宗教思想史のなかの心理学――一神教的心理学と多神教的心理学
堀江宗正

(論文要旨)本稿は、西洋における心理学の歴史を宗教との関連から考察し、心理学を宗教史の枠組みに位置づけることを目指したものである。まず、心理学の前史における哲学と宗教について簡単にまとめたあとで、心理学の発生に宗教が関与していたことを示すいくつかの先行研究を概観する。主に、リード、エレンベルガー、ヒルマンが参照される。そのうえで、一神教的心理学と多神教的心理学という類型が立てられる。一神教的心理学においては、魂は、神との関連で規定され、身体とは切り離される。それに対して、多神教的心理学においては、諸霊、神々、あるいは呪的力が、意識・無意識・身体を含む魂に働きかけると考えられる。これらが複雑に相互作用し、交錯しながら、近代以後の心理学的思想運動が形成されてきた。そのような経緯を、ベラーの宗教進化論を参照しながら整理する。こうして提出されるのは、「心理学と宗教」の理解のための図式である。細部にわたる歴史の記述は、この小論においてはなされない。
(キーワード)宗教史、哲学史、心理学史、「心理学と宗教」運動、宗教心理学

はじめに
 宗教学において心理学が論じられる際の文脈に、近年、変化が生じつつある。かつて宗教心理学は宗教学の下位部門として認知されていた。そこでは、心理学者の宗教研究を、宗教学の宗教研究に同一化することが目指されていた。それに対して、P・ホーマンズの「宗教と心理学」運動という切り口が提示されてからこの方、心理学を近代における宗教思想の一翼をになうものとして見る立場が、徐々に台頭してきている(注1)。突き詰めれば、それは心理学を宗教現象の一形態として見ることを意味する。そこから、より包括的な(前近代を含めた)宗教思想史の脈絡のなかに心理学をおいて理解することは可能か、という問題意識も出てきてしかるべきである。本稿はこのような問題に取り掛かる端緒となることを目指す。
 心理学の出自は、心理学内部ではどのように理解されてきたであろうか。いわゆる教科書的な心理学概論の冒頭には、心理学史に関する一瞥が設けられるものだが、その多くは“心理学は哲学から派生した”という見解をとっている。ひとことで言うと、アリストテレスの霊魂論などもあることにはあったが、近代的な意味での心理学はヴントの実験室開設(一八七九)から始まるという見方である。もう少し、細かく見ると、心理学という言葉自体は、ルターの協力者であったメランヒトンの造語(一五四〇)であり、そのかぎりでは、心理学は近代以前にはなかったとされる(注2)。その後、心理学という言葉が広まるきっかけとなったのは、ヴォルフの『経験的心理学』(一七三二)と『合理的心理学』(一七四〇)の提唱であり、さらにこれをカントが批判的に取りあげ(一七八一)、以後、哲学用語としての地位は固まる(注3)。それゆえ、カントの著作を想起すれば、心理学は哲学由来だという見方は、比較的簡単に了承される事柄なのである。
 たしかに、心理学という呼称の一般的認知に限って言えば、この「哲学由来説」はそれなりの妥当性を有すると言える。しかし、ここで仮に心理学を「人間心理の探究」と広く定義してみたらどうなるか(この定義には問題もあるが、ここでは触れない)。それは近代以前にはなかったであろうか。もちろん前述のとおり、心理学の通史では、アリストテレスが遠祖とされることはしばしばある。では、西洋の宗教的伝統、たとえばキリスト教のなかにはなかったであろうか。ここで、心理学のオーソドックスな学説史は立ち止まる。あたかも、心理学には宗教的ルーツなどないと突っぱねるかのように。
 しかしながら、オーソドックスでない心理学史の記述も、目を凝らしてみればいくつか見えてくる。それらは、そろって心理学の宗教的ルーツを示してくれる。そもそも宗教と哲学の峻別自体、あやしむべきかもしれない。ひろい目で見るならば、心理学は宗教と哲学の交わる領域において育まれてきたと言ってよいであろう。
 以下、本稿では、心理学を宗教との関連において考察しているような先行研究を参照しながら、心理学と宗教のマクロな展開史を素描したい。その際、心理学をどう規定しておくかが、歴史記述の立場を決定的に左右することは、先ほど見た通りである。ここでは暫定的に、「心・魂プシュケーに関する理論と実践」としておく。
 これは定義というほどのものではない。もし定義であるとするならば、さらに「心・魂」とは何であるかを定義しなくてはならないが、それが何であるかを探究すること自体が、「心と魂に関する理論」の一つにならざるをえないので、このような定義づくりは無限背進に陥る。われわれの前には、ギリシア語のプシュケー psyche[長音記号]、ラテン語のアニマ anima、近代語のソウル soul/ゼーレ Seele/アーム 盈me という言葉の系列、さらに近代以後そこから派生するマインド mind・スピリット spirit/ガイスト Geist/エスプリ esprit という言葉のネットワークが広がり、さらにそれに対応する日本語の翻訳語として心・魂・精神がつながる。プネウマ pneuma からスピリット・ゴースト ghost に至る霊という訳語が対応するネットワークもそこに関与してくるだろう。「心」とは何かを原理的に考えるならば、これらの言葉の語源学的な考察、それらが帯びる歴史性や文化性への考慮は欠かせない。しかしながら、それはこの小論の守備範囲を超える。心理学という言葉の成り立ちが、直接的にはプシュケーのロゴスであるということに注意するにとどめ、プシュケーからソウル・マインドに至る西欧語のネットワークに、ひとまず日本語の「心」――とくに実体としての霊魂を含意する場合は「魂」――という訳語をあて、それに関する理論や実践を、近代心理学に限定しない広義の「心理学」としておく。
 プシュケーに関する理論と実践というくくり方を採用するならば、近代以降のアカデミックな心理学による「心理療法」の排除(ないし「臨床心理学」としての間貸し)、精神医学との区別は、あえて無視する必要がある。したがって、われわれの試みをより厳密に言うならば、心理学・心理療法・精神医学、およびそれらの先駆形態を宗教思想史上のなかに位置づける、ということになるだろう――もし近代的な学問分野の布置をあくまで前提とするのであれば。
 この小論が具体的に目指すのは、もちろん西洋の精神史の詳細な記述などではない。これまでいくつかの先行研究によってすでに示されている、歴史理解の図式をいくつか収集し、再構成することである。したがって、結論として示されるのもある種の図式に過ぎない。それは筆者の当面の問題関心である(本稿では背景に退いている)近代の心理学的思想運動の宗教性をよりよく理解するための、暫定的で限定された図式であることを、あらかじめ断っておこう。

1 先行研究の概観
 この節では、宗教との関わりから心理学史を論じたいくつかの先行研究を概観する。先に述べたように、有用な歴史的図式を収集することが目的である。したがって、細かい史実には触れずに、歴史的な流れを著者たちがどのようにとらえているかに注目する。

心理学の誕生
 多くの心理学史は、近代以降の心理学の発展に多くの記述を割いている。それらの概観にはいる前に、前近代の宗教と哲学における広義の心理学についてポイントを押さえておこう。ここでは、心・魂の把握の仕方、とくに身体とのかかわりに注目して見てゆく(注4)
 ソクラテス=プラトンは、 魂 プシュケーの配慮、魂の清浄化、魂の不死、そして身体的なものに対する理性の支配を説いた。これらはプラトニズムとして知られる教説にまとめられる。心身二元論の原型とも言うべきものであろう。それに対して、アリストテレスの『プシュケーについて』は、プシュケーを実体的なものとせず、プシュケーを働きそのものとしてとらえ、心身一元論的な見方を示した。仮に、日本語の「魂」が「心」よりも実体性の高い語であることに留意して訳し分けるならば、アリストテレスは魂よりも心に着目していたとすることもできよう。ただし、知性は身体なしに成り立つとされ、さらに知性は何にでもなりうる白板のような可能知性と、その可能性を思考の活動に変換する能動知性に分かれる。したがって、基本的には心身一元論であるが、知性を身体から区別する二元論的な考えも含まれる。
 「旧約聖書」においても新約聖書においても、明確な心身二元論は見られない。魂・命(ネフェシュ、プシュケー)は、神の息吹であり、人間が自己の魂・命のために思い悩むことは、むしろ神とともに生きることからの離反ですらある(注5)。だが、パウロにおいては霊肉二元論も見られる。ギリシア思想との対決や吸収を経て、中世のキリスト教では、理性[ルビ:ロゴス]は神の似姿たる人間の本質とされる。さらにアウグスティヌスによって、原罪とその神による救済という思想が練られる。また、祈りや修徳行による魂の浄化を通じて神へと超越しようとする考えも出てくる。現世拒否的な実践による魂の救済という観念は、キリスト教が全体として徐々に二元論の方向に大きく傾いていったことを示すだろう。
 近世にはいって、デカルトは、考える理性的実体として「私」をとらえた。さらに精神の機能と身体の機能を区別して、心身二元論を明確に定式化した。心身二元論には、心身の関係はどうなっているのかという問い(心身問題)が、以後つねにつきまとうことになる。心身の結節点を脳のなかの松果体に求めるデカルトの回答は、のちの大脳局在論の先取りである。また経験論の立場から、ロックは、経験から単純観念が生じ、その複合からすべての観念は成り立っているとした。身体的感覚を処理するものとしての心というとらえ方は、近代心理学の発想に近づく。実際、ロック哲学はのちの連合心理学を準備した。
 ヴォルフは、ロックの影響をも受けながら、認識能力と欲求能力を探究する学問として経験的心理学を立て、さらにデカルト的な実体としての魂を探究する合理的心理学を立て、これらの二部門からなる心理学を形而上学の一領域として位置づけた。「心理学」という言葉を哲学的用語として用いたのは、先にも触れたようにヴォルフが最初である。この言葉は、実体として存在する魂――同時に経験的素材をも処理する魂――について探究する形而上学の一種として考えられていたことは注目に値する。魂についての宗教的観念と、デカルトの心身二元論を総合し、また経験論と合理論とを総合する、形而上学のひとつとして心理学は構想されたのである。かくして、「心理学」の前提にある心身関係論は次のようにまとめられる。

「神のロゴス―[人間のロゴス/実体としての魂]―身体」

リードの『魂から心へ』
 次に近代心理学の誕生に関して、E・S・リードの『魂から心へ』の考察を見てゆこう(注6)
 リードは、J・ギブソンの生態学的心理学の流れを汲む研究者である。従来の心理学が感覚的データを処理するプログラムとしての心を対象としていたのに対し、ギブソン=リードの生態学的心理学は、行為することを通じて環境から必要な情報を手に入れてゆくような、身体性を含んだ魂を対象とする。このみずからの新しい心理学を模索するために、リードは、現行の心理学史の影に隠されているもう一つの心理学「アンダーグラウンド心理学」を発掘しようとする。それは、エラズマス・ダーウィンの「分散された魂」、チャールズ・ダーウィンの進化論、ジェイムズのプラグマティズムの心理学にもっともよく現れているとされる。それらから、リードは、身体に分散された世界内在的で多元的な魂の心理学を展望する。そして、これらの心理学がどのようにして、正統心理学から排除されていったかを明らかにするのだが、その過程で、正統心理学がリベラルなプロテスタンティズムの所産にほかならないことを示すのである。
 リードの記述は、ヴォルフの心理学に対する批判の紹介から始まる。まず、カントはヴォルフの合理的心理学を次のように批判している。「私は考える」という主観的な意識から、客観的な実体としての魂を措定することはできない。また、自己意識から、魂の諸性質を推論することは不可能である、と。これは心理学の原理的不可能性を端的に表明したものである。心が心を探究すること自体の原理的困難と言い換えてもよいだろう。
 さらに、スコットランドのトマス・リードは、感覚そのものから知覚を導き出すことはできないと、指摘した。つまり、身体的感覚から心的表象は生まれないという心身問題の指摘である。そして、感覚と知覚の両者のあいだには因果性と法則を見いだすことができないのにもかかわらず、心理学は、その断絶を無視して、あるいは意図的に両者を混同することによって成り立っているとした。
 心身問題に対しては、二種類の一元論的な回答が考えられる。一つは、心は身体の一種とする唯物論的応答で、代表的人物としてはエラズマス・ダーウィンがあげられる。ダーウィンは、身体と区別される魂 soul ではなく、「身体に分散された心 mind」というアイディアを提示する。そして、精妙な流体ないしエーテルが身体と神経のなかを流れると仮定し、心は身体の随伴反応であるとした。このような思想は、唯物論として攻撃されることになるだろう。
 もう一つは、メスメリズムやスピリチュアリズムの回答である。先の唯物論とスピリチュアリズムは、いっけん対極のものとも思われるが、リードはメスメリズムを介することで両者をつなげて説明している。それによると、ダーウィンのような流体唯物論を正しいと仮定するならば、魂と精神は、特殊な電磁気的エーテルだということになり、物質的な手段を使って魂や精神に影響を与えることができると結論される。たとえばメスメリズムは、「動物磁気」と呼ばれる流体エーテルが、宇宙に遍満すると考え、その流れや滞留が健康や病気をも左右するとし、「動物磁気」を用いて、「分利クリーズ」や「磁気睡眠」を誘引することができるとした。また、スピリチュアリズムが主張するように、死後の魂と何らかの仕方で交流することができるということになるだろう。

心理学の護教論的関心
 教会や国家に公刊や教授を認定されるような公式思想は、こうした一元論的回答を否定しなければならなかった。というのも、一元論的回答は、いずれも一神教の神およびそれと本質を共有する人間の魂の地位を危うくし、一神教的を受け入れなくても、心・魂に関する理論と実践(つまり本稿で言うところの広義の心理学)が可能であることを示すことになる。公式思想の哲学者たちは、当時強い影響力を持っていたカントやT・リードに依拠しつつも、彼らの心理学批判をあえて無視して、すでにヴォルフが着手していたような形而上学としての心理学を、護教論的な関心から強く推し進めることになる。
 やがて十九世紀後半にいたって実証主義が興隆すると、宗教と科学の不可知論的な分離両立をはかろうとするリベラルなプロテスタントたちが、生理学的心理学をはじめ、実験的手法を採用するに至る。彼らは、魂が脳に局在すると考えることで身体の他の部分から引き離し、神とつながった魂を擁護しようとした。J・ミュラーの生理学は、心を脳に位置づけ、物質とは独立の心的エネルギーを仮定した。ミュラーの弟子たち、たとえばヘルムホルツの精神物理学は、物理的エネルギーと心的エネルギーの変換の問題を、実験的に探究しようとした。この流れが、ヴントの実験心理学へと受け継がれてゆく。ここからいわゆる近代心理学が発生してくるということは、各種の心理学史が説くところである。
 こうして、心と身体の関連を調べているうちに、心を物理的・生理的基礎に還元して説明するような科学的心理学が成立することになった。しかしながら、実体としての魂については触れずにいられるために、個人的信仰は保たれる。換言するなら、方法論的唯物論と、不可知論を採用することによって、科学的心理学を追求しつつも、形而上学的な魂の存在の可能性を残すことに成功するという離れ業がなされたのである。以降、実体としての「魂」は論じられなくなり、感覚を処理する主体としての「心」が対象化される。
 ここから先の近代心理学の発展についてはリードは触れていないが、簡単に押さえておこう。唯物論的方向性は徐々に強まり、内観主義を批判し、物理的刺激とそれに対する反応の連関を調査する行動主義心理学が登場する。さらに、認知心理学は、刺激と反応のあいだに情報処理過程を想定するだろう。しかしながら、心身二元論を前提とする感覚的刺激を処理する心という発想は、形而上学としての心理学のプログラムと連続性がある。結局、近代の主流派心理学は伝統的な宗教=哲学の魂論の世俗化バージョンと言えるのである。このことを明らかにするリードの仕事は、「宗教と心理学」を探究する分野において、プロテスタンティズムと資本主義の連関を示唆したウェーバーと同等の評価が与えられるべきものだろう(世俗的方向性の徹底という帰結においても、両者はパラレルである)。

エレンベルガー『無意識の発見』
 ただ、「神―魂・理性・心―身体」というヒエラルヒーを前提とする正統心理学の、オルタナティヴがどのようなものであるかについて、リードの描き方にはやや偏りがあるように思われる。というのも、自身の生態学的心理学の先駆けと見なされるE・ダーウィン、C・ダーウィン、W・ジェイムズばかりが大きく取りあげられ、その他の潮流が軽く扱われているかのような印象を受けるからである。
 その他の潮流として何よりまず想起されるのは、H・F・エレンベルガーが示した「力動精神医学」につらなる系譜である(注7)。すなわち、悪魔払い、メスメリズム、スピリチュアリズム、催眠術など、トランス状態の誘因と操作を通じて、通常の意識とは異なる無意識の領域を発見するに至り、やがて精神医学にも取り入れられ、さらにトランス状態の喚起を必要としない心理療法の技法(フロイトの精神分析をはじめとする)に結実し、今なお発展を続けている系譜である。

2 多神教的心理学と一神教的心理学

類型化の試み
 ここで筆者は、「身体的感覚を処理する心」の心理学か、「身体に分散された魂」の心理学かというリードの二分法に対して、別の二分法を立てたいと思う。すなわち、「神―魂・理性・心―身体」という一神教的ヒエラルヒーを基軸とする心理学か、「諸霊―魂・心(無意識・身体・意識)」という多神教的コスモロジーと癒しの実践を特色とする心理学および心理療法かという二分法である。便宜上、この二つの類型を一神教的心理学と多神教的心理学と呼ぶことにしよう。
 なぜこのような類型を立てるのか。それは心理学の歴史を宗教との関連で考察したいというわれわれの関心に有用であると考えるからである。リードの「身体に分散された魂」の心理学というとらえ方は、E・ダーウィンのような唯物論的方向に開かれ、現代の生態学的心理学にまでたどり着く流れを指示するのには適している。しかし、その流れに含まれているメスメリズムの流体唯物論は、トランス状態の操作という実践において、むしろ唯物論とはいっけん相いれないように思われるスピリチュアリズム――対比のために唯心論と訳してもよいだろう――とも近づく。スピリチュアリズムは、宗教史的に見ればシャーマニズムに分類されるような実践である。実際、エレンベルガーは、シャーマンによる呪術的治療実践を力動精神医学の遠祖として位置づけている。トランス状態や心身の異変をもたらすのは、一神教の神というよりは、諸霊あるいは呪的力として考えられてきた。このようなコスモロジーを背景とする心理的実践は、身体に分散された魂の心理学と呼ぶよりも、多神教的心理学――もしくはアニミズム的心理学――と呼ぶほうが適切であるう。また、このような呼称を採用することによって、それが一神教的心理学とは異なる系譜を形成してきたことが明示される。
 リード自身も、ジェイムズの研究した宗教的経験は、当時の実証的方法を掲げる新心理学によっては説明できない、魂の源泉の多元性を明らかにするものだとしている。もっとも、それ以上の突っ込んだ議論はなされていない。しかしながら、リードの構想する身体に分散された魂の心理学の宗教的含意に配慮して、それを多神教的心理学と呼ぶことは、リード自身の議論とも真っ向から矛盾するものではないことが分かる。E・ダーウィンの流体唯物論も、一種の生気論、あるいはマナイズムとして理解することは可能なのだから。

ヒルマンの多神教的心理学
 実は一神教的心理学と多神教的心理学という言葉は、筆者のオリジナルな用語ではなく、J・ヒルマンがすでに用いているものである(注8)。しかしながら、用語に込める意味が若干異なる。ヒルマンの用語法のほうが狭く、極端な言い方をすれば、ヒルマンの元型心理学だけがもっとも典型的な多神教的心理学であり、その他の過去の心理学はすべて多かれ少なかれ一神教的心理学として特徴づけられるのである。その主張は次のようなものである。
 われわれの文化は一神教的であり、そこで育まれてきた心理学も一神教的な性格を持っている。たとえば、一なる神を奉じるかわりに、自己の統一性を追求する。分裂や葛藤は、好ましくない病理的なものとされ、それを自己に総合することが目指されるのである。
 しかしながら、フロイトが強調したように、自我意識は無意識的諸力におびやかされているのであり、ユングにいたっては自我もコンプレックスの一つにすぎないとまで考えられるのである。心・魂は意識だけではなく無意識をも含む多元的なものである。さらに無意識的な素材は純粋に個人的な無意識に由来する素材であるとは断定できず、集合的なものに根差している。無意識的イメージが異なる文化の神話的素材と類似していることから、人類に共通する精神構造としての元型が仮定される。かくして、われわれの心・魂は、統一的でもなければ個人的でもない。多元的であり、集合的なものに根差しているのである。
 だが、ヒルマンに言わせれば、このようなユング心理学も、自己(心・魂の全体性)の統合を志向している。自我と対立するものとして現れてくる無意識的イメージも、より大いなる自己のなかに総合されるのである。ヒルマンに言わせればこのようなユング心理学は、「自己の一神教」にほかならない。
 それに対して、ヒルマンは、イメージを性急に総合することを目指さずに、そしてその多義性を一義性に押し込めず、それとして味わおうとする。ヒルマンにとっての魂とは、実体ではなく、パースペクティヴであり、それを通して事象が経験へと深められるようなものである。比喩的に言えば、それは世界を映し出すスクリーンであり、イメージの現れる場所であると言えるだろう。『魂の心理学 Re-Visioning Psychology』では、随所でP・リクールの隠喩論が伏線として言及されているが、ヒルマンにとっての元型とはルート・メタファーであり、それを通して世界を見ることによって、一義性を求める直解主義(字義主義)literalism から解放されて、意味論的革新もたらされるのである。このようにしてイメージの場所を確保してゆくことが、魂づくりとして目指される。
 具体的には、われわれの魂に現れるものはすべて個人的なもの、字義的なものには尽きず、神話的形象に由来するものとして見ることができる。つまり魂は複数の神々によって構成されているのである(人格化)。ときには人格の分裂という形で病理的なものが顕在化こともあるが、それこそが魂の現実性をもっともよく体認させる(病理化)。これを心理学的観念によって一義的に解釈するのではなく、元型というメタファーを通して見ることによってそこに新しい洞察をもたらす(心理学化)。そうすることで、われわれは魂の多元性を受け入れられるようになり、自我の中心化の挫折にも耐えられるようになる。それはある種の人間中心主義の乗り越えであり、神々が住まう魂によってわれわれは生きている・生かされているということの認識である(脱人間化あるいは魂づくり)。
 このような視点から、ヒルマンが神話的素材として主に依拠するのはギリシア・ローマ神話およびその異教的世界であり、さらにキリスト教的一神教のもとでも時おり(たとえばルネサンス期などに)現れる秘教的思想である。しかしながら、宗教改革者の一人メランヒトンが「心理学」という言葉の創案者であることに象徴されるように、近代以降の心理学は、神と直結する個人の魂の内省による把握を目指すのであり、一神教的な特徴を強く帯びるのである。無意識的イメージの多様性・多産性に目を向けたユングですら、最終的に自己への総合を持ちだすがゆえに、多神教的心理学としては不徹底であり、「自己の一神教」にとどまるのである(注9)
 このようなヒルマンの多神教的心理学の規定は、狭すぎるという印象をぬぐえない。結局のところ、ヒルマン自身の心理学を宣伝するためのスローガンとしてのみ使用されている。そのため、先にわれわれが多神教的心理学と名付けた原始的治療実践から力動精神医学にまで至る豊かな系譜を、丸ごと見落とすことになりはしないか。
 ヒルマンの純粋主義的な規定は、西洋の文化史における一神教的要素と多神教的要素とを、理念的に分けることに起因するように思われる。理念的にはともかく、歴史的には、この両者が曖昧に同居したり、折衷がはかられることのほうが常態だったと思われる。それゆえ、民衆の多神教的世界は一神教的世界のヒエラルヒーのなかでも生き続けることが可能だったのであり、その一神教的構制への総合あるいは折衷の結果、三位一体の教義や聖母崇拝が生まれたとは言えないだろうか。
 一神教的要素と多神教的要素の両立可能性と折衷の事実を認めないために、ヒルマンが評価するのは一神教以前の異教的世界であり、また一神教的体制のもとでも個人的探究としてひっそりと営まれる秘教的伝統に限られる。したがって、両者を曖昧とするような民衆的実践や、理論的総合をはかるような自己実現思想(=自己の一神教)は、多神教としては不徹底、不純なものとして排除されるのである。むしろ、一神教的要素と多神教的要素は、覇権を争いつつも、歴史的には共存することが可能であったという歴史的現実を認め、その相互交渉によって西洋の文化史を分節化するという視点も可能ではないだろうか。

3 マクロな宗教史の枠組み
 そこで、最後に、一神教的心理学と多神教的心理学の交錯する宗教と心理学の歴史を理解するための図式についてまとめておこう。

ベラーの宗教進化論
 ここでマクロな宗教史の枠組みとして参照するのは、R・N・ベラーの宗教進化論である(注10)。ベラーの宗教進化論は、原始宗教、古代宗教、歴史宗教、初期近代宗教、現代宗教の五段階からなる。しかし、ここではその進化の図式を単線的な進化というより山形のカーブとしてとらえたい。ベラーが進化としてとらえているのは、組織化の度合いや、複雑性の度合いに関してである。それ以外に段階の推移を特徴づけているのは、歴史宗教に見られるような現世拒否が、高まり、そして衰退してゆくという視点である。それは西洋ではとくに、キリスト教における現世拒否の高まりと衰退としてとらえられるだろう。このように理解するならベラーの示す五段階は、大きくは、原始宗教、歴史宗教、現代宗教の三段階にまとめられ、その移行段階として、古代宗教が原始宗教と歴史宗教のあいだに、初期近代宗教が歴史宗教と現代宗教のあいだに挟まれるという図式になる。
 しかし、歴史宗教の段階においては、聖職者など宗教的エリートと民衆の分化が特徴的である。歴史宗教の影に隠れた民衆宗教というカテゴリーを立てるべきだとはいえないだろうか。もちろん、ベラーもこのことをまったく考えていないわけではないだろう。そもそもベラーの言う歴史宗教(文字による史料が残っている宗教)においては、文字の読み書きのできる聖職者が、現世を超えた秩序を形成し、かつ護持することで、コスモロジーから社会制度に至るまで、現世拒否を基調とする二元論的志向が浸透するような宗教的体制の全体を指すと考えられる。したがって、彼の歴史宗教の規定には民衆宗教も被支配的な要素として含まれるはずである。にもかかわらず、支配的宗教と必ずしも一致しない自律性を持つ民衆宗教を独立したカテゴリーとして立てることには、それなりの意味があると考える。それは原始宗教との連続性、そして現代における大衆を担い手とするさまざまな宗教運動との連続性が、目に見える形で明らかになるからである。
 そこで、原始宗教、民衆宗教、現代の大衆宗教という三段階をベースとして、そのうえに、「歴史宗教/民衆宗教」という支配=従属関係を乗せるような構造に改変したいと思う。このような図式を採用することによって、移行段階としてあいだに挟まれる古代宗教と初期近代宗教についても、より精緻な理解が得られると思う。
 ベラーにおいては、古代宗教は、共同体の宗教としての原始宗教がその規模を増し、民族や国家の宗教になったものとしてとらえられる。だが、そこから歴史宗教への飛躍がうまく説明されない。それをここでは次のように考える。都市国家の成立とともに古代宗教が生起するが、同時に都市民を引きつける密儀宗教の存在が、古代宗教へのオルタナティヴとなり、後の歴史宗教を準備した、と。やがて歴史宗教は、中央集権化の動きにのっとって、古代宗教に代わる支配的地位を確保するだろう。しかしそのルーツは原始宗教的なものにもあり、民衆宗教を包摂することにも成功した。それでいて、みずからのルーツである都市の密儀宗教は秘教的なものとして、傍流に追いやる。
 時代は下って、初期近代においては、都市文明の普遍化が進む。そこで、民衆は土着的な宗教文化から離れ、個人として歴史宗教の伝統に向き合い、そうすることで教会からの相対的自立を果たす。こうして民衆は教会と共同体から相対的に自立し、やがて近代都市における大衆に変容する。だがやがて、中央集権的権力の主体が、歴史宗教から国民国家に移行したことによって、個人的信仰による生活の規律よりも、近代社会のなかでの自己実現がテーマになってゆく。こうして、いっけん歴史宗教から離れ、通常は「宗教」とは見なされない自己実現思想が、大衆の新しい宗教となるだろう(注11)

二つの心理学の相互作用
 以上のような宗教史の図式のなかで、本稿でこれまで見てきた一神教的心理学と多神教的心理学はどのような役割を演じるであろうか。すでに見てきたように、一神教的心理学は、神とのつながりにおいて人間の魂をとらえ、身体的なものや動物的なものとの区別を鮮明に出すような、心・魂に関する理論であった。だがそれだけではなく、一神教的心理学は、現世拒否の一つの方法として理解することもできる。つまり、現実生活から退却して、超越者とのかかわりにおいて自己を理解し、律してゆくための理論であったとすることができる。その実践的形態としては、M・フーコーの言う自己のテクノロジーが該当するだろう。それは古代ギリシアにおける世俗内での自己への配慮、帝政ローマ期における世俗外での自己への配慮、キリスト教における世俗外での自己の認識、そして近代的道徳における世俗内での自己の認識を指す。たとえば中世のキリスト教においては、自己の罪を認識し、それを告白することが、魂の救済につながると考えられていた。それは修道院のなかでの実践にはとどまらず、民衆を管理するための手段としても活用されていた。それゆえ、一神教的心理学の実践は、世俗外の領域には限定されない。近代に入ると、自己のテクノロジーは世俗内における他者への配慮がどの程度実現されているかを検討するための道徳的自律の技術に転換するだろう(注12)。また、内省を通じて認識される魂についての形而上学的探究が、ヴォルフによって「心理学」と命名され、公式思想として十九世紀前半のヨーロッパを席巻し、十九世紀後半においては実験心理学へと「世俗化」していったことは、すでに見た通りである。
 他方、多神教的心理学とは、諸霊(諸神)およびその力、あるいは呪術的力が、心身に影響を与えるという信念体系(アニミズム、アニマティズム、マナイズム、シャーマニズムに見られるような)を理論的ベースとしながら、トランス状態を喚起し、操作することで、影響源とされる力を安定した状態へと水路づけようとする実践である。シャーマンによる呪術的治療、宇宙創造の力を集団沸騰・トランスのなかで癒す方向に転換させるような原始的治療儀礼、こうした儀礼がイニシエーション的役割を果たすような密儀宗教、キリスト教のなかに傍流として位置づけられていた砂漠の師父たちやそのあとをつぐ修道士たちによる悪魔払い(見方によってはイエスの癒しのわざ)などが、その例としてあげられる。メスメリズムから現代の力動精神医学に連なる流れは、エレンベルガーが詳細に論じているところである。
 以上は、一神教的心理学と多神教的心理学の比較的純粋な形態である。まず、原始宗教、民衆宗教、大衆宗教というベースの部分において、多神教的心理学が形を変えながらも綿々と実践される。他方、歴史宗教としてのキリスト教から一神教的心理学が発展し、民衆の管理の技術と大衆の自律の道具にも転用されつつ、近代の一神教的心理学にまで発展してゆく。
 だが、この二つの系譜は、決して相互に没交渉であったわけではないし、両立不可能でもなく、ときには折衷や総合が試みられる。それは、歴史宗教と民衆宗教が現代の大衆宗教へと交錯しつつ融合する段階で、「宗教と心理学」の複合する多様な思想運動を開花させるに至るのである。以下、その相互作用のパターンを略示しておこう。
 1)多神教的心理学からアカデミックな心理学への影響=力動精神医学から心理療法へ。だが徐々にトランス状態の誘発よりも、治療者とのラポールを前提とする内省的対話に発展してゆく。
 2)一神教的心理学から心理療法的な心理学への影響=自己実現思想。ユングの「自己の一神教」。心の多元性を認めつつも、心の統合性を規範とする。またフーコーはフロイトの精神分析を告白の技術の世俗化されたものとして見ている(注13)
 3)一神教的心理学の純化=実体としての魂の存在の擁護というモチーフを捨て去り、機能としての心の探究、方法論的唯物論。
 4)多神教的心理学の大衆に根差した発展=ポップ・サイコロジー、宗教的な癒しの実践、マインド・キュア、「心なおし」、トランスパーソナル心理学におけるトランス状態の賦活。
 歴史宗教と民衆宗教の融合は、大筋においては、次のような展開を遂げると言えるだろう。まず、歴史宗教の民衆への浸透としての宗教改革が起こり、その後、民衆的宗教性の棄却か、折衷・統合かという二つの方向性が生じる。前者は、迷信排除の啓蒙主義的傾向、一神教的心理学の道行きに重なる。他方、大衆レベルでは、宗教的実践の個人化が進むと逆説的に一神教の神との結びつきが薄れ、多神教的心理学への転換が起こり始める。そして、このような実践的動向の自己理解のために、心理療法的な心理学が、アカデミックな言語体系を提供するようになる。

おわりに

心理学的思想運動というくくり
 以上、本稿では、心理学の歴史を宗教との関連において探究するための図式を、いくつかの先行研究を参照しつつ、精練するという作業をおこなってきた。厳密な史料批判と詳細な事例記述を期待された向きには消化不良かもしれないが、歴史理解の図式の紹介と整理と提示に徹するということは冒頭で予告した通りである。
 筆者の当面の問題関心は、近代および現代における、宗教と心理学の融合した諸思想を宗教思想史の脈絡において理解するということである。仮に宗教性のまったく介在しないと思われるような心理学があったとしても、そこに宗教代替的な機能を読み込んでゆくものである。このような問題関心から見ると、心理学の発生における宗教的思想・実践の関与を明らかにする先行研究の存在は心強い。
 本稿において筆者が提示した一神教的心理学と多神教的心理学という類型は、ごく大ざっぱに言えば社会階層の上下に対応している。つまり、「聖職者/民衆」「知識人/大衆」という階層の序列である。このような区分は、両者が著しく交錯する近現代においては、次第に破られる傾向にある。先ほど示した両者の相互パターンに見られるように複雑な、近現代における「心理と宗教の複合体」は、ただそのまま記述するだけでは十分に理解できず、主要な類型の把握をまってはじめて正確な全体像が浮かび上がる。その意味で、一神教的心理学と多神教的心理学という類型は近代における複雑な状況を理解するための鍵になる。
 すでにエレンベルガーは、さまざまな力動精神医学の技法の発展が、正確に新しい社会層の台頭と結びついていることを明らかにしている(注14)。そうして、癒しの実践の担い手が、聖職者から新興貴族、ブルジョアへと移行したことを示している。魂・心に関する理論と実践という広い意味での心理学は、純粋な学問にはとどまらないものであることがわかる。かといって、それは純粋な大衆運動でもない。その主導者の多くはアカデミックな世界に属している。純粋な学問にもとどまらず、かといって大衆運動でもない、このような運動形態は「思想運動」と呼ぶべきであろう。さらに、それは宗教運動とも異なる実質を持つ。組織形態として、強力な結束や明確なメンバーシップが見られない。むしろ、宗教との違いを強調し、とりわけ権威主義からの脱却を試み続けてきた。たとえばフロイトは、暗示や催眠を捨て、指導者への依存が生じないような枠組みを設けてきた。
 思想運動が成立する条件は、宗教的共同体からの離脱、大衆の成立、学問の大衆化である。近代においてはさまざまな思想運動が、宗教に変わる精神的支柱の一つとして展開してきた。そのいい例が、労働者にとっての社会主義であり、新興エリートにとっての教養主義であろう。心理学的思想運動は、学問の大衆化がいっそう進んで、消費社会が到来する後期近代において、よりいっそう勢力を伸ばしつつある。産業社会から成熟社会への移行によって教養主義が衰退し、冷戦構造の終結によって社会主義が凋落したことによって、その勢いはこれからも続くと思われる。

「心理学と宗教」の包括的理解を目指して
 宗教学がこの心理学的思想運動を研究する際に注意しなければならないのは、理論と対象の二分の難しさである。この運動の知的主導者は、心理学、心理療法、精神医学に属する研究者であるが、彼らは質・量ともに宗教学に属する研究者を圧倒しているのが現状である。その全体像を把握し、相対化するためには、彼ら以上にその学説史に精通する必要がある。さらにその複雑な大衆的受容の局面にも目を向ける必要がある。それらを分析する際には社会学的な視点も必要となってくるだろう。
 具体的な研究の手続きとして、筆者が構想しているのは、宗教心理学とポップ・サイコロジーの両極の比較的考察である。すでに見てきたように、心理学はそのアイデンティティの確立の際に、宗教からの離脱を成し遂げなければならなかった。筆者は、宗教心理学をその緊張関係の産物としてみている。つまり、宗教との差別化をはかるために、宗教を対象化して、心理学のほうが宗教よりも高次の説明体系であることを照明するという機能を――宗教心理学者たちが意識するかしないかにかかわらず――宗教心理学は持っていたのである。実際、現代心理学の草創期において、おもだった研究者がこぞって宗教心理学に着手している。たとえば、ヴント、ジェイムズ、フロイト、ユング、ジャネ、エリクソン、ピアジェといったビッグネームである。やがて、心理学の地位が向上し、安定してくると、宗教との緊張関係も消失し、宗教心理学の差し迫った存在意義が薄れる。それはすでに心理学自体が、宗教代替的機能をまとうようになっているということを意味する。トランスパーソナル心理学などは、宗教心理学というよりは、むしろ宗教的心理学と呼んだほうがよいだろう。ポップサイコロジーやセラピー文化の隆盛は、宗教が心理学に取って代わろうとしている状況を物語っている。
 宗教と心理学の、かくのごとき対立と総合は、まさしく弁証法的な展開と呼ぶべきものである。もちろん、宗教は心理学の後も続くし、心理学のなかには宗教と完全に手を切って独自の道を歩んでいる部門もある(むしろその方がアカデミックな本流である)。また、宗教心理学も、単なる過渡期の産物ではなく、その方法的困難の自覚と乗り越えによって、宗教学の分野として新たな発展を遂げる可能性もある。しかし、だからといって心理学的思想運動の複雑な動的過程がなかったことになるわけではない。このような宗教と非宗教のあいだで繰り広げられる独自の運動を、宗教学はこれまで十分にとらえきれていなかった。本稿でおこなった作業は、こうした将来性ある研究の出発点となることを目指したものである。