イルカの昼寝の身上書  弁護士になった理由&病気になった理由

*履歴書(それらしく書いてみました)
*各種データ(趣味・特技・愛読書などなど)
*人生6年周期説・・・・僕とビョーキの深〜い関係
*20年目の休息・・・・僕のことを語ろうか

■履歴書

氏名    イルカの昼寝(いるかのひるね)

本名    和智 薫(わち・かおる)

現住所   埼玉県志木市

生年月日 1975(昭和50)年12月31日

性別    たぶん男です

学 歴

1988年3月  埼玉県羽生市立羽生北小学校卒業
1991年3月  埼玉県羽生市立西中学校卒業
1991年4月  慶応義塾高等学校入学
1994年3月  慶応義塾高等学校卒業
1994年4月  慶応義塾大学法学部法律学科入学
1996年11月 司法試験合格
1998年3月  慶応義塾大学法学部法律学科卒業

職 歴

1996年11月 早稲田司法試験セミナー講師となる
1998年3月  司法研修所入所のためいったん退職
1998年4月  司法研修所入所・司法修習生となる(配属庁・東京地裁)
2000年4月  司法修習終了・弁護士登録(第二東京弁護士会)
          紀尾井町法律事務所(東京都千代田区)に勤務
          早稲田司法試験セミナー講師に復職
2000年10月  うつ病その他の理由により紀尾井町事務所から退職
2000年11月 埼玉弁護士会に登録替え、「ふたば法律事務所」を自営
2001年9月  弁護士登録を抹消、弁護士をとりあえず廃業
2002年7月  東京弁護士会に弁護士登録
  現在、弁護士・LEC東京リーガルマインド講師として活動中          

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■各種データ

(趣味)国内旅行、アコースティックギター、熱帯魚飼育、バードウオッチングなど
(身体測定)身長170センチ、体重××キロ、視力(右)0.2(左)0.2
(血液型など)O型(Rh+)、やぎ座、うさぎどし、動物占い「チータ」
(心身の障害)慢性心房細動=不整脈、色覚異常=緑色弱、うつ病
(特技)モノを書くこと
(座右の銘)「色即是空」 「生命とは、性交によって感染する死に至る病である」
(愛読書)加賀乙彦『宣告』、沢木耕太郎『深夜特急』、氷室冴子『海がきこえる』(正・続)
   鷺沢萠『少年たちの終わらない夜』、渡辺淳一『神々の夕映え』、カミュ『異邦人』、
   原田宗典のエッセイ、藤臣柊子『みんな元気に病んでいる 心がしんどい普通の人々』
   『チベット死者の書』『般若心経』『歎異抄』 など
(音楽性)さだまさし(ほか70’s)、槇原敬之、小沢健二、ゆず、canna、服部克久、スピッツ、
   山下達郎、KinKi Kids など
(尊敬する人)正木ひろし、石田三成、大谷吉継
(性格)変わり者、几帳面、わがまま
(特徴)朝が弱い
(嗜好品)アルコール少々、コーヒー。タバコは吸わない
(苦手なもの)梅干し、オクラ、飛行機、ゴキブリ、電話、腹の触診
(現在の目標)ダイエット、うつ病を治すこと
(著書)『プレ基礎講座テキスト』早稲田司法試験セミナー刊・全334ページ。

そのほか、僕の考え方、主義主張などについては論文駄文雑文等をぜひごらんください。

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■人生6年周期説・・・・僕とビョーキの深〜い関係

僕は6年おきに病気や入院をしています。
もはや、不健康が服を着て歩いていると言ったほうがいいのかも知れません。
そんなビョーキとのおつきあいを紹介すると・・・・

1975年(0歳)
生まれる。ものすごい難産。
1982年(6歳)
扁桃腺を切除(日本大学板橋病院・耳鼻咽喉科)。2週間入院。
1988年(12歳)
自転車でドブに落ちて肘を骨折、手術(徳洲会羽生病院・整形外科)。2週間入院。
小学校の卒業式前日まで病院にいた。 
1994年(18歳)
心房中隔欠損が発覚し手術(自治医大大宮医療センター・胸部外科)。約1か月入院。
さすがに心臓の手術だけあってこたえた。いまだに胸に手術創アリ(だいぶ薄くなった)。
2000年(24歳)
うつ病を発病。25歳で約3か月入院(東京医科歯科大学病院・精神神経科)

30歳の年には、いったい何が待っているのでしょうか・・・・?

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■20年目の休息・・・・僕のことを語ろうか

僕は埼玉県羽生市というところで生まれました。一人っ子です。
自転車で10分も走れば市街地は尽き、市の北側を利根川が悠々と流れる田舎町です。
川の向こうはもう群馬県になります。
葦原がざわめき、川面を煌めかせながら陽の落ちる風景が、僕の原風景です。

父は再々婚(前2回は同一の相手)で、町に聞こえた酒乱でした。
酔った父の歩くところ、誰もが避けて通ったと言います。
警察のお世話になることは数知れず、
一度は、電電公社(現NTT)の入口の大ガラスをぶち破り、逮捕勾留されました。
母は、僕を連れて公社に詫びに行くと、応接間のようなところに通され、
そこを喫茶店と勘違いした僕が「僕は何にしようかな」と言ったのが忘れられないと言います。
父は、ことあるごとに「薫は弁護士にする」と言ったそうです。
自分の叶えられなかった夢を息子に託したのでしょうか。

その父も、僕が3歳になると、バイクに乗り、交通事故で亡くなりました。
「酒乱の子」は、今度は「片親の子」として育つことになりました。
交通事故でしたが、賠償はただの1円ももらっていません。
母は、とにかく生活するのが手一杯で、交渉や裁判などする気力がとてもなかった、
それに父はどうせ酔っぱらってバイクに乗っていたのだろうと思った、そう言います。
そして、弁護士を頼むなど、雲の上のことに思えた、と。

首都圏埼玉といっても、まだまだ田舎町は田舎町です。
酒乱の子、片親の子が満足に育つはずはないと後ろ指さされました。
とにかく母は僕を一人前に育てる、僕も誰にも負けない人間になる、
そう誓ったのかも知れません。
休まることのない人生の始まりでした。
もし、母子共依存が生まれたとすれば、それはそれで当然の経過だったのでしょう。

小学校に入ると、勉強はもちろん、
普通の家庭であれば父親がするような仕事が僕の役割になりました。
町内会の行事や、役所に出す書類書き、そんなことをこなさなくてはならなかった。
家に帰っても母は働きに出ていて、いません。鍵っ子です。
外では、いやがうえでも「大人の顔」をしていなくてはならなかった。
一方で、満たされなかった幼児的な部分が、今も自分の中に残っているような気がします。
このころすでに僕の中に2人の自分がいたのかも知れない。
一方で穏やかで、外面がよく、大人を演じている自分。
もう一人は、衝動的で、ガキのままで、甘えたい、泣きわめきたい自分。

学校の成績はまぁ上位といってよいところでした。
学校では「明るく元気な子」で通りました。
「片親の子」と言われることは、徐々に少なくなり、友達も普通にできました。

「弁護士」をはじめて自分から意識したのは、中学校のころでしょうか。
2年の後半になるころには、生徒会の役員を務めました。
僕の行った中学は、当時まだ「丸刈り校則」でした。
そんなものどうしても納得行かなかった。
図書館に行き、子どもの権利に関する本を必死で読みあさりました。
幸い、生徒会の内外に同志を得て、教員に宛てた公開質問状を突きつけたこともあります。
何だかんだと「指導」がなされるごとに、教師にくってかかりました。
成績は悪くないが、反抗的な生徒、そういうポジションでした。
今も昔も、僕は「できる不良」になりたいと思っているのですよ。
そのころ読んだ本の中に「弁護士」「弁護士会」なんて言葉が出てきたのでしょう。
弁護士とは、子どもや弱者の側に立って戦う人、というイメージができあがりました。
でも、中学生ならいつのまにか、否応なしに「受験」に巻き込まれてゆくことになります。

とにかく自由な高校に行きたかった。
慶應義塾高等学校にギリギリ補欠で引っかかりました。

僕が小学校高学年になるころから、母は十二指腸潰瘍を繰り返しています。
ある日突然、救急車で病院にかつぎ込まれます。
高校が遠くても、下宿をするわけにはいきませんでした。
それに、そんな経済的余裕はどこにもなかった。
高校、大学と借りまくった奨学金は300万円以上。
給費のものを入れれば400万円近くになります。
羽生から横浜の日吉まで、片道2時間30分の道のりを通うことになりました。
朝、5時38分の電車に乗った。今でもこの時間は正確に憶えています。

やむを得ない事情とはいえ、僕は家から離れる機会を失いました。

それでも高校時代は遊んだし、クラブ活動などもよくやったように思います。
ギターを憶えたのも高校時代です。
新聞会に所属していろいろと書きまくっていました。
文化祭の運営が不明朗だと生徒会執行部を公然と批判して吊し上げも喰いました。
それでも「俺は俺の書きたいことを書く!」と言っていた。
慶応高校の生徒会は留年した年長者が仕切っていることが多く、結構コワイのです。
今思えば大した高校生でした。
法廷で堂々と放言する度胸は、思えばこのころ身に付いたのかも。

高校のころ夢中になって読んだ本が「冤罪」「死刑」に関するものでした。
なぜそんなことに興味を持ったのか、不思議です。
きっと何気なく手に取った本に非常な感銘を受けた、という通り相場なのでしょう。
ただ、誤った裁判に泣き、何十年も獄にあった人の存在が、どうしようもなくショックでした。
殺したからと言って刑罰の名の下に国家が殺人を行うことも、素朴に疑問でした。
弁護士になろう、と思い始めました。
大学に進む際の希望学部の調査に「第一志望 法学部法律学科」とだけ書いて提出しました。
弁護士としての理想をこのとき持ったことは間違いありません。
冤罪に泣く人を救いたい、子どもの権利を守りたい、と。
ただ、一方で「片親の子」と言われた重荷をはねのけるには、
それしかないとも思ったかも知れません。

大学に進むと同時に司法試験の予備校に通いはじめました。
このときから2年間、いま思えば壮絶な生活をしたことになります。
週に3日(2年目)予備校に通う。当然膨大な復習をしなくちゃいけない。
大学の講義も全部出る。
ギターを持ち、夜の歌舞伎町あたりに出没してときどき歌う。
(「ゆず」やなんかのハシリは僕だと密かに自負していたりします)
旅行のサークルに所属して年に何度も長野や新潟に出かけた。
さだまさし研究会にも入った。毎年長崎で行われるコンサートに行った。
塾講師と家庭教師のバイトをした。

「あいつは司法試験をやっているから大学に来ない」と言われたくなかった。
「勉強ばっかりしていて遊びを知らない」とも言われたくなかった。
要するに「受験生」でありたくなかったのです。
精一杯の見栄でした。
無理をしているつもりはなかった。
そう思いこもうとしていただけかもしれないのですが・・・・。

大学1年のとき、「地下鉄サリン事件」が起こりました。
マスコミは早くからオウム真理教の仕業と決めつけ、極刑を望んでいました。
反論は許されない雰囲気がありました。
やがて裁判が始まり、弁護団が組まれる。弁護団までが非難の的になる。
ヒネクレ者なのでしょうか、ワイドショーの論理に反感を感じて仕方なかった。
裁判が終わるまでは、無罪の推定を受けるはずだ。
仮に真犯人であるにしても、守られる権利がないわけがない。
弁護士が悪役なら、僕はあえて悪役になろうじゃないか、決めたのがこのときです。

大学3年。20歳。
はじめて受けた司法試験は自信のカケラもなかった。
択一・・・・論文・・・・口述・・・・進んでゆくのが信じられなかった。
やがて合格証書を手にしましたが、いまだに「ウソなのではないか」と思ったりします。

受験と前後して、僕は苗字を変えることになります。
母の姉、つまり母方の伯母と養子縁組をしたためです。
独身を貫いてきた伯母(=養親)の扶養をする責任が、僕にのしかかりました。
思えばこのころ、自分は何でもできると信じていた。

合格後は司法試験予備校講師の職に就き、一財産作りました。
大学卒業と同時に、養親の家のある現在の住所に転居。
司法修習中に自宅をあらたに建築しました。
財産はなくなり、莫大な住宅ローンを抱えました。それでも何とかなると思った。
一時は母、養親、私の同居となりましたが、現在養親は高齢となり、ある施設にいます。
自宅を建てたことで、私がひとりぐらしをするチャンスはおそらく永遠に失われました。
親離れができず、子離れができない構図ができあがったのかもしれなかった。

修習中から、体の変調はありました。
司法修習は、4か月(当時)おきに行く先が変わります。
司法研修所、弁護士の事務所、検察庁、裁判所民事部、刑事部、そしてまた研修所。
僕にはこれが苦痛で仕方がなかった。
心療内科に通い、大量の安定剤を飲んで裁判所に向かったこともあります。
思えばすこしづつ、体が、脳みそがSOSを発していたのでしょうか。
修習中も、表向きは「マジメな好人物」で通りました(そのはずです)。
成績もまぁ、悪くはなかった。
裁判官になろうかとも考えた。
それでも弁護士を選んだのは、中学時代から抱く理想のためでした。

弁護士になった僕は、やがてうつ病に倒れます。
依頼者の前では「先生」であり「大人」でなくてはならない。
一方で、捨てきれない幼児的な自分がいる。
アンビバレントな生活は、やがて破綻へとつながります。
「一身上の都合」を理由に、勤務した事務所を退職しました。
事務所のメンバーは、最後まで僕が病気だとは分からなかったと言います。
そして開業・・・・入院の前日まで、仕事をしていました。

父が死んで20年以上、無理をしていると思ったことはなかった。
でも思えばいつも、大人と子ども、2人の自分がせめぎ合っていた気がする。
片親の子と言われたくないばっかりに、
そして「大人の自分」「できる自分」を演じるだけのために走り続けてきた。
病気に倒れて、それがはじめて分かった。
もっとゆっくりしていいし、自分勝手に生きていいのだと気づいた。
うつ病の日々は、僕にとって「20年目の休息」なのかもしれない。

<20年目の休息・・・・僕について語ろうか=おわり>

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