雑   記   帳

 日々のニュースに接したり、新しい書籍や雑誌に触れたりする中で感じることを書き綴っていきたいと思います(最終更新2000年9月30日)。


盗聴法の施行に向けた動きについて考える

 組織的犯罪対策三法のうち、もっとも、施行が遅かった盗聴法(通信傍受に関する法律)が、本年八月一五日から施行されることが決まった。

 施行に向けて、既に最高裁判所は規則の制定を終え、国家公安委員会・警察庁も、本年7月13日、「通信傍受規則」を制定した。
 特に、実施主体である国家公安委員会・警察庁が定めた「通信傍受規則」においては、都道府県の警察本部長が傍受を行う事件の最終の指揮をとり、その責任を負うことが明確化され、スポット傍受(いわゆる「スポット・モニタリング」)については、会話の冒頭の短時間に限定し、犯罪に無関係な会話と判明した時点で傍受を終了して記録を消去すると取り決め、また、報道の取材のための通信については、会話の中で被疑者が犯行を告白したケースや、報道関係者が共犯の場合を除き、ただちに傍受を打ち切ることとされているという。
 しかし、国家公安委員会・警察庁が定めた規則は、警察庁の内部規則に過ぎず、それが実際にどれほど徹底して守られるのか、本部長が実際にどれほど具体的な事件につき深く関与してチェックすることができるのかについては大いに疑問があると言わなければならず、右のような規則の制定は「外向き」に姿勢を示した程度にしか理解できないと言わなければならない。

 警察庁は、右規則の制定より前の本年6月22日、薬物犯罪に対する取り締まりを強化するために「薬物濫用対策要綱」を定め、同日、全国の都道府県に通達された(6月30日付週刊法律新聞第2面)。
 これは、昭和62年次長通達「薬物濫用防止対策要綱」を全面的に見直した新要綱であるが、同要綱は、(1)麻薬特例法による「コントロールド・デリバリー」(泳がせ捜査)の活用、盗聴法の効果的な運用による薬物犯罪組織の解明、(2)麻薬特例法の活用による薬物犯罪収益の剥奪など同組織の資金源封圧の二点が骨子となっている。
 注目すべきは、盗聴について効果的に活用していくことがうたわれている点で、盗聴法施行後に積極的に活用していく姿勢が明確に示されている。
 このように警察庁は、盗聴法施行後、盗聴法を活用していく姿勢を明確にしており、これは薬物犯罪に限らず、盗聴法の対象犯罪全体につき、広く活用していくことが予想される。

 盗聴法は、これまで警察が捜査においておおっぴらに使用したいと考えてきた「悲願」であり、施行後は警察の新たな権限として行使され、それがやがて濫用に繋がることは必定と言うべきである。警察組織は常に権限の拡大化を虎視眈々と狙っており、盗聴法の施行により、市民同士のコミュニケーションに対する介入という新しい権限を最大限に利用しようとするだろう。

 このような中で、私たち市民がどうやって盗聴法と対峙し闘っていくか、が問われている。聞くところでは、7月28日には民主党などが臨時国会に、盗聴法廃止法案を提出するという。このような政治的な動きと併せて、市民の側で、盗聴法という天下の悪法に対して、いかなる闘いができるのか。暑い夏に改めて考えてみたい。

(2000年7月28日記)
*これは救援連絡センターの機関紙「救援」の連載記事として執筆されたものである。
一審無罪被告人の職権勾留を容認した最高裁判所決定について考える

 本年4月14日に、ある電力会社のOLが殺害された事件につき、東京地裁(大渕敏和裁判長)は「被告を犯人と認めるにはなお、合理的な疑問を差し挟む余地が残されており、犯罪の証明がない」として無罪を言い渡した。
 ところが、その後、被告人の勾留を巡って迷走することになった。無罪になった以上、被告人に対する勾留はその効力を失う。ただ、同被告人については、オーバーステイということで入管法違反で有罪が確定していたため、被告人の身柄が東京入国管理局に移され、強制退去手続が始まったため、東京地方検察庁は、そのままでは被告が強制退去されて日本を出国することになる事態をおそれて、4月18日、東京地裁に対して職権での勾留を請求した。しかし、無罪判決を出した東京地裁(大渕敏和裁判長)は翌十九日、職権を発動しない決定をした。
 その後、東京高等検察庁は、翌20日、東京高裁に職権で被告人を勾留するように請求したが、東京高裁(木谷明裁判長)は、同日、被告人を職権で勾留することは認められないと判断し、その理由として、「無罪とした一審の判断は尊重されるべきで、特段の理由がない限り、再び被告の身柄を拘束することはできない」と指摘した。極めて、常識的な判断である。
 東京高等検察庁は、5月1日、東京高裁に対して職権で勾留するように請求した。ところが、今度は、東京高裁(高木俊夫裁判長)は、5月8日、職権で勾留することを決定した。弁護側は勾留理由開示を求め、5月12日に開かれた勾留理由開示公判では、東京高裁の飯田喜信裁判官は、「被告が罪を犯したことを疑うに足りる相当な理由があると判断した。証拠隠滅や逃亡の恐れも認められる」と理由を説明した。
 これに対して、弁護側は5月15日、東京高裁に勾留決定を取り消すよう求める異議申し立てをした。東京高裁(高橋省吾裁判長)は、5月19日、その異議申し立てを棄却する決定をした。
 その後、弁護側が最高裁判所に特別抗告をしていたところ、6月27日、最高裁判所第1小法廷(藤井正雄裁判長)は弁護側の特別抗告を棄却する決定をした。

 最高裁決定は、「罪を犯したことを疑うに足りる相当な理由がある場合で、逃亡などの恐れがあれば、一審が無罪を言い渡しても、記録などの調査により被告を勾留できる」とし、勾留しなければ被告が不法残留のため強制退去手続きが取られ、出国してしまう点も考慮することができるとした。

 しかし、藤井正雄裁判長(裁判官出身)と遠藤光男判事(弁護士)は、「勾留は違法で、取り消さなければ著しく正義に反する」などと反対意見を述べている。特に、遠藤光男裁判官は「不法残留外国人でなければ拘置はあり得ない」とし「現行法に行政手続きと刑事手続きとの関係を調整する規定は設けられておらず、出国阻止のため被告を拘束する法的根拠はない。法の不備による責任を被告に転嫁することは許されない」と批判した点は高く評価されるべきである。

 今回の一連の手続で、結局、被告人の職権による勾留がなされることになってしまったが、この結果、一般市民の常識とかけ離れていることは明らかであろう。また、今回の経過の中で、無罪判決をした東京地裁と最初の東京高裁の決定が職権による勾留を認めなかったにもかかわらず、その後も東京高検が三度目の職権による勾留を求めたら今度は一転して勾留を認めたという点も納得しがたい。法律の運用が「数撃ちゃ当たる」で、裁判官によって異なる(実際の所はその通りなのであるが)ことを利用して、何度も請求することで結果的に検察官の要求を通してしまったということは、裁判所の権威にも関わる問題であるはずだ。

 今回の件では、たまたま、被告人が不法滞在の外国人であったために生じた。逆に言うと、日本に居住している日本人であれば問題なく、釈放された事例であった。ところが、たまたま、不法滞在の外国人で、勾留が失効したら間違いなく国外退去となることから問題が生じた。報道によると、これまでにも、執行猶予付き判決を受けて釈放された外国人被告について、検察側が控訴を検討中に被告が国外退去となり、控訴を断念したケースがあると言われている。そのような事態を避けるために、検察官が必死になった訳である。 しかし、これはまさに、法の不備と言うべきである。そもそも、刑事訴訟法にも、無罪や執行猶予の判決により釈放された被告を再度勾留する場合の要件について明確な規定はない。そして、刑事手続と出入国管理の問題とは全く異なる手続であり、その両者を調整するような規定や制度もない。したがって、本来は立法によって解決すべき問題であり、それを裁判所が「解釈」によって実現するのは裁判所による「立法」であって三権分立に反するものと言うべきである。このような法の不備、法の矛盾による不利益を、今回の事件の被告人に負わせるのは不当であるし、日本人と外国人との扱いを異にしているという点で平等原則にも反している。
 いずれにしても、今回の勾留は、国際人権法との関係でも問題がある。これが、例えば、アメリカ人であったら同じように勾留したであろうか。政治的に弱者であるネパール人だから認められたように思われる。その意味でも、今回の職権勾留はあまりにも恣意的であり、外国人に対する差別意識の現れと言うべきである。

 今回の最高裁決定はかなり特殊な事例に対する判断とは言え、今後の外国人に対する勾留の運用にも多大な影響を及ぼす可能性があり、その妥当性をめぐっては、もっと広く議論がなされる必要があるだろう。
(2000年6月29日記)

*これは救援連絡センターの機関紙「救援」の連載記事として執筆されたものである。

いわゆる「ストーカー法」成立と行政警察権限の拡大について考える

 今国会(第147回通常国会)において、当初、民主党が、「人に不安を覚えさせるような行為の処罰に関する法律案」(仮称)を議員立法で提出していた。
 ところが、4月に静岡県沼津市で女子高生殺人事件が発生するなどしていたため、自民、公明、保守の与党三党が「ストーカー行為規制法案」をまとめた。その後、民主党も、五月九日、早期成立を優先する立場から与党との一本化調整に応じる方針を決め、与野党合意の下、国会ではほとんど、その法案内容について審議されることなく成立した。

 このいわゆるストーカー法は、一見すると、画期的な内容のようにも思われるし、おそらく、まもなく行われる総選挙でも、与党側はその点をアピールするだろう。
 しかし、この法案の構造には大きな問題があると言わなければならない。

 すなわち、ストーカー法は、「つきまとい等」「ストーカー行為」のいずれについても、被害者の相談を受けて警察署長が警告を発令し、これに従わなければ都道府県の公安委員会が禁止を命令し、これらを無視してさらに迷惑行為が続くようなら、最高で「1年以下の懲役または100万円以下の罰金」を科すことができるという構造になっている。
 また「ストーカー行為」のうち特に悪質なものについては、被害者の告訴を踏まえて警告など行政命令を省いて「6月以下の懲役または50万円以下の罰金」を科せる仕組みにしている。

 つまり、ストーカー行為のうち比較的軽微なものと悪質なものを二本立てとして、比較的軽微なものについては警察署長の警告と都道府県公安委員会の禁止命令を受けてもストーカー行為をやめない場合に罰則が科せられることとし、悪質なストーカー行為については、いきなり刑罰を科することができることとされている。

 そうすると、最近の桶川事件などに見られる、警察による被害届や告訴の受理に対する消極的な姿勢からすれば、被害者としては本当に警察に相談して、「警告」や「中止命令」を発してくれるかどうか分からないことにもなりかねない。つまり、警察による恣意的な運用がなされることによって、ストーカー法が機能しないことになる危険性を有しているのである。

 そして、このことを逆に見れば、警察に対しては、またしても、広い権限(権力)がこの法律によって付与されたということができる。元々、ストーカーについては警察権力が介入することが期待されていたとは言え、ストーカーという新しい分野の犯罪について、警察に強力な権限が与えられ、警察の権力が拡大したことは確かである。

 したがって、今回、ストーカー法によって警察署長や公安委員会に付与された行政権限は、これまで警察が有していた捜査に関する権限とは全く異なる行政警察権限であり、その意味では、例えば、風俗営業法の改正によって、警察に広い行政警察権限が与えられたことや、組織的犯罪対策三法のうちのいわゆる盗聴法(今年八月の施行が予定されている)によって、行政警察権限が事実上与えられたことに付き続いて、さらに、警察に強大な行政警察権限を付与しようとしているのである。
 
 このような警察に新たな行政警察権限を付与するという法構造を持つストーカー法が、国会においてはほとんど議論らしい議論もされず、世論におもねる形で、与野党合意によって、ほとんど審議らしい審議もされないまま法案が成立しているのである。
 このように、ほとんどの国民が何も知らされないうちに、ストーカーという誰もが規制を望むような内容の法律をでっち上げて制定し、国民の知らぬ間に、警察の権限がどんどんと肥大化しているのである。今国会で成立してしまったストーカー法の今後の運用を、我々市民は厳しく監視していかなければならない。

(注)これは救援連絡センターの機関紙「救援」のために執筆した記事である。
(2000年5月20日記)

日弁連の「刑事弁護ガイドライン」策定に向けた動きについて考える

 日弁連は、近年、被疑者国選制度の確立に向けて活動していることは広く知られているところである。もともと、現行法上、国選弁護制度(経済的余裕のない被告人に国費で弁護人を付ける制度)は起訴された後にしか認められておらず、もっとも弁護人が必要な段階である被疑者段階(捜査段階)においては国選弁護は認められていない。

 そのため、日弁連では、1990年から「当番弁護士制度」を開始して、弁護士の自己負担で、捜査段階の被疑者に一回だけ無料で接見し、要望があれば事件を受任してきた。しかし、近年、当番弁護士制度が定着するに連れて、弁護士会の負担も限界に達し、被疑者国選弁護制度の確立が急がれる事態となっていた。

 このような中で、日弁連は、1998年8月から、法務省・最高裁との間で、「刑事被疑者弁護に関する意見交換会」を実施し、その中で、法務省からは、弁護活動の問題事例を具体的に指摘し、捜査機関の真相解明に向けた捜査活動を妨害することは許されないとし、そのような弁護活動は、国民に対する一定水準以上の法的サービスの提供という観点からも看過できないと主張した(1998年12月15日の法務省「被疑者弁護をめぐる諸問題−検察の立場から」)。

 現在、被疑者国選制度に向けて、法務省も前向きな姿勢を示し、着々と準備されるに至っているが、その中で、法務省は、「金も出すけど口も出す」という態度を露骨に示しているのである。
 そのような経緯の中で、日弁連刑事弁護センターが、「刑事弁護ガイドライン」を策定する意向を明らかにしたのである(長い間検討してきたようであるが最近までそれを公表していなかった)。
 ところが、その内容は、法務省が日弁連に要求してきた「適正な」弁護活動を、自己規制しようとする内容であったのである。
 総論的な批判については、本号の遠藤憲一弁護士の記事に詳細に述べられる予定であるので省略するが、ざっと見ただけでも、ガイドライン案には、次のような問題のある規定が盛り込まれている。

 第6条(健全運営義務)「弁護人は、憲法及び刑事訴訟法の理念に従い、刑事司法が健全に運営されるよう努めなければならない。」
 
第7条(法令遵守義務)「弁護人は、法令を遵守しなければならない。」
 第16条(接見禁止決定下での留意事項)「弁護人は、接見禁止決定の趣旨を無効ならしめてはならない。」
 第19条(捜査妨害の禁止)「弁護人は、事件の調査を行うに際して、意図的に捜査を妨害しないように注意しなければならない。」


 とりわけ、第六条の健全運営義務の規定は、そこでいう「健全」の意味が不明確であるだけでなく、法務省から見た「健全」が求められることになることは必然である。
 また、捜査段階において、被疑者についての弁護活動が激しく対立することが必然であるにもかかわらず、「捜査を妨害」してはならない義務を課そうとしているのである。
 しかも、それを「義務」化することによって、弁護士が、国家権力との関係で新たな「義務」を負うことを意味する。これは、これまで、弁護人が依頼者である被疑者・被告人との間契約によって被疑者・被告人に対する義務(債務)を負ったのとは全く違う次元の問題である。それとは別に、国家権力に対する法的義務が弁護士に負わされると考えられるのである(なお、公的義務に好意的な見解として森下弘「刑事弁護ガイドラインへの一私案」季刊刑事弁護22号39頁以下参照)。そして、「義務」に違反した場合には、当然に何らかの法的な「制裁」が予定されることになるはずである。

 このガイドライン案の中には、その制裁については何ら触れられていないが、法務省は、被疑者国選制度を設ける際に、民間の法人を設立させて、この制度を運用していく方針と伝えられており、その際に、一定のガイドラインを設定し、そのガイドラインに違反した弁護士に対して罰則ないしペナルティーを課すことを考えていると伝えられている。日弁連によるガイドラインは、それをいわば先取りしたものとも考えられる。
 これでは、弁護士は、自らが課すガイドラインによって自縛され、その弁護活動が萎縮させられることは必然である。
 現在、各単位弁護士会の刑事弁護委員会においても、このガイドライン案については、法務省に迎合する内容であり弁護権の崩壊に繋がるという批判的見解も多数出始めている。しかし、多くの刑事弁護に関わっている弁護士にはまだ十分にガイドライン案の内容も伝えられておらず、弁護士会の内部での議論もほとんど尽くされていない。しかし、日弁連は、被疑者国選制度を実現するために、このガイドラインの策定に必死になろうとしている。弁護士会内部での民主的な議論を経ないで、被疑者国選制度の実現という結果だけのために、法務省に迎合するかのような「刑事弁護ガイドライン」の策定を急ごうとしている日弁連の動きは全く理解に苦しむ。
 いずれにしても、今、刑事弁護のあり方が先鋭的に問われていることは確かである。刑事弁護のあり方は、そのまま市民の自由とも関わる問題であり、決して日弁連という専門家集団内部だけの問題にとどまらない。市民からの監視という意味も含めて、市民の人たちがこの問題に関心を持つことに期待したい。
(注)これは救援連絡センターの機関紙「救援」のために執筆した記事である。
(2000年4月24日記)

(補注)
 その後、日弁連刑事弁護センターでは、批判の多かった規定を削除した「刑事弁護ガイドライン第2次案」を5月11日付けで作成して、その策定を進めようとしている。


甲山事件の国家賠償訴訟の取り下げから考える

 兵庫県の知的障害児施設で、1974年に園児が死亡したいわゆる「甲山事件」で刑事責任が問われていた同施設の元保母が、25年ぶりに無罪が確定した後に、神戸地方裁判所尼崎支部に起こしていた国家賠償訴訟を取り下げることを、3月3日に発表していたが、被告の国と兵庫県が、昨日(13日)、取り下げに同意する書面を同支部に届けたことにより取り下げの効力が生じ、国家賠償訴訟は終了した。
 これで、「甲山事件」をめぐる一連の訴訟は、発生から26年で完全に終結することになった。

 刑事事件で無罪が確定した元被告人が、国や警察などを被告として、国家賠償請求の訴訟を起こすことはよく行われている。
 しかし、国家賠償事件では、またゼロから審理がやり直されるために、かなりの時間を費やす必要があることも多い上に、訴えた側に証明責任が負わされる上に、事件当時の資料から見て合理的な判断であれば事後的に誤った判断であっても、国家賠償法上は違法とはならないという考え方(職務行為基準説)を取っていることなどから、国家賠償で勝訴を獲得することは極めて困難であり、実際にも勝訴で確定した事例は少ない。
 甲山事件の元保母は、刑事事件においても、神戸地方裁判所で2度の無罪判決を勝ち取っていたにもかかわらず、検察官が控訴したために(英米では、「二重の危険」禁止に反するので無罪判決に対して検察官は控訴できない)、起訴されてから21年もかかってようやく無罪が確定したという経緯がある。

 元保母は、人生のかなりの部分を、実際には冤罪であったにもかかわらず、刑事事件で無罪を獲得するためにやむをえず費やさなければならなかった。その上に、さらに国家賠償訴訟が最終的に勝訴で確定するまでに何年かかるか分からない、という今の日本の裁判制度を前にして、その裁判を取り下げて終わりにする、という選択をすることは誰も責められないはずである。
 つまり、今回の元保母の訴訟取り下げは、今の日本の裁判制度に対する痛烈な批判の意味が含まれていると思う。だから、私たちは、元保母のこの選択を重みをもって受け止める必要があるように思う。
 3月3日の記者会見で弁護団が読み上げた元保母のコメントは、このことを私たちに訴えかけているように思う。

 「私の人生の時間を無情にはぎ取った二十一年の歳月は、日本の国や司法について考えさせることになりました。人間の尊厳が司法と共にある社会の実現に向け、ささやかではありますが行動することに専念したい」

 この元保母の訴えかけに、私たちはどう応えられるのか、そして、司法改革が叫ばれているが、この元保母のような苦しみをどれだけ汲み取った上でその改革がなされようとしているのかが問われている。
(2000年3月14日記)

「新潮45」少年の実名・顔写真掲載報道訴訟の控訴審判決を読む


 1998年1月に大阪府堺市で起きた連続殺傷事件について、新潮社発行の「新潮45」1998年3月号の「ルポルタージュ『幼稚園児』虐殺犯人の起臥」と題する記事が掲載、被疑少年のことを実名・顔写真を掲載し報道した。
 この記事につき、その少年が原告となって、少年法61条に基づく「実名で報道されない権利」を侵害したとして、雑誌の発行者である新潮社と記事執筆者に対する損害賠償と謝罪広告を求める訴訟の控訴審判決が、2月28日に大阪高等裁判所で言い渡された。

 この事件の第1審の大阪地方裁判所は、1999年6月9日に、新潮社と執筆者に対して金250万円の支払いを命じる判決をしていた(判決文は、田島泰彦・新倉修編『少年事件報道と法−表現の自由と少年の人権』189頁以下に掲載されている)。

 これに対して、大阪高等裁判所は、第1審の大阪地裁の判決を取り消し、原告の請求を棄却する判決を言い渡した。

 この判決は、まず、実名報道につき、「人格権ないしプライバシーの侵害とは別に、みだりに実名を公開されない人格的利益が法的保護に値する利益として認められるのは、その報道の対象となる当該個人について、社会生活上特別保護されるべき事情がある場合に限られるのであって、そうでない限り、実名報道は違法性のない行為として認容される」と判断し、原則として、実名報道を正当化した。

 その上で、少年法61条につき、「少年の健全育成を図るという少年法の目的を達成するという公益目的と少年の社会復帰を容易にし、特別予防の実効性を確保するという刑事政策的配慮に根拠を置く規定であると解すべきである」とし、それ故に、「同条が少年時に罪を犯した少年に対し実名で報道されない権利を付与していると解することはできない」と述べ、少年法61条が罰則を規定していないのは、社会の自主規制に委ねたものであると述べている。

(参考)少年法第61条(記事等の掲載の禁止)
家庭裁判所の審判に付された少年又は少年のとき犯した罪により公訴を提起された者については、氏名、年齢、職業、住居、容ぼう等によりその者が当該事件の本人であることを推知することができるような記事又は写真を新聞紙その他の出版物に掲載してはならない。


 そして、本件事件は社会的に正当な関心事であり、「少なくとも、凶悪重大な事件において、現行犯逮捕されたような場合には、実名報道も正当として是認される」とし、「本件犯罪事実は…極めて凶悪重大な事犯であり、被控訴人が右犯罪事実について現行犯逮捕されていることと、被控訴人とは何の因縁もないにもかかわらず無惨にも殺傷された被害者側の心情をも考慮すれば、実名報道をしたことが直ちに被控訴人に対する権利侵害とはならない」と述べている。
 さらに、「…新聞やテレビ等のマスコミに連日報道されており、口コミで伝えられることも多いと思われるから、少年の居住する地域住民にとっては、本件記事が出る前から被控訴人の実名や本件犯罪事実を知悉している」し、「地域住民以外の一般市民は、本件記事によって被控訴人の実名を知ったと思われるが、仮にそうであるとしても、被控訴人を知らない一般市民が被控訴人の実名を永遠に記憶しているとも思えないし、仮に一部の市民が被控訴人の名前を記憶していたとしても、そのことによって直ちに被控訴人の更生が妨げられることになるとは考え難い」と述べ、「そもそも、本件のように重大な犯罪を犯した被控訴人が社会に復帰した場合に、いかなる生き方をしようとしているのか不明である上、その生き方が真に被控訴人の更生に繋がるものとしても、その場合に本件記事に実名が記載されたことが何ゆえにその更生の妨げになるかについては、被控訴人は何ら主張立証していない」から、そのことをもって損害賠償請求の根拠とすることはできないと判断した。

 この裁判は、少年事件において、少年の実名・顔写真を報道された場合に、報道側がプライバシー侵害などの不法行為の責任を負うかどうかについての初めての裁判である。それ故に、少年側の言い分を認めた大阪地裁の第1審判決が出されており、それを受けて、初めての高裁レベルでの判断である。

 新潮社と執筆者に対する少年側の請求を棄却した大阪高裁判決について、マスコミ各社は、「新潮社逆転勝訴」と表現して報道した。しかし、「逆転勝訴」は書き手側から見た評価である。少年側から見れば「逆転敗訴」と表現されるべきものである。しかし、マスコミは、同じ「書き手」としてこの判決を捉えたために「逆転勝訴」と表現したのであろう。これはマスコミが、あくまでも「書き手」の立場に立っていることをよく示している。

 まず、私は、この判決に対して、共同通信社の取材を受けて、以下のようなコメントを出しているので、参考までに紹介しておこう。

 「訴訟では少年の匿名報道を定めた少年法61条と表現の自由をめぐる論争になったようだ。確かに一審は61条に権利としての性質を認めすぎている感もあり、控訴審判決はその反動もあったのだろうが、具体的な記事の内容から判断すべきだ。問題のルポ自体は悪い記事ではないと思うが、実名や写真がなくてもまったく支障のない内容。あえて実名などを出したことに、センセーショナリズムや商業主義が見て取れる。少年は成人に比べ、社会復帰を重視し手厚く保護する考え方が法で規定されていることからも、成人とは違う基準で名誉毀損を考える余地があると思う。」
 (この最後の部分は「名誉毀損」よりも「プライバシー」の方が正確である。)


 今回の大阪高裁判決については、実名や顔写真を報道することが、「社会の正当な関心事」になる場合がありうると述べている点に最大の違和感を感じる。

 この点につき、大阪高裁判決は、「犯罪報道における被疑者等の特定は、犯罪ニュースの基本的要素であって犯罪事実と並んで重要な関心事である」と述べている。しかし、一般読者にとって、どこの誰かは果たしてそんなに重要な「関心事」なのだろうか。
 かつて、日高六郎氏は、犯罪報道について、「本人にとっては死活の重大事で、彼と無関係の一般読者にとっては、十秒間の好奇心を満足させるだけのニュースをなぜ報じるのか」と述べたと言われており、浅野健一氏は、加害者の実名は「5秒間の興味の対象」と述べている(浅野健一『犯罪報道の犯罪』講談社文庫版147頁、同『犯罪報道と警察』三一新書74頁)。
 被疑者と関係のない大部分の市民にとっては、被疑者の氏名は一種の「記号」でしかなく、何の意味もない。そのような実名や顔写真が「社会の正当な関心事」の対象となるというのはどうしても理解しがたい。

 先に引用したコメントでも述べたが、「新潮45」のルポルタージュの内容それ自体は、少年の実名や顔写真を必然とするものではない。実は、この点は、大阪高裁判決も認めているのである。すなわち、「本件記事において、実名によって被控訴人と特定する表現がなかったとしても、その記事内容の価値に変化が生じるものとは思われず、控訴人が本件記事のあとがきで述べるように、本件記事の本質が隠されてしまうものとも考えられない」と。
 そうであるならば、実名や顔写真を掲載することは「社会の正当な関心事」はないと考えるのが筋であるように思われる。しかし、大阪高裁判決は正反対の結論を導いてしまっている。

 それは、大阪高裁が、実名で報道されることによって、その本人だけでなく、その親族も含めて、どれだけ大変な報道被害を受けるのか、ということに対する認識が極めて不足していることが起因しているように思われる。それは、例えば、大阪高裁判決が、地域住民はマスコミ報道や「口コミ」で被疑者が誰かを知るし、地域住民以外の読者については、実名報道されても「永遠に」記憶しているものではないなどと述べている点にそれがよく現れている。

 さらに、被害者感情にも言及して実名報道を正当化しようとしている点に至っては全く筋違いの理屈とか思えない。これは、被害者のためにマスコミによる「社会的制裁」(法的な制裁ではないという意味では私的制裁=リンチにほかならない)を認めようとする考え方であり、極めて危険な考え方と思う。

 もっとも、少年について、「実名報道されない利益ないし権利」があるという少年側の主張が大阪高裁を説得できなかったことは確かである。そういう意味では、この種の問題について初め提起した裁判であるということもあって、少年側の理論武装が不十分であったのかもしれない。
 私としては、少年法61条だけに根拠を求めることには限界があると思う。大阪高裁判決が述べている点は必ずしもありえない解釈ではないし、むしろ従来の解釈の流れに沿っていると言える。

 ただ、大阪高裁判決が、少年法61条が自主規制に委ねているから、法的規制をすべきではないと述べている点については、実際には自主規制が全く実効的でない現状からすれ(報道評議会などの自主的なメディア責任制度ができていない現状において、という意味である)、自主規制による保護など画餅に過ぎないという点の認識が不足していると思われる。

 もっとも、最近では、少年法61条のように、少年事件につき、一律・全面的な報道禁止を規定しているのは憲法違反であるという主張すらなされるに至っている(松井茂記「少年事件と報道の自由」民商法雑誌120号2号189頁以下)。新潮社もこの裁判では、少年法61条が憲法違反であるという主張を全面的に展開していた。大阪高裁は、少年側の主張を退けて、新潮社側の主張を容れたことから、少年法61条が憲法違反か否かの判断は示されずに終わったが、この事件が最高裁に上告されれば、その点の初めての判断がなされることになるかもしれない。

 上告する場合には。少年について実名報道することが、どのような被害を現実にもたらすのか、どのように少年の更生の妨げになるのかについて、より突っ込んだ議論が必要になるかもしれない。
 さらに、成人の場合に、実名報道をされない利益ないし権利が認められるのか、それは成人と少年の場合とで異なるのか、などについて、より議論が深められることを期待するとともに、この大阪高裁判決が確定しないで上告され、よりよい判決が出されることを期待したい。
(2000年3月3日記)

<参考サイト>(3月9日追加)
大住良太さんの「メディアの辺境地帯」に詳しい判決批判が掲載されており、参考になります。
☆「新潮45」少年の実名・顔写真掲載記事訴訟・控訴審判決は憲法違反だ(2000.3.6)

http://www.aurora.dti.ne.jp/~osumi/hrmedia/shonen.html

草加事件(民事)の最高裁判決を読む(最高裁判所第1小法廷2月7日判決)

 草加事件とは、埼玉県草加市の残土置き場で、1985年7月に、中学3年生の女子生徒が遺体で発見された事件のことで、その後、14歳から15歳(当時)の少年5人が殺人などの疑いで逮捕され、浦和家庭裁判所での少年審判では、少年たちは非行事実を否認したが、非行事実を認定し、少年たち五人を少年院送致処分とし、その後、抗告を経て、右処分は1989年7月に最高裁で確定していた。

 その後、被害者の両親が、1989年1月に、少年たちの親に対して、少年たちの監督責任者の注意義務違反を理由として損害賠償請求の民事訴訟を提起していた。第1審の浦和地方裁判所は1993年3月に、少年たちの捜査段階における自白の信用性を否定して、非行事実を認めた少年審判とは逆の「無罪」の結論を出し、被害者の両親の請求を退けた。第2審である東京高等裁判所は、1994年11月に、第1審の判断を覆して「有罪」とする判決を言い渡していたため、最高裁に上告されていた。

 最高裁判所第1小法廷判決は、少年たちの自白は、客観的証拠の裏付けに乏しく、自白内容には変遷が見られ、一部に虚偽供述が含まれていることから、そのような自白の信用性は慎重に判断されなければならないと述べて、自白を裏付ける客観的証拠の有無や、自白と客観的証拠との整合性や、自白の変遷などについて詳細に検討した上で、「少年らの自白にはいわゆる秘密の暴露があるわけではなく、自白を裏付ける客観的証拠もほとんど見られず、かえって自白が真実を述べたものであればあってしかるべきと思われる証拠が発見されていない上、一部とはいえ捜査官の誤導による可能性の高い明らかな虚偽の部分が含まれ、しかも犯行事実の中核的な部分について変遷が見られるという幾多の問題点があるのに、漫然とその信用性を肯定した原審の判断過程には経験則に反する違法がある」と述べて、東京高裁の判決を破棄して差し戻した。

 草加事件は、少年(刑事)事件としては、非行事実がある、すなわち、(成人事件であれば)有罪であると判断されて確定していた事件であるが、被害者の遺族が民事裁判を起こしたことから、その民事裁判の場を、事実上「再審」として機能させることを認めることができるかどうかが問題となっていた事件である。

 今回の最高裁判決は、上告を申し立てていた元少年たちにとっては、自分たちの「冤罪」が最高裁判所において認められたという点で、長年の苦労が実ったと評価することができるだろう。

 そして、何よりも、今回の最高裁判決は、少年(刑事)事件の最終結論と民事裁判の最終結論が異なっても良い、特に、少年(刑事)事件で「有罪」と判断された事件について、民事事件で「無罪」と判断されることを認めたが、それは、民事裁判の場を、少年(刑事)事件の「再審」として機能させることを最高裁判所が承認したという点で画期的な意味があると考えられる。

 すなわち、従来、刑事事件と民事事件は一応別であると考えられていたが、民事事件よりも刑事事件の方が厳格な証明が要求されていることから、刑事事件における裁判所の判断の方が厳格な事実認定に基づくものであると考えられてきていた。
 ところが、今回の最高裁判決では、この点を逆転させ、少年(刑事)事件における裁判所の判断を、民事事件の裁判の中で覆すことを認めたのである。

 しかし、他方で、この判決の内容を見て危惧する点もある。最高裁判決の判断によると、それは、少年事件の審判を担当していた家庭裁判所が事実認定を誤り、少年たちの「冤罪」を正しく判断することができなかったことを意味する。

 それは、まさに少年審判における家庭裁判所の事実認定能力がないことを裏付けているのではないかという考えに繋がりやすい。そして、現に、現在国会に上程されている少年法改正案は、まさに現在の家庭裁判所の事実認定能力に欠陥があるという認識に基づいて提案されているのである。

 つまり、今回の最高裁判決は、少なくとも、草加事件について、家庭裁判所など少年(刑事)事件における少年審判の事実認定が誤っていたことを示したという意味で、まさに現在国会に上程されている少年法改正を後押ししてしまう可能性がある。
 早速、2月8日付け読売新聞朝刊の「よみうり寸評」は、「最高裁が裁判のやり直しを命じた「草加事件」は、もともとの少年審判の事実認定の弱さをあらわにしたものだ。それは、少年審判の仕組みの欠陥のあらわれでもある」、「少年審判の仕組みを直さないと、『草加事件』の悲劇はまた起きるだろう。少年法改正の長年のもたつきには、もううんざりだ。」と述べており、まさにこの危惧を現実のものとしている。

 しかし、草加事件の少年(刑事)事件としての問題は、具体的な事件処理における裁判官の能力や予断・偏見の問題であって、それを「制度」の問題であるかのように責任転嫁するのは問題である。また、たまたま被害者の遺族が民事裁判を起こしたことによって、その民事裁判の場が「再審」の機能を果たすことを認めるということは、被害者の遺族が民事裁判を起こすかどうかという偶然によって「再審」が受けられたり、受けられないという結果が異なることになり、それはいかにも不公平とも考えられるが、これは少年事件における「再審」制度があまりにも間口が限定されて制限されているという再審「制度」の欠陥の故に起きる問題なのである。

 ところで、上告をしていた元少年たちは、最高裁判所に対して、「破棄差し戻し」ではなく、「破棄自判」を求めていた。それは、東京高裁に差し戻されてしまうとさらに長い時間がかかることが予想されるからだ、草加事件は発生から既に約一五年もの長い時間が経過しており、差し戻された結果、事件の決着が着くまでには更に何年もかかる可能性があり、最高裁判所において、もう少し異なった決着が付けられなかったか疑問が残る。
 いずれにしても、今回の草加事件についての最高裁判決を少年法改正に結びつけようという動きに対する警戒が必要である。
(2000年3月5日記)
 *この記事は、2000年2月8日に「雑記帳」に書いた記事を元に2月24日に救援連絡センターの機関紙「救援」3月号のために執筆した原稿に一部加筆訂正したものである。

(参考サイト)
 判決文自体は、最高裁判所のホームページの「最近の最高裁判決」に掲載されている。
 なお、荒木伸怡教授(立教大学)のページに最高裁判決に対する的確なコメントが掲載されている。

  http://www.rikkyo.ne.jp/univ/araki/naraki/shirase/soukaindex.htm

中吊り広告の性差別表現の自粛要請を考える


 3月2日、JR東日本の車内広告などを扱うジェイアール東日本企画が、雑誌の中吊り広告の広告主である出版社19社に対して、性表現の自粛を要請したと報道されている(asahi.com newsupdate3月2日付)。

 すなわち、同社では、広告掲示の審査基準を今年1月から強化していたが、今回、「性犯罪を肯定したり、誘発、助長するおそれのある表現」、「身体の部分などに関して露骨で挑発的な表現」など4種類の性表現について、審査を強化したと説明していると言う。
 そして、広告主が表現の変更や削除に応じなければ、広告の掲示を断る場合もある、とのことである。

 広告規制については、今年1月4日に、読売新聞社が、読売新聞紙上への「週刊現代」と「アサヒ芸能」の広告掲載を見合わせるとの発表し話題になっていた。
 今回の要請は、読売新聞社の広告規制に続くものであり、大変に画期的なことと考えられる。

 朝日新聞の記事によると、ジェイアール東日本企画の山岡瑞雄社長は、「中吊り広告は密閉された車内空間にあるため、女性や子ども連れのお客さんを含めた見る側に選択の余地がない」ことを要請した理由として述べているという。
 これは、まさに「囚われの聴衆」の考え方を述べたものである。このような場合には、表現の自由への制約が正当化されると考えられている(松井茂記『日本国憲法』471頁)。

 性差別表現については、それを見て不快になる者がいるような公共的な場所での規制はある程度やむを得ないように思われる。その意味で、この傾向は評価できると思う。今後、この傾向が他のメディアや別の広告会社に波及していくかどうかを見守っていきたい。
(2000年3月3日記)

新潟女性「監禁」被疑事件における被疑者の実名・顔写真報道と「週刊文春」の問題提起について考える

 新潟女性「監禁」被疑事件の被疑者が2月11日に逮捕された。行方不明になっていた女性が発見された後、被疑者の男性は精神状態が不安定だとして入院していたが、新潟県警は、刑事責任が問えると判断して、入院先の医師の意見を聞いた上で任意同行を求め、逮捕状を執行した。

 その男性の実名や顔写真は、逮捕されるまでの間、一般紙においては報道されていなかった。これに対して、「週刊文春」や「週刊新潮」などの週刊誌は顔写真付きで実名を報道していた。「週刊新潮」などは、電車の中吊り広告の中に、被疑者の実名を記載して、それを掲示している地下鉄などではその部分を伏せ字にするなどして掲示されたようである。

 「週刊文春」2月17日号(2月9日発売)は、「なぜ『実名・顔写真』か」という記事を掲載して、あえて、被疑者のことを実名・顔写真付きで報道することの理由を述べている。それによると、(1)犯人であることの明白性、(2)犯行の悪質さ、(3)9年2ヶ月の長期間にわたって他人に気づかれないように一人の女性を監禁し続けたことから「心身喪失」状態とは考えにくい、(4)前科があり、この事件は執行猶予期間中に行われた犯罪であることなどを指摘している。

 結局、その後、被疑者が逮捕されたことにより、一般紙などのマスコミが一斉に実名・顔写真報道に踏み切ったことにより、この「論争」はそのままになってしまった。
 しかし、「週刊文春」はそれなりに正しい問題提起をしていた。私自身は、同誌が実名報道に踏み切ったことには賛成できないが、その問題提起自体は意味のあることだと考える。
  「週刊文春」は、「小誌の実名・顔写真報道が人権侵害だとするメディアに問いたい。あなた方が犯罪者を匿名で報じる基準は、いったい何なのか。今回も、そしてこれからも、ただただ捜査当局の判断を待って報道するのをよしとするのか。」と述べている(同誌2月17日号33頁)。

 現在、ほとんどのマスコミは、捜査当局が被疑者を「逮捕」した時点で、実名報道に踏み切っている。裁判所が「逮捕状」を発付して、その被疑事件について、明確な国家権力の行使がなされた時点であるから、ということであろう(逮捕時点で実名報道をすることの理由は実際には様々述べられている)。

 他方で、マスコミは、被疑者が、精神障害者であり、犯罪の責任を問えない可能性がある場合には匿名で報道するという基準を持っている。このため、事件によっては、事件発生直後には実名で報道されていたが、後に精神障害の疑いが出てきた時点で匿名に変わることがある(少し古い事件であるが、日航機羽田沖墜落事件の機長をめぐる報道がそうであった)。

 今回の新潟女性「監禁」被疑事件の場合には、事件発覚直後から、被疑者の精神状態が不安定で入院していたということもあり、多くのマスコミは匿名で報道していた。そのような中で、「週刊文春」などの一部週刊誌等が、実名・顔写真報道をしたのである。

 ただ、今回の被疑者については、「今後の取り調べの過程で、佐藤容疑者の精神状態が再び不安定となった場合、病院などで専門家の精神鑑定を受けなければならないケースも予想され、その場合、起訴までに数カ月間の時間を要する可能性もある。」(毎日新聞インタラクティプ2月11日)と報道されており、今後、起訴前に精神鑑定のための「鑑定留置」がなされる可能性もあり、起訴されるかどうか分からない状態にある。
 新聞各紙は、被疑者に精神能力はあり起訴に自信を持っているという新潟県警のコメントを紹介して、実名報道を正当化しようとしているが、それはあくまでも「見込み」に過ぎない。

 「週刊文春」が問題提起しているように、今の新聞紙や多くのマスコミは、捜査当局の判断に依存して、実名報道するか否かを決めていることは間違いない。「逮捕」したから実名報道するというのはその最たるものである。その意味で、「週刊文春」の問題提起それ自体は正鵠を得ている。

 ただ、精神障害者のような場合に、逮捕された直後は実名報道をし、その後、精神鑑定をするなどして起訴できない可能性が出た時点で匿名報道に切り替えるという報道のあり方は(新潟女性「監禁」被疑事件も、そのようになる可能性がある)、精神障害者に対する「逆差別」になるという問題がある。
 だから、精神障害者か否か(その判断自体が極めて難しい)で匿名か実名を使い分けようとする現在の報道基準自体が問題なのであり、それで精神障害者の実名を報道すべきでないと考えるのであれば、全ての被疑者について、「逮捕=実名」という基準を捨て、匿名報道主義をとるべきなのである(もちろん、政治家などの公人の公的事柄は別である)。このことは、既に、1984年に、浅野健一氏が『犯罪報道の犯罪』の中で提唱していた(浅野健一・文庫版『犯罪報道の犯罪』169頁参照)。しかし、マスコミは、この点について、いまだにほとんど何の進展も見られないというほかない。

 それどころか、むしろ、最近では、「週刊文春」「週刊新潮」や産経新聞のように、精神障害者の疑いがあってこれまでは実名報道しなかったようなケースにおいても、独自の判断をして実名報道に踏み切るという積極的・挑戦的な姿勢の方が目立つようになった。
 これは、多くのマスコミが、これまで主体的な判断をしないで実名報道をしてきたことのツケが回ってきたというべきだと思う。

 その意味で、今回の事件は、もう一度、そもそも被疑者の実名や顔写真はどうして報道しなければならないのか、どういう場合なら報道することが許されるのかを根本的に考えるよい機会が来ているのではないか。
(2000年2月13日記)

最近の事件と「ひきこもり」や母子家庭との関連について

 最近起きた新潟女性「監禁」被疑事件や京都中学生殺害事件の共通する動機や背景として、「ひきこもり」や母子家庭ということが指摘されることがある。

 このうち、「ひきこもり」という言葉は耳慣れない言葉かもしれない。手頃な文献として、斎藤環『社会的ひきこもり』(PHP新書、1989年)は、「社会的ひきこもり」という用語を使用して、「二十代後半までに問題化し、六ヶ月以上、自宅にひきこもって社会参加をしない状態が持続しており、ほかの精神障害がその第一の原因とは考えにくいもの」と定義している(同書25頁)。斎藤氏は、「社会的ひきこもり」は個人の病理ではなく、社会のシステムの病理と捉えて、社会全体で対応していく必要を述べている。

 このような「ひきこもり」や母子家庭ということは、確かに、今回の事件の外形的な特徴と言えなくはないが、そこに何らかの原因や背景があったという報道の仕方はあまりにも短絡的過ぎると思う。

 このような報道は、「ひきこもり」で悩んでいる家族や母子家庭の家族に対する社会的な偏見や差別を助長する危険性がある。特に、「ひきこもり」の事例では、世間に対する体面などから、誰にも相談できずに、家族が孤立しているということがあると指摘されている(前掲書107頁)。社会の偏見はますますその傾向を強め、そのような家族を孤立化させてしまう結果になりかねない。

 だから、マスコミは、そのような事件の動機や背景を報道する際には、もう一歩突っ込んで分析をすべきであるし、「ひきこもり」や母子家庭を問題視するような報道には十分に気を付けるべきであると思う。
(2000年2月13日記)

京都の小学生殺害事件の被疑者の実名の報道について

 昨日の午後5時からのテレビ朝日の「スーパーJチャンネル」を偶然見ていたら、冒頭で、京都の小学生殺害事件の被疑者(既に自殺により死亡)について、視聴者から何故実名で報道しないのかという問い合わせが数多くあったことを紹介し、その上で、「テレビ朝日及びANN系列局では、まだ、自殺をした被疑者が犯人であることを裏付ける客観的な事実が明らかにされていないことを理由に、当面、実名を報道しない」と小宮悦子キャスターが述べた。これを聞いて、改めて、今回の被疑者の氏名について、各メディアが実名で報道しているのかどうかが気になったので調べてみた。

 すると、スポーツ新聞などでは実名や顔写真などが大きく報道されているが、一般紙では、産経新聞が自殺直後の報道から実名にしている他は、朝日新聞、読売新聞、毎日新聞、日経新聞が、いまだに実名ではなく匿名(但し、年齢は報道されている)で報道されている。

 産経新聞は、かつて、全日空機の機長を殺害した青年の事件についても、ある段階から「犯行の計画性などから責任能力があると判断した」として実名で顔写真入りで報道したことが記憶に新しい。

 被疑者の氏名を実名にするかどうかについては、各社によって自主的に判断すべきことであり(私は匿名報道をすべきだと考えているが、それはさておき)、その意味で、今回のように、判断が分かれること自体は決して悪いことではない。もちろん、テレビのワイドショーやスポーツ紙や週刊誌の報道で、被疑者の実名と顔写真を見た後、一般紙の報道を見ると、そのイメージを前提に呼んでしまうのかもしれない。それでも、一般紙に、実名や顔写真が掲載されないということは意味がある。スポーツ紙や週刊誌は自ら求めなければ読めないが、一般紙は宅配制度を利用していれば、毎日自動的に届けられ、読まされてしまうからである。

 一般紙の中でも、産経新聞が実名・顔写真報道をしていることは一般紙としては異例であり、その読者は読まされていることになるが、それが嫌な読者は購読を止めれば良い。その是非は、とりあえずは読者が判断すべきことであると思う。もちめん、被疑者の遺族の立場から見れば、それがプライバシーや肖像権侵害という法的な問題になるかどうかは一応別である。

 一般紙が産経新聞に「横並び」しないで、いつまで、この匿名報道を続けられるかを見届けたい。今後、遅くとも被疑者死亡で送検されるような事態が来れば、一般紙も各紙が実名報道するようになるかもしれないと考えられるが、その際に、各紙がどのような判断根拠を示してくれるかに注目したい。
(2000年2月9日記)

京都の小学2年生殺害事件の被疑者の自殺報道について

 京都の小学2年生殺害事件で、京都府警の警察官が、2月5日(土)の朝、被疑者宅を訪れ、任意同行を求めたが、その後、近くの公園で警察が被疑者に任意同行を「説得」中に、被疑者が逃走して、近くのマンションから飛び降り自殺を図ったことが、大々的に報道されている。
 多くの報道で、年齢や実名だけでなく、顔写真も報道され、さらには、小学校時代・中学校時代・高校時代の顔写真や、小学校時代の文集に寄せた文章や寄せ書き、作文などが報道されている。

 これらの報道は、自殺した青年が「犯人」であることが前提であるが、まだ、捜査は終わった訳ではなく、その青年が「犯人」であることが、どこかの国家機関によって認定された訳でもない。それにもかかわらず、その青年が「犯人」であることは当然の前提として、その青年のあらゆるプライバシーが暴かれているのである。

 これがどうして許されるのだろうか。被疑者死亡によって、その青年は今後決して刑事責任を追及されることはない立場にあるにもかかわらず、だ。「死者に鞭打つ」行為が行われているにもかかわらず、マスコミは当然のように、その青年のプライバシーを暴き続けているのである。

 ジャーナリズムの使命として、事件の真相や背景を伝える必要があることを否定するつもりはない。しかし、被疑者だった者であり、かつ、死亡した者についてのプライバシーを全て暴いてよいということにはならないはずだ。死者には訴えられることもないだろうということから、やりたい放題の報道をしている、としか見えない。それは「弱い者いじめ」そのものであり、まさに私刑(リンチ)である。マスコミにはそのような権限は与えられていないはずであるにもかかわらず、それがどんどんエスカレートして行っているとしか思えない。

 これで思い出されるのは、被害者の例ではあるが、東京でのある電力会社勤務の女性の殺人事件の際の被害者のプライバシー暴露報道である。死者についてのプライバシーを暴くことに対して、マスコミの人権感覚の麻痺は、この辺りからあるのかもしれない。

 いずれにしても、事件がショッキングであったため、今回の「自殺」報道はまだしばらく続くかもしれない。犯罪への憎しみはよく分かるが、既に自殺して死亡した者を鞭打つようなプライバシー暴露はもうやめるべきだ。
(2000年2月8日記)

草加事件の最高裁判決の評価

 昨日、最高裁判所第1小法廷は、草加事件について被害者の遺族が原告となって起こした損害賠償請求訴訟(民事)について、第1審の浦和地方裁判所が、少年たちの「無罪」を認めて請求を棄却し、その後、東京高等裁判所がその一審判決を取り消して、「有罪」を前提として損害賠償の支払いを認めたことに対する上告について東京高裁の判決を破棄して差し戻す判決をした。

 報道によると、判決は、「自白を裏付ける客観的証拠がほとんどみられず、犯行の中核部分について変遷がみられるなどの問題点があるのに、漫然と信用性を認めた二審の判断過程には誤りがある」と述べたという。

 草加事件は、少年事件としては、非行事実がある(有罪)と判断されて確定していた事件であるが、被害者の遺族が民事裁判を起こしたことから、事実上、民事裁判の場が「再審」として機能するかどうかが問題となっている事件である。

 この事件で、今回、最高裁が、少年たちの自白の信用性を否定して、事実上、「無罪」の心証を明らかにしたことは、最高裁自体が、少年事件の結論と、民事裁判の結論が異なっても良いと判断したという意味で、画期的な意味があると考えられる。
 しかし、それは逆に、少年事件における「事実認定」能力を否定することをも意味する。その意味で、草加事件については、結論としては良い結果であるかもしれないが、少年審判制度との関係では、今回の最高裁判決が、少年法改正の後押しとなるという危惧もあり、この判決を手放しで喜ぶことはできない。

 さらに、上告をしていた元少年側は、「破棄差し戻し」ではなく、「破棄自判」を求めていた。それは、差し戻されると、さらに時間がかかるからだ。事件発生から、既に約15年が経過しており、この事件の決着が着くまでに、さらに何年もかかる可能性がある。
 この事件の元少年側代理人の清水洋弁護士も「差し戻しとなり冤罪に苦しむ少年や家族らに一層重い負担を強いることになった」というコメントを発表しているという(朝日新聞2月7日付夕刊社会面)。

 草加事件で非行事実ありと認定された元少年たちが、1日も早く冤罪を晴らすことを願うが、この最高裁判決が、少年法改正への圧力とならないことを願うのみである。 
(2000年2月8日記)
<参考サイト>
  荒木伸怡教授(立教大学)「草加事件について」

   http://www.rikkyo.ne.jp/univ/araki/naraki/shirase/soukaindex.htm

公安審査委員会による観察処分決定に向けた動きについて考える


 「無差別大量殺人行為を行った団体の規制に関する法律」(以下、「団体規制法」という)が施行された昨年12月27日、公安調査庁は、オウム真理教団(最近、団体名を「アレフ」と改称した)に対して、教団が再び無差別大量殺人に及ぶ危険性があるなどとして、観察処分を請求していたが、そのための手続として、本年1月20日、公安審査委員会(委員長・藤田耕三元広島高裁長官)による意見聴取が行われた。

 そして、本年1月24日には、意見聴取を受けて、公安審査委員会の初めての会合が開かれ、新聞報道によると、委員からは、「教団に『危険性』がないとは言い切れない」などと適用に肯定的な意見が大勢を占めた模様であり、公安審は、今後、処分適用期間(当初2年の方針だったが、元教祖の子供の「誘拐」事件の発生を受けて最長3年の方向で検討されていると伝えられている)や、教団に課す報告義務の対象範囲など処分の細部を詰めたうえで、早ければ1月31日にも観察処分の適用決定をする方針だと伝えられている。

 昨年、異例のスピードで、国会において成立した団体規制法は、もうまもなく観察処分という形で具体的に適用されようとしている。
 団体に対する観察処分は、結社の自由という憲法で保障された権利であるにもかかわらず、それを侵害する重い処分である観察処分を認めるのに、たった1回の意見聴取手続を行うだけで結論を出すというのは、不利益な行政処分をする際には「告知と聴聞」という手続(憲法31条はこれを「適正手続」という形で保障し、それが行政処分にも準用されると考えられている)が必要であるとされる趣旨からすると、手続としてはいかにも不十分としか言いようがないが、今回の意見聴取手続を見てその感を強くした。

 かつて、オウム真理教団に対する破壊活動防止法の適用に際して、何度も弁明手続が行われたことの「反省」から、意見聴取手続を極めて簡素なものにした訳であるが、逆にそれが団体規制法の憲法違反性を強めているのである。 

 また、団体規制法は、観察処分の要件として、「当該団体に無差別大量殺人行為に及ぶ危険性があると認めるに足りる事実」があることを掲げている(同法5条1項。特に同5号)。

 かつて破防法の適用が否定された際には、この危険性が否定されたために破防法の団体適用が認められなかったが、その後、オウム真理教団について「無差別大量殺人行為に及ぶ危険性」が果たしてどれだけ増加したのか。 客観的な危険性が増加したとは感じられないが、公安調査庁はどれだけ具体的で客観的な証拠を提出しているのか、疑問である。

 さらに、最近起きた「内紛絡み」とも言われる元教祖の子供の「誘拐」容疑事件の発生についても、それが直ちに「無差別大量殺人行為に及ぶ危険性」とは直結しない事実であることも明らかである。ところが、前述したように、公安審査委員会では、この事実を重く見て、観察期間を最長の3年にする方向で検討が進められているという。

 ところで、最近、一部の識者の意見として、「そもそも団体規制法の観察処分というのは、危険性があるかないかを判断するために認められた処分なのだ」という理屈を述べて、現時点で危険性が判断できなくても、将来危険性があるという可能性があれば観察処分は可能であるとの見解が紹介されることがある。

 しかし、団体規制法は、あくまでも、処分をする時点において、「当該団体に無差別大量殺人行為に及ぶ危険性があると認めるに足りる事実」があることを要件としているのであり、それがないのであれば観察処分はできないのである。「危険性」の要件を緩和しようとしたり、漠然とした「危険感」で観察処分をすることは団体規制法自体が認めていないのである。

 それにもかかわらず、公安審査委員会は観察処分をする方向で検討をしていると伝えられているが、この記事が掲載された「救援」が発行される頃には結論が出ているだろう。その結論がいずれにしても、このような極めて短期間で杜撰な公安審査委員会の審理をもって、団体に対する保安処分(個人については我が国では認められていない)ともいうべき観察処分を認めることができる団体規制法という法律を成立させてしまい、それによって失ったものの大きさを改めて認識する必要があると思う。その上で、今一度、団体規制法という団体に対する超弾圧法規が日本において具体的に発動されようとしていることの意味の大きさを噛み締め、これから何ができるのかを改めて考えたい。
(2000年1月30日記)(救援連絡センター「救援」2月号用に執筆したものを手直しして掲載)

(注)保安処分とは
 行為者が将来犯罪を反覆する危険性から社会防衛を期するために、刑罰を補充し又は刑罰に代わり用いられる治療・改善を内容とした処分のこと(有斐閣『法律学小辞典〔第3版〕』より)

 (補足)
  公安審査委員会は、1月31日、オウム真理教団に対して、3年間の観察処分とすることを決定し、2月1日付の官報に掲載されて、その効力が発生した。オウム真理教(アレフと改称)は行政処分取消訴訟を提起して対抗するとのコメントを発表している。
(2000年2月4日記)


徳島市の吉野川可動堰住民投票における住民勝利が突きつけたもの


 徳島県徳島市の吉野川可動堰計画の賛否を問う徳島市の住民投票が、1月23日に実施された。

 そもそも、吉野川には、江戸時代である1752年に、旧吉野川周辺の水不足のために造られたが、洪水によってその一部が崩壊することがあり、その都度補修されてきていた。1982年に、突然、この吉野川第十堰の改築計画が浮上した。それは、現在の堰を取り壊して、その1.2キロ下流に可動堰を建設するという計画で、予算は1030億円、毎年の維持費だけでも7億円という計画だった。

 これに対して、周辺住民を中心として反対運動が起き、1999年1月に、徳島市の反対住民11万9051人の署名を提出して住民投票の制定を直接請求し、徳島市議会は、1999年4月の市議選で住民投票制定を公約に掲げる議員が過半数となり、6月議会で住民投票は制定されたが、その実施日は先送りされ、昨年12月の徳島市議会でようやく実施日が確定した。但し、6月の条例制定時に、「投票率が50%を切った場合には開票をしない」という条件が、反対派と建設推進派との妥協の産物として盛り込まれていた。(以上の事実関係の多くは「サンデー毎日」1月30日号30頁以下を参考にさせていただいた)。

 私は、徳島市で住民投票が実施されることになったことは大変に良いことだと思ったが、開票条件として、「投票率が50%を切ったときには開票しない」という条件が付けられた点について強い疑問を抱いた。住民投票という住民の意思を確認するための投票で、たまたま投票率が50%未満の場合に開票しないというのは、民主主義のルールからしておかしいのではないか、と思ったのである。

 この開票条件は、おそらく、投票率が50%を切るような投票では、住民の真の意思を確認することはできない、つまり、そのような低い投票率では、その結果は住民の本当の意思を代表しているとは言えないということが根拠として考えられているのだと思う。
 しかし、これまで全国各地で議員や首長選挙等が行われてきたが、投票率が低調で50%を切ったとしてもちゃんと開票され、それに基づいて当落が決められているのであって、投票率が50%未満であることは、何ら住民の意思を反映していないとは考えられていないのである。

 したがって、徳島市の住民投票において、投票率50%未満だと開票しないという条件が付されたのは極めて政治的な意図に基づくものと考えられる。つまり、なるべく住民投票のハードルを高く設定して、住民投票は一応やらせるが開票させないことによってその住民投票を無意味にしようという政治的意図があったと考えられるのである。

 そして、それを裏付けたのが、可動堰建設賛成派による投票ボイコットの動きであった。このことは、朝日新聞の報道でも、「可動堰計画推進派の一部は投票不成立を望み、電話などで組織的に棄権を呼びかけている」と報道されている(asahi.com newsupdate1/23/2000)。実際には、建築推進派は、表面的には「死んだふり」をして住民投票が盛り上がらないようにするとともに、裏ではボイコットの票集めに全力を挙げていたと伝えられ、最終的には建築推進派が「勝利」するのではないかと伝えられていた(「サンデー毎日」1月30日号30頁以下「『吉野川第十堰』でうごめく住民投票つぶしの“巧妙”な手口」)。

 そのため、昨日の投票は大変に気がかりであったが、住民投票の確定投票率は54.995%であり、住民投票は成立した。そして、計画反対が10万2759票、計画賛成は9367票で、反対は91.65%に達し、圧倒的多数の住民による反対の意思表示がなされたことになった。
 この結果を受けて、建設省出身である小池市長も、元々は建築推進派だったが、昨日夜に記者会見して、「投票結果を市民の意思と認識し、尊重したい。反対が市民の多数意見と示された以上、徳島市としても反対する」と述べたと伝えられている。
 しかし、中山正暉建設相は、「治水は国の責務であり、住民の生命、安全にかかわることを住民投票で決めることは適当でない」との立場から、記者会見を拒否したという(日刊ゲンダイ1月25日付3面)。また、小渕恵三首相は、1月24日午前事業を中止する考えがないことを強調したという。

 しかし、今回の住民投票は、妥協の産物とは言え、高いハードルであった50%の投票率を実現し、しかも圧倒的多数の反対票を、政府・建設省に対して突きつけたという意味で極めて重要な意義があったと考えられる。
 このような結果を生んだのは、建設推進派が、姑息にも、高いハードルが設定されていることを利用して、投票ボイコットの運動を行ったことに対する住民の強い反発があったことと、そのような住民感情を読みとれなかった推進派側の運動のセンスのなさにあるだろう。特に、推進派は、賛成票を入れる運動ではなく、最も非民主的とも言える住民投票ボイコットを狙ったところに最大の作戦の誤りと情勢の読み違えがあったと言わなければならない。そして、それが裏目に出て、圧倒的多数による反対票ということになったのである。
 これは、地方の住民による中央集権型の旧来の土建政治に対する「ノー」を突きつけたものであろう。

 逆に、反対派は、妥協の産物とは言え、高いハードルを掲げられながら、住民の心を掴んで50%を超える投票率を獲得した戦いについては高く評価されてよい。私としては、投票率50%未満では開票しないという「妥協」については問題ではないかと思っていたこともあるが、それを逆にバネとして、様々な知恵を絞って、最後のぎりぎりまで住民を投票所に行かせる運動を展開した勇気と行動力を賞賛したい。

 今回の徳島市の住民投票は、これまでのような中央集権型、利益誘導型の古い政治手法に対する手厳しい評価を示したものであり、政府・建設省は、このような地方の住民からの厳しい批判を真正面から受け止め、今後のこの種の開発の進め方について根本的に改めるべきである。

 いずれにしても、今回の徳島市の住民投票の結果は、久しぶりに、明るくて元気の出るニュースであり、今後のみの問題の進展を期待したい。
(2000年1月25日記)

広告掲載を読売新聞に拒否された「週刊現代」の反論を読む


 本年1月4日、読売新聞が「週刊現代」と「アサヒ芸能」の広告の掲載を当分の間見合わせるとの見解を発表したことは大きな反響を呼んでいる。

 この点につき、「週刊現代」1月29日号は、「本誌の広告を拒否した読売新聞社の『論理と倫理』を糾す」という記事を掲載して、読売新聞社の対応を激しく批判している(同誌220頁以下)。

 「週刊現代」側の言い分は、読売新聞社から広告掲載基準の適用を厳格にするという話はあったが、その審査基準は明らかにされず、具体的な広告についても「この見出しはダメです」という回答は来ても、どのようにダメなのか示されたことが一度もない、昨年12月24日に出稿した1月4日発売号の広告についても、一旦、読売新聞社審査部で承認されたにもかかわらず、掲載されなかったなどの事実を指摘して、「はじめから本誌に予断をもってあたり、理性的な交渉を放棄していたというのである。
 この点については、事実問題であるので、是非とも、読売新聞側の反論を待ちたいところである。ただ、読売新聞自体についても、広告について立派な方針を公言した以上、読売新聞自体の「人権感覚」が今後問われることも当然であり、その点も含めて、是非とも、読売新聞と「週刊現代」の論争がなされることを期待したい。

 ところで、「週刊現代」は、反論の中で、自分のたちの報道を正当化しようとして、「週刊誌の使命は、新聞、テレビが報じない政治家の欺瞞や、官僚の動向、経済の実態をえぐることであり、性の実情についても、世相・社会風俗の一現象として、これを報じることが意味あることだと認識している」として、「性的な写真や、記事が、私たちが生きているナマの社会をなにがしかの形で反映しているのならば、その写真や記事は掲載する意義がある…」と述べている点については違和感がある。
 すなわち、前段の政治家の欺瞞等については確かにその通りであるが、後段の性の実情という面については、伝達の仕方にはいろいろと工夫があると考えられるのであり、いたずらに卑猥な性表現を使用して、読者の気を引き購買数を伸ばそうとしている現在の紙面作りの実態とはあまりにも落差があるからである。

 また、実際にも、週刊誌自体の表現の自由と、広告における表現の自由とは自ずから違いがある。とりわけ電車の吊り広告においては、読者は否応なしにその広告を見せられるのであり(これを「囚われの自由」という)、特に女性や子どもにとって、どぎつい性差別的表現が見せられることは望ましいことではない。
 したがって、週刊誌自体と商業的な要素の強い広告における表現の自由の自主規制のあり方は異なってしかるべきである。

 そのような観点から見れば、「週刊現代」側の反論はあまり説得力があるようには思われないのである。
 ちなみに、読売新聞社への反論を掲載をした「週刊現代」1月29日号には、女性が全裸で体操演技をする写真が掲載されているが、日本体操協会は、発行元の講談社に対し、「競技を著しく冒とく」するものだとして謝罪を求める内容証明付きの抗議文書を送付したと報道されている(朝日新聞1月23日付朝刊)。
 「週刊現代」は、果たしてこのような写真も「掲載する意義がある」と考えて掲載したのであろうか。

 いずれにしても、広告掲載をめぐる議論が高まることは良いことであり、多いに議論が深まることを期待したい。
(2000年1月23日記)

「動機」供述報道を考える


 昨年11月に東京都文京区で発生した幼女殺害事件については、容疑者が逮捕された直後から、「受験事情」が動機ではないかとして、「お受験殺人」などと報道され、多くの国民にとっては、その言葉が現在も印象に残っている程である。

 もっとも、昨年12月16日に容疑者が起訴された時点では、東京地方検察庁は、容疑者が被害者の幼女が国立付属幼稚園に合格したことを知らなかったことなどから、いわゆる「お受験」をめぐる確執が殺害の動機ではないと判断し、容疑者の一連の供述などから、被害者の幼女の母親との人間関係に悩んだ容疑者が、幼女を殺害することで、その関係を断つことができると考えたとみていると報道されるに至っている(読売新聞1999年12月16日付)。
 つまり、この事件は、当初大々的に報道された「お受験殺人」ではなかったことを訴追側である検察庁が認めており、それまでの容疑者の「動機」供述報道がいかに誤りであったかを明らかにした。

 この点については、『噂の真相』2000年2月号が、警視庁捜査一課長は、逮捕後一度も殺害の動機が「お受験」であるとは言っておらず、動機が「お受験」であるという点については、マスコミによる現場の聞き込み情報をタレ流しただけであったと指摘されている(同誌18頁)。

 殺人事件については、刑事裁判においても、その動機が重視されることは確かである。それは殺人の犯行の情状、つまりその犯行が重いかどうかを判断するためには、それが保険金目的のような計画的にものか、衝動的・突発的・偶発的なものかなどによって、実際ら刑の量定に影響があるからである。
 そして、そのために、殺人事件については、その起訴状に動機も記載されるのが普通である(和歌山カレー事件では、起訴時までに動機が特定できないとして、異例の措置として、起訴状に動機が記載されなかった)。

 しかし、起訴されるまでの間に、その事件の動機が報道されることについては問題が多い。まだ、起訴されるかどうか分からない時点で、犯行を置かしたことを前提としてその動機を報道することには問題があるし、容疑者が、仮に事件それ自体を犯したことは争っていないとしても、その動機について争うことは大いにありうることであり、それが、捜査段階で報道されることによって、一般市民に対して、その事件のついて誤った印象を与えてしまう可能性があるからである。つまり、本当は偶発的な犯行であったにもかかわらず、捜査段階で、それが計画的な犯行であったと報道されたら、後で刑を受け終わって社会復帰した際に、実際に犯した罪よりも重い罪を犯した者として扱われるという社会的な偏見・制裁を受けなければならなくなるからである。

 しかも、捜査段階での容疑者の供述については、マスコミ側が直接に確認できないために、警察からのリーク情報(一方的なタレ流し情報)に依存することによって、実際の容疑者の供述とは異なり、捜査側が望む内容だけが報道される危険性がある。
 そのため、捜査段階での容疑者の供述報道については、誤りを犯す危険性が極めて高いということになる。

 したがって、捜査段階では、警察からの情報提供だけに依存して容疑者の「供述」を報道すべきではないし、まして、「動機」についての容疑者の供述を報道することはやめるべきであると考える。動機については、起訴されて法廷で検察官の冒頭陳述で明らかにされてからでも遅くないと思う。
 事件の原因や背景をマスコミが探ること自体が悪い訳ではない。しかし、捜査段階における容疑者の「供述」なる不確実な情報を早い時点で報道し、それに基づいて、容疑者について誤ったイメージを伝達することが問題なのである。

 ちなみに、東京地方検察庁は、この事件の動機について、被害者の「母親に対して、一方的な思い込みが募っていった結果」と説明しただけで、「詳細は法廷での冒頭陳述で明らかにしたい」と一切口を閉ざしたと伝えられている(読売新聞1999年12月17日付)。
 ところが、本年1月15日付読売新聞は、起訴された主婦の供述の全容が明らかになったとして、捜査側の情報提供によると思われる「動機」供述報道をまたしてもしているのである(既に起訴後であるから、厳密には「容疑者」の供述報道ではないが、第1回公判期日前であるから、それ程違わない)。
 この点、「週刊新潮」1月27日号は、弁護人のコメントを掲載して、「供述の表ヅラだけでは動機の解明には不十分…」と述べているだけ問題意識はあると言える。

 いずれにしても、大きな殺人事件が起きる度に繰り返される容疑者の「動機」の供述報道をやめるときが来ていると考えるべきである。
(2000年1月23日記)


「皇室報道」を再び考える


 昨年末の「流産」報道の後、朝日新聞による「懐妊の兆候」スクープ報道をめぐる意見が種々見られるようになってきたので、それを踏まえつつ、「皇室報道」について考えてみたい。

 『週刊朝日』1月21日号には、コラム記事「田原総一郎のギロン堂」「『懐妊報道』に批判記事も出たが皇室報道のタブー視には大反対」(同誌37頁)で、朝日新聞の「懐妊」報道を擁護する立場で書かれている。
 田原氏は、「流産」報道の後、「あらためて朝日新聞批判が高まり、皇室に関する報道がタブー視されるようになるのではないか、と感じた」といい、「皇室がもっと開かれて、天皇、皇后、そして皇太子ご夫妻のナマの声、ナマの意見が聞けるようになったほうがよいと考えている。皇室報道がタブーになるなどというのは大反対だ」と述べている。

 しかし、今回の「懐妊の兆候」報道は、前に述べたように、「皇位継承にかかわる事柄」だからプライバシーではない、報道するのが当然、タブー視すべきでない、というのは言い過ぎではないだろうか。つまり、報道の開始時点が早すぎるのである。それが早すぎたのは、もちろん、スクープ合戦のためである。

 それを棚上げして、むやみやたらと、「皇室報道」のタブー視はけしからん、という論調は、いかにも朝日新聞が喜びそうな論調ではあるが、今回の「懐妊の兆候」報道にしても、結局は「皇室」肯定、「皇室」賛美に裏付けられており、そこには、何ら天皇制に対する批判的視点は感じられない。

 そもそも「タブー」視してはならない、というのであれば、そこには、天皇制に対する批判的な視点がなければならないはずである。しかし、今回の朝日新聞の「懐妊の兆候」報道にはそのような視点は全く感じられなかった。
 つまり、このような「皇室報道」を「タブー」視するな、という論調は、一見ラジカルに見えるが、その実は最も天皇制に対する擁護にベクトルが向いているのである。

 その意味で、今回の報道については、「皇族にプライバシーや『人権』があるかどうかは別に議論すべきテーマである」が、「他人の子宮の中まで詮索するような言動は、対象がだれであろうと、めでたかろうとなかろうと、それ自体に当事者以外の女性をも不快にさせる要素が含まれている、それが今回の教訓であろう」(斎藤美奈子の「性差万別」第10回「兆候の意味」『噂の真相』2000年1月号87号)とか、「普通なら、口にするのをはばかられるに違いない女性の生理にかかわる事柄が、公然と報じられたことへの違和感」(『世界』2000年2月号304頁の岡本厚編集長の「編集後記」)という指摘が最もしっくりくる。

 今回の朝日新聞による「懐妊の兆候」報道と、それを追うようにしてなされた主としてテレビによる懐妊祝福報道は、一般読者や視聴者には違和感だけを残したように思う。このような違和感は、国家権力による報道に対する規制を招く素地を着々と作っていることだけは確かであろう。

 その意味で、『世界』の編集後記が、「このままでは、近くメディアは、権力と市民に『挟撃』されることになる」、「自らを律することのできない自由の濫用は、やがて自由の喪失をもたらす。この自由のパラドックスが、メディアにも及ぼうとしていると思えてならない」と指摘していることは正鵠を得ていると思う。
 その意味で、今回の朝日新聞の「懐妊の兆候」スクープ報道はもっと批判されるべきであるし議論の対象とされるべきであった。それを不問に付したままで、次の「懐妊の兆候」報道に向けたスクープ合戦のための取材競争は既に始まっているのかもしれない。
(2000年1月11日記)
「情報収集」目的による家宅捜索報道を考える


 2000年1月8日夕刊各紙は、同日の朝、埼玉県警公安特別捜査隊と越谷署の合同捜査班が、オウム真理教の出家信者が教団の車両を確保するために関係書類を偽造して越谷警察署長に提出したとして、偽造有印私文書行使の疑いで、埼玉県越谷市の施設と神奈川県横浜市の教団支部の家宅捜索を始めたことを報道した。

 この報道で疑問なのは、どうしてこの偽造有印私文書偽造の容疑で、横浜市の教団支部の家宅捜索が必要なのか、また、どうしてそれを裁判所が許可したのであろうか、という点である。

 今回の捜索の意図を最もよく言い当てていると思われるのは産経新聞社の報道である。
 まず、産経新聞は、今回の捜索は、教団の実質的なリーダーである元受刑者同の出所で再び活発化が懸念されている教団に警察当局が素早く反応し、横浜支部内で行われたやりとりなどの書類なども合わせて押収することにより、今後の教団の方向性を見極める狙いがあるとみられると伝えている(産経新聞2000年1月8日付夕刊)。
 さらに、サンケイスポーツ紙は、「横浜支部については、車の使用者が同支部に出入りしていることや、村岡達子代表代行…ら幹部も頻繁に出入りしており犯行が組織的に行われた可能性があるとして捜索を実施」、「埼玉県警の捜索も、横浜支部に“缶詰”状態にされている…幹部(元受刑者のこと、引用者注)が『越谷市の施設に移動する可能性がある』との情報に基づいたものとみられ、横浜支部への捜索も…幹部の現在の様子や幹部の出入りの状況などを把握するのが狙い…」と伝えている(2000年1月9日付サンケイスポーツ22面)。

 車の使用者が横浜支部に出入りしていることは、確かに、今回の家宅捜索の容疑である偽造私文書行使容疑と無関係ではないとは言えるかもしれない。
 しかし、横浜支部内で行われた元受刑者と教団関係者との「やりとりなどの書類」(産経新聞)は、ここで問題となっている偽造有印私文書偽造容疑とは何の関係もない文書であるし、「今後の教団の方向性を見極め」たり(産経新聞)、元受刑者の「現在の様子や幹部の出入りの状況を把握する」(サンケイスポーツ)ための資料を押収することが、今回の偽造有印私文書偽造容疑による捜索差押許可状によって許されるはずはない。

 *捜索差押許可状は、警察が申請し、裁判所の裁判官が発付することになっており、その際には、特定の犯罪につき、それと関連性のある物を裁判所が明示することになっている。ただ、実際には警察が申請すればほとんどの場合、許可されているのが現状である。

 そうすると、今回の横浜支部に対する家宅捜索については、情報収集を目的とするものであり、本来許されない、つまり違法な家宅捜索ではないかという重大な疑問が残るのである。

 *島伸一『捜索・差押の理論』(信山社、1994年)171頁以下は、「捜索差押の目的外流用は、別件逮捕と同様に適正手続の保障に対する重大な侵害の危険性をはらむものである」と指摘している(同書305、306頁)。
 もっとも、刑事訴訟法の学説では、この問題を、「別件捜索・差押」の問題として論じるのが一般的ではある(福井厚『刑事訴訟法学入門』〔成文堂、1999年〕126頁以下、白取祐司『刑事訴訟法』〔日本評論社、1999年〕114頁)。

 実は、大阪府知事であった横山ノック氏に対して、大阪地検特捜部は、1999年12月20日、強制わいせつ容疑で大阪府庁の知事室や知事公館、自宅など関係先を一斉に捜索し、そのことが大きく報道され、それが同氏の府知事辞任への大きな引き金となったことは周知の事実であったが、その後、大阪地検特捜部があれ程大々的に捜索をしたのは、強制わいせつ容疑以外の不正汚職事件の容疑があり、そのための証拠を押収するためであったのではないかと指摘されていた。そして、実際にも、強制わいせつ容疑とは関係ないと考えられる銀行預金通帳等が多数押収されたという。
 そうすると、横山氏に対する家宅捜索も、実は、捜索差押の目的外流用であった(この場合にはまさに別件のための捜索差押だったという意味で「別件捜索・差押」と呼べるだろう)。
 しかし、そのような観点で報道したマスコミは私の知る限り、全くなかったように思われる。横山氏の辞任は当然であったとしても、家宅捜索報道については疑問が残らざるを得なかった。

 これまで、いわゆる「別件逮捕」については、マスコミにおいても慎重な姿勢をとることにしている。
 例えば、読売新聞社の『新書かれる立場 書く立場 読売新聞の[報道と人権]』(1995年)122頁以下は、記述原則として、「重大事件(本件)を捜査中の捜査機関が、主として本件について取り調べる目的で、それ自体では起訴できないような軽微な容疑(別件)で容疑者を逮捕した場合は、匿名を原則とする。本件による強制捜査に移った段階で実名に切り替える。」ことを掲げている(但し、別件が重大な場合には実名報道するという例外も記述つれている)。
 しかし、別件捜索・差押の場合については何も言及されていない。

 最近のマスコミの傾向としては、家宅捜索を大きく報道することによって、その容疑者や家宅捜索を受けた者や団体に対する否定的な評価をするケースが多く見受けられる。その一番典型的なものは松本サリン事件の河野さんのケースであった。

 しかし、家宅捜索はあくまでも証拠の収集を目的とするものであり、その時点では、その容疑が果たして立件され起訴されるかどうかは不確定な段階であり、実際、その後、証拠不十分などで起訴されないこともかなりある。
 したがって、そもそも家宅捜索自体を大々的に報道することは、逮捕報道以上に問題があると言わなければならない。また、捜査当局、特に警察は、事前にマスコミに「何月何日何時から捜索をする」という情報をマスコミ各社にリークして、家宅捜索を大々的に報道させようとし、マスコミを利用している面もある。

 また、今回のように、警察が横浜支部に家宅捜索に入ったことによって、元受刑者を追い出そうとする住民運動は勢いを増している。警察による(本来許されないはずの目的外流用の)家宅捜索、それを大々的に報じるマスコミ、それを受けて、住民による受刑者の追放運動と三位一体によるオウム真理教団に対するパッシングが行われている。
 マスコミの本来の使命は、このような事態を冷静に分析するとともに、警察権力による今回のような捜索差押の「目的外流用」という違法な事態を批判することであったはずである。その使命を忘れて、警察権力に利用され、住民運動に荷担しているという現実をマスコミは今こそ反省すべきである。
(2000年1月9日記、同日加筆)
読売新聞の性差別的性表現の雑誌広告掲載拒否を評価する


 2000年1月4日、読売新聞社は、講談社発行の「週刊現代」と徳間書店発行の「週刊アサヒ芸能」の新聞広告について、「毎号の広告内容に、新聞に載せるのにふさわしくない極めて過激な性表現が多数含まれ、改善が見られない」として、「読売新聞」紙上への広告掲載を当分の間見合わせることを決めて、1月3日までに両社に通知したと報道した(1月4日付読売新聞朝刊。同年1月5日付〔4日発行〕「夕刊フジ」は「読売が広告掲載に“規制”」という見出しでこのことを報じた)。

 読売新聞によると、読売新聞社の「広告掲載基準」において、「性、性描写の取り扱いや表現が露骨で、みだらな感情を起こさせるもの」や「他を中傷したり、名誉棄損や、プライバシーなど基本的人権の侵害となる恐れがあるもの」などは紙面に掲載しないことにしていたが、1999年10月下旬以降、「広告掲載基準」を厳格に適用することにし、広告中の過激な性表現について、その修正を広告主に求めてきたが、「週刊現代」「週刊アサヒ芸能」については、修正要請に広告主側が応じなかったり、「広告掲載基準」に抵触する露骨な性表現が他誌の広告に比べ際立って多かったりした状況が続いたため、「新聞紙面の品位維持には、広告自体の掲載を見合わせるしかないとの結論に達した」という。

 日本新聞協会は、1958年10月7日に、「新聞広告倫理綱領」を制定し(1976年5月19日改正)、新聞広告掲載の基本原則を宣言している。その「制定の趣旨」においては、「本来、広告内容に関する責任はいっさい広告主(署名者)にある。しかし、その掲載にあたって、新聞社は新聞広告の及ぼす社会的影響を考え、不当な広告を排除し、読者の利益を守り、新聞広告の信用を維持、高揚するための原則を持つ必要がある」と述べている。
 そして、日本新聞協会は、1976年5月19日に、各新聞社のモデルとなる「新聞広告掲載基準」を定めた。
 読売新聞社の「広告掲載基準」も、右の「新聞広告掲載基準」をモデルとして作成されたものである。

 読売新聞社は、1999年4月の男女雇用機会均等法の改正によりセクシュアルハラスメント防止の観点からも新聞広告に是正を求める意見が強くなり、こうした状況から本社は「家庭に配られる新聞に過激な性表現の広告を載せ続けるのは好ましくない」と判断したと述べている。

 また、1999年10月14日に、群馬で開かれた日本弁護士連合会の第42回人権擁護大会のシンポジウム第2分科会「人権と報道」の貴重報告書において、「性差別的性表現の問題」が取り上げられ、週刊誌の広告における性差別的性表現の現状をアンケート調査の結果を踏まえて報告するとともに、「新聞各社および交通機関は、このような状況について真摯に検討し、『女性の人権』やジェンダーの視点を入れた広告掲載基準の策定ないし運用の実施について…もっと議論する必要がある。」、「今までポルノないしポルノ的表現に対して見たくない者、望まない者の保護が充分でなかった。21世紀を迎える今、一般紙ないし交通機関はみずからの広告掲載の有り様についてもっと議論すべき時期にきている…」と述べ(基調報告書126頁)、そのことを各新聞もこぞって取り上げて報道していた。
 このような経過の中で、読売新聞が、先に述べたような方針を打ち出したのである。

 確かに、一般紙の新聞広告や交通機関の中吊り広告において、週刊誌による性差別的な性表現の用いられた広告が最近多く見られるようになっていることは否定できない事実である。

 各新聞社は、日本新聞協会が制定した新聞広告倫理綱領を持ち、各新聞社毎に、広告掲載基準を持ち、広告の掲載について自主規制をしている。広告についても、表現の自由の観点から、国家による法的規制の介入をさせないために、新聞社による広告掲載についての自主規制が有効に機能している必要がある。

 特に、性差別的性表現については、これを「見たくない者」に見せることになる新聞広告や電車の中吊り広告については、ある程度の自主的な規制がされるのはやむを得ないことであり、今回の読売新聞の対応は、その一つの自主規制のあり方として高く評価できるように思われる。

 もちろん、あくまでも「自主」規制であるから、他の新聞社も当然に「横並び」になる必要はない。その是非は読者が判断すればよい。しかし、今回の読売新聞社の対応を契機に、性差別的性表現が用いられた広告についての自主規制についての議論が深まることを期待したい。
(2000年1月5日記)

<参考サイト>
読売新聞社のホームページ「Yomiuri ONLINE」
 読売新聞社の見解と読者の意見が掲載されている。リンクの条件についてうるさいのであえてリンクはしません。

大庭絵里・神奈川大学助教授「性差別とマスコミ」聖教新聞1999年11月13日付メディア欄
http://www.seikyo.org/article75.html

日本新聞協会
http://www.pressnet.or.jp/

皇太子妃「懐妊の兆候」報道を考える


 朝日新聞1999年12月10日付朝刊は、皇太子妃に「懐妊の兆候」が見られることが12月9日に明らかになったとの「雅子さま、懐妊の兆候 近く詳細な検査」との見出しの記事を1面トップ記事でスクープした。

 この日は、朝のワイドショーがこの話題を大々的に取り上げ、中には「懐妊」したことを前提に予定日まで報道したテレビ局もあった。
 スクープをした朝日新聞も、テレビ報道については、「第一報が伝わった早朝から、テレビのリポーターたちは現場を駆け回り、ワイドショーを中心に圧倒的なボリュームで皇室の話題を伝えた」と報じ、作家の麻生千晶さんの「結局は視聴率競争、という本音が垣間見える」との記事を掲載している(朝日新聞12月15日付夕刊7面)。

 ところが、12月13日に、皇太子妃が皇居内の宮内庁病院で医学的検査を受けた結果、宮内庁は「懐妊の可能性は続いているが、現時点では明確には確認できなかった」と発表した。そして、皇太子妃は、12月30日に2度目の検査を受けたが、胎児が順調に育たなかった稽留(けいりゅう)流産と診断され、手術を受け入院したことが報道されるに至った。

 今回の出来事は、そもそも、朝日新聞が、「懐妊の兆候」をスクープしたことが何だったのかということを図らずも問うことになった。
 朝日新聞では、12月31日、三浦昭彦・朝日新聞東京本社編集局長のコメントを掲載し、「皇太子ご夫妻が公人中の公人であること、皇室、とりわけ皇位継承にかかわる事柄は国民の重大な関心事であること、さらに今回は慶事の兆しであることを考え、表現を抑制して報道することを決断」したこと、「社会的関心事について事実を早く正確に把握し、伝えていくことは報道機関の基本的な使命」であると述べて、今回のスクープを正当化した。

 今回の出来事は、皇室関係者にもプライバシーがあるのか、という問題を提起した。宮内庁は12月13日に、「医学的見地からの発表も待たず、先週末来、妃殿下のプライバシーにも触れるような過熱した報道がなされたことは極めて遺憾であります。今後は、プライバシーなど両殿下の人権を十分尊重し、節度ある報道がなされることを強く求めます」という異例のコメントを発表している。ここで、宮内庁が、皇太子妃の「人権」を指摘している点に注目したい。

 これまで憲法学においても、天皇・皇族も、憲法第3章の人権の規定の適用があり、皇位の世襲と職務の性質から必要最小限の特例が認められるに過ぎない、すなわち、天皇・皇族にも人権が保障されると解されてきた(芦部信喜『憲法学II人権総論』117頁以下)。したがって、皇族である皇太子妃にもプライバシーの権利が保障されるということになるはずである。

 これに対して、朝日新聞は、「懐妊の兆候」報道をした根拠として、「皇位継承にかかわる事柄は国民の重大な関心事」であることを根拠として述べている。確かに、プライバシーといえども、社会的関心事であればそれが制限されることはありうる。
 ただ、「懐妊」したかどうかは、本来プライベートな性格を有することであるし(これに対して「出産」はある程度オープンな事柄と考えられる)、女性にも皇位継承権はないことからすれば、子供が出産されて男子だと確認されるまでは、「皇位継承にかかわる事柄」とは言えないのではないかという疑問がある。

 その意味において、朝日新聞が「懐妊の兆候」報道をしたことについては、スクープ主義の中で先走っただけではないか、それは、皇太子妃のプライバシーを侵害する行為だったのではないかとの重大な疑問がある。
 そして、朝日新聞による「懐妊の兆候」報道がなされたため、最終的には、皇太子妃が「稽留流産」になったことをも宮内庁は発表せざるを得なくなったが、これはあまり広く報道されたくないプライベートな事柄ではなかっただろうか。

 皇太子妃は「公人」であり、皇太子妃にとって出産(ここで期待されているのは男子を出産することである)が「公務」であるという見方もありうるが、これは、女性の母体を「生殖」のための道具のように理解することであって、現在では許されないと考えるべきだろう。
 「慶事」だから多少のフライングも許される、というような弁解は許されるべきではない。皇太子妃のプライバシーを暴いた朝日新聞の行為は、同性である多くの女性の心をも傷つけたのではないかと思われる。

 やはり、今回の朝日新聞の報道は行き過ぎだったというべきであり、もっとその点についての議論が起きるべきだと思う。
(2000年1月5日記)

    <参考文献>(2000/1/9追加)
     斎藤美奈子の「性差万別」第10回「兆候の意味」(『噂の真相』2000年1月号87頁)
      今回の朝日新聞の報道の本質を非常に鋭く指摘して批判している。この種の評論として出色。

元受刑者の出所報道を考える


 1999年12月29日、オウム真理教の幹部であった元受刑者が広島刑務所から出所した。

 この際に多数のマスコミが広島刑務所前に陣取って、元受刑者が刑務所から出る模様を撮影・報道し、さらに、その後元受刑者が乗った車を追尾して広島空港まで追いかけ、広島空港では、元受刑者が飛行機に乗る光景を撮影報道するとともに、その後、羽田空港においても元受刑者が飛行機から降りてバスに乗る光景や、空港の到着出口から出る光景を撮影・報道し、さらに、その後も追いかけ続けた。

 日本テレビ、フジテレビ、テレビ朝日の朝のワイドショーでは、軒並み、この話題を大きな時間枠を取って報道し続けた。フジテレビの朝のワイドショーでは、小倉智昭キャスターが何度も、「この話題をこんな形で報道すべきではないと思いますが」と言いながら(もっとも、この発言は元受刑者を「英雄」扱いすることに対する危惧から出たもののようであったが)、番組としては、元受刑者の動向や肖像を刻々と報道していた。

 それにしても、受刑者が刑を受け終えて出所する際に、このような形で、大々的に報道されたことは過去にはなかった異例のことである。これまでも、一部の写真週刊誌やマスコミが、元受刑者の出所について報道することがなかった訳ではないが、今回のように、ほとんどの社のマスコミ関係者が待機している中を元受刑者が出所してくるという事態は前例がないようことだと思われる。

 今回の元受刑者の出所に関する日時・場所についての情報をマスコミに提供して、取材報道させた広島刑務所や法務省の対応には、元受刑者のプライバシー等の権利を侵害するという問題があったのではないかと思う。

 確かに、今回の元受刑者の出所に関しては、随分前から話題となっており、特に、1999年12月に団体規制法(「無差別大量殺人行為を行った団体の規制に関する法律」)が国会に上程されて成立するまでの間も、元受刑者の出所時期を見込んで早期に成立に至ったという事情もあった。

 ただ、当初の報道では、元受刑者の出所時の混乱を避けるために、出所の少し前に、別の刑務所に移送した上で、マスコミとの接触を避ける形で出所させる方針と伝えられていた。ところが、出所直前になって、広島刑務所から午前6時に出所させることに急遽方針が変更されたようである。
 この変更には、団体規制法が12月27日に施行されて、同日、木藤繁夫・公安調査庁長官が、オウム真理教団に、団体規制法による「観察処分」を適用するよう公安審査委員会(藤田耕三委員長)に請求したことと深い関係があると思われる。
 つまり、オウム真理教団の幹部であった元受刑者が教団に戻ることを、マスコミによって大々的に報道させることによって、オウム真理教団に観察処分をすることを決定づけようとするためであったと考えられる。

 かつて、公安調査庁が、公安審査委員会に対して、オウム真理教団について破壊活動防止法による解散処分を請求したが、将来の危険性がないとして請求が棄却されたが認められなかったことがあった(1997年1月31日。この経緯については、オウム破防法弁護団編著『オウム「破防法」事件の記録』〔社会思想社、1998年〕が詳しく述べている)。

 団体規制法は、この際の破防法適用が棄却された失敗を繰り返さないために、破防法よりも要件が緩和し、適用しやすくはしている。
 しかし、適用の要件である「当該無差別大量殺人行為の首謀者が当該団体の活動に影響力を有していること」(団体規制法5条1号)などの要件を満たしているかどうかの判断に際して、今回出所した元受刑者が教団に復帰して影響力を行使するかどうかは極めて重要である。
 そこで、公安調査庁の意向を受けた法務省は、マスコミを利用して、元受刑者が教団に復帰することによる教団の危険性を周知徹底することを企図して、元受刑者を他の刑務所に移送することをやめて、マスコミの取材・報道のさらし者にすることにしたと考えられるのである。
 そうであるならば、元受刑者のプライバシーを犠牲にした上で、元受刑者の出所を極めて政治的に利用したことになり、より不当である。

 ちなみに、元受刑者の出所直前である1999年12月24日は、広島刑務所に受刑中の受刑者を写真撮影するために、近くのマンションの屋上に無断で侵入した写真週刊誌「FOCUS」の契約カメラマン2人とその指示をしたとされる編集長と従業員の計4人を、広島区検察庁は建造物侵入罪で広島簡易裁判所に略式起訴をし、同簡裁は、同日、編集長に罰金10万円、その他の3人に罰金8万円の略式命令を出したことが報道されている(asahi.com newsupdateの同日版)。その報道によると、広島区検は「受刑者のプライバシーを不法に暴こうとした悪質な行為」と判断したとのことであったが、そのことと今回の元受刑者をさらし者にする状態で出所させた広島刑務所の対応にはかなり落差があるように思われ、その点からも疑問がある。
(2000年1月2日記)

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