ユダヤ教やキリスト教などのある側面を取り出して分析しているのだが、だからといって「仏教は人間主義的だ」などとひとくくりに判定することはしない。
 結局、この類型は、人間の側が宗教的権威の命じる規範をどこまで深く理解し、他の信者に伝達できるか、そのようなコミュニケーションの回路が宗教集団内でどこまで活性化されているか、ということを問題にしているのかもしれない。子どもは、親の発する命令をよく理解できないときに、とにかくやってはいけないのだと服従を迫られているように感じる。しかし、長じるにしたがって、その命令の理由が理解されるようになれば、それが自分の成長を促すためのものであるということを確信するようになる。あるいは、規範の根拠をめぐって権威と議論することがあるかもしれない。そうすることを通じて、やがては自分自身の力で自らの進路を切り開いてゆくことができるようになる。このような「親―子」モデルが、「宗教的権威―信奉者」の関係に敷延されてできあがったのが、フロムの「権威主義/人間主義」という図式であろう。この図式は、良い宗教と悪い宗教をえり分けるための道具というよりは、権威をめぐる宗教心理の発達論として理解するべきである。
 以上のフロムの議論は、フロイトの宗教論の批判的継承という意義を持っている。フロイトは宗教の権威主義的で抑圧的な側面を批判したが、それは暗黙のうちに非権威主義的な宗教性を是としていたということを意味する。そのような宗教性をフロムは人間主義的宗教という言葉で指し、それが実際の宗教の歴史のなかでどう具現されてきたかを指摘した。そうして、フロムは精神分析的な宗教心理学を、批判一辺倒でないバランスのとれたものとして提示することに成功した。
 フロムの議論は、同時代のマズローの人間性心理学にも影響を与え、また反権威主義的で個人主義的な霊性探求への弾みともなった。その結果、アメリカにおける宗教と心理学の複雑で豊かな関係の歴史のなかで、重要な役割を演じることになったと言えるだろう。

最終回(20001222)
質疑応答(BP0=22, BP1=14, BP2=12)
 プリントには書いてありませんが、前回口頭で、転移という思い込みを捨てよとするフロイト=他者論の路線に対して、ジョーンズ=多元論の路線は「思い込みを思いやりに高めてゆく」ものだとかみ砕いて説明しました。コメントはおおむねそれに賛同するものが多かったです(若干プリントに書いてあることそのままのものが多かった=BP0)。ここでは、それに対する異論を取りあげます(コメントは私がまとめ、補足している部分も多い)。けっこう盛り上がってる。

「思い込みを修正するのは現実にはなかなか難しいのではないか」→じゃあどうするのか。

「他者の理解が思い込みのままでいいとなると、他者理解の放棄にならないか。自分にとって大事な人と付き合っているときは、相手を本当に理解しようと思うし、理解していると思うものだ。これも思い込みかもしれないが、私たちは、自分たちが思い込みで付き合っているんじゃないという思い込みからは、結局、離れられない」
→これはある意味で正しいと思う。しかし、正しすぎて息苦しい。真実性へのこだわりがやはり問題となる。恋愛の場合、純愛へのこだわり。もろい。結果的に「純愛している自分」が、他者より大事になる。「純愛」の病理については、精神科医の大平健『純愛時代』(岩波新書)が、非常に興味深く、おすすめ。

「思い込みでいいとなると、それは真の思いやりにはつながらなくなる」
→上と同じで、「真の思いやり」にとらわれ、逆説的に「思いやりしている自分」に酔うことにならないか。こういう思い込みのほうが怖い。人間は思い込みから離れられないというのは、開き直りでなく、自覚である。したがって、単純に、思い込みでいいということにはならず、その修正可能性に開かれていなければならない。柔軟な思い込み、しなやかな思い込みということ。

「思い込みによって、他者の心をいろいろな仕方で想像し、共感能力を身に付けてゆくことで、思いやりの深い人間に成長してゆく。でも、思い込みが一つのものに凝り固まってしまうと、独りよがりで、ストーカーのようになってしまう」
→いい感じのコメント。「想像力」は、「仮象の多産性」の立場にとって重要なキーワード。ヒルマンの多様なるイメージを味わえというメッセージ、逆に強く言えば一つのイメージに固執するなというメッセージにも通じる。

「“思い込み”は自我の立場から発する。自我の利害関心のフィルターをとおして他者を思い込もうとするものだ。このような利害関心から最終的に離れられないなら、利害関心を一致させてゆけばよいとあるが、利害関心の一致しない相手とは関わらなくていいのか、あるいはどう関わるのか」
「利害の一致にもとづく関係ははかない。思い込みが思い込みに過ぎなかったとわかった途端に崩壊してしまう」
→以上二つは的確な批判になっていると思う。結局、ジョーンズ路線は居心地の良い親密性に安住しようとするもので、出会いと別れを繰り返し、底の浅い人間関係に帰着するのではないか。古いタイプの人間の発想かもしれないが。漫画すら読まなくなり、ヒット商品がなかなか出ない現代青年層、しかし通信費には莫大な金を費やしている。メディアを通じての自己形成、個人主義と全体主義のセット、これらに対する現代思想の批判も、ここでは色あせてしまう。では、現代思想の他者論的な志向が、現代青年層に根づいていると言えるのか。これから見守ってゆかなければならない。すでに現れている兆候としては、他者を巻き込むことによってしか自己の内面を処理できない「境界例」的性格。先ほども出たが、思い込みの強いストーカー的な人間とのミクロな摩擦。cf. 昨今の「困った人」本ブーム。コメントにも「思い込みの強い相手にはどう接するべきか」というのがあった。結局、批判的に距離を置くことになるだろう。その場合、他者論が規範として要請されることになる(私という他者をあなたも尊重してほしい)。ジョーンズ路線は、人間関係一般に拡張することはできない。それを相対化するコメントは以下の通り。

「思い込みは、他者とまだ親しくないときに、親しくなるためのきっかけを作ってくれるものであり、親しくなったら、捨てなければならない」
→恋人同士であってもそうだということを含意するだろう。親しきなかにも礼儀あり。それに対して、恋人道を突き進むものとしては次のような考え方。

「恋人同士の場合、思い込みを修正して、相手を正しく理解してゆくという方向性は、自分の期待通りではない相手に幻滅しつつも、それがこの人だと受け止めることになる。それが思いやりになる。でもそれだけか。相手の自分に対する思い込み=期待をそのまま受け入れてゆくというかたちで、思い込みを相互調整する道もあるのでは」

「恋人同士は、美しい思い込みを相互に育んでゆくべきか。これについてはそうだと思う。しかし、友人関係の場合はあまりあって欲しくない。別に美しくもないし」
→続けて補うと、親子関係の場合は自立を妨げるのでうざい、夫婦関係の場合ある程度の幻滅に耐える心も必要、仕事上のつきあいの場合、利害関心の一致するうちの信頼関係はいいが、裏切られたときには破滅的。私は最近、ジョーンズ=コフートの、依存しつつ自立は、エリクソンの図式(cf. 先週の参考資料)で言えば、若年成人期の親密性にあたるのではないかと考えるようになった。
 ところで、レヴィナスは恋人同士の間には倫理的関係が成り立たないとしている。一体感を重視するので、相互の他者性が見失われてしまうからだ。親子関係も原初的には倫理が成り立たない自他融即の関係だが、長じるにしたがって他者性の尊重がやがて重要なテーマとなる。子どもの自立は、親子が別人格であることの認識を要請する。以上のように見てくると、「思い込みを思いやりに」路線は、コフートの言う「自己対象」(自分と切っても切り離せない対象)との間でしか成り立たないということになるかもしれない。それは初期の親子関係と、成人してからは特殊な親しい人との間でしか成り立たない。
 これは、今回コメントに出なかったが、ジョーンズの対象関係論・自己心理学と、現代思想のなかの多元論的傾向との違いに関わってくる。近年の現代思想では、友愛というモデルが注目されている。別に相手のすべてを知らなくても良い。でも相手への関心はある。恋人と違って、一体化する必要はない。ある程度の距離が必要。これは確かに多元論を帰結するが、ジョーンズ路線より、他者性の尊重が強くブレンドされている。
 宗教同士の関係でも友愛のモデルは有効。宗教者は、改宗するか改宗させられるか、それとも没交渉かという図式でしか、他宗教の信者と関わることができないでいる。これからの時代は、別に同じ考えに到達しなくても構わない、でも相手に興味がある、相互理解によって自己の信仰の深化を目指す、そのような諸宗教の関係性が望まれるだろう。
 結局、ジョーンズ路線は、他者論を補正するものであるが、かなり限定的にしか有効でなく、他者論の修正バージョンとしての多元論のほうが有望だということになるだろう。

その他の興味深いコメント
「他者を他者として受け止める、というのは他者論にも多元論にも共通するところ。その場合の他者は、自分に完全には理解できないしコントロールすることもできない他者だという。そのような意味での「他者と関わる」とは、そもそもどういうことだろうか。なぜそのような他者と関わろうとするのだろうか」
→レヴィナスに答えさせるなら、<私>は他者がいるから成立するようなものであるから、他者と関わりたくなくても、関わらざるをえないとなる。

「仏教の場合、思い込みを捨てよというのが基本的な立場だが、そのように説く仏への信仰は思い込み的な要素をはらんでいる」
「思い込みを捨てよは小乗的。それが世界を豊かにするかもしれないという発想は、思い込みの否定をも否定し、否定にとらわれない点で、大乗的」

講義
今週のテキスト1

三 <自己>の霊性と<他者>の霊性
 最後に、現代思想による宗教心理学の審問という本章での作業が、どのような意義を有しているのかについて述べておこう。L・フェリーによれば、現代社会における世俗化のますますの進展、「義務の終焉」とも呼ばれるような事態は、実は外的義務の終焉に過ぎない。レヴィナスなどの哲学的「他者」教に見られるように、人間の内在性のなかから超越性を見いだそうとする動向、他者の尊重、他者への愛や配慮を理想とする自律的な自己放棄という「脱宗教的霊性」が、むしろ育ちつつあるとフェリーは考える。まず、神の人間