報道について考える
ここでは、現在のマスコミの報道のあり方について考えます(最終更新2000年1月1日)。
【目 次】
「週刊誌」報道について考える
「写真週刊誌」報道について
我が国における名誉毀損・プライバシー侵害に対する法的救済の現状
報道評議会とプレスオンブズマンについて
放送と人権等権利に関する委員会機構(BRO)の問題点の分析と改革への提言
「週刊誌」報道について考える
はじめに
私たちの現在の日常生活において、週刊誌というものが極めて身近な存在となり、大きな影響力を有するに至っていることは否定できないだろう。週刊誌に掲載されているのは、政治の内幕物や、事件物、そして芸能ネタなど、一般市民の関心を引きつける話題が多いことは確かである。しかし、週刊誌は、時にはある個人のプライバシーを暴いたり、名誉を毀損するような記事を面白おかしく掲載することがあり、新聞とは比べ物にならない報道被害が発生していることも事実である。特に、出版社系と言われる週刊誌の中でも『週刊新潮』『週刊文春』は、特定の個人を攻撃する傾向が強く、現に名誉毀損訴訟などが多く起こされ、敗訴している。
私たちは、このような「週刊誌」の現状に疑問を抱くとともに、その原因を分析し、週刊誌をめぐる現在の状況を変えることに少しでも寄与したいと願うものである。
週刊誌の歴史
週刊誌の歴史を振り返ると、戦前である1922年に『週刊朝日』『サンデー毎日』が創刊されていた。戦後には、まず1952年に『週刊読売』『週刊サンケイ』が創刊され、1956年2月に、出版社系としては初めて、新潮社が『週刊新潮』を創刊して以来、出版社系週刊誌等が続々と創刊された。
1956年10月には『週刊アサヒ芸能』、1957年2月には『週刊女性』、1958年4月には『週刊大衆』、同年7月には『週刊明星』、同年9月には『週刊実話』、同年12月には『週刊女性自身』、1959年4月には『週刊現代』『週刊文春』がそれぞれ創刊された。
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1980年代になると、写真週刊誌のブームとなった。1981年10月に新潮社から『FOCUS』が創刊され、一時は200万部に達したとも言われている。
その後、1984年11月に講談社から『FRIDAY』、1985年6月には文藝春秋から『Emma』が創刊され(1987年に廃刊)、その後、小学館から『TOUCH』(1989年に廃刊)、光文社から『FLASH』が創刊された。
週刊誌報道の特徴
週刊誌の報道姿勢については、新聞社系の週刊誌と出版社系の週刊誌では違いがあると言われており、前者は新聞社の組織内での出版局で編集・発行するため、その新聞社の基本的方針や報道の倫理的基準を逸脱することができないのに対し、出版社系は比較的そのような制約は緩やかで、より商業的色彩が強いので思い切った編集をする傾向にあると言われる(藤江俊彦『はじめて学ぶマスコミ論』〔同友館、1996年〕114頁)。
特に後者の出版社系の週刊誌について、その特徴としては以下のような諸点を指摘することができるだろう。
(1)見出し主義
週刊誌の最大の特徴は、その見出しの付け方にあるだろう。大した内容もない記事であっても、読者に購読意欲を起こさせるような独特の見出しを付けるのが普通である。実際、編集会議において見出しだけが先に決まり、その見出しに合わせて後から記事を書く場合が多いと言われる。いずれにせよ、読者の注意を惹くような刺激的な見出しが通常付けられている。そして、それを電車の吊り広告や、新聞紙の広告欄に掲載し、多くの読者の目に触れさせることによって、さらに購買意欲を掻き立てているのである。
(2)センセーショナリズム
見出しだけでなく、本文についても、事実を淡々と伝えるのではなく、ストーリー風であるとか手記風にするなどして読みやすくし、また、大げさな表現を多用することにより、読者に対して、扇情的・感情的に伝えようとするセンセーショナリズムも特徴である。
(3)スキャンダリズム
政治家や芸能人の不倫、結婚・離婚話を頻繁に取り上げて、読者の「のぞき見」趣味をかきたてるようなスキャンダラスな記事が多いことも特徴である。
(4)プライバシー暴露
新聞の報道と比べて、1つの記事について広いスペースが割り当てられることが予定されていることもあり、特に事件物については、被疑者や被害者についてのプライバシーが詳細に暴かれる傾向が強い。また、被疑者についてはその半生が詳細に暴かれることが多い。
(5)裏付け取材の不十分さ
新聞報道の場合と比べると、週刊誌記者が、記者クラブに加盟しておらず、警察の記者会見に直接出席できないこともあってか、裏付け取材が不十分なことが多い。中には、新聞記者に取材するなどして間接的な取材で済ませていることが多く、正確な報道内容に本来正確を期するうえで当然必要とされる独自の裏付け取材が、極めて不十分にしかなされていない現状がある。
週刊誌の政治利用
また、最近では、週刊誌が政党の宣伝材料として利用されるようになり、特定の政党の立場を支持して、他の政党勢力への批判記事を掲載するような場合が目立つようになり、特定の政党が、特定の週刊誌を有利に政治利用しているという現状がある。本来、ジャーナリズムは公平・中立な立場に立って報道すべきであるにもかかわらず、その公平・中立性を問われるような事態となっている。
週刊誌報道による人権侵害
そして、このような週刊誌報道により、激しい報道被害が、実際にも数多く生じているいくつかの例をあげよう。
例えば、『週刊文春』1989年4月20日号は、いわゆる女子高生コンクリート詰め殺人事件の加害者(当時被疑者)がいずれも少年であり、少年法第61条によって当該事件の本人であることを推知することができるような記事を掲載してはならないとされているにもかかわらず、加害者たちを実名で報道した。また、船橋で起きた家族4人を殺害したとされる少年について、『週刊新潮』1992年3月19日号は実名で報道した。
いずれも、罰則はないものの法律で禁止された行為であり、少年の更生を踏みにじる人権侵害と言わざるを得ない。
また、最近では、1990年に松戸OL殺人事件で無罪判決を勝ち取ったAさんが、殺人未遂被疑事件で逮捕され、本件とされる「首なし殺人」事件を認める上申書を警察に提出し、弁護人がその犯行を認める記者会見を開いた後、Aさんを「殺人鬼」とし、猟奇的な犯罪者であるかのような、目を背けるような週刊誌報道がしばらく続いたことは記憶に新しい。ここで、既に無罪が確定している事件を蒸し返し、あたかもAさんがその犯人であったかのような記事が書かれている点は人権侵害以外のなにものでもない。
このように、週刊誌報道は、新聞報道以上の激しい報道被害をもたらすことが多いことをまず認識する必要がある。
「週刊誌」はどうあるべきか
「週刊誌」だけが、どんなことを書いても許されてよいはずはない。週刊誌報道も、それを「報道」と自ら呼ぶのであれば、ジャーナリズムの一般原則に従わなければならないはずである。すなわち、そのスタンスは公正・中立でなければならず、真実の報道に向けて独自の裏付け取材を行うことにより十分に確認がなされた事実だけを報道しなければならない。
ところが、週刊誌の場合には、部数競争に明け暮れる中で週刊誌が発行されている現状の中で、商業主義が前面に出ているのが現実であり、週刊誌報道がジャーナリズムであることが忘れられているように思えるのである。
もちろん、週刊誌にも「報道の自由」が保障されていることを否定するつもりはない。しかし、ジャーナリズムである以上は、その本来の目的が、国家権力の行使を監視し、国民の知る権利に奉仕することに主眼があるのであって、市井の庶民のプライバシーを暴いたり、その名誉を毀損するようなことに熱心な現状は早急に改められる必要がある。
既に新聞報道については、匿名報道主義が提唱されて久しいが、この匿名報道主義は、マスコミが、報道される側の人権を侵害し、それを売り物にすることによって成り立ってきたジャーナリズムの現状を変革し、報道される側の人権を配慮するためのスタンスを表明したものであった。この匿名報道主義の考え方は、そのまま週刊誌報道においてもとられるべきものである。
「写真週刊誌」報道について
1997年も押し迫った12月20日の夜、映画監督として有名な伊丹十三氏が飛び降り自殺を図ったとのニュースが駆け巡った。自殺の動機は本人のみぞ知るではあるが、新聞やテレビの報道によると、同年12月22日発売の写真週刊誌「フラッシュ」が、伊丹監督の女性問題を取り上げており、同誌を否定して憤る内容の遺書が発見されたことから、改めて、写真週刊誌の取材や報道のあり方に対する議論がなされるようになっている。少なくとも、同誌の取材や報道が、自殺に何らかの影響を与えたことは想像に難くない。
写真週刊誌については、これまでも、1986年12月に、ビートたけし氏が取材に抗議して講談社の「フライデー」
編集部を襲撃した事件があり、たびたび、その取材のあり方や報道のあり方に対して批判がなされてきた。
1980年に創刊された「フォーカス」(新潮社)や1983年に創刊された「フライデー」(講談社)は、一時は100万部以上を売り上げ、その後、「フラッシュ」(光文社)、「エンマ」(文藝春秋)や「タッチ」(小学館)が創刊されて(もっとも、「エンマ」と「タッチ」はその後廃刊)、写真週刊誌ブームが生まれた。もっとも、最近では、かつてのような勢いはないと言われている。
そのような状況の中で、伊丹監督の自殺事件が発生した。故ダイアナさんに対するパパラッチの取材攻勢が我が国で散々批判されていたばかりだったが、決して、我が国においても、そのような取材攻勢は他人事ではなかったのだ(ダイアナさんに対するパパラッチによる取材攻勢に対する批判の最中にも、そのような的確な指摘はなされていた)。
写真週刊誌は、他の週刊誌とは異なり、写真がメインであり、本文はその写真に付けられたキャプションに過ぎない。したがって、いかに「いい写真」を撮るかが最大の課題となる。特に、男女間の交際についての決定的な「写真」を撮るために、必然的に、被写体とされる芸能人や有名人の自宅を張り込むことになる。これでは、芸能人や有名人にとってプライバシーなどないに等しい。
基本的に、写真週刊誌は、他人の秘密を「覗き込む」ことの快感を売り物にする媒体である。日本でこのような写真週刊誌がある程度売れるのは、市民の側に、他人の秘密を覗くことを好み傾向があることに由来するのだろう。ただ、売れ行きが落ちていることは、そのような傾向に嫌気がさしてきたのかもしれないという意味でわずかばかりの希望は持ちたいが。
写真週刊誌によるゲリラ的な取材攻勢は、政治家や官僚などの権力側の人物のスキャンダルに向けられる時にはその威力を発揮するだろうが、それが、市民の側に向けられる時には、極めて恐ろしい事態を招くおそれがある。
そして、政治家たちは、自分たちのスキャンダルが暴かれないようにと、週刊誌などのメディアの法的規制を虎視眈々と狙っている。そこに起きた今回の伊丹監督の自殺事件。いつ政治家たちが、これらの事件の発生を理由に、写真週刊誌による取材や報道の法的規制を口にし始めるかもしれない。
写真週刊誌は、政治家たちによる法的規制の根拠を与えないためにも、今一度、自分たちの寄って立つ基盤、すなわち、憲法で保障されている表現の自由が何のために認められているのかということと、ゲリラ的な取材のあり方を考え直し、政治家たちの規制の口実に付け入る隙を与えないようにすることが求められていると言わなければならない。
(1997年12月25日記)(オリジナルは救援連絡センターの機関紙「救援」に掲載)
我が国における名誉毀損・プライバシー侵害に対する法的救済の現状
マスコミは「書き得」か
現在、週刊誌では、芸能人や一般市民の名誉を毀損したり、プライバシーを暴くような報道がが日常化している。世間が注目する刑事事件の被疑者となり、逮捕でもされてしまえば、その瞬間からその被疑者の過去の経歴からその親族のプライバシーに至るまでありとあらゆる情報が集中豪雨的に全国に報道されてしまうのが現状である。
週刊誌ジャーナリズムを初めとする我が国のマスコミがこのようになってしまった原因については、我が国における名誉毀損やプライバシー侵害に対する法的な救済が不十分であり、報道被害者が仮にマスコミを相手に損害賠償請求訴訟を起こしても、裁判で認められる慰謝料が極めて低いために「書き得」になっていることが指摘されている(朝日新聞社会部編『被告席のメディア』)。
我が国における法的な救済の現状
我が国においては、名誉毀損に対する救済としては、大きく刑事事件としての救済と民事事件としての救済があり、刑事事件としての救済としては、名誉毀損罪として刑事告訴をすることが可能である(刑法230条)。民事事件としての救済としては、不法行為に基づく損害賠償(民法710条)と謝罪広告(民法723条)の請求をすることが認められている。
プライバシー侵害に対する救済については、刑事事件としての救済はなく、民事事件としての救済として、現行法上、不法行為に基づく損害賠償だけが認められているが、名誉毀損の場合と同様に謝罪広告を認める裁判例がある。
なお、名誉毀損とプライバシー侵害に共通の民事事件としての救済としては、出版される前に、販売禁止の仮処分(事前差止)が認められる場合もあるが、実際には発行前に出版物の内容を察知することは難しいのであまり実効性がないといわれている。
低額すぎる慰謝料
しかし、右に見た法的救済は非常に実効性の弱いものである。まず、我が国においては、名誉毀損やプライバシーを理由とする民事裁判において認められる慰謝料の金額が著しく低額であるという問題がある。最近の裁判例においては、まれに、300万円を認めた事例もあるが、ほとんどが100万円以下であり(これに通常、弁護士費用として認容額の一割程度が付加される)、平均で75万円3000円弱であるとの報告がある(加藤雅信「名誉・プライバシー侵害の救済論」ジュリスト1038号)。
この金額は、報道被害者が実際に被った損害や弁護士に支払う報酬からすると、勝訴しても何の得にもならないどころか場合によっては持出しになるような金額であり、逆に、マスコミからすれば何十万部も販売して得た利益と比べると、この程度の慰謝料を支払っても痛くも痒くもない金額であろう。
最高裁判所大法廷が名誉毀損を理由とする出版物の事前差止についての判断を示した北方ジャーナル事件判決(1986年6月11日)の大橋進裁判官の補足意見が「わが国において名誉毀損に対する損害賠償は、それが認容される場合においても、しばしば名目的な低額に失するとの非難を受けているのが実情と考えられるのであるが、これが本来表現の自由の保障の範囲外ともいうべき言論の横行を許す結果となっているのであって、この点は、関係者の深く思いを致すべきところと考えられる」と述べているのは、正鵠を得た指摘であろう。
このように、我が国における慰謝料が著しく低額であることが、現在のマスコミによる人権無視の横暴を許す原因になっていることを認めざるを得ない状況にある。
ちなみに、イギリスやアメリカにおいては、懲罰的損害賠償と言って、悪性の強い加害者に制裁を加えて、同様の行為の再発を防止するための高額の損害賠償が制度上認められており、特にアメリカにおいては、名誉毀損のケースにおいても日本円にして数億円という損害賠償が認められることが多いのであり、我が国とは大きく異なっている。
簡単に認められない謝罪広告
次に、我が国においては、報道被害者が損害賠償と謝罪広告を請求して民事裁判を起こしても、判決で謝罪広告が認められるケ−スが少ないことも問題である。すなわち、民事裁判の判決において名誉毀損であることが認定されても、損害賠償だけが認められて、謝罪広告の請求は棄却されることが多い。そのため、あるメディアが事実誤認の記事を掲載し、その報道対象となった報道被害者が民事訴訟を提起して勝訴しても、謝罪広告が掲載されないために、当初の事実誤認の報道記事によって一般読者が持つに至った誤った認識を改めさせることができないのが現状である。また、仮に謝罪広告が認められる場合でも、最初の報道の時とは比べ物にならない位小さなスペースの謝罪広告しか認められないのが普通である。
したがって、報道被害者が民事訴訟に勝訴しても、一般読者が持つに至った誤った偏見がその後も継続され、そのために報道被害がなくならないのが通常である。
裁判のための高すぎる印紙代
また、マスコミが名誉毀損の記事を報道して民事裁判に訴えられても、その裁判の中で、その報道が真実であるか、真実と信じるにつき相当な理由があることを証明すれば、不法行為に基づく責任を負わないとされている(最高裁判所1966年6月23日判決)。そのため、マスコミは、提訴されると、こんなに取材したんだという証拠を数多く提出したり、報道被害者がこのように書かれても仕方なかったんだということを証明しようと必死になる。そして、裁判では、記事に掲載した内容にとどまらず、記事にしていなかったことを含めて法廷で事実を暴き、名誉毀損の裁判の中で、再び名誉を毀損されたり、プライバシーを侵害されることになる場合が多い。報道被害者は、マスコミを訴えるためには、裁判においてマスコミから再度の名誉毀損やプライバシー侵害に堪える覚悟がなければならないことになっているのである。
さらに、これは、名誉毀損やプライバシー侵害のケースに限らないが、市民が民事裁判を起こすためには、提訴時に、裁判のための手数料として、請求額(訴額)に応じた所定の印紙を貼ることが必要である。したがって、高額の損害賠償を請求しようとしたら、高額の印紙を貼る必要があり、金銭的余裕のない人が民事裁判を起こすことは事実上難しくなっている。この点、アメリカにおいては、訴訟提起時には請求額を特定しなくてよい上、一件100ドル程度の定額になっているため、市民が裁判を起こしやすくなっていると言われている。
現状のままでいいのか
このように、我が国における名誉毀損やプライバシー侵害に対する法的な救済を見ると、極めて不十分であり、そのため、報道被害を受けた市民が利用しにくかったり満足な救済を受けられていない。他方、訴えられたマスコミは、たとえ慰謝料を払うことになっても痛くも痒くもない金額なので、報道被害者からの法的措置にあまり恐れることなく、日々、人権に配慮しない報道を漫然と続けていられるのである。
我が国の法的救済の現状がこのままでいいはずはない。少なくとも、名誉毀損やプライバシー侵害に対する慰謝料だけでも、アメリカに習って、少なくとも1000万円単位の高額な金額が認められるようになることは最低限必要である。
ところで、マスコミは、報道被害者から名誉毀損やプライバシー侵害を理由に追及される際には、憲法で保障された「報道の自由」を錦の御旗として反論してくることがある。しかし、報道の自由は何を書いてもよい、市民を傷つけてもよいという自由ではそもそもないし、何よりも、報道の自由は本来国家権力の動向を監視しそれを国民に伝達するために認められているはずである。ところが、マスコミの多くは、国家権力や政治の動向を正確に伝えるよりも、芸能人や一般市民のプライバシーを暴くことに精力をつぎ込んでいる。これは露骨な商業主義と言わなければならない。
我々が最も恐れなければならないのは、市民の人権を侵害しているマスコミの現状がこのまま続けば、いずれは、国家権力が必ず国民の人権保障を理由として、マスコミの報道内容に介入・規制する法律を立法しようとすることである。既にイギリスやフランスなどの諸外国でもそのような動きが見られる。我が国でもそのような動きが必ず出ることは間違いない。しかし、その動きは、マスコミが国家権力の動向を監視するための自由すらも制限するものになることは必定であり、国家権力によって、真の意味での表現の自由が制限される事態になる危険性がある。マスコミにとっては自業自得かもしれないが、それはそのまま市民にとっても重要な情報を受領できなくなるという不利益をもたらすものである。そのような不幸な事態にならないためにも、マスコミは、今まさに、その報道内容につき自省し、市民の人権に配慮した報道をすることが求められているのである。
また、市民の名誉やプライバシーを守るためには、立法による規制ではなく、例えば自主規制の機関として、法曹関係者・マスコミ関係者・市民の代表からなる報道評議会(スウェーデンの制度が参考になる)を設置するなどして国家権力による規制を受けないシステムを設ける必要があるだろう(浅野健一『犯罪報道の犯罪』)。
いずれにせよ、現在、マスコミの報道のあり方は岐路に立っているのであり、我々市民はそのあり方に重大な関
心を持ち、市民の立場から、改善すべき点についての意見を表明することが強く求められているように思われる。
報道評議会とプレスオンブズマンについて
はじめに
我が国のマスメディアが、様々な人権侵害の報道をしていることは、衆知の事実であり、我々のホームページ上でも明らかにしているとおりである。マスメディアには、商業主義が蔓延しており、自らの報道が市民の人権を侵害していることを全く認識していないか、認識していても無視しているのが現状である。マスメディアが市民を抑圧する「第四権力」と呼ばれる所以である。
このような現状に対して、政府与党の中には、報道内容について法律で規制すべきであるという意見も強くなってきている。
しかし、そもそもマスメディアは、国民の知る権利に奉仕して、主として国政に関わる情報について主権者たる国民に情報を提供することに使命があるのであり、その取材・報道対象である国家権力による法的規制を受けることは、国家権力にとって都合のよい情報だけが報道され、国家権力にとって都合の悪い情報は報道できなくなるという危険がある。報道の自由を法律で規制されることは、表現・報道の自由の死を意味するに等しいのである。
したがって、法律によって報道内容を規制することは断じて許されるべきではない。
自律的・自主的な規制としての報道評議会とプレスオンブズマン制度
それでは、報道内容については、どのような規制が可能であり、望ましいのであろうか。この点について参考にされるべきは、現在世界40ヶ国以上に設置されている報道評議会(Press Council)の制度である。
スウェーデンの例を見てみよう(以下の記述は、榎原猛編『世界のマス・メディア法』217頁以下の記述によっている)。
スウェーデンでは、全国パブリストクラブ、スウェーデンジャーナリスト労働組合、スウェーデン新聞発行者協会の3つの機関によって、1916年に報道評議会が創設された。1923年には全国パブリストクラブによって倫理綱領が採用された。その後、1960年代に入ってから、倫理綱領を逸脱した報道がなされるようになり、市民から新聞批判が高まって、法律による規制の動きがあったため、報道機関は自主的な改革を行い、スウェーデン報道評議会憲章を定めた。
そして、1969年に、報道評議会として、それまで法曹界代表(1名)、パブリストクラブ代表(1名)、ジャーナリスト労働組合代表(1名)、新聞発行者協会代表(1名)の構成を、一般市民(2名)を追加し、さらに、プレスオンブズマンを設けた。なお、1993年にも報道評議会の制度についての改革が行われている。
報道評議会への苦情申立は原則としてプレスオンブズマンを通して提出され、プレスオンブズマンに対する苦情申立が却下された場合には、本人に限り報道評議会に申立ができる。報道評議会は、審理を求めて提出された問題に関する意見を報告し、一般市民に知らせなければならないとされ、報道評議会が申立に理由があると判断した場合には、新聞は裁定全文を紙面の目立つ場所に掲載しなければならないことになっている。
1969年、報道倫理綱領の基準が守られるように監督する機関として、プレスオンブズマンが設けられた。オンブズマンとは「代理人」を表す言葉であり、読者・市民の代理人という意味である(オンブズマンの意味については、潮見憲三郎『オンブズマンとは何か』〔講談社、1996年〕に詳しい)。
プレスオンブズマンは、新聞等に報道されたことによって傷つけられた市民からの苦情申立に対して報道倫理綱領から逸脱しているかどうかを調査する。苦情申立に理由がないと判断した場合には申立を却下し、申立に理由があると判断した場合には、新聞社と話し合い、訂正等をさせる。新聞社との話し合いができない場合には、プレスオンブズマンは意見書を付けて報道評議会に申立をして裁定を受けることになっている。
日本のマスコミの現状と今後の進むべき方向
わが国において、報道評議会を作ろうという具体的提案をしたのは、浅野健一氏の『犯罪報道の犯罪』(1984年)であった。しかし、わが国のマスメディアの内部では、報道評議会を創設するという動きに対しては現在に至るまで消極的な意見が多い。新聞の社内の紙面審査機関を「社内オンブズマン」と呼び、当面、その充実と活性化を図ることによって、報道内容のチェックは十分できるという主張もある。
しかし、「社内」の制度に「オンブズマン」という名前を冠することに、マスメディア自体が、市民の代理人であるオンブズマンの意味を誤解ないし理解していないことがよく現れている。また、現に、社内の紙面審査機関がある現状でも、日々、報道による人権侵害は続いており、また、既に発生した人権侵害を救済することができていないのが現実なのである。
今必要とされているのは、報道の内容についての自主規制が「市民的基盤を持つ」ことであろう。その意味で、スウェーデンで定着している報道評議会の制度をわが国でも創設することが強く要請されている。
なお、我が国でも、放送メディアに関しては、1997年5月、NHKと民放連が「放送と人権等権利に関する委員会機構」(BRO)が設立されたことは(清水英夫『言論の自由はガラスの城か』〔三省堂、1999年〕72頁以下参照)、ある程度は評価できる。したがって、印刷メディアに関する報道評議会の設立が急務と考えられる。その意味で、新聞協会が、1999年 月から、報道倫理綱領の見直しを始めたことは注目される。
*浅倉拓也『アメリカの報道評議会とマスコミ倫理』(現代人文社、1999年)は、ミネソタ報道評議会を中心に、アメリカにおける報道評議会の動向を伝える良質な書籍であり、参考になる。
放送と人権等権利に関する委員会機構(BRO)の問題点の分析と改革への提言(1999年11月6日)
99年11月6日(土)午後に武蔵大学(東京都練馬区)で開かれた日本マス・コミュニケーション学会秋季研究発表会ワークショップ12「放送と人権等権利に関する委員会機構(BRO)の経験から報道評議会を展望する」において、問題提起者として発表した文書です(浅野健一教授の以下の文書を参照)。
http://www1.doshisha.ac.jp/~kasano/INFORMATION/info-gakkai.html
1 BROの基本的スタンスについて
BROの基本的スタンスについては、専務理事の矢澤章二氏は、「苦情対応機関」であるとし、「BROは、放送事業者が自主的に第三者機関として設けたもので、その主な目的は、放送番組によって人権等の権利侵害を受けたという視聴者からの申立てを委員会(BRC)が審理し、放送事業者に見解や勧告を示し、弱い立場にある視聴者を救済することです」と述べている(『BRO年次報告書−1997年度−』はしがき)。
また、BROの1998年度の業務報告会(本年3月18日開催)において、清水英夫委員長は、「第三者機関には公権力の代役になる恐れがつきまとう。放送事業者の自律を大原則に、与えられた任務を守っていくべきで、その意味では敢えて苦情処理に徹するべきだ」と述べている(民間放送3月23日付1面)。
しかし、これは、少し消極的に過ぎると思われる(もちろん、この基本的スタンスは、そもそもBROの設立経過と深い関係があると思われるが)。
BROについても、メディアが市民に対する責任を果たすシステム(メディア責任制度、浅野健一「メディア責任制度とは何か」『メディア・リンチ』1997年203頁以下参照)として、もう少し積極的な位置づけを与えるべきである。
それが、BROの審理対象の問題や、職権による取り扱いについての運用を変える契機ともなると考えられる。
2 BROによる審理・判断の対象について
BROでは、苦情の取り扱い基準の原則として、「名誉、信用、プライバシー等の権利侵害に関するものを原則とする」と定めている(運営規則5条1号)。
実際の運用においては、BROが取り扱った3件について、「権利侵害はないが放送倫理上問題があった」という判断が示されており、放送倫理が全く審理対象とされていないことが分かる。
しかし、苦情の取り扱い基準から明らかなように、現在のBROは、「放送倫理違反」だけを理由とした申立は受理されないことになる。
また、BROが取り扱った3件を検討すると、いずれも「放送倫理上問題があった」として「見解」が出されたが、「勧告」は1度も出されていない。
BROの運営規則では、「見解」と「勧告」の基準が明文化されていないが、これまでの運用からすれば、権利侵害があったと判断される場合に「見解」、権利侵害はないが放送倫理上問題があったと判断される場合に「見解」を出していると考えられる。
BROによると、「勧告」については、「放送局側に訂正放送を求めるなど、放送局に何らかの義務が生ずるもの」と解釈している(前掲・年次報告書14頁)。また、清水英夫・BRC委員長代行(当時、現委員長)も、「常識的な解釈として、『勧告』は事実上の強制力を持つもので、『見解』よりも重い要請と考えられる」と述べている(前掲・年次報告書41頁)。また、委員の田島泰彦氏は「勧告のほうが重く、見解は軽いといった軽重の問題ではなく、『勧告』では謝罪・訂正しろ!などといった具体的な措置を求め、『見解』は報道・放送倫理上の指摘にとどめるときに使う、と私は考えている」と述べている(小田桐誠「BRCサンディエゴ事件で問われたもの」放送文化98年7月号49頁)。
そうすると、申立人がBROに期待するのは「勧告」の方であると言える。
ところが、権利侵害があると判断されなければ「勧告」が出されないという運用のために、結局、「勧告」を得ることに高いハードルが課されていることになる。
しかも、実際には、その「権利侵害」についても、「明白な」権利侵害があることが要求されている。第1号のサンディエゴ事件報道についてのテレビ朝日に対する申立について、BRO決定は、「本件においては権利侵害をもたらす可能性のあたことも否定できない」「場合によっては権利の侵害になることも留意すべきである」と述べてながら、結論として、権利侵害を否定し、同時に発表された委員長談話でも、「今回申立を受けた各テレビ局の放送の中には、誤報をはじめ放送倫理の上で問題を持つものが少なからず見受けられたが、人権等権利の明白な侵害とまではいえないものと委員会は判断した」と述べられた。
つまり、「勧告」を出すためには、「権利侵害」の要件に加えて、それが「明白」であることまでも要求されているのである。
朝日新聞98年3月20日付朝刊メディア欄で川本裕司記者が、「今回の結論は、『勧告』を出すことのハードルの高さを示し、救済の難しさを印象づけた。『明白な権利侵害』の基準はあいまいであり、どんな事例なら認定されるのか、考えこまざるを得ない。」と書いているのは、普通の市民の極めて率直な感想であろう。
したがって、現在の運用が続くことは、BROとしても、「メディア寄り」と言われても仕方がないと思われ、早急に抜本的な改革がなされる必要がある。
そこで、改革案としては、第1に、権利侵害の有無と「勧告」をリンクさせない、という運用が考えられる。つまり、放送倫理上問題があるという事例についても、その程度が著しい場合には「勧告」を出すことが考えられる。「勧告」と「見解」の区別について明文がない以上、これは比較的容易にできる改革といえる。
第2に、根本的な改革としては、BROの審理対象を、「権利侵害」に限定せず、放送倫理違反も対象とするということが考えられる。より正確には、BROの審理対象を、放送倫理(報道倫理)違反をメインに据えるということである。
そもそも、BROが、裁判所とは異なる独自の機能を発揮するためには、権利侵害はないかもしれないが、放送倫理(報道倫理)に違反したかどうかを判断し、倫理違反があれば「勧告」するという運営をすることこそが期待されているはずである。
実際に、スウェーデンの報道評議会やイギリスの報道苦情委員会では、報道倫理綱領を前提に、その違反の有無を判断して運用されている。
法律の専門家ではない委員を含めた放送と人権等権利に関する委員会が判断することが期待されているのは、報道倫理違反なのである。
しかも、BROの委員構成では、法律の専門家でない委員を含めた委員会において、「権利侵害」があったか否かという法的判断をすることはBROの能力を超えるものでもあるし、また、裁判所と同じように法的判断をした場合には、BROが権利侵害なしと判断した事例について裁判所が権利侵害ありと判断することもその逆もありうることになってしまう。そのようにして、BROの決定が裁判所で覆ることになれば、BROの権威性も失ってしまうと考えられる(実際、第1号のサンディエゴ事件ではテレビ朝日を、第3号のラグビー部員申立事件では、日本テレビ・フジテレビ・テレビ朝日が提訴されている)。
したがって、BROの能力という点からも、BROは「権利侵害」を審理するのではなく、放送倫理(報道倫理)違反を審理するように改革すべきである。
なお、日弁連は、紹介したように、放送倫理(報道倫理)違反と権利侵害の両方を対象とすべきであるとして、「『人権』侵害として広くとらえればよいのではなかろうか」、「申立人が報道によって、個人の尊厳を侵害されたとして怒りを感じるのがもっともな状況にあれば、人権侵害があったと認めてよい」と提言している。
しかし、「人権」をこのように捉えることには若干無理があり、かえって不明確とも思われる。通常は、権利侵害がある場合には放送倫理(報道倫理)違反もあることが多いと考えられるから、放送倫理(報道倫理)違反を中心に考えればよいように思われる。
ただ、放送倫理(報道倫理)違反を中心にするためには、テレビ局の全体で共通の放送倫理綱領が策定されることが不可欠である(現在、各局が番組基準を持っている。また、1996年9月に、NHKと民放連が「放送倫理基本綱領」を制定したが、抽象的すぎて基準にならない)。
3 委員会の構成と事務局体制の改善
これまでのBRO決定を見ると、報道被害者の立場を十分に理解せず、どちらかというと「テレビ局寄り」と言われても仕方がない結果になっていると思われる。
その理由の一つには、委員構成にも問題がある。学識経験者だけで構成するのではなく、報道被害者を含む市民を委員に参加させなければ、報道被害者の気持ちを理解してくれることは期待できない。もっと委員の構成を市民に開かれたものにしなければならない。 また、放送倫理(報道倫理)違反を中心に考えることにするのであれば、マスコミ関係者も入ることが必要である。
例えば、ミネソタのニュース・カウンシルの場合には、24人中、12人が市民から、12人がメディア側から選任されている。スウェーデンの報道評議会の場合には14人中6人がメディア代表で入っているとされている。
また、事務局は、マスコミ各社から派遣された者で構成されていると聞く。事務局は、「申し立てられた苦情が委員会の審理の対象となるものかどうかの審査と報告」という重要な権限を与えられており(運営規則16条1号)、実際の市民からの苦情受け付けの窓口となっている。その窓口での対応において、なかなか受理しようとしないとか、受理に際して不親切な対応があると聞いている。
このような重要な権限を有する事務局についてこそ、第三者性が確保されなければならないと考えられる。
また、現在、委員会は8名で構成されているが、これまでの3件の事例を見ると、審理にほぼ半年を要している。今後、複数の案件が同時に受理される事態になった場合に、果たしてこの委員会だけで迅速かつ適正に対処できるのかどうか疑問である。場合によっては、委員会を複数作るとか、ワーキング・グループを何チームか作り、その結果を委員会に報告して決裁するというシステムにするなどが検討される必要がある。
ちなみに、日弁連は、「BRCは緊急かつ重大な案件について、必要な場合には外部から専門家の参加を求めて調査チームを作り、調査を担当させることができる規定も必要であろう」と提言している(1999年11月の日弁連人権擁護大会のシンポジウム基調報告書184頁)。
4 受理の要件の緩和と調停機能の新設
現在、申立の受理の要件として、「審理の対象となる苦情は、放送された番組に関して、苦情申立人と放送事業者との間の話し合いが相容れない状況になっている」ことが要件とされており(運営規則5条3号)、実際には、放送事業者と話し合いをした上で、それが決裂したことが要件とされている。
しかし、実際には、報道被害者は放送局との交渉をするのも大変であるし、門前払いとなって話し合い自体が持てない場合もある。私の場合、ビデオ視聴を申し入れたら、保存期間等を経過しているとして断られた事例がある。
このような場合には、BROは申立を受理してくれないことになるが、これは、高いハードルと思われる。
また、報道被害者としては、BROに、放送に関する話し合いの場の設定と調整を期待する者もいる。つまり、BROは、現在、申立人の申立を受けて、相手方である放送事業者の意見も聞いて判断を示す裁定機関であるが、これに調停機能を持たせるのである。
これによって、報道被害者は、報道被害を受けたら、BROに駆け込むことによって、BROにおいて放送局との話し合いを行い、それが決裂した場合に審理して決定を出してもらうことができるようになる。
円滑かつ迅速な解決という点では、むしろ、この調停機能は重要であり、BROに、そのような機能を付与することも考慮されて良いように考える。
5 最後に
これまで3件の事案を審理して決定を発表したことにより、BROの問題点はかなり明確になったものと思われる。
BROの成立の動機には不純で政治的なものもあるが、放送界において、自主的な報道救済機関が設けられたことの意義は大きい。これを生かすかどうかは、これまでの活動の実績を冷静かつ客観的に分析し、よりよいシステムに変えていく不断な努力が必要と考えられる。さらなる議論を期待したい。
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