現代思想と宗教心理
堀江宗正
イントロ
本章の狙いは、現代思想と宗教心理学の哲学的比較である。両者を、近代思想史の流れのなかで理解し、宗教心理学の新しい方向性を探ってゆきたい。
現代思想は、自己が普遍性と直結するような思想体系全般を鋭く批判してきた(他者論的転回)。批判の対象には、形而上学以後の宗教も当然含まれる。一方、宗教心理学は、宗教を心理学的に分析することをとおして、ある種の自己実現思想を展開してきた。現代思想のインパクトを、宗教心理学はどう受け止めるべきだろうか。本章では、「心の存在論から心の倫理学へ」の転換が必要であることを明らかにしている。
だが、自己実現論は、実は「自己の一神教」ではなく、他者論を包括する多元論的方向性をも有している。そこからむしろ他者論的転回を補正する可能性も見いだされるだろう。現代思想と宗教心理学の突き合わせから練り上げられる多元論的自己実現論は、脱宗教の倫理・霊性として、ニューエイジのオルタナティヴとなる可能性をも秘めている。
本章では、現代思想と宗教心理とのかかわりについて考察する。
まず、現代思想というジャンルについて一言述べておこう。ここで言う現代思想とは、一九六〇年代前後からフランスを中心に開花した諸思想のことで、その代表的思想家としてはデリダ、ドゥルーズ、フーコー、ラカンなどがあげられる。日本では八〇年代にニュー・アカデミズムの名のもと、難解で訳の分からないいい加減な物言いの流行としてとらえられていた感もあるが、その後九〇年代を通して地道な研究が進み、今や現代思想はアカデミズムの中心に腰を落ち着けつつある。その思想的スタンスから、ポストモダニズムと呼ばれることも多い。つまり、近代を批判しつつ、かといって伝統に戻るのでもなく、近代を用意してきた西洋の形而上学的伝統そのものを根本的に見直すというモティヴェーションに駆り立てられた一群の学的思索を指すものとして理解されている。
一 現代思想と宗教
現代思想が問い直そうとしているこの西洋の形而上学的伝統には、当然のことながら宗教がからんでくる。一般に、とくに日本では、現代思想と宗教との関連は薄いと思われている。たしかに、宗教への直接的言及は目立たない。しかし、彼らの形而上学批判は、軸の時代以後の宗教に宛てられたものとして理解することが可能である。
たとえばJ・デリダは、神とも同一視されるロゴス(言葉、声、理性)を真実在とするロゴス中心主義を批判する。それは、ロゴスという本質とその外部からなる二分法を前提とし、本質との一致、本質の現前を真理とする。このような前提から、階層秩序的な二項対立をはらむ言説が次々と産出される。すなわち「パロール/エクリチュール」「内部/外部」「自己/他者」「同一性/差異」「本質/仮象」「善/悪」「精神/身体」「人間/動物」などの優劣を強調する二分法であり、「西洋/東洋」「男/女」などといった自己中心的な差別的言説である。そうして世界は階層化される。頂点に神が座し、それとの同一化、すなわち内部化の度合いが、階層内での位置を決定する。それはつねに他者の支配的同一化を狙っている。このような形而上学的言説を、デリダは脱構築しようとする。すなわち、二項対立のうち支配的な前者が実は後者に依存していること(もちろん優劣の単なる逆転ではない)を指摘しながら、境界線が決定不可能であることを暴露するのである(Derrida
1967a)。
E・レヴィナスはこの事態を別の角度から検討する。人間が神を概念によって同一化し、そしてその同一化された神を振りかざして、他者を同一化する。そのような宗教のあり方を、レヴィナスは神の他者性を強調することによって批判する。神という語が意味をなすものであるならば、それは人間にとって他なるものでしかなく、決して同一化されることがないはずである。絶対的他者なる神との関係性は、人間のエゴイズムを徹底的に無化し、他者に応答するかぎりで成り立つ主体性を構成する。そして、このような主体性は、他なる人間と倫理的関係に入ることを可能にする(L思inas
1975, L思inas 1975-6)。レヴィナスとデリダのあいだには微妙ながら決定的な差異もあるのだが、他者の支配的同一化を批判するという点、とりわけ宗教においてその一つの典型が見られるという認識に関しては共通するだろう(また、宗教のなかに、他者性を廃棄する主体性だけでなく、他者に応答し、他者を証言する主体性があることを認める点においても両者は一致する。cf.
Derrida 1996)。以下、このような動向をさらに追ってゆく。
アドルノとホルクハイマーは、自然支配の理性が、他者の道具的支配に転じてゆく様を批判する。まず、自然の力に驚かされて発した「マナ」という声が、神的力を喚起する呪力をもった言葉として使用されるという事例を、言語の使用の始まりを画する出来事としてあげる。神話において、人間は、言語を介して召喚された神を通して、自分自身を理解するようになる。ここにおいて、創造する神と秩序づける人間精神の同一化が図られ、自然はその客体とされる。啓蒙は、さらに主客の分離を断行し、人間と自然ないし神との親和的・類比的な関係性を断ち切り、理性の支配対象を外的自然と内的自然に定める。それは人間の自律を画する出来事であるかのように見えるが、実は、人間による人間の支配の連関、全体主義へと帰結するものである。かくして啓蒙は野蛮に帰する(Horkheimer
& Adorno 1944)。アドルノは、自然との非支配的で非敵対的な関係性を模索する。決して同一化されない非同一性とのかかわり方として、最終的な肯定を目指さずに矛盾の論理である弁証法をそれとして徹底させてゆく「否定弁証法」を提示する(Adorno
1966)。そして、未知のものを既知のものに同一化せずにあくまで未知のものとして経験する様態として「ミメーシス」に目を向ける(Adorno
1970)。
右のような全体主義批判は現代思想の重要なモティーフである。全体主義は、他者を同一化しようとする西洋形而上学の帰結であり、そして近代における世俗化は形而上学的な宗教的思惟の衰退どころかむしろその国家規模での徹底であると考えられる。おそらくフーコーの仕事は、ソクラテス以後から近代国家に至るまで、他者への配慮がどのような段階を追って欠落していったかをたどったものとして読み直すことができるだろう。
M・フーコーは、中期権力論において、主体化が従属につながるような近代的主体のあり方を指摘し、晩年においてはその背景にある「自己のテクノロジー」の歴史をたどっている。それによると古代ギリシアにおいては、自己への配慮とは自己の政治的実践への配慮であり、それはとりもなおさず、世俗内における他者への配慮につながるものであった。だがすでにソクラテス・プラトンにいたって、このような自己への配慮は、哲学的「真理」の探究と軌を一にする。以後、他者よりも真理を尊ぶ態度が次第にはぐくまれる。帝政ローマ期においては、政治的活動から離れた場面での自己への配慮が問題とされる。さらに、キリスト教においては、世俗外において、自己への配慮ではなく自己の認識がすすめられる。自己への配慮という利己主義は罪であり、自己を放棄して、隠された欲望の真理を認識して告白することが、魂の救済につながる。近代の道徳は世俗内の他者への配慮を説くが、そこでも自己への配慮は非道徳的なエゴイズムとして否定され、自己認識のほうが重視される。自己認識を重視するのは、道徳的自律を重んじるからである。そこでは具体的な他者への配慮よりも、むしろ他者への配慮を説く道徳的規則にどれだけのっとっているかという自己の真正さの検討がおこなわれる。こうして、自己への配慮を通じての他者への配慮は、自己の認識あるいは監視による近代的主体の構成にすり替えられ、対他関係は自己形成の肥やしとなる。宗教改革と世俗化を経てなお、自己開示の技術と自己認識の態度は受け継がれる。キリスト教の告白の技術は欲望を消し込んでゆきながら、一人ひとりを神と結びつけてゆくが、羊を一頭たりとも迷わせまいとするこの牧人型権力は、近代においては、人々を自律した主体として個別化し、一人ひとりを完全に世話することで全体化しようとする国家権力のモデルとなっている(主にcf.
Foucault 1988)。
以上、ごく簡単に紹介した現代思想家たちの宗教批判の要点は、次のようにまとめられるだろう。(一)神の概念的把握、および(二)神と人間の類比的同一化が、(三)他者性の廃棄につながり、(四)近代における個人主義と全体主義の結合を準備した、と。現代思想のこのような動向を、ここでは「他者論的転回」と呼んでおく。それは、普遍的なものへの自己同一化を目指す西洋形而上学の帰結が個人主義と全体主義であることを踏まえて、他者の他者性を同一化することなく、それでいて相互不干渉や相対主義にもとどまらず、他者と倫理的にかかわる仕方を模索しようとするものである(したがって、よく誤解されることだが、現代思想家たちの多くは相対主義的でもなければ個人主義的でもない)。
この「他者」という用語は、単に自分以外の人間を指すものではない。他者とは、独我論的な主観の構成に収まらないもののことである。また、それは横並びの共同性をともに構成する同志でもない。並び立つ諸主観の合成からなる全体性のなかには、他者は見いだされず、ただ集団的同一性があるのみである。このように言うと、現代思想家たちの言う「他者」は、極めて具体性に乏しく、非現実的であるように思える。他者の哲学をもっとも力強く説いたレヴィナスなら、その通り、他者は存在しない、存在するというのとは別の仕方で私に働きかける、もしくは存在でも非存在でもなく存在の彼方そのものである、とするだろう(L思inas
1977)。それは、自己と他者が互換的であるような現実のコミュニケーションの場面を度外視して、自己が自己であるかぎりにおいて、他者が他者であるかぎりにおいて、この他者について何が言えるかということを突き進めた、瞬間の思考である。デリダやアドルノは、レヴィナスほど極端ではなく、他者や非同一性を同一化しようとする暴力を自己がいやおうなしにはらんでしまうということの避けがたさを認める。にもかかわらず、いやだからこそ、この暴力をぎりぎりにまで落とし込むために、法の脱構築(デリダ)、概念の自己反省(アドルノ)というそれ自体完全には不可能な実践を敢行しようとするのである。レヴィナスの立場を「他者論」の極端な形態とするならば、デリダやアドルノの立場はむしろ「多元論」に近いかもしれない。しかし、他者の同一化に対するぎりぎりまでの抵抗という点では、彼らも「他者論的転回」を経た思想家とすることができるだろう。
二 現代思想と心理学・心理療法
他者論的転回を経た現代の哲学者からすれば、心理学はその基本的前提において批判されるはずである。「心理学」という名辞は、文字通りに解すれば、精神と身体の二分法を前提として、より支配的な位置に立つ精神についての、ロゴスによる概念的把握を目指すものであろう。しかも、この場合の精神とは、形而上学的実体としての魂の、さらにその形相にあたるような諸機能のことを指す。心理学はその定義において、一つのロゴス中心主義を体現する。また、そこでは主観において構成されたかぎりでの他者しか問題になりえず(問題とするならば倫理学となる)、その点で心理学とはその対象の限定においてすでに一種の独我論である。さらに、心理学の実践的部門である臨床心理学・心理療法は、自己開示と自己認識の技術、すなわち自己のテクノロジーを引き継いでおり、対人関係が問題になるとしても、それは他者への配慮そのものに向かうのではなく、自己同一性の再構成をもって結びとする。つまり、心身二元論、独我論的認識論、他者への配慮の欠落という点で、「心理学」は、現代思想家たちから論難される資格を有するのである。
もしかしたら、現代思想の宗教批判が心理学にも妥当するという言い方は不正確かも知れない。むしろ、現代思想が批判していたのは、形而上学以後の宗教における心理的側面の強調、すなわち宗教心理の主題化だった、と言うべきかもしれない。すなわち、心理的内省を通じて超越的次元と接続しようとする努力が、他者への配慮の欠落に帰結しているという点への批判である。この批判点が、超越的な次元への関心を失った世俗的心理学にもあるていど妥当するというのは当然のことかもしれない。
だが、それはどのていど当てはまるのか。心理学・心理療法の思想家の多くは、自覚的であれ無自覚的であれ、自らを宗教と区別するよう努めてきた。そして、そのアイデンティティ形成期には、宗教を心理学的に対象化するような学問的成果を「宗教心理学」の成果として多数提示してきた。果たして、「宗教心理の主題化」に対する現代思想側からの批判は、このような「宗教の心理学的対象化」たる宗教心理学にとっても当てはまるのか。
宗教心理学における自己実現論と他者
まず宗教と心理学の立場上の差異を確認しておこう。心理学が宗教を対象化するとき、宗教は神的事象ではなく、あくまでも人間的現象としてとらえかえされる。したがって、神による救済、あるいは苦難からの解放/解脱は、人間の心理的成熟のプロセスとしてとらえられる。そして論者によっては、このプロセスは自己実現プロセスとして定式化される。ここで念頭に置いているのは、W・ジェイムズ、C・G・ユング、A・H・マズローなどである。彼らは、一面的自我を越えたqより以上のものr(世界・他者・無意識)に触れることで、潜在的可能性としての自己を実現してゆくというプロセスを、人間の心理的成熟のプロセスとしてとらえ、それがもっとも劇的に現れるのが宗教体験であると考えている。このプロセスは、とりわけマズローによって「自己実現」のプロセスと呼ばれた(Maslow
1964, Maslow 1968)。表層の自我を越えた内奥のq自己rに究極的にかかわってゆく様を記述するのみならず、それを規範的に是とする態度は、この自己実現論がq自己rの宗教であることを物語る。
ここでの宗教と心理学の関係は微妙なものである。神を主語とする救済が人間を主語とする自己実現に取って代わられたことは、たしかに大きな断絶である。また、彼らは宗教的現象を超自然的現象として教義化する宗教を批判し、自然に生起する宗教体験にこそ宗教の本質があると見る。しかしながら、このような議論は、他者論的転回を経た思想家たちの批判する近代的自律の図式にそったものであろう。神と手を切ったといっても、より高次なるq自己rの実現に関心が移っただけならば、他者への配慮は自己実現の肥やしとなっているだけかもしれない。
それでは、自己実現にとって他者はどのような意味を持つのであろうか。ここでわれわれは右の三人の心理学者からさまざまな回答を引きだすことができる。
まず、マズローにとって、自己実現とは自己に耽溺することなどではなく、その正反対に、他者の他者性の現実性を認知することと連動して起こるものであった。われわれの通常の自我構成は、欠乏動機に基づいている。つねに、自らに欠けているものを外界から補おうとしている。そのため、他者をあるがままに認知することができず、自分の利害関心によって歪曲された一面的な他者像を構成している。その場合、他者とは自我の自己保存欲求の糧でしかない。だが、自己保存に終始するあり方は、人間の本来的あり方ではない。人間心理が動物心理や機械論的モデルを参照することだけで理解できないゆえんは、つねにそれまでの自我のあり方から抜け出そうとする傾向、すなわち成長動機にある。欠乏動機なき成長動機は、他者を自己保存の糧とするのではなく、自我に同一化されることなき他者の他者性に触発され、自我の限界を知り、と同時に自己保存の循環から解放され、それまでの自我とは他なるq自己rになろうとする(Maslow
1970)。このようなq自己rはその定義上、決して同定されず、固定的な実体を持たない。彼のピーク・エクスペリエンス論(宗教の中核をなす体験とされる)では、他者の他者性の認知とともに、自他の神秘的合一とも言える状況が記述されているが、その場合も他者性が同一化されることはなく、自己も他者もそれぞれユニークであるという点において相似しているということが感得されるのである。そこから、自己保存に終始する諸個人が並び立つ社会ではなく、それぞれのユニークさを相互承認し、他者の自己実現が自らの自己実現と連動してゆくような響働態(ルビ:シナジー)のヴィジョンが描かれる(Maslow
1968)。それは、ジェイムズの多元論的な考え方を受け継ぐものであろう。
ジェイムズは、宗教的回心と救済において起こっている事態を、低次の自己が崩壊したとき、qより以上のものrとのかかわりにおいて、それと連続する高次の自己が活性化されることとして記述する(James
1901-2)。これはマズローの自己実現プロセスの記述と極めて似たものである。さらにそれは、単に自分の力で物事をコントロールしようとすることではなく、より高い宇宙の働きに参入するかたちで能動的に行為することを意味する。これは、神・世界との協働という発想である。神も人間も、それぞれ別々のものが現に独立して存在し、融合はしないが、ともに活動し、線的な連続性をなし、「多元的宇宙」を形作る(James
1909)。このような思想は、伝統的一神教とも汎神論とも異なる、ジェイムズ一流の多元論・多元主義である。それは、人間同士の関係にも適用される。すなわち、各人それぞれの独自性や違いを尊重しながら、それぞれの生活の経験に根差したやり方で、ともに理想を実現してゆくというあり方である。
マズローにせよジェイムズにせよ、彼らの自己実現論は独我論ではない。あくまで自我の限界においてq自己rが実現されるプロセスが描かれるのである。もちろん、他者性の認知と自我の限界の痛切な自覚と自己放棄が、自己の真正さの証としてとらえられるなら、やがて自己実現そのものが規範化され、他者への配慮は自己実現への関心に回収されてしまうであろう。実際、マズローの自己実現論に影響を受けた種々の自助マニュアルは、マズローが「記述」した自己実現している人間の特徴をあげ、それを具体的な「規範」として自分自身のあり方を反省させ、自己実現へと導こうとするのである。
では、ユングの自己実現論と他者の関係はどうであろうか。心的現象や心的現実としての経験が素材として重視されるユング心理学においては、他者そのものが扱われることはない。その点、彼の理論は徹底的に独我論的構制をとっている。しかし、そこでの「自我」とq自己rは通常の用語法を大きく逸脱する。ユングにとって主体が同一化するところの自我は、実はコンプレックスの一つでしかない。それは、最初から他者を同一化するほど大きくはないのである。自我は心の中心になろうとするが、そうすることでかえって自我の外部の暗やみにおびやかされてしまう。心の世界は、自我によって支配されることがなく、自我と対立するような無意識的内容によって満たされている。そして、これらの無意識的内容は、どれ一つ純粋に個人の生活史に由来するものはなく、人間精神の共通の構造として仮説的に設定される元型に由来する。q自己rとは、これらの意識と無意識を含んだ心の全体性とされるが、そのような自己は個人のものではなく、集合的次元に根差している(以上の紹介は、たとえばcf.
Jung 1928)。したがって、ユング理論は独我論を突き進めることで、独我論の不可能性に到達し、自己そのものが他者によって構造化されていることを突き止めたと言うことができるだろう。
では、その自己実現論において、q他rなるものはどのように位置づけられているのだろうか。ユングの言う自己実現(個性化)とは、自我がそれとは他なる無意識的内容に直面し、脱中心化され、意識と無意識の出会いによって心の全体性(自己)が活性化されるというプロセスである。それは、しばしば中心化しようとする自我によってブロックされることがある。自我が一面的になればなるほど、自我はそれとは他なるイメージの湧出にほんろうされてゆく。そこで自我によるこのようなブロックを解いてゆき自己実現プロセスを促すのが、心理療法の目的である。ユングが、自己実現をこのように考えていたのであれば、それは必ずしも他者の我有化を目指す思想とは言えない。むしろ他者性の迎接に重点があると考えられる。
だが、ユングの考える自己実現=個性化が、自己の統合を絶えず「規範」として目指すものであり、その途上で現れる多様な無意識的イメージは究極のq自己rの実現のための肥やしでしかないとすれば、他なるものとの出会いは二義的なものに過ぎなくなる。自己の統合は、努力して目指すべきものなのか。必然的なものなのか。いずれの場合でも、それはヒルマンの批判する「自己の一神教」に近づくだろう。ヒルマンは、ユング理論におけるq自己rを頂上に置くヒエラルヒー的構成を、キリスト教的一神教のバイアスのかかったものとして批判し、ユング心理学を多神教的な方向に修正しようとする。ヒルマンの批判意識は、すでに見てきた現代思想家たちのロゴス中心主義批判と軌を一にするものである。ヒルマンは、自己実現を規範として自己の統合を目指すことに反対し、むしろ魂の非同一性、多元性を無理に総合せずにそれとして認めることによって、心身二元論に回収されない「魂」という場を作ってゆくことを目指す。このような意味での「魂」は一つの個人・個体の心理をはるかに越え、人類の神話に登場する神々と結びついている。ヒルマンの魂の心理学は、近代以後の心理学の個人主義的なイデオロギーからの離脱を志向しており、現代思想家たちの心理学批判を免れるものとなっている(Hillman
1975)。
しかし、ユングにしろヒルマンにしろ、自我の限界を指摘し、自己の同一性を解体し、個人心理を越えた心の場に現出する“自我とは他なるもの”と直面することを是とするわけだが、これが主観的に構成されることのない絶対的外部性を有するような他者との倫理的関係になっているかどうかは、大いに疑問がある。むしろ、それはグローバルな独我論ではないか。小さな自我を越えた大我(自己・魂)を想定するものの、そこに現れる「他者」とは、人類の神話的遺産から借用された想像的形象に過ぎないのではないか。心の内部の自律したイメージの制御不可能性を、心の外部の他者の制御不可能性と取り違えているのではないか。言語によって媒介されていながら、最終的には理解不可能であるし制御不可能でもあるような他者の心の現実性こそが、心と心の多元性を可能にし、そのような多元性と内部性という人間の条件が、言語的活動と伝承を媒介としながら、心の内部にも多元性を打ち立てるのではなかろうか。
だが、ユングやヒルマンらが独我論の果てにたどり着いた「自己の他者性」「内なる他者」が突きつける哲学的難問を軽視してはなるまい。それは現代の深層心理学ないし力動的心理学が共有している知見であり、この立場からすれば自己と他者の素朴な二分法こそ超克されねばならないとされるであろう。もちろん、哲学的他者論で言われる自己と他者は、人格的同一性の差異に還元されるようなものではない。そこで問題とされるのは物のカテゴリーや人格的同一性を超えたメタカテゴリーとしてのq同rとq他rであり、レヴィナスによれば主体性とはq同rのなかのq他r(自己に回帰して同一性を構成することがないような自己性)としてとらえ返されるのであり(L思inas
1977)、またリクールにおいて、同一性と区別される自己性とは「他者のような自己自身」とされるのである(Ricマur 1990)。「傷ついたコギト」を認知したあとでの自己論という点に注目すれば、現代思想は「自己の他者性」や「内なる他者」を発見したフロイト以後の哲学と言ってもよいのである(Ricマur
1965)。
心の存在論から心の倫理学へ
これまでの成果を確認しておこう。マズロー、ジェイムズ、ユングらの宗教心理学は、宗教的救済を心理学的自己実現に置き換えて記述するものであった。そこでは、狭い自我がそれとは他なるものに直面することで、他なるものに生まれ変わるプロセスが記述される。重要なのは、それが他者の他者性の直視を契機とするということである。しかしながら、自己実現が規範化されると、他者への配慮は自己実現の手段に過ぎなくなってしまうという危険もある。また場合によっては、心のなかの他者しか見えなくなってしまうという陥穽もあった。
宗教心理学が、他者論的転回を経た現代思想の厳しい審問に耐えうるようなものになるとしたら、それは次のような条件をクリアしなければならない。すなわち、(一)自我の脱中心化と自我とは他なるものの迎接という視点をこれまで通り維持すること、(二)自己実現を規範とすることによって他者をそのための手段として遇する傾向に抵抗すること、(三)主観的構成に回収されない外部性を有する他者との倫理的関係を保つこと、(四)かつ形而上学以後の宗教における「ロゴス中心主義=自己の一神教」への批判的視点を有しているもの、ということになるだろう。レヴィナス(1961)の「存在論より倫理学を優先させる」というスローガンを借りるなら、「心の存在論から心の倫理学へ」という転換、心一般のあり方の解明から、ユニークな心と心の倫理的関係を媒介する実践へという転換が図られねばならない。そのような方向性を持つものこそが、他者論的転回以後の宗教心理理論にふさわしいことになるであろう。
このような方向性は、フロイト以後の精神分析的な宗教心理学の流れにも見いだされるように思われる。フロイトの宗教批判は有名であるが、その眼目は、神についての認知的命題への信仰が衰退するなかで、道徳の根拠を神の罰の恐怖のみに置くことは危険であるという点にある(Freud
1927)。それに代わって、人間共同体の存続という合理的根拠にもとづく破壊性の断念、他者のためにありたいというエロスの発動に、宗教以後の倫理の命運が託されたのであった(Freud
1930)。ここでは「神の法」の権力的効果を暴き、他者、他なる人間のために生きることが要請されている。
フロイト思想のこのような側面は、権威主義的宗教を批判し、人間主義的宗教の可能性を展開したフロムにも見いだされる(Fromm
1950)。また、自律と共同性が同時に実現されるような相互性のなかで人間が生き生きとする状態を各発達段階に見いだし、それを人間の本来的な力強さ、「徳」として記述し、そのうえに壮大な心理学的倫理学、「心の倫理学」を提示したエリクソンもまた、硬直した道徳性を批判し、宗教における権威主義との葛藤を問題化している(理論的図式としてはたとえばcf.
Erikson 1982)。彼らは、ユングやマズローのように大文字のq自己rを立てることなく、したがって自己実現のために他者を手段として遇するという陥穽にもはまらず、他者よりも法への従順さを尊ぶような宗教性に異議を申し立て、他者との対立(ルビ:コンフリクト)のなかで生じる心の葛藤(ルビ:コンフリクト)への批判的洞察をふまえて、他者との倫理的関係を築こうとする「心の倫理学」を打ち立てたということができるであろう。
ただ、彼らが心理療法家として、洞察を経て達成される成熟を、規範としていたことは疑いえない。フロイトの場合、それがユングやマズローのように自己実現として定式化されることがなかったとしても、自己欺瞞の度合いを軽減することが目標とされていたかぎりで、「真正の自己」への漸近が目指されていたと考えることはできる。また、ライフサイクル論において、心理社会的発達の筋道を子細にわたって記述したエリクソンは、マズローと同様、人間の普遍的な発達の筋道を同定することでそれを規範化してしまうという危険性を引き受けざるをえなかった。たとえ、議論の力点が他者との倫理的関係の充実の様態を記述することにあったとしても、それはいったん定式化されてしまえば規範として機能するのであり、それによって他者との関係の充実よりも自己の発達に関心が向けられるようになる可能性はある(筆者は、エリクソンの言う発達が、徹頭徹尾、相互的なものであることを決して無視しようとは思わないが)。
精神分析の流れのなかで「心の存在論から心の倫理学へ」という方向性をさらに進めたものとしては、対象関係論やコフートの自己心理学があげられ、その宗教心理学における成果としては、J・W・ジョーンズによるものがあげられる。彼らは、フロイトの心的装置の理論や機械論的な心的エネルギー(本能的欲動)の概念など、精神内的作用に定位したメタ心理学から離れ、対象関係あるいは自己対象との関係に考察の重心を移している(Jones
1993)。
とりわけフロイトとの違いが明瞭になるのは、転移の扱いに関してである。転移とは、精神分析的治療の場面において、被分析者が、過去の重要な対象関係におけるのと同様の振る舞いをすることを言う。フロイトは、転移を、過去の対象関係のあり方を患者自身に自覚させるための手段として重視したが、それはあくまでも症状の一環であり、その正体が暴かれてしまえば、転移も症状も、もはや生じる必要がなくなると考えた。哲学的用語法に置き換えれば、転移とは、主観的に構成された他者表象を目の前の他者に押し付けるという錯誤のことである。フロイトが転移を解消しようとするのは、他者に誠実であるような真正の自己に近づくためである。この論法は宗教論においても見いだされる。フロイトはいわば神への転移から離脱し、目の前にいる人間の同胞に誠実であるような真正の自己に近づくよう説いているのである。
フロイト以後の流れでは、転移を純粋に分析場面で起こるものとする用語法の枠は外され、分析場面以外の対象関係一般とのかかわりにおいて転移を理解することが可能になった。それによって、転移は解消されるべき過去の感情の反復というよりは、対象関係のたえざる再創造の一環とされる。転移から脱却するよりも、転移の操作を通じて自己とその対象との相互関係をより豊かなものにするべきだ、と考えられるようになった。宗教論においても同様の変化が見られる。ジョーンズは、聖なるものの体験、すなわち神的対象との関わりをも、対象関係のたえざる創造・変容のプロセスとして見てゆく。そして具体的事例に即して、治療における転移の変容と、神との関係の変容と、自己のあり方の変容とが、それぞれ並行して起こってゆくさまを記述する(Jones
1993)。
ここでは、転移という仮象の打破や、「純粋な関わり」を結ぶことのできる真正の自己が目指されることはない。ある転移という仮象が別の転移という仮象に置き換えられてゆくだけである。もともとフロイトにもありユングやヒルマンにおいて強められてゆく「仮象の多産性」への注目が、「真正の自己」へのこだわりから解放されたわけである。
それと連動して、自律した個人同士の偽りなき関係よりも、適切に依存しあい、共感しあいながら、相互に支えあうような関係が好ましいと考えられる。フロイト以来の自我の脱中心化というテーマそのものは、関係性のなかの自己という図式のなかに引き継がれつつも、自己と他者の二分法的問題設定は解かれ、関係の質自体が問題化されるようになった。転移を治療の手段とする臨床的実践は、関係性のプラグマティックな使用として特徴づけることができるだろう。
以上、他者に誠実であるような真正の自己を目指すフロイトと、関係の仮象性を逆手にとって多産性へと転じてゆく対象関係論・自己心理学の流れとを対比したが、これと同様の相違は、他者論的転回を遂げた現代思想家たちのなかにも見いだすことができる。前者は、他者に適切に応答する唯一独自の「私」(「自我」ではなく)を擁護するレヴィナスの他者論に近く(L思inas
1977)、後者は、自己と他者の二分法に反対し、他者が私に関わる他者であるためには他我でなければならないことを指摘したデリダに近く(Derrida
1967b)、これは純粋な他者論というよりも多元論と呼んだほうがよいだろう。相互に対称的な自我同士の横並びの共同性を描くような思考を、レヴィナスは、他者性の全体性への回収として批判し、それに対して、自己と他者の非対称性に基づく倫理的関係のあり方を描こうとする。しかし、ここで言う多元論の関係性のあり方とは、全体論のそれとは異なり、相互的非対称性を特徴とするものである。われわれは、自己であるためには他者を暴力的に同一化せざるをえない。しかし、他者が他者であるかぎり、他者は決して完全には同一化されえない。このような他者の現実性が乗り越えられないものである以上、われわれはそれに正しく応答する以外にない。つまり、暴力的関係から倫理的関係に立つことを不可避的に要請されているのである。しかし、このような他者は、自我を持つことなき絶対に私と無縁な他者ではなく、私と似たような自我をもつ他我としてしか、私には経験されえない。
リクールは、コフートの両極的自己の枠組みの哲学的含意を探る論考において、臨床における転移と哲学における思考実験はともに自己と他者の関係性を際立ったかたちで照明するという前提に立ち、受容し承認してくれる対象を求める「鏡映転移」をヘーゲルの主人と奴隷の弁証法と対比し、理想的他者と関わろうとする「理想化転移」をレヴィナスの他者論と対比し、他の人間を自分自身のように経験しようとする「双子転移」をフッサールの他我論と対比している(Ricマur
1986, cf. Kohut 1977)。対比の末に厳密な体系を描こうとするものではないと断ってはいるものの、リクールがそこで示そうとしているのは、哲学史上は鋭く対立すると思われる他者の諸理論が、いずれも関係性の心理の契機の一つを際立たせたものに過ぎないということであろう。それによって、筆者が右のようにまとめた、相互的に非対称な多元的関係性のヴィジョンを、リクールは示唆しているように思われる。
三 q自己rの霊性とq他者rの霊性
最後に、現代思想による宗教心理学の審問という本章での作業が、どのような意義を有しているのかについて述べておこう。L・フェリーによれば、現代社会における世俗化のますますの進展、「義務の終焉」とも呼ばれるような事態は、実は外的義務の終焉に過ぎない。レヴィナスなどの哲学的「他者」教に見られるように、人間の内在性のなかから超越性を見いだそうとする動向、他者の尊重、他者への愛や配慮を理想とする自律的な自己放棄という「脱宗教的霊性」が、むしろ育ちつつあるとフェリーは考える。まず、神の人間化が起こり、権威主義的な法の神より、人間的な愛の神の再発見が、宗教の重要な課題となる。それと呼応して、人間の神化が起こり、聖なるものとしての人間への配慮や共感が、自らの内的必要として目指される。人類全体との連帯を志向するがゆえに、他者のために、内側からなされる自律的な自己犠牲、この「他者」教とも言える動向を明確化し、それを支持してゆくことが、自己本位の傾向に対する必要不可欠な歯止めともなる(Ferry
1996)。
神の人間化、人間の神化、神性をもった人間同士の愛へと進むこのような傾向を、フェリーはヒューマニズムとして一括するが、すでに見たように現代思想家たちの多くは神と人間のアナロジーと、「神人」たちの連帯による他者の排除に異議を唱えている。したがって、フェリーが描いている動向は、正確には「他なる人間のヒューマニズム」(L思inas
1972)と呼ぶべきであろう(レヴィナス支持を一貫するのであれば)。また一元的連帯ではなく他者性を尊重した連帯、多元主義的連帯でなければならないことをも強調しておきたい。
そのことを確認したうえで、フェリーの議論で重要と思われるのは、外的義務の拒絶から「真正の自己」を求め、自己超越への関心に終始する動きとして、セラピーの興隆や東洋宗教への関心をあげていることである。そして、それに代わるものとして、他者論によって告知されつつある新たなヒューマニズムを取りあげ、それを脱宗教的な霊性として評価しているということである。図式的に理解するなら、世俗化の進んだ先進国の社会では、q自己rの超越という関心と、q他者rへの倫理という関心が、いずれも宗教に代わる霊性として拮抗するということである。
宗教研究が、宗教以後の霊性をもその視野に収めるとするなら、他者論的転回以後の動向をも注意深く追う必要があるだろう。そして、宗教心理学が思想的には自己実現論を展開してきたという経緯をふまえるなら、現代哲学における他者論的転回のインパクトを受け止め、転回以後の宗教心理の理論の可能性を問うべきでもあるだろう。本論考はこのような研究の端緒を開くものであり、具体的には「独我論的自己実現論から多元主義的自己実現論へ」「心の存在論から心の倫理学へ」「真正の自己から仮象の多産性へ」という展望を描くことができたと思う。
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読書案内
ポール・リクール(久米博訳)『フロイトを読む――解釈学試論』(新曜社)
本文では、現代思想の特徴を「他者論的転回」としてまとめたが、ほかにも「言語論的転回」、「新ニーチェ主義」という観点からまとめることができるだろう。本書は、この二つの意味での現代思想と、宗教と心理学との絡みを論じている。具体的にはフロイトを、マルクスやニーチェとならぶ「懐疑の解釈学」としてとらえ、それを通過したうえで宗教的テクストへの第二の信、「意味の再興の解釈学」に達しようとする。
エマニュエル・レヴィナス(合田正人訳)『神・死・時間』(法政大学出版局)
本文で論じた「他者論的転回」の哲学のもっとも代表的なレヴィナスの宗教論。講義形式なので、他の著書よりも比較的読みやすい。ただし、密度は非常に濃い。二つの講義が収められているが、本文と関係が深いのは、「神と存在-神-学」のほうである。ヘーゲルとハイデガーを踏まえながら、神を「存在」としてとらえずに思考することを試みる。「神」という語が何事かを意味するならば、それは存在するのとは別の仕方で働きかける他者としてである、ということが説かれる。
ジェイムズ・W・ジョーンズ(渡辺学訳)『聖なるものの精神分析』(玉川大学出版部)
本文でも取りあげたが、対象関係論と自己心理学というポスト・フロイディアンの理論的潮流にのっとった宗教心理学の研究書として重要文献。フロイトの宗教論のおさらい、ポストフロイディアンの理論の要約、著者自身の興味深い症例などが特徴である。
アンソニー・ギデンズ(松尾精文・松川昭子訳)『親密性の変容――近代社会におけるセクシュアリティ、愛情、エロティシズム』(而立書房)
著者は有名な社会学者。現代思想とも宗教心理とも直接は関係しないが、本文で取りあげた他者論的転回の考え方が、実は、近代における対人関係の変容と連動しているということが分かる。哲学や思想に首を突っ込んでいると、その背景にある社会的状況が見えにくくなるが、哲学の健全な自己反省のためにも社会学的素養は必要である。