松谷みよ子『現代の民話――あなたも語り手、わたしも語り手』(中央公論新社、2000年)

 この本を読んで、恥ずかしながらはじめて、現代民話というジャンルの存在を知った。ここに収められているのは、いわゆる「昔話」ではない、あくまで近代・現代の民話である。たとえば、汽車に化けて人を驚かすたぬき、公害を知らせに来た河童、前世を記憶する子ども、ガダルカナルで戦死した英霊の帰還、神かくし、学校のトイレにまつわる怪談などなどである。
 著者は、すでに『現代民話考』全12巻(各400頁の大部)を出している。全国各地を尋ねて、丹念な聞き取り調査を行い、それを発表して、読者に類話を募る。すると、読者から何千もの多数の現代民話についての情報が寄せられる。心ひかれる話があれば、直接おもむいて、その語りに耳を傾ける。語り手を尋ね歩くうちに、著者はやがて自分も語り手になっているということに気がつく。
 あるとき、著者はみずからの書いた『死の国からのバトン』という作品を携え、語り手を訪ねる。そして、語り手から「いとこの夢の話」を聞かされる。それは、飢饉で死んだ子供たちが墓から出てきて遊んでいるという夢で、その後、自分の購入した土地から子どもの骨が出てきたという話である。飢えてなくなった子どもが墓から出て遊ぶ姿は、そのとき著者がもってきていた作品に出てくるのとまったく同じ光景だった。
 それ以外にも、現代民話を収集していると、異なる地域で同じ物語の着想に出会うことがある。もちろん現代の――同時代の――話であるから、地域を超えて伝承されたわけではない。前世の記憶や臨死体験など、時には外国の話との共通性すら見いだされる。もしかしたら、物語の種のようなものが、それこそ誕生以前からの記憶のように、わたしのなかにも、あなたのなかにもあるのではないか。そういう実感を著者は抱く。「あなたも語り手、わたしも語り手」という副題にはそのような感慨が込められている。「人は生きていくなかで、みずからも気がつかないうちに語り手となり、民話を生みつづけているのだ。それがなくては現代の民話はありえない。人は意識して現代の民話を語るのではない。人は人である証しとして、自分でも気がつかないうちに語り、だからこそ普遍性を帯びるのである。」
 民話とは何だろう。著者は、いわゆる「怪談」や、前世の記憶や幽体離脱体験も、現代民話の一つとして受け止めている。評者はこのことに、目から鱗が落ちる思いをした。超常現象をめぐる論者なら、賛否を争うような題材である。だが、「民話として」耳を傾けてみたらどうか。本当かうそか幻覚か、などといったこだわりから解放され、物語が現に語られる意義を受け止めようという気になるのではないか。
 たとえば戦争の民話に触れているところで、著者はこういう。火の玉だの、幽霊だの、ばかばかしいと切り捨てることはたやすい。しかし、私は戦場で死んでいった死者たちの思いを語り伝えたいと思うのだ、と。また、暗い野原で去年も十九、今年も十九といって踊っている殺された若い娘の話。切ない伝承であるが、こうして語り伝えられることで、その娘は人々の思いのなかに生き続ける、という。
 もちろん、語る人は、「うそかまことか」はさておき、という態度で語っているのではない。「まさしくあったることとして」、本当にあった話、証人もいるよ、と真剣に語るのである。そこが、創作やフィクションとの違いである。昨今は、小説が読まれなくなっている。かわって、パーソナル・メディアの比重が高くなり、虚構ではなく事実にもとづいた心理学的な物語がベストセラーの常連になりつつある。そんないま、公式のメディアにはのらないが、われわれ自身の生の真実としてひそかに語られる現代民話が何を伝えようとしているのか、もっと耳を傾けてみたいと思った。
 経験の交換としての語りの回路が著しく衰退し、今にも消えそうな現代において、さまざまな生の証しとしての民話をつないでゆき、文字として定着させることで、その同時性、共通性、普遍性が明らかになってゆく。こんなところにも「宗教」のオルタナティヴが静かに息づいている。(堀江宗正)

鈴木貞美編著『大正生命主義と現代』河出書房新社 1995年

 近ごろ、遺伝子工学の飛躍的発展や臓器移植をめぐる倫理的問題、環境問題などを契機に、「生命」という言葉が脚光を浴びつつある。われわれの「生命」に対する態度こそがこれらの問題の根本にあり、したがって、それらは単に政治や法律の問題ではなくまさに思想の問題なのだ、という認識が醸成されつつある。
 編者である鈴木はこのような現代の思想的状況(森岡正博によって「80年代生命主義」と概括される)を踏まえながら、「生命」をスーパー・コンセプトとする思想の潮流が、日本では以前にもあったものだと指摘する。時期的にはほぼ大正時代。その背景には、日露戦争、重化学工業化、都市への人口流入などがあった。特徴としては、物質文明・機械文明への反発、生命の賛美、神秘的なものに傾斜した科学的探求などがあげられよう。それは、近代的自我を超える精神性を、世俗化した宗派宗教ではなく、禅の実践や新宗教に求めるという形をとったり、また文学などにおいては個を超える境地を性愛の陶酔に求めるという形をとったり、あるいは近代的制度の抑圧に対する民衆思想やさまざまな精神共同体の思想として発現するなどした。具体的には、大本教など新宗教の教勢拡大、一燈園などの修養団体運動の盛り上がり、岡田式静座法の流行、賀川豊彦や倉田百三や西田天香の著作がベストセラーになる現象などによく現れている。
 これら日本における生命主義思想の展開は、当時の西欧思想の動向と密接に連動している。鈴木の指摘によれば、ヘッケルの生命思想、ベルクソンやジェイムズやショーペンハウエルの哲学、トルストイの思想、キリスト教スピリチュアリズムの宇宙的生命という理念などが、「生命」という言葉を軸に複雑に混ざりあいながら、日本独特の生命主義的思想に流れ込んでいったということである。
 大正生命主義の終焉は、関東大震災とともに訪れた。それは、一方で科学的社会主義を標榜する「マルクス主義」から神秘主義として拒絶され、他方で民族主義と西欧列強に対抗する汎アジア主義のうちに吸収されていった。「生命」という言葉は何にでも結びつきやすい空疎な言葉となっていた。それはスピリチュアリズムにも結びつけば、ナショナリズムにも結びつく。「生命」をスーパー・コンセプトとしようとする現代的な問題関心にも、このような危険がつきまとうのではないか。鈴木は、大正生命主義を整理し再検討することによって、現代の生命主義を歴史的に相対化する必要がある、と主張している。
 なお、本書は、以上のような鈴木の提案を中心としながら、他26人の著者たちの各論によって構成されている。そこでは、宗教や文芸や民衆思想など幅広い領域にわたって議論が繰り広げられている。西洋的な近代科学文明を超える霊性の思想が注目を浴びている今日、本書は現代の宗教的思想的状況を考えるための有益な視点を与えてくれるだろう。(堀江宗正)

小野泰博『谷口雅春とその時代』東京堂出版 1995年

 本書は、癒しやカリスマなどに目を向け宗教学と心理学にまたがる領域で活躍された故小野泰博氏の遺稿であり、「生長の家」の創始者である谷口雅春の誕生から教団設立までを扱い、その信仰・思想を当時のさまざまな思潮とかかわらせながら生き生きと描き出したすぐれた伝記的研究である。そこでは谷口の思想的遍歴と真摯な探求精神とがクロースアップされている。
 文学少年だった谷口雅春(正治)は、耽美主義文学やトルストイの人道主義などの影響を受けていた。文学をそのまま実践するような残酷な恋愛経験は、谷口にエゴイズムとの葛藤と強い罪悪感をもたらす。罪悪感にさいなまれ、またすでに心霊術などにも興味を抱いていた谷口は、世の立て替えという終末論を説き、鎮魂帰神法という修行法を実践する大本教にひかれ、入信する。ここでは、大本教を論駁しようとする心理学者との論戦、霊眼を開くという現象、宇宙普遍の原理という抽象的な神概念から人格的な神概念への移行、輝子夫人との出会いと結婚などといった出来事が語られている。しかしながら、神義論問題につまずき終末論に疑問をもち始めた谷口は、終末が到来しなかったことを機に大本教を去る。彼は「神罰を起こす残酷な神に疑いを抱いて大本教を脱退して、至高の愛の神を求めて」、「ついに現世を無明の世界として、物質の否定、肉体の否定を通して実相のみ独在する」という立場に至る(谷口雅春『聖道へ』本書112頁に引用)。さらに、谷口は、フェンウィック・ホルムスの著書を通じてニューソートに触れ、これを、周囲の環境をすべて心の所現として説明するような仏教的キリスト教思想としてとらえ、やがて「物質はない!」という啓示を得、「生命の実相」を説く独特な思想を展開してゆく。以後、『生長の家』という雑誌を軸にして文書伝道というかたちで支持者を増やし、次第に組織化されてゆくが、本書の原稿はそこで中断されている。
 原稿の整理編集にあたった島薗進教授も巻末の「解説」で述べておられるように、「本書の魅力は伝記的叙述そのものにあるというよりも、思想や信仰の系譜をたどったり、同時代の他の人々を登場させたりし」ながら、谷口自身の思想や信仰の形成過程をあとづけている点にある。本書は、時にはやや冷たいまなざしによって谷口との距離を保っているが、基本的には、谷口という人物とその思想を全体的に理解しようという情熱で貫かれている。本書でとりあげられている人物のなかには、内村鑑三、西田天香、浅野和三郎、香川豊彦、倉田百三などがある。このような人物群像のなかで描かれる谷口の思想形成プロセスを、「大正生命主義と現代」(前項参照)を考えるための一事例として読むこともできるだろう。(堀江宗正)

国際宗教研究所編(責任編集=井上順孝)『宗教教団の現在bb若者からの問い』新曜社、1995年
 マスコミで宗教がとりあげられる際、それはスキャンダラスな報道であることが多い。マスコミの恩恵に浴する度合いが比較的大きい大学生を中心とする世代において、宗教に対するマイナス・イメージは非常に根強い。世論調査などを見る限りでは、若者の宗教離れはすべての世代のなかでもっとも顕著である。他方、いわゆる新新宗教教団の運動において若者が中心的な役割を果たしていることから、「あやしい宗教に走る若者」というイメージがひとり歩きしている。日ごろ若者の宗教的ニーズに応えられていないと考えている伝統宗教や旧新宗教の指導者にとって、これは格好の言い訳になるかもしれない。要するに、宗教をあやしいと考える若者と、若者をあやしい宗教に走りがちだと考えている教団とのあいだにコミュニケーションのギャップが存在しており、そのギャップを広げるのにマスコミが一役かっているという奇妙な現状があるわけだが、しかし両者のあいだに理解しあいたいという欲求がまるでないわけではない。
 本書はその要求に応えようとする野心的な試みである。ベースになっているのは、教団11団体と大学生10名が参加した国際宗教研究所主催の公開パネル・ディスカッション「教団は何をしているのだろうか?bb若者たちの問い」(1994年9月24日、於大正大学)である。教団の側にはあらかじめ学生側から用意された質問が行き渡っている。それは、他の宗教に対する態度、教団の活動で最も重要なもの、教団の経済的運営、現代人にとっての救い、教団の方針と自分の立場とのあいだのずれ、自分たちの宗教は偏見をもたれていると感じたことがあるか、などの六項目から成る。第一部「教団からの発言」はこれらの質問に教団側が答えるというかたちで進められる。上記の質問(とりわけ1、3、5番目の質問)の背後には、他の宗教に不寛容で、信徒を洗脳して画一的な行動に駆り立て、それでいてその実態は単なる金儲け、というイメージが隠れているかもしれない。それに対する教団側の回答は、まさに模範解答である。コミュニケーションの行き違いは解消されない。いやむしろ、それが浮き彫りになっている感がある。教団が社会的イメージの向上に努めているのに、それに対する社会的認知はさほど得られておらず、教団の実態の不透明さばかりが残るという不幸な現状の縮図がかいま見られる。
 面白いのは第二部「若者からの問い」である。ここでは若者側と教団側の自由な討論が展開されている。議論は必ずしも整理されているとは言えないが、それがかえって生き生きとした臨場感を伝えている。大きな論点となっているものに、カウンセリングと宗教の違いがあげられる。もし宗教における救いがカウンセリングと変わらないのならば、宗教固有の使命や宗教の成立根拠などないことになるのではないか、という問いかけは、宗教者にとって無視できるものではないだろう。確かに明確な違いはない、いやカウンセリングは宗教の一部だ、など様々な意見が飛び交っている。私見によれば、この問題の本質は、個人単位でおこなわれるカウンセリングで現代人の悩みに答えることができるのなら、教団という組織や制度は不必要ではないか、という学生の問い(96頁)に集約されるものである。したがって、学生側と教団側とでの個人主義に対する評価の違いにもっと焦点が当てられるべきだった(そういう意味で、味酒氏の「素人の時代」(164頁)という指摘は的を得ている)。
 いずれにせよ、このような試みは今後もさまざまな場所でおこなわれるべきだろう。もちろん、そのような場にいわゆる新新宗教教団の声が反映されたほうが好ましいということは言うまでもない。(堀江宗正)

島薗進『オウム真理教の軌跡』岩波書店(岩波ブックレット)、1995年

 今年3月の地下鉄サリン事件以後、オウム真理教の事件への関与が取りざたされ、その活動の実態についてもさまざまな報道がなされるようになってきている。オウム真理教がなぜそのような問題を引き起こしたのかについては、種々の議論がなされているが、なかには宗教法人法の改正問題に直結させようとする性急な議論さえでてきている。ことは日本の宗教界全体の問題にまで発展しかねない。
 そのような状況のなかで、おそらく今もっとも読まれるべき本がでた。本書は、新宗教および新新宗教研究の第一人者の手による、一般読者層を対象とした小冊子である。
 著者は、オウム真理教問題を、オウム真理教の信仰世界に即して考えようとする。それによって、@この集団の行動を内在的に理解すると同時に、Aそれを日本の宗教文化の問題として捉え返し、Bさらに現代世界の宗教文化の動向の一つである宗教回帰とも関連づけようとする。この点、著者は、オウム真理教を犯罪者集団として追求するジャーナリストや、70年代以降の大衆文化の産物として特徴づける評論家・知識人や、「あれは宗教ではない」と言って目をそむける一部の宗教者に見られる態度と距離をとっている。その意味で、現代における宗教研究のあり方の一つを、からだで示していると言ってもよいかもしれない。
 叙述は、教祖である麻原彰晃の阿含宗入信、「解脱」や「悟り」などの内向的な究極目標をもった信仰者集団の成立、「秘儀=イニシエーション」により「解脱」と「悟り」への道が著しく促進されるという「救済」の信仰の展開、と進む。やがて88年から89年にかけて、終末的危機感が強調され、外部世界との緊張関係が高まる。著者は、この時期に、教団の「内閉化」すなわち閉ざされた共同性をつくり外部に対して攻撃的になることで勢力を伸ばそうとする傾向が、一段と進んだと見ている。ちょうど、坂本弁護士一家事件や、波野村における地元住民との紛争などが起こった時期である。物質主義や情報化社会への敵視が顕著になるとともに、ハルマゲドンの「生き残り」の観念の強調から「核シェルター」構想などが打ち立てられる。その後、90年後半から92年中頃にかけてマスコミを通じてよいイメージを広げる努力がつづけられ、またある程度の成功も収められるが、92年秋から93年にかけてふたたび内閉化傾向は強まる。その結果、強引な勧誘・献金、一般社会からの信徒の隔離、攻撃性など、初期から存在していた内閉的行動パターンが強化され、首尾一貫した内閉的世界観が練り上げられる。遅くとも94年はじめころには拉致監禁や「信徒虐待」がおこなわれようになったと見られる。内と外の両方において暴力性が顕在化したのである。
著者はこの経緯を説明する際に、「解脱」の教えにまつわる不安に着目する。信徒の側には「解脱」の約束が果たされない不安がつきまとい、教祖の側では「解脱」の証明のために確かな超能力や予言の成就が必要とされる。「本来は個人としての「解脱」を求め信仰生活をはじめたのに、教団の勢力拡張のための奉仕のみに日々を費やしているかのように感じられれば、充実感は得られず、不満は高まらざるを得ない」(26頁)。そこで「救済」の側面に信徒の関心を向けさせるために、終末的危機感が強調されるようになったというのである。
 そのほか暴力性強化の要因として、指導者絶対化の論理である「秘密金剛乗」が強調されたこと、信徒間の横の関係が弱わかったため指導者の権力行使をチェックする機能が働いていなかったこと、勢力拡張を志向する日本の新宗教の活動パターンの引き継ぎ、「科学」や「情報」に過度の力点を置く生命的リズムの破壊(薬物利用、心理操作、メディア操作)、などがあげられている。
 また、著者は、宗教に対する過度の統制を要求する声を非現実的な主張として牽制する一方で、オウム真理教には、シンクレティズム、生き神信仰、教勢拡張志向的な活動様式、密教、仏教、70年代以降の大衆文化などといった、さまざまな日本の宗教伝統の要素が見られるという点をはっきりと指摘している。そして、「日本の宗教界全体が、オウム真理教をまったくの他人事として見ることはできないのではなかろうか」(58頁)と問いかけるのである。
 さらに著者によれば、70年代以降、先進国・発展途上国の双方では、近代合理主義や消費主義的ライフスタイルへの不満から、若者たちが宗教や宗教的なものに希望を託す傾向が強まっている。日本の新新宗教のなかにも、反世俗主義的な主張をかかげる教団は少なくないが、オウム真理教もそのなかのひとつだった。だが教祖および幹部は、結果的には自由の重荷からニヒリズム、すなわち価値の崩壊と全面的な倫理的混乱に陥ってしまった。しかし、「近代のジレンマと現代文明の危機に抗しうる、現実的かつ確固たる足どりが見えるようにならない限り、[オウム真理教に見られるような]「自由の果ての破壊」への真に安心できる有効な対抗策をもつことはできないであろう。果たして、宗教を抜きにして、そのような確かな足どりを築くことができるものであろうか」(63頁)。著者は、このような含みのある言葉で本書を締めくくっている。
 本書の問題提起は深い。オウム真理教の信仰世界を内在的に理解することによって、それが日本の宗教界会全体の問題であり、かつ現代社会全体の問題につながるということを指摘しているのである。現代日本における宗教の困難、これにわれわれはどう対応すべきだろうか。(堀江宗正)

村上春樹『約束された場所で――underground 2』(文芸春秋、1998年)

 小説家村上春樹の、地下鉄サリン事件の被害者へのインタビュー集『アンダーグラウンド』は、それまであまり取り上げられることのなかった被害者の声を丁寧に拾った好著として記憶に新しい。本書は、その続編であり、インタビュイーを、サリン実行犯でないオウム真理教信者(脱会者も含む)に移したものである。まえがき、8つのインタビュー、心理療法家である河合隼雄氏との2つの対談、あとがき、という構成をとっており、インタビュー以外の部分から著者のスタンスが分かるようになっている。
 本書は、いわゆる「オウム本」のなかでもかなり特異な位置にある。弾劾や非難の本ではないし、かといって中立的立場から教団の体質を解明しようとする試みでもない。反対なり再評価なりといった明確な意見表明を拒みつつも、「明確な一つの視座ではなく、明確な多くの視座を作り出すのに必要な血肉のある材料」を提示するのが本書の意図であるという。
 著者の提示した「材料」から読み取れるオウム真理教の信者像を、評者なりにまとめると、次のようになる。1)まず、論理的な首尾一貫性へのこだわりが非常に強い。論理や解析はあっても、生活者としてのリアリティにもとづいた直感がない。2)しかし、神秘体験をそれだけで正しさの根拠と取り違えるような、ある種のナイーヴさが見られる。自分だけの身体的リアリティを絶対視し、他者と共同でリアリティを重ね合わせるという作業が欠落しているという印象を受ける。3)さらに、現世を悪と見る態度が顕著である。多くのインタビュイーに、ノストラダムスの予言の影響と強い終末感情が見られる。彼らは、現世に堪えることができず、それを無価値とし、非常に簡単に出家を選択する。対談者である河合によれば、煩悩を抱きしめてゆく力が弱いということになる。これらのインタビュイーを一言で形容するなら、「決められたレールからドロップアウトした鋭い懐疑主義者」とでもなるであろうか(それに対して、サリン事件実行犯は、著者によれば「ミニチュア疑似世界のエリート」ということになる)。
 著者は、オウムの信者たちの特徴として、「物語の小ささ」を指摘する。彼らは、善悪のけじめをつけながらすべてを説明し尽くすような物語を求めようとする傾向が強い(この点は、メディアのオウムをめぐる物語にも共通する特徴であり、現代社会における物語の狭隘化を仮定したくなる)。それは、“安易な分かりやすさ”と言い換えることもできるだろう。このような「物語の小ささ」に対して、著者は、より大きな物語の必要性を説く。それは、善悪を包摂し、多数の視座を含み、現実の矛盾や混乱をそれとして受け入れることを可能にする物語である。結局、現実から混乱や矛盾を排除することは不可能なのである。このことは翻って、「純粋な心を持った信者」を排除してきた、そしてこれからも排除してゆくであろう現代社会に対する批判にも転じうる。こうした「純粋な人間」をも受け入れる器が今の社会にはかけているのである。
 著者が拾った、信者たちの論理的一貫性へのこだわりと言うときの、その「論理」の内容を、評者なりにもっと明確にするならば、それは何よりも二者択一的な論理である。彼らは、世界の悪に、単なる「悪」以上の意味を見いだすことができず、全否定に向かう(「この世には余計な苦しみが多すぎる)」。ところが逆説的にも、彼らは、否定しようとしたものと似たものになってしまう。現実社会の縮図のような集団を形成しながら、世界の悪に匹敵する悪を作り出してゆく。実際、現実世界に従順なエリートが、麻原に従順な幹部として出世し、サリン実行犯となっている。悪を否定する善になろうとして、かえって悪を犯してしまう。実は、オウムのしていたことは世俗の単なる否定であり、世俗の超越ではなかったのだ。仏教をも含んだ宗教の為すべき仕事とは、人間の根本的な社会性・倫理性、人間の本来的なあり方に立ち戻りながら、世俗を相対化する視座を提示するということであろう。ところが、彼らは、世俗を否定しようとするあまり、人間の根本的な社会性をも否定してしまったのである。
 最後に、一連の事件と距離を取っていた者へのインタビューという方法、あえてサリン実行犯に焦点をあてないという限定について一言しておこう。事件に関わっていなかった信者たちは、オウムの「方向性としての正しさ」を今なお信じている。動機の純粋さをすくい取りたい、あるいはすくい取ってほしい、オウムという器はもうダメだが、別の器でなら正しい結果が出るはず、と。彼らは、オウムがサリンをまいたことについても、不承不承ながら認めているだけである。事件のリアリティを、多元的に時間をかけて構築するというプロセスに、彼らは堪えられるであろうか。いまのことろまだ、彼らのリアリティの根拠は、そうしたプロセスを省略した、間違いのない原理的な正しさと、自分だけの経験的事実に置かれている(合理主義と経験主義!)。そうした彼らの現実を「明確な多くの視座を作り出すのに必要な血肉のある材料」として提示する本書は、それ自体、多数のリアリティの重ね合わせの実践となっているのではないだろうか。
(堀江宗正)

島薗進『ポストモダンの新宗教――現代日本の精神状況の底流』(東京堂出版、2001年)

 「新新宗教」という言葉に懐かしい響きを感じるのは評者だけだろうか。1970年代以降に急成長した新宗教が、それまでの旧「新宗教」にはない新しい特徴を持っていることから、西山茂や本書の著者が採用した用語である。オウム事件以後、「カルト」という言葉に取って代わられた感があるが、本書は、この「新新宗教」に関する学問的な定義と整理とその背景の分析を、改めて試みたものである。
 著者は、1970年代以降顕著な発展を遂げた教団を「新新宗教」と呼ぶ。そこには、それ以前の新宗教にはない、時代を反映した新しさが含まれると考える。ひとことで言えば、世俗生活からの遊離であり、現世離脱的傾向である。よく言われるところでは、貧病争という動機から「空しさ」の動機への転換、神秘現象と心身変容への関心の増大、自己責任の強調(先祖供養より輪廻転生思想の強まり)などがある。このような脱世俗的傾向を持つ新新宗教は、運動形態としては個人参加型や隔離型のどちらかになりやすい。どちらも、世俗社会からの遊離という特徴を持つ。
 ときには、単なる遊離にとどまらず、明確な反世俗主義的主張を掲げることもある。それは80年代以降の新新宗教において特に顕著である。反世俗主義は、宗教的ナショナリズムと結びつくこともある。それ以前の新宗教においては、戦争への反省から自由主義・平和主義や人権擁護が優勢であった。ところが80年代の新新宗教は、戦後社会があまりにも物質中心の世俗主義にまみれてしまい、日本人としての精神性を見失ってしまったと考え、その回復を目指す。ただ、それは戦前の排他的なショナリズムとは異なり、異質なものを取り入れる日本文化の包容性や自然との調和を是とするものである。
 このような主張の背景には、1970年代末のイラン革命以後の、反世俗主義的な宗教的なショナリズムの全世界的な高まりがある、というのが著者の見方である。日本には、戦前から、統一的ではないものの、神道を中心とした宗教的なショナリズムがあった。しかし戦後に入ると、それは戦争を推進したものとして退けられる。ところが1980年代から、国民統合強化の主張や、日本的な霊性の強調が目立ちはじめ、戦後日本の世俗主義を批判し、日本の伝統的な精神的価値を取り戻そうとするポストモダン的な反世俗主義の潮流が生まれた。先に見たような新新宗教の反世俗主義・宗教的なショナリズムは、このような文化潮流を敏感に察知しながら、増幅させたものであろうと、著者は述べる(この論法で行けば、世情に聡かったのは新新宗教だけではない。平和主義を掲げた戦後の新宗教もまたしかりであろう)。
 そこから著者はわれわれの社会全体の分析にまで踏み込む。80年代の「宗教ブーム」は、宗教集団全体の勢力の伸展ではなく、メディアレベルでの「呪術=宗教的大衆文化の興隆」や、個人レベルでの「新霊性運動」を含んでおり、「新新宗教」はこの「宗教ブーム」のごく一部であると考えられる。このような宗教的状況から読み取れるのは、われわれの社会における、個人主義の自由さと空しさ、内閉的集団への魅了と反発である。
 近代的な自律的自己への信頼は、悪が最終的にはコントロール不可能であるという現実に直面して挫折してしまう。新霊性運動などの個人主義的な運動は、それでも、あくまで悪の不在を強調しようとする。しかし、新新宗教は、救済宗教と同様に、悪の実在を強調し、そこから離脱することをすすめるのである。
 本書は、1990年代を通して書かれた論文によって構成されている。扱われている対象は、主に1995年までの「新新宗教」である。オウムに関するものや、オウム言説に関わるものは、別の形でまとめられているし、また今後まとめられることになるだろう。
 オウム以後「カルト」という言葉が流行り、今また同時多発テロ以後「原理主義」という言葉が頻繁に使われるようになっている。これらの言葉には、学問的用語としてはさまざまな問題があると指摘されている。とりわけ侮蔑的な意味が込められているため、対象の冷静な分析には適さない。
 では、「新新宗教」という言葉はどうか。すでに見た通り、本書で使われている「新新宗教」という言葉には、厳密な学問的規定が施されている。にもかかわらず、評者の記憶では、たとえば幸福の科学が出てきた1990年ごろのマスコミの「新新宗教」という言葉の用い方には、かなりの侮蔑的ニュアンスが込められていた。旧新宗教の関係者が、「社会的に問題のある新新宗教と自分たちはちがう」という見解を持っていることに、評者は幾度となく接したことがある。「新新宗教」と名指された団体の中で、この言葉をポジティヴないしニュートラルなものとして引き受けたものが、果たしてあったであろうか。否、むしろ、多くの団体がそう呼ばれることに苦しんでいたのである。
 「新興宗教」という言葉をやめて、「新宗教」という言葉を用い、その内在的理解を目指そうとするときの、ある種の逆説的な新鮮さ――「新興宗教なのにそのような豊かな信仰世界を読み取るとは!」――このような新鮮さは、本書では見られない。先進国の新しい宗教現象も、第三世界の宗教復興も、等し並に近代社会からの逸脱としてとらえるようなメディアの「宗教」言説に、かなり寄り添った形で議論が展開されているからである。
 ある宗教集団を、「新〜」と形容することが、発案者の思惑に反して、不可避的に侮蔑的な意味を帯びてしまうということについて、きちんと自覚する必要があるかもしれない。「新〜」を社会とは異質なものとして排除しようとする傾向と、「新〜」に反映されている社会の問題を反省しようとする著者のスタンスは、本来真っ向から対立するものである。だが、それがどこまで理解されるかは疑問である。
 著者の真意が理解されるためには、社会批判的な要素が含まれていることを強調しなければならない。同時に、「新新宗教」の内在的理解と内在的批判――彼らの理想によってその現実を批判する――を含めることで、バランスはとられるだろう。それともう一つ、「新〜」という言葉を使わずに、ある時代状況に対する複数の個性ある応答として現象をとらえるようなスタイルも考えられる。あえて一括することで、何かが見えてくる、と著者は反論するかもしれないが、「1970年代以降に成長した団体」に限定することで見えてくるものが「ポストモダン的な反世俗主義」であれば、その言葉を用いればよいのである。なお、近代的個人主義の行き詰まりが反世俗主義や宗教的ナショナリズムに帰結するという本書の筋書き自体は、まったく目新しいものではないが、それなりの面白さと説得力を持つと思われることは、最後に強調しておこう。(堀江宗正)