宗教心理学2003
宗教心理学は、「宗教」を特定の教団を指す名詞としてではなく、個人性や力動性の視点からとらえ返す学問である。授業では、グループ・ディスカッションを取り入れながら、宗教体験の分析と評価と議論を行い、みずからが暗黙に持っている「宗教」への気づきを促す。そして、それを生かしながら、宗教心理学の理論についてコンパクトな紹介をおこなう。
1 子どもの宗教体験の事例
アニミズム、祈り、親イメージと神表象
2 ファンタジーとポップ・カルチャーの分析
サンタクロースの表象、物語の構造分析、英雄神話
3 虐待と懲罰的神表象の関連の事例
権威主義的宗教、罪と許し
4 青年期における回心の事例
ピーク・エクスペリエンス論、回心論とマインド・コントロール論
5 死の受容に関する事例
死の心理5段階、臨死体験、対象喪失
1 子どもの宗教体験の事例
子どものアニミズム・目的論の事例をめぐる討論
ピアジェの意見と変わらないもの
「子どもは自己中心的なので、自分と同じような意識があると考える」「あったらいいなと考える」
cf. ピアジェの意見=2〜7才の幼児は、自他の区別がはっきりしておらず、他者の視点に気づかない(自己中心性)。物や自然現象にすら意識を認めてしまう。
「稲を育てる農家の人が愛情を込めるように、対象がこちらの働きかけに答えてくれると思わなければ、無生物的な対象に働きかけたり、愛着をもつことはない」
「普段から接するものはとくに、意識があると感じられる」
社会的学習の立場
「アニミズムは、子ども向けの本や教育によるものだ」と断定
「すべてのものは生きているというのは、大人が物や生命を大事にするように教える過程で植え付けられる」
「科学が発達していなくて、大人もアニミズム的発想をもっている社会なら、10才になってもアニミズムは消えない。アニミズムは科学の学習が未発達であることを示す」
〜科学主義の現代にあって、なぜ子ども向けのメディア(絵本、テレビ、物語など全般)はアニミズムを残すのか。それは、子どもに受け入れられやすいからではないか。だとすると社会的学習では完全に説明できない。子どものある発達段階では、アニミズムがとくに受け入れられやすいということ。
「小さいうちは、自分との同一視による。大きくなると学習の割合が増える。もっと大きくなるとお話の世界と現実の世界とを使い分ける」
「成長しても、人形を捨てにくいなど、アニミズム的発想は残る」
〜科学の世界にもアニミズムに似た「言い方」はないか。「宇宙の誕生」「星の一生」「水かきを進化させた」「ハチのダンス」。未知のものを理解しやすくするために、われわれはアニミズムを使う。
〜他人の心を理解するということも、アニミズムの延長線上にある?
cf. 「心の理論」他者の心を理解することは、4歳児で一応完成。「この子は間違ってこうだと思い込んでいるからこう言っているんだ」など。状況証拠から推論。
太陽には意識がないと答えるのに、なぜ風には意識があると答えてしまうのか
「風の吹く原理がわからないから、自発的意志を持っているとしか考えられない」「目に見える影響を与えるから」「動きが変則的だから。太陽や月のように規則的ではない」
小さいころのエピソードの紹介
「月があとをついてくる」「雨は神様の涙」「太陽に顔を描いていた」
ロバート・コールズ『子どもの神秘生活』から
「神の顔」に関する事例
概略と授業におけるレクチャー
・金髪の子どもの描く髪はやはり金髪、黒髪の子どもなら黒髪の神
・自分と似たものととらえる
・フロイトの説=神表象は親イメージの投影
・しかし、ここでは自己イメージの投影
・神や道徳など親も従うような超越的規範を内面化することによって子どもは親から自立するということ
グループ・ディスカッションの結果
・貧しいと神が出てきて救ってくれると考えるが、現実には自分で解決しなければならない。
〜子どもにどうやって?
・子どもは[無力なので、力のある]大人よりも、絶対的存在を身近に感じていたいと考える。
・子どもの神イメージの形成はアニミズムと似ていて、自己中心的であるがゆえに、自分の特徴を神に投影する。
・発達が進むと、自己中心性が失われ、また偶像崇拝を禁止する教義も学ぶので、イメージするのは難しくなる。
・神のイメージがそれぞれ明確でオリジナリティがある。日本ではこうは行かない。
〜比較文化的な論点へ。次の意見はその理由の一つ
・宗教教育の機会が多いと神イメージは多様になり、日本のように少ないと画一的になる。
〜宗教教育が進むと画一的になるという見方とは逆。次はやや角度の異なる理由。
・アメリカは人種問題があるために多様になるが、日本にはないので、仏の像についても仏教内部ではあまり問題が生じない。
〜cf. ガンダーラ美術。
・日本人のクリスチャンの子どもが神の絵を描いたら、日本人に似たものにはならず、西洋人らしい神になるだろう。
〜日本のキリスト教の特殊性が浮き彫りになる。参考までに、仏教系の大学で神・仏・先祖・天使などから好きなものを選んで描けという課題を出したところ、そのなかで「神」を選択したもののなかには、圧倒的におじいさんが多かった。どちらかといえば仙人のような。聖心で同じ課題を出したところ、ほとんど天使を選択し、子どものような絵を描いた。性格に関する描写を読むと、自己イメージのなかでもピュアな部分が取り出されたような印象を受けた。
・神というとほとんど男性として描かれるが、今回の事例でも基本的に男性である。これは子どもであっても、神様は男性であるという固定観念が植え付けられているということではないか。
・動物や自然物(植物)等に神をたとえる人は少ない。
〜何年か前の上記の課題で、ある聖心生は山の中腹を鳥が横切っている絵を描き、「神=大自然」と書いた。
・日本人の子どもについての事例はないのか。無宗教の子どもがどのような神を思い描くのか知りたい。
〜いまのところ書籍のたぐいでは見つかりません。小さな雑誌論文や学位論文ならどっかにあるかも。誰か卒論でやりませんか? なお、次回はサンタクロースについて、皆さんの記憶を頼りに考えてゆきたいと思います。
・神のイメージは、形があるとは限らない。
〜方法論的な問題につながる。絵を描かせるという限定された条件では、漠然としたイメージをとらえることができず、日ごろ見慣れているイメージが付与されやすい。また子どもの描画能力の限界、という問題もある。
サンタクロースをめぐるディスカッション・個人メモ用
<共通課題>
サンタクロースの実在を信じていたかどうか
何歳ごろまで
何をきっかけに信じなくなったか
そのとき、どのような気持ちを抱いたか
自分に子どもが産まれたとしたら、サンタクロースを信じさせるか
サンタクロース以外に、子どものころ信じていたが、今は信じていない存在はあるか
結局のところ、サンタクロースは、自分にとってどのような存在だったか
<選択課題>
1 サンタクロースを信じさせようとする親は、なぜそうするのか
2 サンタクロースを信じることは、子どもにどのような影響を与えるのか
3 日本でクリスマスやそれにまつわるプレゼント交換が根づいたのはなぜか
4 「宗教的崇拝対象への信仰」、「実在を信じていない空想上のキャラクターへの愛着」と比べて、「サンタクロースに親しむこと」はどのような特徴を持っているか。
サンタクロースをめぐるディスカッション・グループ提出用
グループのメンバーの学籍番号と氏名
<共通課題>
サンタクロースの実在を信じていたかどうか
何歳ごろまで
何をきっかけに信じなくなったか
そのとき、どのような気持ちを抱いたか
自分に子どもが産まれたとしたら、サンタクロースを信じさせるか
サンタクロース以外に、子どものころ信じていたが、今は信じていない存在はあるか
結局のところ、サンタクロースは、自分にとってどのような存在だったか
<選択課題>〜選んだ課題に○をつける
1 サンタクロースを信じさせようとする親は、なぜそうするのか
2 サンタクロースを信じることは、子どもにどのような影響を与えるのか
3 日本でクリスマスやそれにまつわるプレゼント交換が根づいたのはなぜか
4 宗教的崇拝対象への信仰、実在を信じていない空想上のキャラクターへの愛着と比べて、サンタクロースに親しむことはどのような特徴を持っているか。
サンタクロースをめぐるディスカッションの結果
<共通課題>
サンタクロースの実在を信じていたかどうか
→信じていた:57名(90.5%)、6名(9.5%)
何歳ごろまで
→平均:7.86歳(ただし小学1年生を6歳として)
何をきっかけに信じなくなったか
→人からの影響が多い。友達(兄弟含む)>親>物証。
〜年齢が高くなると信じなくなるというのは、認知の発達だけでなく、社会的な学習もある。つまり「実在しない」という意見を学習。
そのとき、どのような気持ちを抱いたか
→ショック>悲しい>やっぱり。「感謝」という少数意見も。
自分に子どもが産まれたとしたら、サンタクロースを信じさせるか
→100%信じさせる!
サンタクロース以外に、子どものころ信じていたが、今は信じていない存在はあるか
・しつけのための方便
悪い子を捕まえる「たけやさおだけ」、ご飯にお箸を立てると蛇が来る
・ファンタジーのキャラクター
ドラえもん、キョンシー、秘密のアッコちゃん、変身する正義の味方キャラ、スーパーサイア人(ドラゴンボール)、架空の生き物(ムーミンのニョロニョロ)、乗り物(空飛ぶじゅうたん、『風の谷のナウシカ』のメーヴェ)、トイレの花子さん、トトロ、まっくろすけ、ウルトラマン、ディズニーランドにいる着ぐるみ
・霊的・神的存在
お化け、霊、幽霊、河童、鬼、妖精、歯の妖精、魔法使い、閻魔様、枕の神様、雷の神様、こっくり様。お雛さま(魂が宿っていると信じていた)、織り姫、彦星、きつねの嫁入り
・超常現象
サイババ(の力)、ナマズの地震予知、ネッシー、ツチノコ、ノストラダムスの大予言、寝ているあいだにおもちゃが動くこと
〜ファンタジーのキャラクターの実在が多数信じられていたことにびっくり。世代の違い?、大学の特殊性? なお、今も信じているものとなると、霊魂の存在や輪廻転生や超常現象が上がってくるだろう(cf.
宗教社会学での結果)
結局のところ、サンタクロースは、自分にとってどのような存在だったか
プレゼントをくれるやさしい存在、安心できる、守ってくれる、見守ってくれる
夢をくれる、どきどきわくわくさせる
イベントを盛り上げてくれる存在
神様に近い、人間の心を見通す存在(普段の行い、欲しい物)、監視役。大人なら「神が見ている」と信じるところ、子どもは「サンタが見ている」と信じさせられる。〜懲罰的神表象に代わる恩恵的神表象を担う存在?
昔話の中の存在、北欧に住むおじさん
遠い存在
<選択課題>〜選んだ課題に○をつける
1 サンタクロースを信じさせようとする親は、なぜそうするのか
・子どもに夢を与えるため。
・想像力を豊かにする。醒めた子どもにしたくないから。
・自分を見守る存在や、愛してくれる存在がいることを教え、自分以外のものを愛することができる人間にしたい。
・文化的環境への適応、同調。子どもに合わせているだけで親が信じさせようとしているのではない。
・クリスマスを楽しくお祝いするため
2 サンタクロースを信じることは、子どもにどのような影響を与えるのか
・普通の人間を超えた存在がいることを認識させる。
・安心感が得られる。心の支えが得られる。
・想像力豊かになる。
・「いい子」になろうとする。自分を見つめたり振り返るようになる。自分に正直になる。
・実在しないと知ったときの葛藤が心の成長を促す。
3 日本でクリスマスやそれにまつわるプレゼント交換が根づいたのはなぜか
・西洋化の一環のなかでの企業戦略
・キリスト教の影響
・子どもに夢を与えたいという親の願い
・年末なので気分が盛り上がる
〜子どもを中心とする贈与の慣行は、これまでなかった(大人同士はお歳暮)。近代家族の誕生と、そのかなめである「子ども」の発見。家族の地位の向上=子どもの教育。西洋文化への親しみ。
4 宗教的崇拝対象への信仰、実在を信じていない空想上のキャラクターへの愛着と比べて、サンタクロースに親しむことはどのような特徴を持っているか。
・宗教的崇拝対象との比較。存在が遠くない、宗教色が薄いので、親しみやすい。御利益があるために親しみを覚える。プレゼントなど物質的なもので確認できる。
・キャラクターとの比較。季節もの。つねに愛着が向けられているわけではない。プレゼントによる手ごたえ。人間的。現実味。崇拝とまでは行かないが神様的な存在。
総評
「見えない宗教」としてのサンタ
特定の教団宗教との結びつきの弱さ
プレゼントを買い与えるという経済現象と「恩寵」「愛」という宗教的概念の混合物
イベント性。「宗教」は信じないが宗教的「行事」には参加。
近代家族のイデオロギー。「良い子」を作るための装置。
現代民話・都市伝説・学校の怪談
参考資料
・松谷みよ子『現代の民話』(中央公論新社)
・岩倉千春他編著『幸福のEメール』(白水社)
レクチャーの概要
「公害を知らせる河童」の事例、学校の怪談の事例
・世代間の「民話の伝承」から、プライヴェートなメディアとしての「民話の生成」へ
・学校の怪談の特徴
人物像にまつわるもの、教室外の特別な空間、戦後から低年齢化(思春期の始まりと連動?)
ディスカッションの概要
どうして発生するのか
「夜、生徒が学校に来ないように先生が流した噂」
〜生徒を不安がらせるような噂を先生が流すということは現実的にはあり得ない話。もっと深く考えるように。
「真偽を判断するのが難しい年齢だから」
〜かつては高等師範学校などの寮生が担い手だったことは説明できない。
「科学的知識がないから」
〜中学生にもなれば、霊は科学的には証明されていないという話くらい聞いたことはあるし、理解することもできる。
「他に大した話題がないから」〜遊びや好きなテレビ番組などいくらでもあるのでは
「友達と話題を共有できるから」〜別に怪談である必要はない。うわさ話全般に関わる理由。
「学校生活は単調すぎるので、刺激があればいいという願望が背景にある」
「非日常的な恐怖や神秘に好奇心がある。しかし、打ち消したい気持ちもある。うわさ話として怖がりながらも楽しむことで、好奇心を満たすと同時に、既知のものとして消化する」(教官の方でまとめ)
要するに「怖いもの見たさ」
現代という時代になぜ
「現代人の生活は差し迫った恐怖が少なくなってきているので、犯罪や狂気や霊現象に敏感になりやすい」
「昔の話は、座敷童など、恐怖感をあおるだけのものではなかった。河童などは愛嬌がある。怨念や祟りが多い」
〜祟り信仰自体は菅原道真以来。しかし、きちんと奉ることで神様に。今昔物語など説話集は仏教的教訓を伝えるのが目的。浮かばれることのない怨念を語るような怪談が民衆レベルで流布するのは江戸あたりから。現代に入ってマスコット的な妖怪についての話が少なくなったのは確か。それはマンガやアニメのキャラクターによって取って代わられたのかもしれない。
類話が同時的に発生するのはなぜか
「学校という環境が全国各地どこも似通っているから」
「今は、テレビ番組などで怖い話が紹介されることがあるので、伝播ではなく同時発生だとは言えない」
取り上げられたパターン以外の話
「防空ごうに霊が出る」
「小学校の隣の浄水場に死体が入っている」
「学校から人骨が出てきた後、夜中に人骨が走っていたという話が出た」
「学校の機材室に兵隊の幽霊が出る」
「4時44分44秒に旧音楽室(4F)の白い壁に手を突くと引き込まれる」
噂に関する先行研究
・曖昧な状況にともに巻き込まれた人が、その状況について有意味な解釈をおこなおうとするコミュニケーションが繰り返しなされると、流言が生じる(T・シブタニ)
・不安を感じやすい人は、流言に接触したり、聞いた流言を次の人に伝えることが多い。
・内容が重要であるほど、本当らしいものであればあるるほど、伝えられやすくなる。
・都市伝説は流言と異なり、真実性は問題とならないし、説明を要する曖昧な社会的状況は存在しない。時間や場所が違っても起こりうるような内容の話、相手に伝えたときに新鮮な反応が得られる話が、淘汰されて残ってゆく。
総括
・学校教育の状況。画一性、単調さ。強い管理。表と裏。
・思春期という発達段階の特性。不安特性が強い?
・科学主義の問題性。「サンタがいないことを自分で確かめる」のではなく、「サンタはいないということを人から聞く」。無神論は、学習によって得られるもの。自然には結論されない。
・信仰が当たり前の時代「神は本当はいないのではないか」と不安
無信仰が当たり前の時代「霊は本当はいるのではないか」と不安
・科学教育と霊の否定が教え込まれれば教え込まれるほど、「もしいたら」という恐怖と不安は高まる。
ポップ・カルチャーの分析
広範な支持を得ている宮崎アニメを題材にグループ・ワーク
〜多分『もののけ姫』
ねらい:ある種「宗教的」といえそうなキャラクターの分析
前期の成果
世俗化:物的現実か否かへのこだわり
→科学的世界観:現代社会の公式の教義
フィクション物語:現実離れしていても公にすることが許される
うわさ・怪談・都市伝説:インフォーマルな回路でより高い印象を喚起する物語が淘汰され、伝播する
サンタクロースという存在
期間限定。親は自分では信じないが子どもに信じさせたい。想像力ある子に育てたい。
信じられなくなった子どもに残されるもの
マンガ、アニメ、ゲームなどのファンタジー的世界
宗教なき現代日本人の宗教性を読む
分析の視座
・作者中心主義→作品中心主義→読者中心主義
・ストーリーの表層的読解→深層の構造分析→受容の多元主義と創造的批評
具体的な進め方
・4回に分けて作品鑑賞20〜30分
・10分間振り返ってまとめる
それぞれのキャラクターから受ける素直な印象を記述してゆく
ノートの取り方
時間:キャラクター名、言動とそれから受ける印象
毎回、キャラクター単位でまとめる
・グループディスカッションで意見交換
・全体で発表
・グループの意見をまとめたものを提出
評価:ノートチェック!!〜ルーズリーフやレポート用紙など提出しやすいものにノートする
(ノートは返却します)
もののけ姫・ディスカッションのまとめ
(「〜」の後は堀江のコメント)
シシ神
・アニミズムの象徴。死んだもの、生きているものの区別なく、すべてのものに生命がある。
・自然をアニミズム的に見たとき、自然の生命力を具体的に象徴するものとして、シシ神のような存在が現れた。
・死と再生の自然のサイクルの象徴。あるいは死と生の二面性。
・タタリ神を殺す力を持っているのだから、アシタカの腕の傷を治すこともできたはずなのに治さない。傷が治ったのは、シシ神の力ではなく、自然との共生が実現されたから。しかし、うすく残っている。これは、自然との共生が始まりであり、完全ではないものであることを意味する。
〜人間が生きようとする、死なないように努力する存在であるにもかかわらず、いずれ死ぬということ、そのこと自体は消えない、と読むこともできる。
・なぜシシ神の顔は人間らしいのか(^@y@^)←似てない。それはシシ神が森と人間の中間であることの現れ。生と死をつかさどるものには形など必要ないので、本当は形はどうでもよい。今回は人間と動物との戦いの中で出てきたので、人間と動物の融合した形で現れた。
・シシ神は、首を取られたら、すべての命を吸い取って巨大化する。生命の欲望の大きさを示している。シシ神は、結局、争いの元凶になっている。不老不死をもたらす存在であるからで、ここでも生命の過剰な欲望を誘う存在となっている。
〜シシ神は善で無垢な存在ではない。
こだま
・森が豊かな証拠であるこだまが、一番最後のシーンに一つだけ登場する。再生の希望の象徴。
・見たことのないキャラクター。自然の未知なる存在は脅威として描かれがちだが、プラスのイメージを感じる。自然の中には、支配するか打ち負かされるかのどちらかしかないというのではなく、自然のなかにはよく知られていない良きものも隠されていて、だからこそ自然との共生も可能であるというメッセージが読み取られる。
ヤックル
・言葉を話せない動物。言葉を話せるもののけとの違いは何か。
・飼いならされた忠実なペット。
・素直さ、従順さ。逆に、人間を嫌っているもののけは、人間と似ていて、欲を持っている。
〜もののけ、恐るべき神、人間のなかにある恐ろしさの投影。
人間でも動物でもないキャラクターが多い。
〜というか、それがほとんど。アシタカ、サン、もののけ、神
〜「人間/動物/自然」の区別ができる段階は、擬人法的アニミズム的段階を脱した段階。ファンタジーとして描くことで、われわれの擬人法的アニミズム的心性に知らず知らず訴えてくる作品
〜宗教史的に見ると、この後に抽象化された神が登場する一神教がやってくる。しかし、日本はこの段階を経ずに、一挙に人間が自然と動物を支配する文明化の段階へ。
アシタカ
・物語全体がアシタカのイニシエーション
〜少年であること。追放、居場所がない。最後にたたらばという共同体に落ち着こうとする。
〜しかし、完全な英雄神話の構造と一致しない。たとえば、怪物の首を切って捕らわれた姫をめとるという神話と比較すると、違いが分かる。
・境界的存在。人間と動物。
物語全体について
・人間は自然を支配することはできても、生と死をコントロールすることはできない。
〜ということは、人間も自然の一部ということ。自然の一部でありながら、自然を支配する力も持つ。だからこそ、共生しようとする意志も芽生える。
・サンは人間を許していないのに、共生は成立するのか。
〜完全な融和・一致は不可能。一致や同化を目指さない共生のあり方を提示。
・ともに生きていくことは大事だけど、違った生き方を尊重しあって生きていくことも大切。
〜排他的な同一性から他者性を認める親密性へ?
女性性について、サンというキャラクターについて
・女性の存在が大きな物語。女性の指導者。
〜少年とそれに影響力を与える女性たち。サンはユングの言うアニマで、エボシはアニムス?
cf. ナウシカは男の考える「少女」を理想化したロリコン映画としてフェミニストにたたかれた。もののけ姫はどうか。フェミニストがよしとするような方向に女性を持ち上げたが、女性を対象化する男性という構図そのものは変わっていないと見ることもできる。
・なぜ「もののけ姫」なのか。「もののけ娘」ではなく。
〜英雄神話との対比で考える。怪物に捕らわれた高貴な姫を、英雄が救い出し、妻としてめとるというストーリー。また、ヒロインの側から見たら、本当は素晴らしい女性なのにそれが隠されていて、王子様に見いだされるというシンデレラ・ストーリー。もののけ姫のストーリーは、これらの枠組を引き継ぎつつも、結末をずらすものになっている。サンの出自とモロとの関係について憶測をさそう。
・サンがアシタカの勇敢さ、優しさによってなついたという話だったら、うまく行き過ぎだと思う。人間に捨てられ、裏切られた傷があるために、アシタカといっしょになりたくてもなれない。
・エボシとサンのなかに住んでいるとアシタカが指摘した「夜叉」は、表情を見る限り消えたように思われる。
〜外的成果をともなうハッピーエンドではなく、人格的変容という内的成果が結末になっているというのは、本作品の大きな特徴。サンとエボシにとってのイニシエーションでもあるということ。
エボシ
・キャラクターの多様性。森から見たら敵、タタラ場の人々から見たら弱者の救世主、朝廷から見たら利用できる存在、侍から見たら邪魔な敵。
・キャラクターの変化。過去に屈辱的な出来事から神に対する憎しみ?そのトラウマが弱者を救う原動力にもなれば、敵を討ち滅ぼす原動力にもなっている。未来においては、対立よりも共生へ。
青年期の宗教心理
私の宗教体験
去年の受講者の「宗教体験」から
Mさん(21歳)の事例
M:大学に入るまで、この大学がミッション系だということさえも知りませんでした。ところが、入学式のミサに参加したところ、今までの「宗教=わざとらしい、偽善」といったイメージが消えてしまったのです。信仰を持っている人がうらやましく思えました。
Q:うらやましく思えたのはなぜですか。
M:自分に無いものを求めようとするのは、よくあることなもので。信者の方々に話を聞くと、神は親や自分以上に絶対的に頼れる存在であり、決して抽象的な存在ではない、ということでした。私には、そう思えること自体、不思議でした。なぜなら、見えないものは信じないという考えだったからです。その話を聞いたときの「不思議」な気持ちは、信仰心に対しての疑いというよりは、未知のものへのある種の憧れに似た感情だったと思います。
Q:周りの友達で信者の人についての印象はどうでした。
M:以前は「神を信じて一体何になるのか」と問い詰めたい気持ちでした。でも、「信者になったことで神に支えられることがある一方、神への反発や苦境の時に神の介入がないと孤独を感じる」という話を聞いて、神を信じたいと思うのは、自然な感情なのかもしれないと思いました。
Q:つまり、身近な大切な人に抱く自然な感情と同じということでしょうか。
M:そう思います。ただ神への信頼は、身近な家族や友人との信頼関係とは違う点もあります。不安なときや、自分の無力さを感じたときなどに、祈りを通して心の支えを求めるという点は違うところだと思います。
Q:宗教に対する見方はどのように変化しましたか。
M:いくらか宗教に対するイメージの悪さは消し去ることができたのですが、神や信仰の絶対性には疑問を持っていました。しかし、哲学科の「祈り」のエクササイズの演習を受講するうちに、毎週「祈る」という行為だけで、信心深くなり、神が身近にいると感じるようになりました。
Q:例えばどんな風に祈るのですか。語りかける口調など、教えて下さい。
M:自律訓練法や瞑想と同じことだと思います。奥村一郎『祈り』(女子パウロ会)を授業のまとめとしては使用しました。祈りのエクササイズは、その時の自分をありのままに受け止めることを重視したものでした。
Q:ほかの人から得た情報によると、「毎週沈黙の中で祈りを20分行うのだが、それは神への願い事ではなく、自分との対話のようなものだった」ということです。沈黙の中で心の整理をつけて行くという感じでしょうか。
M:そうだと思います。ただ私にとって祈りは、自分との対話というよりも、自分を見つめる行為でした。そこに言葉は生じません。むしろ、敢えて言葉で表さないようにしていました。なぜなら、自分の心情を言葉で説明してしまうと、自分の頭の中だけで処理してしまい、沈黙に入り、祈ることの意味がなくなってしまうからです。日記と変わらないものになってしまうからです。日記は、ある程度気持ちを落ち着かせた状態で、客観的に自己をとらえるものですから。
Q:なかなか難しいですけれど、ありのままの自分をただ見つめるようにするけれど、あまり客観的に言葉を使って知的に整理し過ぎないということですね。ほかに、何か変化は生じましたか。
M:信じるようになって、人にも優しくできたり、周りに流されることもなくなった気がします。
Q:確認ですが、この場合の信じるというのは神ですよね。神を信じるというのは具体的にどういうことでしょうか。自分を見守るのか、自分を救ってくれるのか、自分を監視しているのか、など微妙に違いますよね。
M:神が救ってくれるのを信じるというのではなくて、神の存在を確信したという感じです。神は直接介入するものではありません。導いてくれるとも、試練を与えるとも思いません。ただ「いる」ということを感じただけです。でも、それは、私にとっては大きな意味があることです。祈りの際には、自分に語りかける(祈り以外の日常では気持ちを整理するために日記をつけたりする行為)よりも、神に語る(本当は語る必要はないのですが)方が、自分をさらけ出すことができたし、気持ちの整理もうまく行ったと思います。
Q:それから、人に優しくできるようになったということについて、何か具体的なエピソードがあったら教えて下さい。以前との比較で。同じように、周りに流されなくなったということについても、以前ならこうだったけど今はこう、という変化があったら教えて下さい。
M:実は、祈りや神の存在を信じることで優しくなったり、周りに流されなくなったとは言い切れません。むしろ、一年間の休学期間で、考え方が大きく変わることがあったのです。とくに宗教体験とは関係ありませんが、あるシスターとの出会いが私を変えたと思います。
Q:シスターとの出会いは十分、広い意味での宗教体験だと思います。それはどのような出会いだったのですか。
M:大学に通う意義を見失った時期に知人の紹介で、あるシスター(聖心会)に相談するようになりました。シスターがなぜ信仰の道を歩もうと決心したのか、その過程でのさまざまな心の葛藤を聞き、信仰への段階には、時間と内的成長が不可欠なのではないかと感じました。シスターは自分が神のために生きるのではないかと感じるようになった時期、信仰への喜びよりも自身への嫌悪感に苦しんだと聞きました。今までの自分の将来観を覆すもので、この気持ちは真実なのか、そして親を裏切るのではないか、と様々な不安があったそうです。そして親との確執を経て(親は娘がシスターになることに反対だった)、それでも自分はシスターになる以外ありえないと確信し、いざシスターとしての生活が始まっても、本当の自分が見出せず毎日苦しんだことがあったそうです。集団生活の中でありのままの自分を無意識に押さえて、他人に合わせようとしたそうです。(授業のときのシスターのコメントですが、他人から自分はしっかりしていると思われることが多く、他人の前では確かにそうかもしれないが、家で一人でいるときや、家族や親しい人たちの前では、そのイメージと違うこともありますよね、とおっしゃっていました。)そして不運にも体を壊してしまい、入院せざるをえなくなりました。ところが、修道院を一時的に離れたことで、落ち着いて自分を見つめ、正すことができ、その経験が祈りの糧となったそうです。私はこの話を聞いて本当に衝撃を受けました。信仰を持つ人(特にシスター)は、何の迷いもなく神の絶対性、自らの信仰の正当性を確信しているものだと思っていました。しかし信仰を持っているからと言って、「常に神がいるから」とうう安心感が得られるわけではなく、信仰は与えられるものではなく、自分で育んでいくものだと思いました。神を理想とし、自らを偽りなく見つめ続けることが信仰のあり方なのではないかと思いました。
Q:いろいろな人との出会いが総合されて、Mさんなりの宗教観が出来上がっていったわけですね。それから、今の話は、祈りは自分を見つめる行為だという話ともつながってきますね。ほかに、祈りをはじめて何か変化がありましたか。
M:祈りを通じて、自分を一人の人間として、自らが受け止めることができるようになりました。毎日の生活の中で生じた不安を「祈る」という宗教行為で、祈りの糧にできたと思います。
Q:例えばどんな不安でしょうか。その不安は祈りの中でどのように扱われるのでしょうか。解決を望むのでしょうか、それともただ打ち明けるだけでしょうか。
M:時間の経過とともに忘れることが多いですね。ただ打ち明けるだけで、ほとんどその場では解決できないものです。普段の生活に根差したもので、些細なことばかりでした。
Q:不安の中身も普段の生活に根ざしたものということですね。
M:信仰を持つには、どれだけ宗教に触れたかということも重要だと思います。宗教に全く触れずに、突然回心する例はなかなかないことだと思います。
Q:すると、街頭でキャッチしてマインドコントロールというのはあり得ないという考えでしょうか。
M:それは一時的なもので持続性はないと思います。そこで生まれた信仰は自分の内面から生まれたものとは言い難く、信仰を持ち続けるのは難しいと思います。
Q:祈りは授業が終わった後も続いていますか。
M:祈りは出来るだけ続けるようにしています。信心深くなりたいからではありません。体調や精神の安定をもたらしてくれるからです。
Q:今後、信者になる可能性はあるのでしょうか。
M:今の所わかりません。でも、今後も聖堂に行ったり、ミサに参加しようとは思っています。
Q:自分の体験は「回心」と呼べると思いますか。
M:回心ではないと思います。そう言える自信がないのと、いまだに自分のこととなると、回心と呼ぶのは抵抗があります。
クリスマス・ミサでの癒し体験、Sさん(21才)
私の宗教体験と言えるかどうか分からないが、事実なので書いておく。私は信者である(カトリック)。実は、昨年のクリスマスは諸事情でミサに行けず、今年は反省して行くことにした。ところが、24日の晩は腹痛がひどく、ミサ中も立っているのがままならないので、申し訳ないことだが座らせていただいた。そして、ご聖体をいただいた時、なぜか腹痛がおさまった。薬も効かなかったのに、本当に不思議と消えていったのだった。そのとき、不意に涙が出た。クリスマスだから感動的だったというわけでも、腹痛が消えたことを喜んだというわけでもない。不思議であった。いきなり胸を締め付けられたのだった。そのとき、非常にさっぱりして、いつも以上の充実感を得たクリスマス・ミサとなった。理由は今でも分からないが。ご聖体により、イエス・キリストが私の体内を浄化させてくれたのかもしれないと思った。
Q:信者になったのはいつ頃からですか。ご家族のうちどなたかが信者だったのですか。
S:私の家では、母、妹、母方の祖母が信者です。ちなみに私が信者になったのは
小学校3年生か4年生でした。自分の希望で洗礼を受けました。
Q:差し支えなければ、ミサには誰と一緒に行ったかを教えて下さい。(私の経験上、こういう体験はそばに誰がいるかが結構重要な場合が多いので)。答えたくなければ結構です。
S:ミサに一緒に行ったのは、家族で、信者のみ。母、祖母、妹です。
Q:同じような経験がほかにもありますか。それとも初めての経験でしょうか。
S:これは以前にも似た経験があります。その時は腹痛などあったかは記憶にありませんが、何度か(今でも)ご聖体をいただくと、一種の安堵感に似たようなものを感じたことがあります。私は正直に言って、そこまで熱心な信者でないので、教会には毎週は行きません。ひどいことに、月に一度行けば良いほうです。クリスマスやイースターなどには必ず行きますが・・・。ですから、久しぶりに行き、久しぶりにごミサに授かるという時が多いためか、ご聖体をいただくと安心することが今までによくあります。