カール・ヤスパース著(林田新二監訳)『哲学的信仰』(理想社1998年)
哲学的信仰とは魅力的な言葉だ。少なくとも評者のような、特定の宗教的教義を排他的に信奉しているわけではないが、ある種の真摯な信仰のあり方に共感を覚える研究者にとっては。あるいは、特定の信仰のなかにあって、なお他の信仰にも開かれたい、耳を傾けたいと思っている探究者にとっては。
現代の極めて重要な宗教哲学者であるリクールは、プロテスタントの信仰にありながら、神学者としてではなく哲学者として発言するその立場を、しばしば「哲学的信仰」という言葉でもって表現している。この言葉の出所は、どこにあるのか。どうもヤスパースの『哲学的信仰』にあるらしい。それが明晰な訳文でもってようやく日本の読者に届けられた。簡潔だが密度が濃く内容の豊かなテクストのなかで、「哲学的信仰」の立場が力強く説かれている。
ヤスパースは、一方に信仰する主観があって、他方に信仰されるべき客観的教義があるという従来の信仰観を退ける。信仰とは普遍妥当的な客観的言表ではない。信仰とは、私がそれに基づいて生きる真理であり、私を導く確信である。またそれは、主観的な直接的体験に尽きるものではない。伝承に媒介されながら、根源に立ち返って存在を覚知することである。教義中心でもなければ体験中心でもないこのような信仰は、歴史的に媒介された実践的確信であり、徹底的な開放性をその特徴とする。主観主義にもならず客観主義にもならず、主客が分裂しつつ関わり合うときに主客を包み込みながらその関わりを可能とするもの――包括者――によって導かれながら充実してゆく生が、信仰である。
信仰をこのような本来的なあり方に連れ戻し、固定化しないよう運動のなかに保持するためには、特別な哲学的思考過程が必要である。それは、真理がどこかに仕上がったかたちで存在することはないと知りながら、真理の源泉をそのつど新たな形で掘り起こそうとし、有限なものを手がかりに無限なるものを覚知しようとし、無知の状態にありながら非対象的な知の新しいあり方を見いだしてゆく。その成果は、ここ三千年の東洋と西洋の哲学史のなかに見いだされる。信仰内容を何一つ示しはしないが信仰内容が出現するための空間を開くこのような哲学的実践は、メタレベルの信仰とでも言うべきものである。それをヤスパースは、哲学的信仰と呼ぶ。それは、信仰命題を知に閉じこめず、かといって不知のまま放置したりもせず、われわれを生かしめる信仰の象徴を伝承のなかで再活性化するような解釈学へと赴くだろう。
哲学的信仰の理性は、このような、開かれたものへの情熱である。そのため、神的なものへの信仰に閉じこもることによって、他の人間から遠ざかるということを、みずからに許さない。歴史性の深みに到達することによって存在への愛が湧いてくるのである。理解し信頼しながら結びつくことが出来る、世界のなかのかけがえのない現実である他者との「交わり」こそが、真理の探求を可能にする。真理は他者から孤立すれば見失われ、固定的命題のなかに封じ込めれば失われる。真理は他者との共同の探求のなかで開示される。哲学的信仰は、ともに生きともに語り合う可能性を信じ、そして他者との共同を通じて真理への道を見いだし、互いに本来的な自己になるという可能性を信じることである。
哲学は、もちろん、いわゆる宗教的信仰と対立することもある。しかし、哲学的信仰は、宗教的信仰の矛盾する両極のなかに潜む真理を救い出そうとするのであり、それによって宗教的信仰の根源からの革新を、直接的に引き起こそうとせずに、ひっそりと準備するのである。また現代の無神論の諸形態、科学への迷信やニヒリズムと対決しながら、徹底的にそれを通り抜けることで、鍛えられた信仰を再獲得しようとするのである。
こうした姿勢は、ポスト「宗教」、ポスト世俗主義の状況を生きる現代人の心をもとらえるだろう。それを、生きられた宗教の現場からほど遠い思弁として片づけずに、そのメッセージの重大性をくみ取ることによって、信仰の再生が実のあるものとなる。(堀江宗正)
ポール・リクール『聖書解釈学』(久米博・佐々木啓訳)ヨルダン社、1995年
著者は、現象学・解釈学などの分野でめざましい業績を残している現代フランス哲学の第一人者である。その著書で宗教をメインにとりあげたものは今の所ないが、論文では宗教哲学に関してかなりの数の仕事を残しており、アメリカの神学・宗教哲学界にも強い影響力を持っている。本書には、それらの論考のなかでもとくに聖書解釈学にかかわるものが収められている(訳者による編)。
そのテクストの密度の濃さは、訳文の難解さとともに定評があるが、ひとつひとつの論文を丹念に読みとくことによって得られる糧は大きい。本書は三部構成だが、第一部にはリクールの宗教思想への導入的役割を果たす論文、第二部には密度の濃い理論的研究、第三部には長編の論文「聖書解釈学」が収められている。ここでは、本書から読みとることのできるリクールの宗教思想の特徴を、大きく二つだけあげておこう。
ひとつは、言語学ならびに言語哲学・テクスト理論の成果を、聖書解釈学ひいては神学に取り入れようとする点である。とくに、本書に収められている諸論稿と同時期に発表された『生きた隠喩』との関連は顕著である。ところで、宗教の本質は語りえぬものにこそあるのではないか、という反論が寄せられるかもしれない。しかしそれは、隠しつつあらわにするという言語の、隠蔽的側面あるいは客観化的側面しかとらえていない。言葉は偶像であるばかりでなく運び手でもある。想像力でさえ言語を介さなくては働かない、いや想像力こそ言語活動のすぐれた詩的(制作的、生産的)次元なのである。(ほかにも「テクストを前にしての自己理解」、「宗教的言語の特殊性」など重要な論点があるが、ここでは割愛する。)
ふたつめの特徴としては、以上のような営みの根底にあるリクール自身の立場、すなわち神学でもなく反宗教的イデオロギーでもないという第三の立場があげられる。本書において、それはさまざまなかたちで現れている。神学とは区別される「哲学」という立場、マルクス、ニーチェ、フロイトらの懐疑主義的宗教批判を経たうえでの「第二の信」、そしてポスト・ヘーゲル的なカントの再読による道徳主義的宗教批判を経たうえでの「希望の構想力の超越論的探求」など。とくに三番目の立場に、リクール解釈学の実践的契機を読みとることができるだろう。解釈学の課題は、テクストの世界から、実存にとってそのテクストが有するであろう内在的「企図」や、新しい存在様式の間接的「提起」を解き放ち、そしてそれを倫理学に手渡すことにこそある。それは、宗教的な象徴・物語の道徳的寓意への還元ではなく、解釈学と倫理学との実り多い対話につながる(360頁)。
私見によれば、応用倫理の問題に関心をもつ宗教的知識人が学ぶべきヒントが、ここにはある。それは、宗教の内在的批判と現代的変容の鍵であり、宗教の「批評」が可能になるような文化的土壌を形成するための鍵である。(堀江宗正)
ル・モンド・エディション編『『ル・モンド』インタビュー集 哲学・科学・宗教』(丸岡高弘・浜名優美訳)産業図書、1995年。
本書は、フランスの『ル・モンド』誌に掲載されたインタビューを編集したものである。タイトルにあるように、哲学、科学、宗教などといったさまざまな分野を横断的に活躍する25人の知識人が、学問と社会の関係、科学技術と生命倫理・地球環境、そして宗教対立など、現代の諸問題について鋭い発言をおこなっている。そのすべてを紹介することはできないが、ここでは主に宗教に関連する発言をピック・アップしてみよう。
第3章「宗教を考える」の後半部分では、宗教対立問題が大きな焦点となっている。
フランスのアラブ研究者ジル・ケペルは、民主主義、政教分離、世俗主義の立場から、現代イスラムの政治的状況を紹介している。そのインタビューの標題は「戦闘的イスラム主義が新たな悪の帝国となりつつある」である。英米圏で活躍する近東史家バーナード・ルイスは、歴史を通じて原理主義が成功したことはないとする。権力掌握に失敗するか、あるいは成功したとしても社会問題に解答を与えるのに失敗するかのいずれかであるという。ここには欧米から見た冷徹な分析の目がある。
より当事者に近い環境にいる宗教研究者たちは、また少し違った視点を提供してくれている。アンドレ・シュラキは、ヘブライ語聖書と福音書とコーランをひとりで翻訳するという偉業を成し遂げたイスラエル在住のユダヤ人であり、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の対話の熱心な擁護者である。彼は次のように語る。「それぞれの宗教が自分だけが真理を把握していると主張し、他者を排除したり、自分に合流するよう強制してきたのです。しかし、これこそまさしく聖書が禁じている事柄なのです」(261頁)。ここには、真の意味で原典に返れ、というメッセージが込められているようだ。
また、イスラム思想史家モハメッド・アルクーンによれば、今日のイスラム主義は、古典イスラム思想を参照しないために、コーランの注釈に際しても、それを政治的闘争の武器にしようとしているだけで、その宗教的テクストとしての理解を深めようとしない。近代の哲学・科学思想の普遍的肯定的な成果を取り込みながら、古典イスラム思想の豊かな遺産を批判的に継承しなければならない、そう彼は主張する。過激な原理主義のイメージを強調する西洋のジャーナリストと、逆にイスラム主義のイデオロギーを必要以上に擁護する西洋のイスラム研究者にも、イスラムの古典に目を向けよ、と呼びかける。なぜなら、イスラム社会自身も、実は自分たちの歴史のことを聞きたがっており、豊かな知的・宗教的財産を取り戻したいと思っているのだから。
インド古代史家のロミーラ・タパールによれば、「ヒンドゥー」という言葉が今日のように「宗教」を意味するものとして使われるようになったのは、植民地時代のイギリス人による分割統治以来である。現在、ヒンドゥー教は政治的目的のために悪用されている。急進主義者は汎インド的教会組織を強調するが、そのようなものは存在しない。彼らはイスラム教徒を改宗させようとするが、改宗という考え方はヒンドゥー教にはまったく無縁なものである。
復古を唱える攻撃的な宗教的イデオロギーこそが、逆に、伝統継承の危機の張本人である。このような共通見解が、学識豊かなユダヤ教徒、イスラム教徒、ヒンドゥー教徒のなかから出てきたわけだが、これは日本にいて宗教対立や民族紛争のニュースを聞いているだけでは得られない重要な知見であろう。
以上に紹介したのは、本書で扱われているトピックの一つに過ぎない。第1章「哲学を考える」では、ポール・リクール、エドガール・モラン、リチャード・ローティが、第2章「科学を考える」ではクロード・レヴィ=ストロースが、そして第3章「宗教を考える」でもうえに紹介しなかったオイゲン・ドレーヴァーマン(精神分析家でもあるカトリックの神学者)などが、実に興味深い発言をおこなっている。それらは皆、今日の宗教と社会を考えるうえで有益な視点を与えてくれる。こうした企画は日本の新聞にも見習ってほしいところである。(堀江宗正)
書評に載らなかった情報
ポール・リクール
人間は未来に対しても責任がある。社会は本質的にもろい存在であり、社会が生きながらえるかどうかはわれわれにかかっている。哲学者の仕事は、社会のなかに存在する選択の優先順位と、それを貫く原理とを分析して、社会の全体的な方向付け、包括的選択にかかわることである。
エドガール・モラン
イデオロギーが破綻したからといって極端な懐疑主義に移行しなければならないということはない。神の存在は証明できないが、自分はそれに賭け、そしてその賭けが正当であると主張する、と言ったパスカルにならって、愛や真理などの個人的神や、自由、平等、博愛など世俗的な神について同じことをしなければならない。われわれは救済を希望するよりも、悲劇的希望をもちながら、現代の危機にしかるべく対処しなければならない。「自由、平等、博愛」という世俗的な三位一体のなかで、イデオロギーの破綻した今日もっとも重視すべきは、相対立する自由と平等よりもむしろ博愛である。
リチャード・ローティ
知識人は、社会制度に対して根本的な批判を加えることができるという幻想を、放棄するべきである。左翼はもっと謙虚になるべきである。スローガンのせいで、日常的なほんとうの問題が忘れられてしまった。知識人は、政治に関与する際には、目の前にある現実を直視しなければならない。想像上の未来を待望するより、日常的経験のなかで現れる不正義と闘う手段として理論的考察を用いるべきである。
クロード・レヴィ=ストロース
「知は進歩すれば進歩するほど、なぜ自分がゴールに到達できないのかをますます理解できるようになります。知識がいくらか進歩したという感じを持つたびに、われわれは、それが新たな問題を提起し、次になすべき進歩がいっそう困難になるということに気がつくのです」(149頁)。
オイゲン・ドレーヴァーマン(精神分析家でもあるカトリックの神学者)
「現代人は迷信からさめるとすぐに無神論者になりますが、その責任は教会にあります」(203頁)。福音書の物語が歴史的事実であることにこだわる教会の教義を超え、精神分析の力を借りて、すべての宗教に含まれているシンボルの力を復元しようとする。
ジャン・ドリュモー(宗教史家、カトリックの教会の活動にも参加している)
歴史的調査によれば、罰を与え、復讐する神というイメージが脱キリスト教化の決定的な要因である。
森岡正博『宗教なき時代を生きるために』法蔵館、1996年。
生きることの意味に自然科学は答えてくれない。しかし、それに答えてくれるという宗教を信仰することもできない。結局それを自分自身の目と頭とことばで考え抜かねばならない。それは、自然科学でもなく宗教を信仰することでもない第三の道である。オウム事件を前にして、著者はこのようなスタンスでやってゆくしかないと決意する。
オウムが突きつけた問題とは何か。彼らは生きる意味の追求から目をそらせる社会に反して、それを追求する生き方を選びとった。ところが、それはまた別の<目隠し構造>をもった閉じた共同体の形成に向かい、そしてその失敗を露呈させてしまった。この事件によって問われているのは、「オウムを見てしまったあなたは明日からどう生きるのか」ということである。高みに立ってオウムとそれを生み出した社会を評論するのではなく、自分自身は何を真理と思い、何を本当の自分の姿と思い、何に生きる意味を見いだして毎日を生きてゆくのか、という問いをひとりひとり考えなければならない。それはじっさい孤独な作業だ。その孤独な作業を遂行している者たちがオウムのような閉じた癒しの共同体に向かわないためには、互いに遠くからはげましあい支えあうネットワークが必要だ。
大雑把にまとめるなら本書の主張は以上のようなものであろう。著者の訴えは非常にシンプルかつ力強いものである。しかし、上のような要約めいた紹介ではその質感を十分に伝えることができない。
本書がオウムをめぐる凡百の評論と一線を画するのは、自分だってもしかしたらオウムにはいっていたかもしれないという切迫感であり、オウム事件をもつことになったこの現代日本の時代状況をしっかり見据えてゆこうとする知的誠実さである。それは、著者自身のライフヒストリーを丹念に掘り起こし、徹底的に反省する姿勢に現れている。自然科学を志し、それに失望したこと、オカルト的なものへの興味と神秘体験、気功を実践し医療や環境問題について議論する精神共同体を通り抜けてきたことなど。これらを、著者は勇気をもって告白している。本書で展開しているのは、ほかでもない著者の自己批判であり、そのうえでの現代社会および現代宗教の批判であり、そして、同じ土俵に立つ人々への呼びかけと励ましである。
個人的には、紹介者は、著者の主張のかなりの部分に共感を覚えつつもそのすべてに賛同するものではない。それでも、著者の問いかけに、わたしもまた自分の生きる場所で誠実に答えてゆかねばならないというのが、率直な思いである。(堀江宗正)
上枝美典『「神」という謎――宗教哲学入門』(世界思想社、2000年)
英米の宗教哲学の議論は、日本ではあまり知られていない。というか、日本には京都学派以来、自前の宗教哲学の伝統がつづいているせいか、海外の宗教哲学が、今どのような議論を展開しているのかについての情報が、さほど多くは入ってきていない。そのような状況のなか、英米の分析系の宗教哲学の最新の動向をふまえた研究者が、一般向けの入門書を書いた。画期的といえるだろう。
本書は、大学の講義をそのまま再現したような作りとなっている。章末に「復習問題」と「発展問題」が数題のっているが、これなどは英語圏の大学のテキストのスタイルの踏襲と思われる。大学の教科書風というと、一般読者層には敬遠されそうだが、本書は学生の「実情」に合わせ、必要十分に平易に書かれているので、自分の頭でものを考えようとする姿勢さえあれば、誰でもチャレンジできるだろう。
また、本書で特徴的なのは、宗教をめぐるさまざまなテーマについて、複数の立場を戦わせ、論点の所在を明らかにするという手法である。最終的な結論を避け、読者に熟考を促すスタイルともなっている。
たとえば、まず「宗教など検証できない事柄について論じることは意味がない」という論理実証主義の宗教批判、「宗教は心の弱いものの逃げ場所」という心理学的な宗教批判が取りあげられ、その議論の妥当性が検討されている。おそらく日本の大学生の大半は、宗教に対して、以上の二つの理由から反感を抱いている。まずは、それに対するカウンターパンチを浴びせ、自分の前提を疑うよう促す。おのずから、宗教批判に対する再批判というムードが立ちこめる。以後、「神がこの世界を創造したのならなぜ悪があるのか」、「神の存在論証は可能か」、「証拠がないことを信じてはいけないか、それとも場合によっては信じる正当な理由があるのか」という問題が扱われ、分析哲学に限らない西洋の哲学的宗教論の基本的論点が網羅される。悪の問題についての整理、進化論が実は有神論と必ずしも対立するものではないという指摘、アンセルムスの存在論的論証の洗練、ジェイムズの「信じる意志」の再読などが、評者にとっては興味深かった。
評者も宗教学を講義することがあり、宗教に対する漠然とした反感を学生から感じることが少なくない。その度にもっと深く考えるよう学生に要請するのだが、こうした宗教への感覚的反発に、システマティックに答える機会がなかなかとれず、正直いって対処に苦慮する。そのような学生に紹介する本としては、本書はうってつけといえるかもしれない。「いかがわしい」「うさんくさい」という言葉で代表されるような感覚的な宗教嫌いが、実は思考停止にほかならないことを本書は明らかにしてくれる。
本書について気になる点も、この「宗教批判に対する再批判」というムードに関わってくる。極力公平にさまざまな立場を紹介しようとしているのは分かるのだが、結局どちらかといえば信仰擁護のほうに傾いているような印象を受ける。
たとえば、最後に取りあげられているのは次のような議論である。「証拠がなくても神が存在すると信じることは合理的だ。なぜなら人間には神を認識する能力が備わっているからである。それはこの本が赤いという知識を持つ人が、どうして自分にそんなことが分かるのか分かっている必要がないのと同じ」という改革派認識論の議論である。そして、問題は神を認識する能力が備わっているかどうかだという当たり前の疑問を認めつつも、著者は、少なくともこれを学問的に厳密に否定することは難しいとして終わる。しかし、これでは、今までの複雑な議論、数限りない懐疑論のパターンの渉猟はいったい何だったのか、という気にさせられる。すぐに考えられる反論としては「同様に学問的に厳密に肯定するのも難しい」というものがあげられるだろう。これでは議論は平行線をたどることになる。
また、懐疑論と信仰擁護論の論争は、確かに宗教哲学の歴史を活気づけてはきたものの、それが宗教哲学の基調だと考えてよいのだろうか。懐疑論と擁護論の対決が宗教哲学の一大テーマであったとすると、逆に宗教哲学の限界も見えてくる。そこからこぼれるような宗教哲学の論点としてはどのようなものが考えられるか。そこに、おそらく今後の宗教哲学の方向性が隠されているのではないか。(堀江宗正)
量義治『市民のための哲学入門――神・人間・世界の再構築』(理想社、2000年)
本書は、浦和市立中央公民館主催の市民大学での講義がもとで、比較的平易なデスマス調の文章で書かれた宗教哲学書である。読み進めてゆくと、カント哲学に大きく依拠していること、そしてキリスト教の立場から議論が展開されていることが分かる。以下、簡単に著者の議論を要約しておく。
現代の根本的特徴は無神論、ニヒリズムであり、具体的には、世界大戦、社会主義革命の挫折、資本主義の矛盾、情報革命、寛容問題、無道徳主義が特徴である。神・人間・世界の三位一体は伝統的哲学の構成であるが、これが現代においては崩壊している。哲学史をたどると、古代哲学は世界中心で、中世哲学は神中心、近世哲学および現代哲学は人間中心である。しかし、近世哲学から、三位一体が崩壊し始める。まず神が脱落し(世俗化)、次に人間が退落し(ニヒリズム)、最後に世界が墜落してしまった(環境破壊)。しかし、神は人間と世界の内に、人間は神と世界の内に、世界は神と人間のうちに存在しつつ互いに関係しているという関係内存在なのである。それなのに人間が人間中心主義に走り、逆説的にニヒリズムをもたらしている。
このように著者の問題意識の概略を述べた後で、著者は、哲学史のおさらいをし、世界中心から神中心へ、そして人間中心へという流れを概観する。
さらに、カントの提示した人間の理性の四つの関心である「わたしは何を知ることができるか」「わたしは何をなすべきか」「わたしは何を望むことを許されるか」「人間とは何であるか」という問いに沿って、カントのおさらいをしてゆく。
このカントのおさらいが本書の構成の中でどのような役割を果たしているのかはよく分からない。おそらく著者がもっとも深く依拠するカント哲学を紹介しながら、著者の見解を述べるということが趣旨なのだろう。だがそれは、評者にとっては、やや著者独自のものにすぎるようにおもわれた。たとえば、カントの「定言命法は、わたしの外にある絶対的に命令する実体を前提するのではなくて、わたしの理性のうちにあるそのような実体を前提する」という言葉、「神が存在する、何となれば定言命法があるから」という言葉に依拠して、自律の存在の根拠は神律であり、神律の認識の根拠は自律であるという断言がひきだされる。これはもはや哲学というより、信仰の言葉であろう。いずれにせよ、こうして、神と人間の相互相入という著者の考えが主張される。そしてパスカルに依拠しつつ、新しい神観として、超越的内在神、かつ人格神、かつ生ける神が要求される。このような神は絶対有にして絶対無の神であるとされる。東洋思想では、絶対無の自己限定によって絶対有が成立するので、絶対無にして絶対有の絶対者が想定されるが、これでは絶対無のほうが根源的になってしまうので、(西田哲学の主張とは反して)絶対矛盾の自己同一にはなっていない。したがって、真の絶対者は絶対有にして絶対無であるという「断言」が続く。少なくとも論証が決定的に足りない。
いずれにせよ著者のいう新しい神・人間・世界の三位一体論は、古い三位一体論を崩壊させた自己中心主義を放棄し、かといって他者中心主義にもならず、相互内在する存在者である自己と他者の共生に向かうものとされる。そして、そのためには、自他の交わりを重視して、他者のうちに自己を見、自己のうちに他者を見るようにつとめなければならないと説かれる。
本書は、信仰なき現代社会を憂う良識あるキリスト教知識人の市民に対する説教となっている。著者のいう「市民」とは普遍性を要求する人間のことであるという。それがマイノリティにしてエリートでもあったという日本のクリスチャンの来歴と相まって、ある種のエリート主義を醸し出しているように思われる。評者は、そうめったに出ない、一般向けに書かれた宗教哲学書として、本書を手に取ったのだが、いささか落胆させられることになった。カント哲学への依拠、キリスト教の立場ということが分かるようなタイトルであれば、本書はもっと誠実なものとなったであろう。
いずれにせよ、本書の問題点は、ひとり著者だけの問題でもなく、キリスト教哲学だけの問題でもない。日本の宗教哲学全体の問題点としても考えることは可能であろう。いささか酷評めいた紹介になってしまったが、体系的知識をなるべく平易に伝える熱意のこもった啓蒙書として、宗教哲学に関心のある初学者にとっては、論点の所在を確かめるうえで有益かもしれない。(堀江宗正)