心理学的自己実現論の系譜と宗教
救済・自己実現・癒し

堀江宗正

『東京大学宗教学年報』XVII(1999)、57-72頁

はじめに
 本稿は、宗教心理学の代表的研究者と思われるW・ジェイムズ、S・フロイト、C・G・ユング、E・フロム、A・H・マズロー、E・H・エリクソンたちの諸説を概観し、その共通の論点として自己実現論があったことを示し、それと宗教との関係性を探るものである。彼ら心理学者たちは、宗教を研究対象として分析するなかで――あるいは宗教の本来的なあり方の提示を通して、あるいは宗教の現実のあり方の批判を通して――人間の心理的成熟のプロセスを描き出した。立場の相違、各々の独自性にも関わらず、彼らの描いた心理的成熟のプロセスは、ほぼ共通した内容を持ち、「自己実現」プロセスとして一括できるようなものであった。それは、一面的な自我を脱して、本来的自己を実現してゆくプロセス、あるいはより真正なる自己に漸近してゆくプロセスであり、自己への究極的な関わりを特徴とするものである。自己実現を規範とするような心理学的思想運動は、ベラーの宗教進化論におけるもっとも新しい段階である「現代宗教」の一例と考えることができるだろう。このようにベラーの枠組を参照するのは、現代の先進諸国における心理学的思想運動が、宗教を対象化し、宗教との差別化を図りつつも、宗教に代わる霊性をになおうとしているということを明らかにするためである。本稿では、最後に、自己実現論のなかから全体性の回復というモチーフを取り出し、それがごく最近の局面においては「癒し」という言葉で言い表されていることを指摘したい。
 宗教心理学に新しい宗教性を見いだそうとする本稿は、狭い意味での宗教心理学に属する研究ではない。狭い意味での宗教心理学とは、宗教の心理学的研究であり、心理学の専門性の高さゆえに、その主体はおのずから心理学者に限定されざるをえない。宗教学の立場に属する筆者が本稿でおこなうのは、狭い意味での宗教心理学の学説を、外部の視点から理論的に吟味し、宗教思想史の流れのなかに位置づけることである。このような作業は、P・ホーマンズによって宗教学の課題として明示された「宗教と心理学」の研究に従事するものである(Homans 1987)。

1 ロマン主義的自己実現論の系譜――マズロー、ユング、ジェイムズ
マズローとユングの自己実現論
 宗教心理学者たちが宗教を対象化しながら、人間の心理的成熟のプロセスとして提示したものを、本稿では自己実現と呼ぶことにする。しかしながら、「自己実現」という言葉を直接用いたのはマズローとユングであった。マズローとほぼ同世代のフロムやエリクソンはいくつかの箇所で言及しているものの、ジェイムズやフロイトはこの言葉を主要な用語としては使っていない。そこで、まず「自己実現」という言葉を多用したマズローから議論をはじめ、さらにこの言葉が、他の心理学者たちの念頭にあった心理的成熟のプロセスを指すのにも適したものであることを、そのつど示してゆくという仕方で論を進めてゆきたい。
 マズローは、行動主義や精神分析の決定論的人間観を批判し、人間心理の積極的側面の研究、心理的健康の研究の必要性を説き、自己実現している人間の研究に取り組んだ。この場合の「自己実現している人間」とは、その人が本来持っていると思われる潜在的可能性を十分に実現していると世間的に目される人たちであり、無名の被験者と歴史上有名な人物とから成っている。ここでは「自己実現」とは、ひとまず潜在的可能性の実現を意味している。
 さらにマズローによれば、彼ら自己実現している人間の特徴は、生理的欲求、安全の欲求、所属と愛の欲求、承認の欲求などの基本的欲求より高次な自己実現欲求に動かされているということである。それは、欠乏動機よりも成長動機によって生きているということを意味する。つまり、外界を利用して自分に欠乏しているものを満たし、それによって自己の定常状態を保持するのに終始するのではなく、これまでの自己のあり方とは異なる新しい自己のあり方を実現しようとする自己実現欲求に動かされているのである(Maslow 1970)。みずからの同一性・恒常性・中心性に固執することなく、むしろそれを脱することによって、その人が本来的に持っている潜在的可能性が実現されてゆくこと、これがマズローの言う自己実現である。
 ユングもまた、「自己実現 Selbstverwirklichung」という言葉を用いている。ただ、彼の場合、「自己実現」という言葉は前面には出ず、より多用された用語である「個性化」と、いくつかの個所で併置されるといったかたちで用いられている。しかしながら、ユングの個性化プロセスは、マズローの自己実現と同様、人間の心理的成熟のプロセスとして考えられているだけでなく、その内容も、マズローの自己実現と興味深い一致を見せる。
 ユングによれば、自我が一面的なものとなったときに、それと相対立する内容を持った無意識が自我に臨むが、それを受け止め、有意味なものとして統合することによって、意識と無意識を含んだ心の全体性である<自己>が現実的なものとして働き、そうしてその人が個体として一個の全体性を持ったまとまりとして生成してゆく弁証法的プロセスが、個性化、自己実現である(たとえば Jung 1928)。ここでの基本的方向性は、一面的な自我の破綻と全体的自己の出来である。それは先ほど見たマズローの、欠乏動機にもとづく生き方を脱し、本来的可能性を実現してゆくという方向性と軌を一にする。いずれにせよ、われわれが通常これが自分だと考えているもの――すなわち自我――を超えたところに本来的<自己>があり、この本来的<自己>が現実化することが自己実現と呼ばれるのである。以下、本稿ではユングの用語法を採用し、一面的で部分的な自我を含みつつそれを乗り越える全体的な自己を<自己>と表記し、通常の「自己」の用法と区別して用いることにする。

マズローとユングの宗教体験論
 ところで、自己実現における自我の破綻というモメントは、マズローの自己実現概念には含まれないように思われるかもしれない。しかし、マズローにおいてはピーク・エクスペリエンスに関する議論が、この論点をカバーしてくれる。マズローは、自己実現している人々の人生には、しばしばピーク・エクスペリエンスが起こるということを指摘した。それは、自己実現のエッセンスが凝縮されたかたちで展開されるモメントである。そこでは、通常は欠乏動機ゆえに自己の利益によって歪曲された形で認知されている対象が、あるがままのものとして現前してくる。そして、それに応じて自己も、何かを欠乏している存在ではなく、それだけであるがままの存在となる。そこでは、自分と他者あるいは世界との合一が起こっているように感じられる(文字通り一体化するのではなく、それぞれがあるがままに独自の存在としてあるという点において根本的に一致しているということが感じられる)。また、完全に機能することと絶対的な受動性、無我と強烈なアイデンティティの感覚という、一見相反する要素が統合されている(Maslow 1968, Maslow 1970)。ユング的用語法を採用するなら、これは、それまでの<自我>の境界が無効化し、かえって生き生きとした<自己>が感得される状態と理解することができるだろう。
 自我とは他なるもの――マズローの場合は他者や世界などの対象、ユングの場合は自我を補償するような内容を持つ無意識的イメージ――が自我に直面し、それによって自我が崩れるような体験、それが自己実現の重要な契機となる。自己実現が人間の本来的な成熟の方向性だとすれば、自我はこの本来的な方向性を忘却しながら通常の生を営んでいる。そのため、自己実現という本来的次元を再活性化するためには、自我の死という劇的な体験を経なければならない。マズローの場合、この劇的な瞬間はピーク・エクスペリエンスとして主題化され、自己実現プロセスとは区別される。自己実現プロセスはあくまで、生成 becoming の過程――自己の本来的可能性を実現しようと努力するプロセス――であるのに対し、ピーク・エクスペリエンスはその努力に報いる恩寵のようなものとして訪れる存在 being の体験――本来のあるがままの自己が実感されるモメント――である。
 ユングは、自己実現におけるプロセスとモメントの違いをはっきりと区別しているとはいえない。しかし、その宗教論『心理学と宗教』(Jung 1938)において、自我が自我とは他なるものと直面するようなモメントを、ヌーメン的なもの――自我を超えた圧倒的な力――の経験という表現で主題化している。言うまでもなく、これはR・オットーの『聖なるもの』を踏まえた議論であり、自己実現と宗教の関係を探るうえで重要な論点である。ユングによれば、宗教とは、個人の意志を超えた圧倒的な力に直面し、それから目を背けずに、力の現前を注意深く観察し、我が身に起こっている事柄に誠実に対応することである。つまり、ヌーメン的なものを受け入れ、その意味を考え抜くことが<宗教>なのである。いわゆる「宗教」――教義・儀礼・集団のセットとしての宗教――は、ユングにおいては本来の<宗教>の外殻として考察される。なかでも教義・儀礼・神話などの宗教的象徴は、ヌーメン的なものの体験の痕跡であり、のちの人間は、この象徴を媒介にして体験に間接的に触れる、あるいは象徴を引きがねとしてみずからもヌーメン的なものを追体験することが可能となる。こうして、宗教的象徴は新しく生き直され、発展させられることになる。
 自己実現のプロセスを凝縮したようなモメントとも言える宗教的体験が、宗教の中核にあり、その周縁に、体験を通して獲得された意味の伝達があるという図式は、実は、マズローの宗教論の図式そのものでもある。マズローによれば、ピーク・エクスペリエンスにおいて世界と自己があるがままに認知されるとき、世界と自己に認められるその「あるがままの価値」とは、全体性、響働 synergy、生命感、秩序、真善美、無為、独自性などの価値であるが、これらは宗教が重視してきた霊的[精神的]価値と一致する。宗教の創始者は、ピーク・エクスペリエンスにおいてこのような霊的価値を啓示されたのであり、宗教とはそれをコミュニケートすることである。マズローは、ピーク・エクスペリエンスは「宗教の中核をなす体験」であるとまで言う(Maslow 1964)。
 実を言えば、ピーク・エクスペリエンスはマズローにとって最初から宗教性を有するものとして考えられていた。彼はジェイムズの神秘体験の記述に触れ、自己実現している人々の人生には似たような体験がしばしば起こっていると考えた。しかしながら、それは必ずしも宗教とのみ関わる体験ではないので、体験の一時的高揚を指すピークという語を採用したのである。マズローはさらに、ピーク・エクスペリエンスは、「自己実現している人々」(潜在的可能性を高度に実現していると世間に認知されている少数の人々)でなくても、何ものかに「成ろう」Becoming と努力している平均的な人間にも――つまり誰にでも――時おり恩寵のように訪れるあるがまま Being の状態のことであるとする。したがって、ピーク・エクスペリエンスとは、高度に自己実現している人に顕著ではあるものの、自己実現の可能性を有するすべての人間に自然に訪れることのある、霊的価値の啓示である。この霊的価値の啓示を受け、それを伝達し共有するのが宗教の本来の機能であるが、しかしながら宗教は、組織化されるにつれて、この自然な霊的価値を超自然的なものとして絶対化し、それによって普通の人間には起こらないよう抑圧してきた。マズローは、このように批判する(Ibid.)。
 自己実現プロセスを際立たせるような体験が宗教の核心にはある、こう主張することによって、いっけん宗教に好意的であるように思われるが、実はもう一方では、体験を重視する宗教観から宗教のドグマティズムを批判する。このような態度は、ユングにも見られる。先に見たように、ユングは必ずしも体験主義的宗教観のみに偏っていたのではなく、宗教的象徴の媒介機能の重要性も認めていた。しかしながら、ある特定の信条を告白することが同一集団への帰属を表明するような形態をとる宗教、すなわち実定宗教を、ユングは「Konfession」(信仰告白、教派集団)と呼んで、彼の「宗教 Religion」概念と区別しようとしている。そして、現世の権威に匹敵するような権威を形成する組織化された「Konfession」が、個人の価値に対立することについて懸念の意を表明する。このような集団への帰属は平均的な道徳的価値への適応に等しく、自我のペルソナの強化につながるだろう。それに対して、集団との一体性や皮相な社会的自我から離脱し、十全に「個体」となることこそ、個性化=自己実現の課題である(Jung 1956)。
 以上のように、「自己実現」という言葉を用いた二人の宗教心理学者、ユングとマズローの主張は多くの共通点をもつ。まず二人によれば、自己実現とは、自我の固定的なものになろうとする傾向性に抗して、<自己>の本来的な可能性が現実化してゆくプロセスである。とりわけ、自我はそれとは他なるものと直面することによって打ち破られ、新しく生まれ変わることがある。このような自我の死と再生の劇的なモメントは、ピーク・エクスペリエンス、あるいはヌーメン的なものの経験と呼ばれるが、このような体験を通じて啓示され悟得された意味や価値の伝達と共有が宗教である。しかしながら、宗教は組織化によって、固定的な集団的自我の形成にくみして自己実現を抑圧する方向に働く可能性がある。

ジェイムズの自己実現論
 このような主張はまた、マズローに大きな影響を与えたジェイムズにも共通するものである。ジェイムズの『宗教的経験の諸相』は、まさしくさまざまな宗教体験のタイプの記述という体裁で構成されているが、この万華鏡の向こうには、ジェイムズが念頭に置いていた人格の成熟のプロセス――ジェイムズの自己実現論――がかいま見られる。
 ジェイムズは、たとえば回心体験を、通常の意識的人格が、<より以上のもの>the More と関わることで、潜在意識の状態で成熟しつつあった別の人格に変わることとして考察するが、このような人格成熟のプロセスは、まさしくこれまで見てきた自己実現プロセスと同型のものである。このような説明の仕方は、形を変えて、神秘体験の説明にも現れる。また回心は「病める魂」を前提とすること、「健全な魂」の状態は単なる一度生まれ(つまり自我の生まれ変わりを体験しないもの)の心境のみならず、回心後の心境に通じるものでもあることを考えれば、上の人格成熟プロセスは、ジェイムズの『宗教的経験の諸相』全体を貫くモデルだと考えられる。
 実際、彼は結論部分において、すべての宗教に共通するのは、道徳的不安からの神秘的救済であり、低次の自己が崩壊してしまったとき、<より以上のもの>との関わりにおいて、それと連続する高次の自己が活性化されると考えている。したがって、ジェイムズもまたマズローやユングと同様、宗教の中核には、自己実現の全き瞬間とも言えるような体験があると考えていたと言える。そして、そのまわりに形成される<より以上のもの>についての教義を「過剰信仰」とし、さらに体験の果実が極端なものになれば、プラグマティックな観点から批判されるべきだとする宗教批判的な視点も有している。これも体験主義的な宗教観からなされた実定宗教批判という意味で、マズローやユングと共通しているところである(James 1901-2)。

ロマン主義的自己実現論
 そこで、ジェイムズ、ユング、マズローは、類似の自己実現プロセスを説いたのだと結論づけることができる。彼らの念頭に置いていた自己実現プロセスとは、“一面的自我を超えた<より以上のもの>(世界・他者・無意識)に触れることで潜在的可能性としての自己を実現すること”としてまとめられるだろう。個人の自己の内面から、自然・世界・他者へと飛躍的な合一を果たすような方向性を有する点に着目して、彼らの自己実現論を、ここではロマン主義的自己実現論と呼んでおこう。このような呼称は、次に見る倫理的批判的自己実現論の系譜と便宜的に区別するためのものである。
 さらにこの三者の宗教心理学はいくつかの共通点をもつ。三者とも、宗教体験や神秘体験に関心を持ち、宗教の核心を体験に見るという体験主義的観点を共有していた。さらに、この“自分が新しく生まれ変わる体験”を、人間の成熟のプロセス(自己実現プロセス)の凝縮されたモメントとしてとらえており、宗教=宗教体験は、人間の心理的成熟を促すものであると考えていた。
 もちろん、彼ら心理学者と宗教との間に全く距離がないわけではない。彼らは宗教体験において起こっていることを、超自然的な観念体系に依拠せずに、人間心理の現象として記述することによって、宗教において超越的・神的存在を主体(主語)とする「救済」として表現されたことを、人間の本来的自己を主体(主語)とする「自己実現」としてとらえ直した。そこから、宗教の超自然的な観念体系を、「過剰信仰 over-belief」と表現し(ジェイムズ)、それを信奉する制度的宗教を「宗派集団 Konfession」として本来の<宗教>と区別し(ユング)、自然なピーク・エクスペリエンスを抑圧するものとして批判する(マズロー)ような視点をも確保しえた。このような視点からすれば、重要なのは相矛盾するような諸宗教の教義を信奉することではなく、自己実現の主体たる<自己>に究極的に関わってゆくことである。これは宗教以後の新しい霊性(精神性)のあり方としてとらえられるだろう。

2 倫理的批判的自己実現論の系譜――フロイト、フロム、エリクソン
フロイトの宗教批判と隠された自己実現論
 ユングやマズローが典型的な自己実現論を説いたとすれば、フロイトはそのような自己実現論からほど遠いところにあった、と考えるのが一般的なフロイト理解だろう。そもそもフロイトの思想体系に、大文字の<自己>という概念を見いだすことは難しい。その第二局所論において登場するのも、エス、自我、超自我である。もとより、ユングの自己実現論と逐一理論的に対応するようなものがフロイト理論のなかにもあったとするのはナンセンスである。しかしながら、臨床にたずさわり、患者が良くなろうとすることを支援してきたフロイトに、人間の心理的成熟のプロセスについてなんの考えもなかったとするのもまたナンセンスであろう。
 フロイトによれば、われわれの行為や観念は無意識的心的過程の表出を含んでおり、自我は意識や行為の完全な支配者ではなく、無意識的なものの不完全な抑圧者である。このような自我の欺瞞性を意識することで、それに翻弄される度合いが少なくなる。精神分析は、いわば「真理は汝を自由にする」という信念を前提として実践されるのである。自我の欺瞞性を批判的に暴露することで、より真正な<自己>に漸近してゆくことが、精神分析的実践の方向性であるならば、フロイトもまたあるべき成熟のプロセスという意味での自己実現プロセスを念頭に置いていたということができるだろう。ユングやマズローらの典型的な自己実現論とは異なるものの、フロイトにも潜在的な自己実現論があり、そしてそれは、自我から<自己>へという基本的方向性をも有していたのである。とはいえ、それは否定神学的に、自我を否定することで非直接的に<自己>に接近しようとするたぐいのものであった。このような強い批判的態度ゆえに、フロイトの自己実現論は、批判的自己実現論と呼んだほうがよいかもしれない(cf. たとえば Freud 1917)。
 さらに、こうした精神分析の基本的態度は、宗教論に際しては、具体的に、宗教の権威主義的性格と人間の破壊性の批判的暴露として前面に出される。親に依存しているかぎりでは全能だが、孤立すると無力になるという幼児的状況にある人間は、神に依存するかぎりでみずからを全能と感じ、人間同士の道徳的調整に関しても、神の命令・禁止に盲従していれば事足りると考えていた。しかし、人間の攻撃性は、人間文化が大規模に発展すると、もはや宗教による禁止だけでは押さえきれなくなる。とりわけ世俗化が進んだ現在において神信仰にのみ道徳性を依拠させるのは危険である。そこで改めて、宗教が唱えてきた道徳的命題をその合理的根拠からとらえ返し、人間のものとしなければならない。そうすることで、人間の自律性と共同性を同時に実現するという人間文化の本来的課題――エロスの目的――を実現してゆかなければならない(Freud 1927, Freud 1930)。他者との具体的な社会的関係において、人間の本来的可能性を実現しようとする、このような思想は、やはり自己実現の思想の一つに数えられるであろうが、倫理的自己実現論と表現するのがより適切であろう。

フロムによる発展
 以上のような、フロイトの潜在的自己実現論を顕在化し、そこからより明確な自己実現論を展開した思想家としては、フロムがあげられる。フロムは『精神分析と宗教』において、フロイトの宗教批判は、倫理的宗教観の立場からなされたものであると論じている。フロイトがあげた宗教の欠点、すなわち悪い人間制度の正当化、批判的思考の禁止、神信仰のみで道徳を正当化したことを反転させれば、正しい制度、批判的思考の自由、権威的でない道徳性という価値的前提が浮かび上がる。すなわち、真理・愛・道徳性・人間の心理的成長(自立)を、フロイトは是としていたのである。これは、実は宗教自身もまた追求していた価値ではなかったか。以上のことから、フロイトは、倫理的宗教性の観点に立って現実の宗教を批判していたのだということが分かる。
 このようなフロイト論はそのままフロムの宗教論の骨格を形成する。フロイトが批判していた宗教の悪しき側面を、フロムは「権威主義的宗教」とし、フロイトが暗黙のうちに理想としていた宗教の姿は、フロムによれば「人間主義的宗教」と呼ばれる。
 権威主義的宗教とは、人間を越えた力への服従を、その重要な要素とするものである。このような「宗教」理解は、西洋において一般的に通用している宗教理解でもある。たとえば、オクスフォード英語辞典は、「人間の運命を支配し、服従と畏敬と礼拝とを受けるに値する、人間を超えた目に見えぬ何らかの力についての、人間の側での認知」として宗教を定義している。しかしながら、このような宗教は、人間の自立や人間自身の力の発現を排除するものであり、人間の成長を望まないし、また促進しない。
 それに対して、人間主義的宗教とは、人間自身の理性と愛の力を発展させることこそを目標とする宗教である。権威主義的宗教では、権威への不服従が罪とされ、権威への屈服が善とされる。それによって人間自身の力は最小限のものにされる。ところが、人間主義的宗教では、罪とは人間の理性と愛の力の発現を妨げるような自分自身の要素であり、そのような罪を自覚することは、権威への屈服に向かうためではなく、自らの本来的な力を認識するためにこそ必要なのである(Fromm 1950)。
 フロムの言う人間主義的宗教とは、権威主義的宗教を批判したフロイトとフロムが、宗教の本来あるべき姿として念頭に置いていたものであり、そこに彼らの自己実現論を見いだすことができる。それは人間自身が本来持っている理性と愛の能力を発達させるという言葉に集約される。このフロムの自己実現論をもう少し詳しく見ておこう。
 フロムはまず、自然の一部でありながら自然から独立しているという人間の実存的二分性を指摘する。このことから、人間は、自然と調和しながら発展することを運命づけられているということが帰結される。生産的な仕事を通じて、個として進歩し、かつ全体と調和するという、一見相反する課題を同時にこなさなければならない。この困難な道を歩み適切な生き方を選択してゆく基礎となるのが「理性」である。またこの課題の根本には、自己の成長と他者の成長の一致を望むという意味での「愛」がなければならないだろう(cf. Fromm 1947 など)。
 こうした愛と理性への人間的欲求を表現したものが「理想」であり、宗教はこのような理想を正しく明示し、それへと人間を方向づけるようなものでなければならない(Fromm 1950)。しかし、これらの理想はいったん表現され、外在化されると、偶像化され、権威主義的に信奉され、それに服従するか否かへのこだわりが主となってしまい、意図せざる帰結として人間の自立性の芽を摘み、人間の成長を妨げる危険性も出てくる。そこで、われわれは絶えず批判的な目を光らせ、宗教が人間の成長を促すという本来の目的を果たすように軌道修正してゆかねばならない。かくして、前述の権威主義的宗教と人間主義的宗教の区別が、われわれが宗教を見る際の重要な基準となる。
 また、フロムは、『フロイトの使命』(1959)や『フロイトを超えて』(1980)において、フロイトの著作や伝記的資料を丹念にたどりながら、そのいっけん破壊的な懐疑主義が、啓蒙主義的理想の徹底を目指していたことを明らかにしている。これはフロイトの批判的自己実現論に光を当てるものである。さらに、フロイトのエロス論と戦争論を吟味することによって、フロイトは一方において人間の攻撃性に透徹した分析の目を向けながらも、他方において、人間はエロス、すなわち“他者とともに生きようという意欲”に突き動かされているのだという信念を持っており、その意味でフロイトは愛と平和の思想家であったということを明らかにした。これは、フロイトの倫理的自己実現論に光を当てるものであろう。こうしてフロムは、フロイトが彼と同様、愛と理性の能力を発展させる自己実現プロセスを説く思想家であったことを、生涯にわたって再三、強調したのである。自我の欺瞞性や攻撃性を暴露することを通じて、人間は、他者と誠実で愛ある関係を結ぶことができるようになる、このような倫理的かつ批判的な自己実現論を、フロイトは持っていたというのである。
 しかしながら、フロイト=フロムの自己実現論は、先に見たマズローやユングらのそれとは異なり、成熟への可能性を肯定的に是認するというよりも、成熟を限界づける障壁への批判的態度をあくまでも保持するものであった(フロムは人間の成長可能性をフロイトよりも明確に信じていたが、そのような態度が退行や固着への批判的分析を押しのけて前面に出ることはなかった)。言い換えれば、大文字の<自己>の実現可能性よりも、現にある自我の限界に、より多くの注意を向けるのである。その意味で、フロイトおよびフロムの自己実現論は、倫理的内容を有しているというだけでなく強い批判的態度によって貫かれた自己実現論なのである。かくして、フロイト=フロムのラインの自己実現論を倫理的批判的自己実現論と呼び、先に見たジェイムズ=ユング=マズローらのロマン主義的自己実現論と一応の区別をつけることができるように思われる。

エリクソンの自己実現論
 この倫理的批判的自己実現論の系譜には、さらにエリクソンも加えることができるだろう。彼もまたフロムと同様、フロイトにおいて潜在的なままであった自己実現論を彼なりの仕方で発展させたと言える。有名なライフサイクル論の図式の、内容よりも、まずその形式に目を向ければ、彼が人間の発達をどのようにとらえていたかが分かるだろう。ライフサイクル論をまず規定しているのは、各ステージにおける対人関係の範囲である。母親的人物から始まり、次第に対人関係の範囲が広まり、最後には人類が重要な対人関係の範囲に含まれる。生理的条件・社会的条件から、対人関係の範囲が広がり、新たな他者と出会うようになる。すると、そこで、今までは直面しなかった問題にぶつかる。この問題は、他者のなかで自己性を発現させようとすると、それが必然的に他者との不調和を帰結するというジレンマのかたちで現出する。しかしながら、この「危機」は発達の好機でもあるととらえられる。自己と他者の相克があってはじめて、そこから、自己と他者が共に生き生きとなるような状態、「相互性」のあり方が模索される。この生き生きとした状態は「徳」――人間の本来的な力強さ――と呼ばれる。それは、確固たる道徳的命題ではなく、実践的状況のなかでそのつど立ち上げられる倫理性である(エリクソンのライフサイクル論全般については、たとえば cf. Erikson 1982)。
 エリクソンのライフサイクル論は、しばしば徳目主義であるかのように誤解されるが、そのモチーフは、権威主義的道徳を批判し、人間が他者とともにより良く生きようとする際に時おり活性化される倫理的構造の大枠――すなわち「徳」の形態――を記述することであった。実際、エリクソンは、「道徳」を、脅しへの恐怖から合理的根拠なしに服従せざるを得ないような規則とし、「倫理」を、自己実現 self-realization を約束するものであるがゆえに、理想の追求から合理的に同意されるような規則とし、後者の倫理的規則を支持している(Erikson 1963)。
 権威主義的道徳批判がフロイトやフロムの宗教論の基本的モチーフであったことは、すでに見た通りである。それはエリクソンの宗教論に関しても言える。『青年ルター』(Erikson 1958)や『ガンディーの真理』(Erikson 1969)には、宗教的権威との葛藤や禁欲的宗教性と暴力性の問題などといったテーマが出てくる。後期エリクソンの儀礼論とライフサイクル論の最終ヴァージョンには、他者との真に生き生きとした関係へ橋渡しする儀礼化と、硬直した行為の構造の反復である儀礼主義とが峻別されるが、儀礼主義とされるものには、偶像崇拝、律法主義、道徳主義、形式主義、全体主義、エリート主義、権威主義、ドグマティズムがあり、総じて宗教に見られる権威主義的な硬直化への批判と読むことができる。このような批判的態度は、フロイトやフロムの一連の権威主義的宗教の批判に連なるものである(Erikson 1982)。
 また、自己と他者の葛藤と相互性という問題設定は、フロイトの後期欲動論の発展型と見なすことも可能である。生の発達には必ずそれに逆らう破壊へと向かう傾向性が付随するが、にもかかわらず自律と共生を同時に達成するようなエロスの理想にわれわれは向かわざるを得ない、というのがフロイトの欲動論と文化論の帰結であった。エリクソンもまた、他者との出会いにおいて避けがたい葛藤と、にもかかわらず人間にとって本来的に可能である相互性とをライフサイクル論の柱にしている。ライフサイクル論のこのような問題設定は、したがって、フロイトの議論をよく踏まえたものと解することができる。フロイトの倫理的側面への着眼とその発展的継承は、フロムとも共通するものであると言えるだろう。
 以上のような理由から、エリクソンも、フロイト=フロムの倫理的批判的自己実現論の系譜に加えることができるように思われる。エリクソンにおいては、大文字の<自己>の実現形態が、肯定的に前提されることはない。自我の限界に即して、他者との関わりのなかで、特定の歴史的状況において、自己が生き生きとしてくるその姿を通して、人間の理想的可能性がやっと示唆される。ユングとの共通性もいくつか指摘することはできるだろうが、エリクソンは総じて他者との具体的関係性を重視するので、内面から一挙に普遍へと飛躍したり、自他の合一を強調するようなロマン主義的自己実現論の系譜とは、ひとまず区別しておいたほうがよいだろう。

倫理的批判的自己実現論
 以上、フロイト、フロム、エリクソンの三者は、人間の倫理的成熟という観点から宗教を批判的に分析し、倫理的な「自己実現」プロセスを提示したと言える。彼らの念頭に置いていた自己実現とは、自我の欺瞞性の批判的分析をとおして、他者・共同体・人類と、より倫理的な関係を結ぼうとするものであり、個人の内面の成熟を超えた、人間集団の成熟をも視野に収めるものである。彼らは、宗教のなかの権威主義的な道徳性を批判し、相互に生き生きとした状態を模索する姿勢という意味での倫理性を提唱したと言える。要するに、宗教的道徳性から脱宗教的倫理性への移行を志向していたと言える。

3 心理学的自己実現論と宗教
心理学的自己実現論の再定式化
 ここまで、宗教心理学の代表的思想家である、ジェイムス、フロイト、ユング、マズロー、フロム、エリクソンらを、その自己実現論に注目しながら、二つの潮流に振り分けて概観した。便宜的に、ジェイムズ、ユング、マズローのグループを「ロマン主義的自己実現論」の系譜とし、フロイト、フロム、エリクソンのグループを「批判的倫理的自己実現論」の系譜とした。前者は、個人の自己の内面から、自然・世界・他者へと飛躍的な合一を果たすような形態の自己実現を、後者は、自我への批判的態度を保持し、他者との具体的な倫理的関係をより充実させてゆくような形態の自己実現を、それぞれあるべき人間の成熟のプロセスとして念頭に置いていた。
 宗教との関わりで言えば、前者は、宗教の本来的あり方の抽出という方針から、“宗教は自己実現を促す”と考え、後者は、宗教の現実的形態への批判という方針から、“権威主義的宗教より離脱し、人間同士の愛ある関係を確立すべし”というメッセージを投げ掛けた。
 以上の区別は、フロイトとユング=マズローとの間に、もっとも鮮明な線引きをすることが可能であり、厳密には、ジェイムズ、フロム、エリクソンを、これら二つの陣営のどちらかに振り分けるのは、やや無理がある。フロイトとユングの学説の発展を見届けられなかったジェイムズにおいては二つの傾向性は未分化なかたちで結びついており(体験の道徳的有用性の吟味という視点、多元主義)、フロイトとユングを知っていたフロム、エリクソンにおいてはある程度の統合が目指されていたと見ることもできよう。したがって、図式としては、フロイトとユングに代表される二つの自己実現論を両端に置くスペクトルの間で、それぞれの宗教心理学者たちが、それぞれに宗教を対象化しつつ、おのれの自己実現論を展開したというかたちで理解しておきたい。
 だが、さらにこれらを一括して、心理学的自己実現論として一般化することも可能であろう。彼ら宗教心理学者たちが、人間のあるべき成熟のプロセスとして念頭に置いていたのは、“一面的・部分的・虚偽的な自我を超えた「何か」(無意識・他者・共同体・人類・世界)に直面することで、<自己>――全体性としての自己、潜在的可能性としての自己、しかし実体化されることのない統制理念としての<自己>――を実現するプロセス”であった、と。ここで取り上げた心理学者に関しては、しばしば思想的対立や流儀の相違が強調されるが、表面的な自我を離れて実体なき<自己>に究極的に関わってゆくプロセスに人間の心理的成熟を見る視点は、驚くほど共通している。
 このような自己実現思想を、宗教と関係ない世俗的思想として見ることは可能であるし、実際、心理学理論を宗教思想と区別しようとする試みは、当の心理学者たちによって絶えずなされてきたことでもある。そもそも宗教心理学という学問そのものの、心理学にとっての潜在的含意とは、宗教の対象化による宗教との距離化にある、と言っても過言ではない。しかしながら、宗教との差異化の戦略が必要になること自体が、心理学的思想運動と宗教との競合関係を間接的に示唆する。ある意味では、心理学的思想運動は新しい宗教性をになうものだと見ることもできる。あるいはマズローの言葉を引けば、霊的価値を超自然化する宗教に対して自然な霊性=精神性を擁護するものだと言うこともできるだろう。それは人間と超越的実在との二元論に立つ宗教に対して、人間の経験としての宗教だけに分析を限定する。これは、もともと経験科学の範囲を超えないという意味での方法論的限定であった。しかしながら、そうすることで、神による救済の出来事は、人間の側での自己実現として記述される(ジェイムズ、ユング、マズローの場合)。あるいは神が表象としてとらえられ、さらにその表象の構成に介在する人間の願望の投影や、権威主義的関係性が問題とされ、神や超越的規範への従順さよりも他者との倫理的関係の充実のほうが優先される(フロイト、フロム、エリクソンの場合)。いずれの場合も、自己実現は、従来の宗教的救済と異質な内容を負荷されることになった。

「現代宗教」としての心理学的自己実現論――ベラーの宗教進化論に依拠して
 宗教心理学の背後にかいま見られる自己実現論が、宗教に対抗する世俗思想なのか、それとも従来の宗教に代わる新しい宗教性なのかという問題は、おそらく「宗教」というものをどうとらえるかによるだろう。実定宗教をまず宗教ととらえるような、近代社会においてもっとも有力な宗教概念によれば、すなわち宗教の実体的定義によるならば、自己実現論は宗教ではない。何よりもそれを信条とすることを告白するような集団が確定できないからである。しかし、宗教学や隣接する人間科学――宗教心理学をも含む――が提起してきた宗教の機能的定義によるならば、自己実現論は近代的宗教概念を相対化するような新しい宗教性をになうものと見ることができるかもしれない。
 このような見方の一例としてはR・N・ベラーの宗教進化論があげられる。ベラーは、「人間をその実存の究極的条件に関わらせるような象徴的な形態と行為」として宗教を定義する。そして、「進化」とは分化や複雑化を意味し、不可逆的でも単線的でもないと断ったうえで、宗教の進化について語る。その議論は、原始宗教、古代宗教、歴史宗教、初期近代宗教、現代宗教の五段階からなる。詳細をここで紹介することはできないが、大きな流れは、前述の組織の分化と複雑化に加えて、歴史宗教における現世拒否の高まりと、現代宗教におけるその衰退である。原始宗教においても現世拒否は不在であるので、現世拒否が高まり、そして衰退してゆくという山形カーヴの図式が描かれる。もちろん、原始宗教と現代宗教とでは、複雑化の度合いが異なっている。原始宗教が単一の世界を指向するのに対し、現代宗教は無限に多層な世界を形成する(Bellah 1964)。
 本稿の文脈にとって重要なのは、「現代宗教 modern religion」についての議論である。その特徴は、@形而上学的な二元論的世界観から離脱し、世界理解の多元性・不完全性を認めたうえで、自己のダイナミックで多元的な象徴化を図ること、A教会組織に縛られず、教義を個人的に再解釈する余地を認め、個人の成熟と社会への関わりを重視すること、B文化と人格を無限に修正可能なものとし、初期近代宗教の硬直性に挑戦し、社会と自己を絶えず作り替えようとすること、などである(Ibid.)。
 以上の特徴から分かるように、現代宗教の担い手は宗教組織に限られない。その要点は、自己を機軸にした、よりよき自己とよりよき社会の探究にある。ベラーによれば、「歴史宗教は[実在との関係において]自己を発見した。初期近代宗教は、自己がそのいかなる経験的曖昧さにあっても耐えられるような教理上の基礎を発見した。現代宗教は、自己がそれ自身の実存の法則を理解し、それによって自分の運命に対する責任がとれるよう促しつつある」ということである(Ibid., p. 43, 邦訳79頁)。すなわち、歴史宗教において発見された「実在―自己」の関係性が、世俗内においても貫徹されるよう努力するのが初期近代宗教であるが、現代宗教は、自己の実存そのものに関心を払い、自己理解と自己決定と自己責任を旨とするのだ、ということである。「人間をその実存の究極的条件に関わらせるような象徴的な形態と行為」を宗教の定義としていたことを想起すれば、現代宗教の宗教たる所以は、自己への究極的な関わりにあるとすることができるだろう。したがって、本論考でこれまで見てきた心理学的自己実現論は、このような現代宗教の一つのかたちであるとすることができる。
 もちろん、心理学的自己実現論がベラーの言う現代宗教を代表できるとは思われない。自己実現の言説は大衆的広がりをも見せている。現代社会全般において強い影響力を持っているのは、心理学的自己実現論よりもむしろ大衆的自己実現論である。しかしながら、こと自己実現論に関して言えば、知識人と大衆の二分法は不毛である。歴史宗教を胚胎した前近代社会に特有の、文盲の民衆と文字を操る聖職者との二分法は、教育の普及した近代社会においては決定的に崩れている。大衆の自己理解は、伝統の守護者から一方的に提示されるのではなく、学校やマスメディアを介して――少なくとも表面的には――自発的になされる。そして、これら自己理解の媒介の一つとして、専門家としての権威をまとった心理学者たちがからんでくる。とりわけ、「自己実現」という言葉を広めるのに大きな貢献のあったマズローらの人間性心理学と、ヒューマン・ポテンシャル・ムーヴメントとの関わりは、心理学的自己実現論と大衆的自己実現論が分かちがたく結びついた好例であろう。そこで、心理学的自己実現論を現代宗教の一つの顕著なかたちとして取り出し、そこから現代宗教の性格に一つの光を当てることは、ある一定の限界を有するとはいえ、決して無意味ではないと思われる。無論、現代宗教の全体像を解明することは、本稿の主目的ではない。

4 救済・解脱、自己実現、癒し
 心理学的自己実現論と宗教との関係性を探ろうとすると、探求の方向性は二つに分かれる。一つは、現代宗教のなかでの位置づけ、とくに大衆的自己実現論との関連であり、もう一つは、いわゆる「宗教」との比較である。前者については、本稿の扱う領域をはるかに越えるであろう。そもそも大衆的自己実現論とはいかなるものであるかについて、本稿が心理学的自己実現論に関して割いたのと同等のエネルギーが要求される。そこで、本稿ではベラーの図式にのっとりながら、現代宗教以前の宗教と心理学的自己実現論との思想面での比較について、若干のコメントを述べるにとどめておきたい。

救済・解脱との関係性
 ベラーが歴史宗教の特徴としてあげるのは、現世拒否と、それに伴う二元論的世界観である。そこでの目標は、現世における苦難からの解放、すなわち救済・解脱である。この救済・解脱は、現世外あるいは世俗外でなされる。そして、それに至るまでに人間はラディカルな自己否定を経なければならないだろう。キリスト教の場合、救済は神のような超越的実在によってなされる。このような救済概念と比較した場合、自己実現は、現世外・世俗外でなく現世内・世俗内において、超越的実在による悪からの解放でなく、自己の内在的本質そのものの解放による悪の払拭であり、人間のラディカルな自己肯定を伴うものであるとすることが出来るだろう(もちろん表層の自我が全面的に肯定されるわけではない)。
 しかしながら、仏教における解脱の場合、キリスト教における救済と異なり、苦難からの解放は超越的実在によってなされるのではなく、自己実現の場合と同じく、自己の内面の洞察によってなされる。もちろん、歴史宗教の段階における仏教は(原則的に)現世外・世俗外における解脱を志向しており、そのために(場合によっては)禁欲などの自己否定を経なければならない。したがって、自己実現と仏教は同一視することが出来ない。しかし、ジェイムズ、ユング、フロム、マズロー、エリクソンは、東洋の宗教への好意的な言及や参照をおこなっており、自己実現思想との親和性はたしかにあると思われる。とくに、フロムは精神分析の方法を仏教のそれと理論的に深く結びつけている(Fromm 1960)。また、ユングは、「道」の思想や、「曼荼羅」に触発されて、みずからの個性化論や象徴論を形成したふしがある。しかしながら、大文字の<自己>を立てるユングやマズローの思想は、仏教思想と容易に重ね合わせることが出来ないかもしれない。とはいえ、自我の否定という、倫理的批判的自己実現論にもロマン主義的自己実現論にも共通する要素は、仏教の無我説と両立可能であろう。

癒しの系譜
 また、心理学的思想運動と前近代の宗教的思想・実践との類縁性を考える際に見逃せないのは、癒しの系譜である。ジェイムズやマズローを除く、心理療法的実践に関わっていた心理学者に関して言えば、その治療実践そのものが、呪術的宗教的治療実践の代替という意味合いをもつ。本稿は、心理療法家の宗教心理学に対象を限定したものではないので、ジェイムズやマズローなどの非臨床家をも含んだ宗教心理学者に共通する思想として、自己実現論を取り上げた。しかし、こと臨床的方向性を有する心理学的思想運動をベラーの言う現代宗教として見るという問題設定の場合、癒しの思想について考察することは避けられないだろう。これも大衆的自己実現論についての考察と同様、本稿では十分に取り上げることが出来ない。しかし、その要点を述べることは可能である。ユングなどの自己実現論には、自己の全体性の回復ないし再活性化というモチーフがある。このような全体性の回復というモチーフは、現代のホーリスティック医学に引き継がれる(cf. たとえばWeil 1995)。そこでは、身体的疾患を正常な状態に戻すという意味での「治療」ではなく、心身の全体的健康を回復するという意味での「癒し」が目指される。
 自己実現における<自己>への究極的な関わりは、癒しにおいては、心と体を含んだ<身体>としての自己への究極的な関わりに取って代わられる。救済や解脱が、悪や罪や苦難にまみれた身体を切り捨てていたのに対し、癒しは常に身体を含んだ苦難の払拭に関わってきた。近代医学が、体のみを科学的技術の応用対象としたのに対し、心理療法は心と体を含んだ<身体>の癒しの道を回復した。もちろんフロイトの「精神」分析は、心の「治療の技法テクニック」としてみずからを理解しており、本来のあるがままの心身の全体的健康を回復するという意味での「癒しの技アート」であることを前面には押し出さなかった。しかし、そのような方向性は萌芽として含まれていた。エクソシズム、メスメリズム、催眠術との連続性を強調するような見方もある(Ellenberger 1970)。「癒し」としての心理療法は、ユング以降においてもっと自覚的に推進されるだろう。マズローは臨床家ではなかったが、「あるがまま」の自己というスローガンを打ち出し、思想的には本来のあるがままの自己の全体性の回復を目指す癒しの思想と近いし、マズロー以後のトランスパーソナル心理学は、ホーリスティック医学とも近い位置にある。付け加えれば、ジェイムズも臨床家ではなかったが、当時のマインド・キュアを共感的に理解していた。癒しの実践にたずさわっているかどうかを抜きに、思想的な親和性に限って言えば、ホーリスティック医学に見られるような癒しの思想と、ジェイムズ=ユング=マズローのロマン主義的自己実現論には、全体性の回復というモチーフが共通して見られると言っていいだろう。
 自己実現が前近代において東洋宗教にその先駆形態を持っていたのと同じように、癒しにも先駆形態があり、その源流はベラーの言う原始宗教にまでさかのぼる。エリアーデは、呪術的治療儀礼の際に、宇宙創造神話や病気と治療の起源に関する神話が再演されることを指摘し、彼の「永遠回帰」の理論の文脈のなかで、癒しを理解した(Eliade 1963)。呪術的な癒しの儀礼に見られる起源の反復は、現代の癒しの思想において説かれる全体性の回復と、同型の構造を有する。癒しの技は、原始宗教に源泉を持ちつつ、それ以後も、通常の儀礼で対応できない急激な変化への処置の方法として、歴史宗教と平行して、いわば「小伝統」として実践されてきた。そして、心と体を包括した<身体>を自己としてとらえるような最近の現代人によって、現代宗教の有力な形態として再発見された、とすることができよう。

心理学的自己実現論とモダニティ
 おそらく、大衆的自己実現論が近代的自我の形成と大衆の自立を促す思想であったのに対し、心理学的自己実現論は、近代的自我の問題点に注意を差し向けつつ、本来的<自己>の実現を促すような思想であった。このような近代性へのオルタナティヴとしての要素をもともと持っていた心理学的思想運動が、実践的側面を伴って現れると、それが何よりも癒しの技であることが強調されるようになる。癒しの思想は、前近代、および初期近代においては、正統宗教や正統医学のオルタナティヴであったが、心理療法の文化的地位が確固たるものになるにつれ、主流派の知識人にも注目されるようになり、とりわけ後期近代においては「脱近代」の思想としてとらえ返され、受容されてゆく。それは、生理的変容を喚起する「技法」に転化するという危険を常に伴いつつも、操作的な自己改造に疲れた<身体>をケアする手段として、近代的自我の確立に疑念を感じる人々にアピールするであろう。
 ただし、倫理的批判的自己実現論は、必ずしも癒しの思想に直結するものではないということに注意しなければならない。フロイトの精神分析は原理的には「終わりなき分析」であり、全体的な健康を回復しようとするものというより、みずからの内なる病に絶えず目を向けようとするものである。癒し――およびそれと連続するロマン主義的自己実現論――が脱近代の思想として受容されるとすれば、倫理的批判的自己実現論は、近代的自我を絶えず批判しつづけることによって、近代という未完のプロジェクトにコミットするものとして特徴づけられるであろう。あるがままの自己を一挙に回復することで、悪や苦難を払拭するよりも、それは、傷つきや苦しみについて考え抜く徹底操作に定位するのである。脱近代的な志向性をもつ癒しの思想が大衆的自己実現論のナルシシズム的な感性主義にすり替わり、癒しの技法テクニックが自我の全能性を補完する道具に成り下がったときには、倫理的批判的自己実現論が、もともとはロマン主義的自己実現論にもあった自我への批判性を再び喚起することになるであろう(cf. Fromm 1989)。このことは、自己実現の二つの系譜が、近代というものとどう関わるかについて見通しを与えてくれる。すなわち、ロマン主義的自己実現論は、癒しの思想とともに、脱近代的、場合によっては反近代的な志向性を持つのに対して、倫理的批判的自己実現論は、近代を批判することによって近代を洗練させるという批判的近代主義の戦略をとるのである。

 以上、心理学的自己実現論の二つの系譜が、歴史宗教の救済・解脱の思想や、現代において復活しつつある原始宗教来の癒しの思想とどのような関係にあるかを、ごく簡単に俯瞰し、それと近代性との絡みについて付言した。本稿では、心理学的自己実現論の再定式化とその位置づけに議論の重点を置いたが、上のような見通しは、大衆的自己実現論と癒しの思想の精査によって、さらに展開されるべきであろう。

参考文献

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