スティーヴン・C・ロウ編著、本田理恵訳『ウィリアム・ジェイムズ入門――賢く生きる哲学』(日本教文社、1998年)

 ウィリアム・ジェイムズは、宗教心理学の古典とも言える『宗教的経験の諸相』の著者であり、プラグマティズムの代表的思想家でもある。しかしながら、現在入手しやすい入門書は、実はあまりない。
 本書は、第1部をジェイムズの生い立ちと思想の紹介にあて、そして、読者がジェイムズという思想家と「会話」できるようにという配慮から、第2部をジェイムズの著作の抜粋で構成している。それは一見多様なトピックの引用にも思えるが、それでいて、コンパクトながらジェイムズの思想の全体像をかいま見させてくれる。以下、評者にとって印象的だったことを要約し、読者の益に供したい。
 ジェイムズによれば、宗教は極めて重要な選択である。宗教は、より永遠なるもの、より上位なるものを最善とし、さらにこのことを信じれば、われわれの状況は改善されるだろうと主張する。懐疑主義は宗教を信仰することで欺かれることを恐怖する態度だが、それに対してジェイムズは、もし宗教が虚偽ならばそのような態度で過ちを避けられるが、宗教が真ならば、上に述べたような利益を逃すことになるとする。そして、あることが虚偽だという証拠もなしにそれを頭ごなしに否定するのは、不合理な判断だとして懐疑主義を退ける。こうして、ジェイムズは信じる意志を擁護する。それは、宇宙のより大きな領域で神とともに活動し、われわれを生き生きとさせることにつながるであろう。
 われわれは、自我の力で物事をコントロールしようと努力している。だが、宗教的回心に見られるように、小さい自我が破綻し、その絶望を経由して、ありのままの現実を受け入れ、より大きな宇宙の領域と一体となることは、救いにつながる。さらにそれは、より高い宇宙の働きに参入するかたちで能動的に行為すること、世界を変えることにもつながる。これは、神との協働という発想である。神も人間も、それぞれ別々のものが現に独立して存在し、融合はしないが、ともに活動し、線的な連続性をなし、「多元的宇宙」を形作る。これは伝統的一神教とも汎神論とも異なる、ジェイムズ一流の多元論である。
 このような多元論的思考は、人間同士の関係にも適用される。各人それぞれの独自性や違いを尊重しながら、それぞれの生活の経験に根差したやり方で、ともに理想を実現してゆく、というあり方である。
 そこでは、互いに学び成長できるような、人と人との出会いとしての「会話」が重要視される。会話を通じて、われわれは生命力を得、真実をより深く理解することができる。それは、ひとつの普遍的な論理を絶対視するものではないが、相対主義でもなく、会話をとおして真理を探究するプラグマティズムである。われわれを良く導き、生活と調和し、経験と結びついているようなものを真理とする共同の真理探求たるプラグマティズムは、民主的な哲学的思考態度である。それは世界や自然と親密な関係を結ぶ思想であり、現代を生きるわれわれにもっとも必要な考え方ではないだろうか。
 哲学者でもあり神学者でもある著者ロウのジェイムズの読み方やテクストの再構成の仕方は、ジェイムズを宗教思想家のほうに引きつけている。ただし、残念なことに『宗教的経験の諸相』からの抜粋はない。さまざまな宗教的回心のエピソードが盛り込まれていれば、本書はより豊かなものとなったであろう。
 いずれにせよ、このコンパクトで平明なジェイムズの入門書の邦訳を喜びたい。訳文が読みやすいことも本書の特長である。
(堀江宗正)

高橋哲哉『デリダ――脱構築(現代思想の冒険者たち28)』(講談社、1998年)

 好調な売れ行きをマークした「現代思想の冒険者たち」の1冊である。このシリーズには当たり外れもあるが、本書は「当たり」の部類に属すると言えるだろう。文体は読みやすいし、取り上げられている素材はバランスがとれている。また、巻末の「主要著作ダイジェスト」は充実しており、「キーワード解説」は本文との重複をいとわず恐れず丁寧に書かれており、「読書案内」には未邦訳の重要な二次文献もあげられている。いわゆる「現代思想」の受容が地に足のついたものとなった今日において、本シリーズの著者たちは、難解な現代思想を分かりやすく紹介し、堅実な研究の蓄積があることを示すよう要求されていると言える。この要求に、本書は十分に応えているだろう。
 このような本を書評するのは難しい。というのも、デリダの思想を紹介した本書を要約することは、結局デリダの二次的紹介になる恐れがあるからだ。デリダの思想を知りたいのなら、拙文を読むよりも、直接本書の文章に当たったほうがいい。ここでは、本書の構成と内容を簡単に紹介したうえで、本書がデリダの作品の「死後生」をどのように生きているかという点について、若干のコメントを加えるにとどめたい。
 第1章は、デリダの伝記的記述にあてられている。デリダはまだ生きている人だから、生涯の完全な伝記とはならない。ここでの力点は、のちの著作の紹介の伏線となるような事柄に読者の注意を引くことであるようだ。アルジェリア生まれのユダヤ系フランス人という出自。脱構築の思想家としてのデビュー。80年代以降の「政治化」。それらを通して、早くも著者のデリダ理解の筋道が示される。つまり、デリダは70年代には文学的哲学者として誤解されていたものの、脱構築の射程にははじめから法や正義の問題が含まれており、それが80年代から前面で展開されるようになったのだという理解である。この理解が、続く第2章からの著作の紹介においても貫かれている。
 第2章「形而上学とは何か」では、「プラトンのパルマケイアー」の集中的な読解を通じて、デリダの形而上学批判が詳細に論じられる。プラトンのエクリチュール批判の批判的読解を通じて、エクリチュールなきパロールの自足を理想とするロゴス中心主義の形而上学が、まさにプラトンのテクストのなかで脱構築されてゆく。この章では、エクリチュール、差延、脱構築など、『グラマトロジーについて』で有名になったデリダの諸概念が明瞭に解説されている。
 第3章「言語・暴力・反復」では、デリダの言語論やレヴィナス論を参照しながら、「言語の暴力性を意識しつつ暴力に抵抗する」というモチーフが導出される。脱構築は、暴力のエコノミーの乗り越えがたさを徹底的に暴きつつ、しかし「無責任なニヒリズム」などに向かうのではなく、まったき他者への応答、他者の肯定へと向かう責任の思想である。このことはすでに60年代において示されていた。
 第4章「法・暴力・正義」では、「法の力」に象徴されるような80年代以降のデリダの「政治化」の動向を探る。とはいえ、著者の理解によれば、脱構築はごく初期から法の問題を取り上げていた。法と言語はどちらも、特異性や他者性を隠蔽し、それ自身を普遍的なもの、同一なるものとして構築する。したがって、ロゴス中心主義の形而上学のみならず、法もまた脱構築の場所となる。ここでは前章に引き続いて、脱構築の意味内容がより深められてゆく。他者肯定の思想である脱構築は、特異性と普遍性という両立不可能な要求に引き裂かれながら、どちらをも放棄せず、決定不可能なものの試練のなかで決定し続けるという正義の理念とともにある。著者はレヴィナスの正義論との異同については一言するにとどめているが、ここでデリダは、レヴィナスの倫理と正義の二分を踏まえながら、倫理のなかの正義、正義のなかの倫理を示唆し、レヴィナスを内側から乗り越えようとしているようにも思われる。
 第5章「メシア的なものと責任の思考」では、『死を与える』や『マルクスの亡霊たち』など最近の仕事に定位しながら、到来する他者を同定することなしに他者の到来を希望する、メシアニズムなきメシア的なものの希望という思想が紹介される。<信>の問題系にも触れられるが、これは現在デリダ自身によって展開されている途上にあり、本章ではその全体像は不鮮明なままに終わっている感がある。
 この最後の問題を除けば、本書の主張するところは極めて明快である。つまり、形而上学、言語、法の暴力性を暴き出す脱構築は、無責任なニヒリズムではなく、他者の肯定へと向かう責任と正義の思考である、と。これは、日本におけるこれまでのデリダの紹介書では十分に強調されてこなかった点であり、ここに本書の特長もある。難解な文学的哲学者から、一本筋のとおった政治的思想家へというイメージの転換が図られている。
 デリダの紹介の仕方の是非についてうんぬんする力量は評者にはない。だが、あえて難点を申し上げるなら、著者とデリダとの距離が感じられないという点があげられる。『記憶のエチカ』に見られるような著者の他の仕事を念頭に置くと、本書はあまりにも抑制的である。実際、デリダと著者とのあいだには、批判の作法に関して無視できぬ差異があるように思われる。具体的な点を列挙することはしないが、それは一口で言えば「内在的批判」か「外在的批判」かという差異である。本書を通読して改めて痛感されるのは、脱構築がいっけん語義矛盾とも思えるような内在的批判をまさにそうでしかありえないようなやり方で実践しているということである。
 実は、この外在的批判か内在的批判かという論点は、ニヒリズムか否かという論点に劣らず重要であるように思われる。いや、内在的批判の流儀からすれば、デリダはある意味ではニヒリズムでもあり、同時にニヒリズムではないと言うこともできるだろう。
 入門書という体裁ゆえの限界もあろうが、“おのれとデリダの距離を無化したまま、デリダを「使って」敵をバッサリ斬っている”という誤解を生まないためにも、デリダとの距離がいま少し明確になればよかったと思うのである。(堀江宗正)

サロモン・マルカ『レヴィナスを読む』(内田樹訳)国文社、1996年
エマニュエル・レヴィナス(中山元訳)『超越と知解可能性―哲学と宗教の対話』彩流社、1996年

 レヴィナスという思想家はいくつもの顔をもっている。分野的には現象学、ユダヤ教哲学、倫理学などに分類されるだろうが、そのような枠を越えて、この哲学者は現代思想一般にかなり強い影響をおよぼしている。その思想の特徴は、ユダヤ教に依拠することによって西洋の哲学・科学・文明を考えるための別の視点を提供してくれる、という点にある。注意しなければならないのは、それが、キリスト教に対するユダヤ教からの単なる異議申し立てではないということである。むしろ、ユダヤ教の特殊な用語を突き詰めることによって普遍的な思想へと至る、しかもその本質的な部分を犠牲にせず、そしてそうすることによって、かえって偏狭な「〜主義」全般への強力な批判となろうとするのである。
 レヴィナスは哲学的な存在論よりも倫理学を優先させる。つまり、自己への配慮よりも他者への配慮を優先させる。哲学的認識は、認識という行為によって他者を自己のうちに内在化させ、他者の他者性を切り落とすが、倫理は他者との出会いそのものである。『超越と知解可能性』で展開されているのは、他者を取り込もうとする伝統的な哲学的認識、形而上学への批判である。それとは別の可能性、宗教というあり方が、人間における無限の観念、超越の観念を足掛かりにして模索される。『レヴィナスを読む』も参照しながらレヴィナスの宗教観をまとめるならば、次のようになるだろう。
 主題化不可能・認識不可能の神が観念に到来する、すなわち「神」という言葉が意味をもつのは、他の人間を一人にしておいてはならないという呼びかけを、私が受け、他の人間に向かうときである。他者との倫理的関係を通じて、無限なる神が開示される。他の人間の顔と向き合っているときに、私はその顔のうちに「汝、殺す勿れ」という戒律を読む。神はこうして、その律法によって、隣人への愛というかたちで、具体的なものとなるのである。だが、神は、このようなかたちで「認識」のなかにみずからを示しつつも、絶対的に他なるもの、超越的なものとしてとどまる。宗教とはこうした他なるものとの結び付き、無限なるものが観念を訪れる<めぐりあわせ>である。
 ここにあるのは、たしかに哲学的認識への批判ではある。だが、それを「宗教」の称揚ととってはならない。宗教が他なるものを一者に統一し、全体性を構成し、出会われるべき他者を迫害するとき、倫理は「宗教」をむしろ審問するものとなるであろう。レヴィナスが哲学批判と表裏一体をなすかたちで展開している政治批判が、そのとき「宗教」にも向けられることになる。
 レヴィナスは、横ならびの共同性(万人の闘いと権力の委譲に至る「個人主義/全体主義」のセット)よりも、顔と顔を向き合わせる対面の関係性を優先させる。つまり、政治よりも倫理を優先させる。私と他者は、対等な者どうしの相互性の関係ではなく、非対称性の関係にある。なぜなら、他者を自分より高く置くのでなければ倫理は始まらないからである。共同性・歴史・国家が出現するのは、私にとっても他者にとっても他者であるような「第三者」の登場をまってである。このとき、対面的関係が、倫理的全能を断念することによって国家に場所を譲る。政治は対面的関係の縮減である。倫理は国家にとって中心的ではなくなる。だがそれによって、倫理は、かえって国家を審問する法廷となる。
 かくして、レヴィナスは西洋の有力な哲学的伝統、政治思想に対して、とりわけその内在性と全体性という点に関して批判を加えるが、しかしながら、このことはあくまでも哲学という立場に身を置くことによってなされる。したがって、レヴィナスは宗教のスポークスマンではない。私見によれば、その批判は、歴史における「宗教」にも適用されるべきものである。先に紹介した『原理主義とは何か』の著者たちも、レヴィナスからは大きな影響を受けている。このことは次のレヴィナスの言葉を吟味することによって明らかだろう。「真の問題は暴力を忌避することではなく、むしろ、悪に対する無抵抗に堕することなしに、なお闘争そのものから発生する暴力の制度化を回避しうるような闘争について問いを深めることにある」。
 ここに紹介する二書は、いずれもレヴィナス思想への入門書たりえるし、かつ彼の宗教思想をよく表してもいる。『レヴィナスを読む』の特徴は、ユダヤ人である著者の問題意識が明確に出ていることと、訳文が素晴らしいこと(後半は誤植が多いが)である。『超越と知解可能性』は、構成が面白い。レヴィナスの短い論文一本と、それをめぐる討論、そして文字数にして書籍の半分を超える豊富な訳注と訳者解説からなる。納められている論文は、短いとは言え、難解さで有名なレヴィナスのテクストのなかでもとりわけ密度が濃いものと思われる。訳者からは哲学的テクストの読み方の一例を教えられる。おそらく、はじめてレヴィナス思想に触れられる方にとっては、『レヴィナスを読む』のほうがとっつきやすいだろう。 (堀江宗正)

加藤尚武『技術と人間の倫理』日本放送出版協会(NHKライブラリー)、1996年

 現代の私たちが直面しているのは、ただ自然現象を説明するだけの科学ではない。臓器を移植し試験管のなかの受精卵を身体に入れ直して産ませるというような、自然の世界ではありえないようなことまで可能にする技術であり、自然が定めた限界を超え、放っておけば自然のバランスそのものを破壊する可能性をも秘めた科学技術である。
 このように自然と科学技術との関係が変わってきている以上、人間性と科学技術の関係も、あらためて問いなおさねばならない。その場合、人間性とは、生命の価値を単に「生きる」ということだけに置くのではなく、歴史的な伝統の重荷を担って自然とともに「よく生きる」ことを願うような人間性でなければならない。
 このような人間性は、科学技術に対してどのような態度をとるだろうか。著者は、科学技術に対して、単に肯定的な立場をとるのでもなく(フランシス・ベーコン)、単に否定的な立場をとるのでもなく(18世紀ロマン派、ハイデガー、20世紀の70年代の思想)、限定的な立場をとる必要性を訴える。この第三の立場は、科学技術の恩恵を認めると同時に、その無制限の利用を許さず、正しい利用のための倫理基準を探求するものである。
 われわれは、野生の自然を愛し守るために、もっともっと自然を科学的に研究し、技術開発を進めなければならない。そして、そのような自然科学は、人間を大事にするとともに人間を研究する人文科学と結合しなくてはならない。もともとこの二つの科学の分裂は、進歩する科学的真理と永遠の宗教的真理を分けるという近代文化特有の考え方によるものなのである。もちろん、両者が根本的に同じなのか違うのかということには即答できるものではない。しかし、両者の知識のあいだに接点が求められていることは確かである。
 以上が著者の主張の大意であるが、本書を読んでもっとも強い印象を受けるのは、極端な肯定派や否定派に対する著者の批判の鋭さであろう。どちらも、科学技術が善でも悪でもあるという見方を排除し、科学技術とその社会的結果とを区別せず、進歩や増大を止めることのできない歴史の流れとしてとらえ、全面的に肯定ないし否定する、といった思考法に基づいている。
 さらに悪いことに、どちらも「X精神根底主義」とでも言えるものに立脚している。たとえば、@西欧型の社会で起こることの根底にはキリスト教精神があるとし、Aこの根底を理解/否定しない限り、本物の自然科学/自然保護は不可能だ、とするのである。日本の否定派であれば、東洋(日本)の文化の根底には仏教(神道・アニミズム)があるということをつけ加えるかもしれない。著者によれば、このような見方は人種偏見と非常によく似ている。それはあらゆる論証と歴史的事実を乗り越え深い自己満足感をもたらす歴史観念論の一形態なのである。
 批判は、環境問題の「根底」にある精神をラディカルに批判しようとするディープ・エコロジストに対しても向けられる。「現実のディープ・エコロジストは宗教の外野席にいて、何か宗教的な根源性にあこがれながら「自分は浅いエコロジストではない」という空しいプライドで自分を支えている惨めな人なのである。……本物の宗教者も哲学者も自分を「深い」と規定して、他人を「浅い」とさげすむようなことはしないものだ」(335〜6頁)。著者の批判は非常に手厳しい。
 だが、このような「本物」の宗教者は現実にいるだろうか、という問いをここで発したくなる。なぜなら私たちのまわりには、ディープ・エコロジストまがいの宗教者のほうがむしろ目につくように感じられるからだ。それと同時に、この疑問は著者に対しても発せられる。現代の宗教者は、どのように自己の信仰に忠実でありながら、かつ科学的真理と宗教的真理の二分にも陥らずに、科学技術と人間性の関係について積極的に発言してゆくことができるのか、と。
 これは実にゆゆしき大問題である。著者にばかり答えを求めるのではなく、みずからの問題として引き受け、討議を重ねてゆかねばならないだろう。(堀江宗正)

チャールズ・テイラー他著、佐々木毅他訳『マルチカルチュラリズム』岩波書店、1996年

 近年、人的資源のグローバルな移動を背景として、異なる民族的・人種的・宗教的アイデンティティをもつ人々同士の接触が増大しつつある。欧米の先進国のなかでは、定住外国人の権利の保障やその子弟の教育の方向づけなどについて、さまざまな議論がなされている。彼らマイノリティ集団の存在を承認し、その権利主張を擁護しようとする立場は、しばしば「マルチカルチュラリズム」(多文化主義)と呼称される。
 本書において、チャールズ・テイラーは、政治哲学あるいは政治思想史の立場からマルチカルチュラリズムをめぐる諸論点を網羅的に考察している。
 テイラーの議論の骨子は次のようなものである。
 ルソーは、ある一定の階層の人々に特権的に付与されてきた「名誉」の観念を批判し、市民の平等な「尊厳」を強調した(平等な尊厳の政治)。それに対して、同じく普遍主義的な基礎をもって差別を糾弾しながらも、アイデンティティの独自性と差異性を強調する立場が浮上しつつある(差異の政治)。ルソーは、一面的で不平等を生む優劣の「評価」を排し、各人の「平等な承認」を要請したが、差異を強調する立場からすれば、むしろ承認されるべきは"みずからのアイデンティティを形成し意義づける潜在的能力"をもつような個人ないし文化の存在の独自性であり、その存続の可能性であるとされるのである。
 このような「承認をめぐる政治」が現代政治の重要な論点になっている、とテイラーは見る。というのも、「承認」はアイデンティティの形成にとってもっとも重要な契機であり、それが歪んだものであれば、ある特定の集団に属すると目される人々に実質的な損害を及ぼすこともありうるからである。
 しかしながら、差異を強調する立場は極端な場合、いかなる文化間の優劣評価をも「価値の平等性」の否定だとし、支配的文化のもつ特定の価値観の投影だとして排する。だが、このような相対主義的な立場は、見せかけの恩情であるために誠実さを欠き、たとえ好意的な判断であっても、それはあくまでも「われわれ」の基準に基づいているため、結果として同質化を強いることになるのである。
 テイラーは中道をとろうとする。つまり、「価値の平等性」は、あくまでも他文化学習の出発点として「仮定」されるべきものであり、絶対的な結論として要求されるべきものではない。かといって、もちろん自民族中心の評価基準に内閉すべきでもない。相対主義にも絶対主義にもくみせず、個々の文化が全人類に対して何かしら重要なことを語りうるという可能性を仮定し、その妥当性が実際の文化の学習のなかで具体的に証明されるであろうことを希望する。われわれは、互いの地平の融合と変容を可能とするような比較文化研究に対して開かれた態度を積極的にとらねばならない。
 また、テイラーは具体例として、彼自身がコミットしているカナダのケベック州の独立問題・フランス語保護政策をあげながら、"基本的諸権利と文化的存続性を区別しつつ、どちらも重視し、比較考量するような中道的立場"を、自身の立場として表明している(文化の存続という実質的目標を考慮するような手続き的自由主義)。
 以上のようなテイラーの発題に対して、ハーバーマスなどそうそうたる顔ぶれの論客がコメントを寄せている。テイラーは広大な領域にまたがる議論をひとつの論文で展開しているので、穴も当然でてくる。個人と集団のアイデンティティの関係性が十分整理されていないことや(アッピアのコメント)、西洋政治思想史に議論を限定したため「承認をめぐる政治」がどのように起こってきたかという経緯を文化的マイノリティの視点から見る作業を残したことなどが考えられよう。それにしても、彼の論考が、マルチカルチュラリズムや宗教間対話をめぐる諸問題をほぼすべて網羅しており、しかもそこにある展望を与えていることは評価されるべきであろう。惜しむらくは、テイラー自身の文体の過度の密度の濃さと、訳文の生硬さと稚拙さである。(堀江宗正)

ハンス・ヨナス著/加藤尚武監訳『責任という原理――科学技術文明のための倫理学の試み』(東信堂、2000年)

 21世紀は新しい科学技術の突きつける倫理的難問との格闘の世紀になるかもしれない。この難問に哲学的に倫理学的に答える現代の古典とも言うべきハンス・ヨナスの『責任の原理』が、原著刊行後20年にしてやっと邦訳された。著者ヨナスは、フッサール、ハイデガー、ブルトマンに学び、グノーシス主義の研究から、現代倫理学、宗教哲学にわたる幅広い仕事を残しており、今日その再評価の機運が高まっている。
 技術の進展によって、人間の行為の意味は激変した。集合的な行為の結果が累積し、予測できない帰結をもたらすようになった。自然破壊が可能になり、さらには人間そのものを技術によって改変する可能性すら開けてきた。地球上に人間が存続すること、しかもその本質を維持しながら存在すること。これが新しい技術を手に入れた人間の義務となる。それは、現代に生きる人間同士の倫理にとどまらない、未来世代に関する倫理や、他の生物に関する倫理を要請する。
 新しい倫理においては、行為の累積的結果を考慮し、未来を認識することが義務となる。知らなかったでは済まされないのである。そこでは、未来世代の不幸を感じとる能力が要求される。しかし未来の予測は完全にはできない。それゆえ未来世代の消滅をリスクとするような冒険はしてはならない。これが未来世代への新しい義務である。このような責任の取り方を著者は「責任の原理」と呼ぶ。ここでは、願望よりも恐れの感情が重要である。すなわち、願わしいユートピアを積極的に描き出すのではなく、恐るべき最悪の事態を回避するという消極的なかたちで理想を追求することが必要になる(ブロッホの「希望の原理」との対比)。世界的規模で平等に豊かな社会が実現するというユートピアは危険な幻想である。成長よりも縮小を追求することが成熟社会の課題である。このような責任の原理のモデルは、手近なところでは、親の子どもに対する責任や、政治家の国民に対する責任に求められるだろう。
 新しい倫理が要請されているというときの、その要請の妥当性についても考えなければならない。そもそも、人間は存在すべきなのか。存在する価値があるのか。著者は、存在は価値の発生する前提条件であり、存在の価値を問うことはできないとする。「地球上に何が生息すべきで、何が生息すべきでないか」という問いかけは、存在することの根本的価値を、いかに存在するべきかという相対的で派生的な価値の視点から問うという誤謬である。存在の比較考量は成り立たない。人間が存在すること、しかも人間の本質を保ちながら存在することは無条件の義務である。
 人間そのものを改変する可能性、すなわち遺伝子操作、死の制御、思考・行為の制御の可能性について、著者は次のように考える。人間の自由、真理認識、価値判断の可能性の基盤である人間の自然本性は、生物学的な遺伝によってになわれている巨大な流れであり、この前提を技術によって改変することは本末転倒である、と。言葉を補うなら、倫理の根拠となっている人間の存在の条件を変えてしまうことは、従来の倫理をすべて無化することにつながるので、倫理の歴史的断絶と、基盤喪失と、場合によっては消滅をもたらしかねないということを意味するだろう。みずからの前提条件を維持する責任があるということから、生命操作は許容されないという主張が引きだされる。
 他の生物の存在、自然の存在の維持についてはどのように考えられるであろうか。著者は、意識の発生に至らなくとも自然そのもの、存在そのものに目的が内在し、その意味で価値が内在するという、ある種の目的実在論を唱える。この考えによれば、主体なき主観性も成り立ちうる。「心的なもの」はどんな物質にもつきまとうことができる。「心的なもの」は、意識をもつ高等生物の脳の随伴現象などではなく、実効性という意味での現実性をもち、したがって客観的に実在する。意識のない不随意的な生命現象にも目的がある(その意味での主観性が消化器官にもある。臓器にも心がある)。それが高度に組織され、環境から隔絶した統一体として、つまり自立した有機体として生成することが、自己性の獲得である。こうして、「目的」一般を、具体的なさまざまな目的として解放してゆくのが生命である。目的を高度に組織化する生命は、いわば自然の目的ということができる。
 存在には目的があり、価値があり、存在はそれだけでみずからを維持する責任を要求するものである。このような存在の目的に耳を傾けることが、したがって道徳性の根源となる。さらに、個別具体の存在者は他の存在者なしには存在しえないという性質がある。それだけでは自存しえない、はかない存在、滅びゆく他者は、責任の感情を喚起する。このような存在が、責任の対象となる。責任の感情を喚起させられるのは誰か。それは人間にほかならない。責任を感じ、責任能力をもてるのは人間だけである。しかし、責任の対象となるのはすべての生物であり、自然という存在そのものである。自然に対して、また他の生物の存在に対して、そのはかなさを認識できるということ、責任の感情を抱く能力があるということが、人間という存在を責任の主体たらしめる。しかも、この滅びゆく他者は、人間の集合的行為の累積的結果によっておびやかされつつある他者なのである。また、自然の存続は、人間自身の存続のためにも必要である。人間は自然に依存する存在でもあるから、人間の未来と自然の未来は密接不可分である。人間が自然から離れ、単に存在するだけの存在になると、人間らしさを失う。それゆえ自然の存続は、人間の人間に対する義務でもある。
 動物の権利のようなものがあって、それに配慮する義務が人間の側にあるというのではない。自然の存在の目的と価値を認識できるということ、それに対して甚大な影響力をもちうるということ、そのはかなさやもろさを感得できるということが、自然および他の生物に対する一方的責任を人間の側に課す。同様に、未来世代の存在への義務は、未来世代の権利から派生するのではない。人類が存続しなければならないという無条件の義務、未来への影響力の大きさ、未来予見能力、未来世代の弱さへの感受性が、現代の世代に一方的な責任を課すのである。
 しかしながら、現代の代議制度のもとでは、未来を代弁するものがいない。いまここに生きる人間の欲望が政治を決定している。政治家の根源的な責任は、人類の存続と人間の自由を保障すること、適応可能な環境の限界を守ることである。言い換えれば、人間がみずからの前提条件を維持する責任を果たせるよう、「将来の政治がいつも可能であり続けるように配慮」することが、政治家の責任となる。
 マルクス主義的な「希望の原理」と徹底的に対峙する本書は、ある種の保守主義の感覚に貫かれている。しかしながら、それは、マルクス主義崩壊後、新自由主義と結びついた保守派が守ろうとしている現代の諸制度に対して徹底的な変革を迫る、人間と自然の本性に根差したラディカルな保守主義であると言えるだろう。
(堀江宗正)

ジョン・B・カブ、Jr. 『生きる権利 死ぬ権利』(日本基督教団出版局、2000年)

 著者は、ホワイトヘッドの影響を受けたプロセス神学の代表的思想家であり、これまでにも幅広い公共的問題(パブリック・イシューズ)を取りあげた著作を何冊か出版している。本書の原題は『生と死の諸問題』であるが、その名の通り、環境問題、安楽死の是非、中絶への賛否、婚前交渉や同性愛への教会の態度などをテーマとして扱っている。これらのテーマそれぞれを、諸権利の相克として描くことで、今まで議論されてきたことを整理するという方針が、本書を一貫して流れている。
 たとえば第1章「殺す権利」の主題は、天然資源を搾取し、環境を破壊し、動物を殺害する人間の権利と、動物の生きる権利との衝突である。それに関して、著者は、聖書の記述、ディープ・エコロージー、「動物の権利」擁護のそれぞれの論点を提示し、突き合わせる。人間が動物を無制限に殺害するという論理は、少なくとも聖書からは肯定されない。かといって、人間の自然からの独立性も否定されない。プロセス神学によれば、神は動物の苦しみをも共苦している。というのも、その万有内在神論によれば、神は世界のなかにあり、神は世界のなかにあるとされるからである。このような視点から、人間の動物を殺す権利を制限し、生息地となる原野を保護するようにと著者は提言する。
 以下、同様の仕方で、各論が展開される。問題を、諸権利の衝突として描き、論点を浮き彫りにする。このように、「権利」概念を借用するからといって、権利概念の有効性を自明視しているわけではない。その絶対性の要請について、著者は懐疑的である。著者自身のプロセス思想によれば、各個体はそれ固有のプロジェクトを持ち、それを実現しようとするが、それらのプロジェクトは、包括的全体としての神のプロジェクトに合流するものである。したがって、単に各プロジェクトを実現するだけでなく、神のプロジェクトに配慮することも要請される。とりわけ、そのような配慮をすることが可能であるような人間は、諸プロジェクトのぶつかり合いを調停する責任を負う。そこから、生と死をめぐる諸問題に関する倫理が立ち上がる。(このような論述の方針を著者ははっきりと提示しているわけではない。以上のまとめは、評者が著作全体を一貫していると感じたものを、抽出した要点である。)
 これは、確かに理論的立場としては成り立つだろう。しかし、実例のなかで、諸権利(諸プロジェクト)の調停案のようなものが出されるたびに、何か割り切れない感じが残る。たとえば、安楽死は、当人の尊厳という観点からだけでなく、介護コストの削減という経済的観点からも容認される。中絶に関しても、胎児の生きる権利と女性の自己決定の相克を描いたあとで、中絶が殺人になるボーダーラインがテクノロジーの進化によってどんどん早まる可能性を指摘し(受精卵の時点で「生存能力あり」と判断される)、今のうちに女性の自己決定権(中絶に関する)を容認することは、将来の人口問題を緩和することにつながるとする。
 各プロジェクトを「調停」するこのような著者の視点は、神の視点に無自覚のうちに同一化しているわけだが、しかし、この視点はあまりにも合理主義的ではないか。元祖であるホワイトヘッドの「石も経験している」と言明するような自然主義的感性との隔たりは著しい。たとえ思想的内実を踏襲しているとしても。
 不満をもう一つ。権利概念そのものへの理論的考察が、本書には足りないように思われる。現行の「権利」概念は、主体の権能を意味するか、法によって保護される権益を意味するか、その二極の間で動いていると言えるだろう。この二つの意味からひきだされるのは、法に触れなければ個人は何をやっても許されるという含意である。諸権利が相克したとき、それを調停する役割は、法にによってになわれる。昨今の生と死をめぐる諸問題が「問題」化されるのは、現行法が十分にその調停役を果たしていないからである。そこでは、法の整備がプラグマティックに要求されることになる。著者の提言は、結局このような「制定されるべき法」を先取りしようとするものになってはいないだろうか。「権利」概念を用いつつもその絶対性要求の限界を明らかにするという著者の意図、ここまでは賛成できる。だが、「権利」概念が引きずる、それを制限し保護する法の絶対性要求を、明確化し、相対化するに至っていない点は、大いに不満である。宗教的視点は、諸権利を制限し保護することで絶対的になろうとする法との対峙なしには、その独自性を示しえないであろう。そして、このような法との対峙が宗教の立場を社会内でエキセントリックなものにすると恐れるのであれば、それがほかならぬ宗教の限界となるであろう。
(堀江宗正)

オギュスタン・ベルク(篠田勝英訳)『地球と存在の哲学――環境倫理を超えて』筑摩書房、1996年(ちくま新書)

 著者は、現象学的地理学の立場から、和辻哲郎の風土論を再評価し、独自の理論を構築し、日本の風土、地理をあつかった著作を多数発表しているフランスにおける日本研究の第一人者である。昨年、NHK人間大学にも出演したので(「日本の風土性」)、ご存じの方も多いだろう。
 本書において、著者は「環境」の倫理について語るのではなく、「風土(エクメーネ)」の倫理について語っている。エクメーネとは、「居住」をあらわすギリシア語を語源とする言葉で、人間の住む土地を意味する。それは、人間と大地の関係性がなければ成り立たないものである。その意味で、人間不在の「環境」とは区別される。人間は、善悪の観念をもち、それにしたがってみずからの行動を律する能力をもつ存在として、大地に働きかける。エクメーネの倫理は、このような関係のなかに求められるべきであり、生物圏中心の生態学から演繹されるべきではないし、人間中心の倫理それ自体のなかにも求められない。
 人間の居住(エクメーネ)は、生態学的次元と象徴的次元の両方にまたがるという意味で「生態象徴的」である。また、純粋に客観的 objctif な事実というわけでもなく、純粋に主観的 subjectif な投影というわけでもないという意味で、「通態的 trajectif」である。人間の風土においては、あらゆる現象が人間存在自身の主体性の表現である。そこでは空間それ自体は存在せず、「〜としての」空間が存在するだけである。
 何らかの開発計画による風景や生態系の殺戮に反対する人は、まさしくその風景や生態系に同一化しているからこそ反対するのである。「風水」の枠内において、「気」の循環を狂わせかねない開発に反対する人も同様である。
 いずれにせよ、われわれは環境世界にみずからの動機、意図、意志を投影するが、それによって当の環境世界は、われわれに何かを要求してくるのであり、またそのために、われわれはそのような環境世界にいるべきであるという義務を負うことになる。風土は、美しくかつ善い秩序(美的かつ倫理的な秩序)であることを人間に好まれ、望まれ、また逆に人間にそのような秩序を保つよう求めてくる。私たちは、子孫に「人間的」に住まうことのできる地球を残す義務を負っている。
 著者は「エクメーネ的モナドロジー」にもとづいて、次のように言う。「私たち各人の人間的本質の十全な表現は、そのままで地球という全体の表現である。また逆に私たちの行動が地球を損なうならば、私たちは真の意味での人間ではないということになる。エクメーネ的義務、それは私たちが人間である限りにおいて、私たちの存在自体の義務なのである」。あらゆる環境政策の存在論的・宇宙論的・倫理的基盤はこのようなものでなければならない。
 著者が論敵と見なすのは、人間を無力化し、突き詰めれば人間の定員の減少すなわち人間の抹殺を容認してしまう生態学的全体論や、欲望を投影ししばしば現実を誤って認識し、ときには自民族中心主義的な結論を導き出してしまうアニミズム的な前近代的共生への郷愁である。これは亜流のディープ・エコロジストや文化的ナショナリストへの厳しい批判である。もちろん、だからといって近代主義を押し進めようというのではない。というのも、近代的主体は、世界から後退することによって世界を客体化し、脱象徴化し、それを倫理の枠から除外してきたからである。
 広義の「環境倫理」(「環境主体の倫理」ではなく)の分野において、本書の登場は重大な意義を持つだろう。「風土」と「倫理」の根本的な結びつきをこれ程まで明確に示した書物は、いままでなかったからである。のみならず、本書は「通態」概念の提唱によって、哲学的認識論の歴史の新たな展開を予告している。今後どのような議論が続くかはわからないが、すでにこの時点において、本書の古典的価値は明らかである。(堀江宗正) 

多木浩二『生きられた家――経験と象徴』(青土社、1984年)

 本書は厳密に言えば、「建築」の本ではない。著者がこの本で試みているのは、建築家の作品として構想された架構としての「建築」と、住むという行為を通して構成されてゆく「生きられた家」との対比である。
 建築が物の秩序、対象の秩序によって支配されているのに対し、生きられた家は、経験の秩序によって支配されている。それは、生きられた空間であり、生きられた時間である。われわれは住むことを通して、家を構造化し、そして同じく住むことを通して家に構造化される。そのかぎりにおいて、家はテクストであり、ラカンの説を想起するなら、言語として構成されている無意識である。それは単なる比喩やモデルにとどまらない。ルロワ=グーランが示唆するように、家の成立と言語の成立は同時的である。家が成立するということは、世界が創造されるということであり、外部と内部の境界が成立するということであり、それはとりもなおさず秩序が成立するということであり、知覚と経験のための空間図式が成立するということである。したがって、著者の言う「生きられた家」とは、技術的操作によって架構された建築であるばかりでなく、無意識的な欲望によって織りなされたテクストであり、それによって知覚や経験が成り立つような空間図式であるとすることができる。
 木や石や土でできた建物は、人が住まなくなると、廃屋となり、崩壊し始め、ついには自然にかえってゆく。このことから、家は、住み手から自律的に存続するものではないということが分かる。住むことが、生きられた家の本質なのである。人が住むことによって、家は、自然の解体をこらえ、死の噴出を押さえる。そもそも建物を造るということは、自然の過程のなかにある物を流用して、架構として仕立て上げ、自然の過程を停止させることである。自然の死と人間の生は表裏をなす。架構という自然の死の上に、人間の生が重ねられてゆくのである。
 そうして生きられた家は、人間の自己認識の基体となり、そこに住む集団の記憶となる。人間が家に住むということは、ひとつの出来事である。そのとき、文化の時間と家族の時間と個人の時間とが、そこで交叉する。人間が家に住むということは、世界の多義性をそれとして保持するような実践、演劇的実践、パフォーマンスである。
 住むための機械として住宅をとらえるようなモダニズムにおいて、家は記憶を保持しなくなり、住むことの意味の担い手でなくなる。その意味で、著者の言う生きられた家とは、何よりもモダニズム建築と対比されるものである。すると、「生きられた家」と「建築」の二分は、近代に特有の現象であるということになる。この両者は、近代以前においては重なることが多かった。ハイデガーも言うように、「住まうこと」と「建てること」は、本来的に一致するものなのである。他方、近代においては、生きられた家も変貌を遂げている。近代を生きる家は、大衆社会・消費文化のなかで、象徴の次元というよりは、記号の次元を構成している。したがって、われわれの周りを実際に取り囲んでいるのは、建築のモダニズム(広い意味での)と消費の欲望を表象する文化的記号なのである。
 こうした著者の主張は、解釈学的・現象学的な哲学的思考としても興味深いが、何よりも現実の建築や住まい方への鋭い批判となっていることを見逃してはならない。そこから、計画・構築と実践・経験の二分を超えるような方向性として、どのようなものが考えられるか。あえて最後に、「生きられた建築」、「自己実現する住まい」といった言葉を提起しておきたい。(堀江宗正)

小坂国継『西田幾多郎をめぐる哲学者群像―近代日本哲学と宗教』(ミネルヴァ書房、1997年6月)
津田雅夫『文化と宗教―近代日本思想史序説』(法律文化社、1997年4月)

 近代日本の宗教思想史を考える際に無視できない事項として、西田幾多郎をはじめとする京都学派の宗教哲学の流れがある。こう書くと、あれは宗教じゃないという声が聞こえてきそうである。そう、京都学派は宗教の一宗派ではない。しかし、何らかの「宗教性」をたたえた思想、「宗教的」思想ではある。「宗教」ではないが、「宗教的なるもの」を強調する思想家や知識人の流れのひとつとして、それは近代日本人に、世俗主義でも「新興宗教」でもない第三の道を、日本の伝統的宗教性に触れる第三のチャンネルを提供してくれた。しかもそれには「学問」という権威が付与されていた。
 京都学派の思想を、民衆的宗教性とはかけ離れた単なるエリート主義として一蹴するのでもなく、また金科玉条のように奉ずるのでもなく、宗教をめぐる歴史的星座のなかに位置づけねばなるまい。評者のこのような問題意識に答えてくれそうな本が、二点出ている。
 小坂国継は、西田哲学をスピノザや田辺元、高橋里美、三木清、和辻哲郎、久松真一らと比較し、西田の思想の特色を明らかにしようとしている。まず驚かされるのは、小坂の明晰な西田哲学の紹介である。しかも、単なる引き写しに終わらず、ていねいで鋭い内在的批判を展開している。ここでその議論を逐一紹介することはできないが、大ざっぱに言えば、小坂は、西田の思想を「宗教的自覚」の思想としてとらえると同時に、その観想的で非実践的な性格を繰り返し指摘している。宗教的自覚の論理とは、自己と物(環境)、主観と客観、個物と世界が、対立的な関係にあるのではなく相互に補足的・補完的な関係にあるという確信であり、またそれにもとづいて主体が自己矛盾的に自己自身を否定して環境的になる、また物になるということである。このようなことが可能になるのは、そもそも個物なるものが、世界の自己否定的な自己限定・特殊化によって成立したものだからである。
 ここには、ある種の生命主義的な世界観・人生観が息づいているように思われる。つまり、自分を生かしめている世界の働きに目覚めることによって、自己が新しく生まれ変わるという発想である。実際の宗教者であれば、このような覚醒のあとには日常的な道徳的実践がともなわなければならないと考えるであろう。西田においてもそのような発想自体は否定されない。しかし、道徳的実践が具体的にいかなるものであるかについては、あまり明確でない。ただ、宗教的自覚をともなわない通俗的な道徳の立場、法や義務がひとり歩きするような道徳の立場は抽象的なものである、と退けられるだけである。宗教的自覚そのものが道徳的自覚につながるのであり、宗教的自覚は道徳的自覚を包摂するものである。しかし、このような説明は、小坂も指摘するように具体性に乏しい。評者としては、次のような疑問を抱かざるを得ない。ここで使われている「宗教的」とはいかなるものであろうか、そしてそれが道徳よりも「深い」とはどういうことか、と。
 このような問題を考える際に、西田の思想にただ内在していても公式的な答えしか得られないだろう。評者の疑問は、西田用語の定義内容に関するものではなく、どうして、ここで「宗教」という言葉が使われたのかということである。この疑問に答えるためには、西田をも包摂していた思想状況について、外在的な俯瞰を試みる必要があろう。津田雅夫の『文化と宗教』は、網羅的とは言えないし、また決定的とも言えないのだが、ある程度この疑問に答えてくれそうである。
 評者なりに整理するなら、津田の問題関心は次のようなものである。日本の近代思想史において、あるいは近代日本の知識人にとって、宗教は二重の意味をはらんでいた。ひとつは啓蒙の対象、あるいは批判・克服の対象としての「宗教」であり、もう一つは近代化を可能ならしめる器となるような精神的土壌としての <宗教>である。つまり、具体的
・実定的な意味での「宗教」は否定されねばならないが、日本固有の精神性としての抽象的な<宗教>は確保されねばならない。津田によれば、このような近代日本における宗教の位置づけをめぐる問題(=「宗教問題」)がもっとも鋭く問われ、自覚的に取り組まれたのは、宗教批判の問題視角からであった。津田は、このような営みを遂行した知識人として三木清を取り上げ、彼の宗教批判を細かく論じている。
 三木は、マルクス主義が生きた思想となるためには、現実のイデオロギーとしての宗教を批判しなければならないと考えていた。彼はとりわけ、ファシズムに好都合な「無形式の形式」という日本的精神の克服を緊急の課題として考えていた。他方、マルクス主義は近代人のもっている信仰喪失の「不安」を克服するような、新しい主体創出のための理論的装置を持っていない。三木によれば、人間の宗教的欲求は根本的なものである。宗教は、日常生活にリズムと意味を付与しそれを正当化し活性化させると同時に、普遍的価値の次元を確保させることによって日常性の突破をも可能にする。このような意味での宗教を、その疎外された形態に注意を払いつつ、自覚的に再獲得せねばならない。
 ここで津田によって指摘されるのは、三木のいう宗教的欲求の抽象性と、当時の具体的な宗教運動(「いわゆる類似宗教」)への冷淡さである。抽象的な「宗教」性の肯定は、先の西田とも通じるところがあるであろう。だが、西田の通俗道徳批判や、三木の「いわゆる類似宗教」への冷淡さを、単なる知識人の民衆蔑視として片づけてよいかどうかはわからない。三木によれば、宗教的根底から離れた単なる処世法は、現実への妥協であり、歴史からの逃避となる危険をはらむ。これは、社会的現実への批判よりも日常生活の向上を望むような民衆的宗教性に対してなされる有力な批判のひとつであることは間違いない。
 だが、西田にしろ三木にしろ、社会的・歴史的現実にどの程度有効な批判ができたというのか。結局のところ、二人ともファシズムの脅威を前に無力であったことは言うまでもない。三木の宗教的欲求を肯定する宗教批判は、一方においてマルクス主義陣営からは反動的すりかえと映り、孤軍奮闘を強いられ、他方において時局を前に微妙な転向を余儀なくされ(「日本の行動的現実の批判的肯定」)、その仕事は死によって頓挫する。西田の宗教的自覚の観想的性格については改めて強調するまでもないだろう。
 以上、評者は、日本近代の宗教的知識人において「宗教」はどのようにとらえられてきたかという問題意識をもちながら、関連する二つの書物について紹介してきた。西田の通俗道徳批判と宗教的自覚の立場、三木の現実逃避的な類似宗教への批判と宗教的欲求の是認。いずれにせよ現実的宗教を批判し、本来的な宗教性への回帰を説くが、代替宗教とも言える国家イデオロギーに対する現実的批判力は持ちえなかった。それどころか小坂の書に見られるように、田辺や和辻においては、西田から影響を受けながら国家の役割を重視するような思想が形成されるのである。本来性への回帰が、日本的伝統への回帰にすり替えられ、国家の現実的あり方の支持に流用される危険性もあったのである。
 こうした知識人の「宗教」概念は、民衆の「宗教」観、国家の「宗教」政策とともに考察されねばならない。それによって、近代日本における「宗教」の複雑な重層性が明らかになり、われわれの使う「宗教」という言葉に対する反省も促されるであろう。あなたは自分でも知らないうちに、場面に応じて「宗教」という言葉にさまざまなニュアンスを込めているかもしれない。たとえば、蔑視と称揚;実定的に団体を指す言葉として、あるいは抽象的な精神的伝統を意味する言葉として;また警戒の対象、克服の対象、回帰すべき対象、近代を乗り越える希望として;道徳そのものとして、道徳を超えたものとして、道徳で代用可能なものとして、等々。
(堀江宗正)