島薗進『精神世界のゆくえ―現代世界と新霊性運動』東京堂出版、1996年
大きな書店に行くと、宗教書ではないが宗教的なことを主張しているような本に出会うことがある。いわゆる「精神世界」の本である。それらのタイトルを見ると、「癒し」「気功」「瞑想」「臨死体験」「ニューサイエンス」「エコロジー」「トランスパーソナル心理学」などといった言葉がちりばめられている。これらの思想に親しみ、また何らかの実践をしているような人々は、必ずしも宗教団体などには所属していない。むしろ、教団の拘束や強制をきらってゆるやかなネットワークをなしていることが多い。
ここで紹介する『精神世界の行方』の著者島薗は、そのような思想運動群を、「新霊性運動」と呼んでいる。新霊性運動は、個々人の自己変容、霊性の覚醒を目指し、それによって人類レベルでの新しい意識段階が形成されると主張する。運動の当事者は、それが伝統的文明・宗教を超え(固定的教義・教団組織・権威的指導体系・「救い」の観念をもたない)、西洋文明、近代科学を超えるものであるということ(科学的認識と霊性の深化との一致)を標榜する。
新霊性運動は、1970年ごろから、大衆的規模をもつ運動群として展開しはじめる。それは比較的高学歴層の支持者をもち、大衆運動としての側面だけでなく、学問思想運動としての側面ももっている。その裾野は広く、主流文化の一部として受容されている部分もある。
この運動は先進国を中心とするグローバルな文化現象である。たとえば、日本とアメリカとで、同時多発的に類似の運動が進展するといったことも珍しくはない。その背景には、文化や情報の移動が容易になったということがある。違った場所で似たようなことを考え、似たような実践をしている人がいる。こうした現実から、個々人の意識変容が人類全体の意識変容につながってゆくという感覚が生まれるのだろう。
新霊性運動の当事者が書いた本は、実に数限りなく出版されており、その勢いは今後も衰えることがないと思われる。しかしながら、この運動を冷静に宗教学的立場から分析した本となるとほとんどみかけない。国内でまとまったものとしては本書が初めてであり、その意義は測り知れないほど大きい。
ただ、冷静に分析するとはいっても、自分とまったくかかわりのない奇妙でいかがわしい運動を冷たく分析するという態度がとられているわけではない。
たとえばチャネリングなど、いわゆる「オカルト」的と見なされてもおかしくないような先鋭的な部分だけを狭く取り上げたほうが、運動の特徴づけははるかに容易なものとなったであろう。だが、この運動のすそ野は広く、知名度の高い学者や知識人が、新霊性運動的な主張をすることも少なくない。著者は、運動を記述し分析し発表することによってみずからもその潮流に不可避的に巻き込まれてゆくだろうことを、おそらく自覚しているにちがいない。当事者の主張を真剣に受け止め、それに対して一方的な判断を下すことがないよう注意しつつも、最終的には建設的な批判を述べようと努めている(批判点としては、たとえば孤独な内向性、横の連帯の欠如、合理的批判的な社会認識の必要性など)。それは「宗教」の目録を充実させて、オカルト的な大衆文化を囲い込もうとする姿勢とは決定的に異なる。
「新霊性運動」という分析概念はあまりにも広すぎるのではないかという学問的批判も可能だが、この概念がもつ発見術的価値を見失うことがあってはならない。対象の範囲を限定しないことが、かえって、それまで見えなかった結び付きを明らかにしてくれることもあるのである。
この著者の文章は、平明であり曖昧なところが少ないが、しかし非常に密度が濃い。その意味で、本書は必ずしも読みやすい本とは言えないが、「新霊性運動」と呼ばれる思想・運動に興味のある方には、ぜひとも一読することをおすすめしたい。
(堀江宗正)
今年に入ってから、高度情報化社会と宗教の関係をテーマとする本が相次いで出版された(本書のほかには、池上良正・中牧弘允編『情報時代は宗教を変えるかbb伝統宗教からオウム真理教まで』弘文堂、竹内整一編『無根拠の時代bb今あらためてリアリティ・アイデンティティを問う』大明堂など)。昨年のオウム事件以来、宗教学者・社会学者を中心に、オウムが出てきた社会的背景について改めて考えようとする気運が高まってきている。これらの本の出版はそうした努力の成果と言えるだろう。それらのなかでも本書の特徴は、「情報化社会」に加えて「高度消費社会」をキーワードとしていることである。
評者のみた所、本書の中心となっているのは、島薗論文「聖の商業化bb宗教的奉仕と贈与の変容」である。著者は、古代中世から近世近代へと時代が移るにしたがって、見返りの定かでない共同体的奉献から、個人的目的を実現するための個人的奉献へと、奉献の性質が変わってきていると指摘する。
ここでいう「奉献」とは、時間や所有物やエネルギーを、神仏・宗教的善・共同体のために自己犠牲的に贈与する宗教的行為のことである。一族の長が一族を代表して土地を寄進するといった奉献のあり方から、時代をくだるにしたがって、多数者の自発的な奉献が増え、「勧進」などの平均化された奉献の形態が登場し、近世近代になると個人・小家族の私的平安を願う方向へ傾いてゆく。現代では、お互い知らぬものどうしが会場に集まって、一参加者としてお金を払って集会に参加し、情報サービスを享受するといった、ほとんど純粋に個人的な奉献が急速に増加している。
いわゆる新新宗教の教団の組織構造も、「業務遂行組織b消費者接合モデル」としてとらえられるものとなっている。そこでは、教団刊行物の商業的・非人格的な交換などの「弱いコミットメント」と、霊的向上のための投資とも言える極端に高額な献金、全面的自己投入生活のような「強いコミットメント」との二分化が見られるが、著者は、いずれの強度のコミットメントも「聖の商業化」の流れに合致していると見る。また、それと地域的信仰共同体の弱体化とは連動しているとされる。ともに信仰し、育てあい、励ましあう空間が十分な機能を果たしていない。このような状況では、コミットメントの急激な深化には、強制・欺瞞が介在しているのではないかという疑いの目が向けられやすい。
気鋭の社会学者と編者らによる冒頭の「オウム・消費・メディア」という刺激的な討論でも、島薗氏はこうした見解を提示しており、他の発言者もそれを受けるかたちになっている。また、奥山論文「消費社会の宗教性」や石井論文「情報化と宗教」なども、似たようなテーマを扱っている。しかし、「聖の商業化と教団組織の業務遂行組織化は、多くの好ましくない効果をおよぼしている」(108頁)という島薗論文のはっきりとした問題意識は、そこでは共有されていないようだ。他の若手研究者の多くは、複雑な状況を分析できる概念装置を洗練させることに重きをおいているようであり、そこからいかなる倫理的判断が帰結するかについては必ずしも明らかにしていない。
だが、読者はその分、論者らの主張をリンクさせながら、扱われている問題の究明にみずから参与することができるであろう。そうするなかで、島薗論文の分析が妥当かどうか、たとえばその主張は個別の事例との照応に耐えうるものか(本書所収の松本、山中、鈴木、林らの個別研究とのつながり)、新宗教と「新新宗教」とでどの程度の違いがあるのか、個人的奉献の形態は一方的に批判されるべきものなのか、などといった問題を考えることができるであろう。しかし、「聖の商業化」に対して性急な倫理的判断を下す前に、事態を緻密に把握し、状況を適確に分析することが必要であることは言うまでもない。(堀江宗正)
中井久夫『西欧精神医学背景史』(みすず書房、1999年)
田邊信太郎・島薗進・弓山達也編『癒しを生きた人々――近代知のオルタナティブ』(専修大学出版局、1999年)
ここに紹介する二書は、いずれも宗教と癒しの関係性を歴史的に考察したものである。
中井久夫の本は、西欧精神医学を一つの治療文化(治療と診断の体系と実践)として、その文化依存性を確認したうえで、この近代における特殊な治療文化が形成されるまでの、西欧における宗教と癒しの文化の歴史をたどったものである。とはいえ、ギリシア、ローマ、ヨーロッパ、そしてアメリカをも含んだ欧米へという連続性を描くという偏った西洋史観を著者はとらない。西欧の医学におけるイスラム文化の影響は無視することができない。また、東欧やロシアの状況をも視野に収めておく必要がある。その上で、様々な治療文化が生成してゆく有り様を記述してゆく。文字通りの博覧強記、博識ゆえの脱線、名文と評されるものの決して読みやすいとはいえない文章。そのため、ここでこの本のあらすじを述べることはとてもかなわない。ただ、宗教と医が未分化だった状態から、医学が分離しつつ、宗教家による治療実践もおこなわれるという時代、そして魔女狩りという困難な時代を経て、その廃虚の中から近代精神医学が生まれてくるという筋は追えるだろう。これを治療文化という観点から読み直すことも可能である。深読みすれば、近代の成立の背景に魔女狩りという犠牲が伴っていたという論点に、共同体レベルの治療文化の限界と福祉国家の功罪を見て取ることもできるだろう。
田邊・島薗・弓山の編による本は、「癒し」を学問的テーマとして扱った先駆的研究である『癒しと和解』(ハーベスト社)の続編である。前著が新宗教における癒しに重点を置いていたのに対し、本書は明治後期から昭和前期にかけて展開された、狭義の宗教に限らない癒しの運動を扱っている。事例としては、岡田式静座法、大本の鎮魂帰神法、森田療法、マクロビオティック、野口整体が取り上げられている。これらは、西洋近代医学に触れつつも、単に伝統的東洋医術に回帰するというのでなく、古今東西の医術や健康法を独自に発展させたもの、すなわち近代知とも伝統知とも異なる第三の代替知を目指したものとされる。これらの癒しの運動には、アメリカから出て日本でもよく紹介されているホリスティック医学の思想(さらにそれを包摂する新霊性運動―文化)を先取りするような内容が、ふんだんに含まれている。とりわけ、両者は、個体を身体と心、さらには魂や霊のレベルまで含んだ一つの有機的な全体としてとらえ、その全体への回帰を促そうとする傾向において、著しく類似している。気になるのは、これらの運動がどうして衰退したかという点である。第二次世界大戦へと向かうにつれて国家の思想統制・文化統制が高まったから、というのが素直な答えであろう。したがって、このような帰趨を今日の癒しの運動はたどらないだろう、と。だが、経済がグローバル化し合理化が進む一方で、保守主義の言説が台頭し、あらゆる精神的なもの、霊的なものを危険視し、管理しようとする傾向が強まる中で、今日の癒しの運動も何らかの変容を被らずにはいられない(あるいは先細りする)と感じるのは評者だけであろうか。
(堀江宗正)
田邊信太郎・島薗進編『つながりの中の癒し――セラピー文化の展開』(専修大学出版局、2002年)
現代社会における孤独な個人主義の徹底は、つながりの回復を要請する。他方、癒しの追求のさまざまな試みがあり、そこには、いのちを支えるつながりの回復、発見、構築の局面が見られる。これらの癒しの追求は、宗教における「いのちのつながり」の追求を引き継ぐが、宗教の枠をはみ出している。本書はこうした「つながりの喪失」と「つながりの回復」を、心理療法、セルフヘルプ・グループ、地域社会におけるつながり、若者のコミュニケーション、ボディ・ワークなどを通して論じるものである。
島薗進は、序章「セラピー文化の行方」で、セラピー文化がどのように展開してきたかをおさらいしつつ、本書が扱う領域をそのなかに位置づける。これは、田邊信太郎の最終章「健康幻想と癒しの地平」において、さらにボディワーク系の運動に即して詳述される。次に島薗は、それが正統的な心理療法から発展したと見るのは一面的で、宗教文化の周辺にあるものだと位置づける。最後に、共同性やつながりの欠如した現代社会において、セラピー文化が果たす役割について、セラピー批判を踏まえながら考察する。すなわち、セラピー批判の言うように、セラピー文化は「専門家支配」「こころの商業化」「個人化(孤立化)」に流れる傾向があるが、同時に本書で展開されるように、「つながりの更新」の契機もセラピー文化の中には見られるとする。
島薗と同じく宗教学に属する葛西賢太は、二章「セルフヘルプのスピリチュアリティ」ではAA(Alchoholics Anonymous)という断酒自助グループを取り上げ、「何らかの超越的存在を…想定しつつも直接…認識するというよりは…きわめて人間的な領域に及ぶとみてとる感覚」という意味でのスピリチュアリティを、セルフヘルプ・グループの中に見いだす。
宗教社会学に属する小池靖は、三章「文化としてのアダルトチルドレン・アディクション・共依存」で、アダルトチルドレンにかかわるムーブメントを追いながら、それが、生まれ変わった肯定的な自己を目指すセラピー的共同体になっていると指摘する。また、通常の医療では扱えないモラルや人生観の問題にも踏み込むために、ポップカルチャーにまで広がり、一部は霊的な側面を回復させようとする社会運動ともなっていると指摘する。
ラカン派精神分析を理論的支柱とする社会学者である樫村愛子は六章「代替生活世界的コミュニケーションの展開」で、若者のコミュニケーションが、生活世界特有の共在の時間や空間を喪失しているからこそ、代替生活世界を構築しようとしていると論じる。若者の排他的だが優しげなコミュニケーションは、フランクで知的であり閉鎖性を脱したコミュニケーションにつながる可能性もはらむ。彼らの、意味や目的を持たないが一定のルールで一緒にいることを楽しむ集団(遂行的集団)のなかには、代替的な共在性と信頼を獲得する可能性もある。そして、若者は感情を行為から切り離す傾向があるが、同時に、だからこそ感情のストレートな伝達が可能になっている点も否めない。
臨床心理にかかわる森岡正芳は一章「生命過程とつなぐ」で、生命過程と意識の乖離が病理をもたらすとする。そして、「〜でありたいが今は〜でない」というパトス的状況に、病者とともに身を置くことによって、その受動性や苦しみを感じると同時に、病者が本来持っている能動性や自発性をも探るのが、援助者の勤めであるとする。
渋谷「ニュータウンと癒しのトポス」は、郊外の排他性、同質性、居場所のなさ、「癒しの場」を求める動きを概観する。箕口「他文化社会におけるサポートネットワーク」は、援助的還元をともなうアクションリサーチを特色とするコミュニティ心理学の立場を紹介し、中国帰国者にかかわる事例を取り上げ、多文化社会におけるサポートネットワークのあり方を問う。そして、在来の保険・医療・福祉サービスに加えて、民族コミュニティそのものの強化とセルフヘルプをサポートするネットワークの重要性を説く。
編者らの意図はすでに示したとおり明確なものだが、読後の印象は、個々の章の「つながり」が見えにくいというものであった。上の要約は、評者なりにつながりが見えやすくなるよう工夫したものだが、成功したとはいえない。それは編者らの力量や企画に問題があるというよりも、セラピー文化の複雑さを示すものであるかもしれない。流派や分野が相互に没交渉であり、理論が複雑になる一方で、実践家が理論を軽視する傾向がある現行のセラピー文化は、ニーズが高いだけに、自己反省的姿勢をますます欠如させてゆく可能性がある。編者らは、すでにセラピー文化への批判や、健康幻想の見直しなどを問題意識として抱えている。そうであるなら、つながりを希求する営みを見てゆくという価値中立的なテーマよりも、「癒しの今後」を見据えるという問題提起型のテーマのほうが、本書をより生き生きとした一貫性あるものに仕立て上げることができたであろう。
(堀江宗正)
リュック・フェリー(菊地昌実・白井成雄訳)『神に代わる人間――人生の意味』(法政大学出版局、1998年)。
現代社会において、宗教と道徳は正当化の危機に瀕している。著者はこの「義務の終焉」とも呼ばれる状況を検討し、そのなかから脱宗教的な霊性(信仰心〔精神性〕と訳されている)の萌芽を読み取ろうとする。それは、人間の内在性のなかから超越性を見いだそうとする動向であり、他者の尊重、他者への愛や配慮を具体的理想とする姿勢である。
近代に入って世俗化が進んだと言っても、近代初期においては、家族、祖国、歴史のための自己犠牲・自己放棄の義務を説くような「脱宗教的道徳」が存在していた。ところが、世俗化の第二期とも言える現代においては、さらに義務そのものが疑われることになる。そこでは外的に課される独断的真理よりも自己への誠実さを優先させる「本来性の倫理」が主流となる。あるがままの個人を尊重し、「差異の権利」を主張し、場合によっては感覚的刺激に無条件に従うことをも「倫理」としてとらえる。これは、60年代を通じて現れた一つの世界観であり、18世紀以来の脱宗教化の過程の帰結でもある。あらゆる外的超越性を拒絶し自己に向かう個人にとって唯一の超越として残るのは、自己超越である。セラピーや東洋の宗教は、この自己超越という課題を支援するものとして、広範に受け入れられるようになる。
こうした状況は「義務の終焉」か。著者はそのような悲観論にくみしない。現代において、義務は人間に外部から課せられるのではなく、人間の内側から出発して探し求められるものとなったのである。神が倫理を根拠づけることはなくなったが、倫理の果てに再び神的なものが見いだされる。まず、神の人間化が起こり、権威主義的な法の神より、人間的な愛の神の再発見が宗教の重要な課題となる。それと呼応して人間の神化が起こり、聖なるものとしての人間への配慮や共感が、自らの内的必要として目指される。権威主義の拒絶は、垂直的超越性から水平的超越性への転換をもたらした。共同体への帰属ゆえに要求される他律的な自己犠牲ではなく、人類全体との連帯を志向するがゆえに、他者のために、内側からなされる自律的な自己犠牲、これこそが真の自己犠牲と呼ぶにふさわしい。それは、現代哲学における「他者」教とも言える傾向に現れている。こうした動向を明確に支持することが、自己本位の傾向に対する必要不可欠な歯止めともなる。以上のように考える著者の哲学的立場は、人間の内在的超越性を立てる超越論的ヒューマニズムとして要約される。それは、ルソーとカント、そしてフッサールやレヴィナスが手を加えたデカルト哲学の伝統に属するものである。
本書は、現代の宗教をめぐる状況とその現代思想との関わりを、じつにすっきりと整理してくれる。このような視点は類書がなく、現代の宗教と霊性のゆくえに関心を持つ読者は目を開かれる思いがするだろう。訳者あとがきを先に読むと古くさいヒューマニズム本かと思うが、内容はそんなに単純ではない。人間中心主義批判を乗り越えたうえで人間の可能性を問う極めて上質な書物である。
(堀江宗正)
宮崎哲弥『「自分の時代」の終わり』(時事通信社、1998年)
オウム事件以後、アカデミックな宗教研究者のサークル外からも、現代の宗教現象についてさまざまなコメントが寄せられ、論壇をにぎわせるようになった。気鋭の評論家である著者も例外ではないが、その問題意識はなかなか鋭く、そして深い。本書は、時事的評論と、「カルト資本主義」批判、そして各分野の宗教研究者(島田裕巳、富岡幸一郎、加地伸行、定方晟)との対談からなる。そのなかで、コミュニタリアンからラディカル・ブディズムへという思想の軌跡が示され、「自分の時代」の病理への批判が展開される。
資本主義の進展とともに、パーソナルな欲望が肯定され、小さなコミュニティが徹底的に崩壊しつつある。寄る辺なき自我は、あるいは国家の正史なる物語に実をゆだね、あるいは普遍的な霊性に連なろうとする。それは文芸や小さな物語の衰退と軌を一にしている。そのすき間に、大きな物語がぽっかりと口を開けるのである。このような状況に対し、著者は、コミュニタリアン(共同体主義)的な立場から、多様な差異や自律性をはらみながらも、さまざまな伝統と結びつく可能性を残した「社会場」、共同体の領域を開こうという方針を示す(無論、この場合の共同体は国民国家とは同一視されない。コミュニタリアンを保守派と同一視せず、リベラリズムと多元主義の発展形と考える著者の理解は、正鵠を得ている)。
しかし、このコミュニタリアン的な処方は最終的なものではない。というのも、それは全体を包括するような共同体を実体として考えてしまう恐れがあるからだ。そこから、著者は全てを縁起と空性においてとらえる中観仏教の立場へと向かい、自我の「淀み」を多数的かつ多様的な「流れ」に戻し、慈悲の心を理想とするよう要請する。そこでは、共同体は、縁起と空を悟らせるための方便として止揚されるであろう。
このような立場を著者はラディカル・ブディズムの立場とする。これは、多様性に寛容な従来の仏教のあり方が、無我の思想を裏切るような自我肯定の思想を呼び込み、オウム真理教のような存在を帰結したという理解に基づき、あえて仏教を徹底的に純化させた思想として中観派の教説を選び取るという立場である。著者は特定の教団に属していないし、仏教学者でもないが、ものの考え方の基本を仏教に求め、それを時局を考える際の指針とし、仏教の現代的意義を証示せんとする立場を鮮明に打ち出す。
以上は、評者が共感的に読めた著者の中心的主張である。この中核部分から見れば瑣末かもしれない、否あるいは根本的かもしれないと思われる主張が、さらに不協和音のように響いている。それは、仏教の無我説は霊魂否定の思想であり、霊魂の存在や輪廻を浅はかに肯定するオカルト的ニューエイジ思想は排撃されるべきである、という主張である。それに対しては、対談相手の一人でもある仏教学者、定方晟とともに、仏教においては輪廻や実体としての霊魂の存在は否定も肯定もされない、それにとらわれることなかれ、と言っておきたい。著者の霊魂否定としての無我理解は、著者の個人的な問題である死の恐怖の克服にとっては重要であったかもしれないが、それ自体としては根拠が薄弱である。またニューエイジへの反感とともに、ユングや宮沢賢治をファシズムやオカルトとして断じている点も、かなり一面的に思われる、と付け加えておこう。
(堀江宗正)
香山リカ『<じぶん>を愛するということ――私探しと自己愛』(講談社/講談社現代新書、1999年)
80年代に青春を送った著者によれば、当時の若者は、変わり身が早く、目新しいものならなんでも飛びつく「明るい同一性拡散シンドローム」とでも言うべき状況にあり、「私探し」などは問われることがなかった。ところが、80年代後半から、「私探し」という言葉がメディアで盛んに使われるようになる。しかも、そこでは、「私」というものが、まるでどこかに転がっているかのように、探されることになる。精神分析や精神病理への基本的知識への関心が無くなり、かわって「私探し」のヒントになるような特殊な病態、疾患、テーマに関心が集まる。ある特殊なこころの病理に目をつけ、「私のなかにもこれがある!」と「発見」するのである。
多重人格ブームの背後には、自分のなかにも素晴らしい人格があるのではという期待が隠されていた。ストーカー・ブームは、不可解な行動への恐怖と好奇心や憧れのミックスである。アダルト・チルドレンという言葉は、社会的には適応しているが「生きにくさ」を感じている人に、幼児期のトラウマからアイデンティティの成り立ちを説明してくれるものであった。
また、「癒し」という言葉が肯定的なものとして多用されるようになった。この場合、癒しとは、具体的な病苦や障害を取り除いてもらうだけでなく、より高次の全体性を持った「本当の自分」になることでもある。そこには、自分以外の誰かによって自分を変えてもらいたいという願望があるのではないか。さらに、癒しのためなら多少のマインド・コントロールも受けてみるという態度すら見られる。こうした態度で「癒し」に接するものは、商業化されたセラピーやカルト教団を、消費者として自発的に選択し、それでいて結局は、ロボットのような画一化された「私」を手に入れることになる。
精神分析家である著者の分析によれば、「私探し」につながる以上のような現象は、「もう一人の私」願望、「ステキな私」願望とでも言えるような未熟な自己愛によるものである。つまり、私探しにはまっている人というのは、幼児期に誰もが持つ誇大自己を、うまく捨てたり修正することができず、しかも素晴らしい私を目指して努力するのでもなく、どこかにあるものとしての「素晴らしい私」を探しているのだ。そして、それが見つからなくても、せめて特別な存在ではいたいと、マスコミの提供する「新しい病」に飛びついているのである。
このような傾向に対して著者が下す処方せんとは、まず“今私が探しているのは「本当の私」じゃなくて「誇大自己」なんじゃないかな”ということに気づくことである。さらに“ここにいる私は「本当の私」ではない”という自己否定の感情を見つめ直し、“すべてをご破算にして、全く違う私になりたい”というくらいの強い自己否定は、どんな人にも必要ないとする。「自己否定」と「誇大自己」は必ずセットになって現れる。それに対して、自分は少しずつ変えるものであって、すっかり捨てて新しく手に入れるものではないと、著者は強調する。
現代社会を生き抜くつらさとマスコミからのおびただしい情報ゆえに、「等身大の自己」はなかなか作られない。このような状況では、「少しだけ自分の考え方を変えるより、会社を辞めてチベットに旅立つほうが簡単だ」という極端な判断すら生まれる。しかし、そのようなことを繰り返していると、ますます等身大の自己イメージが見えにくくなる。
著者の言う80年代と90年代の断絶については、「本当だろうか」という感想を持つ。癒しや自己改造への志向は80年代にも現れていた。それが90年代に入って、一般メディアでも取り上げられるようになり、サブカルチャーにあったときとは異なる態度で受容されるようになったということであろう。だからこそ、著者は、「何も残せなかった80年代のつけ」という後ろめたさを感じているのである。いずれにせよ、自己というものに対する操作的態度、努力するより外的手段で一挙に自分を変えようとする受動的態度が顕著であることは間違いない。それに対して、「等身大の自己」は、どれも一つ一つがきっと独創的で、エキサイティングで、これ以上ないほど美しいものであり、それをみんなで祝福できるようになりたい、という著者のメッセージは胸に響く。この本自体が、一つの癒しの場となっている。
昨年は、この他にも現代社会を自己論の観点から斬る心理学者たちの労作が目立った。たとえば、影山任佐『「空虚な自己」の時代』(日本放送出版協会/NHKブックス)、和田秀樹『<自己愛>の構造――「他者」を失った若者たち』(講談社/講談社選書メチエ)。(堀江宗正)
森真一『自己コントロールの檻――感情マネジメント社会の現実』(講談社、2000年)
書店に行くと、ビジネスコーナーや心理学コーナーに、自己啓発や対人関係をテーマとした書籍が売り出されている。これら心理学的知識によって武装された自助マニュアルは、現代人のストレスや心的不安をケアするものとして、世俗化の進んだ社会において宗教的な救いに代わる心のよりどころとなっている。
しかし、こうした心理学万能の考え方に落とし穴はないのか。本書は、心理学的知識(とりわけ素人うけするようなもの)が、ある社会的状況を反映するものであり、またそれを作り出しているとする。それは、「人格崇拝」と「合理化=マクドナルド化」という規範が支配的な社会的状況である。
人格崇拝とは、決して自他の人格を傷つけてはならないという規範である。デュルケムによると、近代社会では神に代わって個々の人格が聖なるもの、つまり畏敬と愛着の対象となり、それを崇拝することが善とされ義務になったという。また合理化とは、ウェーバーの唱えた概念であり、予定にしたがって物事を効率良く進行させようとする傾向である。それが、今日では官僚的組織のみならず、日常の消費行動の分野でも顕著であり、マクドナルド化と呼ぶべきものとなっている。このように日常的な社会関係全般を支配する規範となっている合理化と人格崇拝の要請に答えているのが心理学的知識である。
自助マニュアルは、心理学的知識を用いて感情を管理すると同時に、分析された感情をもとに意志決定し行動することをすすめる。現代社会では、相手の人格を尊重するためにも、そして社会的状況の合理化にそった行動をとるためにも、このような「感情マネジメント」が不可欠となっているのである。
それでは、心理学的知識が受け入れられることによってどのような社会的状況が作り出されるのか。心理的安定を回復し自己実現と良好な対人関係を得られるなどということはない、と著者は断じる。ただ、人格崇拝と合理化が高度化した社会的状況に適応するよう水路づけられるだけだというのである。こうして、社会的状況に起因する問題を個人の性格や心理に還元するような心理主義の立場が優勢になると、社会的状況を変更しようとするよりも、それに適応しようとする傾向が強まる。それは一見スムーズだが、実は息苦しい状況ではないか、というのが著者の不満である。
それだけではない。ますます高度化する人格崇拝と合理化の規範は、かえってそれと相反するような現象すら生み出すことになる。自尊心の高まりと傷つきやすさは、「キレる」現象や児童虐待を生み出している。感情マネジメントによる高度な合理化は、かえって「アダルトチルドレン」現象や「摂食障害」を引き起こしているのだとする。
こうしたソフトな「鉄の檻」が作り出されている背後には、「雇用の流動化」状況(派遣社員、在宅勤務、単身赴任、転職、出向などの活発化)があるという。監視・指示されなくても自分の感情をコントロールし、目標達成のための自己動機づけができるような従業員・派遣社員が多ければ、監督者を配置するコストが削減できる。心理学は、「個性尊重・自己実現」への合意を人々から取り付けることで、「能力主義」を推し進め「雇用流動化」を支えている。それは、サッチャーやレーガンの新保守主義の自由主義政策に適応するものであり、こうした状況が現在グローバリゼーションの波とともに日本社会においても優勢になっているのだと、著者は論じる。
本書には救いがない。「心理学の社会学」という新しい学問的領域における先駆的でまとまった仕事であり、第一級の学問的業績であることは間違いないのだが、では我々はどうすればよいのかという問いに全く答えようとしない。人格崇拝と合理化の規範を捨てればよいのか。他者の人格を無視し、社会生活の円滑さをぶち壊すこと以外に、このソフトな鉄の檻を破ることはできないのか。しかし、それは非現実的な選択だ。結局、人格崇拝のエゴイスティックな側面を補正し、合理化の非合理的な帰結を回避するしか道はないのではないか。だがこれもまた、個々人の行為の変容に訴える解決策ではある。そもそも、何でも心の問題に帰する心理主義を批判するという著者のスタンスは、何でも社会のせいにして、個々人の、問題解決への能動的取り組みの芽を摘み取るものではないか。
反カルト主義的雰囲気の強い今日において、本書に表明された言説は有利であり、今後このような心理学批判が多く出てくるだろう。しかし、心理学を学んできた評者にとって、本書の心理学批判は各論において、非常に一面的かつ一方的に思われたことも記しておきたい。こうした「魔女狩り」的言説こそが、ラディカルぶりながらも隠れ社会改良主義として、合理主義の檻をより強固なものにするのではないか。
(堀江宗正)
岡野守也『自我と無我――<個と集団>の成熟した関係』(PHP新書、2000年)
昨今、戦後の個人主義とミーイズムに対する反省の声が上がっている。「日本人は滅私奉公の精神を取り戻すべきだ」「国のために死ねる人間にならなければならない」、というものである。こうした立場が、旧世代のみならず若い世代の間にも支持され、日本は急速に右傾化するのではないかと危険視する向きもある。対立の構図は<私>と<公>である。著者はこれを、自我派と無我派の対立と押さえる。日本の精神文化の伝統は無我的な人格を理想としてきたが、戦後の文化人は戦争への反省から自我派に立つものが圧倒的に多くなった。ところが今日、無我派が再び台頭しつつあると見るのである。
しかし、著者は、自我と無我は本来対立するものではないと主張する。
聖徳太子の仏教受容以来、日本人は、無我を公への奉仕と結びつけてきた。戦前の仏教者のなかには、「無我とは天皇陛下のために死ぬこと」と公言していたものすらいた。つまり、無我は個的主体の否定と考えられていたのである。
だが、仏教の唯識思想によれば、悟ったあとも、悟りの主体としての仏はある。自我を主体という意味で広くとらえれば、仏にも自我があることになる。そもそも、無我とは、諸法無我であり、あらゆる存在には実体がないということである。したがって、無我説は、主体の空性を説くものではあっても主体それ自体を否定するものではない。
誤解のヴァリエーションとしては、無我を「無欲」と混同し、自我と対立するものととらえる傾向がある。自我との極端な対置は、さらに、無我を「忘我」の状態と混同するところにまで行き着く。自我を放棄したいという衝動から、エクスタシーを求め、それを悟りの体験と誤解する。全体主義への心酔も、自我放棄の衝動を満たしながら、盲目的服従を高い精神性と評価するものであり、構造としては同じである。
結局、自我と無我を対立するものと置き、無我を目指して自我を否定するならば、自我以前の状態に退行することに価値が付与されてしまう。自我以前の状態(プレパーソナル)と自我を超越した状態(トランスパーソナル)とをはっきり区別した思想家としては、ウィルバーがいる。ウィルバーは人間の意識の発達論のなかで、自我―理性段階の次には、部分にとっての合理性ではなく、全体にとっての合理性を考えるような総合的理性の段階、ヴィジョン・ロジックの段階が来るとする。この段階は、たしかに自我―理性の段階を超えているものの、それを否定しているのではなく包括している。ヴィジョン・ロジックは世界全体を視野に入れるものであり、あらゆる部分中心主義を超えている。したがって、自己中心主義(皮相な「自我」派)とも、自民族中心主義(これまでの「無我」派)とも異なる境地なのである。
もちろん、全体のことを考えるといっても、コスモスの全体を視野に収めることのできる人間などいない。しかし、それぞれの場所からコスモスの進化の一過程をになおうとすることはできる。そこに生の意味がある。この見方からすれば、コスモス全体の進化の方向に沿うことが善で、そこからそれることは悪である。このような意味での倫理は、独善的にならずとも、明快に示されるだろう。この観点に立てば、自我と無我の対立は完全に解消・止揚されてしまう。以上、著者の見解である。
本書は、自我と無我の思想的整理にとどまらず、右傾化勢力を牽制するという政治的モチーフをも有する。著者は自身の歩みを回顧しつつ、ウィルバーと唯識思想に出会うことで、本書の主張がストレートに導き出されたかのようにまとめている。「私は最初から正しかった」という具合にである。だが、80年代から著者が日本に積極的に輸入してきたトランスパーソナル心理学は、どちらかといえば没政治的「無我派」であった。おそらく90年代に入って、著者は、思想上の全体論と政治上の全体主義が実は地続きであることに気づかされたはずである。さらに「没我」派の全体主義であるオウム以後のニューエイジ離れに直面して、トランスパーソナル心理学の生き残りの道を必死に模索したすえ、本書のような立場に至った、と見るのは邪推であろうか。
学術的には大ざっぱであるし、また自分の主張は日本の仏教者が誰も指摘しなかったことであるとする驕慢さは鼻につくが、“文化人の右傾化と知識人の左傾化”とでもまとめられそうな思想状況のなかで、宗教的あるいは霊性的な知識人がどのようなスタンスをとるかについての、興味深い一例として読むことはできる。(堀江宗正)