音楽の演奏表現はあくまで作曲家の意図を代弁する姿勢から始まる事を忘れては成らない。
その為には、両者の媒体である楽譜から作曲家の意思を読み取る必要がある。
そこに共感が生まれたとき、作曲家を代弁すると共に演奏家の意思を示す事になる。
美しい響と言えば、まずはハーモニーを考えるであろう。
Bメロディーとハーモニー と C音程、チューニング の所で説明した様に音が美しく響のは、倍音に根ざした音の重なり合い (ハーモニー) が大切であると述べた。
また整った響を歪ませる作用 (非和声音) に色々な意図をあらわす事が出来る事も述べた。
もちろんハーモニーの変化に音楽の表現の大きな働きがあることは間違い無い。 その最も端的なのが、Jazz のコード進行だろう。
最近ではそのコード進行に著作権が認められるようになるとかならないとか。それほどまでに重要な働きがあるのは事実だ。
しかしそれでもただハーモニーが繋がっているだけでは良い演奏にはならない。それぞれの和音の機能が示されて始めて意味を成す。
つまり音には次の音との係わり合いが聞こえて、始めて意味を成すと言う事である。
コラム 機能和声と言う考え方がある。 これは、各音階の上に出来る三和音を、トニカ、ドミナント、サブドミナントの3つの組み合わせで説明しようとした理論。 もっと簡単に、トニカとそれ以外を全てドミナントに考えてしまっても機能の働きを理解できる。 その機能は丁度引力の働きの様に、月は地球に、地球は太陽にひきつけられる様に、転調を行ってもそのような関係が出来る。 |
響とはこの意味を含まなくてはならない。
我々が話をする時この事は重要な要素として取り扱っている。
例えば、遠くにいる友達に声をかけるときに、「おーい」 と言い、その 「おー」 の伸ばし方は、自分の気持ちを相手に飛ばすような響をさせる。
特に話しの途中と終りとは響も繋がる様にしたり止まろうとしたりさせるはずだ。
このような関係はこの次に述べる流れとも深い関係が有る。
また、そばに居る者同士がこそこそ話す時には、息を殺す響にする。
疑問を投げかける時、断定をする時、驚いた時など、あらゆる場面で同じ言葉を発しても色々な響で自分の意思を伝えるのだ。
またこのような響きは単独で存在する事はむしろ稀だ。必ず他の音のつながりとも並行して響かさなければならない。
つまりアンサンブルでの響の処理の問題だ。
音楽の基本は多声部音楽 (ポリフォニー)である。
コラム 音楽の様式を通常ポリフォニー、ホモフォニー、ヘテロフォニーに分類している。 元来は時代の様式で、最も古くから有るのがヘテロフォニーで、元来同じ旋律を大勢で同時に演奏しようとした時に、遅れたり飛び出したり間違ったりしてずれが生じた事が発生で、最終的には今もソロと伴奏の形態までを言う。 そのずれを発展し、いくつかのパートに分かれてそれぞれの独立性を重視した物をポリフォニーと言う。 そこから次に生れた物がホモフォニーで、一つのパートに主体性を持たせ他を従属的に取り扱い全体的にハーモニーを重視した様式。 |
それぞれの声部の響については今の説明の通りである。
それぞれの声部がそれぞれ響の繋がりを作って行くのだが、他の声部と独立した響を作ることは現実的に不可能である。
たとえ全くお互いに無視した関係であっても、互いに無視をしている状況が演出されなければ意図は示されない。現代作曲にチャンスオペレーションと言う偶然性の音楽があるが、偶然必ずしも無関係とは限らない所に面白味があると考えられる。
それらは特別として、通常は御互いに関連した響を共同して作っていかねばならない。
別の言い方としては、お互いの響との関係から自分の響を考えなくてはならない。
この時にルールーが有る。
当たり前だが意外に守られない事は、低い音の上に他の音をだんだんと重ねて響を作って行く事だ。
守られない原因の一つには、主旋律が高い音の声部に多い事も有り、主導権を発揮し他の声部を従わせようとするからである。
ソリストが伴奏者を従えている様に見える事から、錯覚をしやすい。
聴衆がその様に思うのは仕方が無いとしても演奏者本人がそのような意識では問題だ。
オペラなどの横暴な歌手の話は、もうずっと以前の事だが、いまだにソリストがテンポを決めたり自分に付いてくるように要求する事もあるが、音楽の本質を忘れてはならない。
逆に伴奏側も、責任を回避するような消極的態度で共同して作り上げる音楽の義務を放棄しては、良い演奏にならないのは当然だ。
常に音程やテンポなどの主導権は伴奏に有る。
特に響きにおいては、ハーモニーは倍音の関係に基づいており、その最も低い音の倍音列にはまってこそ正しい音程に認められるのである。
誰でも最低音の基礎の上にしか、正しい響を作ることは出来ない。少なくとも聴衆側は、そのような音しか正しいとは感じない。
もちろんあえてその定まった音程からずれる事による効果は使えないわけではないが、そこには歴然と最低音の基礎の前提がある。
もしも各々がそれぞれ器械的に正しい音程 (純正律) で、あるハーモニーを作ったと仮定しよう。
最低音には当然整数倍の倍音が伴う。
その上の音は基音は純正律の音なので歪みは無いが、倍音は其音が違うので、最低音の倍音とは異なった音が含まれる。
その様に音が重なればそれだけそれぞれの倍音にずれが生じ、歪みや唸りを生じるだけでなく、位相の違いから全体の響が押さえられてしまう。
特に最も高い声部のパートの音は、それが最も重要な旋律が受けもたされることが多いが、音に伸びが無くなってしまうことになる。
豊かな音を響かせるには、最低音の倍音列に従う他無い。
消極的な意味でなく、高音部はそれ以下の音の恩恵に浴していることを認識すべきで、そのような伴奏の響を自分のエネルギーとして響に利用していると考えるべきだ。
美しく豊かな旋律は全員の和の賜物だ。
まさにハーモニーである。
HOW TO
HOW TO としては、Bメロディーとハーモニー と C音程、チューニング の所と同じである。
ただ最低のパートに合わせようとするのは必ずしも正しくはない。あくまでその曲の主音に忠実であれば解決される。
もちろんそれを力強く支えているのがバスパートであるはずなので、無視は出来ない。
無視をせずに耳を傾けてさえいれば、おのずと合ってくる。
音楽的表現としては、そのような響の変化を表現するのだが、演奏の目的はただひたすらに良い響を目指す事しかない。
豊かでよどみの無い、この上も無く美しい響を求め続けることに尽きる。
美しく感動的な響がある。 一つの音で無常の感動を味わう事がある。
このような音を捜し求めている。
その努力はもちろんだが、感情の表現としてはこの響の変化が意味を持つ。
喜びや悲しみなどを表現するのは、旋律や和音がさせるので無く、あくまで一つの音の表情がそれを表現する。
一つの響きが楽しく聞こえたり、悲しく聞こえたりする。
言葉では説明し難いが、響きが勢いを増し軽やかさがあれば楽しく聞こえるし、反対だと悲しく聞こえる。
そこには無限の表情を加える事が出来る。
この方法以外に感情を伝えることは難しい。
音楽の表現はこの表現の仕方に尽きるのかもしれない。
そして、ただ一つの音だけではそのような感情の意味は伝え難い。
常に次の音への流れ方に意味が加わる。
例外的に一つの音だけで意味を成すのは、感嘆詞や掛け声のような時だけである。
響が次へ繋がるにはその流れ方が問題だ。その響の流れを表現する。
最も解りやすいのは tempo の事。
基本的なテンポの設定は先の Aテンポ、リズム の項を参照していただきたい。
音楽のテンポは一様ではない。さまざまに変化する。
その度毎に拍子やテンポ表示を変えて書いて有る場合も近代になればかなり見られるが、必ずしも示されていない場合が多いし、曲の途中で変わる場合書かれない方が多い。
また作曲家がそれと気付かずに変化している場合も有る。
その場合も決して作曲家の記述の不備という事ではない。
前にも述べたが、楽譜は作曲家の頭の中で考えられた音楽を他人に伝えるのが目的で書かれた物であるので、そこの書かれた物から読み取られる事を期待されている。
もう少し詳しく言えば、
たとえ 4/4 拍子の書かれていても 2/2、1/1、8/8、拍子の部分も有るまた時には 3/4 拍子や 6/8 拍子が含まれたり、5拍子や7拍子が内包されている場合もある。
複数のパートがそれぞれ違う拍子で同時に演奏するときは、ポリリズムと言い、違った拍子で書かれてある場合が多いが、同じ一つのパートの旋律の中に含まれている時が要注意である。
また拍子が違っていてそれが単純拍子と複合拍子の場合はまだ解り易く気が付くが、同じ単純拍子などの時は、気が付かないと言うのでなく同じ拍子で無ければ成らないと考えてしまう事の方が多い。
この問題は指揮をする時に真っ先に出会う事である。
指揮者はこの曲を何拍子で指揮をすべきかを真っ先に考える。そこで色々な拍子で指揮をすれば混乱を生じるので、一貫した拍子を決める。
それは指揮の仕事として当たり前ながら、その一貫した拍子の取り方の中に色々な流れを見せなくてはならない。
もちろん演奏もそうだ。
上記のように拍子が変わると、同じテンポであっても基本単位を変えると速くなったり遅くなったり感じる。
例えば、4/4拍子を2/2拍子で取るとゆったりとした流れになり、8/8拍子に取るとあわただしく急いだ様に感じる。
それを応用すれば、同じ16分音符が並んだ曲でも、せかせかとした忙しい曲にも柔らかいゆったりとした流れの曲にも、同じ速さで表現できる。
そのような表現が並行していくつかのパートで現われるのは、曲の最後にGrandiouso として書かれている所によくある。そのような作品を上げるのは枚挙の暇が無い、常套手段だ。
応用としては、速い曲を演奏するときにそんなにテンポを速くしなくても基本の拍を細かく取ればとても忙しく速く表現できる。
また速い曲でも、拍を大きく取ればゆったりとした流れを出せる。
この流れの表現の最も意識すべき音楽は、複合拍子の音楽だ。
すなわち、各拍の前半はゆったりと後半は勢いを持って、2 対 1 で行うと丁度ブランコのスイングの流れを作る事が出来る。ワルツも同じ流れだ。
音楽は何時も同じテンポでなくては成らないというのは、以上の点では真実ではない。
ただし、物理的な意味での時間の物差しとしてのテンポ (カウント) が一定である事が前提で楽譜が書かれている事を知っておかねば成らない。
この二点を混同してはならない。
反対に流れを止める事を要求する用語が、イタリア語で止まれを意味する言葉の、Fermata (フェルマータ) である。
弦楽器の弓の技巧としても、弓を弦の上で止める時に、Staccato (・)が使われる。
この用語も本来このような技巧上のしるしとして使われた物であり、今日通常、音を短く弾む様にと言う意味になったのはロマン派以降と考えて良いだろう。
しかし本来的な止めると言うニュアンスは、やはり考えておかねば成らない。
これ意外の時は、たとえ休符であっても音楽が終わるまではその流れを、決して止めてはなら無い。
この問題を解決するには、前節の響の表現でする。
これをまた別の角度から考えれば、リズムの問題に成る。
これらの響と流れが結びついた物がリズムである。
流れに変化をつける、抑揚と言っても良いだろう。
一般にリズムと言うと、特定の舞踊などの持つステップの繰り返しのリズムだけをさして言うが、全ての音楽の流れの中に有る変化を、リズムとして認識したい。
もちろん音の長短でリズムは出来るが、長く引き伸ばされた音にも根底に流れるリズムが現われてくる。
また、同じ音価の音が繰り返される時 (例えば16分音符ばかりの音楽など) にでも、単に単純なビートの連続で無く、その音楽の持つ本来的な旋律に基づくリズムが表現されなくてはならない。
そのような音楽が最も良く理解されなくてはいけないのが、バッハの音楽であろう。
またそのような音楽の抑揚に共感をした作曲家が、メンデルスゾーンやシューマンであり、その人たちが音楽の中にロマンを織り込むことを見つけ出した事に、注目する必要が有る。
HOW TO
どのような物にもリズムがある。宇宙の変化から心臓の動きまであらゆる物には律動がある。
大変に大げさだが、そのような動きを音楽の中で表現できるのだ。
そしてその動きに意志を持たせる事が出来る。
すなわち、一つの音が次へどの様に進もうとするのかを表現すれば良い。
もしも機械のようにただ単に音を再現するだけであれば、そこには意志を感じる事は出来ない。
だから我々には、器械的な無味乾燥した演奏に思える。そこには情熱も感激も楽しさも悲しさも無い。有るのは路傍の石のような無機的な音だけである。
機械的な演奏は、自身の技術習得の為には、有効なトレーニングである事には違いない。むしろそのような無機的な意思を全く見せないような表現法は技術の出発点にする事は大変に有意義に思えるし、実際にはそのような練習の過程の中から、その音楽や作曲家の意図が見え、おのずとその意思があふれてくるのも事実だ。
そしてそれを冷静に観察すれば何が必要であるかが見えてくる。
すなわち、一つの音の響の動きだ。
表情と言っても良いがそれは少し抽象的に過ぎると思う。
もう一度音の図を見てみよう。

一つの音は表現する部分としては、図の a (音の立ちあがり)、b (音の伸び方)、c (音の終わり方) に分けて考える事が出来る。
それぞれに表現を当てはめる事が出来る。
又楽器によっては a だけで表現しなくてはならない楽器のピアノや打楽器なども有るが、良く考えてみればそれらの楽器でも b や c の表情を考えて a を表現しているはずである。
とくに c はピアノのダンパーや打楽器を手で止めたりする事も可能だが、次の音へ続ける時にはまだ終わりきらない間に次の a を始める事で強制的に c に表情を与えている。
そしてそれぞれの部分での表現手段は、
そのスピード感と、その変化である。
馬が走るときの「パッカパッカ」のリズムを例に取ると。
音符では、6/8 拍子の4分音符と8分音符の繰り返し、又は 2/4 拍子の時などの付点8分音符と16分音分音符の繰り返しに書かれる。
a の部分は全てハッキリとした立ち上がりであるのは同じだ。
b の部分で、動きのスピード感が増えるのか減るのかが表現される。
c の部分で、次へ繋がるのか終わるのかを表現できる。
b c を矢印の方向で示せば、
長い音符が ↑ 短い音符が ↓ で繰り返せば、躍動感は無い。
短い音符が ↑ 長い音符が ↓ で繰り返せば、躍動感が表現できる。
↑の勢いが強ければ、後者の付点8分音符と16分音符、もっと強ければ複付点8分音符と32分音符になるだろう。
良く日本人は6/8拍子が下手だと言うが、この捕らえ方を観念的に考えて表現しようとした為に、最初のような躍動感の無いさかさまの表現に成ってしまう為だ。
決して日本人であっても難しくは無い。
もし別の言い方で理解するならば、
アウフタクトを考えれば出来る事だ。
コラム アウフタクト Auftakt とは、ドイツ語でタクト takt は拍節の事でアウフ auf はその前。つまり拍節の前に来る音の事を指す。 ある辞書によれば、アウフタクトの無い音楽は無いとまで言いきっている。それほどでなくても、アプタクティッヒカイト Abtaktigkeit と言うアフタクトのないと言う意味の言葉は音楽学者しか知らない言葉だ。 この言葉の意味する事は、言葉のイントネーションと関係すると思う。なぜなら、言葉に冠詞を持つ言語のイントネーションでは、常にアウフタクトの言いまわしがある。反対に、日本語やロシア語のようなスラブ語のように冠詞を持たない言語ではそれがあまり見られない。 そしてそのような国の音楽では、その国の言語のイントネーションのような旋律が見られる。 |
もう一つワルツをを例として、解説してみよう。
やはり我々日本人には難しいと言われているワルツだが、西洋人でもなかなか上手な演奏は無い。あの何でも標準以上に演奏できるカラヤンでもウィーンフィルの手を借りなければ上手くはいっていない。
しかしそんなに難しい物なのだろうか。
確かに一度ワルツを踊ってみると分かるが、あの優雅に気持ちよさそうにはぜんぜん出来ないのである。ウイーン人でもバル舞踏会シーズンの前にはダンス教室が盛況になり、テレビでもステップの解説をやっている。
すなわち、ワルツのステップは三歩歩く事と、三歩毎に半回転しなければならないのが難しいのである。
そして、その為の身体の動きは回転しなければ三歩ごとに前へ行ったり後ろへ下がったりの連続である。
一度やってみれば解るが、自分一人でブランコに乗っている様に頭を中心に身体がスイングして要る様になる。
1-2拍で前後に進み、3拍で戻ってくる。又今度は1−2拍で後ろへ下がり、3拍で戻ってくる。
(3→ ←2 ←1 中心 1→ 2→ ←3)
2:1 の動き。 {1↑ 2↑ 3↓} の繰り返し。
スイングする時は、2拍で上がり1拍で戻ってくる。出発はいつも一番下だ。
「 1、 ト、 2、」 と数える不均等な2拍子と考えれば解かりやすい。
この様にすればそれぞれの拍の動きの表情は、はっきりとしてくる。
もう一歩表現として考えるなら、1−2拍は減速していくが3拍は加速している動きに注目。
3拍は次に進もうとする意思を見せる。
やはり前の付点リズムと同じように、
{3↑ 1↓ 2↓}
すなわち3は次の拍のアウフタクトだ。
ただし、ワルツにはこのリズムのバリエイションがある。
{1↓ 2↑ 3↑}
すなわち、2が積極的に飛び出してくるシンコペーションに成る事がある。
また、たまに
{1↓ 2↓ 3↓}
の様に全て立ち止まる様にブレーキをかける。
学校で習う3拍子の 「強、弱、弱、」 は、ワルツではなくメヌエットのリズムで、1、2拍歩いて3拍目は止まるステップなので、この様に成る。
ウインナワルツのリズムは独特の癖があると良く言われているが、決して特別な癖ではない。
以上のようなステップをしようとする時、1歩目を大きく取り体重の移動を上手くするには、2歩目を成るだけすばやく引き付け、3歩目を余裕を持って体重の移動を開始する様にすれば、あのようなウイン風になる。
ワルツを踊れれば当然の流れである。
決して無理にリズムを崩すので無く、むしろなるだけ正確に3拍を保とうとすればやはりこの様になる。
かつてウイーンフィルハーモニーのメンバーにこのリズムの方法を質問したところ、「我々は、ただ正確に演奏しようとしているだけだ。」 と答えた事がある。又エドワード シュトラウスが来日し日本のオーケストラを指揮したときにも同じように、「ただ正確に3拍を数えろ」と、指示したと言われる。
もちろん勢いが増すにしたがって、1−2拍間はどんどん詰まって、2−3拍間は少し間が空いてくる様に成ってしまうのも納得がいく。
しいて示せば、
普通は、 {1↓ 2↓ 3↑} 勢いが付けば、{1↓ 2→ 3↑} とでも書けよう。
これはむしろ { 1↑ 2→ 3↓} と書いたほうが解かりやすいかもしれないが、音楽的な動きとは反対に成ることは理解しておいて欲しい。
ブランコが勢いが付いたときを思い浮かべれば、2拍の時最も高いところで止まったようになるのと同じ動きだ。
リズムは、どうしても太鼓やピアノのような持続音をコントロールできない楽器での演奏の仕方で理解しようとしてしまう。
無論表現は同じであるのだが、誰でもがそれらの技術的な難しさを素通りして、一気に核心へたどり着いた様に思ってしまうことに間違いがある。
これらの楽器は響のコントロールは考えれば考えるほど難しくなってしまう反面、音への思いが強ければ出来てしまう時も有る事が、深く考えずに才能が有ればと、結論づけてしまう事に成る。
これ等の楽器のテクニックをインパクトの力の入れ具合だけに単純化する事は、早計であろう。当然インパクトのスピードやばちの当る面積や、離れるときのスピードなど多くの条件が考えられる。
このようなテクニックで作られる音のニュアンスこそが、音楽の表現に成るのである。
このような所にその奏者の表現の場が存在するのであって、この点を避けては音楽の演奏の核心には迫れない。
よく演奏会評などで「構成の整った演奏であった。」と載せられる事があるが、どの様な事であろうか。
「音楽の構成は、演奏家でなく作曲家にゆだねられている事ではないのだろうか。」と、構成の良し悪しを演奏家に責任を背負わさせる事を理不尽に思える事がある。
それには正誤の両面がある。
正しい所は、その通り、演奏家には構成を変える事は出来ない。
出来るのは繰り返しを省くぐらいだが、それでさえ本来の作曲家の意思を尊重する立場からすれば、良い事ではない。
又、演奏上で構成を明確に示す事の出来ないのも作曲家の責任とも言える。
しかし、演奏側にとって、そのような点の全てを作曲家に責任転嫁しても良いのだろうか。
「時間の空間認識」と言う言葉がある。
一つの曲をとてもよく知ったときには、どんなに長い曲でさえ一瞬の物として認識できている物である。
どんな曲でもよい、自分が何度も演奏し覚えてしまっている 曲を考えてみて欲しい。
「あの最初の所、中間部の静かな所、」 と言った事を瞬時に思い出せるはずだし、その部分と前後の関係も認識できているはずだ。
名指揮者、セルジュ チェリビダッケ氏が「最初の音が鳴ったとたんに最後の音が解った。」 と言った事が有る。
このような認識は特別な物ではない。家から毎日通っている学校や職場までの道筋もそのような認識をしているはずだ。
これが音楽の構成だ。
地図を見ながら始めての土地を探しあぐねながらたどり着くのと、よく知ったところヘ行くのとの違いが有る。
どちらがよりスムーズな心地よい流れを表わす事が出来るのかは、明白だ。
完全な地図も必要だが、其れを理解できる能力も必要だ。
HOW TO
先ほどの説明の中に出てきた、「覚えるほど何度も演奏した曲」 と言う表現をしたが、それが一番正しいかもしれない。
中学生がコンクールなどで、毎日朝から晩まで一生懸命同じ曲を何度も何度も練習を繰り返した演奏は、全く素晴らしい。
そこには構成上の破たんなどは感じられない。たとえその曲が十分に構成されたもので無かったり、時にはとんでもないカットがされた物でさえ、その演奏には構成の不備はあまり感じられない。
ただ我々は、コンクールで演奏するわずかな時間や、短い曲ではこの様な事も可能だが、大きな長い曲になればなるほどその様にはなかなか行かない。
そのために必要なのが、楽式の知識である。すなわち、楽曲形式の事である。
普通舞曲や歌曲は、2部形式、3部形式、ロンド形式などが有るが、これらはそれほど意識しなくとも理解しやすい物であるが、もっと大きな作品で書かれている形式にソナタ形式が有る。
主要な部分は、提示部−展開部−再現部 の部分からなり、その前に導入部や最後に終結部が付け足されたりする事も有る。
提示部もテーマが普通二つ示され、その発展形まで含まれる事も有る。
文章の、「起承転結」 と同じ様式と思ってさしつかえないし、構成の流れとしても認識しやすい。
またもっと大きな作品、例えばオペラなどの場合は、むしろストーリーがあるので構成はむしろわかりやすい。
むしろそのようなストーリーとして音楽を捉えるほうが正しく思われる。
どの様な作品であっても、作曲家がその構成を考える時にはその必然性があるはずであり、そこにはおのずとストーリーとしてのドラマの展開があるはずだ。
抽象的な構成であっても時間の経過と共に進展する限りにおいては、ドラマの筋は当然ある。
これが理解できれば、後はその筋道をたどっていくだけである。
これがうまく行かないときは、往々にして形式主義的に構成された物の時に多い。
ソナタ形式の提示部の繰り返しに不必要さを感じるのは、ベートーベンやモーツアルトでさえも有る。
又逆に、ロンド形式の様に、A-B-A-C-A-D と繰り返される A の部分をわずらわしく思うのはその様式の面白味を理解しないからであろう。
そのような舞踊形式についてもまたオペラの様式にしても、それらの舞台での習慣や演出効果も理解し、考慮に入れなくてはならない。
それは演奏者が知っておかなくては成らない知識であると共に、作曲家の常識でもある。
そのような構成上のなどの作曲する上での知識は、当然知らねば成らない。
その上に、作曲家にそのような知識に対する考え方も作品に影響を与える。
悪い例だが、先ほど述べた様にただ単に形式を踏しゅうしそこに様式の意味や必然性を感じずに作られた物には、共感を得る事は難しい。
演奏はあくまで作曲家の代弁をする事が目的であるので、作曲家と一心同体でありたいのだが、それは残念だがかなわない事だ。
感じ方、考え方、知識、生い立ち、教育、環境、時代、言葉、等など多くの要因がある。
親子兄弟ですら分かり合えるとは言えない。
否定的に考えると、誰も演奏は出来なくなってしまう。ところがそう言う事ではない。
誰でも同じ立場だという事だ。
確かに同じ民族、同じ世代等、身近に接してきた人たち、ましてや作曲家本人にとってはかなり有利だろう。
しかし時間も距離と同じ意味を持つ。時代が経てば、地域の格差はだんだん無くなっていく。
感覚だけの同質性が薄くなっていくと言うことだ。
すなわち、客観的に解かる事実は共有できるという事だ。
我々が調べて解る事は平等に与えられている。
ゆえに極力その作曲家の事について、あるいはその作品について調べる事は必要だ。
時代についても、ベートーベンやモーツアルトでもたかだか200年前の事であり、バッハでも350年前ぐらい前,日本では江戸時代の事であるので調べるのにそうは難しくは無い。
大概の物は辞書で調べる事が可能である。
しかし辞書には無いが大切な点がある。
作曲家の常識である。
新作を演奏するときにはそこに作曲家本人がいるので、色々とたずねる事ができる。
その時、答えは、「どちらでも良い!」 「そんな事別に意味は無い!」 「自由にしていいよ!」等とおっしゃる事が多い。
すなわちその事は作曲家にとっては当たり前の事で、ことさら説明の必要は無いのだと言いたいのである。
演奏家はそこを見逃してはならない。
そここそがその作曲家の個性であり、アイデンティティなのだから。
特に自由にして良いとのお墨付きを得たからといって、本当に自由にして良いわけは無いのだが、これとばかりに好き放題してしまいがちだ。
他人の常識など、考えてもなかなか分かる物ではないのだが、無視は出来ない。
せめてその作曲家の生きていた時代の常識程度は知りたい物である。それはその当時の教則本や理論書などで確認できる。
| コラム ベートーベンとモーツアルトの作風の違いは歴然とあるのは,誰でもはっきりと指摘できるであろう。 その違いは何の為であろうか。 その当時の事を考えても、二人はほぼ同時期によく似た環境で過ごしているが、 何が大きな違いを見せているのだろう。 二人ともヴァイオリンは共に習っているが、モーツアルトは名教師の父レオポルドから仕込まれた。 しかし鍵盤楽器が違う。モーツアルトは,以前から使われていたチェンバロ。ベートーベンはクラビア。 この二つの楽器は音のニュアンスがまるで違っている。チェンバロは,トツトツと響き音量や音色は変えられないが,クラビアは今のピアノの前身で音色音量が自由に変えられ滑らかな音の繋がりが演奏できる。 この違いが二人の作風を大変違った物にしている。 |
この様な楽譜上の事は、音楽学者や出版社の仕事に任せたいのだが、今現在ではその様には行かない。
それは、一つには出版されている楽譜の多くはまだ十分に研究が進んでいない時代に、ある高名な演奏家などがその楽譜を書き換える事が演奏家の大切な仕事だとの認識で編集された物が多く、その全てを出版し直すには大変な労力と資金が必要になる。
又初版でさえ、出版社の原版を造るときの間違いもかなり多い。
もう一つには、音楽学者の視点が演奏家のそれとは少し違っている事だ。
学者たちは、その作品の筆跡書き損じた所や書き換えた所などからその作品の本質を見出そうとしているのだが、我々演奏家にとっては、もっと実際的な現代語への翻訳を望んでいる為だ。
早くインターネットなどで、作曲家自身の手書きの原稿を閲覧できる様になってほしいものである。
といいながら、現在の作曲家の楽譜ですら理解しがたい場合もある。特にコンピューターで書かれた楽譜には、そのような事が多い。
その原因は、コンピューターで試奏された為に、器械的に正直に演奏され、人が楽譜を見たときの印象や難易が器械とは違っている事が多い為だろう。
最も器械には簡単だが人には難しいのは、複雑なハーモニーをいきなり演奏しなければならない時だ。人が合奏するときに、同時に出す事、バランスを整える事、音程の関係を保つ事などは、大変な技術を要することだ。
それが難しい事は、これまで長々と論じてきた全てを、理解し習得できた者が集まって、練習を積み重ねた上で始めて出来る事であるからだ。
ただ単に名プレやーを集めて来るだけでは解決しない。
もう一つは、アンサンブルである。
アンサンブルを上手にする事はなかなか難しい事であるが、人には器械の様に御互いの意識無しに物理的にあわせる事は出来ない。
嫌でも御互いを意識してしまう。
アンサンブルしてしまう。影響を受けてしまう。
又リズムのニュアンスが音の長さや強弱だけで記述される為、とても複雑な記述になったり、ぎこちなく成ったりしてしまう。
反対に演奏者が知っておかなければならないことも沢山ある。
例えば、音の長さはとても正確に書かれてある。
今、電話のベルを音符に書こうとすると、感覚だと1/2なっている様に思えるので、2分音符と2部休符を書けばと思うはずだが、実際には

に成る。
しかし反対に楽譜を見て演奏したときには、

左の楽譜を見て演奏した時には、右の様にになってしまう。
その原因は、先ほどの電話のベルの感覚と同様に、半分の長さにしようと思うと1/4にしなければ1/2に聞こえないと思うからだ。
正しく演奏すれば、

右の楽譜が左の様に聞こえる。
右の4分音符を演奏すれば、全く繋がって聞こえなくては成らない。
全く耳の錯覚なのだが、楽譜は正確に書かれているのだ。
もう一点、
小節線は最も重みのある部分の左に書かれる物であり,旋律などの区切れ目を表す物ではない。
アフタクトの説明と同じだが,いつも強拍から始まる音楽は少ない。
これら以外にも有るが、一口に言ってしまえば作曲家の知っている曲を知って居るかという事だ。
誰も知らない全く新しい旋律は、まず有りえない。
それ以前に誰かが作った曲が有り、それをいつしか耳にしていた物を意識的にしろ無意識にしろ影響を受けて作られている。
それも全て走る事は出来ないが、名曲やその当時良く知られていた曲を知っておくに越した事は無い。
HOW TO
色々な楽譜上の記述を一度疑ってみると良い。
何故スタッカートなのか、何故クレッシェンドが書かれているのか、何故スラーが切れているのか、>は何の記号か、フェルマータとは何の事か、など。
いきなりでなくとも、とりあえず音符を感じるまま音にして見て、自分の思いと書かれている違いや、その旋律を一度では覚えられないのは何故かなど、テンポの指定もまず見ないで演奏してみて記述の意味を探ってみよう。
作曲家の常識もあるが、演奏家自身にも習慣や思い込みもある。
どちらが正しいか間違っているでなく、作曲家の意図を知ることが目的であるので、記述に共感を持つ事が重要だ。
コラム 私がシューマンの交響曲を録音する時、どうしても旋律感が納得できなかった。 ウイーンから列車を乗り継ぎ、ツビッカウの駅で地図を買おうとキオスクに立ち寄った。 そのとたんに問題はいっぺんに解決した。 その売り場のオバチャンが話すドイツ語のイントネーションがシューマンの旋律感とそっくりであったのだ。 言葉と音楽の関係はフルトベングラーの著書のタイトルである様に、大切な問題点であり密接に関係付けられているのはよく知っている事だが、こんなにも直接的に問題が解決するとは思ってもいなかった。 立て板に水のような、あまり細かいイントネーションの無い早口のドイツ語は、貧弱な私のドイツ語能力で聞き取れなかったショックより、その口調の新鮮さは今でも忘れない。 音楽は、「百聞は一見にしかず」、でなく「百見は一聴にしかず」かもしれない。 |
音楽の表現を順を追って整理してみよう。
1: |
↓
2: |
↓
3: |
↓
4: |
↓
5: |
↓
6: |
↓
7: |
↓
8: |
↓
9: |
↓
10: |
↓
11: |
BACK to
北村憲昭ホームページへは
| N ma-y C |
をクリック