エドワード・S・リード著、村田純一他訳『魂から心へ――心理学の誕生』(青土社、2000年)

 「心理学」という言葉を聞いて、一般読者層はどのようなイメージを思い浮かべるであろうか。もっとも多いのは、カウンセリング、心理テストなど、メディアに露出しているものであろう。ところが、アカデミックな心理学の主流は、実験や統計的調査法に依拠する世俗的な科学主義である。一般人が漠然と思い浮かべる「心の世界の神秘」を、むしろ脱神秘化するのが、職業的な心理学者の仕事なのである。
 本書は、このようなアカデミックな心理学の起源が、実は宗教的なものにあったということを明らかにしている。フロイトやユングなど臨床系の心理学と宗教との関わりを論じた本は多いが、実証系の心理学の宗教的起源を論じたものは類書がない。心理学の教科書をひも解いても、申し訳程度にアリストテレスを紹介したあとは、一挙に実験心理学のヴントに飛んでしまう。間に挟まれたキリスト教は、蚊帳の外である。それに対して、著者は、心理学の別のストーリーを提示する(以下の紹介は、評者による補足も含む)。
 デカルトの心身二元論は近世以後の哲学・心理学に多大な影響を与えたが、この立場をとると、当然のことながら、心と身体の連関はどのようになっているかということが問題になる。しかし、魂と肉体を峻別するなら、どこまで行っても両者のつながりは見いだせない。「私は考える」という意識、あるいは身体的感覚から、実体としての魂(霊魂)にアプローチすることはできないとしたのはカントであり、スコットランド「常識」哲学のトマス・リードであった。
 それに対して、二元論を放棄するかたちでの回答が、唯物論とスピリチュアリズム(唯心論)から出てくる。エラズマス・ダーウィンは、身体から分離している実体としての魂ではなく、身体のなかに分散している心という考えを打ちだし、唯物論として攻撃された。というのも、この考えに従えば、心は身体の単なる随伴反応になってしまい、魂なるものは存在せず、それゆえ神を考える必要もなくなるからである。
 他方、流体エーテル論は、精神的なもの(霊的なもの)が宇宙に遍満している、すなわち物質にも身体にも遍満していると考える。この時期は、ちょうど物理学における磁気・電気の発見期にあたり、電磁気と精神的なものとの関わりに期待が寄せられる。また、スピリチュアリズムは、神から自立した霊魂を想定し、霊媒を通じて交流しようとした。この二つは、いずれも催眠トランス状態への注目から、精神医学を経由して、フロイトやユングの臨床心理学に流れ込む潮流となる。この意味での心理学の宗教的起源は、他書ですでに論じられているところであるが、しかし本書の主題ではない。
 唯物論やスピリチュアリズムは、心的なものを説明するのに、どちらも一神教の神を必要としない。そのため、伝統的形而上学の心理学者たちにとっては容認しがたいものである。だが、彼らの多くは宗教的には頑迷ではなく、「リベラル」なプロテスタントであった。それゆえ、当時台頭しつつあった科学的知見と宗教的な魂の存在とを、どうにかして両立させようと苦心することになる。そこで登場するのが、脳と神経を、魂と身体の媒介項として立てるという考えである。J・ミュラーの生理学は、心を脳に位置づけ、物質と独立の心的エネルギーを想定するものであった。ミュラーの弟子たち(たとえばヘルムホルツ)の精神物理学は、物理的エネルギーと心的エネルギーの変換の問題を実験的に探究した。これがやがてヴントの実験心理学に結実してゆく。ヴントにおいても、まだ形而上学的な要素は存在するが、時代はすでに19世紀末から20世紀初頭にさしかかっている。ヴントの実験室創設以後、それまでの心理学の形而上学的要素は継承されず、方法だけが継承される。
 結局、心と身体の関連を調べているうちに、心を物理的・生理的基礎に還元して説明するような科学的心理学が成立することになる。だが、脳や神経の機能を心の機能と同一視する心理学は、必ずしも実体としての魂が存在する可能性を否定するものではない。魂の存在に関しては、不可知論の立場をとることで、私的信仰の余地は残される。かくして、形而上学的には非唯物論の可能性を残しつつ、方法論的には唯物論というかたちで現代心理学が成立する。以後、実体としての「魂」は論じられなくなり、感覚を処理する主体としての「心」が残る。著者は現代心理学の学説史には足を踏み入れていないが、その後の道行きは明々白々である。行動主義心理学は、方法論的唯物論をさらに徹底させ、物理的刺激とそれに対する反応の連関を調査する。認知心理学は、その間に情報処理過程を想定し、その過程を探究する。しかし、心身二元論、大脳局在論、感覚的刺激を処理する心という発想は、連続性がある。こうして、近現代の主流派心理学はキリスト教形而上学のリベラルな世俗化バージョンであるということが明かされる。
 著者は、新しい心理学説史を切り開くだけでなく、自身は新しい心理学をも切り開いている。それはJ・ギブソンの生態学的心理学の流れを引き継ぐもので、感覚的データを処理するプログラムとしての心ではなく、行為するなかで環境から必要な情報を手に入れる身体性を含んだ魂を扱うものである。このような新しい心理学についての主張は著者の『アフォーダンスの心理学』(新曜社)に詳しい。本書ではその歴史的先駆けとして、エラズマス・ダーウィンの「分散された魂」、チャールズ・ダーウィンの進化論、ジェイムズのプラグマティズムの心理学が評価される。身体に分散された世界内在的で多元的な魂の心理学が展望されることになるだろう。そして、それはジェイムズと同様に、従来の心理学が切り捨ててきた宗教的経験を、生きられた具体的な経験として考察するものだと示唆されている。しかしながら、本書ではジェイムズの宗教論について十分な考察がなされておらず、生態学的心理学の宗教論がどのようなものになるかも分からない。著者は97年に早世しており、この問題がこれ以上掘り下げられないのは、まことに残念なことである。
(堀江宗正)

フィリップ・リーフ著(宮武昭・薗田美和子訳)『フロイト――モラリストの精神』(誠信書房、1999年)

 本書は、長らく邦訳の待たれていたフロイト研究書の古典である(原著は1959年)。現在読んでもまったく古さを感じさせない含蓄にとんだ書物であり、フロイトについて深く知りたいと思うものにとっては必読書である。
 しかし、本書はフロイト思想の概説書にとどまらない問題提起の書でもある。フロイト以後の心理療法の隆盛は、新しい人間像の誕生を示すものであった。それは「心理的人間」とでも呼べるようなものである。この新人類は公的生活よりもその裏にある感情生活に重きを置き、満足と不満足を計算し、自らの情動のバランスをとり、パーソナリティを統御しようとする練達のエゴイストである。彼は、心の内面への洞察力を理想とする。言うなれば、反省による救済という東洋的理想を掲げる。外的権威の提示する規範にのっとって善であろうとするよりも、自らの内面に耳を傾け、自己の欺瞞性を払拭し、矛盾なき人格であろうとする。彼は道徳的ではないが、実直の倫理の実践者である。
 このような「心理的人間」の前には、古典古代の政治的人間、中世の宗教的人間、初期近代の経済的人間があった。それぞれ、理性、良心、自由といったものを理想としていたが、心理的人間はこれらのものに充足することが不可能であることを知っている。人間は理性的ならざるものにほんろうされ、かたくなな良心によって病的になり、自由に利益を追求すれば飽くところがない。結局、人間は決まりきった解答によっては満たされない。ある手段によって治癒されたと思っても、それは新たな疾患となる。フロイトはこのことを教えてくれた。しかし、そのようにして続いてゆく終わりなき自己洞察こそ、人間が人間らしく生きるために欠かせないものなのである。
 かくして、フロイトはポスト宗教のモラリスト――人間の心の観察者――として位置づけられる。彼は20世紀の心理的人間の理想的モデルとなった。20世紀も終わりに近づいてようやくと言うべきか、今日の思想は、こうした宗教以後の人間像の吟味に本腰を入れて取り掛かりつつある。本書はその先駆けである。
(堀江宗正)

A・ミンデル『紛争の心理学――融合の炎のワーク』(講談社、2001年)

 著者ミンデルは、もともとユング派として出発し、プロセス指向心理学という独自の流れを築き、トランスパーソナル心理学の分野でも注目を集めつつある人物である。ここ1〜2年のあいだに多くの著作が邦訳されている(特集「ユング・ブームの終焉?――アーノルド・ミンデルのPOP」を参照)。
 ユング派といえば、個人の内的変容を目指し、政治的なものには首を突っ込まないというイメージがある。しかし、著者は、ドリームワークなどにとどまらず、自身のマイノリティとしての体験(詳しく書かれていないが)から、民族紛争や人種差別、同性愛をめぐる問題など、人間関係の紛争や対立に関するグループワークを積極的に実践してきた。「ワールドワーク」と呼ばれるこの興味深い実践は、しかしながら、これまで日本ではあまり紹介されていなかった。それだけに本書の出版には注目が集まる、やや難し目に分類されるであろう本書を、新書サイズで翻訳しようというところに、出版サイドの意気込みが感じられる。
 著者は、対立や紛争のプロセスを次のように図式化する。まず、自覚されないマジョリティの「ランク」(特権)が、マイノリティによる復讐心をかき立て、対立を引き起こす。マジョリティ側はこの対立を解決しようとするのだが、この努力が、かえってマイノリティを紛争の主犯に仕立て上げ、復讐心の表出を抑圧し、マイノリティを周縁的存在に位置づける。紛争や対立を回避しようとする「平和」指向が、マジョリティのランクの隠蔽と否認につながり、結果としてマイノリティ側のやり場のない憎悪をかき立てる。
 それに対して、著者はグループワークという場の中で、むしろ対立を浮き上がらせようとする。ファシリテーターは、それを単なる対立感情の再演に終わらせるのではなく、言動の背後に横たわる感情やその背景についての「自覚」にまで深めてゆく。そのために、プロセスの収拾を付けようとするのではなく、プロセスに注意を喚起し、その動きを見守るという態度を育む。やがて、それまで自覚されていなかった互いの感情の自覚と相互承認を通じて、コミュニティの感覚が生まれてゆく。
 本書にはこうしたワールドワークの例がいくつかあげられている。長くなるが一例を挙げよう。1990年、著者は旧ソ連の平和委員会に招かれた。そこには、コーカサス山脈地域の各国からの代表団が参加していた。彼らは、ソ連の支配から解放されて以来、凄惨な闘争を繰り広げていた。話し合いの機会が持てたことへの参加者の期待も、はじめは表出された。しかし、外側にいたKGBのメンバーの厳しい発言で、期待は冷え込む。西洋の気を引くための会議に過ぎない、問題解決のための話し合いではない、といわれる。彼らは、大人数の公開討論会に慣れておらず、声明の出し合いだけのコミュニケーションに慣れている人々だった。著者は、緊張を和らげるために、床の上に座ることを提案する。彼らも、次第に、本音を話しはじめる。しばらく話が進むうちに、著者は、もっとも問題になるはずの、テロリストと独裁者の存在が、話題にのぼってこないことに注意を喚起する。そこで、テロリストと独裁者の役を演じる即興劇を提案。しかし、参加者は、そんな深刻な劇はできないと嫌がる。ところが、何人かの人が即興劇をやりはじめる。中央委員会とテロリストの即興対話がはじまった。互いに、脅しあい、緊張の場面が訪れる。一同は凍りつく。するとテロリスト役が、今度は一転してモスクワ共産党のボスになり、「ソビエト中央委員会の命令に従え」とさけぶ。それを聞いて人々は和みはじめる。代表者の多くがテロリストの役に加わり、頑固で傲慢な独裁者を担ぎ上げ、場外に出してしまう。一同大爆笑。やがて、飢えている市民という新しい役割を演じる人が出てくる。泣き叫び、飢えて苦しむ状況が演じられる。テロリストだった人たちは、飢えている市民を看護し、食料を与える役に転じる。そこで、互いに戦ってきた代表団の人々は、自分たちの共通の動機である苦痛や苦しみを思い出す。その後三日のうちに彼らの間で平和と自由と交渉のための宣言が採択された。
 他には、アイルランドでのテロリストたちとのワーク、ゲイ・レズビアンと原理主義者たちとのワークが取りあげられている。
 著者が目指すのは、「深層民主主義」である。従来の民主主義は結局は多数派の独裁でしかなかった。世界的に見れば民主主義国は、それ以外の地域を独裁的に支配している。現代世界の弱者は、強大な「民主主義」国家群に対して「戦争」を挑むこともできず、テロリズムという手段に訴えるしかない。テロリズムは、均衡を取り戻そうとするプロセスであり、隠されたランクの所在を告げる。それに注意を向け、自覚することを通じて、自覚の革命と深層民主主義が実現される。
 評者の言葉で言い直すと、深層民主主義とは、多数派の独裁という民主主義のパラドクスへの絶えざる自覚と、少数派の声をくみ取ることによって、民主主義を深めようとする(否定するのでも乗り越えるのでもなく)試みであるといえるだろう。もし、「深層民主主義」が一つのドグマやスローガンになってしまえば、それは著者の勧める「ワールドワーク」に興味を示すもののみのサークル活動に終わってしまう。これまでのさまざまな対話の試みが、結局は、「寛容」な人々の社交的な集まりに変容してきたことを想起せねばなるまい。
 もちろん、著者らの試みを、「楽観的すぎる」とか「具体的にどうすればよいのか分からない」と退けることも、あまりにありきたりである。実のところ、本書は、「ある方法に従えば対立・紛争は解決できる」という態度に真っ向から反対する書なのだから。
(堀江宗正)

M・スコット・ペック著、森英明訳『平気でうそをつく人たち――虚偽と邪悪の心理学』(草思社、1996年)

 本書は、日本では昨年12月に出版され、今年8月の時点で第32刷を数えており、文字通り「ベストセラー」となった本である。帯にはこう書いてある。「世の中には"邪悪な人間"がいる。……「人間の悪」の本質に迫るスリリングな書。全米ベストセラー!」。これを見て、「ああまた興味本位の犯罪心理の本か」と思った方も多いだろう。そして、どうしてこの欄で紹介するのか、いぶかしがる人も多いだろう。
 しかし、そのパッケージングとは対照的に、内容は極めて真摯なものである。本書は、これまで宗教の問題とされてきた悪への科学的(心理学的)アプローチを目指すものであり、科学と宗教の再統合という趨勢を念頭においた野心的試みである。叙述は一般向けだが、専門家にも示唆的な個所が多い。
 著者がもっとも影響を受けているのは、日本でも人気の高い精神分析家E・フロムである。理論的議論はさっと流している感があるが、評者が見たところ、フロイトの「無意識」(あるいは「死の欲動」概念も)、ユングの「影」、フロムの「悪性のナルシシズム」などといった、理論装置が巧妙に整合的に摂取され、本書のバックボーンとなっているようだ。
 本書の大部分は、丹念な症例の記述にさかれている。小説も手掛けている著者だけに、患者とのやり取り、生身の人間としてのセラピストの気持ちの揺れ動きなどが、生き生きと描かれており、つい引き込まれてしまう。
 そこで扱われているのは、家族の間などで繰り広げられる身近な悪であり、犯罪者ではなくごく普通の人間のもっている悪である。著者によれば、悪の心理学が対象とするのは、悪い行為そのものというよりは、むしろ心の傾向性、人格特性としての悪である。邪悪性とは、悪性のナルシシズム、ナルシシズム的人格障害のひとつとして治療されるべきものなのである。
 邪悪な人間は、完全性という自己像に執着し、神や善などという自分より高いものに服従することを拒否し、自由意志を貫こうとする。しかし、自由意志を貫くことで、邪悪な人間はかえって悪魔に服従してしまう。愛を装い、道徳的であるよう見せかけ、自分自身は善人と信じておきながら、実質的な責任を回避して他人に転嫁し(悪の投影)、実際に相手が悪いのだと信じ込み、そうして他人を犠牲にして自分の完全性を守る。この過程で、邪悪な人間は、他人と自分とに対して限りなく欺瞞・うそを重ねてゆくのである。
 圧巻なのは、第5章「集団の悪について」である。そこでは、アメリカ軍のある部隊がベトナムで犯した非戦闘員虐殺事件が分析される。そしてそれを素材として、個人の悪から社会の悪、国家の悪へと、各レベルでの悪がどのように連動しているかが、鮮やかに分析されている。詳細な紹介は省くが、分析のキーワードは、専門化による良心の分散化と怠惰とナルシシズムである。
 最終章では、悪の心理学が悪のために利用される危険性と、悪の心理学の方法は愛であるという結論がなされる。他人に悪のレッテルを貼り、悪を粉砕し破壊しようとするものは、みずからも悪となる。悪を封じ込めるのは愛のみである。悪そのものを愛するのは悪であるが、邪悪な人間を愛するということは、それがほとんど不可能に思えても、心理療法家のなすべき仕事である。その場合の愛とは、寛容と非寛容、受容と要求、柔軟性と厳格性の中間にある創造的緊張の道であり、相手に対するほとんど神に近い共感である。「コミュニティー活性化の運動に努める仏教に共感的なクリスチャン」という著者の信念が感じとられる。
 大衆受けする心理学者の思想の多くは、個人主義的であったり、根本的には功利主義的であったりする。このことを考えると、ナルシシズム批判、透徹した社会分析、徹底的な倫理性を特徴とする本書は、希有の存在といわねばなるまい。そのような書がベストセラーになったことには、驚きと喜びを禁じ得ない。(堀江宗正)

河合隼雄『子どもと悪』(岩波書店、1997年)

 ここ数年来、青少年の犯罪の増加と凶悪化が目立っている。もちろん、特殊な事件を一般化して、現代の「若者」は暴力的になったと言うことはできない。他方では、「やさしさ」こそが現代の若者を解くキーワードであるとする声もある。
 実情はおそらく、こうした「若者」論自体が成り立ちにくいほど現代の青少年は多様化しているということなのだろう。多様な現象の表層をなぞって「今の若いのは……」式の世代論を振りかざすことは不毛である。それよりも、噴出するそれぞれの問題を人間の普遍的な問題に通じる個別の門としてとらえ、すなわち、世代や境遇を超えて自分自身にもかかわってくる問題としてとらえかえし、共に考え抜くという姿勢こそが求められるであろう。
 「子どもの悪」をテーマとする本書は、上のような事件を背景に考えるとタイムリーな話題を扱っているとも言えるが、「悪」という思想史上の大問題に新しい光を投げ掛けており、しかも読む者に自分自身の「悪」を振り返るよううながすような、ある種の迫力を持っている。とはいえ、本書は決して重苦しさを感じさせるものではない。そこには、ぐいぐい引きつけるような面白さもある。豊富な事例によって常識を軽々と覆してゆく軽妙な語り口には、第一線の臨床心理学者としての英知もさることながら、著述家としての並々ならぬ力量が感じられる。
 たとえば、著者は「創造的な人たち」との対談・インタビューから、これらの人たちの思春期における「悪」に着目する。彼(女)らは決して「よい子」ではなかった。たとえば鶴見俊輔氏の口からは、不登校、盗み、いじめ、うそ、孤独、反抗などに彩られた「不良少年」の思春期が語られている。
 こうした事例(後半ではさまざまな物語作品)を通じて、著者は、悪を自立の契機としてとらえかえそうとする。子どもの犯す「悪」を、自立の過程で起こる「反抗」、日本の集団主義の風土のなかでの「個性」の発揮として裏面から評価するのである。本書では、そのような悪の再評価が、常識を覆すような啓発的な仕方で次々と展開される。たとえば、子どもがすぐにばれるような盗みを働くのは、成長にとって何か必要不可欠のものを得ようとしていることを示すメッセージである場合がある。また、秘密を持つことは親からの自立を意味する(その場合、親が秘密を許容できないのは子どもが自立して離れていくのが怖いからであり、そして子どもの自立を恐れるのは親が自分に自信がないからである)。その他、暴力、うそ、性、いじめなどにおける「悪」が、同じような仕方で、成長と自立の契機としてとらえかえされる。
 もちろん、著者は悪を推奨しているのではない。悪が一定の破壊の度合いを超えると取り返しのつかないものになることを著者は強調する。だが、このことを知っておくためにも、やはり子どもの時に何らかの深い根源悪を体験し、その怖さを知り、二度とやらないと決心を硬くすることが必要である。そして、そのとき大人がどのように対処したかが、その子どもの人生にとって大きな意味を持つ。悪を犯した者を厳しく叱責しながら、にもかかわらず愛をもって関係の回復をはかること、しかも根源悪の体験をした先輩として、自分自身も人間としての限界を持った存在であるという自覚からそれをおこなうことが重要である。根源悪そのものは厳しく拒否しなければならないが、悪を犯した人間を排除してはならない。とはいえ、子どもの「悪」について理解するということは、決して甘くなることを意味しない。理解を深めれば深めるほど、厳しさの必要が認識されてくるので、かえって厳しさも筋金入りになってくるのである(もちろん、この厳しさは、子どもを悪人として排除したり押さえつける方向に働くような厳しさではない)。
 著者がユング派の心理学者であることを考えれば、人格の急激な変容における破壊と創造(死と再生)、自分の「影」の投影としての他人の悪などというユング的発想が本書の基礎にあることは想像に難くない。だが、いわゆる「悪」を大胆に相対化しながらも、決して相対主義に陥らず、むしろ現代的な倫理のあり方について深い洞察を与えてくれる本書は、狭義のユング思想の紹介書などではない。それは、「悪」という普遍的な問いに対する、現代の日本という文脈からの誠実で適切な応答である。評者にとっては何回も読み直す本となるだろう。
(堀江宗正)

森岡正芳『こころの生態学bb臨床人間科学のすすめ』朱鷺書房、1995年

 ページをめくると著者が語りかけてくる。ここでは、著者と対話しながら、みずからの人との接し方や言葉の発し方について振り返る機会がもたれる。他方、やさしい「です」「ます」体の口調とは対照的に、巻末の参考文献表を見ると、本書には、臨床心理学のみならず哲学・思想の最新の成果が盛り込まれていることがわかる。難解な哲学的認識論が、これほどまでにやさしく(決して単に「易しく」ではない)語られるものなのかと、正直言って驚きを禁じえない。
 「臨床」とは、人と接する「現場」のことである。つまり、互いに相手を理解し成長しあうことを目指す場である。そこでは、相手を冷静に客観的に観察するというよりも、観察者自身が自分の主観を言葉にしながら、それを相手との対話のなかで吟味し修正してゆく、という接近方法がとられる。対話的関係のなかで、それまで知られることのなかった経験の意味が開示されてゆく。話しているうちに思いもかけないことを語っている自分にふと気づくようなこと、そんな経験は誰にでもあるだろう。このとき、相手と対話することは、未知の自己と対話することと同じである。そこに開かれるのは、「対話的覚醒」の世界である。自分の内側と外側とで言葉が生き生きと形成されていくよう環境に配慮すること、このような営みを著者は「心のエコロジー(生態学)」と呼んでいる。
 「あとがき」にもあるように、著者の願いは、この本が、広くカウンセリングの実践や人間関係に関する専門職にたずさわっている人の目に触れることである。宗教学を専攻したのちに臨床心理学の道に進んだ著者だけに、本書は、いわゆる「宗教」を中心的にとりあつかっているわけではないものの「宗教的」なものに関心を寄せる読者に多くの示唆を与えてくれる本である。
 現代は失語の時代である、と著者は診断する。生活は便利になり、買い物をするにしても人と話す必要がなくなった。ごく内輪の仲間とはあたりかまわず冗舌になるのに、なれない人の前では挨拶もできない。不登校や大学生の「一語主義」などが、そのような「失語の時代」の現れとしてとりあげられているが、「引きこもり」は他の世代においても現れているということである。家庭や職場、あるいは信仰共同体や学問共同体などさまざまな現場(フィールド)で、対話的覚醒が可能となるよう環境に心を配ること、またそうした場所づくりに力を傾けることが、いま求められているのだろう。(堀江宗正)