| 僕の「うつ」病歴報告書 自殺未遂騒動から入院まで |
うつ病は通常、3か月から長くて半年の病相をたどると言われます。
そのくらいの期間が経てば、自然と気分が元に戻る。
あとは、再発を繰り返すことがある、と。
が、そこは人さまざま。
入院中に出会った方の中には「うつ歴18年」という方もいましたが、
僕の病歴もすでに2年目に突入しました。
とりあえず、入院までの1年間を振り返ってみます。
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仮面うつ病 ・・・・腹痛と嘔吐の日々
繁忙 ・・・・梅雨時の少年事件
退職表明を決断 ・・・・うつ病急速に悪化
クリニック受診 ・・・・ベッドから出られなかった日
リタリンとの出会い ・・・・「働ける」という大いなる誤信
すべてを放棄 ・・・・空になった記録棚
自殺未遂 ・・・・本当に死ねると思った
転院 ・・・・リタリンとベゲタミンの日々
入院へ ・・・・ドクターショッピングと医科歯科大受診
それから ・・・・退院して思っていること
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2000年4月5日。就職先の事務所で業務を開始した日。
司法研修所の修了式が4月3日、同じ日に弁護士登録をしているから、
ほとんど間をおかない業務開始だった。
このころから、僕の「余裕のなさ」が遺憾なく発揮されていたのかもしれない。
当面の仕事は
1 ゴチャゴチャにこじれた敷金返還請求+貸金返還請求(とても説明不能)
2 これまた長年にわたって争っている労働事件(事件数が4件くらいになる)
3 親族間の紛争をはらんだ会社間のゴタゴタ
と弁護士として正直「あまりスジがよくない事件」ばかりだった。
その理解もまだ十分じゃないウチに飛び込んできたのが九州まで出張する損害賠償請求。
さらに、あとから一部否認事件だと発覚する国選の「建造物等以外放火」。
合間を縫うように弁護士会の新人研修、歓迎会などもびっしり組まれている。
大事務所へ行った友達は、最初の2か月は事務所内講義だけだなどと言っているのに、
僕は気持ちの整理がつかないまま忙しさに取り紛れていった。
「これが本当に自分のしたかったことなのか」という疑問を押しつぶしていた。
僕は新しい環境に慣れるのが苦手で、毎年4月は胃が痛い毎日を過ごしている。
ただ、弁護士としては司法修習中、実務研修先としてお世話になった事務所に就職した。
だから大丈夫、とタカをくくっていたようだ。
しかし、指導担当弁護士とだけ関係を築ければよかった修習時代とは違って、
事務所に入ればすべてのメンバーと人間関係を構築しなくてはならない。
中には当然馬の合わない人もいる。
九州の仕事は、いわゆる「ボス」のほか、僕より3年先輩の弁護士も担当に入った。
同期の弁護士も、もうひとり、同じ事務所に就職していた。
負けたくない、というプレッシャーがあったことは間違いない。
弁護士の仕事は、試験と違って今日明日に明確な結果が出るものではない。
ボスたちは、けなすことがあってもほめることはしない。社会人である以上当然。
ならば個人事件ならいいか、というとそうでもない。
国選(放火)の被告人は訳の分からないことを言っているし、相談できる相手もいない。
すべてを僕一人の責任で処理しなくてはならない。
そんな諸々の困惑の中で、すこしづつココロが壊れ始めていたように思う。
不整脈のある僕は、もともと月に1度ほど、循環器科の医院にかかっていた。
手帳を見ると4月22日の土曜日に医者に行ったことになっている。
そのときに訴えたことは、朝の吐き気と腹痛。
麹町の駅を降り、事務所が近づくと、動悸が激しくなり、空えづきがこみ上げていた。
こんなふうに「うつ」ははじめに身体症状として出現する。
ココロの問題が身体症状に隠れているので「仮面うつ病」と呼ばれる。
当時の僕はそんなことを知る由もなかった。
循環器の先生は、とりあえず、といってH2ブロッカー「ガスター20」を出してくれた。
市販されている「ガスター10」の2倍量を含んでいるクスリである。
まったく効くはずもなく、やがて朝には本当に嘔吐するようになる。
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5月6日。手帳を見ると、この日胃カメラをしたことになっている。
あまりに僕が吐き気と胃痛を訴えるので、念のためということになったのだろう。
このころには自分でも、毎年の腹痛とはちょっとちがうかな、と思い始めていた。
循環器の先生は「花粉が飛ぶと腹が痛いのか〜?」と脳天気なことを言っていたが。
胃カメラの結果は当然「異常なし」。
それでも症状がおさまることは当然なかった。
5月中旬を過ぎると、続々と事件が入り、忙しさもピークになってきた。
自己破産、任意整理などのいわゆる「クレジット・サラ金事件」が立て込み、
むやみやたらと電話がかかるようになる。
サラ金やら、暴力金融まがいの業者に責められるのは気分のいいものではない。
国選の事件も数が増え、頻繁に東京拘置所に足を運ぶ。
何かを考える余裕はほとんどなくなっていた。
目先のことをこなすので精一杯なのだ。
その状態にとどめを刺したのが個人事件として少年事件を受任したこと。
少年事件は捜査段階を入れてもわずか1か月半ほどで決着が付いてしまう。
少年と信頼関係を築くためには、その間、何度となく面会をしなくてはならない。
事務所からも自宅からも遠い警察署に、さらには少年鑑別所に何度も通った。
親御さんとも何度も会わなくてはならない。家庭裁判所とも交渉を続ける。
とにかくムチャクチャに体力と気力を使うのが少年事件。
しかも事件名が「傷害」。被害者との示談交渉は神経摩滅モノだった。
僕自身は、刑事事件や少年事件をやりたくて弁護士になった。
担当したこの事件はいい結果に終わったし、少年とも100%に近い信頼関係を作れた。
皮肉にも、僕は自分のやりたかった事件で体力を消耗していったのだ。
事件のピークが6月。梅雨時は「うつ」が悪化する季節といわれる。
6月末、少年事件に一区切りつくと、なにか空虚なモノを感じるようになっていた。
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空虚な気分とは関係なしに、忙しさは続いた。
朝一番で九州へ飛び、20時に羽田着、事務所へ行って22時過ぎまで打ち合わせ、
そんなムチャクチャな日々が当然だった。
6月末に飛び込んできた事件が、また新たな胃痛のタネとなる。
事件自体は何のことはない境界争いなのだが、当事者が少し変わった人だった。
詳しいことは守秘義務の関係上言えないが、とにかく毎日のように何時間も電話してくる。
それだけでもう疲れ切ってしまうし、また「俺のやりたかったことは・・・・」となる。
このころには、僕自身も精神症状を自覚しはじめていた。
どうしようもなく虚しい、理由もなく気分が沈み、イライラする・・・・。
胃痛や吐き気は収まるどころか募るばかり。
事務所内の人間関係も徐々に負担になりかけていた。
果たして自分は評価されているのか・・・・それが分からない焦りもあった。
国選、クレジット・サラ金をはじめとする個人事件が増えたこともあり、
事務所に所属していることが負担になっていった。
いま思えば、それがうつ病特有のいわれのない不安感、焦燥感。
ところがそれに気づかなかった。
とにかく現状が打開できるなら何でもいい、と視野狭窄に陥ったのだろう。
7月、数えてみると僕の担当事件は40件を越していた。
もう限界だ、そう思った。
ココにいたら潰れてしまう、もう何もかもイヤだ、と。
イヤになるとすべてが悪く感じられ、もともと苦手だった人がもっと苦手になる。
このとき精神科を訪ねていれば、また違った結果もあったのかもしれない。
しかしそんなことに思いつくはずもなく、僕は決断してしまった。
退職。
就職わずか3か月目の7月7日、僕は「家庭の事情」を理由に退職を表明する。
事実、だいぶ以前から母親の体調が悪く、入退院を繰り返していたため、
自宅で執務したいという希望もあるにはあった。
それでも、どこかで引き留めてくれることを期待していた。
が、あまりにもっともらしい理由をつけたこともあり、事務所のメンバーも「やむを得ない」。
現在担当中の事件は引き続き行う、という条件で僕は事務所を一応退職した。
退職の前後から、うつ病は急速に悪化してゆく。
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退職はしたものの、継続中の事件が40件以上あっては、急な変化はなかった。
実際のところ、ほとんど毎日のように前の事務所に顔を出していた。
事務所サイドも「本当に辞めるのか?」という感じで、新しい仕事を持ってきたりして。
そこで断れる性格なら、うつ病になぞならなかったのに、本当にそう思う。
ココからフェイドアウトしたいのになぁ、そう思っているところへ、
また新たな忙しさのタネが舞い込んできた。
修習時代の友人が大型の刑事事件を引き当ててしまったらしく、手伝って欲しいという。
事件はまだ捜査が始まったばかり。
ほとんど1日おきに自宅から2時間もかかる某警察署に通い詰めになった。
翌日は、また朝から九州へ行く日だったりする。
沈み込む気分に鞭を打っていた。
疲れ切って、電車に乗ることもできなくなった。
やむなく、座れる電車である程度のところまで来て、あとはタクシーで帰宅したり。
事件を持ってきた友人が司法修習生の指導を担当していたこともあり、
修習生と飲み食いする機会も増えた(当然僕たちがおごることになる)。
家で「タクシーに乗るような身分か、人におごるような身分か」と責められた。
このとき、僕ははじめて爆発した。自分の力量を否定するモノが許せなかった。
何を言ったかは憶えていないけれど、テーブルを叩いて怒鳴り散らし、泣いた。
やがてこの「怒鳴る、泣く」が僕のうつの基本症状に移行していった。
8月中旬。
ときどき怒鳴り、泣きながらも例の大型刑事事件を続けていた僕は、壊れた。
循環器の医院に行くはずの日に、ついにベッドから出られなくなった。
やむなく、母親にクスリだけ取りに行ってもらう。
吐き気と腹痛は相変わらず。
循環器の先生も事ここに至って尋常ではないと判断したらしく、
精神科のクリニックに紹介状を書いてくれた。
ちょうど世間はお盆休みで、比較的暇だったのがせめてもの救いだった。
お盆明け、ようやくベッドから這い出し、
紹介された大宮(現・さいたま)のHクリニックを受診。
とりあえず、と出された粉薬(軽い抗不安薬のカクテル)はほとんど効かなかった。
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8月になると、いい加減自分でも「俺ってもしかしてウツ?」と思い始めていた。
当然ネットでいろいろ調べたりして。
その中で聞いた薬の名は・・・・「リタリン」。
リタリン、一般名メチルフェニデート。
覚せい剤類似の化学構造を持ち、気分を高揚させ、やる気を出す効果がある。
本来ナルコレプシー(突然眠ってしまう睡眠傷害の一種)の治療薬だが、
うつ病患者の間でも「究極の対症療法薬」として裏取引されるほどのクスリだ。
依存性はないと建前上言われているが、実際には中毒同様の者もいっぱいいる。
・・・・とまぁ、その程度の知識をにわか仕込みしたわけ。
Hクリニック、2回目の診察。
医師は、少し仕事を減らせないのか、このままではいけない、休め、という。
それができるなら苦労はないです。
マジメな(笑)僕は、まだ事の重大さに十分気づいていなかったようで、
いままでどおり仕事を続けてゆくつもりでいた。
医師はため息をついたあと、別のクスリの入った粉薬を出しましょう、と言った。
そのクスリとは・・・・「リタリン」。
これならとりあえず働けるから、という。
まさか自分にいきなり処方されるとは思ってもいなかった僕はやや緊張した。
僕の緊張を悟った医師は、朝昼2回、1回分は錠剤で半錠だから心配ない、と付け加えた。
そのほか抗うつ剤の剤のルボックス(SSRI・一般名フルボキサミン)も処方されたが、
こちらはまるで効かなかった、ように思う。
リタリンはどうだったかと言えば、ともかくはじめは効いた。
目が覚めるし、働けるし、何となく幸せな気分なのである。
最初は1回で半日十分効いていた。
それが悪かった。
勢いに乗って、紹介されてきた「強盗致死」というデカイ事件をまた個人で受任してしまった。
共犯者が10名以上、裁判も相当長期にわたることが予想される。
これが後に僕の手足を縛ることになってしまう。
・・・・やっぱりリタリンは怖いクスリです。
9月に入り、僕は独立の準備を整え始めた。
ゴム印・封筒・表札・ISDN回線などそろえるモノはたくさんあったし、
第二東京弁護士会から埼玉弁護士会に移る手続きもしなくてはならなかった。
それがちょうど「リタリン」で動けた時期と重なっていたということだ。
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いつまでも対症療法が効くはずもなかった。
10月ころには、クスリが効いている時間も4時間、3時間と短くなっていた。
そのなかで、以前の事務所の事件を抱え続けることに限界を感じた。
10月14日、一応自宅を新事務所として友人にお披露目をした。
したたかに飲んでも、気分は晴れなかった。
順風満帆な門出とはほど遠かった。
不安と焦り、緊張はもはや限界に達していた。
9月末から、僕は司法試験予備校での講師業も再開していた。
弁護士としての仕事がとれない場合に備えてのことだ。
講義はそれなりに好評だった。
10月16日から22日まで一週間、
予備校での口述模擬試験のスケジュールが詰まっていた。
その合間を縫って、10月17日、埼玉弁護士会に登録替えの審査に行く。
11月1日付で登録替えが承認されることとなった。喜びなどどこにもなかった。
10月21日、土曜、突然高熱を発して倒れた。救急車で病院に運ばれた。
医者は、風邪は風邪だが、明らかに過労だろう、点滴をして休んで行きなさいと言った。
10月22日の口述模擬試験を、ドタキャンした。
仕事を続ける自信を失った。
10月末、僕は以前の事務所の担当事件からすべて手を引くと伝えた。
うつ病であることを告げ、事件記録をすべて、送り返した。
自宅の記録棚は、ほとんど空になった。手帳も白紙に近くなった。
それが悲しくて、怒鳴り、泣き、暴れた。
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11月には、机の前に座ってもほとんど何もできなくなった。
リタリンの勢いで取ってしまった強盗致死事件の第2回公判期日が迫っていた。
1日に3人の証人を尋問しなくてはならない。
しかし、4000枚を超える記録を読むことはもはや不可能だった。
結局、頼るところは以前の勤務先しかなかった。
事務所は、黙って事件を引き取ってくれた。事件記録を、また送った。
残ったのは、予備校での講義の予定と、埼玉での新しい事件数件だった。
何とも言えない虚しさだけがあった。
生きていても仕方がない、死んでしまえばすべてから解放される、そう思った。
このしばらく前に、東京医科歯科大学病院で10倍量の「デパス」を誤って投与し、
手術直後の患者が死亡したという事件があった。
「デパス」は著名な抗不安剤で、ベンゾジアゼピン系と呼ばれる本来安全な薬物に属する。
僕もクリニックから「不安時の頓服」としてもらっていて、すでに大量に溜まっていた。
11月22日、久しぶりに司法研修所のクラス会が開かれた。
裁判官になった連中が研修で上京するとのことで、それに合わせての開催だった。
クラス会そのものは楽しかった。
僕も久しぶりに飲み、歌い、笑った。
ベロベロになって帰宅したのは2時を回っていた。
それでもココロのどこかで、わだかまっているモノがあったのだろう。
裁判官になり、弁護士になり、活躍している同期を見るのは辛かったに違いない。
翌日から、何もできずにふさぎ込み、泣き、寝付いた。
予備校の講義に出かけなくてはならなかった。
講義は夜19時過ぎから。
朝昼飲むはずの「リタリン」を18時に飲んで出かけた。
それでも講義が終わる21時30分まで効かせているのがもはや精一杯だった。
11月になり、寒い季節だというのに、教壇の上で背中に冷汗が流れるのが分かった。
帰り道、ホームで電車を待っていると、ヘッドライトに吸い込まれそうな気がした。
11月25日。土曜。ついに「その日」が来た。
いつものように寝酒に水割りをあおった。もう1杯、欲しくなった。
気づくと、目の前に大量の「デパス」があった。
医科歯科大の事件を思い出した。
死ねるかも・・・・。
死んでしまえばみんなと較べられることもない。永遠に24歳の弁護士のままだ。
ひとつ、ふたつ、シートからクスリを出した。
日本のクスリはよくできている。シートに入っているから、ひとつづつ取り出すのが面倒くさい。
外国では、瓶などに入れて保存するのが主流で、「一気飲み」をしやすいのだと、
これはあとで医者から聞いた。
それでも数十錠は取り出しただろうか、とにかく全部は出せなかった。
山盛りにしたクスリを、一気にかみ砕くと、酒で流し込み、ベッドに横になった。
やがて強烈な眠気が襲い、これで楽になれると思った。
横になにやら男性がいて、しきりに話しかけている。
袋のようなモノに詰められ、階段を降ろされた。
・・・・救急車に乗るのだな、もうろうとした意識の中で考え、また寝た。
「ここどこだかわかりますか!」
今度は女性らしき人が言っている。いま思えば看護婦だったのだろう。
「・・・・どこかの・・・・病院・・・・」
そう応えて、また寝た。
一晩中点滴を落とされ、翌朝、家に帰された。
回診に来た女医は、「バカなことをするんじゃない」と責めた。
「あなたに僕の何が分かりますか」そう言いかけて、やめた。ただ「すみません」と言った。
クリニックの医者は、デパスでは到底死ねないよ、
医科歯科の事件は相当間が悪かったんだろうねぇ、と言った。
・・・・後に、その医科歯科大学に入院することになるとは、皮肉なものだ。
ともあれ、僕が本当に死ぬつもりであったことだけは間違いない。
客観的に死ねる量だったかはこの際問題ではない、ように思う。
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「デパス事件」後の僕は、ますますウツに傾斜していった。
本当に、何もできなくなった。
予備校から、添削すべき答案が来ている。
あと10通もやれば終わるのに、どうしても手を着けることができなかった。
悔しくて、机を叩き、泣き、暴れた。
年内の講義の予定を、すべて、キャンセルした。
数件の事件だけが、手元に残った。
12月に入り、通院先を朝霞のWクリニックに変えた。
Hクリニックが車で1時間ほどかかり遠いことと、漠然と現状を変えたかったからだ。
同時に、精神保健福祉法32条による医療費の公費負担を申請し、受理された。
精神障害者について、通院の診察料、薬代の95パーセントを公費でまかなう制度だ。
これで僕も「精神障害者」か、そう思うと同時に、自分の中にある差別意識に気づいた。
Wクリニックでも「リタリン」の処方は続いたが、もうそれほど効きはしなかった。
ベンゾジアンゼピン系の安定剤、「デパス」「レキソタン」が手放せなくなった。
少なくとも依頼者の前では、「先生」でいなくてはならない。
1時間おきに安定剤を飲みながら、打ち合わせを続けた。
もはや精神状態は普通ではなかった。
以前の勤務先の事務所に、恨みつらみを書いた手紙を送りつけた。
返事がないことに、また荒れた。向こうも、なんと答えてよいか分からなかったのだろう。
泣き、わめき、荒れることが増えた。
Wクリニックの医師は、ついに最後の処方に出た。
「ベゲタミンA」。
ベンゾジアゼピン系と異なり、バルビツール酸系と呼ばれる危険度の高い薬剤を含み、
最強の鎮静・催眠作用を持つと言われるクスリである。
普通の人なら1錠でキュンと寝てしまい、翌日にも必ずクスリが残る。
それを不穏時には2錠、加えて「レキソタン」5ミリ玉(一番強い)を4錠一気に飲んだ。
それでようやく少し落ち着き、寝た。
リタリンで起き、働き、荒れたらベゲタミンで眠る。
何がなんだか分からない生活だった。起きても、フラフラとしていた。
入院後、医科歯科大の医師には「高齢の人なら死んでもおかしくない服用の仕方」と言われた。
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年が明けると、もはや「入院」を意識しないわけにはいかなくなった。
「新世紀」などと浮かれている余裕はどこにもなく、世紀越しの「うつ」と戦っていた。
近くのいわゆる「精神病院」を何軒か回った。
「うちは分裂病の方が中心なので、うつの方に向くかどうか・・・・」と言われたところがある。
「ドクターショッピングはやめなさい」といきなり言われたところもある。
病院に向かう途中でちょっとした交通事故を起こしたりして、またウツは悪化した。
結局、これという病院に巡り会うことはできなかった。
入院しようという気持ちも、いつしか冷めてしまった。
1月半ば、土曜の夜、今までにない錯乱状態を呈した。ベゲタミンも効きはしなかった。
床に転がって悶絶し、「警察を呼んで欲しい」と訴えた。
1時間もそうしていただろうか。
出動してきた救急隊と警察官ももはやなすすべがないという感じだった。
それでも受け容れてくれる病院を探さなくてはならない。
クリニックは当然閉まっている。連絡の取りようもない。
土曜の夜、初診ということでありとあらゆる病院に断られたという。
2時間後、見つかったのは救急車でも1時間以上かかる東京都下のH病院だった。
精神科救急で有名、というかとりあえず何でも受け容れる病院として有名だとあとで聞いた。
H病院の医師は、入院しますか、いまのところ差額の部屋しかないのですがといった。
そんな経済的余裕はどこにもない。
入院を断った。当面の対処として、なにやら強烈なクスリを飲まされた。
帰りの車の中で、意識が朦朧とした。
抗うつ剤は、ルボックスからパキシル(SSRI)、トレドミン(SNRI)と変わった。
SSRIとは、脳内のセロトニンという神経伝達物質量を単純に言えば増やすことで、
抑うつ状態を改善しようと言うクスリ。
SNRIとは、セロトニンだけでなく、ノルアドレナリンという物質も増やすクスリで、
「何もやる気が起きない」状態を改善する効果がある、と一応言われている。
SSRIは、僕にはまったく効かなかった。
唯一効いたかなと思えるのが、SNRIの「トレドミン」だった。
が、当時は頭がザワザワしてふらつくという妙な副作用が出て、中断せざるを得なくなった。
この副作用でも救急車騒ぎをおこし(あまりにふらついて立ち上がれなくなった)、
医者に「身体的には何の異常もない」と迷惑顔で言われたという落ちが付いている。
3月。Wクリニックでも、もはや打つ手がなくなったようだった。
ちなみにクリニックでの診断は「抑うつ神経症」。
うつ病と言うにはやはり年齢が若すぎる、ということらしかった。
そして紹介状をもらったのが、運命の「東京医科歯科大学」だった。
3月上旬、僕の話を聞いた医科歯科大の中原医師(仮名・現在も担当医)は、
即座に「入院を考えてください」と言った。
いま思えば、それだけひどい状態だったということだろう。
僕は踏み切れなかった。
何よりも、継続中の事件がある。すでにいくつかの予定も入っている。
その折り、僕の状態を聞きつけた友人と共通の恩師が訪れた。
到底仕事をできる状態ではないから、その友人が引き取る、という。
僕は最後まで抵抗した。まだ自分はできる、そう思いたかった。
最後は喧嘩になった。
結局、僕は疲れ果てて、委任状に判を押した。
3月13日、再び中原医師の診察がある。
仕事をすべて引き払った経緯を話すと「それならなおのこと入院しましょう」。
一度は「はい」と言った。まだ迷っていた。
診察室を出て、会計に来ると、急に不安になった。
確定申告の修正も求められている。そのほか家の中のいろんな事がある・・・・。
院内にもかかわらず、僕は錯乱し、泣いた。
診察室に連れ戻され、抗うつ剤(アナフラニール=即効性がある)の点滴をされた。
病棟の医長までが出てきて、入院するよう説得された。
入院は3月16日、金曜日に決まった。
残務整理は、なんだかんだと入院の前日夜までかかった。
確定申告の修正も、ギリギリ、3月15日に滑り込みで済ませた。
ちなみに、僕が医師はじめ外部の人に錯乱状態を見せたことは、この一度しかない。
悪く言えば外面がよい、よく言えばどこまでもがんばってしまうのだ。
医師に言わせれば、その性格こそが悪い、もっと気楽になれ、ということなのだが・・・・。
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3か月弱の入院を経て、僕は2001年6月7日に退院した。
気分の波を繰り返しながらも、現在はこのHPを書ける程度に元気である。
「リタリン」や「ベゲタミン」ともとりあえず縁が切れた(笑)。
だが、飲んでいた当時の残りは、いまも手元に大事に保管してある。
もしものときにはこれが飲める・・・・というお守りみたいなものだ。
現在の抗うつ剤は副作用騒ぎを起こした「トレドミン」。
幸いにして慣れたのか、いまのところ困った副作用は出ていない。
完治したわけではないし、この先何年病気とつきあってゆけばよいのかも分からない。
ただ、病気を経て、他人にも、それから自分にも、すこし寛容になった気がする。
病気はもちろんマイナスだったけれど、それだけではなかった。そう思いたい。
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入院中のことについては「精神科病棟入院日記」をごらんください。