宗教心理学2001
堀江宗正

前期テーマ=宗教心理学の歴史と課題
前期の講義スケジュール

1宗教学における宗教心理学の位置づけ

2宗教心理学の歴史
2-1宗教から離脱する心理学
2-2宗教的なものへの再接近と差別化の必要性1――アメリカの場合
2-3宗教的なものへの再接近と差別化の必要性2――ヨーロッパの場合
2-4宗教と心理学の融合
2-5近年の宗教心理学

3宗教心理とは何か
3-1宗教概念をめぐる問題
3-2宗教心理学は宗教をどうとらえるか――心理主義的「宗教」概念の生成と限界
3-3宗教心理とは何か1――そもそも心とは、心理とは何か
3-4宗教心理とは何か2――超越的モデルの介在、内奥性、構造性、私秘性、流動性
3-5宗教心理の歴史性――類似概念としての「霊性」との比較

4「宗教心理」に、どうアプローチするべきか――従来の方法論の批判的吟味

評価の仕方
・出席3割、平常点3割、学期末レポート4割の配分で評価。
・出席:7割以上の出席は必須。大幅な遅刻者には注意、出席カードを配らないことも。居眠りのひどい人からは取りあげる。
・平常点:毎回の授業の終わりに、出席カードの裏に自由提出でコメントを書いてもらう。配付プリント末尾の「論点」を参照する。授業をよく理解したうえで自分の意見を論理的飛躍なしに述べているもの(別に私の意見に反対でも)だけを評価する。授業内容の単なる要約や、漠然とした感想(〜というのはなるほどと思った、〜というのはどうかと思った、〜はよく分からなかった)、授業を聴いていなくても常識範囲内で書けるようなコメントは、評価しないので、自信のない人は最初から書かなくてもよい。ただ書いただけでは点数にならないということに注意してほしい。このコメント平常点は、授業参加度・理解度をごまかしなしに測定するもので、成績の出来不出来を左右する。
・学期末レポート:授業内容全体に直接関係するようなテーマを各自自由に設定して、1500字程度でまとめる。テーマ設定は難しいし、これがレポートの出来を左右するので、前もって教官にテーマの是非をきくのもよい(「こんなテーマでもいいでしょうか」など具体的に自分で考えてきてほしい)。部分的にしか関係しないテーマ、間接的にしか関係しないテーマのレポートは、不可になる。また、授業内容の要約、短すぎるもの、意味不明のものなども不可。

プレ講義アンケート

1 あなたがこの大学で受けた講義のなかで面白かったもの、心に残っているものについて教えてください(「面白い講義の条件」のようなもの)。

2 大学の講義で何を望むのか、希望している進路と大学での勉強をどう関連づけているのか、教えてください。

3 宗教学・比較文化の分野で興味のあること、勉強してみたいことをいくつか書いてください。

20010416
前回のプレ講義アンケートから
1 「面白い講義の条件」=日常生活とのつながり、事例が豊富、先生のキャラ(情熱的・ユーモア・笑い)、社会で起きていることに幅広く関連づける→私の授業では宗教文化論1に近い。この授業は?
2 大学講義に望むこと、進路との関連づけ=人間はなぜ生きるのか、生きる意味、自分を知りたい。進路はまだよく分からない。別に進路に関係なく幅広い教養を。その他、カウンセラー志望、マスコミ志望。
3 宗教学で興味あること=なぜ信じるのか、宗教はどうして生まれたのか(原始宗教への興味)、日本人はなぜ無宗教か、文化による宗教性の違い→基礎課程での「人間関係入門」でやるつもり。本講義はもうちょっと理論的。

1 宗教学および宗教心理学の位置づけ
START
 宗教学・宗教心理学が、さまざまな学問分野とどのような位置関係にあるのかを理解するのが目的。
STAGE1 宗教学と神学(教学)との違い
 宗教学=19世紀後半ヨーロッパに成立
 キリスト教神学から自由な宗教研究
 啓蒙主義、宗教哲学(哲学は神学の端女はしためではない!)
 植民地からの情報
 M・ミュラーの比較神話学から発達。宗教人類学、宗教史学、宗教社会学、宗教心理学が合流。
 個別の宗教の価値観にとらわれず、できるだけ客観的・経験的に宗教を研究
STAGE2 宗教学とジャーナリスティックな宗教理解との違い
 ジャーナリズム(日本の)=宗教の宣伝をしてはいけない。事件が起きたときだけ報道
 マス・メディアの発達した世俗化社会では、「宗教=悪」というイメージが定着しやすい
 cf. 欧米では「カルト=悪」(事件報道される)、「既成宗教=善」と二分化
 宗教学は、「宗教=悪」を前提しない。善とも悪とも決めつけない。
 宗教学=宗教を全肯定も全否定もせずに冷静に記述・分析する学問
 (逆にジャーナリスティックな宗教報道は、偏った宗教イメージを流布させるもの)
 cf. マスメディア、ジャーナリズムも宗教だという見方は、宗教文化論1を参照せよ。
STAGE3 宗教学の下位分野としての宗教心理学
 宗教心理学 psychology of religion
 =「宗教の心理学」=心理学的理論や方法を用いて宗教を研究する心理学の一部門
 =同時に、宗教学の一分野(心理学的理論・方法を絶対視せず、「宗教心理」を多角的に研究)
 心理学的な宗教心理学/宗教学的な宗教心理学


(広い意味での宗教学は、宗教史学と宗教哲学を含む)
GOAL(コメントの参考に)
・宗教学と宗教はどう違うのか。なぜ宗教学は成立したのか。なぜ神学から分かれてきたのか。どのような時代的要請があったのか。今日においてはどのような意義があるのか。
・宗教および神学の側から考えられる「宗教学不要論」を想像してみる。それに宗教学はどう反論するか。
・同様にマスメディア、ジャーナリズム側からの「宗教学不要論」についても考えてみよう。
・まだ何も知らない学生諸君にこそ聞きたい質問。「宗教心理学」という学問に何を期待するか。
参考文献
・井上順孝ほか編『宗教学を学ぶ』有斐閣1996、アエラ『宗教学がわかる』朝日新聞社1995

20010423
Q:宗教を全否定もせず全肯定もしない宗教学は何をするのか→別の人のC:宗教学が存在せずに宗教だけがあるとしたら、対立あるのみで相互理解が難しくなるだろう→A:「全肯定/全否定」では価値観の闘争は解決できないということ。なお「全」という箇所に注意。
Q:オウムのようなカルト教団をどう考えるのか→個別の教団の個別の犯罪について、司法的立場や社会治安の視点から判断することはできるが、それを超えて宗教一般について特定のイメージを作ることは正当化されない。「カルト」という名称も拡大適用され、差別語になる恐れがある。
Q:客観的に宗教を見ることなどできるのか→A:「できるだけ客観的に」と書いてある。完全な客観性などありえないが、異なる主観の合意度が高いという意味での暫定的な客観性(相互主観性)はありうる。
〜多様な価値観の媒介者としての宗教学。絶対主義の相対化。
C:宗教学・宗教心理学に期待されるのは、宗教にまつわる偏見を破壊すること。特定の立場に偏らずに、人間の内面や社会の成り立ちを深い次元から明らかにすること。

2宗教心理学の歴史――一般心理学と宗教心理学の学説史のからみから
START 学説史の狙い
 1)宗教心理学は、心理学が宗教から離脱するなかで、宗教を対象化することが可能になったために生じた。
 2)心に関する教説や心の救済という、これまで宗教が果たしてきた機能を肩代わりする心理学は、宗教とライヴァル関係にある。
 3)宗教心理学は、宗教を対象化することで心理学が宗教とは異なるものであることを示し、宗教を分析するような、宗教より高次の説明体系であることを示すという効用がある。
 今日はとくに宗教からの離脱という局面にスポットをあてる。

宗教から離脱する心理学
STAGE1 宗教心理学関連著作年譜の概観
 心理学のビッグネームの宗教心理学への取り組み(宗教心理学関連著作年譜を参照)
 1)心理学の確立期、宗教を対象化→心理学の起源が実は宗教にあることを打ち消す効果?
 実験心理学の祖ヴント1905-9、アメリカ古典的宗教心理学のジェイムズ1902、スターバック1900、精神分析のフロイト1907、1912、1927、1938、フランス精神病理学の大家ジャネ1926-8
 2)安定期? 各論の充実
 発達心理学のピアジェ1930、人格心理学のオルポート1951、認知的不協和理論のフェスティンガー1956、アイデンティティ理論のエリクソン1958、1969
 3)宗教性の復権(宗教そのものではなく)、宗教とは違う霊性を心理学がになおうとする動き
 分析心理学のユング1911-2、1938、1951、1952、人間性心理学のフロム1950、マズロー1964、フランクル1948、トランスパーソナル心理学のウィルバー1977、1984、元型心理学のヒルマン1977

STAGE2 近代以前の心理学
 1)アリストテレス『霊魂論』=『プシュケー(心)について』、ラテン語で『アニマ(魂)について』
心=潜在的に生命を持ちうる物体および生命活動をすることのできる有機体、要するに生命体の第一の現勢態。身体を質料とするなら心は形相にあたる。心は実体ではなく、働きそのもの。ある種の心身一元論。ただし、理性は身体なしに成り立つ。理性は何にでもなりうる白板のような可能理性と、その可能性を思考の活動に変換する能動理性に分かれる(RAMとCPUのようなもの?)。後者は不変のもの。
 2)キリスト教:理性は神の似姿たる人間の本質。心身二元論の可能性。
 3)近世以降:デカルト「私=考える理性的実体」。精神の機能と身体の機能を区別=心身二元論
→心身の関係はどうなっている?→ロックの連合心理学、すべての観念は経験からくる、観念と観念の連合。身体的感覚とそれを処理する心→近代心理学の発想に近づく

STAGE3 近代心理学の成立――エドワード・S・リード『魂から心へ』を参照しつつ
1)哲学的心理学批判
 カント:ヴォルフの合理的心理学(/経験的心理学)を批判。「私は考える」という意識から客観的な実体としての魂を措定することはできない。自己意識から、魂の諸性質を推論することは不可能。心理学の不可能性(心が心を探究することの原理的困難)
 トマス・リード:感覚そのものから知覚を導き出すことはできない。両者の間に因果性と法則を見いだすことができない。感覚と知覚の断絶を無視することによって心理学は成り立っている。心身の連関。
 cf. カントの『人間学』:記述的心理学(心を対象化するために現に行われている技術のエスノグラフィーのようなもの)は可能〜近代心理学のオルタナティヴの一つとして、今日でも示唆的。
2)心身の連関への2種類の一元論的応答
 唯物論(心は身体の一種)ex. エラズマス・ダーウィン:身体に分散された心(魂ではなく)。心は身体の随伴反応〜唯物論として攻撃される。(E・S・リードはこれをアンダーグラウンド・サイコロジーと呼び、ギブソン以降の生態学的アプローチの認知心理学の先駆けとして評価)
 流体エーテル論・唯心論(精神的なもの霊的なものが宇宙に遍満、物質にも身体にも。物理学における磁気・電気の発見期)ex. メスメリズム:宇宙に遍満する流体エーテル(動物磁気)。唯心論(スピリチュアリズム):神から自立した霊魂を想定し、霊媒を通じて交流。いずれも→催眠術→精神医学→フロイトやユングの臨床心理学
3)伝統的形而上学への固執から、その反転としての近代心理学へ
 リベラル・プロテスタント:魂が脳に局在すると考えることで神とつながった魂を擁護しようとする
 J・ミュラーの生理学。心を脳に位置づける。物質と独立の心的エネルギーを想定。
 ミュラーの弟子たち(ヘルムホルツ)の精神物理学:物理的エネルギーと心的エネルギーの変換の問題を実験的に探究→ヴントの実験心理学へ〜心と身体の関連を調べているうちに、心を物理的・生理的基礎に還元して説明するような科学的心理学が成立。
 形而上学的には非唯物論の可能性を残しつつ、方法論的には唯物論。
 実体としての「魂」は論じられなくなり、感覚を処理する主体としての「心」が残る。
→行動主義心理学:唯物論的方向を徹底。物理的刺激とそれに対する反応の連関を調査する
→認知心理学:その間に情報処理過程を想定
 しかし、心身二元論、大脳局在論、大脳随伴反応説、感覚的刺激を処理する心という発想は、連続性がある。結局、近代の主流派心理学はキリスト教神学の世俗化バージョン?

cf. ヒルマン:近代心理学の個人主義的性格の指摘〜宗教改革以来のもの。「心理学」という言葉はルターの同僚メランヒトン(『アウクスブルク信仰告白』の起草者)による造語。神と直結する個人の内省。
 それに対して、心(魂)の非個人的性格〜無意識を介したものとしてはユング、ヒルマン、言語を介したものとしては構造主義、ウィトゲンシュタイン。

GOAL(コメントの参考に)
・アカデミックな心理学の学説史と、本講義の歴史観を比べてみよう。
(通常の学説史の流れ:ヴントの実験心理学(内観、要素還元主義、意識中心)、20c心理学は、それに対するアンチテーゼとして、行動主義心理学、ゲシュタルト心理学、深層心理学。さらに行動主義を批判して認知心理学が登場。宗教との絡みはない。)
・現代人にとっての心理学の意義とは何か。宗教的機能を読み取ることはできるか。具体的な例は?
・逆に宗教と心理学の決定的違いは何か。具体的な例は?

参考文献
・エドワード・S・リード『魂から心へ』(青土社)
・ジェイムズ・ヒルマン『魂の心理学』(青土社)

宗教心理学関連著作年譜

1899 T・フルールノワ『インドから火星まで』

1900 E・D・スターバック『宗教心理学――宗教的意識の発達に関する経験的研究』
1902 ウィリアム・ジェイムズ『宗教的経験の諸相』(岩波文庫、あるいは日本教文社)
1904 フルールノワ『宗教的天才』
1904 スタンレー・ホール『青年期――その心理、および生理学・人類学・社会学・性・犯罪・宗教・教育との関係』
1905-9 W・ヴント『神話と宗教』
1907 S・フロイト「強迫的行為と宗教的崇拝」(人文書院刊『フロイト著作集』5)
1907 J・B・プラット『宗教心理講話』(廣文堂)

1910 E・S・エイムズ『宗教的経験の心理学』
1911-2 C・G・ユング『リビドーの変容と象徴』、『変容の象徴』(ちくま学芸文庫)
1912 フロイト『トーテムとタブー』(著作集3)
1912-3 ヴント『民族心理学』(誠信書房)
1912 J・H・リューバ『宗教の心理学的研究』同文館
1916 G・A・コー『宗教心理学』
1917 R・オットー『聖なるもの』

1920 J・B・プラット『宗教的意識』
1920 G・ベルゲ『心理学と精神分析から見たイエスの生涯』
1921 K・ギルゲンゾーン『宗教体験の心的構造』
1925 P・ボヴェ『宗教感情と幼児心理』
1926-8 P・ジャネ『苦悶から法悦へ――信仰と感情に関する研究』
1927 フロイト『ある幻想の未来』(著作集3、あるいは日本教文社刊『フロイド選集』7)

1930 J・ピアジェ『内在論と宗教的信仰』
1932 オットー・ランク『英雄誕生の神話』(人文書院)
1937 鈴木大拙『禅と念仏の心理学的基礎』(大東出版社)
1938 フロイト『人間モーセと一神教』(選集8、著作集11、あるいは日本エディタースクール出版部)
1938 ユング『心理学と宗教』(人文書院)

1946 ベルゲ『宗教心理学概論』
1948 V・フランクル『識られざる神』(みすず書房、品切れ)

1950 E・フロム『精神分析と宗教』(東京創元社)
1951 G・W・オルポート『個人と宗教』(岩波書店、品切れ)
1951 ユング『アイオーン』(人文書院)
1952 ユング『ヨブへの答え』(みすず書房)
1952 ユング「共時性――非因果的連関の原理」(『自然現象と心の構造』海鳴社)
1954 E・ノイマン『意識の起源と歴史』(『意識の起源史』紀伊国屋書店)
1956 フロム『愛するということ』(紀伊国屋書店)
1956 L.フェスティンガー, H.W.リーケン, S.シャクター『予言がはずれるとき』(勁草書房)
1958 エリクソン『青年ルター』

1960 フロム『禅仏教と精神分析』(東京創元社)
1961 A・ワッツ『心理療法、東と西』(誠信書房)
1964 マズロー『宗教・価値観・ピーク体験』(『創造的人間』誠信書房)
1967 J・ヒルマン『内的世界への探求――心理学と宗教』(創元社)
1968 P・プライサー『力動的宗教心理学』
1968 G・ローハイム『精神分析と人類学』(思索社)
1969 E・H・エリクソン『ガンディーの真理――戦闘的非暴力の起源』(みすず書房)

1975 岸本英夫『信仰と修行の心理』(岸本英夫著作集・第三巻)渓声社
1976 フロム『生きるということ』(紀伊国屋書店)
1977 エリクソン『玩具と理性』(みすず書房)
1977 K・ウィルバー『意識のスペクトラム』(春秋社)
1977 J・ヒルマン『魂の心理学』(青土社)
1977 F・ドルト『精神分析に照らした福音書』(勁草書房)
1977 小野泰博『「救い」の構造』耕土社、一九七七年
1979 A・M・リズトー『生ける神の誕生』
1979 松本滋『宗教心理学』(東京大学出版会)

1981 J・W・ファウラー『信仰の諸段階――人間発達の心理学と意味の探求』
1984 K・ウィルバー『構造としての神』(青土社) 
1984 W・W・マイスナー『精神分析と宗教体験』
1987 河合隼雄『明恵 夢を生きる』(講談社)
1987 松本滋『父性的宗教 母性的宗教』(東京大学出版会)
1988 R・C・フラー『宗教とライフサイクル』

1991 D・M・ウルフ『宗教心理学――古典と現代』
1992 R・C・フラー『配慮の生態学』
1993 J・W・ジョーンズ『現代の精神分析と宗教』(『聖なるものの精神分析』玉川大学出版部)


20010507
Q&A
Q 用語が分からなかった。とくに心身二元論/一元論→心と身体を不可分なものとするのが一元論、どちらも物質だというのが唯物論、どちらも精神的なもの(エーテル=気のようなもの)だとするのが唯心論、心と身体はまったく別物だとするのが二元論。二元論の立場をとると、心と身体がどう関係づけられるのが問題となる。この問題が心身相関の問題。近代心理学は、神経と脳に関心を集中して問題を無化。
Q 心と魂の違いは何か。理性はどこに位置づけられるのか→魂は実体としての霊魂。心はその機能。その機能の特質が、理性として把握されてきた。理性は身体的感覚に対置され、感覚に惑わされずに物事の本質を見抜く能力とされ、その源泉は神に求められる。魂と心が曖昧にぼかされ、すり替わるのは、ギリシア語からラテン語に翻訳されるときと、私的信仰を温存したい近代の心理学者が魂という言葉を心に置き換え始めたところ。思想家たち自身が両者を曖昧に用いている(私の紹介が曖昧なのではない^_^;)
Q 全体として複雑で何を言いたいのかよく分からなかった→通常の心理学の学説史とまったく異なり、宗教による影響の大きさを論じたところがポイント。ところが通常の学説史を基礎として知らないので、漠然と話を聞いて「あーそーですか」で終わった人が多かったようだ。心理学の宗教的起源は他の授業ではやらないし、心理学の教科書にものっていないこと。だからこそ、知っておいてほしい。
C 心理学と宗教の関係・違いについて
 違いを取りあげて、宗教は主観的で心理学は客観的だと答えた人が多かった。当たり前すぎる。それにこれでは宗教と科学の違いと変わらない。あくまで心のアプローチの仕方に関する違いを。心に関する教説と心の救済・治療に関しては、両者がライヴァル関係にあるという点を、再度確認。「主観的/客観的」という点に関して言えば、実は心理学はどこまで客観的なのだろうかという問題意識もありうるのでは。
C 神とつながった魂とは関係なく、感覚処理機能としての心だけを対象とするのが心理学。それに対して宗教は、両者を区別しない→それゆえ、近代心理学は心を機械として、コンピューターとしてとらえるアプローチに突き進む。一方臨床心理学では、人間の心を、個を超越したものとのつながりから見るのではなくなった(個人主義的な心観)。そして、心に対する操作的態度を大衆レベルにまで広げるに至る。

2―2 宗教的なものへの再接近と差別化の必要性1――アメリカの場合
START 宗教心理学とともに、アメリカ心理学が成立。心理学が独り立ちすると、宗教は対象化されなくなる。しかし、アメリカ心理学の祖ジェイムズは、すでに新たな宗教的ヴィジョンを用意していた。

STAGE1 アメリカにおけるリヴァイヴァル現象
 リヴァイヴァル=再生、復興:薄れつつある信仰の回復、見失われた伝統の再発見
 カトリックよりもプロテスタントで顕著。カトリックは体制的宗教であるのに対し、プロテスタントは体験的信仰。代が変わると、主体的・自発的に信仰ををとらえ返す必要が出てくる構造になっている。
 街頭演説、個別訪問、キャンプ・ミーティング、移動式伝道集会、群衆による讃美歌合唱、雰囲気の高まり、一度に数千人の回心者が出る例も。無教育でも、牧師の資格がなくても、能力が認められれば説教師に、宗教の大衆化・民主化現象(日本では江戸末期からの新宗教に近い)、誰でも牧師になれる。俗人指導者の大衆への受け入れられやすさ。カトリックからの離脱の頂点に。集団的高揚感=集団ヒステリーと見る立場、逆に集団カタルシスであり、集団精神療法として見る立場も。
 アメリカのリヴァイヴァル=広大な開拓地、信仰に飢えた移民。第一次リヴァイヴァル=独立後、第二=19世紀前半、西部フロンティア拡大、第三=19世紀後半、都市化・工業化、第四=戦後。精神的支柱が見失われるような状況になると、リヴァイヴァル。現代も?(成熟社会、道徳的退廃、宗教復興、多文化主義)

STAGE2 アメリカの古典的宗教心理学(クラーク学派)〜以後、著作に関しては著作年譜を参照
 18cリヴァイヴァルの神学者J・エドワーズ『宗教的情緒論』、回心体験の体系的な観察・記述
 G・S・ホール、1880年代から回心の心理学的研究を開始。組織的な質問紙法、今日の調査法の基礎にも。進化論の影響。人類の宗教の進化が、個人の宗教的成熟において繰り返される、という説。青年期で一応の完成、キリスト教への回心に。それに合わせて宗教教育を。早すぎると頑迷な信仰に、遅すぎると機会を逸する。
 E・スターバック、192名の被験者の自伝的報告、1265名の簡易アンケート、思春期のはじまりに、回心が起こる傾向のあることを示す。生理的および性的な成熟との関連性。しかし、性的成熟と宗教的回心の因果性は否定。適切な宗教教育の必要性を説く。
 J・H・リューバ、前2者と異なり、心理学的還元主義を強く打ち出す。神秘体験は、心理生理学的に説明可能で、超越的対象を必要としない。また、心理生理学的プロセスを熟知している科学者は、人格神や不死性を信じない傾向にあることを示す。宗教者との対立。以後、アメリカの宗教心理学の基調に。衰退の原因にも。
〜アメリカの経済成長、リヴァイヴァルの中休みの時期、宗教教育に心理学を生かそうという動機。やがて、心理学的還元主義が主流に。宗教者から嫌われるように。さらに行動主義の台頭(1910年代から)。宗教が心理学の対象にならなくなる。

STAGE3 W・ジェイムズの宗教心理学
 W・ジェイムズ、アメリカ心理学の創始者。実験心理学も。
 『宗教的経験の諸相』自伝的資料、日記、手記から、宗教的経験のさまざまなタイプを論じる。スターバックの量的調査に対し、ジェイムズは質的調査に当たる。
 回心=潜在意識における別の人格の成熟→人格の交代
 低次の自己が崩壊したとき、<より以上のもの>the More との関わりにおいて、それと連続する高次の自己が活性化される(cf. 現代のマインド・コントロール論)。<より以上のもの>は、宗教では神と呼ばれるが、心理学では潜在意識の領域として扱われる。心理学も宗教も満足させる仮説的な第三項。
 それまでの「回心」概念=自己中心から神中心への転換。
 ジェイムズの「回心」概念=自己の限界において自己<より以上のもの>と接触し、それとの協働で新しい自己に生まれ変わること。自力→自他力。しかし、自己はなくならない。神と融合しない。
 哲学的には、伝統的一神教を批判し、多元主義を唱えるように。神も人間も、それぞれ別々のものが現に独立して存在し、融合はしないが、共に活動し、線的な連続性をなし、「多元的宇宙」を形作る。そのなかで、人間は、各人それぞれの独自性や違いを尊重しながら、それぞれの生活の経験に根差したやり方で、共に理想を実現してゆく。人間と神の協働。人間は神とともに世界を創造してゆく。
 キリスト教のアメリカ的変容、人間の罪性よりも、神性を強調する流れ。「神の国」の建設という理想。

クラーク学派=心理学の成立期、宗教への利用という動機、やがて宗教から離脱、対立、科学主義へ
ジェイムズ=伝統的一神教とは異なる多元主義的・民主主義的な宗教性をかわりに提示

GOAL(可能な論点として)
・リヴァイヴァルは、集団ヒステリーか集団カタルシスによるセラピーか。回心とマインド・コントロールに違いはあるか。
・以上のような論点を考えてみると、宗教に冷たい心理学と、宗教によりそう心理学の二つの立場がありうることが分かる。ジェイムズは第三の立場?
・宗教と心理学のあるべき関係とはどのようなものだろうか。

参考文献
・ホール、スターバック、リューバ、ジェイムズの一次文献は、著作年譜を参照。
・スティーヴン・C・ロウ編著『ウィリアム・ジェイムズ入門』(日本教文社)〜cf. 次頁の書評
・吉永進一「ウィリアム・ジェイムズと宗教心理学」、島薗・西平編『宗教心理の探究』(東京大学出版会)所収。


参考資料

スティーヴン・C・ロウ編著、本田理恵訳『ウィリアム・ジェイムズ入門――賢く生きる哲学』(日本教文社、1998年)
 ウィリアム・ジェイムズは、宗教心理学の古典とも言える『宗教的経験の諸相』の著者であり、プラグマティズムの代表的思想家でもある。しかしながら、現在入手しやすい入門書は、実はあまりない。
 本書は、第1部をジェイムズの生い立ちと思想の紹介にあて、そして、読者がジェイムズという思想家と「会話」できるようにという配慮から、第2部をジェイムズの著作の抜粋で構成している。それは一見多様なトピックの引用にも思えるが、それでいて、コンパクトながらジェイムズの思想の全体像をかいま見させてくれる。以下、評者にとって印象的だったことを要約し、読者の益に供したい。
 ジェイムズによれば、宗教は極めて重要な選択である。宗教は、より永遠なるもの、より上位なるものを最善とし、さらにこのことを信じれば、われわれの状況は改善されるだろうと主張する。懐疑主義は宗教を信仰することで欺かれることを恐怖する態度だが、それに対してジェイムズは、もし宗教が虚偽ならばそのような態度で過ちを避けられるが、宗教が真ならば、上に述べたような利益を逃すことになるとする。そして、あることが虚偽だという証拠もなしにそれを頭ごなしに否定するのは、不合理な判断だとして懐疑主義を退ける。こうして、ジェイムズは信じる意志を擁護する。それは、宇宙のより大きな領域で神とともに活動し、われわれを生き生きとさせることにつながるであろう。
 われわれは、自我の力で物事をコントロールしようと努力している。だが、宗教的回心に見られるように、小さい自我が破綻し、その絶望を経由して、ありのままの現実を受け入れ、より大きな宇宙の領域と一体となることは、救いにつながる。さらにそれは、より高い宇宙の働きに参入するかたちで能動的に行為すること、世界を変えることにもつながる。これは、神との協働という発想である。神も人間も、それぞれ別々のものが現に独立して存在し、融合はしないが、ともに活動し、線的な連続性をなし、「多元的宇宙」を形作る。これは伝統的一神教とも汎神論とも異なる、ジェイムズ一流の多元論(多元主義)である。
 このような多元論的思考は、人間同士の関係にも適用される。各人それぞれの独自性や違いを尊重しながら、それぞれの生活の経験に根差したやり方で、ともに理想を実現してゆく、というあり方である。
 そこでは、互いに学び成長できるような、人と人との出会いとしての「会話」が重要視される。会話を通じて、われわれは生命力を得、真実をより深く理解することができる。それは、ひとつの普遍的な論理を絶対視するものではないが、相対主義でもなく、会話をとおして真理を探究するプラグマティズムである。われわれを良く導き、生活と調和し、経験と結びついているようなものを真理とする共同の真理探求たるプラグマティズムは、民主的な哲学的思考態度である。それは世界や自然と親密な関係を結ぶ思想であり、現代を生きるわれわれにもっとも必要な考え方ではないだろうか。
 哲学者でもあり神学者でもある著者ロウのジェイムズの読み方やテクストの再構成の仕方は、ジェイムズを宗教思想家のほうに引きつけている。ただし、残念なことに『宗教的経験の諸相』からの抜粋はない。さまざまな宗教的回心のエピソードが盛り込まれていれば、本書はより豊かなものとなったであろう。
 いずれにせよ、このコンパクトで平明なジェイムズの入門書の邦訳を喜びたい。訳文が読みやすいことも本書の特長である。(堀江宗正)

20010514(今日の配付プリントは、今週と次週にまたがって使用)
Q&A
 前回はジェイムズの途中で終了に。そこで質問、コメントに対する応答は、前回の残りを消化しながら(補足資料=ジェイムズ『宗教的経験の諸相』から。上巻pp. 372-4 リヴァイヴァルの雰囲気、pp. 318-21 ブレイナードの回心)。
Q 集団ヒステリー、集団カタルシスとは何か
→「ヒステリー」=(1)心因性の身体的症状で、運動麻痺・失声・痙攣・自律神経失調・皮膚感覚鈍麻・痛覚過敏・失声・嘔吐など多彩で、健忘・痴呆などの精神症状を示すこともある。これらの症状が急に起こる場合をヒステリー発作という。(2)そこから転じて、一時的に生じる病的興奮状態の通称ともなっている。
 「カタルシス」=ギリシア語で浄化・排泄の意味。(1)アリストテレスによれば、人は、悲劇を見るとき、涙を流したり、恐怖を味わう過程で、日頃鬱積している情緒を解放し、それを通じて精神が浄化される。これが浄化・排出=カタルシス。(2)フロイトは、この言葉を援用し、抑圧された感情や体験を言葉や行動として外部に表出することによって、心の緊張が解消されることとした。
 「リヴァイヴァルは集団ヒステリーか集団カタルシスか」という問題について。人は、群衆のなかでは、気分が高揚し、周囲の行動を模倣する傾向がある。そして、この模倣が快感になり、通常の生活では考えられないような行動に走ることがある。これを集団ヒステリーと呼ぶことがある。しかしながら、それを通じて、普段表現できないような感情や思考が表現され、今まで気がつかなかったような内的傾向性が自覚され、人格の統合がはかられる場合もある。それを指して、集団カタルシスと呼ぶこともできるだろう。
 同じリヴァイヴァルの集会でも、宗教に批判的な研究者は、それを集団ヒステリーという病名で呼び、宗教に好意的な研究者は集団カタルシスが起こっていると評価し、そこで回心が起こっていると指摘するだろう。しかし、宗教に批判的な研究者は、回心は実は特殊な状況下での集団暗示で、マインド・コントロールかもしれないというだろう。
C 回心は自発的だが、マインド・コントロールは強制的だ(典型的コメント)→実は、マインド・コントロールは強制的なものばかりではない。ほとんどが信者の意識では自由意志と考えられている。そのため、マインド・コントロール概念は学問的には矛盾していると批判されることがある。結局、研究者の宗教現象に対する態度(批判的/好意的)に引きずられやすい。
C リヴァイヴァルは集団ヒステリーをもとにしたセラピーと言えないか。
C セラピーと病理の融合した部分が存在すると思う。ヒステリーとカタルシスは紙一重ではないか。
→うれしいコメント。私もそう思っている。だが、全体のレベルを考えるとこの話を詳しく説明する余裕がない。去年の宗教文化論「宗教と癒しの歴史」を参照してほしいhttp://homepage1.nifty.com/norick/。今日の講義も、「宗教は病気か、治療か」という問題に関わっている。また私の論文「心理学的儀礼論とモダニティ――儀礼・神経症・遊び」のコピーを4部もってきているので、ほしい人は声をかけるように。

2-3宗教的なものへの再接近と差別化の必要性2――ヨーロッパの場合
START 宗教的文脈からトランス状態への注目が起こる。催眠術を経て、精神医学に取り入れられ、フロイトやユングの深層心理学の形成に。彼らの宗教心理学における宗教との距離の取り方に注意。

STAGE1 催眠トランス状態への注目
 エクソシズム(悪魔払い)+メスメリズム(気による治療のようなもの)→催眠術
 催眠トランス状態=覚醒と睡眠の中間、通常の意識とは別の状態、その間に起こったことは覚醒後は忘れてしまうが、催眠中の指示通りの行動が生じる=暗示の発見。
 単調な感覚刺激の繰り返し、注意集中、感覚遮断と同じ効果、外界での適応した知覚・行動のための回路がマヒし、意識下の心的過程が表面化する、と考えられる。ある種の宗教的儀礼や修行でも起こりうる。
 シャルコー〜ヒステリーの治療に。催眠中に、「症状が無くなる」と暗示。覚醒後、症状の消失。ヒステリーの心因性が確証される。

STAGE2 フロイトの精神分析と宗教心理学
 パリ留学中にシャルコーの催眠療法に触れ、ショック。早速、催眠療法に着手。
 やがて、催眠療法を放棄。暗示の効果が一時的なので。治療者との関係が悪化すると効果も消失。
 患者「好きにしゃべらせてほしい」→症状のきっかけとなった出来事を思い出し、話すと、症状が消失。
 カタルシス概念(前頁参照)。抑圧されたものの意識化が治癒につながる。
 症状は、無意識的なものの歪曲された表現。意識化すると、症状として表出する必要が無くなる。
 催眠療法のかわりに自由連想法。トランス状態を経ずに、無意識的なものを操作。安定した心理療法に。
宗教論
・宗教的儀礼は、強迫神経症の一種。共通点は、反復、ささいなものへの執着。
・父なる神=無力な幼児の父に頼りたいという願望によって作られた表象。
・キリスト教の儀礼=父殺し、イエス殺害の反復。父なる神へのアンビヴァレンツ(愛と憎しみ)の表現
〜総じて宗教批判論。だが、フロイトは暗に権威主義的でない理性的信仰をすすめていたという説もある。

STAGE2 ユングの分析心理学と宗教心理学
 青年時代、いとこの霊媒(恋人でもあった)と交霊会。母親も霊媒体質。スピリチュアリズムと触れながら人格形成。やがて、フロイト理論に影響されながら、博士論文にまとめる。霊媒の病理的側面に注目。
 フロイトとの出会い、フロイトの一番弟子に。しかし、フロイトが宗教に無理解なので、決別。
 人間の心は、複数の自律したコンプレックスでできている。cf. 当時注目されていた多重人格理論。
 あるコンプレックスが自我をおびやかすようになると、幻覚や妄想に。
 自己に統合することで治癒。
宗教論
・宗教体験はコンプレックスの圧倒的な力に翻弄されることなく(翻弄されれば神経症に)、直視すること。それを統合することによって、人格は成長。
・しかし、普通の人は、聖者のように、この圧倒的な力を直接的に体験し、受け入れることはできない。教義・神話・儀礼は、それを間接的に和らげたかたちで体験させる。
・神話や夢には、民族や人種を超えた共通性が見られる。生物学的構造が、人間という類において共通なように、人類一般に共通な精神的構造としての「元型」が仮説的に想定される。影、アニマ、太母(グレートマザー)、老賢者、マナ的人格(カリスマ)、トリックスターなどが、元型イメージ。
〜総じて、宗教に好意的とされる。しかし、特定の教団組織を絶対化するような信仰とは距離を置く。ユング心理学は、個人的宗教性のモデルにも。たとえば、キャンベルの「神話の力」。現代人は、神話を創造的に読むことによって、教団に頼らなくても、心の癒しを得ることができる。

まとめ
・(半)宗教的実践から、トランス状態への注目、無意識概念の形成。
・フロイト:無意識的なものの歪曲された表現が病気。意識化することが治療に。宗教は無意識的なものの歪曲された表現なので意識化する必要あり(宗教批判に)
・ユング:夢や妄想を歪曲とは見ず、そのまま解釈すべき。ただ、それに翻弄されると病気に。それを受け入れつつ統合すると治療に。宗教は無意識的なものの間接的表現。聖者たちは、直接的に体験し、得たものをその宗教として残した。宗教に学びながら、ユングは、患者の夢や妄想を解釈してゆく。つまり、宗教は治療に役立つ。が、宗教そのものをすすめているのではない。心理学に役立てる。
・フロイト宗教心理学では、心理学は宗教より上位に。ユングは、宗教に歩み寄るが、一線は画している。

GOAL(あくまで参考に)
・フロイトとユングのどちらに共感するか。
・フロイトに共感する人は、その立場からユングを批判。さらにユングからの再批判も想定。
・ユングに共感する人は、その立場からフロイトを批判。さらにフロイトからの再批判も想定。


20010521
Q&A
前回紹介したブレイナードの回心の事例についてのコメント
「回心とは一言でいえば、信仰心のなかで自発的に起こるもの。回心するまでの信仰、生き方が、回心に大きく影響するということだ。回心とは心理学でいうのならなんという言葉に置き換えられるのか」→人格変容
「ブレイナードの例=信じるエゴイズムから解き放たれた回心の例。これから感じたのは、ことさら宗教的であることを誇張する人間より、普通に生きていて、周りの人々からいい人だと思われている人のほうが、むしろ宗教的ではないかということだ」
「ブレイナードが回心したという意識をもっていたとしたら、それもまた自己満足的なことなのではないか。神についての探究は終わりがないのではないか」
→以上、回心についての理解がよりいっそう深まるようなコメント。回心体験をその人のライフヒストリーの全体のなかで考えてゆくという方向性。それに対して、よくある回心理解とは、次のようなものである。

 “回心は突然まったく予期しないかたちで起こり、それはその人にとって絶対的とも言えるほど価値のある瞬間である。神を体験するようなことがなければ信仰は本物ではない。体験こそが救いの確証である”

 たとえばオウム真理教の信者は、ある種の体験至上主義で、体験を起こすために修行をしているようなところがあり、体験を得るために自分を極限状況に置いたり、場合によっては薬物を使用したりした。その結果得た体験によって、教祖の教えは本物だと考える。そして、オウムを批判する人は、宗教体験は、すべて脳内で起こる生理現象に過ぎないと考える。これは体験主義の枠組みにのっとったうえでの批判であり、ライフヒストリーの文脈から体験をとらえないという点ではオウムと同根である。

 それに対して、上のコメントから導き出される回心理解とは次のようなものになる。
 “回心は、それまでの生活のなかでの矛盾や潜在的にその人が目指そうとしていたものが、表面化することである。それによって体験者は自分の人生や世界について新しい認識を得て、それが後の人生を支えてゆく。それは宗教者に限らず誰にでも起こることである。その体験をそれだけ取り出して絶対化することはできない。体験後も新たな人生経験はあるので、それを通じてまた新たな人格的成長を遂げる可能性は残されている。つまり、回心体験は最終的で絶対的ではない。”

 実はこのような考え方を明確に打ちだしたのが、来週紹介する人間性心理学のマズローである。

「多元的というのは、各々が自分なりに神と関わればよいということでしょうか。それとも神自体もさまざまな宗派の神々が共存しているということでしょうか。前者なら異教の神についてジェイムズはどう思っていたのでしょうか」
→前者。では神についてどう考えるか。ジェイムズは the more としか言わない。宗教者はそれを神概念として細かく定義してゆくが、それは over-belief だとする。つまり、そのうえに重ねられた信念。「信じすぎ」というニュアンスも含まれる。心理学者としては、神の内容に踏み込むことはできず、その人にとっての the more だというところで踏みとどまる。したがって、ジェイムズの哲学的文献その他で「神的」という言葉が出てきたときには、かなり広い意味で、「自己より以上の」という意味で理解しなければならない。

 講義は、11頁、12頁のプリント。

20010604
注:
 授業の難易度について:「今回くらいがちょうどよい」という意見が前回のコメントでいくつかあった。しかし、前回の夕方にあった人間関係の2年生コンパでは難しいという意見が目立った。コメントカードの出来の結果では、ちょうどよい「難しさ」と考えている。80人履修者のうち、出席者は50〜60人(グリーンカードはあてにならないことが分かった。出欠とり廃止の可能性も。廃止の場合、コメント平常点とレポートだけで評価される。意見があったらコメントに)。コメント提出は40人。うち、平常点2点が10人、1点が20人、0点が10人で。ちょうどよいばらつきで、このまま行けば正確な成績評価が期待される。難しいと思う人は、「具体的に」分からない箇所をコメントカードに書くこと。質問者が複数いたら必ず答える。ただし漠然とした「分からない」「難しい」ではなく、自分の問題意識が分かるような質問を。なお、国語辞書と英語辞書(両方はいったカード型電子辞書がいい)を携行することをお勧めする。辞書を引けば分かるような疑問は自分で解消すること。くれぐれも「分からない」といって踏んぞりかえらないように。大学教員は塾講師ではない。
 また前述のコンパで、レポートについても題目を指定してほしいという要望があった。加えて、前期レポートは、夏休み前のほうが内容を忘れずに書きやすいと思ったので、合わせてレポート要項を次のように変更する。

レポート要項:
<必須>1200字から1600字で、そのうち3分の2で授業内容をまとめ、残りの3分の1で自分なりの感想を書くこと(出来ればA4の紙一枚でワープロ書き)。要約だけになってしまったら自動的に不可。ここまででレポート配点分の6割から7割の点数を獲得する。
<任意>あとは、とりわけ興味をもったテーマに関して自由提出でレポートを書く。枚数も自由。ただし、関係しそうな本を丸写し、ないし要約しただけのものは評価しない。その場合、プラスα分は零点となって、前述の授業の要約+感想だけで6割から7割の評価のみとなる。つまり、そんな人間コピーマシン(人間要約ソフト)のようなレポートは書く意味がないということ。
 前期レポートは、前期試験期間中に人間関係研究室へ提出すること。なお前期レポートの点数配分は、20点である。〜出席30点、コメント30点、レポート40点で、そのレポートを前期後期で二つにわけたため。決して軽くはないので注意。前期レポートを提出しない場合、自動的に単位取得の意志がないものと見なす。なお、前期分までの要注意者は、後期の最初の授業時に番号で発表する。

Q&A
 フロイト派とユング派に半々に別れたのは面白かった(大学によって違う。これも面白い)。しかも、どちらも自分たちのほうが主流派と考えている。
「宗教にはマイナスイメージがあるので、世間一般的にはユングよりフロイトのほうが受け入れられている」「私はユングが好きで、その関係のものを読んでいます。本屋でもユング関係のほうが多く出ていると思います」→80年代は日本でユング人気が爆発的に盛り上がった。90年代以降は、トラウマの問題などでフロイト理論が盛り返している。オウムの影響で宗教嫌いが増えたので、ユング熱も少し冷めた。
「ユングの考え方では、無神論者と呼ばれる人々は、すべて通常の人格を保てないということになってしまうのでは」→無神論者にも色々ある。非有神論(人格神信仰なし)ではあるが、自分の内面の無意識的なものを誠実に見つめ、しかもそれに翻弄されない人は、心理的成長に開かれている、とされるだろう。
「ユングの個人的宗教性の考えは面白い。教団としての宗教よりも、個人がそれぞれのうちに抱いている宗教性のほうが、宗教本来の姿に近いのでは」→上のことと合わせると、宗教とは、必ずしも教団としてのかたちをもつ狭義の宗教には限られないことがわかる。むしろ宗教心理学は、より広義の宗教性に関わる。

以下は突っ込んだ質問(授業では省略)
「夢や妄想や宗教的象徴を、フロイトは無意識的なものの歪曲された表現と見るが、ユングはそれ自体を意味あるものとして解釈しようとする。ユングの見方は素朴すぎ、フロイトの懐疑的な見方のほうが間違いが少ないと思う」「今回はお話がありませんでしたが、フロイトの解釈は、何でも無意識的で性的な衝動の現れとして解釈するが、一方的すぎると思う。むしろフロイトの解釈のほうが歪曲では。ユングは隠された意味を探究するという姿勢が謙虚である」→どちらも一理ある。解釈とは必ず不完全なもの。
「ユングはコンプレックスがある一線を超えると病気になると考えたが、その境目はどこにあるのでしょうか」→通常の自我意識が保持されているかどうか。たとえば、霊に憑依されたままもとに戻らない状態。
「無意識の圧倒的な力に翻弄されれば病気になるが、翻弄されることなく直視して、人格を成長させれれば宗教体験になる。そのような能力は生まれながらにもっているのでしょうか」→精神的障害については、ある程度先天的、体質的なものがあるという議論はある。が、宗教者の体験に耐えられる力というのは、おそらく普段からの内省・自己反省の努力にもよるのでは。
「ユングのコンプレックス概念と、ジェイムズの潜在意識において育っていた別の人格とを、突き合わせているところがよく分からなかった。これらは具体的にどのようなものか。希望とか憧れだろうか。また、それは宗教体験においてどうなるのか。解放されるということか」→厳密にいうと、両者はまったく同じではない。実はさらに二つのレベルにわけられる。ジェイムズの「より以上のもの/より高次なる自己」=ユングの「コンプレックス・元型/それを統合した自己」。これらをすべて平行して論じると、かなり複雑になるので、議論を単純化した。なお、コンプレックスを願望として解釈するのはフロイトの立場に近い。ジェイムズはそれをあえてぼかして「神的なもの」あるいは「潜在意識」とする。ユングは個人的無意識のなかにある願望ではなく、集合的無意識のなかにある人間精神の普遍的パターンとする。全員に共通するのは、宗教体験とは、無意識的なものの表出だということ。ジェイムズはそれを人格の生まれ変わりとし、フロイトはそれを神経症的症状とする。ユングは、それに翻弄されれば神経症・精神病で、それを受容し、統合することが出来れば、啓示的体験になるとする。

2-4宗教と心理学の融合へ

START 1950年代からの臨床系の宗教心理学。実証系はすたれている。重要な研究者があまりにも多すぎる。彼らの学説は、やがて宗教に代わる心のよりどころとして評価されるようになる。

STAGE1 マズローのピーク・エクスペリエンス論
病的な人間の心理から、健康な人間の心理の研究へ
 行動主義の人間観=機械としての人間。
 フロイト派の人間観=欲望する人間、幼児期の体験に苦しむ病んだ人間
〜どちらも決定論。しかし、人間の人間たるゆえん、動物とも機械とも異なる点は、「変化」の可能性
 行動や思考の古いパターンを抜け出して、潜在的可能性を実現する人間に、心理的健康を見いだす。
=自己実現している人間の研究(自己実現した、ではなく、している)
 柔軟性、ものごとにはっとさせられる体験の多さ。
「あなたの人生でもっとも大切な体験について説明してください」約200名の被験者に質問
その共通する特徴を合成し、ある理念的体験像を描き出す。それをピーク・エクスペリエンスと名付ける。人生のピークをなすような体験。
誰にでも見られるもの。たとえば、女性の出産体験。音楽家のエクスタティックな体験。仕事上の創造体験。今まで見えなかった新しいこと、他者、世界の有り様に、はっと驚かされ、それまでの自分がちっぽけなものに思える。それまでの、一面的で偏った固定的なものの見方が崩壊し、新しく生まれ変わる。人間は、それぞれが、どれもユニークでありながら、つながっているということに気づかされる体験。響働シナジーという発想(energy 内なる力、synergy ともに発する力)。やがて、またいつもの自分に戻ってゆくが、この掛け替えのない体験に支えられながら生きてゆく。
 偉大な宗教者の宗教体験も、実はピーク・エクスペリエンスの激しいもの。そこで啓示された霊的価値を伝達するのが宗教。しかし、聖職者たちは教祖の体験を絶対化し、普通の人には起こらないものとし、体験を抑圧した。マズローは制度的宗教を批判し、誰もが日常的に体験しうる自然な霊性に注意を促した。
→個人的な宗教性の擁護

STAGE2 第三勢力の宗教心理学の群像(場合によっては授業では省略)
 著作年譜を参照
フロム:ナチズムの心理学的分析。権威主義的宗教と人間主義的宗教。愛の発達段階。
エリクソン:ライフサイクル論。ルター、ガンディのサイコヒストリー。社会的危機と心理的危機の相互作用。
マズロー:前述。行動主義、精神分析につぐ第三勢力としての人間性心理学。晩年にトランスパーソナル概念も提唱。
ウィルバー:トランスパーソナル心理学の理論家。プレパーソナルとトランスパーソナルの区別。宗教体験は病気か成長・治療かという論点に、一つの理論的回答を与える。
〜次第に、宗教の心理学というよりは、宗教的な心理学になってゆく。

STAGE3 宗教と心理学を融合する運動へ
ヒューマン・ポテンシャル運動:マズローに影響を受けた人間性心理学のセラピー的実践の運動。ロジャーズのエンカウンター・グループの影響も。自分の潜在的可能性の障害を突き破り、新しい自分に生まれ変わるための体験を引き起こすさまざまなテクニックが開発される。非日常的なシチュエーションでの自己表現、それをグループで分かち合う。この流れをマズローは晩年に批判している。体験を意図的に引き起こし、日常からのトリップを求めているだけだ、と。マズローのいうピーク・エクスペリエンスは、もともと誰もが人生のなかで自然にもつようなものとして考えられていた。それに対して、LSDなどを用いるセラピー(最初は麻薬というより治療薬として期待されていた)、東洋的瞑想も取り入れられ、ヒッピー・ムーヴメントとも連動するようになった。
ニューエイジ運動:より霊性を強調するもの。人類の意識の進化の必要性。科学と宗教の統合。西洋の一神教をベースとした近代主義・科学主義を乗り越える。現代物理学と東洋宗教の世界観の近さなどが強調される。教団を形成する「宗教」よりも、個人の「霊性」を開発することで、人類全体の霊性の開花につなげようとする。チャネリング(シャーマニズムと宇宙信仰と心理学的人生観の融合)、ディープエコロジー(ガイア仮説、地球を一つの生命体と見る)、瞑想のワークショップ。さまざまな分野から西洋文化・近代文明を超えるような人生観・世界観が生まれつつある。個人のユニークさをあくまでも保ちながら、覚醒した個人が緩やかなネットワークを作り、やがて世界を変えてゆく。主に知識人に浸透。基本的には反権威。しかしながら、熱狂的指導者崇拝を特徴とする閉鎖的小集団が出てくることもあるので、キリスト教保守派からは異端的「カルト」の温床と見られている。しかし、反権威主義的・個人主義的なので、カルトとは区別しなければならない。

GOAL
まとめ=以上、今日見てきた思想群で共通しているのは、集団化される以前の宗教の原点の強調。日常的生活のなかにもある、感動をともなった人格的成熟のプロセスこそが、宗教の核心でありながら、制度的宗教に忘れられていること。
・マズローの成長志向の心理学が、宗教に変わる霊性を開発するための思想として受容されてゆく。ユニークな個人の緩やかなネットワークとしてのヒューマン・ポテンシャル運動とニューエイジ運動。アカデミックな心理学からは完全に外れているが、心理学的知識をベースにしている。当事者は、宗教ではないと考えている。このような立場についてどう思うか。授業の具体的内容に即してコメントせよ。

20010611
授業形式についてのQ&A
「予備知識も興味もないのに、90分という短い時間で、人の思想を理解し、自分のなかに取り込んで、自分の言葉で表すのは無理だ。予備知識として知っておくべきことをあらかじめ示してほしい。いまのままのシステムでできている人がいるから大丈夫というのは違う。どれだけ多くの人が興味をもつきっかけを得られるかが重要だと思う」→予習するよう要求しても、予習しない人が必ず出てきます。したがって、予習を前提に授業をすすめることはできません。授業時間内である程度理解できるように努めたいと思います。問題は、多くの人が、予備知識なしに授業時間内で、理解し、思考し、それを表現することができるようなレベルを設定するということで、前々回、前回と、一応その努力はしているつもりですし、また「今日はよく分かりました」という人も増えてきています。こちらは大体レベルを把握したつもりです。だが、ある程度の「難しさ」がないと、トレーニング効果はありません。平均レベルの人がやや難しく感じる程度でちょうど良いと思います。しかし、コメントを紙に書いて出すのは苦手だという人が必ずいることも分かっています。だから、仮にコメント平常点が0でも、出席とレポートがクリアされれば、単位はとれるように調整するといっています。つまり、60〜70点くらいになるということです。あとのプラスαがどうしてもほしいという人は、毎回頑張ってほしいですが、そこそこの点数でよくて、コメントを書くのは苦手だという人は無理に書かなくてもかまいません。
「質問したくても、授業のなかだけで頭を整理して、何が分からないのか言葉にするのは難しい」→実は、意味不明でも一生懸命自分の言葉で書こうとしている痕跡が見られるものは、甘く見て評価しています。本当は、上手に書けている人から見たら不公平になるのですが……。それでも「何が分からないかも分からない」というのなら、直接質問してください。対話しながら、引きだすようにしたいと思います。
「コメントは書いたらプラスαになるものではないのか。出席していてもコメントを書かなければマイナス30点ということか」→完全な誤解、というより計算間違い? 上述のとおり、コメント平常点は単位取得可能な点数(60〜70点)のプラスαということです。100点プラスαだったら、書いても書かなくても100点になりますから意味ありません。なお、出席すれば100点なんてありえないってことは、分かりますよね。それでは悪平等(評価されるべき人が評価されない)になってしまいます。
「これでは評価しない、あれでは不可、などと否定的なことばかり言われると、書きにくい」
→逆に言うと、こうすればOKということ。どの教官も必ず、これじゃダメだという基準はあります。たとえばレポートに関して言えば、何か写していると思われるものは剽窃なので不可だ、という見解には、ほとんどの教官が同意します。にもかかわらず、学生には結構知られていない。私がしているのは<評価基準の情報開示>であり、学生にとって得になることはあっても、損になることはないはずです。その際、学生がつい書きがちな悪いコメントの特徴をはっきり書いておいたほうが、実際に書くときに注意もしやすいと思います。「書きにくいのは、言い方が悪いからだ」と正当化せずに、試しに努力してみてもらいたいものです。が、どうしても書けないというのなら、書かなくてもかまいません。出席とレポートが基準に達していれば、単位は取得できるのですから。
「コメントを一生懸命書いたつもりでも、0点だったばあい、それはすごいショックなことだ。自分がどうして0点になったのかを知りたいので、コメントを返してほしい」→これだけ人数が多いと、添削し、返却するのは無理です。0点になる基準はあまりにも単純なので、プリントの1頁を参照してください。しかし、コメント平常点が0点でも単位取得にはなんら差し支えない、ということをもう一度確認してください。なお、コメントを書いただけでもある程度点を付けるということも、最初は考えました。つまり、能力点ではなく努力点もつけるということです。しかし、コメント平常点に努力点を入れてしまうと、出席点とダブってしまうので、意味がないということでやめました。コメント平常点は、理解力・思考力・表現力を評価するものなので、純粋に能力点として位置づけらるべきです。努力点は、出席と、レポートの必須部分で付けようと思っています。したがって、努力点60点で、能力点40点ということで、これは成績評価としては、多面的で、いまのところ最善のものと思っています。
 なお、授業の形式上について質問をしてくださった方は、内容についても何か書くようにしてみてください。これだけ、自分の不満をきちんと言葉で表現できる人なので、これからの活躍を期待します。

講義:予定を変えて、学説史の紹介は前回で終わり。「近年の宗教心理学の動向」では、社会心理学における実証的宗教心理学の復活について取りあげようと考えていた。社会心理学関係の授業でも、部分的に取りあげるものがあるので、そちらを参照してほしい。また、マインド・コントロール論に関しては、宗教文化論1でかなり丁寧に紹介し、また批判している。

3 宗教心理とは何か
3-1 宗教心理学は宗教をどのようにとらえてきたか

 マズローに関するQ&Aを議論の手がかりとする。

前回の授業内容についてのQ&A
 多かったコメント「マズローの説に大変共感をもった。誰もが体験しうるピーク・エクスペリエンスのなかに現れている霊的・精神的価値観が宗教の核にあるということ、そして制度宗教はそれを絶対化し、普通の人に対して抑圧するという主張から、宗教とは、教義を信じ、教団に属することに尽きないのだということが分かった。ユングやマズローの個人的宗教性の奨励は、宗教を開かれたものにすると思う」

STAGE1 教団の存在意義について
「宗教の本質を体験とすると、結局、教団には何の意味があるのか」→体験の価値をコミュニケートするネットワークとしてマズローはとらえている。そして、それが自然な体験を抑圧するのは本末転倒とする。
「宗教における神の存在意義はどうなるのか。これを認めない心理学は、やはり宗教とは違ったものになるだろう」→たしかに、決定的に違うところ。しかし、仏教ではどうか。仏陀は悟った人間という意味で、神ではない。人間性心理学では、自分をどんどん超越してゆくということを強調し、これを自己超越とする。今までの自分の限界を突破してゆくという意味での「超越性」は認める。ただ、自己超越の可能性は潜在的に自分のなかにあるという考え方なので、神のような外在的超越者の代わりに、潜在的で本来的な<自己>という内在的超越者を立てる宗教性だとすることはできる。
「カトリックなど肥大化した宗教団体にはたしかに問題があると思うが、マズローの見解では「群れている人は劣った人」ということが分かるだけで、教団がなぜ形成されるのか、その意義はどこにあるかが分からない」→マズロー自身は、集団はダメと考えていない。ただ、響働というあり方、つまり各人のユニークさが全体を活性化させるようなあり方を、理想的な集団のあり方と考えていた。しかし、マズロー以降の運動は、実際どうなったかはまた別の問題。
「マズローの心理学はどこかプロテスタント臭い。神を信じるということよりも、信じる自分に意識を集中するのがプロテスタントの特徴である。自己実現を評価するマズロー心理学は、プロテスタンティズムの延長線上にあると言えないか。また、マズローは、体験を引き起こす文脈となる修行や儀礼や教義を否定するので、体験が無軌道なものになり、最終的には独りよがりになるのではないか」→プロテスタントにも色々あって、日本で影響力のあるK・バルトの新正統主義などは上のプロテスタント理解に当てはまらない。しかし、歴史観としては単純すぎるものの、大筋としてはまあまあ当たっている。上述のように、マズローは教団で正統とされている体験の文脈に、個人の日常生活というもう一つの文脈が圧倒されないように、注意を喚起しただけで、必ずしも教団における体験の文脈を全否定しているわけではない。だが、マズローの時代は、若者が大人たちの伝統的権威に異議を申し立てている時代だったので、宗教集団そのものの否定として理解されがちだった。そうして、一番ピュアなのは、個人の生活に根差した自分なりの宗教的探究だということになる。次のコメントは、その肯定的側面を指摘している。

STAGE2 個人的宗教性の時代
「マズローの心理学は、宗教の民主化とも言えるもので、リヴァイヴァルをより徹底させたものだし、1950年代以降の公民権運動・人権思想・平等主義とも連動しているのではないか」→時代状況をうまく言い当てている。他方、否定的な側面を指摘したものとしては、次のようなコメントがある。
「体験主義は、体験した人を偉いとする傾向をはらみ、結局エリート主義に行き着く。体験は個人的なものなので、体験しただけではそれが価値あるものなのか実感できない。体験した人は、誰かに吹聴したいし、認めてもらいたい。すると、すごい体験をした人が次第に教祖化されてゆく。マズローは体験を意図的に引き起こすグループを批判したというが、それはマズロー自身が体験を素晴らしいと持ち上げたことにも原因があると言える」
「ピーク・エクスペリエンスにすがろうとする(?)姿勢は、根本的には宗教にすがろうとする姿勢に通じる」
→ここで、前回のSTAGE3を詳説。

STAGE3 フロイト的立場の再評価
「ピーク・エクスペリエンスは後の人生に決定的影響を与えるような体験だと考えると、ある意味トラウマと同じようなものではないか。「幼児期の体験がその人の性格に影響を与える」というフロイト的人間観の裏返しではないか」→結局、過去の経験はかたちを変えながら生き直されてゆく、という点は共通するだろう。だが、変化度ゼロなら決定論になり、変化する可能性に人間の本質があると見るならマズロー的になる。ピーク・エクスペリエンスも「過去の栄光」になって、それにしがみつくようなら、自己実現をかえって妨げることになる。
「人間は必ず自己実現できる存在なのか」
「行動主義や精神分析の人間観は、たしかに人間を一面的にとらえていると思う。しかし、それはマズローの人間観にも言えるのではないか。つねに変化し続け、限界を突破し続ける人間という見方は、限界にとらわれがちな人間が一方にあるということを暗に認めている。無意識的に、いつのまにか、みずからに限界を課し、そこから抜け出したいのに、抜け出せず、病的になってしまう人間を、見つめ、そして支える。そのような「病気の人間の心理学」があってこそ、マズローの「健康な人間の心理学」も生きてくる」
→現在、メディアでは、「心の健康」より「心の傷」のほうが注目されている。アメリカでは80年代後半あたり、日本では90年代後半あたりから、虐待の問題、犯罪や災害の被害者のPTSDを契機に、トラウマ理論が復活している。人々があまりにも、「幼児期のトラウマが性格を決定する」という考えをとるので、個人的にはマズロー理論が恋しくなっている。ただ、ニューエイジ運動的な土壌から、カルトが生まれるという現状もあり(オウムも最初はヨーガのサークルからはじまった)、現在では個人的宗教性すら、あやしまれる。結局、フロイト心理学の延長線上にある、(表面的には)宗教を否定し、宗教がなくても、心理療法だけで、傷つきやすい人間を癒すことは可能だと考える流れが、現在は優勢である。だが、もともと、マズローは宗教にこだわっていたわけではないので、フロイト的立場と統合することは可能かもしれない。また、セラピー主義も、宗教性の新たな形態と考えることは可能である。
 以上の議論から、
1)集団的宗教性の立場、あるいは教義・教団・教祖を狭義の「宗教」の必須の部分とする立場
 従来の宗教。一般的な「宗教」概念。
2)個人的宗教性の立場、あるいは霊性・精神性を広義の<宗教>とする立場
 ユング、マズロー。心の健康。一般的な「宗教」概念を疑い、人間の望ましい生き方を、もっと広い文脈のなかで考えようとする。
3)脱宗教的倫理性の立場、あるいは宗教を否定することで、宗教に取って代わっているセラピーの実践に価値を置く立場
 フロイト以降の心理療法の基本的理念。現代思想の他者論。セルフヘルプ・グループやAC論など「家族」への関心。一般的な「宗教」概念を自明視したうえで、「宗教」を否定。

 宗教心理学は、宗教の心理的側面に注目するので、基本的には、個人の心のなかで起こっていることに注目。したがって、1)の立場は通常はとらない。また、3)の立場は、結局「宗教のライヴァル」になってしまい、学問としての宗教心理学にならない。かといって、2)の立場にも色々問題があることが、今日の議論で分かった。以上の立場を念頭に置きながら、宗教をどうとらえるか、宗教心理をどうとらえるか、宗教心理学はどのようなものであるべきかについて、次回以降考えてゆく。

20010617
Q&A〜今日も長め
 事例を紹介すると具体的で分かりやすくなるが、事例のインパクトに引っ張られて文脈が分かりにくくなる。軌道修正して、前回配付プリント末尾につなげる。

ホロトロピック・セラピーについて
 一部の人が支持し、かなりの数の人が毛嫌い。
「ホロトロピック・ブレスワークは違和感を感じる。自分の心のなかを他人がいじくり回しているようなもの。嫌悪感。異常な状況での感情の表出。カルトっぽく感じる。高揚感ほしさにトリップ依存症のようになり、指導者への依存や崇拝が生まれ、カルト化する危険がある[これはするどい]。無意識的なものの意識化は精神療法の領域であって、新興宗教がやることではない[新興宗教ではない。もともと精神科医が考え出した技法で、応急処置ができるよう医者の介在が必要]。分裂症になってしまう人もいると聞いている[実際、専門家が付いていなかったために正常な状態に戻らなくなった例がある]。こんなのも宗教心理学に入るのか[短絡]」
→これらの嫌悪感は、それなりの根拠があり正しいと思うが、ホロトロピック・セラピーをマズローや宗教心理学一般と同一視してはならない。なぜなら、マズローは、体験を意図的に引き起こすテクニックの開発にこだわるのは、体験の自然な文脈の否定で、実生活からの逃避に過ぎないとしているからだ。他方、好意的に見る人もいた。
「意図的に作り上げたものでも、体験は体験で、重要なのはそれをどう生かしてゆくかということである」
→これは日常生活の文脈との折り合いということを視野に入れているので、マズローの考えとの折衷。

マズロー理論の補正
「つねに自分のからを破り続けるという自己超越の考え方は、変化の可能性に開かれていると同時に、個人を不安定にしてしまう。それを安定させるよりどころとして働くのが宗教ではないか。宗教は個人を不安定にさせずに、それでいて、からを破るきっかけを与えてくれるものと言える」
→ユングが宗教的象徴を間接的体験のきっかけと見たのと同じ考え。ユングは、直接的体験に圧倒されてしまうと、それは宗教体験でなくなり、幻覚や妄想の世界になってしまうと考えていた。マズローは、狂気と聖なるものが紙一重であることに、もっと敏感であるべきだった。
「もともとトラウマなどを抱えて悩んでいて不安定になっている人ほど、自分を変えたいという動機をもっているし、ちょっとしたきっかけで違う自分に変身しやすいのではないか。こういう人が「心の健康」を安易に目指すと、トリップ体験を引き起こす仕掛けにはまってしまう」
→私のマズローに対する批判点に、少し近づいてきた。マズローは自己実現している人にピーク・エクスペリエンスが起こりやすいということで、自己実現をしていない人も含む普通の人を対象に、ピーク・エクスペリエンスの調査をした。その結果、その体験はそれまでの自我のあり方から脱するようなものだった。しかし、それが自己実現につながるという保証はどこにもない。自己実現の定義は、自分の潜在的可能性を実現することだが、その基準は主観的であってはならない。結局、ある人物が自己実現しているかどうかは、社会のなかで、歴史のなかで検討されねばならない。したがって、自己超越的体験だけでは、それが自己実現につながるかどうかは分からない。自己実現している人が、「偉人」としての評価を得るためには、それだけの長い時間がかかる。宗教集団が有用なものとして評価されるためには、少なくとも100年はかかるのではないだろうか。
「集団トランス状態におけるいっちゃってる体験をも、響働ととれるのだろうか」
→体験の評価の文脈が特定の「小集団」に限定されてしまうと、それがミニ社会、ミニ宇宙になって、もっと広い社会や歴史のなかでは自己実現につながるとして評価されないような体験も、自己超越的というだけで評価されてしまう。体験の評価の文脈としての社会・歴史という発想は、ジェイムズにはもともとあったもの。なお体験の文脈についての議論は、cf. 13頁。

 今までの議論から、個人的宗教性の落とし穴として、不安定性、体験への逃避、体験誘発のテクニックの作為性、テクニックや指導者や小集団への依存、などがあげられる。もともと個人主義的なヒューマン・ポテンシャル運動やニューエイジ運動から、時おり突発的に「カルト」的集団が形成されるメカニズムも見えてくる。フロイトは、宗教を集団神経症とすると同時に、神経症を個人的宗教とした。というのも、宗教の衰退と神経症の増大に関係があると見たからだ。安定したそれ自体「社会」となっている伝統宗教という受け皿があるうちは、一人で処理しきれない悩みから神経症になることもない。しかし、宗教の衰退は抑え難いので、神経症を治療するための心理療法が要請されると考えるのである。

心理学的決定論をめぐって
「私は幼児期のトラウマが性格を決定すると思う。先生がそれに反対する証拠は何か」
→かなり「あれかこれか」の話。私がいっているのは、「影響力はたしかにあるが、決定的ではない」ということ。フロイト理論でさえ、実は単純ではない。トラウマの影響力の強さは、実際の事例をよく見ていると事後的に作られたものが多い。そのときはそれほどインパクトはないが、あとから重要な意味を付与され、時には記憶が改変される。これをフロイトは「隠蔽記憶」と呼んだ。さらに、フロイト自身も患者が分析の結果「想起」したというトラウマが、事実ではなかったということを経験して、初期の「誘惑説」や「原光景説」を放棄している。アメリカでも「作られた記憶」をめぐる多くの訴訟事例がある。さらに、トラウマがすべてを決定するのであれば、治療の意味はない。外傷を歪曲して、否認し誇張したりするのでもなく、それを直視し続けることで、耐えられるようになることがフロイトの治療の本質。トラウマを直視することで、それから自由になるという発想。それで実際に治療が成功しているのが、トラウマ決定論を論ばくする証拠である。ポスト・フロイト派は、さらに積極的に、幼児期においてうまく機能していなかった養育的環境を治療の場面で再現しようとしている。これも幼児期がすべてであれば、意味がないこと。さらに、マズローは、人間心理の固定性と可変性のうち、可変性にこそ、人間が動物や機械と違うゆえんがあると考えた。しかし、決定論的側面がまったくないとしているのでもない(前回のQ&A)。結局、過去の影響力は当然認めるが、それがすべてでもないというのが、バランスのよい人間観。しかし、現代のマス・メディアで流れている「トラウマ決定論」は、あまりにも一面的すぎる。次のコメントに同感。「何でも、傷つきやすい、傷ついたで済んでしまう、済まされてしまう風潮に憤りを感じる」。もう一つ気をつけなければならないのは、幼児期の家庭環境でその人のすべてが決まるというものの考え方は、差別的であるということだ。ある犯罪者の心理を家庭環境から説明するとして、それと似たような境遇の人はいっぱいいると思う。では、そのような家庭環境に育てば、必ず犯罪を起こすようになると言えるか。実際にそうなっていない。そんな言説を、新聞やテレビが一方的に大量に流し続ける現在の状況は、まったく異常だ。戦前における「変態心理」への注目や「新興宗教」糾弾ムードなどと通じるところがある。

講義の続き
前回の19頁末の説明。

今までの議論の整理
学説史の枠組み:宗教から心理学が離脱→心理学側、宗教を対象化することが可能に→宗教心理学の登場→1)宗教を個人心理の側から見て、それ以外の要素を非本質的とする立場→宗教と心理学の融合としての個人主義的な霊性の運動
→2)心理療法は宗教に完全に取って代わるライヴァル→制度的に安定してくると、ことさらに宗教を批判する必要が無くなる
→いずれの場合も「宗教の心理学的研究」という狭義の宗教心理学ではなくなってくる。

 もともと宗教にルーツをもつ心理学が、宗教を分析することで、みずからの優越性を誇示し、宗教に取って代わってゆく。その過程でできたのが、これまでの宗教心理学の学説。

これからの見通し

・「宗教」をどうとらえるかが、学問的立場を決定している。そこで、これまでの学説史を反省しながら、「宗教」をどうとらえるか考え直す。制度的宗教だけと見ない。しかし、個人的宗教性を本質的として、歴史や社会の文脈を軽視しない。また制度的宗教を頭から否定して、「無神論」や「世俗主義」や「セラピー主義」という「別の宗教」になってしまわない。ではどうとらえるか。

・「宗教の心理学的研究」としての宗教心理学は、心理学を特権的位置に立てて、宗教を対象として従属させるもので、その背後には、心理学の宗教とのライヴァル関係があることは分かった。結局、人間心理を究極的に説明するのは、宗教か心理学か、という覇権争いである。だが、そもそも人間は人間の心を対象化して、完全に説明できるのか。カントの心理学批判に立ち返って、自然科学としての合理心理学・経験心理学ではなく、人間学としての記述心理学を基調とする「宗教心理の学」としての宗教心理学を目指す。それは以下のとおり。

・「心」観、「自己」観、「他者」観、「人生」観、「世界」観は、歴史や文化や社会によって異なる。しかし、歴史上大部分は、「宗教」がからんできた。宗教を広く機能的定義からとらえるなら、狭義の宗教が衰退しても、人間がいるかぎり、何らかの文化的信念体系によって媒介されてはじめて、「心」「自己」「他者」「人生」「世界」などの意義は解明される。相対主義・アノミー状況のなかでの「信」(信頼・信念・核心、不安・不信・懐疑)の状況をも視野にいれながら、現代の「見えない宗教」の成立構造を明らかにすることも、宗教心理学の課題となる。

・そのための方法を模索する。


20010625
Q&A
「主観的な意味での自己超越は、必ずしも客観的な意味での自己実現であるとは限らないということについて。歴史や社会のなかで「自己実現」であると客観的に判定されても、それはその時代その時代の価値観や権力関係に依存するのではないか。歴史や社会の目なんてあてにならない。周りから評価されなくても自己実現である場合、凡人の自己実現はどうするのか」
→「歴史」「社会」の規定が狭すぎる。「今まで見過ごされてきたけれど、こんな生き方だって自己実現じゃないか」とあとで発見されること、これも歴史的・社会的判断のなかに含まれる。つまり、「凡人の自己実現は」と問うあなたも新たな評価者、ということ。評価は歴史的に開かれているといったと思うが、それは、ある時代に力をもっている多数派の見方にとらわれないということを意味する。

3-2 宗教をどう定義するか
PART1 狭義の「宗教」概念と広義の<宗教>概念
人間関係入門講義で1年生に出した質問
まず「日本人は無宗教か」というテーマで簡単に情報提供(別紙配付プリント参照)
「教義・信仰・教団に類する言葉を用いずに、教団宗教に限らないさまざまな宗教行動を包摂するような広義の宗教概念を考えてください。ノートに、“広い意味での<宗教>とは……”と書いて、そのあとに言葉を続けてください。」
〜まず、10分程度一人で考えさせる。そのあと、4人から6人程度(机2〜3列)のグループに別れて(全部で約20グループ)、約15分間ディスカッション、グループ見解をまとめさせる。できたところから私に報告、私はそれからキーワードをひろい、板書。
その結果
広い意味での<宗教>とは……
・心理的機能に関わる特徴
 生きてゆくうえでの支え、心のよりどころ
 生きるうえでの不安を和らげるもの、未知なものへの不安を和らげるもの
 精神を安定させるもの
 自分を定義してくれるもの
 心を豊かにするもの、高めるもの
 問題解決の機能。希望を与えるもの
・社会的機能に関わる特徴
 行動や思想を一つの方向にまとめるもの
 行動の普遍的な規範
 文化の基盤にあるもので、その文化のアイデンティティと考えられるもの
・超越性に関わる特徴
 未知なものや偉大なものへの本能的な畏怖の感情
考察
 心理的機能が多い。つまり、善悪に関する問題より、感情的側面。またポジティヴな意味合い。逆に教団宗教に対する無関心や反感が少なくとも三分の一程度であることは、すでに挙手で確認済み。ということは、教団でなければ肯定的。それは日本人の「無宗教」の歴史からも分かる。

狭義の宗教概念=文字化された教典や公式的な狭義や固定的・持続的な教団組織=宗教の実体的定義
広義の宗教概念=実体的定義から「宗教」とされているもののさまざまな特徴=宗教の機能的定義
 →結果的に、いわゆる「宗教」以外のものにも当てはまる部分
ex. 上の「生きてゆくうえでの支え、心のよりどころ」、道徳、教育、家族、親友などにも当てはまる。
 宗教学では、機能的定義が不可欠。実体的定義だけでは、歴史的変遷や文化的多様性をカバーできない。実体的定義は、キリスト教の正典化と、宗教改革以後の信仰告白とメンバーシップによって作られたもの。西洋的・近代的バイアスがかかっている。しかし、機能的定義を拡大解釈してゆくと、すべてが<宗教>になってしまう。対象を限定するためには、ある程度の「狭さ」が必要。しかし、分析の一般性を確保するためには(分析が特殊教団のみに当てはまるものでないと主張するためには)、ある程度の広さが必要。
→宗教の仮設的定義。あくまで作業仮設としての「宗教」の定義。変化の可能性。

PART2 これまでの宗教の定義をめぐる議論
松本滋『宗教心理学』(東京大学出版会、1979年)、第2章参照
対象の問題を中心に規定した定義
「宗教とは、永久に存在する神に対する信仰を意味する」(マルティノー)
「宗教とは、自然の運行と人間の生命の動きに命令しそれを支配すると信じられているような、さまざまな超人間的力に対する、融和または慰撫である」(フレイザー)
「宗教とは、無限――人間の道徳的性格に影響を与えうるような無限――の認識である」(ミュラー)
「宗教の最小限度の定義として:宗教は霊的存在への信仰である」(タイラー)

人間主体の心的状態・感情を中心に規定した定義
「宗教は絶対的依存の感情である」(シュライエルマッハー)
「宗教に特有の感情とは、崇敬の感情であり、それは畏敬(賛嘆と恐れ)と、感謝(うちとけた気持ちと自己否定)から成り立つ感情である」(マクドゥーガル)
「宗教と宗教的を区別したうえで:人間が理想目的のために、障害と戦う行為、生命の危険にも関わらず、永遠普遍の価値の確信からなされる行為は、すべて宗教的である」(デューイ)〜市民社会を作るものは「宗教的」な行為

主体と対象の関わりを中心に規定した定義〜「聖なるもの」の観念・体験
「絶対的他者(対象が何かは分からない)を体験したときに起こる主体の側の感情とは、畏怖と魅了の感情である(聖なるものの非合理的側面)。それは表象として表現され、全なる創造者として倫理化されることで合理化される。このような非合理的側面と非合理的側面とをもつ聖なるものの体験・観念が宗教固有の中心概念である」(オットー)
「宗教とは聖なるもの――分離され禁忌されたもの――に対する信念と実践からなる体系であり、それは同一の道徳的共同社会に、成員すべてを結合させるようなものである」(デュルケム)〜社会のなかから何が選ばれ、祭り上げられるかはその社会によって異なる。社会の集合表象が道徳的規範でもある。宗教とは、社会のなかからそれを代表し、かつ社会成員を超越するような表象が、成員の規範の形成の核となるような信念体系・実践体系。

主体と対象の関わりの心理的側面を中心に規定した定義〜究極的なもの
「宗教とは、一定の集団をなす人々が、生きるうえでの究極的な諸問題――死の問題、人生における悪(苦・罪)の問題――に取り組むための信念および行動の体系である」(インガー)
「宗教とは、人間生活の究極的な意味を明らかにし、人間の問題の究極的な解決に関わりをもつと、人々によって信じられている営みを中心とした文化現象である」「宗教は、人間の問題であれば、どのような問題でも解決しようとするもの。ただし問題解決が、他の科学技術や政治・経済などの分野による相対的解決と異なり、究極的解決――どんなときも必ず根本的に解決――であることが特徴である」(岸本英夫)
〜両者とも「問題解決」するものとして宗教をとらえたうえで、インガーは、問題の究極性(有限な人間によっては解決できない)、岸本は、問題解決の仕方の究極性(解決主体は有限ではない)に焦点をあてる。
「信仰とは、究極的なものに究極的に関わること。究極的関心」(ティリッヒ)〜限りないものの終わりなき探究。有限なものを人間的に利用する世俗的営為とも、有限的なものを究極的とする偶像崇拝とも区別される」
「宗教とは、人間の究極的関心を表出し、かつ喚起するところの象徴の体系である」(松本)〜象徴主義

20010702
Q&A
 質問に答えるというよりは、心に引っ掛かったもの。

「日本人の宗教性は、心のよりどころや安定を求めるものなので、マズローの成長志向とは違うものであることが分かった」
「本能的な死への恐れ、未知なるものへの畏敬などは、誰でももっている。その意味では、すべての人は宗教的要素をもつと言え、完全な無宗教などありえない」
「狭義の教団「宗教」にはネガティヴでも、広義の<宗教>にはポジティヴ。このように複雑な感情が込められる宗教という言葉を使って、しかもそれを対象として、客観的な学問的研究をおこなう宗教学はとても難しい立場にあると思う」

今日の講義
 24頁の解説

宗教の本質主義的定義の問題
 すべての「宗教」と呼ばれる現象を、一つの定義に包括してしまおうとする。宗教の本質を同一のものとし、それを普遍的なものだと考える。

宗教の構築主義的定義
 歴史的・文化的に構成された「宗教」という言葉の特殊性をまず浮かびあがらせる。西洋的近代的宗教概念。機能的定義の類型化。ウィトゲンシュタインの「家族的類似性」の考えで、さまざまな文化・時代にも対応できる幅のある宗教概念を仮設的に定義。

20010709
Q&A
 色々な人のコメントを継ぎはぎ。
「宗教の定義は難しいと思った。先生のおっしゃるように一つの定義に包括するのは無理がある。しかし、人間はちっぽけなものなので、生きていくうえでさまざまな問題にぶつかる。とりわけ人間自身では解決できないような究極的問題に、自分なりにぶつかることで、自分を向上させてゆく。そして、これには終わりがない(究極的である)。このようなものが宗教の機能的定義だとすれば、宗教のない社会など考えられないと思うし、個人個人の心のなかに宗教があると言ってもいいのではないか。他方、このような宗教のとらえ方は、広がりは感じられるが、結局、何を宗教の範囲に含めるのかという問題を残す」
→今日の授業で答えられればと思います。

講義
 レポートについて確認。
 プリント末尾の「後期に向けて」(ほぼ結論に当たる)を先に見ておく。
 残りの時間で、その結論に至るまでのプロセスを見ていく。

 前々回〜宗教概念をめぐる問題:「宗教」概念の歴史性、文化性。世間一般の「宗教」概念。翻訳語としての「宗教」。
 前回〜宗教学における「宗教」概念。実体的定義と機能的定義。
宗教心理学は宗教をどうとらえるか――心理主義的「宗教」概念の生成と限界:宗教心理学者・宗教哲学者の議論から(ティリッヒ=松本)。
→分かったこと
 絶対的他者・未知なもの――聖なるもの(無限なるもの、究極的なもの)――主体の究極的な関わり
+究極的な関わりを媒介する象徴体系(人間と象徴の循環構造)
簡単にまとめると、宗教の定義の学説史の枠組みとしては、「信仰対象/教典/信者」のセット
最終的な松本先生の定義〜「個人心理としての究極的関心/それを表現し喚起する象徴」なので上記の三項のうちあとの二項(言語的・心理的側面)に焦点をあてている。
 なぜ第一項には触れないか=信仰対象に焦点をあてた定義では、「宗教とは〜を崇拝するものだ」という縛りを作ってしまうから。宗教をあくまでも人間の文化的対象ととらえる宗教学らしい宗教の定義。

「教団」としての宗教、「教義」としての宗教という、宗教の実体的定義を前提としつつも、それより踏み込んで、内面性(聖なるものの体験・感情)・究極性(対象との関わり方・態度)・根源性(合理性の根源)としての宗教という、宗教の機能的定義に移行。しかも、心理的機能。個人的宗教性の伝統にのっとっている。集団的次元は、個人が触れることのできる「象徴体系」で代表されている。
→批判点:近代的「宗教」概念に強く規定されており、それに当てはまらない宗教現象、超越性の乏しい宗教現象は、包括できない。たとえばティリッヒ言うところの「偶像崇拝」は、宗教でないといってしまってよいのか。日本人における「無宗教」の宗教性も。中国宗教も聖俗不可分(祭政一致)。
 宗教の「外延」(概念の適用されるべき事物の範囲)に、宗教の「内包」(外延に共通する性質)が対応できていないという問題。指示対象と意味規定のミスマッチ。「西洋が世界を解釈する」という構造に由来する問題。

解決のオプション
・歴史的概念としての「宗教」と分析概念としての<宗教>を徹底的に区別。先週の、構築主義的定義。実体的定義と機能的定義の二段構え。学問的には周到な路線。
・だが、同じ言葉なので、区別は難しい。宗教学者内でしか通用しない。→いっそ「宗教」という言葉を使うのをやめて別の言葉を考える。深層文化。精神文化。cf. ドイツにおける「自然科学/精神科学」。これもけっこう偏る。
・いわゆる非「宗教」の、宗教性を明らかにしてゆく。「何でも宗教」(だったし、でありうる)という視点を戦略的に。cf. 後期の「宗教文化論2」

3-3 宗教心理とは何か
 そもそも心とは何か。「心」観の歴史性・文化性。心理学の「心」観は絶対ではない。言語そのものがまちまち。心、魂、精神、霊、heart, mind, soul, spirit、以下さまざまな言語によって異なるとらえ方。 「心」がない場合もある。ex. その人を指すのに、集団的属性、集団内身分しかない場合、個人の魂のようなものは考えられず、気のようなものが入っては出てと考えられる。個人性を付与された「心」(類似概念も含めて)は、歴史的に作られてきたもの。
 以上のような言語グループをおおまかに概括するなら、「人間の生の中心・主体」(cf. 心臓から脳へ、という局在性・階層性の問題。最近の心理学・哲学では、身体との絡みで、心身一元論的にとらえる動き)。

 次に、心理とは何か。=(反省的に同定された)「心」の現象・機能・過程・構造。これも歴史的・文化的所産。
 同定の媒体としての集団・制度・規範・理念・超越的実在・科学的なモデル・パラダイム・コミュニティ。

近代以前、宗教との関連のなかで把握されてきた心、「超越―内在」軸の設定
近代以後、心理学によって把握された心、還元的・構造論的アプローチ
宗教心理学:心理学的な心モデルの宗教への投影。意識されない内奥の構造から超越的表象を説明
 このように見ると、心理学の不変の対象としての宗教心理なるものはない。これも歴史的構成物。

大枠としては、宗教心理とは、
 通常の生を超越した説明モデルによって複層的に把握されるような人間の生の活動の中枢・主体にかかわる現象・機能・過程・構造
 日ごろは問題にならない。内奥性。そこから個人性。近代的文脈では、個人の私秘的内面。固定化した宗教を流動化することも。他方、集団や制度の深層に関わる面も。

現代では、宗教心理は個人的神話のネットワーク、小集団、グローバル・マイノリティに見られる。

いずれにせよ、宗教心理とは、宗教現象のある限定された側面にしか関わらないという自覚が必要。

***
後期に向けて
 私の仮設的定義:「宗教とは、われわれの生yを成り立たせているものxに関わる事柄」
 歴史的には、xとyの距離が拡大してゆく。「非日常/日常」「聖/俗」「人/神」
 「宗教とは、われわれの日常的生yを成り立たせているが非日常的であるようなものxに関わる事柄」
 「宗教とは、俗なる生活yを成り立たせている聖なるものxに関わる事柄」
 「宗教とは、人間yを成り立たせている神xに関わる事柄」
 社会が複雑化すると、xとyの距離が増大。「宗教」概念に結晶化。他方「宗教」の説くxy相関への合意が低くなる=世俗化。
→社会的解決:制度への信頼。
→心理的解決:xを無意識的なものとして解釈する技術の開発
xyの関係を、垂直方向(超越性)で考えずに水平方向(関係性)で考える。
宗教=心理=社会の交差点として、愛・信頼/コミットメント・社会性・道徳性に着目し、それを発達心理の視点から見てゆく。
エリクソンのライフサイクル論「与えられてある存在が与えてゆく連関=生の循環」

20011001
前期レポートおよび成績評価について
<必須>
 要約は皆さんよくできていた。感想は、「宗教=アブナイ」というイメージが偏った狭いものであることを認識できた、というものが多かった。そんなに多いのかと改めて驚く。
<任意>
 図書館で目に付いた本をまとめるという形式がやはり多い。授業で取りあげたことと関連していることは関連している。しかし、授業でやったことを踏まえていればそういう結論にはならないだろうというものが多い。たとえば、「教団宗教は怪しいけど、個人的宗教性はいい」と結論が出たところで、授業を思い出してほしかった。集団的宗教性の立場から個人的宗教性を批判する議論も出ていたはずである。レポートは、授業内容を踏まえたものにすること。
<確認>
出席していない人=02217, 02545, 03477, 03249。レポート未提出=02429. 04235
<部分的再提出>
04425=必須部分の後半三分の一の感想が、授業形式の感想になっているので、授業内容の感想に変えて来週までに再提出すること。
<後期に頑張って欲しい人>
 純粋に点数で計算すると60点に達しないが、一応出席していて必須レポートを出しているので、前期部分に関しては「げた」をはかせてやるつもりだが、後期に頑張らないとちょっとやばいかもしれない人。
02349, 04049, 04057, 04112, 04152, 04211, 04211, 04244, 04251, 04441, H0109, H0115
<参考までに>
60点代=29人、70点代=21人、80点代=10人、90点代=1人

後期の成績評価に関する改革
趣旨:必修なので動機づけの低い人も多いが、あまり落としたくない。点数をとりやすくすると同時に、熱意のある人にはきめ細かい指導ができるようにする。
・出席をとらない。
・期末試験と平常点で評価。ただし、期末試験で8〜9割評価するつもり。比率は前もって決めずに、コメント平常点がどの程度かによって考える。できれば80点以上の人の数をもう少し増やしたい。
・期末試験について。問題文は前ばらし。後期の授業内容を要約したものを私が前もって配付。それを問題文とし、穴埋め、および簡単な論述問題。
・平常点。授業時間内にコメントを書かせる方式は廃止。好きなときに授業に関するコメントを書いて、研究室に提出するか、メールで提出する(norick.h@nifty.com)。短くて構わないし、用紙も自由。授業時間内は授業に集中すること。つまり、時間内にコメントを書くのはやめてほしい。なお、質問は授業後に口頭でおこなってほしい(次の時間で紹介できるように)。
・どの程度出してくるか分からないので確約はできないが、必ず個別に答えるようにする。また、授業のなかで全体に向けて答えることもある。そのため、みんなの前で公表される可能性もあることを念頭に置いて、コメントを書くこと(もちろん匿名)。
・期末レポートを書く、書かないは自由。それも平常点コメントの枠に組み込む。

授業の形式に関する改革
趣旨=スピードを緩める。当初の授業計画に縛られず、学生の様子を見る。
・プリントは資料か、項目だけを書いたもの。板書を多くする。ノートを作るという意識でのぞむこと。
・学生の関心や理解・誤解の仕方によっては寄り道をすることもある。リクエスト歓迎。
・このようなやり方をすると、授業の論点が見えない、先に進まないと思う人も出てくるが、全体の様子を見ながらやっているということを理解して欲しい。

宗教心理学2001

後期授業概要
・講義導入、参考となるテキストとして、プリント「エリクソンのライフサイクル論」配付

・事例研究〜幼児期に親との関係が神との関係に影響した例

・幼少期の宗教心理

・事例研究〜青年期における性的虐待と自罰の観念の例、罰する神から許す神へ

・青年期の宗教心理

・事例研究〜無神論者におけるライフヒストリーと世界観の変容の例、広い意味での宗教心理

・成人期・老年期の宗教心理

余裕があったら
・エリクソンのライフサイクル研究〜ルターとガンディー

参考文献
事例の出典=J・ジョーンズ『聖なるものの精神分析』玉川大学出版会

理論的な部分=松本滋『宗教心理学』東京大学出版会

配付プリント
エリクソンのライフサイクル論、テキストと図表

20011015
事例研究〜幼児期における親との関係が神との関係に影響した例

症例・ハロルド
 41歳、会社員、生涯プロテスタント。15年、横柄な女性と結婚、妻は男を作り離婚。しかし、二人の息子の養育費を含めた生活保護費を払うことを要求される。
 ハロルドの両親。不仲。父親はアルコール依存症、仕事人間。母親は父親に対して、道徳的優越感。ハロルドに口やかましい。妹は母親と女同士で連帯、男は信頼できないという雰囲気。母親の男性観を変えるべく、ハロルドは優等生に。学費を稼いで大学卒業、大銀行に就職、結婚、孫を作る。しかし、その努力も離婚で水の泡。
 人生に対する基本的な姿勢は、まじめで良心的であったが、きわめて受け身的。出世のチャンスを見逃し続ける。家では、妻にすべて管理される。
 離婚に至るまでの長い過程を通して、ジョーンズのもとに来談。つねに、セラピストの指示を求める。指示が得られないと怒る。しかし、相手に指示されると憤慨して、受け身で攻撃的になるというパターンが分かっていたので、ジョーンズは指示を出さなかった。
 ついに、ハロルドは「アドヴァイスをくれない」と怒りだす。そこで、彼が怒ったといってジョーンズが批判すれば、いつものパターンに。しかし、ジョーンズはそれをしないで、ハロルドの怒りを受容。それによって、彼は自分自身が演じてきた受動性のパターンを理解できるように。以後、ハロルドの生き方は受動的でなくなり、仕事上でも自己主張、転職、また一方的な離婚調停にも合意しなくなった。
 ジョーンズは神イメージに変化がなかったか聞いてみる。「私はもう、神が自分のために何かをしてくれと祈ったりしません。以前は、私が何をすべきか教えて欲しいと祈っていました。しかし、今は聞くだけでなく何かをしなければならないということが分かっています」。
 ハロルドの以前の神概念=自分の得点表をつけていて、わずかな誤りも見逃さない存在。神との関係は恐怖と不安と怒りに満ちていた。彼自身も「自分が悪い、間違っている」と言い聞かせている(過酷な超自我の存在)。また、母親や妻との関係は、神との関係と似ていて、受動的で、つねに罪悪感を感じさせられるようなもの。
 現在の信仰生活。物事の善悪の判断を他人に仰がなくてすむよう、宗教について積極的に学ぼうとする。教会で、職業倫理に関する研究会を組織するように。

<考察>
 従順で防衛的な自己と、スコア記録係としての「神、母、妻」のセット。
→現実の母親、妻は変わらないが、彼の神は、要求・支配する存在ではなく、自発性を尊重し、励ます存在に。

20011029
質疑応答
「神概念の変化が、対人関係における受動性に気付かせた。こんな形で宗教が人間に影響する事もあるのかと感心した」
→一ヶ所だけ訂正ないし確認したいところがあります。授業中も強調したのですが、分析者ジョーンズは、セラピーが終了するまでは、神概念の話は持ちださなかったということです。そして、セラピー終了間際に神概念のことを聞いたのであって、ジョーンズが直接神概念について教えたことなどありません。つまり、ことの運びの順序は、1)怒りの奨励と受容をきっかけに、受け身的な人間関係に気づく、2)ジョーンズが、神概念に変化がなかったかたずねる、3)自発性を奨励し見守る神というイメージになってきたと答える。上の理解では、3)から1)への順になっているのでは。

自己というのは、自分の個人的経験から獲得したものと、他者はら与えられたものを内在化したものという2つのパターンがあるが、ハロルドのような受動性がパターン化していくという構造は、どういう時に身に付いたものなのだろうか。
→ここでは、対象関係のパターンがその人の自己のあり方を決定するという立場で考えられています。上のとらえ方は、私なりにまとめると、自分から学ぶものと他人から教えられるものから自己は成り立っているというとらえ方です。これはこれで別の見方だとは思います。ただハロルドの場合はかなり幼いころから、自分で何かを探究する態度を抑制して、母親の命令を素直に聞くように教えられてきていると思います。

ハロルドが自分の受動性パターンに気付いただけで、その生き方そのものまでもが切り変わってしまったのには驚いた。われわれは自分の行動パターンを認知しているつもりだが、日々同じ事を繰り返して
しまっているような気が。実は、自分のパターンを認知しているというのは錯覚なのだろうか。
→人間には必ず自分の気がつかない思考のパターンがあるというのが精神分析の考え方です。自分ですべて把握していると思っていても、です。「分かっちゃいるけどやめられない」の裏には、必ずその人の気がついていない動機やその動機ができる原因となった過去が隠されているというわけです。

・「共依存であったハロルドの母親は、実は無意識の内に夫について厳しく言う事で夫のアルコール依存症を助長していた」ということでしたが、「言う」ということよりも無意識の範囲内でもっと行動的に(積極的に)助長してしまうということもあり得るのでしょうか。例えば夫にお酒類を飲んでほしくないと思いつつ、夫の手の届くところに自らお酒を置いてしまうなど。
→ありえます。たとえば、どんなに言っても無駄だから放っておくしかない、とか。いずれにせよ、それでいいのだという理屈づけが必ずともないます(これを「合理化」と言います)。アルコール依存症になりかけの人を見ていると、夕食などは炭水化物をほとんどとらずに酒の肴だけで飲酒していたりします。これは奥さんの協力がないとできません。そうやって体を壊して、癌になっても、告知せずに、「最後
まで好きなことをやらせてあげよう」といって飲酒を放任するようなケースすらあります。

ハロルドのような境遇の人は他にもいると思うのですが、そのような境遇の人が全てハロルドのようになるとはかぎりません。それはどういうところで違ってくるのでしょうか。
→こればかりは明快な答えなど出せません。歴史に「もしも」はない、というのと同じ理由です。教科書的には境遇が同じなら「気質」の違いが性格の違いを分ける、となるでしょう。でも、個別の人間の発達には不確定要因が多い。同一の家庭に育った一卵性双生児は、遺伝情報も家庭環境も同一ですが、まったく同じ人生を歩むわけではありません。

ハロルドに反抗期はあったのでしょうか。反抗期があったとしてもいわゆる親に対してあたるというような一般的なものとは違っていたのでしょうか。
→一般的に青年期の反抗期は、単純な反抗というよりは、親に対するアンビヴァレントな感情として現れることが多いようです。青年期においては進路決定や経済的問題や人間関係において、どうしても親に相談したり面倒を見てもらわなければならないことが生じるわけですが、同時に親から自立しようという気持ちも育ってきます。それはあからさまな反抗をとるというよりは、親との距離の取り方の難しさとして現れるようです。ハロルドの場合は、立派な男性になって母親の鼻を明かしてやろうというところに、母親への愛情と憎しみがミックスされています。これも一種の反抗期の反応とは言えるでしょう。

私はカトリックの学校で育ってきたので、よく宗教の時間に話を聞いていたが、その時にはいつも、「神はどんなことも許してくださる」といわれていたので、神がそんなに脅威的な存在だと思ったことは一度も無い。なのでハロルドがなぜそんなに神を通して自分を責め続けてしまったのかが理解できなかった。また、神という超越的な存在と、母親や妻という俗世間的な存在をなぜ同じ次元につなげてしまったのかも理解できなかった。母親に人間的な限界性があるにもかかわらず、彼の中では神と同じくらいの絶対性をもってしまっていた。その点に彼が自分で気づくことが出来ないくらい、彼は生い立ちの上で常に抑圧され、型にはめられてしまっていたのだろうか。
→3週間後くらいにやる二番目の事例でも罪悪感と許しの問題が出てきますが、そこでは、許しのことは頭では分かっていたが、実感できなかったという言葉が出てきます。宗教的教えには、このような感情のこもった認知という問題がつきまといます。知識として知っているだけではダメだということ
です。許しはカトリックでもプロテスタントでも根本的な教義ですから、ハロルドも頭ではよく知っていたでしょう。でもそれが実感として思い描きにくい、神のイメージとしては罪をチェックする存在しか描けない、これはその人のおかれている対人関係の状況が大きく影響するということです。御指摘の通り、神はたしかに親を相対化するきっかけになります。しかし、それは親が子供の自律性を育もうとすることと相まって可能になります。宗教的教義が同一であっても、個々人の宗教心理は同一であるとは限らない、
このことを宗教心理学は明らかにします。宗教の同一性を保持しようとする立場から見ると、個人的逸脱にしか見えないかもしれません。でも、それは多かれ少なかれ、信者なら誰にでも起こっていることなので、否定しても仕方がありません。むしろ、だからこそ、個々人が自分の人生のなかで主体的に、より良い宗教心理を探究しようとする面白さのようなものも見えてくるのです。

「母・妻と似た神」から「自分を支える神」への転換、このような神はある意味、自分そのものとしての神ではないか。
→自立するということは、親から自立するということと、自分が親になるという両面があると思います。自分が親になるというのは、子どもを産み育てるという意味だけではありません。親から離れて独立した自分を、慰めたり、導いてくれるのは、もう自分自身しかない、という意味でもあります。このことは育児を通して、次のような経緯で現れてきます。1)自分の子ども時代の我が子への投影、2)我が子を世話することによって、自分の内なる子どもと関わる、3)親との関係の精算、4)内面化された親に縛られずに自分で自分を律することが可能に、つまり、自分自身の親になる。ここに神への信仰が関与することもあります。生身の親への依存と、完全な自立の橋渡しとして、超越的な親(神)への依存が挟まれるということです。

 コメントの数が少ないので、このように個別に詳しく返事することができます。今後も何か気がついたことがあったら気軽にコメントを書いてください。
幼少期の宗教心理

「発達」とは何か
・普遍的発達か

・反発達論、発達の個別性

・加齢・老化は、発達かどうか

・重層的か単線的か。

。ある程度普遍的な部分
 生物学的・生理学的発達。社会的位置。

・個別的な部分
 初期は気質、やがて環境との相互作用から、個別の性格が発達してくる。

・発達は環境決定論か
 むしろ足りないものを補い、間違ったものを是正しようとする創造的な面も。その場合、神のような空虚で柔軟な超越的参照点が役に立つことも。重要な他者が似た働きをすることも。

・ある時期に特徴的な生物学的・社会的状況がある程度普遍的なものとして存在、それへの複数の応答パターン、その現れ方・強弱に個人差があり、強力な固着が生じるとその後の人生にも大きく影響を与えてゆく。各段階のパターンが、別の段階のパターンの形成にも影響を与える。ときには正反対のパターンへの転換も。しかし、過去のパターンの上に重なる。重層的。ときには、それがある状況下のもとに反復されることも。力動的。

・「無宗教」の人には宗教心理の発達論は関係ないか。
 他者・世界への信頼、道徳観、世界観の成り立ち、文化とのつながり、アイデンティティの問題などが広義の宗教心理

乳児期
エリクソンのライフサイクル論を参照。時期、重要な対象関係

自分の感覚が世界のすべて。欲求・不快感→世話。

身体運動中心の遊び、集団的規則以前

全能感/無力感→家族への基本的信頼

自己の存在が肯定され、他者・世界と相互行為する基礎

大人=世界。神への信仰がやがて分化してくる。大人も人間に。

神への信仰は、危機に際して、他者・世界への信頼を回復し、再生しようとする試み→後の時期にも

一体感を求める信仰の基礎

20011105
質疑応答
「授業の終わりにまとめで「各段階のパターンが別の段階のパターンの形成に影響を与え、時には正反対のパターンへ転換されることもある」とやりましたが、もし正反対のパターンに転換できなかった場合に人はPTSDの状態になってしまうのですか?逆にいえば普通の人は、この正反対のパターンへ転換が普通にできるのですか?」
→これはトラウマがあることを前提にした質問ですね。それからここで言っている「パターン」とは、対象関係のあり方や行動様式や思考の傾向性などを指しており、中立的な概念で、必ずしもトラウマという出来事やそれによる障害のみを指しているわけではありません。それから正反対のパターンへの転換ということですが、これは「ときにはそういうこともある」という意味で、それが「発達」の課題だという意味ではありません(できなかったら〜の症状になる、とかではありません)。具体的には、青年期あたり
に、何かをきっかけにして、急にものの考え方や生きる姿勢が変わったりすることを念頭に置いています。宗教的回心などはこれに当たります。もちろん、そのような転換がない人の方が統計的には多いかもしれませんし(つまりこっちの方が「普通」)、それで問題はないでしょう。

「私も、発達=疑うべきだと思います。私は幼稚園の時部屋で遊ぶのが好きでいつも本を読んだりしていましたがそうすると必ず「お外でみんなとお遊びしましょう。」と言われて半強制的に外で遊ばされたのを覚えています。」
→私の場合小1のときに、校庭で一人遊びしているのを心配した担任が親を呼びつけけ、集団単位で活発に遊ぶよう指示された記憶があります。「そんなこといったって別に問題ないんだけど……」と、当時の堀江少年は不満/疑問に思っていました。

補足
・発達概念の普及→発達モデルの強化、と同時に「逸脱」の不可避的発生。
・発達の反省による修正→セラピーでやっていること。

アナウンス
・人間関係専攻の2年生の担任制度について

アンケート
・御協力ください。

講義
乳児期のところのやり残し幼児期(初期幼児期、遊戯期)

言語の出現→1)時間性、2)物的現実から自由な表象
1)時間性
過去の再構成、未来の予期
目的論的思考:なぜ?→誰かがある目的で引き起こした。
2)物的現実から自由な表象
想像力、体験された世界を強力な統一的イメージで表象、
自分の考えたこと、感じたことは、そのまま世界に実在すると考える(思考の全能性)

1)+2)→アニミズム、すべてのものは生きていて、意識を持っている。
動くものには意志があり、心があると考える。(cf. 「心の理論」の研究)

超自然的世界への親近感
擬人化、神=人間、男性、老人、王様

大人へのアンビヴァレンツ
・大人への、愛情と畏怖が交じった尊敬の念。同時に、第一反抗期。自律性・自発性の芽生え
・軽信と不信。「なぜ」という質問攻め。軽く納得してしまう面と質問でやり込めてしまう面

全体としては大人の価値観を強迫的に受容し、疑問を打ち消そうとする

大人の直接的教育、間接的影響(模倣)の大きさ(どちらかといえば、男子は服従的、女子は模倣的)
他律的道徳、規則は神聖、変えられない、強迫的
正義と善の実現を求める信仰の基礎
恐ろしい破壊的なイメージ、道徳的、教理的順応を迫る存在によって圧倒されることも
客観的責任論(結果の是非を問う)

児童期・学童期
潜伏期、従順さ。大人の虐待や拒絶によって、自分は悪者で無価値だと感じることも。

文化・伝統の体系的学習

論理的思考
物語・ドラマ・神話で、意味や一貫性を探しだす。
想像の余地を許さない文字通りの事実を求める。完全主義
「なぜ」という疑問に「どのようにして」で答える。

他者の心の理解。共同性、相互的尊敬、互恵性としての道徳。
学校での集団生活。仲間との比較から劣等感。共通の規則を守りながら、集団で遊ぶ

自律的道徳
主観的責任論(動機の是非を問う)
教導する存在との和解と連帯を求める信仰の基礎

アンケート

現在、来年度の宗教学関連の講義の編成を考えているところです。皆さんの御意見を反映したいので、以下の質問にお答えください。

質問 以下の講義題目のうち、興味を引かれるものに丸をつけてください(いくつでも可)。

!

 とくにありません←該当者は丸

質問 上の題目のほかに、開講して欲しいテーマがあったら書いてください。

 とくにありません←該当者は丸

質問 上記の質問に積極的に答えてくださった方へ。なぜそのようなテーマに関心を持つのか、理由をお書きください。

基本的には無記名ですが、これまでの質問に積極的に答えてくださった人は、ぜひ名前を書いてください。
所属          番号         氏名

20011112
質疑応答
「私も小さい頃は、ぬいぐるみに話しかけたりして「1つの生命を持つ個」と考えていたものだ。幼児期は無知ゆえにそのような世界に入り込むのだろうか。それとも母親(的存在)なり自分をとりまく環境が信頼できないかもしれないという不安を消そうとするために想像の世界に没頭してしまうのだろうか。」
→授業で話すべきだった重要な論点を指摘してくれてありがとうございます。ウィニコットという対象関係論の立場に立つ精神分析家(小児科医でもあった)は、子どもが外界にアプローチしようとする際に、ぬいぐるみなど何か身近なものに母親的イメージを投影する様子を観察しています。この場合のぬいぐるみのようなものを「移行対象」と呼んでいます。神もまたこのような移行対象の一種であるという見方をする人たちもいます。○○さんの考えの後半部分だと、「母親がダメなのでぬいぐるみ」という感じですが、実際には、1)母親への信頼から外界・未来への希望が育ってきたところで、2)さらに外界に手を伸ばそうとするときに不安が生じ、3)そこに母親的なものを求めて安心するというプロセスですね。

「幼児期の子どもの話をする先生の口調が、すっかりパパになっていてほほえましいです。子どもがいることで幼児期行動を再発見できたりすることもあるのかもしれませんね。」
→楽しんでもらって幸いです。実際、色々なことを教えられます。それは私自身の内なる子どもとの出会いでもあります。ただ、特殊な個人的経験を一般化しないように気をつけなければならないのも教壇に立つものの宿命です。とはいえ、個人的な思い入れがなければ学問は死んだものになってしまうことも確かです。うーん、今日は何だか私のほうが訳分からなくなってきましたね(^_^;)。

エリクソンのライフサイクル論によれば、乳幼児期に築かれた世界観が、その後の人格形成、人間関係の確立に影響しているということだが、そうすれば、早期において母親とはなれた子供や、虐待を受けた子供の世界観、神概念はどうなるのだろうか。
→これは前期でも話題になった、幼児期決定論の問題ですね。詳しくは繰り返しませんが(プリントを見直してください)、セラピーが欠損の埋め合わせをする、あるいは固定化されたパターンを崩すことに効果を示してきているということを想起してみてください。次にやる第二の症例研究は実際に虐待の問題なども取りあげます。焦点となる時期は乳児期ではありませんが、決定論ではないということは分かってもらえるでしょう。

別の授業で、仏教の思想(悟りのようなもの)を簡単に言ってしまえば「言語のタガをはずすこと」だと教わったたように思います。回の授業で、記憶は言語能力と深い関わりがあると教わりましたが、そうだとするならば、人間は言語を習得する以前の過去も未来もない段階こそが最も、いわゆる「悟り」に近い状態ということになるのでしょうか。
→仏教は、人間は自分が作り上げた幻想を実体化することによって苦しむ、と考えます。そこで、幻想が幻想であることを死ってそこから自由な境地を目指すわけですが、これは幻想の完全な否定にはなりません(とくに大乗仏教以後は)。むしろ、迷妄を迷妄と知りつつ、それと付き合ってゆく知恵を身に付けようとするところがあります。

仏教的な立場に立つと「発達すること」はむしろ「退化する」ことである気がします。そして、逆に「老化する」ことが今度は「発達する」ことにつながるようにも思います。
→こうなってくると、生きることはまったく意味がなくなってしまいますね。初期仏教にはこのような思想傾向があることは否めませんが、釈迦の苦楽中道の考えは、生を肯定することは悟りとほど遠いが、かといって生を否定するところにも悟りはない、というものです。

記憶と言語の関わりについて、個人的に少し興味があるので、よろしければそれに関する簡単な参考図書などを教えていただけると嬉しいです。
→榎本博明『<私>の心理学的探究――物語としての自己の視点から』(有斐閣、1999年)など。
前回のアンケートの結果

 この授業では50名が回答、他の授業の7名をあわせて、計57名。

#

 なお、難しいテーマでも教育的配慮から教えなければならないこともあり、それはあくまでも教官の判断にゆだねられるべきである。また、大学の講義は、あくまで教官の専門的な研究の蓄積の開示という意味合いをもつものである。この2点を留保しつつも、学生が主体的に自覚的に持っている関心には誠意をもって応えるべきであるという観点から、来年度、および再来年度の私の講義題目は以下のようなものにすることを予告します。

来年度:前期「世界の神話と宗教」
    後期「死生学――スピリチュアルな癒しを求めて」
再来年度:前期「宗教紛争と国際政治」
     後期「現代人生論――愛と悪を考える」

 時事的なことなので、来年に宗教紛争論をやればよいではないかという声もありそうですが、すでに今年の宗教文化論2で消化してしまいました。「世界の神話と宗教」にかぶせて、ちょこちょこしゃべりには入れるつもりです。

 ところで、死生学を期待する人のコメントにはとても熱意あふれるものがありました。私も授業のやりがいがあるというものです。

20011119
質疑応答
 虐待されている子供が親から逃げようとしないのは、親との力の差を見せつけられ、反抗しつつも親のいうことを聞かざるを得ないからだという事だが、では、もう自分で判断し、行動できる年齢に達している場合の離れられない理由は何か。
→他の人のコメントからもわかったことですが、どうも「力づく」のイメージが強すぎたようです。口頭では言ったことですが、補っておきましょう。1)そういう力のある人だからこそ「守ってくれるだろう」という期待が出てくる。2)さらに虐待は「自分が悪いからだ」と理由づけをして、子どもみずからが親を正当化するようになる(以上2点が、神観念の形成に大きな役割を果たしているというのがフロイトの宗教論の骨子です)。施設に保護された子どもは、施設の大人たちの暖かい対応に触れて、「大人たち」への依存欲求が高まってきます。それが、離れ離れになった親にも甘えたいという欲求に変わり、1)の期待とも相まって、親元に帰りたいという気持ちにつながります。そして、親も離れてしまったわが子と一緒に生活したいと思って迎えに来る。そこで帰ったところで、場合によっては悲劇が起こるということもあるわけです。

 また、子供のころ虐待を受けたことのある人が親になったとき、その人も自分の子供に虐待をしてしまうということを聞いたことがあるが、なぜか。子供のとき自分が親に虐待されてもそれを親のせいとせずに、自分のせいにして、親に服従し、“親とはこういうものだ”と親イメージを築いたことによるのでしょうか。そうだとしたら、どのようにして解決されるのでしょうか。
→自分でここまで考えたとしたら大したものです。最近はあまり聞きませんが、一昔前には、男親や男性教師による体罰の行き過ぎというのが盛んに取りざたされていました。その父親が軍国主義的な教育を子どもにしていたという症例も読んだことがあります。最近の例では、専業主婦による密室育児が問題視されているようです。その場合、体罰する父親のようなイデオロギー的合理化ではなく、子どもを愛しすぎるあまり、コントロールできない子どもにいらだつ、虐待も実は子どものためにやっているという心情が走って止められなくなるという感じです。「すべてを子どもにかけ、すべてを子どものために捧げ、犠牲にしている」という重い愛情が、「自分の人生が思うままにならないのだから、せめて子どもの人生を重う通りにコントロールしたい」という欲求と入り交じっている感じです。女性の地位向上という理想と、専業主婦という現実の乖離に苦しむ女性達がいる。子どもを教育する明確な目的が失われた現代において(「家の存続のため」「お国のため」がなくなって、育児が親の自己実現の障害として考えられるようになっている)、初期教育を母性的な心情のみに頼り切る点に危うさを感じます。したがって、問題解決としては、子どもの教育の責任を分散させる、色々な大人たちが関われるように育児環境を整える、というものがあるでしょう。そのうえで、虐待の合理化の仕組みを意識化し、解きほぐしてゆくことが必要となるでしょう。
青年期の導入のための症例
 〜幼児期・児童期的な宗教心理(懲罰的神表象)の乗り越え

1)シルヴィア
 27歳、秘書。5歳の時に、東ヨーロッパからアメリカに家族で移住。東欧人達のペンテコステ派のゲットー[孤立集団地区]で生活。両親は亡くなるまで英語を話さない。周囲から孤立。人々は、他人に対して疑り深い。また集団内にもいくつかの人間関係の壁。
 児童期の性的虐待と近親相姦。誰にも言い出せない。母親に話したところ、「汚い」と言われ、石鹸で口を洗われる。秘密、自分は他人と違う、引きこもり、孤立。コミュニティの人々も引きこもるシルヴィアを避けるように。ゲットーを脱出して家出、高校の友人と同棲。友人の紹介で働きだす。
 コミュニティからの孤立、疑惑、発見されるのではないかという恐怖、家族の無関心、罪悪感や怒りなど、これらの情動が、治療の場で理解され、受容される。治療の場は、それができる安全な場所に。
 「自分には間違ったところがある」「自分は人と違っており、理解されない」、他者に受容されることの拒絶、孤立へ(主訴)。
 治療を終える際にジョーンズに言った言葉「あなたは何時間ものあいだ、私と戦ってくれました。あなたが私を受け入れようとするのに対し、私が防衛する、それと戦ってくれました。結局、あなたがそうしてくれたのは、私のことを配慮ケアしてくれるからだということが分かりました。この戦いを通じて、自分が人から受け入れられるということを拒絶するやり方が、どういうものかが分かりました。それが分かったということ、これが、治療のなかでもっとも大きな変化でした。今、私は人の配慮や賛辞を受け入れることができます。虐待に直面することを、あなたはせかしたりせず、またそんな私を責めることなく、寛容でいてくれました。“私を理解して欲しい、怒らないで寛容でいて欲しい”と、人に要求することは、別に間違ったことじゃないんですよね。というか、間違いじゃないんだって思いました。誰かが私と一緒に頑張ってくれる、私のことをケアしてくれるという経験、これが治療のなかで一番助けになったことです。人から理解されることを通じて、自分自身を理解することができました。私の身に起こったことを、私自身が理解し、受け入れることができるようになったのも、あなたがそれを理解し、受け入れてくれたからです」
 信仰の変化(治療後に質問)。「私は以前は分別くさい宗教が好きでした。でも、それが有害だということが分かりました。今は、以前なら決して見ようとしなかった神の愛について触れた聖書の箇所を見るようになりました。私にとって、神はもはや審判者ではなく、慈悲深い存在となりました。神の愛は私の誤りよりも大きいということが分かるようになったのです」。
 治療における忍耐と受容と寛容、神の忍耐と受容と寛容、自分自身に対する忍耐と受容と寛容。
 ジョーンズ「自分の誤りや罪悪感を受け入れるのに、神の愛は役に立っていなかったのですか」
 シルヴィア「神が愛ある方で、いつも私のことを守っていてくださってるということは、頭では分かっていたのですが、それを実際に感じたり経験したりすることはありませんでした。逆に、自分自身を受け入れられるようになってはじめて、実は神や他者が自分のことを配慮してくれていたんだということを受け入れることができるようになったんです」

2)バーバラ
 35歳、福音派プロテスタントの背景。嗜癖のある女性のためのソーシャルワーカー。父親から捨てられ、母親に育てられる。三人兄弟の末っ子。長男は放課後働きに。次男が彼女の面倒を見、彼女に八つ当たりを繰り返す。思春期に入って、この兄と近親相姦・性的虐待。
 20代半ばに大学院で出会った男性と結婚。夫との関係は良好だったが、バーバラは、母親になることに不安を感じ、子どもを作ろうとしない。夫は子どもを欲しがっていた。またバーバラの仕事はハードで、出産・育児に懸念。子どもを作る作らないが、結婚の危機にまで。抑鬱と自殺念慮。ジョーンズのもとに来談。3年間、面接。そのあいだに転職、妊娠、抑鬱解消。
 バーバラ自身の書いた宗教生活に関する手記(治療が一段落したところで、神表象について質問したところ、詳細なレポートとして持ってきたもの)。
 幼児期の神表象=万人の記録をつけている審判者としての神(あごひげの老人)。兄との関係で罪悪感。無価値感。性的虐待が始まったころ、地元の教会員に、しかし罪悪感を強められ、救いにならない。許しは道徳的完成に付随して起こると教えられるが、それは近親相姦中の彼女には無理なことだった。
 若年成人期の神表象=20代のころ、大学院を出て結婚し仕事を見つけたころ、友としての神、仲間としてのイエスというイメージ。夫や患者や同僚や治療者との連帯感、自分自身に対しても良い感情。しかし、慢性的な抑鬱状態は緩和されなかった。
 現在の神表象=言葉では表せない。そこで、美しい自由造形の彫刻をもってくる。その頃、バーバラは彫刻教室に通っており、また太極拳やエアロビクスもやっていた。脈動するような色彩。抽象形式の花や葉のように見える。成長と生命。エネルギーや力。「神のうちに、われわれは生き、動き、われわれとして存在する」という新約聖書の一節を、彼女は引用。神はいつも、そこにいる。普遍的だが、親密なほど個人的で、永続的な生命のエネルギー。
 ジョーンズに対する言葉「あなたが私を受け入れてくれたのが良かった。私があなたのことを一生懸命締め出そうとしていたときさえ、あなたはそこにいてくれた。それが私にとって、大きな慰めでした」。
 いつもそこにいてくれる存在。成長への意志。治療者と神の類似性。

 「私が以前好んだ聖書の物語は、ソドムとゴモラに対する神の罰でした。それから洪水の話などは、子どものころに何度も読み聞かされていました。しかし、私は先日、神が世界を破壊したことを後悔したと書いてあるのに気がつきました(罪を犯して滅んだ人のために苦しみ、悲しむ神)。また、イザヤ書を読んでいて、神の手のひらには私の名前も書かれているんだ、ということが分かりました。私はそれを読んで泣きました。どうしてこのことを誰も教えてくれなかったんだろう。神がご自分の破壊性を後悔しているのに、なぜ私の家族や牧師には、それができなかったんでしょうか」

20011126
質疑応答
ちょっと前にさかのぼった質問「親の教育によって神観念が変わるということは分かったのですが、例えば外界との接触があまりない家庭において親=神となることはないのでしょうか」
→思考実験としてはありうるでしょう。ただその場合、神という概念そのものが形成されないかもしれません。親が絶対的になるわけですから、人間を創造するような神の余地はないでしょう。
 親子関係と宗教の線引きはどこで生ずるかという問題にもつながります。子どもにとって親が絶対的である場合、親の親、つまり祖父母はどうなるか。論理的にはもっと偉大でなくてはなりません。その延長線上に祖先を考えると、これはもう祖先崇拝という立派な宗教になります。もっとさかのぼると、部族や王朝の祖がいて、さらに偉大であると考えられる。戦前の国家神道では、天皇は日本民族の祖先である日本神話の神々の直系の子孫であると考えられていました。古代オリエントの神も基本的には王朝の祖先なのですが、日本よりも王朝の盛衰が激しいので、そのような有限な権力と結びつかない絶対的な神の観念が形成されるようになります。それが次第にユダヤ・キリスト教の神観念につながってゆきました。こう考えると、親と神の関連というのは単なる類似性にとどまらない、必然的なつながりがあることが分かるでしょう。
 超越的な神観念を立てる宗教や、さらには祖先崇拝とも縁遠いところで、親以外の大人から叱られるようなこともなく、育つ子どもは、○○さんが仮定した状況とかなり近いのではないかと思われます。その場合、親が本当にパーフェクトならいいのですが、現実にはそうも行きません。ほんの些細なことでもトラウマになる可能性が出てきます。おそらく、これから先、閉ざされた育児環境が改善されなければ、子どもが大人になってから親を訴えだすような事例はもっと増えてゆくことになるでしょう(そうした事例が最近日本でも増えている)。

今回の授業の最後に少し出てきた、「神が悪を創った」という部分がとても印象に残った。私もずっと、神のことを完璧で、あくまでも罪を犯した人間を許すだけの存在、受容し、更正へと目覚めさせるだけの存在だと思っていた。だからバーバラの指摘は私にとっても非常に衝撃的だった。「罪」というものを創造したのもまた神であり、そのことが、もしかしたら神自身の「罪」であるのかもしれない。人間が罪を犯し、それに対して苦しむように、神もまた人間の罪のためだけでなく、自らの罪のために苦しんでいる。だからこそ「神は私たちと共におられる」という言葉があるのだということに気づいた。そう考えると、「完璧な神」「罰する神」に恐れおののき、自己の欠点ばかりを見て自己を否定し、追い詰められてしまう人の心も少しは解きほぐされるのではないかと思った。罪から完全に解放された存在などない、罪を背負って初めて、善を目指す生き方ができる。それが究極の善への道であり、神の由来でもあるのではないかと思った。神概念が大きく変わった指摘だった。
→こういうコメントをもらうと教えていてよかったなと思います。創世記の冒頭は、天地創造ですが、その次にエデンの園とそこからの追放の物語が続きます。私見ですが、罪も犯さないかわりに善悪を判断する自由な精神を持たない状態、ある種、動物のように本能のまま生きている状態、このような状態なら、悪もないでしょう。しかし積極的な善もまたないでしょう。善悪を知るような自由な判断力をもった人間は、自動的に、必然的に、悪の生じうる世界に生きることになります。神に反した人間を呪っている一節と読む人が多いと思いますが、私には、厳しい世界へみずからの意志で旅立とうとする子どもに対する悲しみ、自分のもとを離れてしまうことへの怒り、しかし自由になって自立した子どもを引き止めておくこともできず、別離を受け入れざるを得ないやるせなさが、ひしひしと伝わってくる箇所です。神にできることはもはや希望することだけです。自由に不可避的にともなう悪を克服して、善を実現してゆくことをです。より深く考えるための参考文献として、H・S・クシュナー『なぜ私だけが苦しむのか――現代のヨブ記』(岩波書店、1998年/原著1981/9)、上枝美典『「神」という謎――宗教哲学入門』(世界思想社、2000年)をあげておきましょう。

 今までの事例をみてきて、“神”というものは自分と他者の関わりを通して自分の中に生まれた心的存在だと思った。“神”というのは他者との関係の中で変化する“自分”もしくは“自分を見ることのできるジブン”といったものではないだろうか。そう考えると、“自分は他者に受け入れられている”と“自分も“自分”を受け入れていいんだ”と“神は自分を見守ってくれている”という三つの感覚が、連動して起こってくることも説明できる(堀江の方で若干文章をまとめています)。
→経験科学志向の学生が多い人関のなかでは珍しく、抽象的な議論ができる方のようですね。直観的なところもありますが、おおむね賛同します。色々な回答ができるコメントなので、まともに返事をしていたら膨大な量になってしまいます。今日のところは、ポイントを箇条書きするにとどめておきます。いずれも○○さんの意見を補足するものとして参考にしてください。個別に突っ込んで聞きたい場合は直接つかまえてください。
・人間の反省可能性と超越的なものの生成との連動(動物には両方ともない/乏しい)
・具体的他者との経験に影響されながらも、それを超えたものとして構想される理念的他者としての神。
・超越的視点が設定されると、個人としての自己が自覚されること。
・コフートの自己心理学における「自己―対象」概念。幼児においては、自己も他者もなく、自分と切り離すことのできない他者との関係がただあるだけで、そのなかで他者の果たしていた機能が自己として成立してくる。
 cf. http://homepage1.nifty.com/norick/の「対象関係論的宗教心理学」(去年の講義)

青年期の宗教心理

1)抽象概念、思考能力の高まり、2)しかし自信がないため、他者の意見をつねに参照

1)
教典に書いてあることを文字通り信じるのではなく、メタファーやアナロジーとして理解することができる。非神話化。倫理的理解も
 幼児期:想像力あふれるアニミズム的・擬人神的信仰
→学童期:神話直解的信仰
→青年期:科学的世界観と折り合う倫理的信仰

三分の二は懐疑を経験(その半数は16歳以前に)、「御利益が得られなかったから」「合理的でないから」「教会・教団に不満」

回心体験(誰でもするわけではない)は16歳前後に多い。(cf. 前期のジェイムズの回心論)
典型的なプロセス:自己中心的信仰(自分に都合のいい信仰)の挫折→懐疑・不信仰→愛他的信仰へ回心

懐疑に至らない場合、既成の価値観(宗教的・イデオロギー的)の内面化によって社会化、素朴な信仰に

2)
対人関係の視点から環境をとらえ直す、重要な他者・仲間集団の意見や権威に従う

価値観と対人関係における「熱中/幻滅」→持続的な誠実さへ

物語能力、個人的神話の形成、過去の自分を説明し未来の自分を占うようなもの、アイデンティティの形成へ
大部分の大人はこの段階を経て、アイデンティティを形成し、落ち着いてゆく

新しい思想体系の創始者→アイデンティティの危機から、社会批判へ、思想の革新へ
しかし、反社会的な否定的アイデンティティを共有する仲間集団への内閉も
(政治的・宗教的カルト、ギャング集団)
また、アイデンティティの混乱から精神的不安定になる場合も。

エリクソンの『青年ルター』
父親はルターを法律家にさせようとする、突然出家、父の怒り、二人の弟の急死後、周囲の説得で認める、その後ルターは異常なほど厳しい求道生活へ、父との激しい葛藤を「父なる神」との和解につなげる、教皇という世俗的な父性的権威への挑戦、神への絶対的帰依を説く。

まとめ
認知的<信念>と
対人的<信頼>を基礎としながら
究極的なものへの<信仰>が選び取られる。
それが人生を充実させることで強まってゆく(松本滋『宗教心理学』125-136頁)。

20011203
質疑応答
「悪」というのはある種の他者への依存である気もします。誰かに頼りたい、誰かに認めて欲しいと思うのは人間としてとても自然なことであると思うし、また私自身そうなのですが、いつまでもそうやって他者の中に自分の価値や居場所を求めていたのでは生きづらいし、時に行き詰まってしまうのだろうと思います。そんな時に、「神」と呼ばれる存在が自分の中にあるか否かが重要なのだと思います。前回の授業で取り上げられていた他の方のコメントの中にもありましたが、自分を客観的に見つめる視点、誰よりも自分自身を認め勇気付ける「自分」こそが「神」なのだろうと私も思います。そして、それを見出し自己を確立することが結局は周囲の人びとを幸せにし、世界を「より高次な善」へと導く手がかりとなるように思いました。
→丁寧に授業内容を理解していただいて何よりです。“他者への依存→神と関わりつつ自己の確立→他者との高次の善”というプロセスを念頭に置いているようです。この図式はある意味、キリスト教の王道とも言えるかもしれません。とりわけ、青年期においては、自分を方向づけるのに一つの有力な道ではあると思います。
 ただし、紹介している事例の著者であるジェームズ・ジョーンズは、他者との関係と自己のあり方と神概念のあり方は、どれが先行原因だとは言わずに、ただ連動して変容するとします。そして、彼は、「他者に依存せずに自立したうえで他者を尊重する」というフロイトの道徳観(上のコメントに近い)に対して、「依存なき自立は実際上ありえない」と考え、セラピストへの「適切な依存」を通じて、他者への適切な依存を促すという戦略を採用するに至りました。もちろん、○○さんも「誰かに頼りたい、誰かに認めて欲しいと思うのは人間としてとても自然なことであると思うし」と書いているので、この点は納得されることでしょう。
 私は、ジョーンズほどフロイトに冷たくはなく、フロイト的な自立志向は、理念としてはもっともだと思っていますが、ある意味英雄的であり、誰もが達成できるわけではないとも考えています。ですから、○○さんの考える立場についても、心の底では賛同するのですが、それ以外の道もあるということは念頭に置いておいてほしいと思っています。たとえば、他者の向こう側に神を透かし見るとか。もちろん、それも絶対ではありません。
 最終的には、間違い――悪――から学ぶという姿勢が重要なのでしょう。悪から身を引き離して自分だけきれいになるというのでもなく、自分の罪が許されることばかりを希望するのでもなく。

20011210

質疑応答は省略

成人期の導入の事例
4)マーティン
 39歳、大きな大学の英語の助教授。素晴らしい博士論文。しかしスランプに。何も書けない。友人が公衆の面前で話をすることへの恐怖を、ジョーンズの数回の催眠で、克服したと聞いて、来談。しかし、催眠を数回するも効果なし。情熱ある学生たちの前では生き生きとしていたが、そこから離れると気力が無くなる。執筆中の本に登場する作家にジョーンズが言及しても、無反応。
 父親は医者、母親は教師・高校の校長。子どもにはあまり関心がなく、良い成績をとれというプレッシャーもなかったが、名門大学に進学。マーティンは、当初ジャーナリストや作家になりたかったが、両親は学問に傾倒していたので、彼も学問の道に。
 大学院で、詩人であったジェニファーに出会い、結婚。互いに支え合う。
 一人になると起こる、空虚感に飲み込まれる恐怖。冷淡だが競争的雰囲気に包まれた家庭環境を連想。幼いころから、怒りの感情をコントロールしてきた。現在ではそれが他者への知的批判に置き換えられている。辛辣で的を射た批判は、学者としての出世につながる。また、出世は両親の目を引きつけることになる。しかし、業績づくりと、ポストの獲得が終わったいま、その必要がなくなる。今や、他人を批判するだけでなく、自分自身の言葉を創造する必要があったが、そのための資源が自分にはない。
 治療の過程で、怒りの感情が噴出してきた(コントロールされた知的な批判・皮肉を超えて)。そこで、1日1時間、怒りの言葉をタイプライターで打ち込むようアドヴァイス。それが1ヶ月続く。やがて、自分が見逃していた重要なテーマが見つかり、本の執筆が完成。
 マーティンは宗教的でない人。そこで、人生観について尋ねてみる。学生のとき、宗教は馬鹿にすべきもの、非難すべきもの。マーティンによれば、世界はニュートン物理学を反映したようなもの(アインシュタイン以前の、絶対時間と絶対空間に規定された、スタティックな宇宙。主体と切り離された客体としての宇宙)。「われわれの生きる現実がいかに無意味か、にもかかわらず生きる理由を見つけなければならない。そのような恐怖にかられながら、しかし、それをごまかし、やり過ごす。そういう無数のやり方を記録することこそが、現代小説のテーマなんです」。世俗化した社会における人生の意味の終わりなき探究。彼の人生も、真理の終わりなき探求、徒労に終わるような探求。
 ジョーンズに対して、距離をとり、感情を抑制。ジョーンズの共感と理解を馬鹿にし、怒り、皮肉る。ジョーンズはその怒りを奨励する。そのうち、ジョーンズのほうこそ感情を抑制しているではないかと、マーティンは非難。その時、「ジョーンズは真理から彼を遠ざけている」「小説は真理から彼を遠ざけている」「両親は彼を遠ざけている」のあいだの平行性が気づかれる。そして、それらすべてへの怒りに気づく。学問的追及を怒りのはけ口にしたり、そこに無い物ねだりをすることの不必要さに気づく。
 「世界観が変わりました。世界は、別に何かを隠しているわけでもないし、私が真理を発見できるかどうか試しているわけでもありません。そこには創造やエクスタシーもある。異なった作家が現実の異なった側面をとらえ、異なった批評家たちがそこからそれ以上の意味をくみ取り、創造してゆく。私はそこで、仕事をすることに満足を覚えます。別に「答え」(究極の真理)を見つける必要などないのです。何もないところから何かが生まれてくるこの宇宙は、神秘です。そこで創造することは、私たちを人間的にしてくれます」。冷たい親子関係と戦闘的無神論と、執筆のスランプ。人生の神秘と複雑で豊かな世界観と、執筆を通しての無限の創造への参入。
<考察>
 他者に対する彼の辛辣な発言を、ジョーンズは「怒り」として解釈。しかし、マーティンは「客観的な評価だ」と反論。そこで、信頼関係が育つまで待つ。すると、ジョーンズへの批判。「心理学は人文科学でもなければ自然科学でもない中途半端な学問」「机の上が片づいていない」「前回話した内容なんて覚えていないんでしょう」。ジョーンズは、何とか防衛的にならずに答える。マーティンの言うことに同意し、批判してくれたことに感謝。「批判→防衛→再批判」というパターンをずらす。
 学問的批判は、実は怒り。怒りは、実は人間味あふれた関わりへの欲求から発している。人間味あふれた関わりを望んでいるのに、遠ざけられているという怒り。(しかし、ここで「人間味あふれる関わり」をジョーンズが演じて見せても、マーティンは乗ってこないだろう。この点がこれまでの事例と違う点)
 治療の転機は、「ジョーンズのほうこそ、感情を抑制して、自分を遠ざけているのではないか」という怒り。親に対する関わり欲求が、ジョーンズに転移された。同時に、彼自身の世界との関わり方をジョーンズに投影している。したがって、ジョーンズへの怒りは、自分自身への怒りでもある。世界と関わらない態度、自分の優越性をアピールしあい、批判を応酬しあう態度、それは、彼の両親の態度でもあり、彼自身の態度でもあった(自己対象の内面化)。そのことに気づくことで、それが相対化される。そして、実は自分が心底望んでいる、「世界や他者との人間的関わり」の可能性を追求するほうに転じる。(治療者への転移は、最初は幼児期の対象関係の反復だが、それがこれまでになかった全く別のものに生まれ変わる。転移は、対象関係の反復であるだけなく、絶えざる再創造の一環という主張を裏付ける。)

200112166
質疑応答
マーティンの体験とピーク・エクスペリエンスの違いを考えてみました。マーティンは本来の自分の姿をあらゆるストレスによって抑圧されていて、ジョーンズ氏によってそれが解放され本来の自分に戻れたようで、ピーク・エクスペリエンスは衝撃的な体験によって新たな自己を見付ける事のように思いました。→マーティンはもともともっていた本来の自分を取り戻したという読みですが、新しい自分に生まれ変わったといえなくもないのでは? プリントの「考察」というところに、幼児期になかったものが再創造されたという趣旨のことを書いておきました。幼児期においてすでに抑圧されてきた「本来的自己」というものがあるとすれば、それは生まれる前に起源を持つことになってしまうので、実際上「新たな自己」と呼べるでしょう。ピーク・エクスペリエンスも、潜在的な自己の可能性を発見する契機になるとマズローは考えているので、「本来的自己」と「新しい自己」は実際はそうちがわないのかもしれません。人格変容を見る視点や説明のための枠組みの違いかもしれません。たとえば、留学して帰国したら友人に「変わった、変わった」といわれた。でも、自分からすれば、「日本の学校教育によって押さえつけられていた本来の自分の持ち味が回復されただけだ」ということになるかもしれません。

成人期以降の宗教心理

1)基本的には、ある程度固定的なアイデンティティ=青年期の延長線上

自立した成人として価値観を内在化
〜したがって権威への盲目的服従ではない、教わった世界観を相対化、自分の価値観を構成
 しかし、自己の限られた世界観に、他の世界観を押し込もうとする傾向も

「同一性/異質性」の問題、自分と異質なものを排除しなければ不安な状態は、まだ同一性が不安定だから。固定的な同一性は、一見確固たるものであるように思われるが、実は不安定さを抱える。

多くの人は、「宗教」的価値観であれ、「世俗」的価値観であれ、上のような固定的同一性・排他的同一性を維持しようとする。

2)中年の危機
今まで切り捨ててきたもの(異質性・無意識)との直面〜cf. ユングの個性化(後半生の課題として)
→伝統の再発見、他の伝統にも関心(排他的ではない探究)
私の価値観は自分自身にとっては正しいと思うが絶対ではない

3)老年の危機
死への直面
人生の「統合」という課題
→絶望
 嫌悪
 躁的防衛
(いずれも排他的同一性の破綻への反応パターン〜抑鬱・投影・否認)

完全ではないが掛け替えのない人生、他者の人生も同じように掛け替えがない、人間へのいとおしさ

以上を発達段階ととるのが、ユング・エリクソン・ファウラーの立場。
排他的信仰・不信仰→異質なものとの出会い→ある種のヒューマニズム(もはや「宗教」に限定されない)


20020107
質疑応答
 冷戦後の世界にあふれ出した様々な民族紛争は単に宗教間の争いではなく、もっと複雑な問題が絡み合って起きています。しかし、それを解決するために必要なのは、どちらかを消滅させるのではなくて自分の同一性をより安定にすること、つまり異質性を容認することとそれを可能にする場を作ることだと思います。
→実はエリクソンは「超越的同一性」という言葉を使うことがあります。異質性を容認できない排他的同一性と、異質性を容認することのできる同一性の区別を前回教えたと思いますが、この超越的同一性は、そこからさらに1歩踏み出して、他者の中にみずからの同一性を求めようとする働きです。他者から学び、他者との関係のなかでみずからの同一性を練り直そうというもので、人類全体を対象関係の範囲とする人間にとって必要なものということができるでしょう。

授業を受けて衝撃をうけたのが、私自身が普段考えていたことが「老年の危機」の分野であったことです。
最近「自分は今まできちんと人生を歩んできたのだろうか」ということについて考え込んでしまいます。その時、もう過ぎ去ってしまったときは取り戻せないのだという反省や嫌悪の気持ちと、これから修正できるという前向きな気持ちが交差して心の整理がつかないものになってしまいます。私が最終的に感じていることは、やはり神はいるんだということです。例えば人生において何かを選択する時、必然的にそうなってそのことが自分にとってよい結果をもたらした場合、人生自分にとってよくなる様に神が選んでくれているのだと思ってしまいことが多いです。
→ある意味老年期の危機は、青年期の同一性の模索の危機と似ているところがあるかもしれません。老年期の話をすると、「そうか、老人になってから悔いのないように、自分のアイデンティティについてしっかり考えてゆこう」と思う人も多いのですが、「決して後悔のない完璧な同一性」を求めようとすると、実際にはまったく欠点のない人生などないので、「排他的同一性にしがみついていたために、いったん後悔しだすと止まらない」という状況に陥る可能性があります。とはいえ、青年期の同一性決定というのはある意味「賭け」なので、「これしかない」という気概もまた必要なものです。結局、完璧な人生がない以上、後悔したらきりがないことは分かり切っているのですから、「後悔は付き物」「自分を許せる反省を」という気持ちが大切なのかもしれません。人間的な視点から見たら良いところも悪いところもあるけれど、それなりの意義はあったと考えるとき、そのように自分の人生を達観できる様な視点というのは、おっしゃる通り「神の視点」なのかもしれません。

講義
 次ページからの「宗教心理の発達・要約」を解説する。後期の授業の要約である。難しい文章と感じる人はよく復習しておくように。これをもとに試験問題を作る。登場する心理学的用語の意味は説明できるようにしておいてほしい。また、実際の試験問題は、さまざまな説明的文章を省いた短いものになる。そのうえで、ある箇所についての説明(省かれた部分)を求める。文章を単に暗記するのではなく、理解していないと答えられない問題も出すので要注意。
 なお、試験を受けて合格点をとれば、それなりにいい点数がつくと思うが、その他に自由提出で字数制限なしのレポート(短いコメントも含む)を、いつも通りメールか研究室に提出してもよい。これは出さなくても成績が落ちるということはない。あくまで書きたい人が書くように。 宗教心理の発達・要約

 人間の一生は、「与えられてある存在」(子ども)から「与える存在」(大人)への転換を軸として展開されている。ゼロからスタートした赤ん坊は、大人から何もかも与えられて大きくなる。やがて成長して大人になると、今度はみずから生産し、創造する側に立ち、次世代を育むようになる。「生かされている」ことを実感しつつ、みずから主体的に「生きる」のが人間の姿である。このような「生」の循環こそが、エリクソンのライフサイクル(人生周期)論の隠れテーマである。
 他方、宗教とは、みずからを生かしているものを認めると同時に、その働きをよりいっそう展開しようとすることであり、そのための具体的規範を伝達し、伝承することである。この「生かしめるもの」が、神とされれば、ユダヤ教やキリスト教やイスラームなどの有神論となり、祖先とされれば祖先崇拝となる。仏教においては「法」が該当する。宇宙を成り立たせている法を悟り、それに沿って生きることを目指す。そのために、法を体現し、法を説く仏陀に帰依して、みずからも仏陀のごとくなろうとする。
 したがって、「与えられてある存在が与えてゆく連関」という構造に、心理学も宗教も触れていることになる。伝統的宗教の教えを表面的には信奉していなくても、人間の生の真実を深く洞察してゆけば、この共通の構造に行き当たるだろう。以下、各発達段階に区切りながら、その詳細を記述してゆく。
 生まれたばかりの赤ん坊は、何も持たず、何も出来ない。すべてが養育する大人にゆだねられている。欲求のすべてが大人によって充足されるという意味で、赤ん坊は全能かもしれない。しかし、大人がいなければ何も出来ないという意味では、無力な存在である。赤ん坊は自分が無力であるがゆえに大人を頼るしかない。見捨てられることへの不安と、世話されることによる安心とのあいだを揺れ動き、大人への不信感と信頼感のあいだを揺れ動く。守られているという安心感は、自分は存在していいんだという安心感につながる。世界は、危険も潜んでいるけれど、最終的には自分が生きていくことのできる場所である。自分は自分として存在していてもいいし、世界と他者はそれを肯定してくれる。このような基本的信頼は、生きる意欲のある人間なら誰もが持っているはずである。しかし、それが危機にさらされるような苦痛に満ちた状況(病・貧・争など)も、もちろん訪れる可能性はある。広い意味での神的存在(世界の究極的な成り立ちに関わっている存在)への信仰は、他者・世界への信頼を回復する際の助けとなることがある。救済への希望があるおかげで、人は苦難に満ちた世界の中でも生きてゆくことが可能になる。
 フロイトによれば、困難にぶつかった無力な人間は、幼児的な発想から、親的存在に似た神的存在に救いを求めようとする。たしかに、神的表象は、親に似た者として描かれることが多い(「父なる神」という表現)。乳幼児期のあり方が、自分を生かしめる存在との一体感を求めるような信仰の基礎となる。
 だが、親と神は最終的には異なるものである。親は人間であり、神は超人間的存在である。実際の親がすべてをかなえてくれる全知全能の存在ではないことに気づくのは、意外に早く、第一反抗期の早まる初期幼児期から遊戯期にかけてである(1歳から5歳頃)。要するに、親は頼りにならないので、もっと親らしい頼もしい存在を探すということである。
 また、この時期の子どもは、知的好奇心が旺盛で、物事の発生する理由を納得しないと気