立正2000前期                        宗教心理学1

対象関係論的宗教心理学

 J・W・ジョーンズの『聖なるものの精神分析』を参照しながら、対象関係論の視点に立った宗教心理学の諸学説について学ぶ。ジョーンズは、古典的宗教心理学の理論装置が独我論的なものであることを批判し、神表象を対象関係のモデルとして理解する。ジョーンズの主張の検討を通じて、宗教心理学の学説史についてもおさらいする予定である。

講義の進め方
 配布プリントにそって授業を行う。毎回授業の終わりにコメントを書いてもらう。授業中はよく集中し、気がついたことがあったらプリントの余白にメモを書き留めておき、それを材料にしてコメントを作るとよい。コメントには、感想、疑問、意見を書くことになるが、必ず自分の考えを盛り込むこと。プリントの丸写しや要約、質問だけのものは不可(欠席扱い)。ただし、次の授業のはじめに書き直しを指示するので、その時間中に提出すれば可とする。また、できれば単なる思いつきや漠然とした感想を書かず、根拠を明示した論理的なコメントを書くこと。
 5回以上欠席のものは未受験とする。
 最初の3回の授業に一回も出席しなかったものは自動的に未受験扱い。
 20分以上の遅刻は欠席扱い。
 特別な理由があって欠席した者(たとえば就職活動)は、次回の講義までに、ホームページ上で講義内容を確認し、コメントを送信すること(http://homepage1.nifty.com/norick/)。
 出席6割以上であれば、可とする。それ以上の点数が欲しい者は、学期末に、授業内容について枚数自由のレポートを任意で提出(ホームページ上で「レポートの書き方」を参照せよ)。
 テキスト、参考文献は、必ず買わなければならないというものではない。プリントと私の説明で足りるようにするつもりである。ただし、より深く勉強したい人は入手して熟読することをお勧めする。

授業計画(あくまで計画……)

1 フロイトの精神分析的宗教心理学
2 フロイト以後の理論――対象関係論
3 フロイト以後の理論――自己心理学
4 転移概念の再解釈と宗教
5 症例研究――自己イメージと神
6 症例研究――共感と治療
7 聖なるものの心理学を目指して
8 ジョーンズの諸説の検討――エリクソンの再評価
9 ユングと独我論――ヒルマンの多神教的転回

***

第一日目

 講義概要について説明したあと、以下の質問に答えさせる。

Q 次のうちどれか一つを選んで丸で囲み、その似顔絵を描いて下さい。写実的でも、抽象的でも、マンガ調でも構いません。上手に書かなくてもいいですが、あまり簡単すぎないように、気持ちを込めて。
 大体5分を目安とします。

   神様   仏様   守護霊   天使   ご先祖様   大宇宙

(以下余白)

Q 上に書いた絵を見て、思いつく性格・特徴を出来るだけ多く列挙して下さい。あるいはその絵を見て連想する事柄でも構いません。

***

 回答を回収したあとで、以前私が書いた書評について詳しく説明。

J・W・ジョーンズ著、渡辺学訳『聖なるものの精神分析』(玉川大学出版部、1997年)

 精神分析的な心理療法において核となるのは、転移の分析である。転移とはつまり感情の転移であり、幼児期における親に対する感情などが分析者に移し替えられることである。このことは、分析者に対して転移されている感情を分析すれば、そのもとの感情(それは症状の原因でもある)がどのようなものであったかがわかるということを意味する。フロイトによれば、そのように無意識的に抑圧され歪曲されていた感情が意識的レベルに上がれば、それはもはや症状や転移として表出される必要はなくなるので、結果的に治癒が起こるということである。ここでは、分析者は、患者によって感情を投影されるスクリーンとして機能すると同時に、それが幻影に過ぎないことを種明かしするための仕掛けともなっている。
 しかしながら、対象関係論コフートの自己心理学など精神分析の新しい流れでは、転移は解消されるべき過去の感情の反復というよりは、対象関係のたえざる再創造の一環であって、解消することができるようなものなどではない。この考えの根底にあるのは、人間の自己は関係性のなかではじめて成り立つものであり、そこから脱却することを目指すよりも、自己とその対象との相互関係をより豊かなものにしようとするべきだ、という発想である。このような観点からすれば、分析者の役割は、転移を雲散霧消せしめるというよりは、転移を通じて、患者がより適切な対象関係を創造できるよう共感的に介入すること、患者みずからが対象関係を変容させてゆくプロセスを援助するということにあるのでなければならない。
 本書はこのような精神分析の新しい流れを踏まえて、聖なるものの体験、すなわち神的対象との関わりをも、対象関係のたえざる創造・変容のプロセスとしてみてゆく。たとえば具体的事例を紹介するなかで、治療における転移の変容や、神との関係の変容、自己のあり方の変容が、それぞれ並行して起こってゆくさまが描かれている。
 興味深かったのは、いわゆる無神論者であっても、神については一定のイメージを持っていて、そのうえで「そのような神は信じない」という態度決定をしていること、あるいは神観念でなくてもある種の世界観がその人の対象関係のあり方を示しているということなどである。結局、広義の宗教的対象は、信仰の有無にかかわらず、その人の自己が発生する基盤となるような関係性の超越的参照点を形成しているようである。それが個人の内的力動に還元されるものなのか、あるいは逆に個人の内的力動そのものが文化的に継承されてきた宗教的対象によって規定されているのかは、本書では問われていない。むしろ、両者は相互に規定しあい、同時的に変容してゆくものであることが示唆されているようだ。
 近年、宗教心理学の研究は鈍ってきているとはいえ、海外(とくにアメリカ)では重要な業績が少なからずでてきている。しかし、それらは日本に十分に紹介されているとは言えない。本訳書の刊行を皮切りに、そうした最近の重要文献(たとえば本書でも取り上げられているリッズトやマイスナーなど)が訳出されてゆくことを望む。

第2回(20000421)

質疑応答――前回描いてもらった絵について、および神表象について

「どういう絵を描けば、どういう性格なのか、みたいなのがあったら教えてください」
という質問をいくつかいただきました。あの作業は、「神表象」という概念を実感してもらうためのものなので、そういうことはやりません(余談ですが、天使が圧倒的に多かったのには驚きでした。天使、仏様、神様、大宇宙、ご先祖様、守護霊の順でした)。実は、精神分析は、他者分析というよりも自己分析が基本なのです。分析者が被分析者を分析するというのも、実は、患者自身の自己分析のサポートだと、私は考えます。ですから、皆さんは、あそこに描いたものとその性格特徴から、自分自身の対象関係や自己イメージを類推しつつ、自己分析するのに役立ててください。
 その上で、「神表象」という概念について一言。われわれは対象を認知する際に、あらかじめ主観的に構成され、かつ客観的にも共有されているようなイメージを媒介としています。このようなイメージを表象というわけです。前回は、そのうち個々人によって対象について抱く表象は異なるという側面を強調し、その客観的側面をあまり強調しませんでした。そこで次のような質問を多数受けました。

「神についてのイメージは、子どものころから絵本やメディアを通して植え付けられているものになるのではないでしょうか」
 この人は、表象の客観的側面について指摘してくださったということになります。ところが、「表象=絵柄」ととらえているようです。しかし、ここで言う表象とは単なる絵柄ではなく、対象に対して付与された感情の総体をも含むものとして考えられています。同じ「神様」や「仏様」でも、それが登場する物語によって性格特徴は異なりますし、さらに登場人物としての性格にある程度一致があったとしても、それを受容する側がその登場人物にどういう感情を抱くかはさまざまです。
 表象の客観的側面に注目した人としては、社会学者のデュルケムがいます。彼は、個人的表象と対置して「集合的表象」という概念を提唱しました。それは個人的表象の総合から成り立っているが、しかし個人を越え、個人を拘束するものですらあり、崇拝や愛着の対象となるものだとされます。その源泉は、社会というものの存在そのものにあると言われます。つまり、社会もまた個人から成り立っていながら、個人を越えた規範であり、また個人が帰属し安心感をえるよりどころとなっている、このような社会を表象するものが、当該社会の祭る崇拝対象にほかならない、と。
 フロイトは、この議論に独自の貢献を果たしました。つまり、彼は宗教的崇拝対象が「親」として表象されることが多いということに着目し、たとえばキリスト教の「父なる神」という神表象には、幼児期の親への感情が移し替えられているとしたのです。これは今日の講義内容とかかわってきます。

「仏、または神のイメージについて。それぞれ個々人のもつイメージの違いが、その人の人生経験による、と……心理学はここで終わるのですか」
→いっけん挑発的ですが、この人が何を考えているのかはさっぱり分かりません。コメントのハードルをだんだん高くすると言いましたが、そのうち書き直しをお願いすることになるかもしれませんので、ご注意を。いずれにせよ、私の方で推測するに、この人は、仏教学部の方なので、もしかしたら「信仰」の立場から、崇拝対象を自分勝手に信じているだけでは不十分だという趣旨のことをおっしゃりたかったのではないでしょうか(違っていたら説明し直してください)。心理学は「信仰」の立場ではなく、「反省」の立場を貫こうとします。たとえば、個々人が「仏」なるものについて思い描いているイメージのなかに含まれる「我」の部分を、徹底的に自覚しようとするものです。それは、自分勝手なイメージを描いておればよいという相対主義に帰結するのではなく、それぞれが真理について自分の立場から不完全ながらもより適切なイメージを描こうとしており、それを持ち寄って真理に漸近しようとするのだ、という多元主義に帰結します。それは、崇拝対象についての概念を一義的に規定し、それを信じる自分を高め、それ以外のものを排除しようとする独断的な狂信主義とは距離をとります。「我」の部分を持たざるをえない凡夫としての自覚から、「仏」なるものを共同探求しようとするものだと言えます。講義

フロイトの精神分析的宗教心理学
 ジョーンズの紹介するフロイトは、非常に一面的で貧弱なものだが、フロイトを嫌う人たちのフロイト理解の典型である(私のフロイト理解は部分的にそれとは異なる)。ここではひとまず、ジョーンズのフロイト理解をそのまま紹介しておこう。
 ジョーンズによれば、フロイトは啓蒙主義者であり無神論者である。『トーテムとタブー』(人文書院刊『フロイト著作集』3)では、宗教を強迫神経症と診断している。宗教の起源はエディプス・コンプレクスにある。つまり、息子が父親を殺して、母を愛するという図式である。彼は原始群族では強大な父親が女性達を独占していたが、息子達が立ち上がって、父親を倒したという仮説を立てた(原父殺害仮説)。ところが、その後、父親を殺したことを後悔し、罪責感に悩まされ、父親を祭り上げ、和解を遂げた。これが宗教的儀礼の根源となった。(補足するなら、フロイトはこのような仮説を一種の「学問的神話」と呼び、そのような出来事が実際に起こったとはしていない。彼の議論のツボは、さまざまな宗教において繰り返されている構造を取り出すということにある)。
 さらに、フロイトは『ある幻想の未来』(日本教文社刊『フロイド選集』8)において、自然を前にした人間の無力さを、父を前にした幼児の無力さと対比している。そして、父に頼ることで幼児が無力さを克服したのと同じように、神に頼ることで人間は無力さを克服したのだとする。このような「父なる神」という宗教的表象を、フロイトはそこに願望充足の動機が混ざっているという意味で「幻想」と呼ぶ。しかし、人間の科学が発達すれば、こうした幻想は必要なくなるし、また克服されねばならない。
 フロイトは宗教に対してアンビヴァレントな態度をとっている。フロイトによれば、人間の成熟の目標とは、道徳的責任と真理要求のことである。宗教はある程度まで、それに役立ってきたが、現在、宗教は影響力を失ってきており、より現実的な解決を与えようとする科学に取って代わられなければならない。
 このような議論の背景にあるのは、フロイトのリビドー論である。心は機械のようなものでリビドーというエネルギーを必要とする。リビドーは空想のなかで浪費されるべきではなく、現実の中で働かなければならない。フロイトにとってはリビドーの合理的な自己制御が重要であった。宗教もまたリビドーの制御に役立ってきたが、それは合理的な自己制御ではなく、不合理な抑圧を強いるものであり、神への強すぎる罪責感、破壊感情のうっ積という神経症的症状につながっている。すがりたいという願望が充足される見返りに、権威主義のわなにはまってしまう。人間は小児的な願望を断念して、道徳性という責任を引き受けなければならない。
 (補足・実は、フロイトは科学万能は人間のナルシシズムの新たな形態であるとして、科学をも批判している。科学は、自らの限界をつねに認識していて新たな真理に開かれているような態度を含んでいなければならない、とする。したがって、フロイトは科学についても宗教についても、肯定的評価と否定的評価を持っていたことになる。さらに、E・フロムは、フロイトの宗教論を、権威主義的宗教を批判して、人間主義的宗教を擁護するものととらえている。フロム『精神分析と宗教』(東京創元社)を参照せよ)。

第3回(200004228)
質疑応答
 前回、口頭で説明したところで誤解が目立ちました。

「フロイトは催眠療法で、暗示をかけて症状を消したという説明は適切でない。症状の原因になっている無意識的な事柄を意識化することで症状を取り除くのではないか。プリントのジョーンズの文章と合わせてフロイトに偏ったイメージができてしまうと思った。」
→まず事実確認ですが、“フロイトは初期に催眠療法を用いていたが、暗示はつねに効果があるとは限らないし、たとえ効果があったとしても一時的なものでしかないので、催眠療法をやめた。そのかわりに、夢判断と自由連想という技法を用いて、通常の意識状態でも対話だけで神経症を治すことができることを示した。そして、この独創的な心理療法を精神分析と名付けた”ということです。無意識的なものの意識化による症状の治癒という点はおっしゃる通りです。でも、これも私は授業中に説明しているはずです。

「エディプス・コンプレックスは誰にでもあるものなのでしょうか。私は父を尊敬しています」
→一つのモデルだと考えてください。重要なのは、親に対する愛と憎しみのアンビヴァレンツです。親だからこそ、愛情もあるが反発してしまうこともある、というのはけっこう誰にでもあるようです。とりわけ、臨床例において観察されます。自分に当てはまらないからといって、一般的な説明モデルとしての価値がないということにはなりません。さて、親に対するアンビヴァレンツというものを認めたとして、その比重がが父親と母親に違った仕方で割り振られると三角関係になります。「パパとママどっちが好き?」というやつです。それから、エディプス・コンプレックスは、必ず息子が母を愛し父を打ち負かそうとするという構図か、というと、エディプス神話は単なるモデルであって、別にそれには限らないと考えられるようになってきます(とくにフロイト以後)。そこで、最後に残る重要なポイントは、先に述べたように親へのアンビヴァレンツだということになります。

「原父殺害仮説について。そんなことはあってはならないことだし、それが宗教の起源だなどということはとても信じられない。サル社会ではそのようなことがなかったのに、原父殺害が起こって人間社会になったというが、人間だからこそそのようなことが起こらないように話し合い、衝突を避けるのではないか」
→前にも書いてあるように、フロイトは歴史的事実として原父殺害があったとは考えていません。それから、また口頭で説明した点について誤解が生じているので、文字化しておきます。“サル社会ではボスザルを倒したものが次のボスザルになる。したがってボスザルの殺害は終わることがない。ところが、あるところで、もう殺し合いをやめようということになって、殺害された原父を祭り上げ、残された人間達は共通の崇拝対象を持つことで、連帯感を強めた。これが人間社会と宗教の発生の一つの説明モデルである”と。ですから、上の人が言うように、人間社会では以後、殺し合いより話し合いが重視されるようになったのです。

「自然を前にした人間の無力さと、父を前にした幼児の無力さは同じなのでしょうか。父に頼ることで幼児が無力さを克服したのと同じように、神に頼ることで人間は無力さを克服したとありますが、頼ればますます無力になるのでは。」
→自分の力を越えた圧倒的な力を前にした無力感という点で、父親と自然の脅威が対比されているわけですが、父親は保護してくれるという点が自然の脅威と違います。自然の脅威はまず擬人化され、「火山の噴火は神の怒り」とか「風の神」とか「雨の神」などといった表現ができるわけですが、さらにこの擬人化された神に「父親のように保護して欲しい」という願望が投影されてでき上がったのが、「父なる神」という表象になります。しかし、そのようなものに頼ればますます無力になるのではないか、というのはおっしゃる通りで、だからフロイトは、“もう頼るのはやめよう、自然の統制という点では科学の方が勝っている。あとに残るのは道徳的な神だけだが、罰によって威嚇されなければ道徳的になれないというのは、真の道徳性ではない。神とは関係なしに、人間社会を存続させるためという合理的理由から道徳的になろう”と呼びかけたのです。

「人間の科学が発達すれば、宗教という幻想は必要なくなるし、克服されねばならないとあるが、これは科学に対する幻想ではないだろうか」
→フロイト自身、科学が万能だと考えるのは人間のナルシシズムだと言っています。って、前回のプリントにも書いてありますよね。

「フロイトは宗教に対してアンビヴァレントだということですが、ユダヤ教との関係はどのようなものだったのか。科学で否定するという態度は、フロイト自身のエディプス・コンプレックスの現れではないだろうか。仏教のような哲学的体系としての宗教を心理学はどう説明するのか。」
→ユダヤ教との関係は非常にややこしいのですが、フロイトはユダヤ教の倫理的側面を評価していましたが、それがあまりにも強すぎると抑圧的になるという点を批判することになるでしょう。実は、フロイトはユダヤ教の歴史を優れた預言者とそれに対する民衆の反発という構図から見ていて、民衆の頑迷さを嫌い、自らは預言者(とくにモーセ)と同一化していたふしがあります(M・ロベール『エディプスからモーゼへ』人文書院)。仏教については、フロイトはあまり気を配っていませんが、前回も紹介したフロムは、精神分析は真理の洞察によって迷妄から解放されることを説くので、仏教的だと考えています(『禅仏教と精神分析』東京創元社)。

「リビドーというのが何だか分かりませんでした」
→詳しく説明するともっと訳分からなくなると思いますので、とりあえず「心のエネルギー」と考えておいてください。それが心という「機械」を動かす動力源になっている、と。
(以下は「詳しい説明」)さらに、エネルギー保存の法則、エネルギーの方向づけなどとのアナロジーから、「リビドーがある対象から別の対象に置き換えられた」とか、「そのままの形で現れず歪曲された形で夢や症状として現れている」などといった考え方が出てきます。リビドーはラテン語で「愛」を意味し、初期のフロイトはリビドーという言葉で性的なエネルギーのことを意味したかったようです。そこで、ユングなどが何でも性と結びつけると批判するわけですが、実は単に心的エネルギーとして説明しているところもあります。いずれにせよ、ジョーンズはこのようなフロイトのリビドー論を取り上げて、機械論的な心のモデルとして批判し、そのかわりに心について思弁的なモデルを立てなくても心的現象を説明できるような対象関係論の立場に立とうとします。

 やはり、フロイトを1回か2回で終わらせるのは無理があるようです。フロイトでいくつか論文を書いている身として、もっとちゃんとフロイトを論じたいという気持ちはあるのですが、それをやってしまうとジョーンズの話に移ることができないので、質疑応答で疑問を消化するようにしてゆきたいと思います。フロイトに関する入門書としては、小此木啓吾『フロイト』(講談社学術文庫)を参照してください。
 ところで、質疑応答中心に授業を組み立てると、「今日は新しいことはあまりやらなかったのでコメントが書けません」という人が必ず何人か出てくるのですが、上に書いてあるのは、前回の補足ではありますが、「新しいこと」が含まれているはずなので、それと、前回やり残した転移の部分に関する講義をふまえて、コメントを書いてください。

資料プリント
 フロイトが転移概念を提唱するきっかけになった『ドーラの症例』についての要約(弘文堂刊『新版精神医学事典』から)

第4回(20000512)

質疑応答(くどいかもしれませんが、「質疑」とあるけど質問のみのコメントは不可。質問は必ず自分の問題意識が分かるように書きましょう)

 フロイトの道徳主義的な宗教批判について意見が寄せられました。

「神とは関係なしに、人間社会を存続させるためという合理的理由から道徳的になろうと呼びかけたとありますが、道徳と信仰は切り離せるものなのですか。罰によって威嚇されなくても身に付く道徳性などあるのでしょうか」
「合理的な道徳性など不可能であるから、神罰や刑罰の脅威に訴えて人間社会を道徳的にしようとするのが、人間の知恵なのではないか」
→まず、フロイトは発達論的視点から、ものを考えていたということを指摘しておきましょう。つまり、子どものうちは脅しながらしつけなければならないときもある、という具合にです。しかし、このような脅しが受け入れられるためには、親が愛ある保護者であることが前提です。そのために「親のようになりたい」という気持ちが子どもの側に起き、親の価値観が内面化されて超自我が形成されるというのが、フロイトの考える発達の道筋です。以後、やがて知的発達に応じて、親にいちいち脅されなくても、自分なりに善悪を判断できるようになる、もちろんこの判断の基準は親からの影響もあるのですが、当人には、全く親の受け売りでなく、そのつど自分の状況判断に裏付けられていると感じられる。
 興味深いのは、フロイト思想が全般的に幼児期における親の影響を重視しているはずなのに、宗教論では、人間が権威から自立して、合理的な道徳性を持ちうると信じていた点です。この点でフロイトの矛盾や、宗教に対して急に辛口になるという一面性を指摘することもできます。
 しかし、この話には裏があって、先に述べた「親の愛」「親への愛」の重要性に該当する箇所が宗教論にもあります。フロイトいわく、神と愛で結ばれている真の信仰者は、自分の宗教批判などでその信仰をぐらつかせることなどない。自分の批判は、信仰者ぶっていながら実際には不道徳な欲望に駆り立てられている欺瞞に満ちた宗教者に向けられているのだ、と。このことを加味すると、権威の命じる内容が真に自分たちを生かしめる道を指し示しているのだということを、知的にも吟味しながら確信すること、これが道徳的自律である、というのがフロイトの考えになると思います。これはおそらく生きている以上終わりのない発達課題・成熟目標であるでしょう。
 そのうえで上記の質問に答えるとすれば、完全に権威なしで道徳的になれるということはないであろうが、権威への恐怖だけで道徳的であるふりをしているというのはもっとも危険であり(フロイトは戦争による人類の自滅を念頭に置いている)、できる限り権威から自立した合理的な道徳性を身に付けるようにするべきである、というのがフロイトの回答になるでしょう。

「フロイトは宗教に道徳を求めるが、それはお門違いである。宗教は真理であり道徳ではない」
→これはとても重要な指摘です。ただこれに詳しく答えてゆくと講義のテーマからどんどんはずれてゆくので簡単にしか答えられません。
 大体、宗教を信仰せずに研究している人たちは、宗教の真理主張については中立的にそれを整理するにとどめ、仮に宗教を批判したり評価したりするとしても、それは道徳的観点からというのが多いと思います。また、昨今の宗教に対する国民感情(マスコミ感情?)は、宗教者の主張する「真理」などどうでもよく(ミイラが生きていようが死んでいようが)、信じたければ信じてもよいが、人に迷惑をかけるのはやめてくれ、というものだと思います。ここでも、宗教に道徳性が要請されていることになります。
 そのうえで、「宗教は真理である」と突っぱねられるかどうか。逆に道徳はまったく「真理」ではないのか、単なるその時代特有の暫定的な決めごとに過ぎないのか。どうも世俗化された社会は、暫定的ではあっても宗教よりも上位に立つような普遍的な道徳性――断定的ではなく暫定的な道徳性、真理ではなくより真実に近い道徳性――を追及しようとしているようです。

講義

フロイトのドーラの症例について
 父親への愛、病気がちだった母、父親の愛の独占、K夫人への同一化(子どもへの世話やき)、母に代わる理想的女性像、父とK夫人の不倫、両者への愛を失い憎しみへ、しかし愛情も続いている(愛と憎しみのアンビヴァレンツ)、K氏の接近、意識的には拒絶するが、自らすすんでK氏と湖畔を二人きりで散歩することを繰り返している、最終的に求愛を受けたときにそれを拒絶し、そのことを周囲の者に訴えるが相手にしてもらえない、以後症状が激化。
 父へのアンビヴァレンツ、Kへのアンビヴァレンツ、「大人の男」という性的存在(父とK)へのドーラの態度=自分への愛情を確認したいという気持ちと彼らの性的不道徳を告発したいという復讐心。神経症的症状を性的欲動の観点から理解しようとするフロイトへ、「父=Kに対する感情」が転移。フロイトの解釈に反発しつつもあるていど受け入れ、フロイトにすればかなり成功しつつあるという感触がつかめてきたところで、治療を中断。フロイトはあとから、ドーラに乗せられてあまりにも性急な解釈をしてしまったと反省。ここから転移/逆転移の概念を提唱。患者は、重要な人物に対する感情を分析者に転移、分析者はいつの間にかその重要な人物と似たような役割・立場を担わされてしまい、それに沿うような言動をしてしまう=逆転移。
 なお、寝椅子での治療というシチュエーションは、転移を誘発する装置としても機能する。患者が寝椅子に横たわり、分析者は患者の頭の近くの患者から見えない所に座り、患者の自由連想中は簡単な質問以外に極力発言しないようにする。この状況は、患者にとって、重要な人物のイメージを投影しやすい状況である。つまり、感情の転移をしやすい状況となっている。そこでは、分析者は患者の投影を映し出すスクリーンの役割を果たす。これによって、夢よりも直接的に、今ここで起こっている患者の無意識的な思考の働きを指摘することができるようになった。転移をその場で「動かぬ証拠」として指摘することで、無意識的なものが意識化されやすくなる、そうすれば症状が解消される。転移も解消される。それが治療の終結とされる。

 次に転移概念と宗教論との結びつきを理解するために、狼男の症例についても触れておく。

狼男の症例
 ここではドーラの症例とは異なり、エディプス・コンプレクスが出てくる。図式化すると、エディプス・コンプレクス→去勢不安→エディプス・コンプレクスの反転(父への同性愛的感情)。理想的発達においては、父親の同一化(取り入れ)と超自我の構成がうまくゆけば、道徳的自律が達成されエディプス・コンプレクスは解消するが、うまくゆかずに自我がコンプレクスを抑圧するにとどまれば病原的となる。重要なのは、父に対する同性愛的な愛情要求が、八歳の時に突然始まった信仰によって鎮められることである(たまたま彼の誕生日がクリスマスであったため、父を神と同一視することもできた)。宗教というかたちをとれば、現実の父親への愛情の場合のように罪悪感を感じることなく、永遠の父なる神に愛の証を立てることができた。この宗教への傾倒期(フロイトによれば強迫神経症)を通過して10年は平穏であった(つまり宗教的信仰が神経症的傾向を緩和していたことに)。しかし、18歳で淋病に感染したのちに発病し、心理療法を受ける。フロイトは病歴の全体像には触れずに(この点に関してはプリント参照)、その「幼児神経症」(不安ヒステリー・動物恐怖症と強迫神経症)に焦点を当てて記述している。
 また面白いのは、フロイトへの父転移(父親への感情をフロイトへ転移)があり、フロイトもそれに巻き込まれ、不遇の狼男に異例の無料治療を行っていることである(=逆転移=転移に応じてしまうこと)。現実の父親が神に置き換えられ、神が精神分析家フロイトに置き換えられる。「父→神→分析家」という転移の連鎖。この症例は、宗教が幼児の父親への愛情の反復であるというフロイトの説を裏付けるだけでなく、精神分析が宗教代替的機能を果たすものである(宗教そのものではないとしても)ということを示唆している。

第5回(20000519)
 事務連絡:ホームページ経由でコメントを送信したことのある人で、私から「受け取りました」というメールを受け取っていない人は申し出てください。エラーが生じている可能性があります。

質疑応答
 宗学科の方が何人か、「もっと宗教にかかわる授業を」という要望を出してきました。宗教心理学はいわば心理学の応用分野です。ですから心理学的知識についてあるていど学んでもらわねばなりません。しかし、これまでのところで分かったのは、皆さんの多くが心理学についてあまり馴染んでいないということです。そこで、基本的な心理学的知識に関する疑問になるべくお答えするようにしています。そういうわけで、あと少しは我慢してください(とくに、これからしばらくは「フロイト以後の理論」ということで心理学プロパーの話が続きます)。逆に哲学科の方たちは、宗教の話が難しいと感じているようです。また、彼ら宗学科の学生の中で次のような質問をする人がいました。

「いったいこの授業に出てくる宗教は何なのでしょうか。[宗教と]かかわってはいますが、ここに出てくる宗教は、信仰や愛の話などは出てきますが、自分が学びたいのは宗教の中の心理学でも心理学の中の宗教のどちらでもありません。並立した授業はできないのでしょうか」
→この人が考えている「宗教心理学」とは何なのでしょうか。一応これまでの学説史上、「宗教心理学」と呼ばれているものは、宗教の心理学的分析です。そして、その場合の宗教とは圧倒的にユダヤ・キリスト教を指しています。われわれが、学問を研究する場合はまずそれまでの議論を抑えておかなければなりません。仏教の話に引きつけたいのは分かりますが、シラバスを見ても分かるように、この授業では仏教は扱いません。このことをもう一度確認して履修するかどうか決めてください。また、この人は「宗教心理学」という言葉に、「宗教的心理学」とりわけ「仏教的心理学」を期待しているのではないでしょうか。それなら、トランスパーソナル心理学関係の文献を調べて勉強してみると、それに類したものに出会えるかもしれません。宗教心理学はあくまで心理学なので、どこまでも宗教そのものにはなりません。ただ、私はフロイト以後の心理療法は仏教に通じるものを持っているとも考えており(もちろん全く同じではないが)、そのことは質疑応答でも何回か言及しています。
 それよりも気になったのは、「もっと宗教を」と叫ぶ人たちの「自分にとって興味があることだけを教えて欲しい、心理学についての体系的知識などいらない」という態度で、これは学問を謙虚に学ぶ態度ではないということです。この大学のカリキュラムを見ると、宗学科の方は、専門の宗学以外のことも広く自由に学べるようになっています。この授業もそのなかの一つです。したがって、自分の専門以外にも広い教養を身に付けたいという気持ちを持つ人だけが、自分の意志で履修していただきたいと思います。
 なお仏教学部の他の人たちの名誉のために言っておくと、前回やった「宗教と道徳」の問題などに強い関心をもって積極的にコメントをしてくださった方もいました。

「フロイトの解釈は強引だ」「転移は必ず起きるのか」「転移を通じて無意識的なものを意識化すると本当に症状は解消されるのか」
→前にも質疑応答で言いましたが、精神分析の基本は自己分析です。ですから「こうすれば必ず治る」という操作的なものではなく、自分が今までとらわれていたものが何だったかに患者自身が気づくことが目標であり、そうするとその「とらわれ」から解放されやすくなる、ということなのです。医者はただそれを横からサポートするに過ぎません。ですからフロイトの分析は、必ず患者自身が自発的に参加することが条件となっていたのです。結局、最後は自分が変わらなければ何も変わらないのです。またフロイトの解釈の強引さですが、フロイト自身はつねにそれを断定的に押し付けたわけではありませんでした。フロイトの解釈が性的なものに偏りすぎるという指摘は当時からありましたが、それは当時の患者さんの特殊性もあるようです(厳格すぎる性道徳と世紀末的退廃の矛盾)。

「狼男が宗教的儀礼に熱中しているあいだは、神経症が和らいでいた。そして、これは父から神への転移だということなのだが、これは症状の根本的解決ではないだろう」
→フロイトも症状の一環として理解していたでしょう。

「父から神へ、そしてフロイトへと転移したとあるが、フロイトは逆転移をしてしまい、狼男はフロイトの治療のあとも神経症を病んでいたようだ。フロイトは治療者として失格なのでは?」
→逆転移に関して、フロイトは初めての精神分析家だったということを差し引いて考えてください。フロイトはこうした自分自身の失敗や経験から、分析家自身の逆転移をつねに意識化するように忠告していました。それから「完ぺきな治療者」というものは残念ながらいません。他者を完全にコントロールできる人など誰もいません。それから、これも残念なことに、結局治らない人もいるということです。しかし、狼男は心を病みながらも、社会的には適応しているというところまでは回復していました。ジョーンズなどは、ここから「転移を解消すべし」というフロイトの考えに異議を唱えて、「転移を豊かな人間関係を築く方向に修正すべし」とするでしょう。

「転移は分析の場面だけでなく、日常生活でも起こっているように思われる」という意見を、多数の人が自分の例をまじえながら語ってくれました。それはこれからやるジョーンズと同じ考えです。

講義(まずは、やり残している6頁後半の再録。若干修正。補足)
 ジョーンズは、これまで見てきたフロイトの宗教論が、その転移概念と結びついていることを指摘する。フロイトによれば、転移とは、患者が過去の重要な人物に対して抱いていた感情を、分析者に向けることである。フロイトの転移モデルの特徴は、反復の観念と本能重視にある。それは、過去において、愛と憎しみという二つの本能の葛藤によって構成された感情や態度の、歪曲された反復である。正統的なフロイト派の見解によれば、転移は神経症的症状の一環として発生するものなので、それを解消することが治癒につながる。たとえば、ドーラのように父親への敵意をフロイトに転移している場合(陰性転移)、それを治療の場面で指摘して、父親やKへの感情を意識化するよう促さなければならない。そうすることで転移を解消することが、神経症的な転移の連鎖を断ち切ることにつながる。逆に、分析者に自分を愛してくれる親の像を投影することで、分析者と良好な関係を築くことができ、分析を続けているあいだは治ったように見えていても(陽性転移)、それでは真の治癒とは言えない。分析者の言うことを、「その通りその通り」とうなずきながら、症状に変化が見られない場合、それは治療への無意識的抵抗と解される。その場合、治療者への「いいなり状態」自体が問題化される[このことからフロイトが、自分の解釈を患者が受け入れればそれでよしと考えていたのではないことが分かる]。
 フロイトの宗教論もこうした転移概念と関係がある。なぜなら、神への転移は、分析者への転移と同様、いずれ解消されなければならないとするからである。それに対して、ジョーンズは、転移は単なる症状ではなく、対象関係の絶えざる再創造であると言いたいのであろう。精神分析の新しい流れは、寝椅子を使って人工的に転移を発生させるという手法をもはやとっておらず、分析者への自然な転移をそれとして認めつつ、それを修正する方向に誘導しようとする。神への転移もまた、必ずしも解消しなければならないというものではなく、より良い人生を送るための軸としてとらえ返そうと言うのであろう。
 ジョーンズが依拠するフロイト以後の理論とは、対象関係論と自己心理学である。対象関係論は、イギリスのメラニー・クライン以後、フェアベーンやウィニコットらによって形成された立場で、フロイトの「欲動(本能)/対象」図式から、「対象/自我」図式への移行をはかった。フロイトはまず欲動があってその満足のために向かう目標として外的対象があり、そのはざまで現実的文脈に適応するよう調整するのが自我であるとした。それに対して、対象関係論は、対象との関係のなかで自我が生成すると考える。自我があってその対象があるとは考えず、対象があって自我があると考えるのである。その際、自我の側に外的対象に見合った内的対象が構成され、さらにその内的対象が外的対象に転移される(投影的同一化)という循環のなかで、対象関係が形成される。症状の治癒は無意識的なものの意識化では不十分で、悪い対象関係の良い対象関係への置き換えが必要である。ここで分析家への転移は治療の手がかりというだけでなく、治療の手段ともなるだろう(自己心理学の立場へ)。また、外的対象と内的対象を橋渡しする移行対象(ウィニコット)が、人間の文化的所産であるという文化論が展開される。後で見るように、神も移行対象として理解される(中途半端だが、自己心理学の概説は来週)。

第6回(20000526) 事務連絡:来週は休講。

質疑応答
 まず、私が口頭でいった「後期は出欠をとらない」を「今後は出欠をとらない」と聞き間違えた人がいました(相変わらず「早とちり非難」モードの人も……)。が、今期の授業のシステムに変更はありませんのでご注意を。また、後期でもこのような質疑応答システムを続けて欲しいという要望がありましたが、私は続けるつもりです。ただ、出欠としてカウントするのはやめようと思います。詳しくは後期の授業の最初に提示しますが、意欲があって努力した人だけが報われるシステムにしたいと思っています。
 前回プリントの“フロイトの「欲動(本能)/対象」図式から、「対象/自我」図式への移行”“対象関係論は、対象との関係のなかで自我が生成すると考える、自我があってその対象があるとは考えず、対象があって自我があると考える”という部分で、疑問が生じているようです。

「結局、フロイトの「欲動/対象」図式と、対象関係論の「対象/自我」図式のどっちが正しいのですか。それには正解・不正解はあるのですか」「対象関係論では、欲動(本能)は考えられないのか。私は対象があって、そして初めて本能が出てくるのであって、そこで自我が抑制の役割を果たすのだと重う」「自我がなければ対象などありえないのではないか」
→「自我と対象、どっちが先?」という質問は、「ニワトリと卵、どっちが先?」という質問と似ています。私の文の書き方や図式化に、そのような誤解を誘うものがあったことは認めます。そこで、「関係があって、自我と対象が同時に問題となる」ということを強調したいと思います。つまり、前回の“対象との関係のなかで自我が生成する”という文をより正確にするならば、「自我は対象との関係のなかで自我として分節化される」ということになります。だから「ただ関係がある」ということになります。私は、フロイトのいう欲動とは単なる精神内的な動因ではなく、関係づけの条件だと思っているので、第二のコメントにやや近いと思います。このように考えると、フロイトの「欲動→対象→自我」という考え方は対象関係論とそれほど違わないのではないか、と見ることができます。対象関係論者の中でも、対象関係論はフロイト理論の別の可能性を追求しているのだと考える人もいます。

「フロイトの図式から対象関係論の図式へ移行するメリットはどこにあるのですか」
→フロイトの図式は結局「エス―自我―超自我」という心的装置の図式に進んでゆきます。リビドーと、機械論的アナロジーのことも思い出していただきたいのですが、どんどん仮説性が高くなってゆきます。対象関係論の人たちは、クラインが「良い対象/悪い対象」の議論のなかで欲動に触れたぐらいで、以後の人は、生物学的に飛躍があると考えられるフロイトの本能(欲動)概念にはなるべくタッチせずとも患者の心理を理解できる道を探し始め、それが対象関係論になったのです。次に紹介する自己心理学のコフートであれば、フロイトの思弁的理論よりも患者の「体験に近い」理論の方が、分析が進むと言うでしょう。

「どうしてフロイトは転移を解消しなければいけないと考えるのですか(この種の質問、多数)。私はジョーンズの言うように、転移は自然に起こってしまうもので、それを無理になくそうとするとかえって悪影響があるような気がするのですが」
「転移を解消することをもって治癒とするフロイトの意見に賛成である。そうでなければその後の人生でも同じことを繰り返してしまうであろうから。転移を治療の手段として使い、良い対象関係に置き換えるというやり方は、失敗したときに混乱と悪化をもたらすであろう」
「ジョーンズの理論は、分析後の患者の人生における対象関係を重視しているようである。このやり方なら、患者は以後、精神分析家を頼らず自ら解決してゆくことができるようになる可能性が高いと思う」
→分かりやすく言うと、フロイトは相手を無視した独りよがりな関係(転移)は未熟な対象関係だという立場で、ジョーンズは、転移を克服できると考えるほうがおかしい、転移はどうせ起こるものなのだから、ならばそれを悪性のものから良性のものに変えればいいじゃないか、という立場になります。さて、これはどっちが正しいのでしょう。よく考えると、良い対象関係の証であるような良い転移とは「独りよがりでない」転移であり、フロイトなら「これはもう私の言う転移とは意味が違うよ」と言うかもしれません。
講義(今日は「宗教の話」なし)
コフートの自己心理学
 コフートはアメリカの精神分析家で、精神内装置の一つとしての自我とその防衛機制に焦点を当てる従来の自我心理学に対して、全体的自己のまとまり(凝集性)に焦点を当てる自己心理学を提唱した。そのキー概念は、自己対象 self-object, selfobject である。自己対象とは、自分とは切っても切り離すことのできない自分自身の延長として主観的に感じられるような対象のことを指す。つまり、自分でもあり対象でもあると感じられるような存在のことである。人間は、このような自己対象を通じて、自己の凝集性まとまり、活力、調和を維持するとされる。対象関係論における内的対象の場合、対象はそのまま内面化されると考えられるが、それに対し、コフートの場合、自己対象のもつ機能が自己の機能に変容するという発達の道筋がたどられる。自己対象は、やがて人物像の形を失ってその機能のみが自己の機能として残り、自己対象との関係のパターンが自己の心的構造に変容してゆく。これをコフートは変容性の内面化と呼ぶ。治療は、解釈によって抑圧された無意識的なものを意識化することで起こるというよりも、何らかのかたちで阻害されている変容性内面化を引き起こすことによって起こると説明される。というのも、フロイトの見た患者は、自分で自分を律し、許せないものを抑圧する「罪責人間」が多かったのに対し、現代アメリカ人は、まとまりのある自分を追及しようとして、それに失敗する「悲劇人間」が多いからである。
 自己対象のもつ機能(やがては自己の機能になる)とは、鏡映機能と理想化機能である。そして、その機能に応じて鏡映的自己対象と、理想化された親イマーゴ(イマーゴ=対象の内的表象の元型)という二種類の自己対象が区別される。鏡映的自己対象とは、主体の状況を映し出してくれる人であり、たとえば幼児が喜んでいるときに一緒に喜んでくれる人のことである。このような人が自分を受け入れてくれ、安心感を与えてくれるような環境のなかで、全能感をもった誇大自己が形成される。しかし、現実との葛藤のなかで、誇大自己が保てなくなると、自己対象に誇大感が投影され、理想化される。つまり、自分の延長と感じられる自己対象を理想化することで、代理的に誇大感が保たれる。こうしてできるのが、理想化された親イマーゴという自己対象である。
 このふたつの自己対象は幼児期に共感的環境を形成する。ここでは自己と対象が不分明である。ただ不分明な「自己―対象」関係がある(自己と対象どちらが先ということもなく)。そのなかから次第に、中核的自己が育ってくる。自己対象の鏡映機能と理想化機能は、野心追及と理想追及という自己の機能に変容してゆく。そして、自己は、「野心―理想」の両極のあいだで才能と技能を発揮し、自己実現してゆく。このような自己のあり方をさして、「両極的自己」の図式が描かれる。こうして、自己対象の変容性内面化を経て、凝集性まとまりのある自己が形成されてゆく。
 逆に言うと、自己対象の共感的環境が得られないと、自己は凝集性を欠き、もろくなり、空虚さを感じるようになる。そしてそれを埋め合わせてくれるような対象を求め、転移が生じる。鏡映機能と理想化機能に応じて、鏡映転移と理想化転移というふたつの形態が区別される。鏡映転移とは、承認と受容の欲求から、相手を「受け入れてくれる人」だと思いこむものである。理想化転移は、より理想的現実(理想を体現した人)と結びつきたいという欲求から、相手を「素晴らしい人」だと思いこむものである。さらに、第三の転移の様式として、双子転移が類型化される。それは、他者を自分自身のように経験したいという欲求から、相手を「自分と似た人」だと思い込むようなものである。
 治癒の場面で、分析者は患者にあたかも親的存在であるかのように共感によってアプローチする。それによって以上のような転移が生じるわけだが、そこで、適切な自己対象を見極め、またそれによって育まれるという体験を通して、適切で健全な依存能力を再獲得することが、治癒につながる。患者の転移は新たな発達のステップとして利用される。分析家に依存することが踏み台になって、患者はもっと早く親(的存在)との関係において成し遂げるべきであった発達を成し遂げることができるようになる。これは、「自立/依存」の二分法への異議申し立てである。これまで、現代心理学は、依存から自立への移行を発達と考えてきたが、完全な自立など不可能である。自己と自己対象の関係は、大人になってからも引き続いてゆくのであり、発達とはむしろこの関係の質の変化を指す。依存なくして自立なし。自立している人ほど、適切に依存している。つまり、自己対象に依存しつつも、野心と理想の両極のあいだで、自分自身の才能と技能を発揮してゆくのである。フロイトが自立した人間同士の対象愛を成熟と考えるのに対し、コフートは依存しつつ自分を伸ばしてゆくという「健全なナルシシズム」路線を打ち出したと言える。

第7回(20000609)
質疑応答
 前回は専門用語ばかり出てきて理解しづらかったという感想を多く頂きました。しかし、多くの人が、最後の「自立と依存」の問題を取り上げたので、だいたい的は外していないと思います。

「自己対象をどのように感じて、自己のまとまり、活力、調和を維持するのか、維持する方法が分かりません」「自己対象には家族や兄弟など身近な人間しかなりえないのですか。たとえば、お気に入りのぬいぐるみや人形、テレビ番組のヒーローなどはどうでしょうか」
→自己対象を通じて、なぜ自己のまとまりが感じられるようになるのか。逆に、自己対象が全くない状況を想定してみましょう。自己対象とは、平たく言えば、その人のことが他人事とは思えないような人のことです。このような自己対象が全くないということは、親密な人が全くいないということを意味します。二番目の人に同意するとして、非人間的なものやメディアに登場するものも自己対象に含めると、ほとんど世界との没交渉状態になり、このような状態では、自分がどのような人間であるかのフィードバックを得ることができないことになるでしょう。(ぬいぐるみやヒーローについては後述の移行対象を参照)

「野心と理想は似ていると思うのですが、大きな違いは何ですか」
→確かに言葉の響きは似ていますね。「自分はすごいんだ」と思わせるものが野心、「自分はこうあるべきだ」と思わせるものが理想と、とりあえず区別しておいてください。野心と理想の極のあいだで、中核的自己が才能と技能を発揮しながら自己実現する道筋を、平たく言うと、こうなります。「自分はすごいんだ」と思うけれど、現実の自分はそうでない、では「自分にとってすごい」ものは何か、それを目指して頑張ろう。自分の適性を見極めつつ、努力もしながら。

「依存しつつ自分を伸ばしてゆくという発想には、自分自身の経験と照らし合わせて、フロイトよりも共感できる」「日本人はもともと自立していないから、コフートの「適度な依存」という考え方に馴染みやすい」「今の日本人は、とくに若者は野心や理想を持っておらず、なかなか自立できないということが問題になっている」「人を自分の都合のいいように適当に利用するエゴイスティックな態度を助長しないか」
→フロイト当時のオーストリアの「罪責人間」、コフートの生きたちょっと前のアメリカの「悲劇人間」と来て、現代日本はどうかという問題意識を持った人が、とても多かったです。上にあげたコメントは、どれも、コフートの理論は現代日本に当てはまりそうだという直観を前提としています。ただ、そのような現状に肯定的なものから批判的なものへと色々あるのが分かります。
 コフートが問題としていたのは、ナルシシズム(自己愛)的な人格障害を持った患者でした。フロイトによると、ナルシシズムをやめて対象愛に向かうことが、健康な発達だと考えられます。しかし、コフートは、ナルシシズムの人はそういう人なりの発達の仕方があるのではないかと考えるようになります。現代日本では「引きこもり」が問題になっていますが、そういう人に対して、「みんなで楽しもうよ」と色々なところに連れ回すのではなく、あるていどの社会性があれば自分の領域を大事にする生き方を尊重してあげる、というのに似ているかもしれません。そこからコフートは進んで、純粋な対象愛など存在しない、それは西洋の愛他主義的伝統の呪縛であり、愛する人は多かれ少なかれ自己対象なのだ、と考えるようになります。愛する人のためにある、それは自分のためでもある。これが普遍的なのであって、自分の利害を全く度外視して人を愛することなど不可能である、と。
 ただ、このようなメッセージは、純粋な愛他主義の精神に呪縛されている人、何が何でも自立した人間(self-made man)になってやると思っている人にとってプラスの方向に作用するのであり、「社交的自閉」とも指摘されるような現代日本人には、都合のいい自己正当化の手段とされてしまうかもしれません。大切なのは、「自立と依存の中道」、つまり両極端を揺れ動くのでもなく、両者を分裂したまま内包するのでもなく、程々にバランスをとりながら両者を総合することにあるのではないでしょうか。私個人的には、フロイトの言う「自立した人間同士の対象愛」も、「完全な自立への強迫」としてではなく、「自他のバランスのとれた連帯」として理解すれば、むしろ日本人の「病理」を矯正するための理想とすることができるのではないかと思います。それもコフート流の「依存しながら自立」への共感を出発点として。
講義
対象関係論・自己心理学以後の心理学的宗教論
マイスナー『精神分析と宗教体験』(未邦訳)
 フロイトの無神論は、宗教に対するフロイト自身の未解決のアンビヴァレンツによるものである。著作では迷信をやたらと攻撃するが、日常生活では迷信におびえていた。ユダヤ教を批判しながら、モーセを理想としていた。
 自我心理学は、フロイトのように自我を欲動と現実の葛藤の産物とするだけでなく、その積極的側面である現実適応能力をも評価する。宗教に関わる自我も、幼児的願望と現実の葛藤の産物とするだけでなく、複雑で苦悩に満ちた現実に適応するその能力をも評価するべきだ。人は宗教に関わることで、現実のなかでの自己のイメージを作り上げる。[言い換えると、環境の複雑性を縮減しながら、安定した自己定義・自己理解をするためには、何らかの超越的視点が必要ということ。しかし現代社会は、宗教によらずに複雑性を縮減する仕掛けを用意している。]
 信仰、神表象、象徴、祈りは、対象関係論者ウィニコットの言う「移行現象」として扱うことができる。移行現象の原初的形態は、乳児が、毛布やぬいぐるみへの愛着によって、母親から分離する痛みを和らげようとすることに求められる。一般化すれば、内的世界と外的世界の双方と適合するような対象、「移行対象」を媒介として、古い関係性から新たな関係性に入ることである。移行対象とは、言い換えれば、客観的効果をもつ主観的構成物のことである。この移行対象への錯覚と脱錯覚を繰り返しながら、幼児は次第に現実検討能力を増してゆくことになる。[だが、大人になっても未知の領域を前にすると、人間はこのような移行対象を手がかりとせざるを得ない。抽象度の高い科学的理論や、宗教的信仰対象なども、移行対象として理解することができる。このような概念を宗教現象に適用することは、幼児心理への還元とは言えない。なぜなら、これは大人においても起こる、未知なものとの経験の様式であるからだ。また、このような見方から、宗教的真理主張は日常的現実の引き写しである必要はない、という結論が引きだされるだろう。むしろ、それを方便として現実の生が充実されれば、それで良いということになる。]

リッズト『生ける神の誕生』(未邦訳)
 家族と生育歴と宗教生活に関する情報を集めたうえで、その患者に家族と神の絵を描かせるという方法。そこから幼児における神表象の成立に関する仮説を立てる。
 子どもは、世界との相互関係、経験を内面化するために、さまざまな対象の表象を用いる。さらに、それらはより高単位の表象のなかに結合されてゆく(抱かれた感覚、母親の声、親を理想化したい欲求などから、複雑な内容をもつ母親の内的表象へ)。他方、子どもはある時期に、世界の起源に対して疑問を持ち、「なぜ」という疑問に答えるために神的表象を用いることがある。場合によっては、それを通じて事物が存在するという感覚を養っているかのようである[日本人にとって卑近な例:子どもはお化けの話が好き。けがをすると罰が当たった、痛いの痛いの飛んでけ。やたら怖がりで、怖いテレビに興味があるが、見るとそのあと眠れなくなる]。このような神表象は、内的対象の表象の総合という前述の過程の頂点にある。また、内的対象の世界の整理と総合が進むと、自己の統合の感覚も安定してくる。したがって、神表象と自己感覚は相互依存的に発達する。このように幼児期に形成された神的な表象は、信仰をもたない人にも何らかの影響を及ぼしている。このような心理学的観点からすると、完全な無神論は不可能である。無神論者は、自らが否定すべきと考えている神について、すでに一定の理解を用意しているからである。そして、彼らは暗黙のうちに神に代わる対象関係の参照点を持っているからである。そうでなければ彼らの内的対象の世界は断片化したままである。
 また、「神」は非経験的な対象であり、無限に柔軟なので、個人の生を通じて再創造されてゆく。したがって、ぬいぐるみや毛布などの移行対象とは違って、最終的に捨てることができない(別の「神」に姿を変えるだけ)。なお、ジョーンズは、ウィニコットの移行対象は、意味を失っても忘れられることがなく、形を変えて心のなかに生き続けるものであることに、注意を促している。移行経験の能力そのものが問題なのであり、人生における移行経験の能力が不可欠だからこそ、その最高次の表象も容易に捨てられないのだと考えたほうがよいとする。見方を変えると、神表象が再創造されてゆくということは、人生の各発達段階において、関係性の変容の度に、信仰の危機が訪れるということをも意味しているのである。

第8回(20000616)
質疑応答〜今日は簡単に
 ぬいぐるみを例に出した移行対象論に関心を持つ人、「心理学的には完全な無神論は不可能」という点に興味を持つ人が多数。とくに後者について、同意する人が多いなか、反対する人は、だいたい狭い「宗教」概念、狭い「神」概念にとらわれている場合が多い。「自己イメージを作るのに宗教に頼らなければならないのか、日常生活のなかで作られるのではないか」という意見に対しては、「他者」と「神」が心理学的に同形の構造を有していることに注意。だから、対象関係と神表象につながりが出てくる。その例証としては今日紹介する症例を参照。リッズト、ジョーンズの「神」「宗教」概念はかなり広い。また、心理学的観点に限定している点は、逆に狭いと言えるかもしれない。いずれにしても特殊、だが西洋の文脈に収まらない普遍性をもつ議論。面白かったのは、アニミズムに言及する人が二人いたこと、日本人にとっての「メディア」が宗教のかわりになっていることを指摘したコメント。

講義
症例研究――自己イメージと神〜ジョーンズ自身の症例から神表象と自己イメージの関連を探る。
1)ハロルド
 41歳、会社員、生涯プロテスタント。15年、横柄な女性と結婚、ほかに男ができて離婚。しかし、二人の息子の養育費を含めた生活保護費を払うことを要求される。
 ハロルドの両親。不仲。父親はアルコール依存症、仕事人間。母親は父親に対して、道徳的優越感。ハロルドに口やかましい。妹は母親と女同士の連帯、男は信頼できないという雰囲気。母親の男性観を変えるべく、ハロルドは、優等生、学費を稼いで大学卒業、大銀行に就職、結婚、孫を作る。しかし、その努力も離婚で水の泡。
 人生に対する基本的な姿勢は、まじめで良心的であったが、きわめて受け身的。出世のチャンスを見逃し続ける。家では、妻にすべて管理される。
 離婚に至るまでの長い過程を通して、ジョーンズのもとに来談。つねに、セラピストの指示を求める。指示が得られないと怒る。しかし、相手に指示されると憤慨して、受け身で攻撃的になるというパターンが分かっていたので、ジョーンズは応じなかった。
 ついに、ハロルドは「アドヴァイスをくれない」と怒りだす。そこで、彼が怒ったといってジョーンズが批判すれば、いつものパターンに。しかし、ジョーンズはそれをしないで、ハロルドの怒りを受容。それによって、彼は自分自身が演じてきた受動性のパターンを理解できるように。以後、ハロルドの生き方は受動的でなくなり、仕事上でも自己主張、転職、また一方的な離婚調停にも合意しなくなった。
 ジョーンズは神イメージに変化がなかったか聞いてみる。「私はもう、神が自分のために何かをしてくれと祈ったりしません。以前は、私が何をすべきか教えて欲しいと祈っていました。しかし、今は聞くだけでなく何かをしなければならないということが分かっています」。
 ハロルドの以前の神概念=自分の得点表をつけていて、わずかな誤りも見逃さない存在。神との関係は恐怖と不安と怒りに満ちていた。彼自身も「自分が悪い、間違っている」と言い聞かせている(過酷な超自我の存在)。また、母親や妻との関係は、神との関係と似ていて、受動的で、つねに罪悪感を感じさせられるようなもの。
 現在の信仰生活。物事の善悪の判断を他人に仰がなくてすむよう、宗教について積極的に学ぼうとする。教会で、職業倫理に関する研究会を組織するように。
2)シルヴィア
 27歳、秘書。5歳の時に、東ヨーロッパからアメリカに家族で移住。東欧人達のペンテコステ派のゲットー[孤立集団地区]で生活。両親は亡くなるまで英語を話さない。周囲から孤立。人々は、他人に対して疑り深い。また集団内にもいくつかの人間関係の壁。
 児童期の性的虐待と近親相姦。誰にも言い出せない。母親に話したところ、「汚い」と言われ、石鹸で口を洗われる。秘密、自分は他人と違う、引きこもり、孤立。コミュニティの人々も引きこもるシルヴィアを避けるように。ゲットーを脱出して家出、高校の友人と同棲。友人の紹介で働きだす。
 コミュニティからの孤立、疑惑、発見されるのではないかという恐怖、家族の無関心、罪悪感や怒りなど、これらの情動が、治療の場で理解され、受容される。治療の場は、それができる安全な場所に。
 「自分には間違ったところがある」「自分は人と違っており、理解されない」、他者に受容されることの拒絶、孤立へ。
 治療を終える際にジョーンズに言った言葉「あなたは何時間ものあいだ、私と戦ってくれました。あなたが私を受け入れようとするのに対し、私が防衛する、それと戦ってくれました。結局、あなたがそうしてくれたのは、私のことを配慮してくれるからだということが分かりました。この戦いを通じて、自分がどのようにして人から受け入れられることを拒絶するのかが分かりました。それが分かったのが、治療のなかでもっとも大きな変化でした。今、私は人の配慮や賛辞を受け入れることができます。虐待に直面することを、あなたはせかしたりせず、またそんな私を責めることなく、寛容でいてくれました。私を理解して欲しい、怒らないで寛容でいて欲しいと、人に要求することは、別に間違ったことじゃないんですよね。というか、間違いじゃないんだって思いました。誰かが私と一緒に頑張ってくれる、私のことをケアしてくれるという経験、これが治療のなかで一番助けになったことです。人から理解されることを通じて、自分自身を理解することができました。私の身に起こったことを、私自身が理解し、受け入れることができるようになったのも、あなたがそれを理解し、受け入れてくれたからです」(cf. 鏡映機能)
 信仰の変化。「私は以前は分別くさい宗教が好きでした。でも、それが有害だということが分かりました。今は、以前なら決して見ようとしなかった神の愛について触れた聖書の箇所を見るようになりました。私にとって、神はもはや審判者ではなく、慈悲深い存在となりました。神の愛は私の誤りよりも大きいということが分かるようになったのです」。
 治療における忍耐と受容と寛容、神の忍耐と受容と寛容、自分自身に対する忍耐と受容と寛容。
 ジョーンズ「自分の誤りや罪悪感を受け入れるのに、神の愛は役に立っていなかったのですか」
 シルヴィア「神が愛ある方で、いつも私のことを守っていてくださってるということは、頭では分かっていたのですが、それを実際に感じたり経験したりすることはありませんでした。逆に、自分自身を受け入れられるようになってはじめて、実は神や他者が自分のことを配慮してくれていたんだということを受け入れることができるようになったんです」
3)バーバラ
 35歳、福音派プロテスタントの背景。嗜癖のある女性のためのソーシャルワーカー。思春期に兄との近親相姦・性的虐待。父親から捨てられ、母親に育てられる。三人兄弟の末っ子。長男は放課後働きに。次男が彼女の面倒を見、彼女に八つ当たりを繰り返す。
 20代半ばに大学院で出会った男性と結婚。夫との関係は良好だったが、バーバラは、母親になることに不安を感じ、子どもを作ろうとしない。夫は子どもを欲しがっていた。またバーバラの仕事はハードで、出産・育児に懸念。子どもを作る作らないが、結婚の危機にまで。抑鬱と自殺念慮。ジョーンズのもとに来談。3年間、面接。そのあいだに転職、妊娠、抑鬱解消。
 バーバラ自身の書いた宗教生活に関する手記。
 幼児期の神表象=万人の記録をつけている審判者としての神(あごひげの老人)。兄との関係で罪悪感。無価値感。性的虐待が始まったころ、地元の教会員に、しかし罪悪感を強められ、救いにならない。許しは道徳的完成に付随して起こると教えられるが、それは近親相姦中の彼女には無理なことだった。
 若年成人期の神表象=20代のころ、大学院を出て結婚し仕事を見つけたころ、友としての神、仲間としてのイエスというイメージ。夫や患者や同僚や治療者との連帯感、自分自身に対しても良い感情。しかし、慢性的な抑鬱状態は緩和されなかった。
 現在の神表象=言葉では表せない。そこで、美しい自由造形の彫刻をもってくる。その頃、バーバラは彫刻教室に通っており、また太極拳やエアロビクスもやっていた。脈動するような色彩。抽象形式の花や葉のように見える。成長と生命。エネルギーや力。「神のうちに、われわれは生き、動き、われわれとして存在する」という新約聖書の一節を、彼女は引用。神はいつも、そこにいる。普遍的だが、親密なほど個人的で、永続的な生命のエネルギー。
 ジョーンズに対する言葉「あなたが私を受け入れてくれたのが良かった。私があなたのことを一生懸命締め出そうとしていたときさえ、あなたはそこにいてくれた。それが私にとって、大きな慰めでした」。
 いつもそこにいてくれる存在。成長への意志。治療者と神。
4)マーティン
 39歳、大きな大学の英語の助教授。素晴らしい博士論文。しかしスランプ、何も書けない。友人が公衆の面前で話をすることへの恐怖を、ジョーンズの数回の催眠で、克服したことを聞いて、来談。しかし、催眠を数回するも効果なし。情熱ある学生たちの前では生き生きとしていたが、そこから離れると気力が無くなる。執筆中の本に登場する作家についてジョーンズが言及しても、無反応。
 父親は医者、母親は教師・高校の校長。子どもにはあまり関心がなく、良い成績をとるプレッシャーもなかったが、名門大学に進学。マーティンは、当初ジャーナリストや作家になりたかったが、両親は学問に傾倒していたので、彼も学問の道に。
 大学院で、詩人であったジェニファーに出会い、結婚。互いに支え合う。
 一人になると起こる、空虚感に飲み込まれる恐怖。冷淡だが競争的雰囲気に包まれた家庭環境を連想。幼いころから、怒りの感情をコントロール。それが他者への知的批判に置き換えられ、学者としての出世につながる。また、成功は両親の目を引きつけることにもなる。しかし、業績づくりと、ポストの獲得が終わると、その必要がなくなる。今や、他人を批判するだけでなく、自分自身の言葉を創造する必要があったが、そのための資源が自分にはない。
 治療の過程で、怒りの感情が噴出。1日1時間、怒りの言葉をタイプライターに打ち込むようアドヴァイス。それが1ヶ月続く。やがて、自分が見逃していた重要なテーマが見つかり、本の執筆が完成。
 マーティンは宗教的でない人。そこで、人生観について尋ねてみる。学生のとき、宗教は馬鹿にすべきもの、非難すべきもの。世界はニュートン物理学を反映したようなもの(アインシュタイン以前の、絶対時間と絶対空間に規定された、スタティックな宇宙。主体と切り離された客体としての宇宙)。「われわれの生きる現実がいかに無意味か、にもかかわらず生きる理由を見つけなければならないという恐怖にかられながら、それをごまかし、やり過ごす。そういう無数のやり方を記録することこそが、現代小説のテーマなんです」。彼の人生も、真理の終わりなき探求、徒労に終わるような探求。
 ジョーンズに対して、距離をとり、感情を抑制。ジョーンズの共感と理解を馬鹿にし、怒り、皮肉る。ジョーンズはその怒りを奨励する。そのうち、ジョーンズのほうこそ感情を抑制しているではないかと、マーティンは非難。その時、「ジョーンズは真理から彼を遠ざけている」「小説は真理から彼を遠ざけている」「両親は彼を遠ざけている」のあいだの平行性が気づかれる。そして、それらすべてへの怒りに気づく。学問的追及を怒りのはけ口にしたり、そこに無い物ねだりをすることの不必要さに気づく。
 「世界観が変わりました。世界は、別に何かを隠しているわけでもないし、私が真理を発見できるかどうか、試しているわけでもありません。そこには創造やエクスタシーもある。異なった作家が現実の異なった側面をとらえ、異なった批評家たちがそこからそれ以上の意味をくみ取り、創造してゆく。私はそこで、仕事をすることに満足を覚えます。別に「答え」(究極の真理)を見つける必要などないのです。何もないところから何かが生まれてくるこの宇宙は、神秘です。そこで創造することは、私たちを人間的にしてくれます。」
 冷たい親子関係と戦闘的無神論と、執筆のスランプ。人生の神秘と複雑で豊かな世界観と、執筆を通しての無限の創造への参入。

 懲罰的な神のイメージが幼児期に作られやすいことは、何人かの心理学者によって観察されている。幼児の無力さ。苦痛を感じたとき、悪いのは私だと考えて、意味づけする。それによって、自分が依存している外的対象は「良い」と見なすことができる。
 ジョーンズの症例は、治療者や神への転移が、幼児期の対象関係の単なる反復ではないことを示している。たとえば「受容の発見」という転移は、過去において現実にはなかったもの、果たされなかった希望が転移されたのであり、それは反復というより再創造と呼ぶべきものである。そうして、転移を通じて対象関係が変わることによって自己感覚が変わる。自己対象の機能が、自分自身に対する態度に変容する。このとき、神の今まで見いだされていなかった別の側面が発見される。たとえ、現実の親は変わらなくても、無限に柔軟な神は、自己の参照基準として、発達とともに再創造される。絶対化されなければ……。

第9回(20000623)
レポート提出について
 次回で講義は終わり。翌週の7月7日に教室でレポートを回収する(レポートは任意提出)。確認するが、レポート提出は出席率6割以上のものに限る(欠席4回までは許容範囲)。それ以下のものは未受験扱い。なお、出席日数の確認には応じない(まだ集計していないので)。レポートのテーマは自由だが、必ずこの講義の内容に関係していること。枚数は自由。なお、7月7日は出欠をとらない。人数によっては、口頭で議論するつもり。早めに終わる可能性もあるので、レポート提出者は遅刻しないように。

質疑応答
 共感的なコメントが多いなかで、立正の学生らしい辛口のコメントを一挙にまとめてみる。

「セラピーは人間がやることだし、悩みも人間関係のものなので、宗教の存在は必要ないのでは」「神イメージを変えるより、神を否定したほうが楽。第一、神は存在しないのだから」(→ジョーンズはあとから神イメージについて聞いただけ。それをセラピーの素材にはしていない)「信仰をもつから余計な苦しみが生まれるのではないか」「宗教が身近でない日本人の場合はどうなのか。日本人での類似の症例はあるのか」「日本の場合、人に受け入れられたいと思う人は、セラピーに通わず、宗教に入信するのではないか」「自分を受容して欲しいだけで、本当は神なんかどうでもいいんじゃないか」

「ハロルドが宗教を積極的に勉強とあるが、これはもはや外道である」「自分流の神解釈の危険はないのか」「結局、自分の都合に合わせて神概念を変化させているのではないか」

→前半は宗教に無理解な人、後半は絶対信仰型の宗教観を持つ人。一定の割合で根強くいるので、これらの人に対応した宗教学概論が必要だとあらためて思う。前者は、宗教なんか信仰する人は、何かに頼りたい弱い人だ、という典型的な日本人の宗教観。これ自体が現代の「見えない宗教」ではないか。マーティンの症例にもう少し注意せよ。なお、日本人で宗教絡みの症例は、大体「精神病理」として考えられていて、精神医学の分野では論じられている(cf. 小田晋)。日本のセラピストのなかで、信仰に理解がある人はほとんどいない。信仰に関係のある悩みを抱えている人(カルト問題を除く)は本当に困っている。
 後者の自分勝手に神を利用しているという指摘は、全くその通りだと思う。これはプラグマティックな宗教観と言える。しかし、そうでない信仰者など本当にいるのか。逆に、症例の人たちのなかで、神は心的現実として生き生きと活動し、変容してゆくさまがうかがえるのに対し、絶対信仰型の宗教はこうした個人の心のなかで生きている宗教を抑圧するものではないか。その崇拝対象は変化に乏しく、実は「死んでいる」のではないか。なお、絶対信仰型の仏教観では、智慧のモメントはどう理解されているのか。

「受容とひとことで言うが、実際には結構難しいのでは。どこまで本当にその人のことを理解できるのか」
→受容の基準は確かにない。しかし、受容の努力があり、「受容されている」という実感があれば、十分ではないか。

講義
 前回は四つの症例に即して、対象関係と神表象と自己感覚が連動しながら変化するプロセスを見てきた。今回は、それぞれのケースで、治癒=変容がどのようにして生じたのかについて考える。

ハロルド
 従順で防衛的な自己と、スコア記録係としての「神、母、妻」のセット。自己主張をすると、遺棄不安(見捨てられるのではないかという不安)に。ジョーンズに、自己主張を進められると、遺棄激怒(命令してくれない、俺を見捨てるのか、という怒り)。「ハロルド、君は息子達のことをどうしたいのかな」「君は職場の状況をどう変えたいのかな」とつねに尋ねる。そして、アドヴァイスをいっさいしない。ハロルドは怒る。さらに、怒りの奨励、怒りの意味を指摘し続ける。現実の母親、妻は変わらないが、彼の神は、要求・支配する存在ではなく、自発性を尊重し、励ます存在に。
 アドヴァイスの要求、アドヴァイスしてくれないことへの怒りは、「母―神―妻」への感情・態度が、ジョーンズに転移されたことを示す。怒りという転移を逆に勧めることで、対象関係が変容する。これは、転移の利用を意味する。治療者が鏡となって、怒っている姿を映し返す。それによって、怒りの意味を理解させる。つねに、他人に振り回されていると感じていたが、実は自分がそれを要求していたのだ。自己理解のずらし。
 怒りすらも受容し、ハロルドの自己主張を助長する治療者が、自己対象となって、ハロルド自身の自己構造が再創造される。つまり、自らの受動性のパターンを洞察し、健全な自己主張ができるような自己に。

シルヴィアとバーバラ
「虐待→罪悪感」のメカニズム
・自分が依存している人間を悪と見なすことは苦痛なので、自分が悪いと考える。
・虐待が起きたのは、自分が唆したからだ。
・自分は悪い人間なので、つらい目にあうのも当然。
・他者から理解され、受け入れられたり、自らが幸せになることは、以上の図式を揺るがすことになり、虐待の再定義を促すことにつながるので、抵抗。
 ユダヤ・キリスト教における懲罰的神観念の形成プロセスと類似。民族迫害の歴史から、迫害されるのは自分たちが罪を犯したからだと結論(神義論)。実際には、キリスト教のなかには、それを越える愛と許しの言語が用意されている(イエスやパウロの律法主義批判)。しかし、これらの言葉も幼児期・思春期においては、怒りと拒否の感情という文脈の中で理解され、内面化されてしまう。自己の形成や歪曲に決定的影響を与えるのは、認知的内容ではなく感情的性格ということ。そこで、彼女達の場合、宗教を通して、
・許しを希望しては、それが果たされないものであることを思い知る
というメカニズムが付け加わる。
 ジョーンズの受容的態度を望むと同時に抵抗。「あなたにそんなつもりはないでしょ」「仕事だからそういう態度をとっているだけだわ」「本当の私を知れば、きっと私のことを憎むはず」
 愛や受容という言葉自体は、家庭環境や宗教的環境のなかでこれまでも聞いてきたが、つねに冷酷な響きがあった。ハロルドの場合と違って、シルヴィアとバーバラにとっては、自律性への努力を励ます自己対象よりも、真に共感的な自己対象の働きをするような神が必要だった。シルヴィアの「神の愛が直接役立ったのではなく、自分が自分自身を受け入れるようになってはじめて神の愛に気がついた」という発言の理由(神の愛は言葉だけで生きていなかった)。教義のレベルと、それがコミュニケートされる対象関係の文脈のレベルの違いに注意。治療者が共感的自己対象の役割を果たし、それが内面化されて、自己受容と自己理解が可能に。そうしてはじめて、愛や許しの教義が再発見される。
 「私が以前好んだ聖書の物語は、ソドムとゴモラに対する神の罰でした。それから洪水の話などは、子どものころに何度も読み聞かされていました。しかし、私は先日、神が世界を破壊したことを後悔したと書いてあるのに気がつきました(罪を犯して滅んだ人のために苦しみ、悲しむ神)。また、イザヤ書を読んでいて、神の手のひらには私の名前も書かれているんだ、ということが分かりました。私はそれを読んで泣きました。どうしてこのことを誰も教えてくれなかったんだろう。神がご自分の破壊性を後悔しているのに、なぜ私の家族や牧師には、それができなかったんでしょうか」
 宗教の立場では、因果応報は徹底されなければならない。さもなくば悪が許されてしまうから。しかし、それはまた、悲しいことでもある。そのため、自らが犯した悪を罪として認めた者には、神の恩寵によって、許しが与えられる(悪は許されないが罪人は許される)。これが、キリスト教の許しの教義。しかし、家族も牧師も、罰が下るという部分だけを強調した。そのことが、「虐待を受けたのは自分が悪いからだ」と信じ込むような心理的メカニズムを強化した。「虐待→罪悪感」のメカニズムを断ち切るためには、実際に、治療者に受容されたと感じる体験が必要だった。これも転移の利用の一例。「自分は受容されない、他人には分からない」と言って、他者を拒絶して孤立するというパターンを、治療場面にも持ち込むが、それは受容の要求でもある。実際に受容されることで、パターンは崩れてしまう。

マーティン
 他者に対する彼の辛辣な発言を、ジョーンズは「怒り」として解釈。しかし、マーティンは「客観的な評価だ」と反論。そこで、信頼関係が育つまで待つ。すると、ジョーンズへの批判。「心理学は人文科学でもなければ自然科学でもない中途半端な学問」「机の上が片づいていない」「前回話した内容なんて覚えていないんでしょう」。ジョーンズは、何とか防衛的にならずに答える。マーティンの言うことに同意し、批判してくれたことに感謝。「批判→防衛→再批判」というパターンをずらす。
 学問的批判は、実は怒り。怒りは、実は人間味あふれた関わりへの欲求から発している。人間味あふれた関わりを望んでいるのに、遠ざけられているという怒り。(しかし、ここで「人間味あふれる関わり」をジョーンズが演じて見せても、マーティンは乗ってこないだろう。この点が先の事例と違う点。マーティンの場合、クライエントが望んでいることを、かなえてあげるという図式は成功しない)
 治療の転機は、「ジョーンズのほうこそ、感情を抑制して、自分を遠ざけているのではないか」という怒り。親に対する関わり欲求の転移。同時に、彼自身の世界との関わり方をジョーンズに投影している。したがって、ジョーンズへの怒りは、同時に自分自身への怒りでもある。世界と関わらない態度、自分の優越性をアピールしあい、批判を応酬しあう態度、それは、彼の両親の態度でもあり、彼自身の態度でもあった(自己対象の変容性の内面化)。そのことに気づくことで、それが相対化される。そして、実は自分が心底望んでいる、「世界や他者との人間的関わり」の可能性を追求するほうに転じる。治療者への転移は、最初は幼児期の対象関係の反復だが、それがこれまでになかった全く別のものに生まれ変わる。転移は、対象関係の反復であるだけなく、絶えざる再創造の一環という主張を裏付ける。

 今日のテーマは治療のダイナミズムを理解することだが、ここまででジョーンズのもっている宗教観の雰囲気が伝わってくる。もちろん、それはクライアントとの相互作用の結果なのだが、これが従来の宗教理解にどう関わってくるのか、フロイトの宗教論とどこが違うのかを、次回は考えてゆきたい。

第10回(20000630)
事務連絡:レポート提出に関しては前回のプリントの冒頭を参照。それから確認しておくが、最初の3回の授業に出席していない人は未受験扱い。それから今日までの授業の出席率が6割未満の人も未受験扱い。

質疑応答
 ジョーンズの症例を見ても、宗教は別に関係ないんじゃないかと思った人は、前回の質疑応答にもあった通り、「ジョーンズはあとから神イメージについて聞いただけ。それをセラピーの素材にはしていない」ということを確認するように。患者の個々の悩みと解決に宗教が直接的に関わっているというのではなく、あとから聞いたら、信仰上の心境の変化も連動して起こっていたということ、そこから間接的に宗教が関係していたことを示しているだけ。まして、ジョーンズは「宗教を使って」(?)治療しているのでもない。この点について、もう少し深く考えてくれた人のコメントを紹介。
「治療を受けるしかなくなってしまったことも治療が必要でなくなったのも、すべてはじめから神は関係していなかったように思う。自分で悪いほうに考えすぎて自分を苦しめていただけなのに、神の名を出したり、立場を利用してごまかしていただけだと思う[?]。だから気持ちが落ち着いて、自分で自分の本当の姿を理解できたとき、自分を受け入れられたという安心感と満足感から、神への感謝の気持ちがわいてきて、それを神の愛と感じているのだと思う。」
 最初の文章で「神は関係していなかった」と言っておきながら、この人は、私が上に書いた宗教の間接的関与を説明してくれていると思います。
 また、ジョーンズは宗教に肯定的だ、好意的だ、でもセラピストはそういう考えを押し付けてはいけない、などと考えている人も、まず上の回答をふまえたうえで(セラピーで宗教を使っているわけではない)、ジョーンズは宗教に肯定的だとか批判的だなどと本当に言えるのかどうか、確認してください。むしろ、ある種の宗教に批判的であり、ジョーンズが好ましい宗教性と考えているものは、通常の宗教概念とは食い違うことを確認して欲しいと思います。授業の最後のほうでこの問題を扱います。

講義
聖なるものの心理学
 これまでの症例で、聖なるものの感覚と対象関係のあり方が連動していることがわかった。従来の宗教心理学の立場は、心理学的還元主義である。つまり、聖なるものの感覚・経験は心的力動によって決定されると考える。しかし、ジョーンズは、両者は相互作用するものと考える。そもそも初期の対象関係自体が、聖なるものの感覚・経験と近い構造を持っている。そして、成人してからの聖なるものの経験は、初期の対象関係の再創造(反復ではなく)である。
 まず方法論的問題について。ジョーンズの立場も一種の心理学的還元主義ではないか。神的存在と人間とは異なる秩序に属するのであり、「人―神」の関係が「人―人」の関係と類比されるとなると、神的存在は人間的次元に引き落とされてしまう(還元されてしまう)のではないか。
 これに対して、ジョーンズは、神的存在の実在・非実在の証明は心理学の仕事ではないとする。あくまで人間の側での聖なるものの経験が出発点である。「神的存在」と信じられているものが経験されるときに人間の側で起きているのは、あくまで聖なるものの感覚であり、聖なるものそれ自体ではない。問題となるのは、神的存在そのものと心的力動との関係ではなく、聖なるものの感覚と心的力動の関係なのである。そして、両者は相互作用するものであるがゆえに、その変容は連動して起こるのであり、また内容的には類似のものとなるのである。このような、聖なるものの経験と心的力動の類比は、神的存在の実在・非実在の証明には関わらないという方法上の限定ゆえに可能になった発見であって、心理学的還元主義ではない。
 ところで、オットーによれば、「聖なるもの」の感覚とは、理解や把握することができないような絶対的他者に対する反応としての「戦慄すべき神秘」の感覚である。暗やみで正体のわからない物音を聞いたときに恐怖の感覚が起きるという場合、経験されているのはその物音の正体ではない。また、物音がどうして起こるのかがわかれば、恐怖は解消されるので、物音それ自体が恐怖なのではない。恐怖は、ある状況で物音に触発されて、私の側に起こる経験の特徴に過ぎない。この恐怖は、物音の正体や物音が起きた理由が分かれば解消されてしまう。聖なるものの経験も、その対象が神的存在として概念化され、その作用が合理的に説明されて、教義として固定化されると、その戦慄すべき神秘という特徴は失われてしまう。神的存在の聖なるものが再び感得されるためには、教義の殻がいったん融解しなければならない。
 ところで、乳児における母親もまた、最初から母親として同定されているのではなく、母親との関係のプロセスが経験されているだけである。そのような経験とそこでの応答=情動が、自己の母体となってゆく。ジョーンズは、このような、自己がそこで創造され、再創造され、変容するような、絶対的他者との関係を、ボラスに倣って「変容的対象関係」とする。
 したがって、初期の対象関係の経験とそこで生起する情動は、聖なるものの経験やそれによって喚起される聖なるものの感覚と、同形の構造を持っていると言える。これは逆に言うと、対象関係を通じての自己の創造・再創造・変容が、成人してからも起こるとすれば、それは、聖なるものとの出会いにおいてである、ということになる。もっと正確に言うと、聖なるものとの出会いとは、発達の初期段階における基礎的経験への回帰である。それは、治癒における劇的転換が、生まれ変わりの様相を呈していたことからも分かるだろう(ここで言う「聖なるもの」が必ずしも狭義の「宗教」に限定されないということに注意)。
 対象の経験は必ず情動を喚起し、その記憶は必ず情動を伴っている。外傷的出来事を含むかもしれない初期の対象関係は、それとして想起されなくても、その時の情動は、やがて他の何かのきっかけでも喚起される(転移)。そして、そのたびに対象関係の経験における情動の主体としての自己も喚起される。
 他方、われわれは通常、対象を知覚しているのであり、感じているのではない。このような自己は、対象を「それ」として知覚し、道具的に利用する自己であり、対象を「汝」として受け止め、感じる自己ではない。それは動かざる基準点としての自己である。だが、「我―それ」関係の世界への適用が行き詰まると、「我―汝」関係が探求され、そのような汝との関係において、情動の主体としての自己が喚起され、再創造される。[我の流動化]
 新たな対象関係が模索されるべきとき、自己が変容する必要があるとき、初期の変容的対象関係への回帰が起こる。しかし、それは現在の新たな対象関係の布置のもとで起こる(転移)。そして、古い対象関係――それはもはや変容的というよりは固定的で、「我と汝」の関係ではなく、偶像崇拝的関係になっている――は新しい変容的対象関係のもとで、更新される可能性がある。これが、聖なるものとの出会いにおいて、そして治療の場面において起こっていることである。ただ、違うのは、聖なるものとの関係は「永遠の汝」との関係であり、このような変容的対象関係の探求は、人生を通じて終わることがないということである。

ジョーンズの宗教論の考察
 前回までの症例の記述と、今回の「聖なるものの心理学」から分かる、ジョーンズが好ましいと考える宗教性のあり方とはどのようなものだろうか。まず、変容的対象関係(我と汝の関係)と、偶像崇拝的対象関係(我とそれの関係)の区別がある。このことから、ジョーンズは偶像崇拝批判を展開していることが分かる。それは、崇拝対象を絶対化することで、自己のあり方を固定的にしてしまうことを意味する。崇拝対象が融通無碍であるという立場から、一定不変ではない自己のあり方、今とは違った自分への生まれ変わりも可能になる。
 さらに、症例からほのかに見えるのは、権威主義的宗教の批判である。具体的には、懲罰的神表象よりも受容的神表象のほうが好ましいと考えている。懲罰的神表象が病原的であると考えられていることは、最初の3つの症例から明らかである。ここであらためて考えて欲しいのは、フロイトの宗教論も、実は権威主義的宗教批判だったということである。ジョーンズは、フロイトの宗教論を部分的に継承しているといえる。しかし、フロイトを補うためにジョーンズが持ち出してきた受容的な神は、どこか「都合のいい神」という印象もある。別の仕方で、権威主義的宗教批判を遂げたうえで、好ましい宗教性のあり方を提示しているものとしては、フロムの『精神分析と宗教』があげられる。それによると、「権威主義的宗教」は、人間が良くなることをどこかで妨げているとされる。人間はどこまでも「悪い」のであり、だから服従しなければならないとするのがその特徴である。それに対し、「人間主義的宗教」は、人間を育み、「良く」するような合理的権威を奉じるものである。なお、この場合の「宗教」は「教団」ではなく、個々人の心理的態度を指すものである。フロムは仏陀の態度に、この人間主義的宗教の典型を見いだしている。


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