学芸2000前期 社会生活と道徳
第1回(20000419)
講義の進め方 免許科目なので大人数となるが、疑似ゼミ形式で進める。毎回、トピックに関する情報提供と論点整理を行い(プリント配布)、授業の最後にそれに関するコメントを書いてもらう(出席カードの裏に)。次回の授業の前半に、それに対する教官側のコメントをおこなう。 授業中はよく集中し、気がついたことがあったらプリントの余白にメモを書き留めておき、それを材料にしてコメントを作るとよい。コメントには、感想、疑問、意見を書くことになるが、必ず自分の考えを盛り込むこと。プリントの丸写しや要約、質問だけのものは不可(欠席扱い)。ただし、次の授業のはじめに書き直しを指示するので、その時間中に提出すれば可とする。また、単なる思いつきや漠然とした感想を書かず、根拠を明示した論理的なコメントを書くこと。 4回以上欠席のものは未受験とする。欠席3回までであれば、可とする。それ以上の点数が欲しい者は、学期末に、授業内容について枚数自由のレポートを任意で提出(「レポートの書き方」を参照せよ)。 最初の3回の授業に一回も出席しなかったものは自動的に未受験扱い。 20分以上の遅刻者には出席カードを配らない。 特別な理由があって欠席した者(たとえば教育実習6/21、観察実習6/21、教育実地研究オリエンテーション7/5、就職活動)は、次回の講義までに、ホームページ上で講義内容を確認し、コメントを送信すること(http://homepage1.nifty.com/norick/)。その場合、各種資料については各自で入手するように。
授業計画(あくまで計画……) 0 道徳教育の可能性/不可能性 1 道徳教育の現状 学習指導要領の内容 道徳教育の全体計画・指導計画 「道徳の授業」の分析 2 道徳教育を巡る困難 学級崩壊と道徳教育 家庭教育としつけ 「心の教育」論と内申書 いじめと道徳教育 郊外型社会と道徳教育 3 改革のデザイン カウンセリングは学校を救うか 社会民主主義の教育改革 新リベラリズムの教育改革 4 道徳教育批判という視点
0 道徳教育の可能性/不可能性
資料(別途コピー配布) 『朝日新聞』20000329の18面「こころ」藤田昌士さんと読者が考える道徳の授業
まず教員・元教員の投書(紙面右側)から。「成功していない」という感想。 ・家庭の教育力が著しく低下しており、週一時間の道徳の授業は焼け石に水 ・教材の意図する価値観が、生徒にほとんど伝わらない。あまりにも急激な子供の変容。 ・豊かな社会、快楽主義、親の不在 ・学校・社会・家庭の連携が必要 〜以上が、教員の大多数の率直な感想か。まとめると、学校が家庭や地域とうまくつながっていなければ、道徳教育は無意味ということ。 ・教育現場での対立、官僚道徳への反発、授業そのものが否定されることも 〜とりわけ「愛国心」をめぐる政治的対立? ・民主主義教育の不徹底[現実の学校教育は民主主義的でないということ]に由来する倫理観・価値観の混乱 ・「他人に迷惑をかけなければ何をやってもよい」という若者の言葉に道徳の授業の弊害が現れている。 〜学習指導要領やその編纂に携わっている人たちの書いた「道徳教育」関連本を見ていると、道徳性とは、自律と社会性が同時に発達していることととらえられているように思われる。この投書をした教員は、「迷惑をかけずにはいられない」人間同士の相互依存、共同性を強調しているようだ。 ・道徳の授業を充実させるための準備に十分な時間が割けなかった。部活の指導や会議が忙しい。 〜現場の教師は、複雑な組織編成のために会議に追われ、授業研究に時間を割けないのが一般的。
・「他者への親切」ばかりを説く道徳教育は抽象的なままに終わってしまう。「自分の持つ権利、掛け替えのなさ」を意識することを通じて、はじめて他者の権利の尊重が実感としてわかる。 ・障害者と健常者を分けて教育しておいて、健常者に「障害者への親切」を説く道徳教育は奇妙。ユネスコは1994年に、地域の子供を分けずに育てる教育を主流とすべきことを提唱している。 ・国語の授業をゼミ形式にして、文学作品についての深い議論を行うことで、具体的な道徳教育ができるのでは(現行の道徳の授業は抽象的)。 ・単なる思いつきを元気よく発言する「道徳の時間」への違和感。自己省察の重要性。「沈思の時間」はどうか。 〜cf. 佐藤学の「聴くこと」の重要性の強調 〜全体的に抽象性が批判されている。道徳の授業は、「押し付けてはいけない」と「道徳的価値観をすり込まなければ」という立場の妥協から、「間接的にほのめかす」という手法がとられることが多い。だが、だからこそいいのだという意見もある。次を見よ。
プラス面 ・生徒の多様な考え方がわかる。 ・正解や評価のない授業は楽しい。 ・第三者的な立場で考えさせることで、生徒の逃げ場を作ることができる。 〜「道徳の授業」の推進者のねらい通りの感想。去年、この時間でとったアンケートのなかで結構多かったのが、教材の面白さを指摘するもの。読み物にしろテレビ教材にしろ、じっくり考えてみると結構面白いというもの。
資料 西村日出男「学校における道徳教育の全体構想」(小寺・藤永編『道徳教育を学ぶ』世界思想社)から
教師の道徳教育への消極的態度のパターン 1 中心概念があいまいである。 2 軍国主義的な「修身教育」の復活であり、押しつけがましい。 3 具体的にどのような授業をすればよいのかが分かりにくい。 4 生活指導や生徒指導とどう区別すればよいのか分かりにくい。 5 自分は道徳を教えられるような人間ではない。 6 『学習指導要領』に示されているような理念、たとえば節度・感謝・畏敬・正義などは、そもそも完全に習得することなど不可能だ。 7 道徳教育は、家庭や地域社会においてなされるべき。 8 道徳はそもそも教えられるようなものではない。
以上の消極的態度に対する西村の批判 1 他の領域においても中心概念はあいまいである。 2 修身教育を復活させないためにも、教師全員が納得のいく道徳教育に取り組む必要がある。 3 授業見学や研究授業によって万全を期すようにする。 4 引用「生活指導とは、児童・生徒が自分たちの問題を自分たちの力で解決できるよう、児童・生徒に働きかけていくことを通して、児童・生徒の問題解決能力を高めていくことであり、生徒指導は、教育課程のすべての領域、すべての場面において児童・生徒に働きかけることである。一方、道徳教育は、人と人との関係や崇高な自然環境の中での望ましい生き方を指導することであるといえる。」 5 完全な人間などいない。教師自身が反省し努力する姿勢が大切。 6 他の教科でもそうだ。 7 仲間と教師の存在、計画性といった学校の特性をいかした道徳教育が必要。 8 哲学的難問である。しかし、教育が知的なもの技術的なものに偏らないためにも、道徳教育が必要。
〜著者西村は、現場の教師の不安や不満をよくとらえている。にもかかわらず、それに対する答えは、歯切れが悪く、納得のゆくものになっていない。
論点 以上の資料をふまえて、学校における道徳教育(とりわけ「道徳の授業」)の可能性/不可能性について考えてみよう。
第2回目(20000426) 討論 かなり大多数の人の意見をまとめると 「1時間の「道徳の授業」では道徳教育にならない」 「しかし道徳教育は必要である」 「道徳は実体験や普段の生活のなかで身に付く」 「したがって家庭や地域との連携が必要だ」 「あるいはもっと具体的な素材を使う、体験学習をおこなうなど」 となります。これは後で見る通り、学習指導要領に示されている意見と全く同じです。 ところで、実は上のコメントは、3番目以外は、どれも先週プレゼンした資料に書いてあることそのままで、皆さんのオリジナルな意見ではありません。驚いたのは、これらのことを「私は〜と思います」という形で書いた人が多かったことです。これでは剽窃です。もう少し、自分独自の意見をひねり出すようにしましょう。「丸写しや要約は不可」というのが原則なのですが、今回は「赤信号みんなで渡れば……」という格好になってしまいました。この大学特有のまじめさ、素直さが裏目に出ているようです。もうちょっと勉強熱心な人のコメントでは次のようなものがありました。
「新しい学習指導要領では、総合的学習の時間が設けられていたり、地域の人を講師にした授業など、多様な人の協力を得やすくなったので、道徳の授業ももっとよくなるのではないか」 →具体的にどうよくなるのか、詰めて考えてみるとよいでしょう。というのもこれらの方針は、結局のところ、多くの部分が学校や教師の側の運用いかんにかかっているからです。学習指導要領など文部省作成の文書の読み方にはコツがあります。それは「この理念を掲げておけば、マスコミの批判をかわせる。後の具体的なことは現場の先生頑張ってください」という意図を見抜くことです。 また、「道徳の授業」の進行の仕方について、多くの人が次のような意見を指摘してくださいました。
「学習目標が生徒に認識されないまま、先生が用意している答えに誘導されてゆく。そんな雰囲気の中で、いじめっ子がいい意見を言ったりして、先生がそれを評価する。授業そのものがしらじらしかった」 →一つの解決策として次のようなものがあります。
「沈思の時間も必要という投書に賛成。発言中心の道徳の授業では、教師や他の生徒への同調圧力に押しつぶされてしまう。日ごろ思っていることを何でも好きなだけ書く、というやり方はどうか。」 →その場合、匿名にする、他の生徒を名指しで告げ口しないということを原則にするとよいかもしれません。このような方式を使って学級崩壊したクラスを建て直した事例があります。
「家庭の教育力が低下し、学校に期待される教育領域が肥大化しており、忙しいが教育熱心な親はお金をかけて教育をする。それならば、道徳教育も教育サービス産業に任せてはどうか」 →こういうコメントを待っていました。といっても、必ずしも賛成しているわけではないのですが。現在、しつけに関してはいろいろとビデオが出ています。見てみると、なかなかよく作られていて、子どもが楽しくしつけを学べるような工夫に富んだ教材となっています。ところが、こうしたビデオに過度に依存したビデオ育児が問題になっています。親は、つい忙しいときに長時間見せてしまいがちで、そのため他の人との生き生きとしたかかわりが持てなくなってしまうという弊害が出ているようです。また、しつけならともかく「道徳の塾」に通わせたがる親がどれだけいるかということも考えなければならないでしょう。 最後に、もっと原理的な問題提起をしてくれたコメントを紹介します。
「道徳的価値観をすり込むことは完全には不可能であるし、するべきではない。どういう道徳的価値観をもつかを生徒自身が選べるように、生徒に合わせてかみ砕いた形で提供するのが教師の役割である」 →一瞬ちょっと驚きました。道徳は選択可能な価値観なのでしょうか。好き嫌いの問題でしょうか。道徳は共通のルールであるという考えもあるのではないでしょうか。と、これは新聞の投書にもありました。
「人類共通のモラルの確認が大切という意見があったが、価値観の多様化が進む現代ではありえないのではないか。道徳教育が目指している「個性の尊重」ともずれてしまうのではないか」 →多分あの投書を書いた人の念頭にあったのは「民主主義の理念」ではないでしょうか。価値観が多様であるからこそ、葛藤や衝突を調整するための共通の土台が必要だというのではないでしょうか。他の人がそれを代弁してくれています。
「他人に迷惑をかけなければ何をやってもよい、という倫理観が批判されていたが、他人に迷惑をかけないという最低限の倫理はやはり徹底すべきだ。というか、それ以上のことを学校で教えるのは押しつけがましい。結局、批判されている若者は「何をやってもよい」という所で、実際には他人に迷惑をかけていたり、そこまで行かなくてもひんしゅくを買っているのではないか」 →以上の意見を総合すると、「道徳の時間」では、最低限必要なモラルが徹底されるべきで、それ以外の教科や総合的学習の時間などを含めた学校生活全体において、個性尊重の原則に立った道徳教育をおこなうべきである、と。やや自由主義的な立場で、学校関係者に多い共同体主義とは異なっていることに注意。 以上のような問題意識を持ちながら、さらに詳しく道徳教育の現状を見てゆきましょう。
1 道徳教育の現状 学習指導要領の内容 ここでは、文部省による小学校と中学校の学習指導要領の内容について要約、解説する。 第1 目標 学校の教育活動全体を通じて道徳性を養うことが目標。 各教科、特別活動、総合的な学習の時間と関係させながら、計画的で発展的な指導をおこなう。 第2 内容 小学校低学年・中学年・高学年、中学校のそれぞれについて、別に配付した資料の通り。 第3 指導計画の作成と各学年にわたる内容の取り扱い 1 校長と全教師の協力体制。全体計画と年間指導計画の作成 (1)児童・学校・地域の実態を考慮して、学校の道徳教育の重点目標を設定 「第2 内容」と特別活動・総合的な学習の時間との関連、家庭や地域社会との連携の方法を示す。 (2)計画的・発展的な授業。実態に応じて、重点化、項目間の関連づけ (3)小学校低学年=基本的な生活習慣、善悪の判断、社会生活上のルール 中学年=自主性、協力・助け合い 高学年=自立心、国家・社会の一員としての自覚 中学校=規律ある生活、将来の見通し、国際社会に生きる日本人としての自覚 (小学校高学年および中学校では、悩みや心の揺れや葛藤などの課題を取り上げ、 人間としての生き方について考えを深めさせる。) 2 「第2 内容」は、児童・生徒自らが道徳性をはぐくむためのもの。児童・生徒自らが成長を実感 でき、これからの課題や目標が見つけられるように工夫する。 3 (1)担任が主に指導。しかし、校長や教頭の参加、他の教師との協力など指導体制を充実。 (2)ボランティア活動や自然体験活動、魅力的な教材など、創意工夫ある指導をおこなうこと。 4 学校や学級内の人間関係や環境の整備 日常生活への応用を促す 家庭や地域社会との共通理解、相互連携 5 数値などによる評価はおこなわない
資料・「道徳の内容」の一覧表(文部省『学習指導要領――道徳編』付録) 道徳教育全体計画の例(小寺・藤永編『道徳教育を学ぶ』世界思想社) 読み物資料に基づく授業例、6例(文部省『道徳教育推進指導資料』から)
第3回
討論 前回は学習指導要領の紹介をしました。資料が面白くないだけに、コメントも面白くないかなと心配していましたが、かなり意欲的なコメントが寄せられました。
学習指導要領に関して 「学習指導要領を見ても、道徳の授業の具体的な方法が分からない」→もっと細かくということ 「学校の全体計画が没個性なのは、指導要領が細かすぎるからである。もっと内容を削って、個性のある計画を学校側が立てられるようにするべきである」→もっと削れということ 「学習指導要領に書かれていることや、道徳の授業の内容について、抽象的であることや画一的であることが批判されるが、これは批判されるべきことではない。共通の価値観を考えるための授業なら、ある程度問題になる事柄は決まってくるし、あまり具体的になっては押し付けになってしまう」→一つの論点 「このような学習指導要領はどのようにして決められるのだろうか。その内容を決める際にオープンな議論がおこなわれているのだろうか。国民はどの程度かかわれるのか。それが全国の学校で実行されるべきものとなっていることに問題はないか。道徳教育は、他の教科のように学習指導要領が支配的になるべきものではない。」 「何十人もの生徒、何百人もの生徒に、同じ道徳的価値を教え込むという考え方に恐ろしさを感じる」 →ここまでで学習指導要領をどのようにすべきかということに関して論戦が成立しているようです。そもそもここまで必要かという原理的問題、あるとしても緩くという主張、いやそれでは何をやってよいか分からないという主張、文部省関係者なら、これをなくしてしまうと現場で道徳教育が省かれてしまう恐れがあると返してくるでしょう。
「完全無欠な生徒、もっと言うと先生にとって手のかからない子を作り出そうとしているのではないか」 「これは模範的な生徒を育てるための方針である。しかし、いわゆる模範的な生徒は、一般的に受け身で自立性に欠けるところがあるのではないだろうか」 「こうやって枠に収めてゆくのが、自立や自分の意志や意見の確立につながるのか」 →自律的になれと指導されて自律的になれるのかという教育のパラドクス。以下は、さらに個別の内容に関して。
「小学校低学年では善悪の判断がつけられるように指導するべしということだが、これは大人でも難しいことがあるのではないか」→他の項目に関しても同様の意見。「これ今の私でもできていないよなあ」
「3の自然や崇高なものとのかかわりの部分があるために、道徳教育が抽象的になっているのではないか」 「自然に感動するなどということは、人それぞれが自然に身に付けるもの、あるいは身に付けなくてもよいことだ。結局、国家に愛着を持ち、コントロールしやすい国民作りが目指されているのだろう。」 「「道徳の内容」の第三の自然とのかかわりについてロマン主義うんぬんと言われていたが、やはり自然とのかかわりは重要である。自然に親しみを覚えることで、自分が地球の一員であることも理解でき、地球人としての連帯化が生まれる。しかし、それと矛盾するのは、第四の集団や社会とのかかわりである。郷土を大切に思うことは重要であるが、その終着点が日本人としての自覚では不完全である。国際的な日本人ではなく、「地球人としての自覚」でなければならない。」
運用に関して 「今日紹介してもらったような意味での道徳教育は、自分自身、道徳の授業などよりも部活動において学んだように思う」 「道徳観は教師の人間像から学ばれる。教師の道徳性の向上こそが重要ではないか。」 「担任が主に指導するというのは当たり前であるが、校長がどうやって道徳指導をおこなうのかがよく分からなかった。校長が道徳指導をおこなう具体的な場面とは何か。」 「道徳教育を成功させるためには、親の道徳教育が不可欠だ。したがって、親子スクーリングのようなものが必要。これは学校主催ではなく、地域の自治体主催でおこなうべき。」 →以上は道徳教育の主体に関して
「学習指導要領に書かれているような細かな学習目標は生徒には知られていない。そのために、先生がやんわりと主導する形になってしまう。そこで課題設定を生徒自身におこなわせるのはどうでしょうか。」 「計画を生徒と一緒に考えるようにしてはどうか」 「まず学習指導要領で、学習目標が示されていて、そこから学校の全体計画が導き出されて、各学年ごとに指導計画が立てられる。結局、生徒個人個人の学習目標にはなっていない。一般化された学習目標なら、どうしても建前的になってしまうし、抽象的になってしまうだろう。」 「指導要領に示されている内容が、他の教科ならそのまま教科書に素直に反映され、生徒にもよく理解される。しかし、道徳の授業ではそれがよく分からないまま進められるので受動的になってしまう。生徒に分かりやすく示し、自分がとくに好きな目標を見つけるようにしてはどうか」
→ここまでをまとめると、次のような提案が導き出されます。まず学校就学までは育児相談の延長で、自治体が主体になって、カウンセラーが定期的に家庭訪問し、親子の状況についての相談を受け付ける。就学後は、教師が家庭訪問をする際に、生活指導とも合わせて、道徳教育の学習目標を一緒に考えるようにする。その際に、他の教科の学習状況や学校生活全般の問題点をも考慮すること、必ず生徒自身の同意と自発的な取り組みを促すことに留意する。道徳の授業では、各人の学習目標と進行状況の発表、似た学習目標をもつものどうしでのグループ討論、そして個人別学習目標とは別に、学級の抱えるさまざまな問題点についての討論を通して、学級単位での道徳の目標を練り上げる。学年の指導計画や学校の全体計画なども、このようにボトムアップで設定してゆくようにする。これは、皆さんが教員になったときの、運用のヒントになればいいですね。
講義 読み物資料中心の道徳の授業の進行例について考えてゆく。資料は、文部省が編集したもの。読み物については私の方で音読する。それぞれの資料について「ねらい」がある。大体、前回見た学習指導要領の「小学校低学年=基本的な生活習慣、善悪の判断、社会生活上のルール」、「中学年=自主性、協力・助け合い」、「高学年=自立心、国家・社会の一員としての自覚」、「中学校=規律ある生活、将来の見通し、国際社会に生きる日本人としての自覚」にそったものを選んだ。学生諸君は、それぞれの事例について、まず資料を読んだ後に、1生徒の立場に立った第一印象、次に授業の進行の仕方について、2教師の側から見た資料への所感、3授業の良い点と悪い点について、プリントやノートに簡単にメモしておく。授業最後のコメントには、これらを材料として、特筆すべきと思う自分の意見を書いて欲しい。
資料 文部省編『道徳教育推進指導資料(資料の手引き)』のシリーズ 『小学校 社会のルールを大切にする心を育てる』から 「ポケットふたつ」「神戸のふっこうは、ぼくらの手で」「地球を救おう子ども会議」「母からのメモ」 『中学校 真理や学ぶことを愛する心を育てる』から 「在校生へのメッセージ」 『中学校 社会のルールを大切にする心を育てる』から 「友達を信じられないのか」「いじめについて考える」「一座建立」
第4回(20000517)
今回は、進行の都合から「討論」の部分は省略します。ところで、前回は「討論」中心で講義をしたのですが、「今日は新しいことを何もやらなかったので何をコメントしてよいか分からない」と書いた人が何人かいました。「討論」中心で授業を組むと必ずそういうことを書く人がいるのでいつも釘を刺すことにしているのですが、前回は忘れました。前回は「討論」という形で新しいことを1時間近く話しているはずなので(そうでなかったらいったい私は何をしゃべっていたのか……)、今後はそういうことを書かないでください。私は決して知識や情報を提供することの重要性を軽んじているわけではありませんが、それだけに終始する講義より一歩出ようと思って、疑似ゼミ形式の授業を展開しているわけですから。 ついでに苦言をもう一つ。いい加減「価値感」などという誤字はやめましょう。正しくは「価値観」です(えーっ、なんて言わないでくださいよ)。意味は、価値についての見方あるいは観念ということです。私の見てきたところ、大学生の大半が間違えるので、多くの人は理性的価値判断より感性的価値判断に親しんでいるのでしょう。
講義 読み物資料に基づく道徳の授業の実践例の分析が、本日のテーマですが、すでに前回の展開例の紹介についての皆さんのコメントの中に、「欺瞞的である」「枠にはまった授業になってしまう」などの批判が目に付きました。これまでは、道徳教育の大枠について、いろいろと昔のことを思い出しながら大ざっぱなコメントを頂いてきましたが、今日は、もうちょっと具体的に深めて、文部省の資料作成者たちが考える「成功した道徳の授業」の「ねらい」とその「潜在的カリキュラム」について分析してゆきたいと思います。「ねらい」とは、生徒に植え付けようとする感情、期待する反応のことで、「潜在的カリキュラム」とは、指導内容には含まれていないが指導実践が暗黙のうちに示唆してしまう方向性のことです。そこから、道徳の授業の意図せざる結果について導き出すことが、私の側の「ねらい」です。この私のプレゼンテーションは、やや批判的なものになるので、逆に以下の道徳の授業例のよいところについても皆さんの側で考えていただけたらと思います。
小学校低学年=基本的な生活習慣、善悪の判断、社会生活上のルール 「ポケットふたつ」 約束や決まりを守ろうとする心情を育てる、と「ねらい」にある。具体的には、「自分の大切なものをなくす」悲しみという「心情」が誰にでもある(トシ君にもある)ということから出発して、それを所有物に関する貸し借りのルールを守ろうとする「心情」に高めてゆくという道筋をたどる。「心情」がキーワード。「心情主義」は日本の道徳教育の重要な手法の一つ。「評価の工夫」でも、生徒に「怒り」「悲しみ」「共感」「決意」という心情を喚起することを目指している。道徳の授業では数値的評価はしないことになっているので、「評価」とは、具体的には生徒の発言を教師が口頭で「選択的に」評価することを意味する。このことは、順を追って適切な心情が生じるようにすれば、最後には「約束や決まりを守ろうとする心情を育てることになる」と資料作成者が考えていることを意味する。このような心情を植え付けておけば、他の生活場面においても、道徳的心情が喚起され、それが道徳的に適切な行為を導くと考えられる。 考えられる負の結果としては、生徒の発言を教師が選択的に評価することで、結果的に生徒の選別が行われること。「学級王国」モデルは、戦前から小学校の学級運営の理想的形態とされてきたが、「教師―級長・その他の役職―班長―平生徒」というヒエラルヒーを構成することで、教師が学級を統括することができた。級長には「まじめ」で、成績も良く勤勉で生活態度も正しい人が選ばれる。道徳の授業は、格好のリクルートの場になる。たとえ、選挙で級長が選ばれるとしても、生徒は暗黙のうちに教師が考える「理想的生徒」が誰なのかを知ることになる。その代償として裏のヒエラルヒーが構成されることもあるが。
小学校中学年=自主性、協力・助け合い 「神戸のふっこうは、ぼくらの手で」 大浜先生の率先垂範、大人たちも協力しだす、僕もできることは自分でするように(自主性)。年少の子の頑張り、僕にもできることはあるだろうか。幼児やお年寄りの世話へ。大浜先生の励まし。自発的相互扶助。資料を読む生徒にも「僕/私にできることはないか」と思わせる。ここでは「自分もしなくちゃ」という「心情」の伝染が狙われている。大浜先生から大人たちへ、年少の子から僕へ、また生徒たちへ、そして最終的には資料を読んでいる生徒たちへ。「自分もしなくちゃいけないのに何もしないでいる」という場面で「やましさ」の心情が喚起され、「自分にできることを自分ですすんでおこなう」という場面で、「喜び」や「充実感」や「連帯感」などが喚起される。それは自主性と協力という道徳性へと高められる。「低い自分」と「高い道徳性」が心情的に構造化されて、人から命令されなくても、身近な生活における「良き行為」へと結びつくことで、道徳的自律が達成される。他者の目が内面化される、つまり自分の目になって、道徳的自律が達成されるという図式は、フロイトの超自我理論以来の道徳性についての有力な理解。「展開例」は、道徳的行為の評価の「目」が至る所にあることを自覚するよう誘導している、とも言える。ところでフロイトは、「高い理想へのアンビヴァレンツ」も問題化していることを忘れてはならない。「低い自分」を責めるより正当化したくなると、「理想への敵意」が前面に出てくるだろう。(なお個人的には、この資料は読み物としては、なかなかいいと思っている。また、私はボランティア精神そのものを批判しているのでもない)
小学校高学年=自立心、国家・社会の一員としての自覚 「地球を救おう子ども会議」 ブレーンストーミングの手法を使って、民主的に自分たちで決まりを作り、自分たちで作った決まりなんだから主体的に責任を持ってやってゆこうという「態度」を育てる。資料では世界から「選ばれた子どもたち」の「積極的な態度」が強調され、「あなたたちも」と参加を促す。まるで本当にコンピュータでメッセージが送られてきたかのような感じで終わるのがみそ。読んだあと、教室でもブレーンストーミングをおこなって議論することで、自分たちも資料の子供たちのように「積極的な態度」で決まりを作ってゆくようなムードが醸し出される。この積極ムードの伝染が、この資料の手法。この手法には消極的な子どもを取り残してしまうという弱点が考えられるが、ブレーンストーミングはすべての人の意見をそのまますくい上げようとするものなので、すべての生徒を「積極ムード」に取り込むかたちになる。ただ、先生が お膳立てするので、実際にブレーンストーミングをしてもちょっと「ヴァーチュアル」かも。
中学校=規律ある生活、将来の見通し、国際社会に生きる日本人としての自覚 「在校生へのメッセージ」 先輩から在校生へのメッセージという形を借りて、将来の自分像について考えさせ、目先の快楽よりも生きがいや理想を追及することの尊さを育てる。「大変だなあ」「でも頑張ってるんだなあ」「僕も/私も」という心情を喚起させる。ここでも「低い自分」(逃げ出したくなる)と「高い理想」(でも頑張る)の図式が顔を出す。「在校生へのメッセージ」という形態、読後の役割演技によって、読み物資料の架空性を払拭して、身近な道徳性に結びつけ、作文を通して進路指導にまで結びつけることがねらわれる。理想(受験成功)のために、目先の欲求を断念して、勤勉で規律ある生活が送れるように指導。 「友達を信じられないのか」 「低い自分」と「高い理想」の心情主義的な道徳の授業に対する代案として、ジレンマ型の授業実践がある。答えの出ない問題を作って、考えることや判断することそのものを育てようとする。終結も教師がまとめない。ところが、この資料は一見そのようなジレンマ型の資料であるかのように見せかけて、友情よりも決まりを優先させるように方向づけるもの。 「いじめについて考える」 いじめられる側の心情を強調することが、いじめへの歯止めになることを期待する。 「一座建立」(別資料「道徳学習指導案」も参照せよ) 外国人も日本人もなく、寄り寄り社会を作るよう促すことが主眼だが、外国人にばかにされない日本人になろうという心情をあおって、公徳心へと高める、とも読める。コンプレックスがばねになる。
第5回(20000524) 討論の前に 前回は的外れなコメントが目立ちました。数が少なければ書き直しをお願いするのですが、あまりにも多いので、今回も「赤信号みんなで渡れば怖くない」状態です。 まず前回の授業の意図を確認させてください。前回は読み物資料に基づいた道徳の授業の組立例を見てきました。それを通して、文部省の資料作成者の考える「成功した道徳の授業」とはどのようなものかを見ました。そして、そこで生徒を指導するためにどのような手法がとられているのかを、批判的に分析し、日本の道徳教育の特質として「心情主義」「低い自分と高い理想の構造化」「他者の目が至るところにあることの自覚」などを浮き彫りにしました(それとミニマムなルールの内面化を目指す「律法主義」とを対比)。つまり、文部省の考える道徳教育の手法を自明のものとせず、客観的に言語化することで相対化する。さらに、そこから、学級王国の問題、「高い理想」への敵意と「低い自分」の正当化などを指摘しました。ですから、論点は明確です。日本の学校教育で前提とされている道徳教育の手法の諸問題を探り、それについて検討するというものです。私の側からは批判的視点を打ち出したので、逆にそれに対して肯定的な意見を出してもらってもよいだろうとは言いましたが、その場合も、私の出した批判を意識したものでなければならないはずです。したがって次のようなコメントは全く的外れです。
「読み物資料に基づく道徳の授業はとても効果的だと思った。学年別に発達に合わせた目標を設定しているので、生徒の道徳性を少しずつ高めようとしている。とくに心情に焦点を当てた指導は、他人の気持ちを考えることができるようになるためにも効果的ではないか」 →この種の、道徳の授業に対する批判的視点を全く意識していないコメントが結構目立ちました。最初、冗談かと思ったのですが、その後も多数出てくるので、がっくりときました。授業を聴いていないか、理解力が無いのか、それとも「逆によいところについても考えて」という箇所を誤解したのか(それにしても完全な文脈見落とし)。まだ説明していない中学生の授業例にコメントした人もいるので、多分適当にプリントを斜め読みして「先生が望んでいる発言」はこうだろうと想像しながら書いたのか。
「読み物資料に基づく道徳の授業は、生徒にとって実感の乏しいものではないか。もっと身近な素材を取り上げれば効果的になるだろう」「単なる読み物中心にならないブレーンストーミングの手法は面白い」「神戸の話は実際のボランティアにつなげられれば有効だろう」 →この種のコメント(素材に関するコメント)が一番多かったのですが、これも的外れです(「えーっ」なんて言わないでくださいよ)。なぜなら、前回の論点は、読み物資料の是非にはないからです。重要なのは先生向けのマニュアルに隠されている、道徳の授業の「手法」「技法」「テクニック」の方なのです。これは身近な素材を取り上げようと、体験的な学習をやろうと関係ないのです。「僕もやらなきゃ」という心情をかき立て、実際にもボランティアをやるよう「仕向ける」ことができれば、道徳教育として成功したということだが、そのテクニック自体を問題にしようというのが、私の問題提起です。
その次にくるのは、私の提示した批判点をそのまま自分の意見としてコメントしているものです。本来だめなのですが、他のコメントに比べるとまともに見えてくるのがなんともやるせないです。一番ひどいのは、もうやめましょうといった「道徳教育全般についての大ざっぱな意見」です(次回からは不可)。200人近くいる皆さんの反応の多くは、以上のパターンのどれかにはまります。したがってオリジナルな意見はほとんど得られませんでした。出題のハードルが高すぎたのでしょうか。
講義を含んだ討論(学級崩壊問題にちょっと言及) まず「心情主義/律法主義」の論点に関するもので、心情主義批判派、両者の組み合わせ派、心情主義擁護派が出てきました。中学生の授業例をもふまえてさらに深められれば、と思います(これに関するコメント歓迎。あえて私の方で「まとめ」をしないでおきます)。 「心情主義的な恥の道徳は、個性主義の流れと矛盾するのではないか」 「文部省は低学年から高学年にゆくにしたがって、高い道徳性を要求しているが、実は低学年に身に付いた道徳的価値観が高学年にゆくにしたがって崩れてゆくという現状がある。心情主義は低年齢児にとって理解が容易だが、律法主義のような合理的根拠を持った具体的規則ではないので、道徳性としてはやや不安定である。したがって高学年にゆくほど、道徳的価値観と現実との矛盾から(「恥」の文化特有の「表と裏」「本音と建前」)、反発が強まるのではないか。逆に中学生などは最低限のルールに的を絞ったほうがよいのではないか」 「現在の日本では心情主義の道徳は衰退し、型だけの律法主義が支配的である。心情主義的な道徳の授業を、中学でも、そして高校でもやって欲しい」
ここで、前回配付プリントの中学における実践例へ
「生活習慣がきちんとしている生徒が多ければよい道徳の時間になると思うが、そのような生徒なら道徳の授業はしなくてもいい。そうでない生徒にこそ道徳の授業が必要になるのだが、そういう生徒に分かるような内容になっているだろうか」 →これは低学年の学級崩壊の問題につながってゆきます。コメントの中にも、「なくしてしまったんだから買って返す以外ないといわれたら、どうするのか」というのがありました。基本的生活習慣、善悪の判断などが最初から身に付いていない場合、また自分を正当化するためにそのような道徳性の根拠を尋ねる場合、いずれにしても心情主義的な誘導がききません。 <低学年の学級崩壊の特徴> ・自己中心的行動(いっけん悪気のない無邪気な行動だが、クラス中に伝染してゆく) ・衝動的パニック(ちょっとしたトラブルでどうしてよいか分からなくなり、騒ぎだしたり駄々をこねる) ・小暴力(休み時間、授業冒頭でも発生し、先生は仲裁に奔走される) ・基本的生活習慣の欠如(教室は落とし物の山、ごみ捨て場状態、名前の書いてある持ち物がない。夜型、朝食抜き、親の生活の乱れ) ・良い子ストレス(逆に親からの過剰なプレッシャー、親の前では良い子でも、担任にあたってくる。高学年の場合も、塾で頑張って学校で遊ぶなど。学校で問題があっても親は信じない)
「現在の児童は非常に高いプライドを持っているので、人に従うこと、けなされることに異常に敏感になっている。そのため誰かから評価されることにおびえ、「低い自分」を正当化するのではないか」 →これは高学年の学級崩壊の問題につながってゆきます。道徳の根拠についての明確な考えがなく、担任にとって「不道徳」と思われる生徒に道徳性を要求すると、生徒は「軽視された」「押し付けられた」と受け取ります。それに加え、心情主義的な道徳観に基づいた学級経営は、集団主義と他者の目への感受性を育てるわけですが、いじめへの同調圧力と学級崩壊への同調圧力は、実はこのような集団主義に根差しているようなのです。集団主義的な同調圧力、「評価の目」が蔓延し、そのなかでは「高い理想」に同一化するよりも、「低い自分」を正当化したほうが傷つかずにすむ。先生に対しても、他の生徒に対しても。道徳の授業に見られる学級経営の手法と、いじめと学級崩壊は、集団主義的な同調圧力という背景を共有している! <高学年における学級崩壊の特徴> ・教師の差別・不公平への不満・怒り(平等や公平への強い感受性。担任は平等に接しているつもりでも、生徒は不公平ととる。その小さな積み重ねが、担任への不信感に) ・学習からの逃避(中学年から授業が「よく分かる」と答える人は5人に1人に:文部省の調査。高学年になると少数の「よく分かる」人たちは逆に授業がやさしすぎてつまらなくなる。その結果、生徒のほとんどが授業に集中しづらい状況に。「まじめな授業態度→学力の向上」という図式が崩れているのに、先生は「不まじめで勉強できない子」というレッテルを貼る) ・ストレスへの強い感受性(思春期特有の承認欲求・自立欲求の高まり、親からのプレッシャー) ・同調圧力(不安から仲間形成へ、学級の規律や先生の指示よりも仲間への同調を優先。ストレスへの感受性を表明する「むかつく」という言葉が同調圧力のサインとしても機能) ・担任いじめ(生徒間のいじめの矛先。安心していじめることのできる人に)
第6回(20000607) 討論――ジレンマ型の授業について(これのあとに前回プリントの残り=学級崩壊への導入) 「友達が信じられないのか」という資料についてのコメントが目立ちました。これについて、私は「一見ジレンマ型の資料であるかのように見せかけて、友情よりも決まりを優先させるように方向づけるもの」と言い、ジレンマ型の授業例ではないことを強調しました。というのも、教師が結論をまとめるようになっているからです。しかし、皆さんの多くは、これがジレンマ型の資料であると誤解して、「みんなでディスカッションすれば盛り上がるだろう」「ジレンマ型の授業では生徒が混乱してしまう」などというコメントを寄せました。くどいようですが「一見ジレンマ型に見えるがジレンマ型ではない」「ではない」……と繰り返しておきましょう。ジレンマ型だと思った人は、やはり国語力に問題があるか、一限で起きていないのか(おーい起きろー)。ちゃんと聴いている人は、「本当のジレンマ型の授業例を教えてください」とリクエストしてきました。コールバーグの名誉のためにも紹介しておきましょう。 まずジレンマ型の資料とそれに基づく授業の条件とは、1)いずれの選択をしても道徳的に「正しい」と思われるようなジレンマ、2)どちらの選択をすればよいのかは問題ではなく、その選択がどのような理由からなされたのかが問題、3)授業はオープンエンドにする(教師は結論を提示しない)、4)しかし選択の理由づけに関する評価は可能、5)道徳的な心情や態度を育てるのではなく、道徳的判断力を鍛えることが目的(「ジレンマ型の授業は、間違った解釈[正当化の仕方]のままに終わってしまう恐れがある」というコメントへの反論)。 例として、「なくしたかぎ」という資料をあげておきます(徳永悦郎著『ジレンマ学習による道徳授業づくり』明治図書、1995年)。“友人が鍵を無くしたのだが門限を破ると一ヶ月自転車に乗れなくなってしまう”という設定で、「一緒に探す」か「家に帰る」かというジレンマが提示されます。どちらを選ぶにせよ、「どうしてそっちを選んだのか」が問題にされます。そして、その理由づけが「他律的」になされたのか、「自己本位的」になされたのか、「良い子志向」からなされたのか、が問われます。しかし、無理に高い段階に方向づけることはしません。その発達段階に応じた道徳性の発現そのものに意味があるからです。教師の役割は、生徒の判断のプロセスを一緒に吟味することです。小学校中学年用なので、三つの段階までしか想定されていませんが、コールバーグは道徳性の発達を6段階に分けて想定しています(佐野安仁・吉田謙二編『コールバーグ理論の基底』世界思想社、96頁から)。これは、数多くの被験者にモラル・ジレンマを提示し、その回答をまとめ、選択の理由づけの基準にしたがって分類し、それを発達段階として序列化したものです。個別の箇所に関しては研究者のあいだでも異論が出ていますが、前回の「友達を信じられないか」の「決まり」絶対主義よりもはるかに精緻なかたちで、律法主義型の道徳思想が展開されていることを理解していただきたいと思います(「決まり」絶対主義は慣習的水準に)。 ところで、前回の「友達を信じられないのか」で、決まりがどんなに理不尽でも(と指摘してくださった人がいました、cf. 高校野球での出場取り消し)それを順守するという点に関して、これが中学で強調される律法主義的な道徳教育なのだと誤解した人が多数いました。しかし、律法主義の道徳教育は、特殊な集団内で慣習的に守られている「決まり」を自明視するものではなく、それを根本的に問い直しながら、より普遍的で人間にとって必要な最低限のルールは何かについて、より合理的に考えてゆこうという発想に基づいています(「“なぜ人を殺してはいけないのか”という問いには頭ごなしの律法主義では通用せず、他人の痛みを喚起する心情主義的アプローチが必要」というコメントへの反論)。個人の自由の余地を広くとっておきながら、自分たちのルールを民主主義的に練り直してゆこうという発想です(cf. モーセによる原始的形態、カントによる近代的形態、フロイトの批判以後の展開)。中学校特有の管理主義的な校則絶対主義とは相いれないものであることを強調しておきましょう。心情主義は、集団主義的な同調圧力による道徳的心情の伝染をはかるものなので、人・時・所におうじた適切な道徳的振る舞いのコードを細かく規定するようにします(それはミニマムなルールではない)。「決まり」の大切さを強調する中学の道徳教育は、やはり心情主義・集団主義に基づいていると見ることができます。 現代の心情主義擁護派は、詰め込み型で建て前先行の管理教育の矛盾から、「心の教育」(〜という心情を育てる)の大切さを説き、幼児期からの道徳的心情の徹底、家庭教育の重視を打ち出します。皆さんのなかでもそのような立場が根強くあります。しかし、「心の教育」を操作的におこなおうとすること自体が「本音/建て前」の分裂を引き起こしていることに、再度注意しておきましょう。
第7回(20000614)(来週7/21は休講) 討論 「まず授業そのものについての感想を書きます。この授業は社会学に基づいた道徳研究であると期待したのに社会学らしさが感じられません。社会学専攻でない人への配慮からだと思いますが僕には物足りません。改善を期待します」→授業計画を見て、授業内容についてご理解いただけたらと思います。この授業は、「道徳教育の研究」という免許科目で、講義題目は「社会生活と道徳」で、私の設定した個別のタイトルは「道徳教育の現在」です。「道徳」「教育」「社会」というキーワードをバランスよく取り入れた講義を目指して、1)まず学校の現場で行われている道徳教育について見たうえで、2)それを巡る諸問題を考え、3)教育政策論にまでつなげてゆくという構成をとっています。今日の後半の講義は「家庭のしつけ」に関する教育社会学の議論になります。というわけで、「社会学らしさが感じられない」と結論を出すのはまだ早すぎます。それにしても、気になるのは上の発言に「教育」という文字がないことです。また現場の話だけでは社会学らしくないというのなら、「社会学らしさ」のイメージが一面的なのでは?
前回の授業へのコメントでは、コールバーグのモラル・ジレンマの研究、およびジレンマ型の道徳の授業に関するコメントが多かったです。ジレンマ型の授業への関心と好意的評価が多いなかで、それに対する批判も出てきました。まず、「盗みはやっぱりいけない」などというジレンマへの「答え」に関する批判は「的外れ」だということに注意しておきましょう。必ずこういう反応が出るだろうと思って、授業中、口頭で再三注意したのですが、問題は「盗む/盗まない」の選択ではなく、その理由付けなのだ、ということをもう一度確認してください。しかし、このような誤解を誘う要因は、コールバーグが実験のために設定した「ハインツのジレンマ」、およびそれに対する実際の被験者の示した答えの集計結果のなかに、確かにあると思います。というのも、「法の理由づけ」まで問題とするなら、法への服従・不服従をめぐるジレンマを設定してしまうと、法に従う選択の最終的理由づけが「不成立」になるのは当然だからです。第6段階における理由づけがどちらの選択においても可能だというのでなければ、完全なジレンマにはならないでしょう。 「普遍的な原理への志向は危険だ」というコメントもありましたが、そのような原理が一つしかないというのなら、確かにおかしいかもしれません。しかし、実際にコールバーグが念頭に置いているのは、理由づけにおけるそのような原理への「志向」であり、具体的には多数の原理が並び立ち、それについての討議の実践そのものが、道徳的な社会の成立する条件だと考えられています。それなのに、第6段階の理由づけが可能な選択肢が一つしかないのは、確かに矛盾しているでしょう。 「選択者」の立場にどっぷり浸かった的外れな批判はさておき、理由づけの基準に関して、「人命尊重が第6段階まで出てこないのはおかしい」、「妻への愛情は理由づけに出てこないのか」という意見がありました。これはハインツがジレンマに陥る条件そのものに組み込まれていることに注意してください。「愛する妻の命が大切」だからこそ、ハインツはジレンマに陥っているのです。道徳的正当化の根拠としては出されていないだけで、それらはすでに前提になっていると説明しておきましょう。 なお、「盗み以外の方法を思いつかないハインツを問題にするという反応はどうなるのか」というコメントがありました。これについては、キャロル・ギリガンの『もう一つの声』(川島書店)を参照してください。コールバーグの正義の倫理を男性中心主義的とし、それに対して「ケアの倫理」を打ち出し、多方面に影響を与えています。これは普遍的な倫理を目指そうとするのではなく、ミクロな人間関係の中での配慮・気遣いに徹する倫理を打ち出したものです。ここには心情主義による律法主義の乗り越えが見られます。しかし、強調しておかなければならないのは、これが同調圧力と排除の原理を伴うなら、他者への配慮とは全く正反対のものになるということです。誰か「非集団主義的な心情主義」の可能性について考えてくれないかなあと期待していたのですが、誰もコメントに書かないので、「気分は心情主義」な人たちへのヒントとして出しておきます。 また、「ジレンマ型の道徳の授業は、先生の期待する答えを求めている日本の子どもにはついてゆけないし、つねに答えを示唆することに慣れている日本の先生にとっても指導が困難」という意見を多数頂きました。これは皆さんのコメントを見ていても分かります(^_^;)。ほかに、コールバーグへの文化論的批判としては、「アメリカのような訴訟社会では、恣意的な選択の道徳的正当化のテクニックを鍛える方向に機能するのでは。日本でこういう授業が根づいたら、生意気で押しの強い扱いにくい子どもが増えそう」というのがあったら面白かったのですが、残念ながらありませんでした。学級を崩壊させるような自我の強い子どもが出現しはじめた日本では、ジレンマ型の授業はプラスに作用するか、マイナスに作用するか。いずれにせよ、先生の力量です。皆さんのなかで「選択者」の立場にはまってしまった人は要注意です。
講義〜家庭教育としつけ 広田照幸『日本人のしつけは衰退したか』(講談社現代新書、1999年) 1997年「酒鬼薔薇事件」、橋本首相「心の教育」の必要性、中央教育審議会『新しい時代を拓く心を育てるために』、家庭のしつけの望ましいあり方を説く。家庭教育ノート。 「家庭の教育力は低下している」という言説の検証。細かく分けると、「昔は家庭のしつけが厳しかった」「最近はしつけに無関心な親が増加している」「家庭は外部の教育機関、とくに学校にしつけを依存するようになってきている」「近年、青少年の凶悪犯罪が増えている」「家庭の教育力の低下がその大きな原因である」「家庭の教育力を高めなければならない」 著者は徹底的に反証 「昔は家庭のしつけが厳しかった」 →人口の多くを占める農村部、都市下層ではむしろ放任。子どもへの無関心。労働のしつけは存在。しかし、基本的生活習慣、礼儀正しさなどは度外視。大正時代以後の新中間層で、家庭におけるしつけが注目されるように[武士・士族のエートスの模倣?]。 「最近はしつけに無関心な親が増加している」 →高度経済成長期以後は、農村の解体、農業の機械化、農家の兼業化、離農、青年の都市への流出、新中間層の拡大、学歴志向の高まり。「村」(地域共同体)も「家」(家業を継承する血縁共同体)も解体し、「家族」(消費を同じくする単位)が残り、家族の地位向上の戦略として子どもの教育がかつてないほど重要に。<学校の黄金時代>。地域からの脱出を図る地域の人々から頼りにされる存在。学力だけでなく、村のローカル・ルールを超えた、社会生活における言葉遣い・礼儀作法を習得させてくれる機関。あらゆる階層が学歴主義的競争に巻き込まれ、「家庭の教育力」を自覚させられるように。 しかし、その後、学校は教育に対する意識の強い親たちの批判の的になり、家庭こそが教育の最終責任を担うと考えられるようになる(力関係の逆転)。その結果、しつけに強い関心を持つ親が増加した。「教育する家族」の誕生。学校への注文。学校では、学歴主義・児童中心主義・厳格主義の錯綜、対立、混乱。心理学的マニュアルの隆盛。さらに最近は父親の教育参加の傾向が強化。 「家庭は外部の教育機関、とくに学校にしつけを依存するようになってきている」 →塾など多様な教育機関に依存しているが、それはあくまで家庭内でできないことの委託であり、しつけの委託ではない。しつけの最終的な責任は家庭にあると考えられている。しかし、学校に異議申し立てする親は増えた。だが、これは依存ではなく要求である。 「近年、青少年の凶悪犯罪が増えている」 →統計的には減っている。[全犯罪が減少するなか、少年犯罪の占める割合は高くなっている。しかし、殺人などの凶悪犯罪は激減] 「家庭の教育力の低下がその大きな原因である」 →犯罪・非行を犯すものの大部分は、生活程度・職業・学歴などの尺度を統合して測定された社会階層の中では、下流階層に属していて、それは高度成長以後も変化していない。9割以上が「中流意識」をもっているため、このことが感じられていないし、階層差を論じることはアカデミズム以外では、タブーにすらなりつつある。家庭での教育にあまり熱心でない階層で、犯罪・非行が起こりやすいということは言える。しかし、言説レベルでは階層による差異化が、心理主義的な因果関係による差異化に取って代わられる。 「家庭の教育力を高めなければならない」 →保守的な中上流階層の家族モデルを、全階層に押し付け、保守派の力を強化しようとする言説ではないか。重要なのは、画一的スローガンではなく、従来から根強く存在する貧困家族・離婚家族の個別的・具体的サポート。上述の言説は、すでに家庭教育への意識が高い人々の不安を煽る強迫・恫喝として作用する恐れがある。 では、何も変わっていないのか。そうではない。家庭教育の質は変わってきているかもしれない。しかし、基本的な教育思想は、童心主義(あるいは児童中心主義)・厳格主義・学歴主義という矛盾した立場をすべて満たすようなパーフェクト・チャイルドの製造として、大正時代以来、一貫している。 いずれにせよ、家族がしつけをしない時代になっているのでもないし、家族が崩壊してきているのでもない。地域共同体が消失し、学校が不信の目にさらされるなかで、家族のみが子どもの最終責任者としての地位を強めてきている。少子化が進むなかで、親たちはますます子どもの教育やしつけに熱心になり、大事に育てようとするようになっている。このような状況での家庭教育の問題とは、家庭内での教育の過剰と、従来からある教育できない家族の問題。多様な処方せんが必要。「家庭の教育力の向上」というスローガンは、過剰教育家族を悪化させ、教育不成立家族には無意味。
結局、政治家、教育関係者、マスコミ関係者・知識人は、中上流階層に属している。高度成長以前なら、下流階層の遅れを批判し、啓蒙することができたが、現在では中流意識が蔓延しているので、それができない。そこで、かわりに中下流階層での非行・犯罪を問題化。 しかし、学級崩壊・学級未成立状態の原因として指摘される、親による基本的生活習慣の不徹底の指摘は結局どうなるのか。結局、高度成長期の、<黄金時代>を尺度とした新中間層家族の機能不全の問題があるのでは。
第8回(20000628) 事務連絡:7月5日は4年生だけ休講。4年生は、別途コメントを提出する必要はありません(してもいいけど)。また、講義は7月28日まで続けます。
討論(今日は討論だけ、コメントには前回と違うことを書くように) 手続きに関して 「プリント資料の統計は、年代的に古いので、1990年頃から多発するようになった学級崩壊を考えるのには役立たない」「2000年版のデータを期待する」 →最新版ではありませんが、1990年代のものも含まれています。それから、広田さんの著書自体は学級崩壊の問題を取りあげたものではないことに注意してください。この講義で取りあげた文脈は、次のようなものです。1)学級崩壊の原因の一つとして家庭でのしつけの問題があげられることが多い、2)しかし、家庭でのしつけは行われなくなってきているのか、3)そのこことを検証した広田さんの本を参照しよう、と。ですから、直接、広田さんが学級崩壊と家庭教育の関係性を検討しているわけではないので、材料に不十分なところがあるかもしれないけれど、間接的にこの問題を考えるのに役に立つのではないか、皆さんはどう思いますか、ということです。
コメント全体の印象 「家庭の教育力低下」の言説は、学校関係者が一様に唱えていることで、皆さんの大部分が「信じてきたこと」でもあったので、多くの人が広田さんの批判にショックを受けたようです。「子どもの問題」が取りあげられると、マスコミ、学校関係者、一般家庭のあいだで責任のなすりつけが起こる、そういう風潮のなかでこの言説は、学校関係者の自己正当化の言説として広く受け入れられている、しかも一般論なので「うちは大丈夫だけれど」という安心感から、マスコミの報道をよく聞いている家庭の専業主婦の間でも非常によく信じられている。それは、誰も痛みを感じずにすみ、無責任でいられるために、社会全体で受け入れられる「真理」となっているわけです。そして、その犠牲者は、つねに問題を引き起こすものとして監視され、プレッシャーを与えられる子どもなのです。
議論の基本方針の確認――「教育力向上」でもない! ところで広田さんの議論は、「教育力」なんてあいまいな概念を持ち出してその高低を論じることはナンセンスだ、ということを示すために、「家庭の教育力低下」言説を徹底的に反証したものです。したがって、「家庭の教育力向上」などということは言っていないことにも注意してほしいと思います。見方を変えれば向上とも読み取れるような調査結果を持ち出すことで、「低下」でないことを示すが、それはある切り口での「向上」に過ぎず、全体的な向上ではない、ということです。これは、次の反論への答えになると思います。 「教育熱心な親は増えても、それは本来的なしつけとは関係なく、学力としつけを混同しているのではないか」 このコメントは、「学力重視の教育によって、心の教育が不十分になっている」という例の言説につながるものです。そして、それは家庭でのしつけが行き届かないことと関係があるというわけで、こう考えれば、広田さんの議論は的外れだ、と。この種の反論は非常に多くの人が出してくれました。しかし、この「学力/しつけ」の二分法も、学歴主義と児童中心主義と厳格主義の三つどもえの対立図式――主に教育関係者による――の上に成り立っています。実際の教育熱心な家庭の親は、教育関係者の暗黙裏に発するこれら複数のメッセージに翻弄されながら、そのすべてを同時に達成しようとしています。つまり、学力と素直な心と礼儀正しさや基本的生活習慣を同時に達成したいと思っています(パーフェクトチャイルドの理想)。これだけ学歴主義が世間全体で批判されているなかで、純粋な学力を求めている親は現実には存在しないと言っていいでしょう。むしろ学歴に敏感な親ほどしつけにも厳しいことを示すものとして、親の学歴としつけへの関心の相関関係を示す調査結果がありました。 ところで、批判者の多くは、「向上はしていない」と指摘することで、やはり「低下している」のではないかと考える、そういう論の組み立てをしています。しかし、広田さんの立論は、「低下はしていない」、「向上もしていない」けれど、というものです。むしろ、量ではなく、質の変化としてとらえようというものです。
しつけの定義と方法論 先の「学力としつけの混同」批判に、別のかたちで答えることにもなるのですが、広田さんはしつけの定義を次のようにしています。まず国語辞典や教育学辞典などにも載っているしつけの意味とは、「基本的生活習慣、礼儀作法、公衆道徳」の意味です。しかし、広田さんはこれを狭義のしつけとします。なぜなら、このような意味での「しつけ」のあり方をその歴史的な変化のなかで考察しようとする際に、時間軸を越えたメタ歴史的な分析概念としての「しつけ」概念が必要になってくるからです。狭義のしつけは、実は労働技術の習得や、知識の学習、遊びや手伝い、受験勉強やおけいこ事などと組み合わされ、時には重複しながら、子どもに作用してきた。そこで「望ましい(とされる)人間を作ろうとする、子どもに対する外部からの作用全体」をしつけの広義の意味とし、それらさまざまなしつけの仕方の歴史的な相の違いを包括しようとする。これは、「しつけ」の型の内容よりも、「しつける」という作用の面に注目した定義と言えるでしょう。このような定義を設けるのは、それによって「しつけ」の変化を量ではなく、その性質によってとらえるためです。
一般化の誤謬 なお、皆さんのコメントを見ていて非常に気になったのは、自分の受けてきた家庭教育を引き合いに出して、一般的なことを考えようとする傾向があるということです。しかし、これこそが、「家庭の教育力低下」言説の根本にあるものではないでしょうか。言論人、教育関係者の階級的流動差が少なく、彼らは比較的立派な家庭教育を受けてきており、自分の幼児期と報道される事件とを比較して、「最近の子どもは……」と眉をしかめる。しかし、このような態度こそが誤謬のもとではなかったでしょうか。 「うちの親はまさしくパーフェクトチャイルドとして私を育てようとしてきたと思う。成績優秀でも人間的に優れているとは限らないという見方を世間から聞かされてきた私は、広田氏の議論で少し救われた」 「現在の家庭でのしつけの問題点は、しつけ以前に子どもが満たされすぎてしまっているということだ。時には体罰も必要である」「私は昔よく親に殴られた。しかし、それによって善悪の判断ができるようになった。学級崩壊の原因は過保護にある」 自分の受けてきた教育はかけがえのない糧であり、それを反芻することは教育者としても重要であると思います。しかし、それを一般化してはいけません。とりわけ、体罰に関しては慎重に。もし、親の代わりに殴ってあげるという意識があるのなら、個人的には教師になって欲しくないと思います。また、家庭の場合、虐待の問題にも広く目を向けて考えてみてください(虐待の世代間連鎖の問題も)。 次の人も、自分の家庭教育と引きつけてコメントしています。 「うちは父親も母親も共働きでサラリーマンで、しかもリストラも食らい、けど、兄弟二人を東京に出してもらった。意識は中流だが、現実はかなり苦しいはずだ。子どものしつけと家庭の経済力が比例するなんてばかばかしい。層構造は確かにあると思うけど、その構造と教育力って結びつくのか疑問だ。それって危険だ。結局はその人次第だと思う」 これは、「犯罪・非行を犯すものの大部分は、生活程度・職業・学歴などの尺度を統合して測定された社会階層の中では、下流階層に属していて、それは高度成長以後も変化していない」という研究に関するコメントだと思います(しつけと家庭の経済力の比例ではないですね)。このような研究がいかに誤解を与えやすく、いかに差別的に聞こえるか、したがってメディアではいかに取りあげにくいか、そのことがこの「怒りのコメント」からもわかります。しかし、この研究は、「下流階層に属するものは、犯罪を犯しやすい」ということを全く意味しません。逆は真ならず。東大生の親の年収が平均を大きく上回っているなどという調査もありますが、しかし、東大生はすべて裕福だと考えていいのか、東大にも苦学生はいます。また、このような判断は、「17歳の少年が、凶悪犯罪を犯しやすい」という判断が間違っているのとも通じてきます(この場合、統計ではなくセンセーショナリズムですが……)。ところで、プライヴェートな話に関係することで恐縮ですが(名前を出さないこと、討論のためのコメントと承知されて書かれたものであることから、引き合いに出させていただきますが)、ホワイトカラーで、子ども二人を東京の大学(?)に出しているような家庭は、下層とは言えないと思います。共働きもリストラも現在では全く珍しくないことです。 ところで、この研究を参照することの意味は、隠された下層の存在を暴いて差別を起こそうということではなく、逆に「家庭の教育力低下」の言説の隠された差別性を暴こうというものです。つまり、教育不全家族をサポートせずに、道徳的に非難することは、不遇な状況にある家族に対する世間の目をいっそう冷たいものにし、そうでない「普通の家族」の人々に道徳的優越感を感じさせる機能を果たしている、ということを暴露したいのです。ただ、この言説は表向きは単純な階層論になっておらず、心理学的原因論に支えられた家庭環境の絶対視の傾向として現れています。それはいかなる家庭のほころびをも許さないプレッシャーとして、すべての家庭を呪縛しているのです。
「しつけの問題と犯罪は別に考えたほうが良いのではないか」 「教育が十分ならば子どもは健全に育つのか、また教育が不十分ならば子どもはゆがんでしまうのか。今日の講義で、そうではないということを感じ、少なからずショックを受けた」 重要な指摘だと思います。礼儀正しくて心優しい良い子が、金属バットをいきなり振り回しても、驚く必要はない。犯罪は個別の個人の問題であって、それを全体的な教育の仕方の議論にまで一般化させることは間違っているということですよね(マスコミは逆に良い子がキレるという一般化の方向に進んでいるようですが、誤ったセンセーショナリズムでしかありません)。これは、「凶悪犯罪の増加はしつけの低下による」という例の言説への反証として、広田さんの議論とも軌を一にします。
「しつけに自信がない親が多いということを示す調査結果をニュースで聞いた。また、しつけを学校に頼る親がいるという現状もある」 高度経済成長期の<学校の黄金時代>には、村のローカル・ルールしか知らない親が、どこに行っても通用する集団生活での振る舞い方のしつけを学校にお願いすることは、ごく一般的なことでした。ところが、学校にしつけを頼んでくる親がいるということが問題になるのは、「親がしつけを担当する」という考えが一般的になってきたからです。つまり、親が飛び越えるべきハードルが高くなったということで、自分でしつけをしない親が増えたということではありません。むしろ、減ったからこそ逆に目立つのであり、そしてそういう事例を取りあげて、増えたと勘違いする、とりわけその先生が立派であればあるほど、ということです。 「親達は子どもをどうしつけるべきか分からなくなっている。それは、自分が受けてきたしつけに対して疑問を感じているからではないか」 話が具体的でないし、また根拠も明示されていないのですが、しつけの質に目を向けたコメントとして注目に値します。確認しておくと、高度成長期の<学校の黄金時代>には、学歴に関心を持つ学歴主義の親と、学校に厳しいしつけを期待する厳格主義の親がいて、もう少しあとになると、学校を批判する親が増えてくるということです。私は、ここに心理主義的な児童中心主義の台頭を見ることができるのではないかと思っています。子どもの個性をおのずから伸ばそうとするのだが、そのために内面を徹底的に把握して、自立を促しつつ、やんわりとコントロールしてゆく。このような教育の手法を、心理学的マニュアルやそれに基づく風説をかじりながら実践してゆくとなると、子どもの教育は極めて困難となるでしょう。
学級崩壊の問題――新中間層家族の行き詰まり? 「学級崩壊の原因の一つは、親達が学校に期待しなくなり、子どもが学校や教師を馬鹿にしているからではないか」 つまり、親が教育のマネジメントの責任を一手に引き受けているから。広田氏の言う親の教育熱心が学級崩壊につながっている、と。 「子どもの教育やしつけに熱心になったといっても、実は自分の子どものことしか考えておらず、自分の子ども以外のことはどうでも良くなっている。これでは自己チューな子どもができてもおかしくない」 「パーフェクトチャイルドを育てようという段階で、家庭の教育にゆがみが生じている。それは教育熱心だと肯定的にとらえられるか。子どもの教育が社会のなかでの家族の生存競争になってしまうのは、すでに家庭が崩壊しているからで、そのことを指して家庭教育に問題ありと考えられているのではないか」 前回の最後に急ぎ足で話しましたが、新中間層家族の抱える新しい問題に関わる指摘だと思います。ひとことで言うと、「子どもの教育を通しての親の自己実現」という、<黄金時代>以来の発想の行き詰まりに関わると思います。にもかかわらず、<黄金時代>へのノスタルジアがあるために、「教育力低下」言説が生まれている。この「教育力低下」言説そのものは、これまで見てきたように極めて怪しいけれど、新中間層家族の行き詰まりの可能性については別に考える必要がありそうです。 最後に、親自身の「意識」に関する統計調査に重きを置く広田さんの議論を相対化するものとして、親以外の教育関係者が親の「実態」をどう見ているかに関するアンケート調査、フィールド調査を出しておきましょう。プリント資料・最近(1998年)の子どもの変化と親の変化(尾木直樹『「学級崩壊」をどうみるか』NHKブックス)。もちろん、これは「最近の親はこんなのが増えている」という漠然とした印象で、「親全体がそうなっている」のか、「変わった親が増えている」のかに関しては注意が必要であることは言うまでもありません。 次回は、新中間層家族の行き詰まり(?)を郊外型社会の問題と絡めながら論じたいと思います。
*** 以下は議論の大筋から外れるので説明しないがクレームに対するコメントなので、各自読んでおくように。できればもう少し落ち着いて授業を聞いてほしい。また好意的に言葉を解釈し、前後の文脈とつなげて理解するようにしてほしい。
「ジレンマ型の授業ができないような人を先生はどうしようもないと言っていましたが、それは教師の資質にとって、そんなに致命的なことなのでしょうか」 →誤解です。生徒の現状に合っていない、また自分自身教えにくいと感じるのなら、どうしようもない、かえってチャレンジすることで良くない結果を招く、やはり日本の学校文化の風土には合っていないかも、という趣旨のことは言いましたが、この「どうしようもない」という言葉は「だめ」という意味ではなく、「仕方がない、やりようがない」という意味です。第一、ジレンマ型の授業をもろ手を上げて賛成しているわけではないことは、そのすぐあとの説明を聞いていれば分かることだと思うのですが。
「学級崩壊を自我の強い子どもと結びつけているが、学習障害との関係はないのか」 →関係づけてはいけません。学習障害とは、全体としては正常な知的発達を遂げていると思われるのに(したがっていわゆる知恵遅れではない)、ある特定の学習能力の発達が不十分な状態を指します。中枢神経系の障害も疑われるので医師との相談が必要ですし、教師は個別指導計画を立てる必要があります。したがって、学習障害という言葉を正しい意味で使うなら、学級崩壊の問題とは関係ありません。質問者が、単に授業内容の理解が困難であることを指しているのなら(これは言葉の使い方として間違っていますが)、この問題はすでに前々回の学級崩壊の原因の中で指摘しています。しかし、授業内容がわからなくても、それは自分の能力や努力が足らないからではなく、教師の能力や努力が足らないからだと考えるような傾向も含めて、自我の強さと呼びました。それは理解能力と関係ありません。
「先生は分かられて使われていると思いたいのですが、「部落」は差別の言葉です。ですからここで適切な言葉は「集落」です。ここは大学なので、それくらいの配慮が必要だと思います」 →勘違いに基づくコメントなのですが、ほかにも誤解されている方がいるといけないので文章でお答えしておきます。まず私自身が現在の被差別部落を指す意味でこの言葉を使ったことは、前回の授業で一度もないことを確認しておきます。プリント資料の表1-1で、明治後半から昭和初年のある漁村におけるしつけに関する聞き取り調査の結果の抜粋のなかで「部落のしつけは厳しかった。部落のしつけを身につければ一人前であった」という歴史的証言を読み上げたものを、多分、質問者はそこだけを聞いて、私が「部落」という言葉を使ったと勘違いしたのでしょう。これでもピンと来なければ、もう少し説明しなければなりません。「部落」という言葉は、まず、明治時代の市町村制施行以後、市町村の下部機構として機能するようになった地域共同体のことを指すものとして使われるようになりました。聞き取りのインフォーマントが「部落」という言葉を使ったのは明治末から昭和初期にかけてなので、この意味で使ったと思われます。やがて、この意味が失われ、被差別部落のことが単に「部落」と呼ばれるようになり、それが差別的文脈で使われるようになって、はじめて「部落」という言葉に侮蔑的意味が込められるようになります。プリント中に引用されているものは、歴史的資料なので、現在の文脈に合わせて勝手に不適切だと変えてしまうことは、学問的手続きとして適切でないので、そのままにしておきました。
第9回(20000705) (本日は「討論」は省略。口頭でコメントを紹介)
郊外型社会と道徳性
神戸の小学生殺害事件、神戸須磨区のニュータウン、青少年の様々な問題が郊外で起こっているという指摘。郊外のどこに問題があるのか。社会学者たちの議論を整理。
依拠する文献 ・若林幹夫ほか『「郊外」と現代社会』(青弓社、2000)。特に若林幹夫「都市と郊外の社会学」 ・宮台真司『まぼろしの郊外――成熟社会を生きる若者たちの行方』(朝日文庫、1997/2000) ・三浦展『「家族」と「幸福」の戦後史――郊外の夢と現実』(講談社現代新書、1999)
郊外の生成(主に若林を参照。私の補足も多数) ・産業革命、都市への人口集中、住環境の悪化、都市内部のスラム化、中産階級が郊外に住むように ・職住の分離、交通機関の発達、自動車という個人主義的交通手段の発達で初期郊外の芝生文化は消失 ・地域社会としての自立性の欠如 ・マス・メディアとパーソナル・メディアの発達、都市近郊の住宅地としての「郊外」から、都市発進の文化と直結するもの同士が横ならぶ関係性としての<郊外>へ ・日本全体の「郊外化」傾向、郊外型社会の到来(1950から1970にかけて市部人口が37.3%から72.1%に。1995では78.1%)。ロードサイド・ビジネスの全国的展開 ・CDのメガヒット現象。嗜好の均質化。 ・都市化と郊外化、都市機能の分散、都市文明のグローバル化、地域社会を飛び越して個人がグローバルな資源に直結、ローカルな地域社会の側から見ると、都市従属の進展(sub-urban-ization)。(ギデンズのいうグローバルなものとパーソナルなものの直結) ・純粋な私生活の場、たまたま隣にいるが、つながりがない。でも、同じような生活をしている。 =匿名性と同質性(都市は匿名性と異質性)
日本における郊外化の進展(主に宮台を参照、三浦も補足的に) 第一段階の郊外化=団地化(55〜70年代末) 1955 日本住宅公団設立。56 最初の団地を売り出す。 団地化、家電化、テレビ、アメリカン・ホームドラマ、バラ色の郊外生活 1955-75 核家族の増加、しかし75年以降は伸び悩み。合計特殊出生率が2.00前後。これも75年以降低下 1970年代前半 団塊世代女性の結婚・出産期、東京圏における郊外核家族化の本格化 1975 専業主婦率頂点に、以下は下降。 1971 賃貸住宅のピーク。以下は下降。分譲住宅は増加 1977 分譲が賃貸を上回るように 団地化の特徴:地域共同体の崩壊、家族への内閉化、メディアが世間に、養育責任は母親にあるという通念が一般化、育児マニュアルを頼りにした子育て
高度成長期の終焉=過渡的近代から成熟した近代へ。家族全体の豊かさの追求の行き詰まりから、教育による子どもの地位向上に関心がシフト。「金属バット殺害事件」など家庭内暴力事件が立て続けに起こって、「家族の危機」が叫ばれるように。やがて家族への期待そのものが薄れて、80年代中ごろには危機意識も退潮。しかし、子どもの評価原則の均質化は進む一方。
第2段階の郊外化=コンビニ化(83〜現在) 1969「マイショップ」、74「セブン―イレブン」、75「ローソン」、しかし「ミニスーパー」程度 1982 コンビニが爆発的に増加 1983 東京23区内でワンルームマンションの建築ラッシュ 1984 郊外型ロードサイド・ディスカウント・ショップの幕開け。カラーテレビが3〜4万円台に。メディアの個室化。歌番組とクイズ番組が減少し、深夜番組が増える。 1986 コンビニのPOS化(レジとホストコンピュータの直結)。料金支払い、宅配便、チケット販売など、地域の「情報ターミナル」に。独身男女を対象にした新種の雑誌の販売(レディコミ、写真投稿誌)。
家族の崩壊が本格化。「個室/コンビニ/ターミナル駅周辺のストリート」が、家庭・学校・地域から外れた「第4空間に」。「成熟社会の動機づけ問題」が深刻化。学級崩壊から大学生の学力低下まで。
なお、宮台のいう郊外化の第1段階と第2段階を覆う時期を通して、第3次産業就業者率は一定率で増加中、1950年までは30%、以後ほぼ一定の率で上昇中、1995年には60%
郊外型社会の問題点(主に三浦による) ・郊外生活者の多くは「故郷喪失者」、共同性の欠如。 ・郊外は主に消費の場。給料は都心で得る。 ・子どもは仕事の手伝いをしない。 ・労働・生産する父親の姿が見えないため、消費のスタイルに価値が置かれる。子どもは消費の主役。消費のスタイルの共有における友達感覚のつながり。上下意識より平等意識が尊重される。親子関係も教師との関係も。 ・やさしい友達のような大人を演じる親と教師。良好な関係を築いて、子どもが静かに受験勉強することを望む。 ・欧米では、都市の自治、「市民」意識の歴史。日本ではローカルな集団の「世間」が規範の源泉。アメリカの郊外ではコミュニティ形成が盛んだが、日本の郊外では「世間」が欠落したまま。「世間」の欠如と宗教的規範の欠如から、善悪の判断力がない子どもが育つ可能性。[あるいは、たまたま居合わせた集団への過剰な同調] ・他人の子どもを叱ってはいけない。それは「純粋な私生活」の侵害に。 ・機能主義的すぎる空間構成。住宅地と駅と学校がツリー構造に。遊びや消費も選択 肢が決まっているので、管理されているような感覚に。嗜好の均質化(都市はもっと雑多) ・夫は仕事、妻は家事、子どもは勉強という分業体制。家庭・職場・学校の分離。そのためにで来た町。別の生き方があらかじめ否定されている。 ・順調な生活から外れてしまうと極めて息苦しい場所に。[老人にとっては住みにくい住環境、20代無職のいづらさ]
過渡的近代の終焉、成熟社会の問題との重なり。教育による地位向上の頭打ち。親よりも低い社会的地位に甘んじなければならない青年層が出現し始めている。教育の根拠そのものが問われるように。ではどうすればよいか <教育の根拠の問題> ・村落共同体の維持、「イエ」の繁栄、国家社会の発展 ・教育を通じての「家族」の地位向上、豊かさと出世の追求、子どもの教育を通じての親の自己実現 →教育の根拠の喪失、親の自己実現と育児が対立、少子化。妥協点として、子どもの教育を通しての親の自己実現に。「生命」に教育の根拠を求めようとする教育ロマンティシズムが文部省に受け入れられる。愛国心への接続、エリートたちのノスタルジー。また教育関係者の多くは、前回まで紹介したように、高度成長期の<学校の黄金時代>と郊外核家族体制に固執。なお核家族の「崩壊」(共働き、離婚)問題も怪しい。本校の社会学の山田昌弘氏によれば、日本の家族の安定度は依然高く、そのかわり不満度も高い。アメリカの家族は不安定だが幸福度は高い。ちなみに離婚率は、1880年代の日本は現代のアメリカ並に高かった。高度成長期を基準にして、「近年増加傾向」とされているだけ。 ・子ども自身の自己実現に教育の根拠を求める方向性。世俗的自己実現に教育の根拠をおく教育モダニズムの徹底。しかし、自己実現の内容が豊かさと出世の追求では、もはや魅力ない。また、個人主義的な自己実現の追求では、郊外型社会の問題点が深まるばかり。1)選択の自由を進める新自由主義の方向性と、2)保守的学校共同体に回収されない公共性を構築しようとする社会民主主義の方向性と、3)システムをいじらずに傷ついた個人をケアする「カウンセリング学校救済説」(造語、もっといい表現を求む)。次回は、3)から検討。 (最後の一段落の説明は時間がなかったので次回に)
第10回(20000712) 確認:受講希望は第2回目で締め切っていること。4回以上の欠席は未受験(失格)。
討論(というより簡単な質疑応答) 相変わらず、個別事象のレベルと一般論のレベルの混同による誤解がいくつかあります。 「郊外で少年の犯罪が起こったからといって、郊外だから犯罪が起こるとは言えないのでは」 →言えないでしょうね。そういうことをほのめかすマスコミによって郊外論が脚光を浴びたのは事実ですが、郊外を論じている社会学者はそのような短絡を避けて論述しています(口頭で説明済み)。 「私の実家は郊外にあったが、指摘されているような問題は全くない」 →当てはまらない地域もあるでしょう。また同じ地域でも人によっては異なる現実認識をしているかもしれません。いずれにせよ、自分が知らないから「郊外化」の傾向など存在しないと結論することはできないのでは。 「郊外とはどこを指すのでしょうか。都市と郊外の境界線みたいなのがあるのでしょうか」 →ない。「都市の周縁」という辞書的な意味は、郊外化の端緒にはあったが、現在では崩れていて、都市機能の分散に伴う、地域の都市従属化と自立性の欠落過程が、郊外「化」とされています。したがって、社会学者たちは、単に物理的で実体的な領域・場所を「郊外」とししているのではありません。ですから同じ場所で、都市化と郊外化が同時に起こっていて、どちらの現象が見られるかはアスペクトの相違によるとまとめました(前回説明済み)。 「郊外の問題を日本社会全体の問題であるように論じるのはおかしい」 「家庭・職場・学校の分離は都市や地方でも起こりうる日本社会全体の問題なのに、郊外の問題として論じるのはおかしい」 →これも「郊外」の実体的定義による誤解です。なお、面白いのは二つのコメントがお互いを反ばくしあっていることです。定義に関しては上の説明を参照。また、さらにもっとゆるい定義である「関係性としての<郊外>」――ローカルな文脈を介さずに都市文明を個人的に享受する消費者同士の、匿名性と同質性を特徴とする関係性としての<郊外>――は、日本社会全体の問題と言ってもよいことを指摘しておきます。根拠としては、大都市人口が減少しドーナツ化が進んでいるのに市部人口は増え続けており、現在では日本人口の8割に達していること、マス・メディアが日本全国に浸透していることをあげました(これも説明済み)。 「郊外化が進むのはそれが便利だというメリットがあるからだろう。したがって、その問題点を指摘して、昔に帰れというのは意味がない」 →「昔に帰れ」などということは、誰も言っていないと思います。そのようなノスタルジックな言説の問題は、前々回・前々々回に指摘しているはずですが、聞いていなかったのでしょうか。 「ではどうすればよいのかという解決策が見えてこない」「郊外化の傾向においては、学校こそが共同体への帰属の唯一の経験となるのではないか」 →この問題はこれから扱います。学校共同体が地域の崩壊の歯止め・代償になるという教育ロマンティシズムの問題点はじっくり検討しましょう。「学校・家庭・地域の連携」が難しいなら、学校が共同体的機能を果たして、場合によっては「崩壊した」家庭や地域の肩代わりをしなければならないという気負いと、そんなことはもう学校には期待できないという落胆のあいだで。
講義 前回残した、<教育の根拠の問題>
カウンセリングは学校を救うか
1994 いじめを苦にした中学生の自殺が相次ぐ 1995 「文部省スクールカウンセラー活用調査研究委託事業」当初の約3倍に予算増(3億7百万円)、期間も2年間の予定がさらに2年延長 いじめ・校内暴力などの問題行動、登校拒否・高等学校中途退学などの学校不適応、その他、生徒指導上の諸課題の解決には学校だけの対応では困難。従来の専門機関も不十分。学校におけるカウンセリング機能の充実を図ることが課題。専門家を活用してその効果を調査研究。公立の試験校141校に心理臨床士(非国家資格)を週2回派遣。
カウンセラーたちの熱心な取り組み。欧米のように各校に常駐されれば、カウンセラーの需要が一気に高まる。臨床心理士の国家資格化も期待される。 表9「学校教育相談の諸機能」、村山正治・山本和郎『スクールカウンセラー――その理論と展望』(ミネルヴァ書房、1995)。 スクールカウンセラーの職能:個別面接、グループ・カウンセリング、心理テスト、教師へのコンサルテーション・報告・意見、親との面接・PTA研修 問題のある児童・生徒を個別に指導、教師との連携、教師の心の問題、子どもの親や家庭もサポート、地域の関係機関との連携 →「家庭・学校・地域の連携」の媒介役として期待
村山らのスクールカウンセラー派遣事業への取り組みとは別に、国分康孝編『学校カウンセリング』(日本評論社、1999)。こちらは教師が「カウンセリング・マインド」(管理主義的指導から児童・生徒の受容と共感的理解)を持つことを提唱し、以前から教員研修を行っていたグループによるもの。村山らとはライバル関係。複雑な利害感情。
カウンセリング導入への批判 現場教師の抵抗。慎重論、躊躇感(cf. 表10、村山・山本の前掲書より) 学校現場に食い込むためのカウンセラーたちの「変節」
三輪寿二『カウンセリングと学校作り――臨床心理学と教育学の現在』〜徹底的批判 従来の臨床心理学からの理論的転換 治療モデルから成長モデルへ、事後的治療から予防へ、個人モデルからコミュニティ・モデルへ 管理主義的教育批判から「心の管理」の先兵へ? 管理主義的学校教育は心の成長を阻害し抑圧する側面があるという批判から、既存の学校体制に適応することを生徒に要請する立場に転換。 専門性と守秘義務と学校教育への批判性を徹底させるとほされる。過去における教育相談の衰退(管理的生徒指導との対立・敗北) →教師へのコンサルテーション、行動療法やグループカウンセリングなど、積極的なカウンセリング・テクニックの伝授によって、専門家として教師の相談役に立つ。 守秘義務の「柔軟な」適応によって、教師と連携=児童・生徒の秘密を教師にリーク。 ・制度の問題を児童・生徒の個人の内面の問題に還元し、既存体制を温存。 ・学校を「全面的に制度化された自己の場」にする可能性。子どもの全側面を測定・評価・規格化。学習の達成以外の部分も評価して「あげよう」という「心の教育」の推進役に。 ・管理が強まれば強まるほど、逸脱や不適応が目立つ(高校中退「問題」は以前は問題化されなかった)。 ・学校側からの一方的な「問題」化→ドメイン拡張(似たものがすべて包括され、「問題」報告数が急増)→「対策」(学校制度をいじらずに)の連発→逸脱や不適応がますます問題化〜悪循環 学校の対応はますます防衛的に。「良い人間」しか作らないという強迫
たとえば、「不登校」者を学校外でサポートするという発想は出てこない。学校とカウンセラーが一体化して巨大な管理機構を完成させるという方向性とは別に、学校は学習を魅力あるものとし、集団生活の経験の場を提供することに徹し、そこで生じる問題をケアする別の回路としてカウンセラーが機能するというあり方も可能では。(コメントは少なくとも以上の批判を念頭に置いたものに)
第11回(20000719) 誠に申し訳ございませんが時間の関係上「討論」は省略。 なお、来週はレポート提出者(提出は任意、「可」以上の点数をとりたい人が提出)との質疑応答の予定なので、出欠はとらない。
講義 生き方の問題としての教育制度改革
講義の流れ 道徳教育の諸問題の検討、従来の道徳教育のストラテジーとしての同調圧力、いじめや学級崩壊や学校共同体主体の管理教育と原理的には通底。家族・職場・学校の分離による郊外型社会の出現。匿名性と同質性という特徴。学校共同体における過剰な同調圧力の基礎。集団主義の伝統との連続性。 解決策として、制度を変えずに傷ついた子どもをケアする「カウンセリング学校救済説」(前回議論)、学校こそが最後の共同体であるとして学校の共同体的機能を強化しようとする社会民主主義路線、逆に個人の学習機会の選択の自由度を広げ、選び選ばれたもの同士の連帯を教育の場に実現しようとする、共同体よりネットワーク重視の(新)自由主義路線。 実は狭義の「道徳教育」よりも学校という制度そのもののほうが、暗黙のカリキュラムとして、児童生徒の「生き方」(広い意味での「倫理」)に対して、より強い影響力を与えている、というのが私の見方。 今日はまず、私が個人的にもっとも中身のあるものと考える、堤清二・橋爪大三郎『選択・責任・連帯の教育改革(完全版)――学校の機能回復を目指して』(勁草書房、1999年)を取り上げる。なお、これを中曽根内閣の臨教審以降の新自由主義的教育改革路線に含めたうえで、新自由主義路線に対する全般的な批判を加えているものとしては、佐藤学『教育改革をデザインする』(岩波書店、1999年)、藤田英典『教育改革』(岩波新書、1997年)、『市民社会と教育――新時代の教育改革・私案』(世織書房、2000年)の社会民主主義路線の教育改革(論)がある。当初はこれをも参照しようと思ったが、イデオロギー先行の批判であり(選択の自由を広げると教育格差が広がる、市場主義よりも公教育重視)、その批判点のほとんどが、堤・橋爪らの提案の中ではクリアされている(他の新自由主義路線には当てはまる批判なのかもしれないが)。そのため、両者を対立させることは、論点が明確になるどころか、かえって多くの学生にとっては混乱を来すことになるので、興味のある学生は上記の文献を各自参照して欲しい。また、新自由主義と社会民主主義の対立図式を相対化するような視点としては、ギデンズ『第三の道――効率と公正の新たな同盟』(日本経済新聞社)を参照。(プリント「新自由主義と社会民主主義の対比」)
(財)社会経済生産性本部 社会政策特別委員会・教育改革に関する報告書 「選択・責任・連帯の教育改革――学校の機能回復を目指して」
緊急の、総合的で、しかも長期的な視点をもった改革案 学校の制度や権威の支配とそれへの従属から、子どもの主体化プロセスを切り離す。 世界社会の一員として、多様な価値を再構築 ポスト産業社会においては、教育は産業社会の発展のためではなく、個人の生き方にどう役立つかが重要 集団中心の画一的な文化の崩壊→個人の可能性を発見するような文化の構築を、教育は支援しなければならない 生き方や価値観の多様化のなかでどのような「個人の自律」が必要かを教育は考えるべき 国際社会のなかでの日本のアイデンティティをもっと柔軟に考え直す。 教育の基本目標=1)共同性(よく知っている仲間となら集団形成が可能)ではなく社会性(よく知らない人とも社会運営が可能)、2)「知/技能」の形成を重視、ただし産業社会や制度や共同性の権威に従順な人間の養成ではなく、自由で尊厳ある主体の養成のために、3)表現力の形成を重視(自己表現能力および他者とのコミュニケーション能力) 教育の条件=1)子ども自身が「可能性」を発見できるようなプログラム(可能性の制限、差別を除去)、2)選択の自由、進路の再選択の保証によって子どもの多様な「ニーズ」を満たす、3)開かれた「学校」、4)個人の「尊厳」を守る
1 改革の基本的な考え方 早急に手を付けるために必要最低限の具体的改革 6・3・3・4制と教育基本法と文部省の改革には立ち入らない(長期的には必要だが) 学校を、画一的で平均的な人間を大量生産するような、生徒を圧迫する重苦しい存在から、生徒の自立を手助けする楽しい場所へ 一人ひとりの生徒に合わせた教育(選択の余地)、それぞれの多様性と個性と自由を守るためのルール →画一性と違う新しい社会性=責任・連帯
2 小中学校の改革 2.1 学区制の廃止 自由な選択、学校間の競争、学校を信頼と連帯の場に(入学前の説明会、少子化に伴う収容人数の余裕、「不人気校」にはてこ入れ) 2.2 学校経営権を校長に 人事・予算・カリキュラムに関する大きな権限、学校のカラー、教師の競争 名誉職的で事なかれ主義の校長から、年齢に関係なく公募で選出 2.3 学校理事会 学校理事会(在校生・卒業生の親、地域の有識者など10名程度、PTAと異なり継続性と責任があるので、認定投票で選出)による校長の選任(中教審提案の「学校評議会」は校長の諮問機関にとどまる) 2.4 校長にふさわしい人材の発掘 業績評価システム、大学院における校長養成コース(広い教養、財務・人事管理、いじめ・暴力・自己に対処するための実践的ケーススタディ)、校長の仕事を学ぶための副校長のポスト 2.5 教師の主体的な取り組みの支援 校長の人事権と教師の「異動の自由」(従来は公務員として、教育委員会に人事権)。公務員の身分保証があるため、解雇は存在しない。派遣機構を設ける。また、教師の待遇の改善(家庭の外部教育費の削減につながることを根拠に税金支出) 2.6 教育のなかみの改革 2.6.1 成績の絶対評価 相対評価は他人の失敗を望む心理を生む、絶対評価は連帯をはぐくむ 2.6.2 外部機関の到達度テストの活用 各学校の特色あるカリキュラムを前提として、ごく基本的な内容に関する到達度テストを実施し、その学校の学力を客観的に測る 2.6.3 クラス編成を自由に 現場の教師は20人程度が望ましいという点でほぼ一致している。校長の教育方針に応じて、さまざまなクラス編成の仕方が可能になるようにする。校長はコスト・バランスも考えながらクラス編成 2.6.4 個人にあわせたカリキュラムを 大量の落ちこぼれや学校嫌いを生むクラス一斉授業から、生徒の実情に合わせた授業が受けれられるようにする。 2.6.5 学習指導要領をなくし、現場の創意工夫を 従来は、何をいつ教えるかのプロセス管理を文部省がやり、それがどう定着したかのチェックはなし。逆にして、プロセス管理は現場に任せ、結果の評価の手法や制度を文部省が開発。現場は、より良い教育成果を収めるために、自助努力しなければならない。 2.6.6 (たとえば)午前に基礎科目を集中、午後は学校を地域に開放 高等学校で必要になる「基礎教育」(読み書き算数・数学)を午前中に徹底、午後は、芸術活動、スポーツ、自然との触れ合い、地域との交流、補習授業、発展授業をおこなう。 2.7 不必要な会議・研究授業・事務書類を廃止 本来教師のするべきでない事務作業は、校長の権限で事務職員を雇用することも可能。事務の徹底的な見直し。文部省や教育委員会からの通達・連絡のための会議はなくなる。文部省から補助金を獲得するためのモデル校や指定校などの活動もなくなる。形式化した書類(たとえば毎年制作する教務資料)の作成もやめるべき。 2.8 義務教育の見直し 小中学校までは「基礎教育」(市民生活の基礎の教育) 高校は「基本教育」(日本社会を支える基本学力の教育)(高校は義務にしないが公教育の範疇) 「高等学校学力検定テスト(高検)」の導入→3.3 中学は出席によって卒業資格を得られるが、卒業しなくても高校には行けるようにする→3.2
3 高等学校の改革 3.1 高校の経営権を校長に 2.2と同じ 3.2 高校入学は無試験 希望者を施設の余裕があるかぎり(若年人口の減少で可能)最大限に受け入れる 選考は出願資料による、内申書は用いない、中学の成績は絶対評価(2.6.1) 混雑現象は、高検の導入ゆえに緩和される→3.3 3.3 「高等学校学力検定テスト(高検)」の導入 高校卒業資格=大学受験資格のためのテスト 年に6回程度おこなわれる 絶対評価(現行の大検は相対評価、平均点以上が合格) 主要教科の基礎的な内容のみを出題(ちょっとまじめに勉強すれば合格できる程度に) 現状の高校内での卒業認定では、学力が厳密に計れないので、学校間の格差ができてしまう →高検の導入は学校間の格差を解消する。高検に合格するという出口が一緒なので。 →高校受験の廃止→3.2 3.4 高検の内容についての提案(省略) 3.5 高検を高卒資格にかえる なお、高検合格は簡単なので、早めに合格した生徒は、残りの時間をプラスアルファに。 3.6 高校カリキュラムの多様化 独自のカリキュラム、教育の内容で学校間に差が出る。cf. 3.1 試験にでない科目だからといって、生徒が熱心に勉強しないということがないよう、将来において役に立つような選択科目を用意する。
4 大学の改革 4.1 学生定員の廃止=入試の廃止 現行の硬直化した学生定員、「入学者=卒業者」でないといけない[卒業者が少ないのは教育がうまくいっていない証拠と見なされ、予算・助成金が減らされる]→学習意欲の低下、大学受験の激化 入学許可は書類審査のみ キックアウト制(成績不良者の留年・中退)の導入 4.2 入学者の決定の仕方 大学の教育目標を明確化、たとえば「科学技術先端大学」なのか「ビジネスマン養成大学」なのか「地域密着市民大学」なのかなど。卒業生に要求される学力・知識のレベルを独自に設定、そこから入学者が必要とする学力を逆算して提示。 4.3 学費制度の改革、奨学ローン・奨学金の充実→「混雑現象」の緩和策 入学者の増加による学費の増大 奨学金が大部分の学生に支給されるように、大学での成績に応じて貸付条件が変わる(成績に応じて返済免除、成績が良ければ学費免除にも、悪ければ全額返済)〜なお詳細な試算があるが省略 →高い学費を借金して卒業できないのは損なので、良い大学への入学希望者の集中(混雑現象)は回避される→4.1が可能に 4.4 企業による大学改革の支援 入試偏差値に頼った大卒新入社員の採用という慣行を改め、大学で専門的能力を証明した人材を、有名大学であるかどうかに関係なく採用する。大学生のためのインターンシップなどの制度の充実。 4.5 大学の流動性、機動性を高める 教育研究の中身での大学間の競争 教員の派遣制、任期制、公募制 4.6 研究費の公正かつ柔軟な配分(省略) 4.7 国立大学の整理統合と大学設置基準の自由化(省略)
5 教育行政の役割 5.1 文部省の役割 教育プロセスの直接的管理から教育当事者の間接的支援へ →教育結果の評価基準の設定、共通カリキュラムの原案作成の支援、奨学金や研究費の分配のためのルール作り 5.2 中央教育審議会などの方針について 「心の教育」よりも正しい行動のルールが重要 ex. あるインターナショナル・スクールの校則は次の三つだけ「ほかの人の権利や持ち物を大切にする。誰かほかの人が勉強するのを邪魔しない。誰かを傷つけるようなことを言ったり書いたりしない」。行動についての規範。いつも優しい「心」をもとうという指導は、検証のしようがなく、結局は偽善を教えることにもなり、また問題解決にもつながらない。 「ゆとり」は従来の受験競争や知育偏重の詰め込み教育の存続を前提としたうえで、それを軽減しようという対症療法に過ぎない。 「生きる力」は、子どもをくじけさせる原因、教育を取り巻く構造的な問題に手を付けないまま、子どもに責任を押し付ける無責任な発想。 5.3 教育委員会の整理縮小 本来、教育の地方分権を意図して設置されたが、公選制でなく、実質上は文部省の末端に。人事権をはじめ大きすぎる権限。討議内容の不透明さ。 スポーツ、社会教育、生涯教育などの仕事を民間に委託し、大幅に整理縮小 教育委員を公選制に
以上の改革案は、部分的に取り出して批判することは可能だが、他の部分にそれに対する対応策が書かれていることが多いので注意すること。なお参考までに、去年の受講者による修正案を別に掲げておく。去年の時点ではまだ中間報告しか出ていなかったことに注意。 社会民主主義路線の教育改革論者ら(たとえば前述の藤田、佐藤)の原理的批判としては、選択の自由が増えると、教育に関する競争が激化し、不平等が増し、また市場原理が教育に導入されることは公教育の崩壊をもたらすというものがある。その結果、彼らは、従来の制度を抜本的には変えずに、その弊害を正してゆくという方向性をとる。しかし、その提案する個別の改革案(修正案)は、社会経済生産性本部の改革案に包括されうるものが多い。とりわけ公正さに関する意識は、社経案においても決して欠落していない。 いずれにせよ、この講義の文脈にとって重要なのは、道徳性に関する「心情主義/律法主義」「集団主義/個人主義」「共同性重視/社会性重視」の対立軸が、制度改革をめぐっても展開されているということである。成熟社会において、学校共同体の集団主義を基調とする道徳の教育の徹底が、さまざまな「学校教育問題」にとって有効なのか、それとも学校共同体の崩壊という事実を事実として受け止めたうえで、それを自己動機づけ型の人生設計と社会性の訓練を促すような新しい教育のあり方へとつなげるチャンスととらえ返すか。これが狭義の道徳教育を越えた、現代日本の教育の重要な論点であることは間違いない。レポートを書く人は、少なくともこのような対立図式を意識したうえで書いて欲しい。
***
去年の受講者による修正案
以下は、去年の受講者の小レポートで出された、橋爪案に対する修正・補足・拡充をまとめて、コメントしたものである。引用は、学生の書いたものそのままでなく、私が加筆修正しているものが多い。 なお「あなたなりの改革案を書いて下さい」という要請にもかかわらず、橋爪案に対する賛成で終わっているもの、あるいは反対し現行制度を擁護しているだけのものが3分の1近くあった。これは出題の要請を満たしていないので、書き直しをお願いした。
学区制廃止について これについては「地域社会のつながりが薄れる」という理由から反対する意見があった。それを修正するものとしては、「学区制を完全に廃止するのではなく、枠を広げる」というものがある。しかし、 「各学校の人数の上限を定め、通学距離の短い生徒の入学を優先させるべき」 という案によれば、学区制を廃止しながら、かつ地域社会とのつながりを重視することが出来る。
校長の経営権について 「校長独裁には反対。運営は教師と生徒に任せて、校長はその取りまとめをおこなうようにする。」
学校儀礼を押し付ける校長への反発が背景にあるようである。しかし、校長の選挙権は生徒と父母にあるので、独裁制ではなく、民主制であることに注意。
絶対評価について 相対評価よりいいかもしれないが、可能であろうかという声があがった。 「高校入学の足切りの際の書類選考では中学での成績も参照されるということだが、中学での信頼に足る完ぺきな絶対評価は不可能ではないか。各学校によって、また評価する教師によって、評価の仕方は異なるのだから。したがって、中学学力検定試験が必要である。」
これは多少「絶対評価」という言葉の意味を誤解している。定義を示しておこう。相対評価とは、「一定の集団内における個人の学力の相対的地位を表す評価の方法」であり、絶対評価とは、「カリキュラムの目標などを規準として個々の児童生徒の達成度を評価する方法」である。このことは橋爪氏も、「絶対」という言葉の響きに惑わされるなと忠告している。しかし、上の指摘は大筋においては正しいと思われる。高校までが実質的に全員進学しているという状況を考えても当面は中学までが義務教育であること、また、すぐには特定高校の混雑現象が緩和されるとも思えないことなどから、中検は必要かも知れない。また、次の意見ももっともである。
「教師の主観による絶対評価は意味がない。絶対評価はテストの点数で事足りる。それによって通知表も必要なくなる。」
しかし、定期試験を全国一律で、というわけにはいかないので、「テストの点数」とは、結局ある学校のある教師が考えたテストの点数になる。それゆえ、実質的にはテストの点数に忠実な絶対評価を付けるのと同じことである。形式的に通知表が無くなってもテストの点数表がそれに取って代わるだろう。
高検について 高検は入試をなくすので「ゆとり」を増やす方向の改革であり、学力低下が危ぶまれるという、とんでもない誤解が目に付いた。ところが何年か後にやってくる少子化・大学全入時代には、むしろ従来型の高校卒業認定、大学入試では、漢字も書けず文章も書けず人と議論することも出来ず、中学レベルの英語や数学もわからない学生をはねることが出来ない。高検はこうした学生に最低限の学習を促し、高校卒業の信用を回復するためのものであり、かなりの可能性で導入される見込みが高いと私は考えている。これは「ゆとり」の傾向に、むしろ歯止めをかけるための制度なのだ。
取り上げるに値する修正案としては、 「高校卒業を高検ではなく卒業論文で認定してはどうか。このような方法でも学校格差は十分に解消されるだろう」
これは、高検か卒論かの二者択一の問題ではないだろう。両方やったほうが良いのではないか。高検で一定の学力を保持しながら、卒論を導入することで高校の指導の特色が出る、高校での教師と生徒の連帯が強まる、学習の動機づけがなされる、作文能力がつく、大学での研究活動の下地づくりなど、多くのメリットが得られる。しかし、制度改革としては、卒論を義務づけることは無理かもしれない。ある程度のレベルの学生にとっては上述のメリットがあるが、全ての高校生にそれを望むことは出来るだろうか。個別の高校に高検以外の卒業認定のプラスアルファの余地を残す。それによって各高校のカラーが出る、という程度までしか、制度としては決められないだろう。
「大学での研究に堪えられるよう高検のレベルは高くするべき。あるいは高検のほかに大学入学資格試験を設ける。その場合、高検が基礎教科のみの基礎的レベルの理解を問うのに対し、大学入学資格試験は、その大学で前提として要求される科目・学力を問うものとする」
大学入学での混雑現象緩和策としては、奨学金制度の充実だけでは不十分と考えている人が多い。大学入学資格試験は必要かもしれない。欧米では大学での研究が可能かどうかを計るための各種の試験が行われている。
「研修型の入試。高検に早々と合格した高校生は、実際にその大学の授業を受け、試験、受験生同士の討論、面接を経て、その総合成績で合否を判定されるようにする。合格ならそのまま単位を認定されて、飛び入学をする」
なかなか面白いが、全ての入学希望者にこの方法で対応するのは難しい。「飛び入学」希望者のための限定的措置としてなら可能である。
「高検導入をしなくても、暗記物の入試問題をなくすよう指導すれば、受験は理解力と応用力を中心としたものになるので、詰め込み式の弊害はなくなる。そのかわり、いい意味での競争が残る」
これは即効性のある具体的な提案だ。なぜこのような介入が、いままでになされていないのだろう。しかしこれを徹底しても、先に述べたように大学全入時代には、教授たちはどうしようもない論述答案を何千と採点し、悔しい思いをしながら、大学経営のために仕方なく入学を許可しなければならないという事態に直面させられるだろう。
大学について 特定大学への集中の緩和については次のような有力な提案が出されている。 「他大学の授業も自由に取れ、単位が認定されるようにする。そうなれば、どの大学に在籍していても大差ないので混雑現象も緩和される。ただし、人気授業に受講希望者が集中した場合は、当該大学に在籍する学生を優先させる」
「衛星放送やインターネットを利用した通信学校の充実。それによって、より多くの学生を受け入れることが可能になる」
弱者救済策 この提言が「ゆとり」の方向性に沿ったものではないということを正しく見抜いた少数の人たちのなかから、弱者救済のための提案が出された。
「高検とキックアウト制が導入されると、高卒大学中退者が増える。その受け皿として、各種の職業に直結した専門学校の強化を図る。また、高検に合格できない者についても、何らかの救済策が必要だ」
最後の一文については、以下のものがある。 「大学につながるような高等教育を目指す高校と、小中の復習をして高検合格を目指す高校と、職業上必要な技術を学べる高校とに分ける」 「働きながら高検を受けることが出来るよう、助成金のある高検講座を設ける」
塾・フリースクールについて 「高検が導入され、中学や高校の授業への出席が必ずしも必要でなくなると、学校の代替機関として、塾やフリー・スクールへの依存度が高まる。これらを公的に支援し、教育機関として認定してゆく必要がある。それと同時に、貧富の差が、受けられる教育の質を左右しないよう、公立の学校の中に塾に匹敵するレベルの教育を行える部門を設け、実際に指導力のある塾講師を非常勤講師として採用する。」
後者については、教員資格の問題がからんでくる。しかし、あくまで公的教育期間内での補習コースと位置づければ、可能であろう。だが、それよりも、飛び級を認めてしまえば出来る生徒は上級クラスを受講すればよいので、塾に依存する必要がなくなる。塾への依存度を低くするためには、クラス分けと飛び級を設けてやればよいのである。
「高校での大幅な選択制導入。教科別のクラス、学年も関係なくし、飛び級を可能にする。」
このことについて私の提案を補足しよう。授業中で、何回か口にしているが、語学学校の方式にならって科目別に1タームごとに学習ステップを設け、そのステップの目標を達成できなければ再受講とし、達成できれば次のステップに勧め、余裕のある者は自習を勧め、飛び級試験を受けてさらに上のステップに進めるようにする。これを「多元的クラス分け」と呼んでおこう。なお、進度は「ゆとり」を持たせたものにしておき、まじめに授業に参加していればクリアできるようにする。この方法のメリットは、以下の通りである。勉強の出来る生徒がどんどん先に進め、自分の能力を伸ばせる、学力低下問題に対応できる、出来ない生徒もよっぽどさぼらなければステップを上れるので劣等感を感じずにすむ、自分の達成度が一目瞭然である、教師のほうはステップの進級、再受講、飛び級の奨励のどれかを判断すればよいので細かい成績評価は必要なくなる、各教科でおこなうので自分の得意不得意が分かり、得意な教科をさらに伸ばそうという意識が芽生える、競争原理を温存しつつ競争によるストレスをかなり減らすことが出来る。さらに、学年が上がるにしたがって選択の幅を広げてゆけば、他人との数量的比較よりも、どのような学習をしているかが重要な関心事となる。エリート教育の復活という側面も出てくるが、高齢化少子化社会を経済的に乗り切るためには、少数のエリートに頑張ってもらわなければならない。いわゆる団塊の世代があと10年もすれば定年退職してゆく。時間の余裕はあまりない。 橋爪案はこの多元的クラス分けを導入することによって、その「選択」という理念を十全のものとすることが出来るし、この制度は時代の要請にもかなっている。しかし、かなり大掛かりな改革になる。
教師の問題 橋爪案には教師の問題が欠落している。この点についてはさまざまな提案が出された。 「教師の学生による評価、またそれにとどまらず第三者によっても勤務評定させる」 「教員同士の授業参観」 「教師の研修制度。定期的な学力テストや指導工夫の事例報告と教師間のディスカッション。教師が努力する姿を生徒に見せるべき。それが教師の権威にもなる」 「専門の教師以外にも、地域社会の人々を学外講師として採用する」
これらは、熱心な学校ではすでに部分的に実験的に試みられているだろう。ただ、それがより大々的に勧められるべきだというのである。さらに、
「小中学校での学級担任はそのクラスの生徒の成績評価に関わらず、進路指導・補習・生活指導に専門的にあたり、カウンセラー的役割を果たすようにする」
これは教員を増やさなくても可能なことである。ほかのクラスの生徒は教えたり評価するが、自分が担任となっているクラスについては、学習支援に徹するというもので、学級の少人数化と同時に進めれば有効であろう。学級の少人数化は、少子化が進めば可能である。しかし、お役所は教師の数を減らしたがっているかもしれない。これが改革のための最大の壁となるであろう。
最後にカリキュラムの内容にかかわるものとして 「議論の仕方を小学校から教育すべきだ」。cf. 高校での卒論導入
大学院以降の研究者養成機関では、知識の暗記よりも、知識の創造に重きが置かれる。すなわち、すでにある知識・情報を収集し、整理し、そこに新たな発見を加え、新しい知見として説得的に論じるということである。これを可能なかぎり、早い時期から始められるようにすることで、知識の一方的教示から、学問的実践のなかでの学習へと、勉強の実質を変えることが出来る。それによって、コミュニケーション能力の増進が期待される。また、解答は一つではなく、一つのテーマに対してたようなアプローチがあることも学べるので、他者の意見の尊重につながる。これを特に社会科のなかに大々的に取り入れ、歴史については実際に歴史を書く能力をつけるようにする、地理については政治経済と連動させ発表とディベートを中心とする。いずれは忘れる関連性の薄い知識の暗記に時間を割くのではなく、知識の活用の仕方を体得することに重点を置く。それによって一人ひとりが自分なりの歴史認識と政治感覚を開発してゆく基礎が築かれる。さらに、ごく身近なモラル・ディレンマ、生活の問題、学校の自治に関する討論の機会を設けるようにする。以上は、小中学校において「道徳」の時間を特設するというここ40年の道徳教育の方針に対するアンチテーゼとなる。「道徳」について熟考することは高学年になるほど必要であり、しかもそれは実際的な問題に即していなければならない。広い意味での「社会」学習のなかで、「道徳」を問い直し、「倫理」を探究する場を作ることで、「道徳の教育から学習の倫理へ」(この講義のテーマ)という方向性が具体化されるだろう。
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